02/02/26


Stradivarius
作:暇人(八坂 響)



プロローグ


言うなればこれは復讐だ。
私の楽器作りに対する、音楽の女神の復讐なのだ。
彼の者は我が才能に嫉妬し、怒り、憤ったに違いない。
そして私に罰を与えた。
あまりにもささやかで、致命的な罰を。
ならば私も復讐しよう。
我が才能を妬み、我が道を阻んだ神へ。
パズルの最後の一枚(ラストピース)を隠してしまった神へ。
だから私は、命を絶とう。
ありったけの善意を道連れに。
これは、復讐なのだ。
アントニオ=ストラディバリ






 吹き上がる赤い噴水。同時に、女性の悲鳴が聞こえた。おそらく静流さんだ。
 飛び散った俺の血は、ほたるの傍らを擦り抜けて黒いピアノにもかかった。黒い巨体が、白い鍵盤が赤に汚される。
 ふと、ほたるが振り返った。虚ろな瞳、疲れ切った表情そのままで。
 しかし――
「―――健ちゃん!」
 久しく聞かなかったその声は、間違いなくほたるのものだった。精彩を欠いた顔に驚愕の色が刻まれる。頬に付いた斑点が、彼女の表情を大げさに演出していた。
 ほたるが正気を取り戻したのだ。しかし――その代償は、あまりにも大きかった。

 ――なんで、こんなややこしい事になったのかな……

 やがて自分の視界一杯に広がった『赫』を見つめながら、ふとそんな事を考えた。
 なぜだろうか、禍々しいはずの『赫』はひどく儚げで、そして綺麗だった。
 例えるならそれは万華鏡。
 小さな鏡の中一杯に咲き広がる曼珠沙華。
 鮮烈な色を秘めた花びらはどこか冷めていた。
 誰かが俺の名前を呼んでいる気がした。
 しかし生憎、それに応えられるだけの気力も体力も残ってはいなかった。
 そして俺は、意識を失った。




前編

 全ての授業が終了して、今は放課後。ここ浜咲学園は、クラブ活動や居残りしている生徒たちの喧騒に包まれている。グラウンドから聞こえてくる、運動部の罵声とも怒声ともつかぬ掛け声。教室でお喋りに興じている生徒たちの笑い声。どこもかしこも声、声、声。
 そんな中でも、音楽室のある芸術棟の並びは、喧騒とはまるで無縁の荘厳さに満ちていた。しんと静まり返った廊下に、静かな旋律が風に乗って流れてくる。
 ――ピアノ。
 今更言うまでもない、ぼくにとってはもう馴染んだ、暖かな旋律。
 柔らかに、包み込むような調べ。時に激しく、時に弱く。奏でられる音の一つ一つまでもが愛しくなるような、旋律。心持ち遠くに感じられる喧騒と相俟って、静かなソロは一層際立って聞こえた。
 旋律の発生源である音楽室はドアが半開きになっていた。そこから中を覗くと、一人の女生徒がピアノの前に椅子を置き、腰掛けている。一心にピアノを弾く少女。可愛いと形容するのがぴったり来るような面立ちに、ほんの少しの緊張と沢山の喜びが表れている。いつもよりもどこか大人びた印象を受けた。
「……ほたる」
 少し控えめに声をかけてみる。反応がない。
 ――ま、予想はしてたけど……
 音を立てないように忍び足でピアノの側に移動し、適当な椅子を引っ張り出して腰を降ろす。一心不乱にピアノを弾き続ける彼女の表情は明るかった。実に楽しげにメロディを奏でる彼女の姿は、さながら天使のようでもあった。
 ――天使、か……
 自分の考えながら、どこか可笑しかった。なるほど、確かに彼女は天使だ。僕の唯一の願いを叶えてくれた、ぼくだけの天使。一度はウィーンの国立音楽大学へ留学したほたるだが、彼女はぼくの願いを叶えるために戻ってきてくれた。
 ――いつまでも、一緒に――ただそれだけのために。
 繊細な指先が奏でる曲は、リストの『愛の夢』。普通ならうんざりするほど毎日のように聞いているのに、まるで聞き飽きないのが不思議だった。曲の素材の良さもさる事ながら、ほたるのピアニストとしての腕もそれに一役買っているのだろう。そしてその技術は、ここ最近みるみるうちに向上している。
 ――いや、真実は違う。技術の向上なんて関係ない。ほたるだから、ぼくはピアノに耳を傾けるんだ。
 やがて全ての楽章を引き終えたほたるが、顔を上げてこちらを見る。
「健ちゃん。今のどうだった?」
 一応ぼくがやって来ていた事には気づいていたようだ。ピアノを弾いていたときのやや大人びた雰囲気はもはや微塵もなく、いつものほたるに戻っていた。
「また上手くなったね。その日その日でほたるの気持ちとか、そういうのがいっぱい出てる」
「……誉められてるのかなぁ?」
 困ったような表情を浮かべ、途惑うほたる。
「誉めてるんだよ。ピアノには嘘つけない辺り、ほたるらしくていいな、って。曲聞いたら、今日どんな事があったか全部わかるんだもんな」
「……そうかなぁ?」
 困ったやら嬉しいやら、よくわからないあやふやな表情を浮かべ、ほたるは首をひねった。しかし少しして納得したらしい。笑顔をこちらに向けて、
「わかった!健ちゃんがほたるに嘘つけないのと同じだよね?」
 満面の笑みで訊いて来る。今度はぼくの方が思わず言葉に詰まってしまった。
「……そ、そーかな?」
「そうだよ〜。健ちゃんの嘘なんてすぐにわかっちゃう。良い嘘も悪い嘘も全部。似た者同士だね」
 思い当たる節がありすぎて反論できなかった。ほたるはといえば、自分で言った『似た者同士』の部分を喜んでいるらしく、相変わらずにこにこしている。そんな些細な事にも素直に喜べる辺りがいかにもほたるらしい。
 見ているこっちまで嬉しい気持ちにさせてしまう――彼女の笑顔には、きっとそんな魔法があるに違いない。
「じゃあ、そろそろ帰ろう。ほたる」
「うんっ!」
 満面の笑みを湛えて頷いたほたると連れ立って、僕は音楽室を後にし、帰宅の途に就いた。

「そういえばね、健ちゃん」
 それは今まで交わしてきた他愛もない会話の一つなのだろう。友達と交わした面白い話しやら、担任教師の噂話やら、そんな日常会話に埋没した事象。
 太陽は西へと傾き、鮮烈なオレンジ色の光を投げかけてくる。世界全体が燃えているかのように錯覚してしまう。そんな街並みをぼくら二人は並んで歩いていた。どうせ一駅だからと、電車には乗らずに歩いて帰る事にしたほたるを、ぼくは隣り街の家まで送っている。ここはもう藍ヶ丘の住宅街だ。
 このところ太陽が沈むのを早く感じるようになった。もうそんな季節かと、今更ながらに思い出す。
「昨日ピアノが届いたの。それもグランドピアノ!」
「ピアノ?それはまた随分と大きな届け物だね」
 意識をほたるの話に戻すと、苦笑して相づちを打つ。ほたるは今でこそ嬉しそうに語るが、届けられた時にはさぞかし困ったに違いない。
「で、そんな困った荷物を届けてきたのは誰?」
「ウィーンの国立音楽大学になってたよ。向こうの教授と仲良かったんだ。『日本に帰って、健ちゃんの近くにいてあげなさい』って言ってくれたのもその教授。一緒に手紙も届いたんだよ」
 英語だから読むのに苦労したんだけどね――ちろりと舌を出して付け加えるほたる。だから嬉しそうだったんだ。
「……でも、オーストリアって英語圏だっけ?なんかスペインごとかっぽいんだけど」
「オーストリアの公用語はドイツ語。ほたるにわかるわけないから、コミュニケーションは英語でしてたの。いっぱい色んな国の人がいたから、なおさらね」
「そうか……それもそうだよな」
 思わず納得してしまった。会話が切れそうだったので、ズレた話の軌道を慌てて元に戻す。
「それで、どうするつもりなの?そのピアノ」
 ぼくのその一言で何かを思い出したのか、ほたるはパッと表情を輝かせた。
「そうそう!それがね、すごく良いピアノなの!シュタイナーのピアノとはちょっと違うんだけど、なんていうか……弾いてて思わず聞き惚れちゃった」
 ピアノをここまで誉めるほたるも珍しい。まして、自分で奏でておいてそれに聞き惚れたというのだから、よほどのものなんだろう。
「やっぱり音が魔法に変わるの?」
「うん。でも、シュタイナーの魔法とはちょっと違うかな。また弾きたい、また聴きたい、って思っちゃう感じ」
「あはは……なんか麻薬みたいだぃ!?」
 突如つま先を襲った激痛に語尾が歪む。後悔してももう遅い。ほたるが踵でぼくのつま先を思いきり踏み付けたのだと気付くのに数秒を要した。冷静に考えれば、自分のピアノを麻薬に例えられて喜ぶ女の子などいるはずがないのだ。
「健ちゃんのバカ。もう知らない!」
 靴の上からつま先を押さえてうずくまるぼくに非難の言葉を浴びせ、あさっての方向にプイと視線を逸らす。頬を膨らましてむくれている辺りがいかにもらしかった。ついさっきまで満面の笑みを浮かべていたかと思うと、今は怒っていて――
「ごめん、ほたる」
「もう絶対許してあげないもん」
「……そっか……許してもらえないのか……」
 不意に視線を落とし、寂しげな口調で言う。ほたるは少し気になったようで、ちらちらとこちらに視線を投げかけているようだ。
「…………もう、帰らなくちゃな……」
「け、健ちゃん!?」
 ほたるをほったらかしにして踵を返し、重い足取りで歩を進める。
「ほたるに嫌われて……ぼくにはもう、生きてる価値なんか……」
 小さく呟いたぼくの一言に、ほたるは慌てふためいた。背中越しでもその動揺がはっきりと伝わってくる。
「や、やだなぁ……どうせまた嘘なんでしょ?」
「………………」
 沈黙で返答する。もちろん歩は緩めない。
「ね、ねぇ……健ちゃん?」
 無言。いや、肩を小刻みに振るわせる。もうダメだった。これ以上堪える事は――できない。絶望的だ。
「――健ちゃん!」
 正面に回りこんで、必死の思いでぼくに抱きついたほたるは、真っ先にそう言った。ぼくの身体が小刻みに震えている事に気付いたのだろう、きつく抱きしめてくる。
「ほたる、健ちゃんに酷い事言ったよね。ごめんなさい!……だから、だから……」
「………………」
「健ちゃん……お願い、ほたるの事嫌いになったりしないで……!」
「…………っく……」
 ぼくの胸に顔をうずめて懇願するほたる。しかしぼくはとうとう堪える事が出来なくなった。
「………………ぷっ」
「…………?」
 思わず噴き出した僕を訝しんだのか、目尻に涙を浮かべた瞳で僕を見上げるほたる。不安と怯えとが顔に浮かんでいる。
「――あははははははははっ!!」
 大声をあげて笑い出したぼくに、ほたるはますます混乱した。
「どっ、どうしたの健ちゃん!?お腹でも痛いの?」
 混乱したように僕に訊いて来るほたる。まるで的を得ていないその発言が可笑しく、一層笑い声が大きくなる。
 それを押さえるのに一分はかかった。いや、今でもまだふとした拍子に笑いがこみ上げてくる。
「ほ、ほたる……」
「なに?健ちゃん大丈夫?」
 息も絶え絶え、絞り出すように言葉を紡ぐぼくを心配してか、心なし彼女の表情は硬かった。
「あのね、さっきのあれ……演技」
「…………え?」
 トトに見られたら指さされて笑われるであろう、三文芝居もいいところの演技。ほたるはそれにすっかり騙され、信じきっていたようだ。思わず素っ頓狂な声を上げる。
 それからたっぷり十秒経過して、ほたるは顔を真っ赤にした。
「もう、健ちゃんのバカ!ホントに知らないんだから!」
 ぷりぷりしながら家路を急ぐほたる。無論ぼくをほったらかしにして。
「ごめん、ほたる。待ってってば!」
 こうしてぼくたちの一日は、過ぎていくのだ。

 あれから結局仲直りしたぼくとほたるは、やっと白河家の前に着いた。空はもう藍色に染まりつつある。痩せ細った月が、生まれたばかりのその身を淡く昏い星の海に投げ出していた。
「じゃあね、ほたる」
 別れを告げ、手を振る。しかしここで、いつもの『バイバイ、健ちゃん』というほたるの言葉は聞こえてこなかった。かわりに腕を掴まれ、制止される。
「待って!」
 その言葉にほたるの方を振り向く。彼女は少しうつむいて、気恥ずかしげに切り出した。
「どうせだからさ、聴いていかない?ピアノ」
 断る理由もなければ、必要もない。ぼくはすぐに首肯した。門を押し開けるほたるの後ろについて、白河家へと上がって行く。
「ただいま〜」
「お邪魔します」
 玄関に入って靴を脱ぎ、居間へと通される。ここには何度か来た事があるのだが、少々気がかりな事が一つあった。
 ほたるのお父さん――
 ほたるがウィーンに留学すると知った後、ぼくは夜中の動物園に彼女を連れ出した事があるのだ。『動物さんが夢を見るのかどうか確かめに行こう』と約束させられていたからなのだが、いくらぼくが『もう後がない』と焦っていたとはいえ、それはほたるのお父さんにとって誘拐も同然だったはずだ。ほたるの帰国後、一度会った事はあるのだが――始終不機嫌そうな顔をしていて、あまりぼくの事を好ましく思っていない様子だった。
 無意識の内に『ほたるのお父さんがいませんように』と心の中で祈ってしまう。と、そこに――
「あら、健くん」
「―――!?」
 いきなり後ろから声をかけられ、飛びあがりそうになった。驚いた勢いもそのままに振り向くと、そこにはびっくりした表情を浮かべた長髪の美女が立っていた。よく見知った顔で、どことなくほたると顔の造りが似ている。美女、と言うには少々幼い顔立ちだが、彼女から発散される雰囲気には、母親に通ずる安らぎがあった。
 白河静流さん。ほたるのお姉さんだ。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃった?」
「あ、いえ。大丈夫です」
 申し訳なさそうに謝る静流さんに、苦笑で返すぼく。そのぼくの後ろから顔を覗かせたほたるが、意外そうに静流さんを見つめている。
「ただいま。……お姉ちゃん、今日早かったんだね?」
「えぇ。午後は講義ほとんどなかったから、寄り道せずにさっさと帰ってきちゃったの」
「ふ〜ん、そっか……」
 静流さんの言葉に、どこか上の空で返事を返すほたる。彼女のそんな様子に、静流さんの表情が一瞬曇ったかのように見えた――いや、もういつも通りだ。
 ……ぼくの見間違えかな?
「ほら、それよりも健ちゃん、早く――」
「――あぁ、ちょっと待って健くん」
 ぼくをリビングの方に引っ張って行こうとするほたる共々、僕の腕をつかんで引き止める静流さん。
「ねぇ、健くんにお願いがあるんだけど……」
 上目遣いにじっとぼくを見つめてくる。期待と不安とが入り混じって、不思議な魅力を醸し出している瞳。
 ――ダメだ、こんな瞳で見られちゃ断れないって……
「ぼ、ぼくにできる事なら構いませんが……」
 気が付けばそう答えていた。ぱっと表情を輝かせる静流さん。
「ホント?本当にいいの?」
「え、えぇ……」
 確認する静流さんの言葉に、ふといやな予感が脳裏を過る。
「じゃ、力を抜いて」
 そう言いながら静流さんが近寄ってきた。ひょっとしてこのパターンは――
 よくよく見てみれば、先ほどの魅力的な瞳はもうそこにはなく――あるのは、闘志を秘めたチャレンジャーのそれだった。
 静流さんがぼくに抱きついてくる。ただし、そのほっそりとした腕がぼくの腰に回される事はなく――かわりに、逆さ抱えのように脇腹を締め上げる。
「し、静流さん!?一体何を――!?」
「DDTよ!ちゃんと受身とってね!」
「受身って……は!?DDT!?」
 おおよそ彼女とは無縁と思われるプロレスの投げ技の名前を聞いて、頭から血の気が引いた。今更ながらに、静流さんがプロレスファンだという事を思い出す。この間はグランドサブミッションで、今度は投げ技か……って、感心している場合じゃない!
 ちなみにDDTとは投げ技の一種で、脇を抱え込んで相手を持ち上げた後、倒れこむようにして相手を下敷きにしつつ頭から落とすという、危険極まりない技だ。しかしここは柔らかいプロレスのリングではなく、ごく一般家庭のフローリングで、おそらくその下はコンクリだろう。とてもじゃないが、まともにDDTを喰らって無事でいられる場所ではない。
 静流さんは低く構えていた腰を入れ、ぼくの身体を逆さに抱え上げる。平均より少し軽いとは言え、高校生の男子を持ち上げてしまう静流さんに感心――できるはずがない!
「ちょ、ちょっと静流さん!?」
「お姉ちゃん、危ないからやめて!」
 ほたるが制止の声を飛ばすが、実力行使に来る様子はない。プロレスが絡むと静流さんの性格が変わる事を、彼女は重々承知しているようだった。
「行くわよぉ!歯ァ食いしばって!」
 ここまで来ると、むしろ下手な抵抗をする方が危ないと判断して、インパクトの瞬間に備える。が、しかし、それはぼくの予想を裏切って遥かに早く来た。
「いでッ!?」
 床に叩き付けられ、変な悲鳴を上げた。幸い頭から落ちたという事はないが、それでもまっとうな落ち方ではない。
「あ、失敗しちゃった……」
 力の入れ過ぎが原因か、しびれた両腕を揉み解す静流さん。ちろりと赤い舌を出すが、今のぼくに言わせれば可愛くも何ともない、悪魔的な仕草に思えた。
「じゃあ次は、もっとやりやすそうなローリングクレイドルでも行ってみよ〜!」
「…………お願いほたる、助けて……」
 そううめくのがぼくの限界だった。

 結局、変形――というより未完成ローリングクレイドルを喰らわされた挙句の果てにフラッシングエルボーの追撃まできっちり決められて、やっとぼくは釈放された。家にご両親がいなかった事を心から感謝する。
 ――いや、ご両親がいたら静流さんを止めてくれたかもしれない……
 ………………
 とにかく、疲労困憊となったぼくはほたるに引きずられるようにしてリビングの椅子に座らせられた。一方のほたるは、高そうな黒いピアノの椅子を引き出し、蓋を開ける。鍵盤の上に敷かれていたカヴァを取り去り、綺麗に畳んで傍らに置いた。
 それはこれでもかというほどにひたすら真っ黒な、重い雰囲気を内包したグランドピアノだった。いや、ただ黒いだけではない。鍵盤やその蓋、あるいは本体など、偏った局所に少し赤いシミが浮いている。それがまた一層重苦しい雰囲気を増すのに一役買っていた。
 鍵盤にそっと両手を添えて、瞳を閉じるほたる。たっぷり五秒はそのまま意識を統一する事に努め――
 何か合図をするでもなく、おもむろに旋律が流れ始める。
 ――刹那、時が止まった。
 それは聞き慣れた音ではなく、全く新しくも懐かしい、鮮烈な印象をぼくの中に残して行く。それは例えば、暖かに照りつける木漏れ日のように、さわやかに駆け抜けていく風のように。ぼくの胸を吹き抜けるように流れこんできたかと思えば、次の瞬間には幻のように消え去っていた。
 ――そう、幻。柔らかな日差しも、駆け抜けた風も、その全てが遠い日の幻。そう思わせるメロディに、ぼくはこみ上げてくる切なさと悲しさ、そして寂しさを押さえきれなかった。さながらそれは完成された魔法のように、間違いなくぼくを魅了していたのだ。
 いや、おそらくその旋律に魅入られているのはぼくだけではないだろう。演奏者であるほたる自身、まるで憑かれたように無我夢中でピアノを弾いている。
 緩やかに。そしてたおやかに。ほたるの繊細な指先が鍵盤の上で舞っている。白い残滓すら残して、黒いピアノにその色は鮮やか過ぎるほど映えて見えて。彼女の指が撫でるように鍵盤を駆けあがって行く。かと思うと、音の頂上へ辿り着く事もなく戻り、再び主題へと返って音を紡ぐ。――しかしこの堪えがたいほどに切なくなる旋律は一体何なのか。ぼくはその一挙手一投足の全てまでに魅入られていた。
 絶え間なきメロディは果たして、失われたものを慈しむものなのか。愛しむものなのか。――どちらでもない。ただ、悲しかった。それは何か大切なモノを取り残して行く寂しさであり、悲しさであり。それ故の恐怖がある。
 完成された旋律に、ぼくは思わず総毛立った。ダイレクトにぼくの心を打つその物悲しい旋律――ヴェートーベンの『悲愴』第二楽章。
 しかしその曲はどこか決定的に間違っていた。どこがどう、と言われると答える術がない。しかし――そう、らしくないのだ。
「………………」
 曲の雰囲気に呑まれ、時を忘れ――気が付けば演奏は終わっていた。
 自らが奏でた曲の余韻に浸っているのか、ほたるは軽く瞳を伏せている。静かに鍵盤から指を離して振り返ると、微かな期待のこもった眼差しを向けてくた。
「ねぇ、健ちゃん。どう―――」
「―――え?」
 とっさに反応できず、答えに詰まったぼくを見て、思わずほたるが息を呑んだ。やや驚いたように目を見開いている。
 一瞬そのリアクションが何を示しているのか――彼女が何を見て息を呑んだのか、ぼくには理解できなかった。その一瞬後、全てを悟る。
「……え、あ?あれ……どうしたんだろ」
 頬に触れると、そこは濡れていた。ついさっきまでぼくの頬を伝っていた滴に気付かず、それを見たほたるが驚いたのだろう。
「へ、変だな……ごめんね?ほたる」
 人差し指で頬のそれを弾き、続いて親指で目尻の涙を払拭する。しかし腫れた目だけはどうする事も出来ず、袖でごしごしと乱暴に拭って誤魔化した。笑顔を浮かべようと試みたが、徒労に終わる。作り物になってしまうのはわかっていた。
 やや驚いたように放心していたほたるは、そんなぼくの様子で我に帰ったのか、不意に微笑むと――
「いいよ。……最高の誉め言葉をありがとう、健ちゃん」
 いつもの晴れやかな笑顔を顔に浮かべた。

 それからぼくは「遅くなるといけないから」といって白河家を辞し、朝凪荘への帰途に就いた。
 ――ぼくの心が、堪えきれなくなる前に。まるで逃げ出すようにして、ぼくはほたるの元から離れて行った。

 朝凪荘の205号室。自室のドアを開けて中に入ると、鞄を部屋の隅に放り捨てて着替えを出す。一人暮しなので「ただいま」を言う相手もいなければ「おかえり」の言葉をかけてくれる相手もいない。
「……あら、おかえり」
「――――!?」
 暗闇の向こうからした声に、一瞬飛びあがりそうになるほど驚いた。
「な、なな……!?」
 我知らずのうちに動悸が早まっている。そのせいかどうかは知らないが、舌が上手く回ってくれない。というか、誰もいないはずの家に誰かいたら、普通はビビる。
「健君、ただいまは?」
 月を背負い、窓辺に佇むシルエット――黒い人影。女性の抑えられたソプラノが暗がりから響いてくる。
 やっとの思いで落ち着きを取り戻したぼくは、そっと部屋の電気を点けた。相手の姿が電灯に照らし出されてあらわになる。能面のように無表情なその人は、何故かレモンを手に佇んでいた。
「……南先生」
「健君、ただいまは?」
 疲れたため息と共に女性の名を呼ぶぼくを完璧に無視して、女性は怖いくらいの無表情で繰り返した。
「健君、ただいまは?」
「……ただいま、です」
 とりあえずそう言わない事には、話すら聞いてもらえない雰囲気があったので、素直にいう事を聞く。
「おかえり」
 そう言って、やっと女性は微笑んだ。
 彼女の名前は南つばめ。夏休みに夏季講習だけという条件で現国の講師を引き受けていたのだが、「現国の授業など受けるだけ無駄だ」と言い切る彼女の授業は、なぜか生徒に受けがよかった。教師が教師なら生徒も生徒というか、はたまたその逆か。南先生の人気を知った学校側は、常勤講師として引き続き授業を続けてくれと依頼したらしいのだ。
 ――結局のところどっちもどっちだと思う。南先生にせよ生徒にせよ学校経営陣にせよ、物好きな事に変わりはないだろう。
「…………で?」
 短く、そう問いかける。
 ………………
 沈黙が、ぼくに応えた。
「何か言う事はないんですか南先生!?」
「何か、って?」
 小首を傾げて問いで返す南先生。
 はぁっ、と大きなため息をついて、ぼくは頭を押さえた。いちいちあんな問いかけ方をした僕がバカだったんだ。
「……なんで先生がぼくの部屋にいるんですか?」
「この部屋は、クスノキの香りがよくするから……」
 言うが早いかレモンを鼻に寄せて、柑橘系の匂いを鼻孔いっぱいに吸い込む。
 出た。南先生お得意の『答えになっているのかよくわからない』攻撃。確かに他の部屋に比べて、この部屋は庭のクスノキに近く位置しているが……『クスノキの香りがするから』と答えて、なぜレモン?
 こんな答えで納得できるはずがない。これははっきりいって防犯や倫理の問題も絡んでくる。例えお隣さんであっても、ぼくは生徒で南先生は教師なのだから。
「じゃあ、どうやって入ってきたんですか?」
 質問を変えるぼくに、南先生は少し考える素振りを見せて……
「風に……」
「……はい?」
「風に、乗ってきたの」
「………………」
 今度こそぼくは完璧に沈黙した。ダメだ、この人にはとても付いていけない。そもそも白河家に招待されて心身ともに消耗しているぼくに、このあまりにも難解な会話はとてもじゃないが堪えられなかった。このまま続ければ――静流さんではないが――K.O必至だろう。
「すみません、今日は疲れているので、休ませてもらえませんか?」
「…………そう」
 ぼくが頼むと、彼女は肯定とも否定とも取れるはっきりしない答えを口にした。そのままレモン片手に去って行ったのだから、おそらく肯定だったのだろう。
 ――しかし結局、南先生は何がしたかったんだ……?
 それはそれで気になるところだったが、あえて考えないようにする。これ以上疲れるような事はしたくない。
 押入れの中から布団一式を引っ張り出すと、適当に畳みへ広げて倒れこむ。
「…………電気消し忘れた」
 すぐに寝るつもりで点けなかったのだが、予想外のアクシデントで点けたため、部屋の中が白い光りで満たされていた。光を断つべく、重い身体を引きずって立ちあがり、スイッチを指先で押して消す。そして再び布団のうえへとダイブした。
 そこで今度は制服から着替えていない事を思い出すが、もう着替える気力すら残っていない。南先生との会話は、ぼくの精神力へ確実にとどめを刺していた。
 ――ふと、ほたるのピアノを思い出す。真っ黒に艶光りするピアノ。その旋律は切なく、そしてどうしようもなく悲しく……
 そしてその回想は、あの疑問をも思い出させた。
「……なんで悲しいんだろ……」
 ほたるはかつて、ぼくに語った事がある。自分の一番好きな曲はヴェートーベンの『悲愴』第二楽章だと。その曲の、『悲愴』らしくないところが好きだと。
 少々難解な話ではあったが、彼女のピアノを聞いているうちになんとなくその感覚がわかった。悲しんでいるのではない、悲しみを愛しんでいるのだ。それ故の切ない旋律なのだ。
 しかし今日の『悲愴』はどうだ?聴く者全てに堪えられなくなるような悲しみを与えるあの旋律。完成されたそのピアノソナタは、まるでCDでも聴いているかのようだった。
 そこに、どうにも払拭し切れなかった違和感の正体があるように感じる。自分ではどうにも納得のいくものではない――あの涙。自らの涙に納得がいかないとはまた妙な話だが、ぼくはとてもそれを肯定する気にはなれなかった。
 ――違和感?いや、違う。違和感なんかじゃない、ぼくが感じたのは――
 しかし、半ば思考の麻痺した脳は、ただひたすらに休息を求めていた。ぼくはその欲求に逆らう事もせず、最後に自分の抱いていた感情の正体を考えながら、そっと夢の世界へ身を委ねて行った。

 ――翌朝。トモヤの散歩から帰ってきたぼくを迎えたのは、もう一人の朝凪荘の住人――眠そうな顔で集合玄関の前をうろついていた信くんだった。
「おはようございます、信くん」
「おぉ、イナケン。早いな?」
 ぼくの顔を見つけると、信くんはあくびをかみ殺して声をかけて来た。彼は『伊波 健』というぼくのフルネームを省略して『イナケン』と呼んでいる。
 一方のぼくは、同い年の彼に対して敬語を使っていた。まるで同じ歳とは思えないほど、信くんが大人びて見えるのだ。飄々としていてどこかつかみ所のない彼は、現在インドへ行くための資金をバイトで貯めているらしい。もっとも、彼自身が言っていた事だから、どこから嘘でどこまでが本気なのかわからない。それが信くんの良いところであり、また時折悪いところにもなる。
「だって、トモヤの朝の散歩はぼくの役目でしょ?どうせ信くんは朝弱いし……」
 そう言ってぼくは、傍らにちょこんとお座りしている犬の首輪からリードを外す。解放された小柄な犬は、飛び跳ねるようにして信くんの元へと駆け寄って行った。
「おぉ〜トモヤ、お前は朝から元気だな〜?やっぱアレか、バカは朝に強いのか?その割りにゃ智也のドアホウは朝弱かったけどな」
 屈んでトモヤを抱きとめると、茶色がかったその毛並みを撫で回す信くん。自分で拾ってきた犬をバカ犬と公言して憚らない彼のその仕草には、トモヤに対する愛情が見て取れた。
「じゃあ、ぼくは学校があるからもう行きます」
 トモヤの犬小屋に立てかけてあった鞄を取り上げて、信くんに『行ってきます』と挨拶する。南先生はもう学校へ行っているだろう。信くんはここから何駅か向こうの澄空学園へ通っていたのだが、わけあって高校を中退したとの話だ。
「おう。いってらっしゃい」
「いってきます」
 片手を上げてぼくを送り出す信くんに、ぼくも同じサインで返した。
 ――こうして今日が始まった。

 ――しかしどうして授業とはこうも退屈なんだろうか。
 思わずそんな事をぼんやりと考えていると、英文の訳を聞き逃してしまった。慌てて先生の解説に耳を傾け、その言葉の端々から訳の内容を推し量り、ノートに記す。もちろんその半分近くがぼくの想像だから、後でほたるか翔太あたりに教えてもらった方が良いだろう。
「――伊波くん。次の文章を訳してもらえますか?」
 か細いと形容するにふさわしい声がぼくの事を呼んでいると理解するのに、ほんの数秒を要した。
「……はい?」
 思わず聞き返してから、先生の方を向く。今年入ってきたばかりの新任の先生は、どこか無表情なまま、冷めた雰囲気の声で小さく告げた。
「……教科書75ページの18行目から最後まで、訳して」
 教科書の方を見て思わず愕然とした。ぼくが開けていたのは74ページだ。確か授業の頭で74ページの真ん中ら辺をやっていたというのに――いつの間にこれだけ進んだのか。
「え〜っと、In England we like to follow the old proverb――」
 たどたどしい英語で文章を読み上げて行く。これくらいの文章ならいけそうだ。
 ――これでも一応受験生なのだが、どうもしっくりとこないものがあった。別に大学へ行く気がないわけではない。ただ明確な目標というものが欠けていた。ほたるのように何か得意なものがあるわけでもなく――強いて言えばそれはサッカーだが、推薦を受けられるほどの好成績を残したわけでもなく、夏休み前にもう引退している。
 でも現実として、目標があれば授業が楽しくなるとはあまり思えなかった。結局ここは理詰めで知識や技能を修得し、テストで良い成績をとる事が第一とされる場であるという事だろうか。どの道、今のぼくにはあまり有意義には思えない時間だった。
 そんなこんなをしているうちに、終わりを告げるチャイムが鳴った。ちょうど区切りがついてラッキーとばかりに、教団に立っていた英語教師は授業を切り上げると、そそくさと教室から出て行った。
「んっ……!」
 席に座ったまま、両手を頭上で組んで伸びをする。と、いきなり後ろから脇腹を突付かれて椅子から転げ落ちそうになった。
「わっ!?」
「――お、いい反応じゃないか、健」
 ぼくの背後から聞こえてきた声には聞き覚えがある。ある、というより聞き慣れた声だ。
 ――中森翔太。元サッカー部の主将で、ぼくの親友だ。
「いきなり何するんだよ」
「いや、暇そーに伸びなんぞしてる平和ボケがいたからな。一発、世の中の厳しさというものを思い知らせてやろうと……」
 南先生に負けず劣らず、翔太の虚言癖もなかなかのものだと思う。ぼくは大仰な仕草でため息をついた。
「お?なんだその反応は?ンな冷めてるヤツは……こうだ!」
 いきなり翔太がヘッドロックをかけて来ると、すかさず空いている方の指がぼくの脇をくすぐる。
「わ、ちょ……やめ…ッ!」
 片手で首に食い込む腕を押さえてロックが極まらないようにし、もう片方で脇腹を襲う手を防ごうと応戦するが――防ぎきれない。
 結局そんな戯れを一分ほど続けて、やっと落ち着いた。
「……で、最近ほたるちゃんとはどうなんだ?」
「え?どう、って言うと?」
 おもむろに切り出してきた翔太の言葉に、思わずぼくは焦ってしまった。言えるはずもないのだ。昨日あったあの出来事など。その時ぼくが何を考えて、何を感じていたかなど。
「ホラ。ここ二、三日ほたるちゃん機嫌よさげだったじゃないか。何かあったのか?」
 そう訊いて来る翔太の言葉に、ぼくは『思い当たる節はないでもない』と答えた。
「多分、ピアノがきたからだと思うよ」
「ピアノぉ?」
「そう。黒くて立派なグランドピアノ。ウィーン国立音楽大学の教授が、わざわざ下さったそうだ」
「へぇ……すごいな」
 目を丸くして驚く翔太。それもそうだ。ウィーン国立音楽大学の教授からピアノを贈られるなんて、一生物の名誉に違いない。もっともほたるは、名誉や名声で喜んでいるわけではないだろう。単純にプレゼントをもらえた事が嬉しいのだ。
「じゃあやっぱさ、ものすごくいいピアノなんじゃないのか?時価で一千万は下らないとかさ。なんつったっけ、この学校にもそんなピアノがあったよな?」
「シュタイナーだろ?」
「そう、それ!それとどっちの方が良いんだろうな……健、お前はもうそのピアノでの演奏、聴かせてもらったのか?」
 一瞬、その問いに答えるのに躊躇する。
「う、うん」
「……で、どうだった?」
 肯定した事を今更ながらに後悔する。首を縦に振れば、こういう展開になるのは予想できたはずだ。
 ぼく自身、昨日のほたるの演奏について明確な感想を持っているわけではない。ただ一つだけ確実に言えるとすれば――
 ――怖かった。
 ぼくはあの時、確実に恐怖していた。それだけは間違いない。どうしようもない違和感と悲しみの感情に押し潰されそうになりながら、その実彼女の演奏を怖れていたのだ。
「…………すごかったよ」
 続けて口からこぼれそうになった『とてもほたるとは思えないくらいに』という言葉を無理やり噛み砕く。ほたるには悪いが、それでもたかがピアノだ。ピアノが替わっただけで、あそこまで曲の雰囲気やイメージ、それこそ何から何まで全部変わるものだろうか?天才と呼ばれるような名のある音楽家ならあるいは有り得るのかもしれないが、それにしてもアレは異常だ。
 ――そう、つまるところ異常だったのだ。
「なんか、もう一度聴きたくなるような音楽だった。ほたるは魔法って言ってたけど」
 嘘だ。ただの恐怖ではない、『何か大切なものを失ってしまう』恐怖を感じさせるような演奏など、もう二度と聞きたくはなかった。
「魔法、ね。彼女らしいな」
 翔太は苦笑しながらあさっての方を向き、
「あ〜あ、俺も聴きたかったな〜」
 と、一人ぼやいて教室から出ていったのだった。

 今日最後の授業は南先生の現国だった。チャイムと同時に教室へやってきた彼女は、教壇に立つなりいつもの決まり文句を告げた。
「現国の授業なんてものは、受けるだけ無駄です。特に私の授業は、世界中でもっとも無益で不毛なものの一つです。そもそも、現国に限らず――」
 ――しかし、そんな南先生の声すらも僕の耳には届かなかった。ぼくの頭の中にあったのはほたるの事。そして彼女のピアノの事。授業が割り込む隙間は皆無だった。
 なんで、どうして……悩んでいても出るはずがない答えを求めたせいで、ぼくの頭の中は混沌としていた。
「……その能力を殺す事になりかねません。だから、今すぐ教室を出て、勉強をはじめてください」
 だからか、そんな先生の言葉に、ぼくは反射的に反応していた。
「あの、すみません。ちょっと気分が悪いので、保健室へ行ってもいいですか?」
 気が付けばぼくは起立してそう告げていた。とても気分が悪いとは思えないほどしっかりした調子で。
 言った後で後悔する。クラス中の視線がぼくに集まっていた。無論その中には翔太やほたるもいる。翔太を含むクラスメイトは訝しげな視線を送っているのに対し、ほたるだけは心配そうな顔をしていた。
「……どうぞ」
 少しの間があって、先生の肯定の声が飛んだ。
「失礼します」
 一言だけ断って、ぼくはクラスメイトの視線から逃げるようにして教室から出た。
 ――ふぅっ。
 思わずため息を付いてしまう。
 とにかく一人になりたかったのだ。だから行く当てなどあるはずもない。とりあえずぼくは、教室を出た理由が理由なだけに、保健室へと向かった。

 ――コンコン。
「失礼します」
 扉を軽く二回叩いて、一応断りを入れてから中へ入る。が、やはりぼくの予想通り部屋の中は無人だった。きっとまじめな生徒が多くていい加減な先生が多いのだろう。
 サッカー部にいたからよくお世話になる保健室だが、この部屋に先生がいたのを見たのはせいぜい数えられるほどしかない。それも一度は、どこぞの大学の教授とおしゃべりをしていたというのだから、いい加減にも程がある。
 勝手知ったるというかなんというか、ぼくはカーテンの向こう側へ回りこんで、一番奥のベッドへ向かった。ほたるの事だ、あの表情からするとぼくの嘘を信じきっているに違いない。後で確実に見舞いに来るだろう。そう考えると少し後ろめたい気持ちにもなったが、とにかく一人で考える時間が欲しかったのだから、仕方ないと割り切った。
 ため息一つついてカーテンを開ける。
 ――あれ?カーテン……なんで閉まってたんだ?
 嫌な予感と共に、もう開けてしまったカーテンの向こう側を見る――いや、眺めるって言うのが正解か。
「―――誰?」
 もぞもぞとベッドから置きあがったその人物は、誰が聞いても不機嫌そうな声でうめいた。制服姿に寝ぼけ眼で目をこする彼女は――
「た、鷹乃……?」
「伊波君?どうしたの?」
 クラスメイトの少女は、相手をぼくだと認めたからなのか、その声に少しだけ柔らかさを加えて言ってきた。
 男嫌いとして学園内でもかなり有名な彼女とは、ちょっとした――彼女にとってはとても重大な――事件がきっかけで知り合った。彼女の方がどう思っているかは知らないが、今では翔太と同じような、ぼくにとっては親友と呼べる存在。それはぼくが彼女を名前で呼んでいることからもわかるだろうが――どういうわけか、彼女は『ぼくを名前の方で呼んでくれても構わない』というぼくの申し出を、『これはケジメよ』と突っぱねたのだった。同じ女性でもほたるとはまるで毛色の異なる相手だ。
「ちょっとね、気分が悪くて」
「気分が?……確かに気分悪そうね」
 そう言って彼女はやや表情を厳しくし、
「でも、あなたが来るべきところはここじゃないわ。相談事なら他へ行ってもらえるとありがたいんだけど?」
「…………はい?」
「私が『気分悪そう』って言ったのは体調の話じゃないわ。もっと精神的な事よ。何か悩んでるでしょう?」
「…………あぁ……」
 ぼくはどっちつかずの曖昧な返事だけ返して苦笑した。鷹乃はそれを肯定と取ったらしい。やや面倒くさげな表情を浮かべていた。
「どうせ白河さんとなんかあったんでしょう?あなたの悩みなんて、それ以外に思いつかないわ」
「きっついお言葉で……」
 きっぱり断言されて、ぼくは少し怯んだ。
 ………………
「……で?」
 少しの間があって、鷹乃が小さく問いかけた。
「何なのよ、悩みって?」
「……なんだかんだで聞いてくれるんだ?優しいね、鷹乃は」
 ちょっとからかってみる。鷹乃は鷹乃でそれを真に受けて――もちろん言葉そのものは本心からだが――ふてくされたような調子でそっぽを向いた。
「暇なのよ。暇つぶしくらいにはちょうどいいって思っただけよ」
 彼女は確実に照れている。
「保健室来て寝てたのに?」
 さらに追撃を入れるが――
「これは自主的に午後の授業を全部休んだだけ。風邪でもなんでもないわ」
「あ、そうか自主的に……って、それは世間一般じゃあサボりって言わない?」
「そうね。ひょっとしたらそうかもしれないわ」
 あっさりとかわされた。もういつもの鷹乃のペースに戻っている。
「それより、話すの?話さないの?」
 やや真剣な光の灯った鷹乃の瞳を見て、ぼくは観念した。
「……話すよ」

 ――ぼくは何一つ隠さず、洗いざらい鷹乃に話した。ほたるにピアノが届いた事。昨日その演奏を聞かせてもらった事。それがとても素晴らしかった事。
 そこまでの部分だけなら鷹乃は『惚気てるだけじゃない』と切って捨てるだろうが、その続きが彼女には意外だったらしい。ぼくが『あの演奏はほたるのものじゃない』『ぼくはあの演奏が怖い』と告げると、かなり驚いたようだ。
「……あなた、正気?白河さんの演奏が怖いだなんて……」
 いつも通りの手厳しい指摘。鷹乃がそう言うのも無理はないだろう。いつものほたるの演奏なら、それは天使の旋律とでも言うべき代物。とても恐怖を呼び起こすようなものではない。
 しかし今回ばかりは、勝手が違った。そういう鷹乃自身、ぼくの言葉を半ば信じている。
「気の触れた人間が、こんな静かに語れると思う?ぼくは正気だよ」
「……いくらあなたでも、男に『怖い』とまで言わせるなんて……尋常じゃないわね」
 一瞬『いくらあなたでも』というところに反応しかけるが、あえてそれは無視する。鷹乃はどうやら真剣に驚いている様子だった。
「……それで?私にどうして欲しいの?」
「いや、どうってわけでもないんだけど……なんか、他の人には話し辛くて」
 苦笑して肩をすくめる。
「本当は、なんでそんな風になっちゃったのか、何が原因でほたるのピアノがあんなのになったのか、知りたいところではあるんだけど……ぼくはほたるのあんなピアノ、聞きたくない」
「……さっきからずっと思ってたんだけど、具体的にどう違うの?『怖い』ってだけじゃ、わかるものもわからないわよ」
「…………そうだね……」
 鷹乃の問いかけに少し考える。あまりない知恵を総動員して、思いつく限りの言葉を並べ立てて行く。
「まず最初に思ったのは、なんか完成されたって感じだった」
「完成?」
 思わず眉をひそめる鷹乃。
「そう。完璧じゃなくて、完成。ほたるのピアノを聞いたことがある鷹乃ならわかると思う。ほたるは感情でピアノを弾くタイプなんだ」
「それは、わかるけど……それのどこが?」
「わからない?才能があって努力もしてる。そんな人が感情に乗せてピアノを弾いて……完成されるわけがないんだよ」
「―――あ」
 ぼくの言葉に、はっとなる鷹乃。次の瞬間にはもう納得顔になっていた。
「なるほど。それで『怖い』なわけね。白河さんを象徴してるって言ってもいいくらいのピアノに、全く感情がこもっていなくて……」
 それはまるでCDでも聞いてるのかというほど正確で、ただ無機質なピアノ。
「だからかな。ほたるがどこか遠くへ行っちゃうような気がして、少し怖かったんだ」
「………………」
 鷹乃はしばらく沈黙していた。彼女が何を考えているのか、その表情から推し量る事は出来ない。ある意味完璧なポーカーフェイス。
 やがてチャイムが鳴った。学校中に響き渡っているその大きな音が、ぼくにはどこか遠くで鳴っているように思えて仕方がない。スピーカーから流れる音はひたすら無機的で――それはぼくにあの恐怖を思い起こさせるには十分だった。
「…………遠く、ね……」
 ぼくはチャイムが鳴り響く中、鷹乃がそう呟くのを聞き逃さずに捕らえていた。それが何を示唆する独白なのか、あるいはぼくに囁いたのか、それはまるで見当もつかない。ただ彼女は――
「ところで伊波君。あなた、風邪を理由にここへ来ているんでしょ?寝てなくていいの?白河さん、絶対来るわよ」
 さっきまでの会話などどこ吹く風。いつも通りの口調で言ってきた。
「そうだね。ちょっとは病人らしく寝てるとするよ」
「そうしておくのがいいわ。私は先に教室へ戻るから。嘘をつくのは嫌だけど、まぁフォローぐらいならしておいてあげるから安心して」
「お願いするよ。――話聞いてくれて、ありがとう」
 ぼくがそう返すが早いか、彼女は颯爽と髪をたなびかせて保健室から出ていった。保健室を出る間際にこちらへ視線を向け、軽く微笑んで行く。
 ――カラカラ……バタン。
 軽い音を立ててドアが閉まった。まだ静かな廊下に反響する足音が次第に遠ざかっていく。やがてそれが聞こえなくなってから、ぼくは重いため息をついた。倒れこむようにしてベッドへダイヴする。
 飛びこんでから気付いた。これはさっきまで鷹乃が使っていたベッドだ。だからどうとでも言う程の事でもないのだが――彼女の温もりがまだ微かに残っていて、今はそれが心地よかった。

 もう一度チャイムが鳴り、今日の終わりを告げた頃、ほたると翔太が保健室へとやってきた。ほたるは未だに僕の言葉を信じているようで――そこには鷹乃の口添えもあったようだ――心配そうにしていた。傍らに立つ翔太は何を言うでもなく、だんまりを決め込んでいる。僕の嘘には気付いていて、しかしそれをあえて暴くつもりもないらしい。
「健ちゃん、大丈夫?」
「うん、一時間休んでたらだいぶ楽になったよ」
「ホント?一応鞄持ってきたんだけど……」
 ほたるが重たそうに右腕を掲げる。見ると、それは確かにぼくの鞄だった。見た目に重そうだから、わざわざ机の中の物まで積めてきてくれたらしい。
「ありがとう。重たかったでしょ?」
 辛そうにしているほたるからそれを受け取りながら、ぼくは素直に礼を述べた。つくづくほたるの親切さ、優しさが身に染みる。だるくなった右腕を軽く振りながら、ほたるは笑顔で返すのだった。
「ほたるも大丈夫だよ。健ちゃんの調子がいいんだったら、一緒に帰ろ?」
「………………」
 そこで何故か翔太が顔を背ける。何故か顔が赤い。
「どしたの、翔たん?」
「……ごめん、ほたるちゃん。見てるこっちが恥ずかしい……」
 それだけ言って、翔太は逃げるようにして保健室を出ていった。
 ――結局何しにきたんだろう、翔太……
 とりあえず見舞いには間違いないのだろうが……以前言われた翔太の言葉を借りるなら、ぼくとほたるの周りだけ、気温が三度くらいは上昇しているのだろう。
「どうしたんだろうね?翔たん」
「きっと陽気にやられたんだよ」
 我ながら皮肉な言いまわしだと思う。しかしそれに気付くほたるではなかった。
「そっか……まだ残暑とかあるしね?」
「……そういう事にしとこうか」
 今更ほたるに説明する気などさらさらなかった。説明したらしたで、嬉しいのか恥ずかしいのか判断を付けるのに困る例の表情を浮かべながら、顔を赤くしつつも惚気るに決まっている。特に理由などないのだが、なんとなく今は避けたかった。
「じゃ、行こうか」
「うんっ」
 ベッドから這い出て立ち上がったぼくの腕に、ほたるが自分のそれを絡ませてくる。
 いきなりなのでちょっと焦った。左腕に感じるほたるの温もりが心地良い。でもそれとは別に、恥ずかしさで顔が熱くなる。早鐘のように速度を上げた自分の鼓動がほたるに気付かれやしないか不安だ。
 もう何十回、あるいは三桁の大台に乗っているかもしれないほど繰り返したその行為に、ぼくは未だに慣れていなかった。そんな自分がちょっと情けなかったりする。
「ちょ、ちょっとほたる……!」
「気にしない気にしない。いいっぺ?いいっぺ?」
 唐突に口調を変えるほたる。明らかにふざけているのだが、こうなってしまったほたるはテコでも動かない。頑として自分の意見を譲らないのだ。この半年ちょっとの経験で、健はほたるのそういうところも知っている。
 はぁ、と小さくため息をついて諦める。無理にほどいてもいいのだが、別にケンカがしたいわけじゃないし、これはこれで悪くはない――結局こうやって自分が折れてしまうことも、ぼくは経験則から知っていた。また一段と自分が情けなく感じられる。
 ついでにもう一つため息をつき、昇降口で靴を履き替え、外へ出た。もちろんほたるは腕を絡めたままだ。
 真っ赤に燃えるような太陽はもう西へ傾いている。
「なんか、夕方が来るの、最近早く感じるなぁ……」
 太陽の方をまぶしそうに目を細めて見ながら、ほたる。
「そうだね。もうすぐ10月だし、これからいよいよ秋だから。これからもっと早くなるんじゃないかな」
「うん……」
 そう応えてはいるものの、ほたるは心ここにあらずといった様子で、どこか上の空だった。
「……何かあったの?」
 少し心配になって聞いてみる。しかしほたるはいつも通りの笑顔で、
「ううん、別に。ただ、今までより早く帰らなくちゃならないかなぁ、って思っちゃってね。冬が近くなると、お父さんが門限に厳しくなるから」
 こちらを向いてそう言った彼女は――どこか、嬉しそうだった。
「う〜ん……門限かぁ。なんか久しく聞いてないような気がするな」
 一人暮しなので、誰に咎められるわけでもなし。せいぜい南先生か信くんだ。いや、むしろ信くんの方が――バイトも含め――帰りは遅い。そんな事情もあってか、ここ一年以上『門限』なんて言葉とはまるで縁がなかったわけだ。
「それはいいからぁ。早く帰ろ?」
 ほたるが腕を引っ張って急かす。そんな彼女が焦っているように見えたのは――ぼくの気のせいか?
「わ、わかったよ。わかったから引っ張らないで……!」
 ささやかに抵抗しながら、結局はほたるの為すがままになる。家路に就くべく校門へと歩き出したぼくは、ふと後ろを振り返った。
 校庭には、長く伸びた二人の寄り添う影――
「………………」
 少し感傷的になりながら一瞥し、でも最後には何もなかったかのように振舞う。地面に映える二つの黒い人型が、ぼくには到底自分たちのものだとは思えず――
 結局ぼくは、その思いを胸に閉じ込めた。

 ――二日後の朝。ぼくは目覚ましがなるより早く届いたメールの着信音で目が醒めた。寝ぼけ眼はそのままに、ディスプレイへ軽く視線を走らせる。ほたるからだった。
『風邪ひいちゃったから、今日は学校休むね』
 至って簡潔でわかりやすい内容だった。ぼくは軽く目をこすってから、『あんまり無理しないでゆっくり治してね。後でお見舞いに行くよ』と返信した。
 時刻は七時。始業には少々早いくらいだ。簡単に朝食を済まし、制服に着替え、新しい着信の確認をする。ディスプレイにはメールも電話も着ていない事が表示されていた。そのまま携帯電話を胸ポケットにねじ込む。
「さて……行こう」
 鞄を拾い上げ、ぼくはまっすぐに学校へと向かった。

「なんだ、今日は一人で寂しく登校か?」
 校門前の道を歩いていると、いきなり肩を叩かれたので振り返ってみる。よく見知った顔がそこにあった。
「で、今度はなんだ?ケンカか?ひょっとして浮気がバレたとか?」
「翔太……それ、笑えない」
 重いため息をついて軽く流す。それでも翔太は笑いながら、
「あっはっは。まぁ困った事があったらいつでも俺に言えよ。クィクィ星人にタモルの飼育係りくらい、やらせてもらえるよう頼んでやるから」
「なんで話がそこに行き着くかな……ぼくは別にやましい事はしてないし、逃げなきゃならないようなこともしてないって」
 さすがに翔太も悪ふざけが過ぎたと思ったのか、それ以上肩を叩くのをやめて、ぼくの横に並んで歩く。
「んじゃあほたるちゃんどうしたんだ?いつも新婚さんみたいにベタベタ登校してるじゃないか」
「……風邪だって。今日は休むらしいよ」
 翔太の言葉に引っ掛かりを覚えつつ、しかしそれは話に関係ないので努めて無視した。
「あぁ、風邪か……季節の変わり目は風邪引きやすいしな。この間は健で、今度はほたるちゃんか」
 そこで翔太は思い出したように意地悪い笑みを浮かべた。
「――実に偶然ですなぁ。夫婦そろって風邪引くとは。移しちゃうような事でもしたのか?あ、そもそもあれって仮病じゃないのか?」
「ち、違うって。ほたるは本当に風邪っぽかったし……!それに仮病なんて使ってないよ」
 否定してみせるものの、翔太はまるで信じようとしない。いや、この場合は単にからかっているだけか。ぼくがこの手の会話が苦手だと知っていて、いちいち吹っかけてくるのだ。
「あ、なるほど。風邪を理由に部屋に引きとめたりとか?一晩中看病させたりしてさ……」
 思わず逃げ出したくなったが、学校はもう目の前だ。逃げるわけにも行かず、ぼくは教室まで、翔太の口撃に耐えつづけなければならなかった。

 いい加減翔太の口撃にも疲れて、もうまともに返事すら返さなくなった頃になって、ぼくらは教室についた。重い――というより疲れた表情のぼくと、嬉々としてぼくをからかっている翔太。それを見てぼくたちに話しかけてきたのは鷹乃だった。こっちを見て少し驚いたような表情を浮かべている。
「珍しい組み合わせで登校ね。伊波君、白河さんは?」
 彼女が普通に話しかけてきた事に、翔太は少なからず驚いているようだ。それもそのはず、彼女はこの間まで男嫌いで有名だったのだから。これで美人なのだから、噂にならないはずがないのだ。
 彼女の男嫌い――というより男性不信を解くのに、ぼくも一枚噛んでいたりするのだが、それはまた別の話だ。
「なんか風邪だって。今日は休むみたいだよ」
「そう……」
 呟いく彼女の表情はどこか暗い。何かを考えている時の瞳だ。
「どうしたの?」
 ぼくから話を振ると、彼女はちらりとこちらを見て、
「……その、お見舞いに行ったりするの?」
 やや躊躇いがちに訊いてくる。
「うん。学校終わったあとに行こうかなって思ってるんだけど……それがどうかした?」
「私も行くわ」
「―――!?」
 きっぱり言いきった彼女の発言に驚いたのは、当事者のぼくではなく、その隣りにいる翔太だった。
「……どうしたの?」
 思いっきり仰け反っている翔太に気を留めた鷹乃は、訝しげな視線を彼に注いだ。呆れたような、醒めたような表情と口調。
 ――翔太のヤツ、最近の鷹乃の変化に気づいてなかったのかな……結構な噂話になってるのに。
「あ、いやいや、なんでもないよ。続けて続けて!」
 両手を振り振り、慌てて誤魔化す。その額に流れる一筋の汗を見逃す、ぼくと鷹乃ではなかった。
「……私も行きたいんだけど、いい?」
 とりあえず翔太の事は無視して、鷹乃がこっちに向き直る。
「いいよ。鷹乃ならほたるも喜ぶよ、きっと」
「ありがとう」
 そう言ってぼくに微笑みかける鷹乃。後ろでまたもや翔太が驚いている気配。いちいちそこまで反応しなくても、とは思うのだが、鷹乃がこれだけ変わったのならそれも無理はないかな、とも思う。
 そのまま彼女は踵を返すと、女子の輪の中へ入っていった。それを呆然と見つめながら、翔太がぼくの肩を叩く。
「な、なぁ健……」
「変わったでしょ?彼女。知らなかった?」
 カクカクと機械的な動作で首を縦に振る翔太。そのあまりの間抜けっぷりに、ぼくは思わず噴き出してしまった。
「何笑ってるんだよ、健……あ、まさかお前、何か一枚噛んでるな!?」
「さぁ……どうだろうね」
 今度はぼくの方が優勢だ。適当にごまかして、さっさと自分の席へ向かう。
「あ、お前……ちょっと待てよ、健!」
 引きとめようとする翔太の声を背中に、ぼくは最後の最後で逆転した優越感に浸りながら、自分の席へと向かった。
 ――今日もまた、長い日になりそうだ。

「着いたよ」
 ぼくは自分の後ろに付いて来た鷹乃を振り返り、目の前に立つ一個建てを視線で指した。表札には言わずと知れた『白河』の文字。インターホンを押し、待つ事およそ数十秒。
「…………あれ?」
 あまりにも反応が遅く、拍子抜けしてしまった。何十秒も経てば、誰かインターホンに出てもよさそうなものなのに、なんでだろう?
 少し耳を凝らしてみると、ピアノの旋律が聞こえる。ほたるはいるはずだ。電気は点いているが、ご両親や静流さんがいるとは限らない。
「……もう一度押してみたら?」
「う、うん」
 やや躊躇いがちに、それでも心持ち深くボタンを押しこむ。チャイムの鳴る軽い音と共に、ピアノの旋律がぴたりとやんだ。椅子を叩き付けるような乱暴な音が響く。
 それに驚く間もなく、インターホンで声が応えた。
「はい!?」
 どこか不機嫌な声。イライラした感がある。しかし、それは間違いなくほたるの声だった。
「あ……ほたる?ぼく。健だけど」
「……健ちゃん?」
 少し驚いたようだ。訝しむような、喜んでいるような、そんなほたるの顔を思い浮かべる。さっきのイラついたような印象はもはや微塵もなくなっていた。
「それと、鷹乃が……」
「こんばんは、白河さん」
「え?寿々奈さん!?」
 ぼくの言葉を次いでインターホンに話し掛けた鷹乃の声にも、彼女はまた驚いたようだった。ぼくたち二人がいっしょに来た事に対して、変な勘繰り――鷹乃はそれが心配だったようだ――は抱いていないようだ。
「ちょっと待ってて、今開けるね!」
 言うが早いか、インターホンがブツッと切れて、パタパタと軽い足音が玄関に近づいてくる。
「健ちゃん!寿々奈さん!」
 ドアを開けたほたるは、開口一番喜びの声をあげた。
「やぁ。風邪の方はどう?」
「うんっ、もう平気だよ!明日は学校に行くからね」
「……効果覿面ね」
 後ろの鷹乃がぼくのわき腹を軽く小突いた。苦笑して返す。
「ところで、寿々奈さんはどうしたの?」
 彼女のそれは、単純にクラスメイトが来てくれた事に対する喜びの言葉。おそらく彼女はわかっているのだろう。それでも訊かずにはいられない――これは人としては誰もがやってしまう行為なのだろうか。
 鷹乃はぼくの後ろから前へ出て、
「お見舞いよ。あと、ピアノを聞きたいな、って思って……」
「あ、あの時の約束?」
 ほたるが声を上げた。
 彼女の言う『約束』というのは、ほたるがウィーンに旅立つ前、ぼくとほたるの仲をとりなしてくれた鷹乃に対して、ほたるが自分から言い出したお礼の事だ。彼女が『何かお礼がしたい』と言った時、鷹乃が返した答えは『いつかピアノを聴かせて』というものだった。
 それをこんな形で、ほたるのピアノに対する疑念に利用してしまうのは少々気が引けたが、鷹乃はそれを快く承諾してくれたのだ。
「そう。まぁ、本当の目的はお見舞いなんだけど……あなたの調子がよければでいいわ」
 一応そう断わる鷹乃だったが、ほたるはそれに笑顔で応えた。
「大丈夫!お薬飲んで寝てたらもうバッチリになったから、ピアノくらいへっちゃらだよ。上がって上がって」
 先に上がったほたるは――珍しい来客があったからだろうか――わざわざスリッパまで出して、ぼくたちを先導してリビングへ連れて行った。『ここで待ってて』と告げて、彼女は一人キッチンへと消える。
 他に人の気配がしないところを見ると、ご両親も静流さんも外出中のようだ。
「二人は何飲む?お茶かジュースか、ミルクがあるけど」
 冷蔵庫をあさる音と共に、ほたるの声が飛んだ。
「ぼくはお茶で」
「私もお茶でお願いね」
「は〜い。お茶、お茶……と」
 ほどなくして、三つのカップを載せた小さなお盆を手に、ほたるが戻ってくる。テーブルに就いたそれぞれの前に、琥珀色の液体が注がれたカップが配られた。
「あ、これ今日の授業分のノートだよ。いる?」
 それと入れ替わる形で、ぼくは彼女にノートを数冊手渡した。
「あ、ありがと。でもさ、ほたるは健ちゃんが持ってた方がいいと思うな」
 断るほたる。どこか苦笑した雰囲気があった。
「同感ね。音楽で大学へ行ける白河さんと違って、あなたは今全部が並なんだから」
 さりげに毒を吐く鷹乃。さすがのほたるもちょっと引いていた。
「ん……それじゃあそうさせてもらうよ」
 苦笑しながら、ぼくはノートをカバンに引っ込めた。
 それからあとは、しばし他愛のない会話が続いた。学校の事、芸能人のスキャンダル、昨日やってたあの番組が面白いだの、最近出た人気グループの新曲はいまいちだ、など。ごくありふれた会話。
 しかし楽しい時間はそう長く続かない、というのが世の常なのだろうか。気がつけば時刻は七時近い。
「あ、もうこんな時間……」
 ほたるが時計に気付いて声を上げた。
「もうそろそろ寿々奈さん門限じゃない?」
「ん……もう少しは大丈夫だけど、そろそろお開きにした方がいいかもしれないわね」
 鷹乃が自分の腕時計を確認し、答える。
「じゃあ、最後に約束の一曲、お弾き致しましょう!」
 ほたるが顔をぱっと輝かせ、漆黒のピアノへ向かう。椅子を引き出し、蓋を開け、あの日と同じ手順でピアノの前に座った。しばしの黙想。
 そして流れ始めたのは――ぼくの知りうる限り、あの日と同じ旋律ではなかった。
 曲目はヴェートーヴェンの『悲愴』。同じ曲、同じピアノで、演奏者だけがまるであの日とは別人のように変化していた。
 かつてあの日、切なさと悲しさと、一抹の寂しさを残して消えたあのメロディはもはや面影もなく――ただひたすらに、禍々しかった。
 電灯に絡み付くメロディは大蛇の如く。空気をじっとりと重くする旋律は霧の如く。そしてぼくの心に穴を穿つそれは――間違いなく致命的な、木の杭だ。
 ぼくの横で、鷹乃が『戦慄』に身を震わせていた。この曲によって彼女が一体何を思い出しているのか、何を思っているのか、それは定かではない。しかし確実に言えるのは――それは怖い事であり、虚しいモノなのだ。
 かつてぼくが味わったのとほぼ同じ――あるいはそれ以上のモノを、鷹乃は感じているに違いない。胸元に添えられていた手が、力なく虚空を掴む。いや、服の上から胸元を押さえ付けていた。彼女のたった一つの絆。その手を白くなるまできつく握り締め、まるで大切なモノを手放すまいとしているようだった。
 そしてぼくは――はっきり言って、彼女の事をあまり気にしていられるだけの余裕はなかったのだ。
 だからか、瞳から涙があふれた。曲が終わるまでただひたすら、無心に流しつづけた。まるで一生分の涙をこの場で流してしまうのではないかというほどに、ただ泣いた。
 瞳が取り落とした無色透明な美のエキスは、頬を伝って手の甲で弾け、またそれを追って水滴が爆ぜる。ふと見てみると、ぼやけた視界の向こうに涙を流す鷹乃がいた。虚ろな表情でピアノを弾くほたるがいた。
 ――ほたる。
 心の中の呼びかけ。いつも届くと思っていた、届いていると確信していた、呼びかけ。しかし彼女はもはや、ぼくの知るほたるではない。そこにいるのは、ただひたすらに異質な『誰か』だ。
 ぼくが魂の震えをやっと抑えられるようになった頃、とうとう簡易リサイタルは終わりを告げた。ほたるは振り向き、笑顔で――しかし何かに憑かれたような声で、告げた。
「――どうだった?」
 返す言葉などあるはずがない。ただ逃げ出したかった。この空間から。あの戦慄から。禍々しきメロディから。
 だからぼくはこう答えたのだ。
「すごく、よかったよ」
 ――と。『ほたるらしくて』という決まり文句は、そこにはもはやあり得ない。
 そうしてぼくと鷹乃は、ほたるの見送りを背に、駅までの途へと就いたのだった。

 薄暗い道を行くぼくと鷹乃は、ひたすら沈黙していた。重い空気。お互いに何か言葉を発することすら出来なかったのだ。
 ぼくたちが家路についたことを確認したほたるは、またすぐにピアノへ向かったようで、あの後すぐにピアノの音が聞こえてきた。それは、去り行くぼくらに対するレクイエムのようで――
 ピアノの音がやっと聞こえなくなったところで、ぼくと鷹乃は示し合わせたように歩を緩めた。同時に降りる重い沈黙。その危うい均衡を破ったのは鷹乃だった。
「…………何なのよ、あれは……」
「………………」
 立ち止まり、囁きの如く小さな声を発した彼女に気づいたぼくは、静かに視線を鷹乃の方へ向ける。
 ――応える術など、あるはずがない。
「何なのよ、あの……っ!」
 言葉に詰まる鷹乃。ぼくに応える術がないのと同じように、彼女もまたアレを表現出来る言葉を持ち合わせていないようだ。気休めも無意味なものと化す、改めてまざまざと見せつけられた現実。鷹乃はひょっとしたらその『気休め』を求めていたのかもしれないが――気休めでもいいから答えが欲しいのは、ぼくも同じだ。
「あれは何?あのピアノは何?どうしてあそこまで恐ろしいの?禍々しいの?ねぇ、どうして――」
 最後は嗚咽に飲まれて声にならない。
「わ、私……思い出しちゃったわよ。昔の事。池に溺れて、死に掛けた時の事。暗くて、冷たくて、どうしようもなくて……あがけばあがくほど這い上がれなくなる、思い出の蟻地獄よ。やっと、もう大丈夫だと思えるようになったのに……なんで、なんでよ?」
 そこまで彼女を恐怖のどん底に突き落としたのは、おそらくピアノによって呼び戻された辛い過去の記憶だろう。疑問形になりながらも、おそらく答えを求めているわけではないのだ。求めていたとしても、返ってくる事をまるで期待していない。あくまで平坦な彼女の口調が、その現れだった。
 それっきり口を閉ざしたまま、ぼくと鷹乃は藍ヶ丘駅で別れ、それぞれの家路へと就いたのだった。

 ――いや、正確にはそのまま帰ったわけではない。ぼくは浜辺へとやってきていた。
 暗い夜空で月が踊る。青く冴えた三日月の吐息は、漆黒に淡く広がる星屑たち。黒々と塗り込められた雲が、きらきらしい空を気持ち良さそうに泳いでいた。
 視線を転じて、地平線の彼方へと向ける。静謐さを張り詰めさせてたゆたう海と、荘厳さを溢れさせて広がる星空と、その接点。二つの輝く海原が交わるそこに、ぼくは答えを求めるかのようにじっと見入っていた。
 月はぼくに答えを言わず、ただ黙すばかり。星々はぼくの心を埋めず、ひたすらに暗い空を征服して行く。そして海は――ただそこにあるだけだった。
「…………ほたる……」
 いつかの、ほたるが唐突に日本へ返ってきた時の事を思い出す。校庭に正気かと疑うほど大きな文字で書かれたあの告白。石灰の文字をなぞるまでもなく、彼女の心地よいソプラノが聞こえてきたあの瞬間。今でも鮮明に思い出せるあの熱い鼓動。
 しかし、ついさっきまで一緒にいた彼女は、もはやぼくの知るほたるではなかった。全くの別人という気ばかりする。
 ――別人?
 ふと自然に出てきた内心の言葉に、我知らず自嘲的な笑みを浮かべた。
 別人、ではない。彼女は――いや、アレは――全くもって全てが異質な存在だ。彼女がピアノの前に座るのは、召喚の儀式の下準備。白い指が奏でる旋律は、召喚の呪文に他ならない。そして目覚めし悪魔の名は――未だ過去の思い出を引きずりつづけている、自分。
 ふと、鷹乃のことを思い出した。彼女には済まない事をしたと思っている。ぼくの勝手で巻き込んで、散々怖い思いをさせて。彼女に過去を乗り越えさせたのがぼくなら、それを再び思い出させたのもぼくだ。
「………………」
 思い浮かぶのは禍根と後悔と、そして恐怖。
「……結局ぼくは、どうすればいいんだろう――」
 月は、星は、海は、そこにあるありとあらゆる景色はただ存在するだけ。答えなど持ち合わせているはずもない。
 そしてぼくは、朝凪荘へと足を向けた。

「あら、おかえり。健君」
 朝凪荘の玄関でぼくを出迎えたのは南先生だった。トモヤを相手に戯れていたらしく、トモヤの頭をひと撫でしてから立ち上がり、ぼくに向き直った。
「……何かあったの?」
 ぼくに『ただいま』の一言を求める事もなく、唐突にそう言ってきた。南先生はなんだかんだ言ってかなり鋭い。
「そんなに酷い顔、してます?」
 力なく苦笑して訊いたぼくに、南先生は首肯した。
「見ててこっちが居た堪れなくなるような笑顔。疲れ切った表情。そんな顔してれば、トモヤだって気づくわよ」
「……そうですか」
 急に南先生のことを正視していられなくなり、視線を伏せた。その先には、ぼくの足にじゃれ付いているトモヤの姿。南先生が言っていたのはこの事らしかった。
「そうだな、トモヤ。心配かけてゴメンな?」
 トモヤの柔らかな毛をそっと撫でる。あるいはそれは、南先生に向けて言いたかった言葉なのかも知れない。
「……話す気には、なれない?」
「今は、まだダメなんです。今話せば、先生にもきっと嫌な思いをさせてしまう」
 ――だってぼくはもう、既に一人嫌な思いをさせてしまったのだから。彼女の領域を、決定的に荒らしてしまった。同じ轍は踏みたくない。
「そう……無理に訊いても仕方ないしね」
 そう言って南先生はぼくに背を向けた。一足先に部屋へ戻るつもりのようだ。ドアの扉が閉まるその間際、先生の白い手がドアの動きを抑えた。
「言えるようになったら言って。力に、なるから」
「……はい」
 もう既に閉じられたドアへと、小さく答える。今はそっとしておいてくれる南先生の心遣いが嬉しかった。ぼくはトモヤの傍らにしゃがみこみ、その小柄な肢体を抱き上げて――
「…………ほたる……」
 ぼくは久々に、彼女のためだけに泣いた。

 ――結局次の日も、その次の日も……ほたるが学校に来る事はなかった。


>>後編へ続く




 感想BBS




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送