-twilight memory-
第三章 私は此れを書き記す……
作:暇人(八坂 響)



「………………」
「………………」
 二人を乗せたバイクは、静かに風を切る。彰と真琴はお互いに何も語らず、ただ流れ行く風景だけが、移り変わって行く。
 夕暮れ時に近づいてきたせいか、自分たちの住む街が赤く燃えているように見える。徐々に徐々に、その姿は大きくなっていった。
 ――うぉんっ!
 一際高いエンジン音を立て、バイクは街の門をくぐった辺りで停止した。
「……ありがと」
 バイクの後部から降りながら、真琴が言う。外されたヘルメットの中から、長い髪が、ふわっ、と広がるように流れ出る。
「今日は……楽しかったね」
「……ああ」
 お互いに、その笑顔がどこか不自然だった。彰はどこか物足りないような、半ば諦めかけているような、かげりのある微笑み。一方の真琴は、何がしかの使命感と、焦燥に駆られたような微笑み。
 ――言わなくてはならない言葉がある。そうだ。この十数年間、ずっと出せずにいた言葉。ほんの一言だけの、言葉。
 意を決し、口を開く真琴。
「ねぇ、彰……」
「ん?」
 いつもの調子で問い返す彰。真琴の心中など、まるで察していないようだった。
 真琴は二の句が継げなかった。言葉の続きが出てこない。今日こそ、絶対に言う――そう決心したのに。
 その時、真琴は自分の中にある感情に気付いた。
 ――恐怖だった。
 今まで築き上げられて来た居心地よいこの場所が、この空間が、この一言で全て崩れ去ってしまうのではないか――そんな想いが、最後の一言を真琴に言わせない。
「どうした?」
 不思議そうに顔を覗きこむ彰。そう、いつもと変わった様子は全くない。
「今日のお前、どこか変だったぞ?時々、ふっ、と無口になったり、さびしそうな瞳、してたり。熱でもあるのか?」
 彰は全部、気付いていたのだろうか?そんな期待感が生まれる。
 ――心配……してくれてるんだ……
「……ん……何でもない、よ?」
 しかし、彼女の口から出たのは、逃げの言葉だった。
「……ゴメン、ちょっと用事思い出しちゃった。先、帰ってて」
 誰が見てもそれとわかるような、作られた笑顔――切ないほどの哀しみを内に隠しながら、真琴は言った。
 そして、そのまま家の方へと走って行く。――別れの言葉も言わずに。
「あ、おい!真琴――」
 彰の制止の声を振り切り、真琴は駆けて行った。
 ――バカ!あたしのバカ!
 無我夢中で走りながら、心の中で自分を叱責する。
 今日こそ言う、って決めたのに。それなのに……!
 風に乗って、一粒の輝く滴が、宙に舞う。
「……バカ……」
 いくつもの曲り角を曲がり、町の入り口が見えなくなった辺りで駆け足は次第に遅くなる。数歩、ゆっくりと歩いて――立ち止まる。
 次々に、とめどなくあふれ出る涙。しゃくりあげ、かすかに嗚咽が漏れる。
 ――人よ、いつしか喜びを望む者――
 彼女が好きな詩が、脳裏によみがえる。
 ――人よ、今は深き悲しみに在る者――
 今は亡き、世界を渡り歩いた詩人、ガウン=リーブスター。この詩は、彼の死んだ幼馴染の女性に向けて詠った詩。
 ――あの蒼穹へと想い馳せ――
 真琴はtwilight memoryと題された彼のこの詩が好きだった。暗唱も出来るくらいに、毎日朗読している。それほどに、好きだったのだ。
 ――願わくはもう一度だけ――
 幼馴染という、居心地のいい空間に苦しみ抜いて初めて、彼女は本当の気持ちに気付いた。居心地が良ければそれで幸せなのかというと、実はそうでもなかったのだ。
 真琴や彰ほどの歳になれば、大抵が異性を気にしだす。そういう年頃だ。普通の少女にとって一番身近な異性といえば、父親か、あるいは兄弟といったところだろう。しかし真琴の父親はもういない。たった一人の肉親は姉の涼だけだ。つまるところ、彼女に最も近い異性といえば彰だった。
 ――されど奇跡とは顕れぬもの――
 しかしその彰の方は、昔の感覚から未だ抜けていないようだった。接し方が兄弟のそれに近い。真琴はそれが不満であると同時に、どこかやるせなかった。
 そのことに自分自身で気付けたわけではない。よく手紙のやり取りをしている従姉妹に指摘され、より一層強く意識し始めた。
 ――ただ夢だけが在り続ける――
 だが、結局言えなかった。現実は、物語のようにいくほど甘くはない。
「……違う……」
 即座に、自分の考えを否定する。
 現実が厳しいとか、そういう事は関係ない。これは単純に、彼女が『逃げ』に走っただけ。彼女に勇気が足りなかっただけ。
 姉は『逃げる事は悪い事ではない』とは言ってくれたものの、それでは自分が納得できないと突っぱねたのは、他ならぬ真琴自身だ。
 ――ならば今、最期の世界(おわりのそら)壊し行こう――
 しかしそれを自覚していてなお、彼女には今すぐ彰のもとへ向かう勇気が湧いてこなかった。
 もし仮に彰のもとへ向かったとして、どんな顔を合わせればいいのだろうか?いつものように怒ってみるか?それとも子どものように泣きじゃくりながら、彼にすがる?偽物の笑顔を浮かべて誤魔化すのか?
 どれも偽りでしかない。彼女は自分の心を曝け出す勇気がなかった。
 一歩一歩、本当にゆっくりと足を踏み出す。いまだに涙は止まらない。自分が向かう先には、自宅がある。そこに彰はいない。
 ――二人の創る、あの懐かしい未来へ――
 彼女は自分が、どうしようもないくらいに情けなかった。

 ――何だったんだ……?
 走り去って行く真琴の姿に、呆然とする彰。
 彰には――真琴の涙が、見えなかった。
 走り去る少女の背中は、まるで自分を拒絶するかのように見えた。黄昏時の街に、真琴の姿が消える。その光景になぜか胸騒ぎが治まらなった。
 ――明日になればまた、会える……
 そう納得しかけて、彼はふと笑った。自分の中にある小さな矛盾。それが可笑しくて笑った。どこか滑稽だった。
 会えなくなる道理がない。今日会っていて、なぜ明日には会えなくなるのか?考えられる事態として、彼女が死ぬ。想像して、自分で笑い飛ばした。ここ横浜は、現在の日本でも有数の巨大都市だ。郊外のこの一帯における過去の交通事故はゼロ。まがりなりにも最大級の都市だ。強盗や地下組織がおいそれと手を出せるものではない。
 ならば、神月家が引っ越す?前者よりは現実的とはいえ、むしろそれは真琴の死以上にあり得ない。真琴とその姉の涼には、親戚と呼べるものがほとんどいないのだ。大阪に住んでいる従姉妹の一家が唯一の親戚だ。
「気にし過ぎ、だよな……」
 そう呟き、バイクを押して、自分の家の方へと歩いて行く。
 明日は来る。日常は繰り返す。真琴のいない日々など、日常ですらない。それはこの十年間、彰にとって当たり前の事だった。
 ――少年は知らない。自分が日常をなくしつつある事を。

「…………最悪、だな……」
 額に手の甲を当て、ベッドに寝転んだままの姿勢で呟いた。最低の目覚めだった。彰はしばらくそのままじっとしていたが、やがてベッドから抜け出し、洗面所へ向かう。
 洗面所備え付けの鏡で自分の顔を見ることを、彰は意識的に避けていた。それは決して、目が赤く腫れ上がった自分の顔を見るのが嫌だったからではない。
 コックをひねって冷水で手早く顔を洗い、タオルで水滴を拭い取る。前髪についている水滴も綺麗に落とすと、すぐにサングラスをかけた。背中まで優に届く黒髪を無造作に縛り、洗面所を後にする。服装は昨日のままだったが、今更着替えるのも面倒だった。ちなみにコートだけは脱いで、クローゼットの中にかけてある。
 昨日――あのあと、気まずい雰囲気を引きずったまま二人は近くの安宿へ戻った。結局挨拶すらせずに、それぞれの部屋へ引きこもって、彰はそのままベッドへ倒れこんだ。服が昨日のままなのはそのためだ。
 ――あんな事があったから……今更あの日の夢を見たのか……
 あの夢を見るたび、彼は眠る事が怖くなる。もう吹っ切った――そう思っているのは、自分だけなのかもしれない。いや、吹っ切ったと思いこんでいるだけだ。思いこませ、自分にそれを無理やり納得させ、忘れようとした。
 でも実際には、忘れるどころか夢に見た。そのたびに彼は憎しみを吐き出し、怒りを押し殺し、そして罪の意識に苛まれる。
 再びベッドへ倒れこみ、天井を見つめる。もとは白かったのだろうが、こんな安宿だ。所々くすみ、汚れている。
「――亜紀とはもう、いられないな」
「え?なんで?」
 妙に感慨深い独白に、なぜか返事が返ってきた。少女のソプラノ。心底不思議でたまらない、といった風情の口調だ。
 彼女はいつの間にか、ベッド脇に立っていた。
「………………」
「ねぇ、なんでよ?」
「………………」
「おーい、彰。聞いてる?」
「……………………」
 全く反応を返さない彰。サングラスをかけているせいで、彼の表情は判別しづらいが――おそらく驚いているのだろう。もし手元にカメラがあれば、亜紀は迷わずシャッターを切っていたに違いない。
「あ、わかった。昨日の事でしょ?図星?」
 こぼれんばかりの笑顔を浮かべ、彼女は彰の額を指で弾いた。
「…………おい」
 その右手を無造作に握り、鬱陶しげに脇へどける彰。そのまま上体だけを起こす。フィルタ越しの視線が、亜紀を鋭く見据えた。
「お前、気まずいとか思わないのか?」
「全っ然」
 うんざりしたというか、少々辟易気味な彰の質問に、亜紀はなんの淀みもなく即答した。もちろんその笑顔は崩さぬまま。
「むしろ、あたしはわだかまりとかしがらみとかを吐き出せてすっきりした。彰の方が気にし過ぎだよ」
「俺はお前と違って繊細なんだよ」
 そんな彼女の言葉に、内心苦笑しながらも皮肉を返す。そう、長年付き合ってきた友人と会話しているかのような――そんな気安さで、彼は亜紀に言葉を返していた。
「あ、ひっどーい!じゃあなに、あたしの神経は図太いっていうの!?」
「なんだ、自覚してるじゃないか」
「そういう彰は神経質過ぎ!ハゲるよ?」
「生憎、髪の手入れはしっかりやっているんでな」
「…………え?」
「……ッ!」
 思わず返答に困った亜紀に、自分の失言を悔いる彰。自分の秘密の一端を――それも、他人にはあまり知られたくない秘密を、よりにもよって亜紀に自分からバラしてしまった。
 弱点を握ったとばかりに、亜紀の朱唇が笑みの形に吊りあがる。小悪魔のように意地悪そうな笑顔だった。
「へぇ、お手入れしてるんだ……どーりで綺麗な髪の毛よねぇ。羨ましいくらいサラサラでさぁ」
「ぐ……ッ!」
 彰の髪の毛の一端に自分の鼻を寄せ、その中にうずめる亜紀。
「いい匂いしてるし……よく嗅がないとわからないけど、微かにフローラル系の匂いがするわね。神の左手は、実は少女趣味?」
 鼻孔一杯に吸い込んだ空気を吐き出し、今度は彰へにじり寄る。あとずさる彰。だが、彰が後ろに下がれば、亜紀はそれだけ距離を詰める。
「ズバリ、ラベンダーね」
「―――!!」
「あらぁ彰ちゃんったら、なかなか可愛い趣味してるじゃない?」
「う……うるさい!」
 恥ずかしさからか、焦ったように大声で返す彰。それから逃げるようにして、亜紀はベッドから飛び退いた。
「ほら、それだけ元気なら大丈夫でしょ?」
 言って、悪戯っぽく微笑んだ。
「――――――」
 その笑顔と言葉に、思わず絶句する彰。恥ずかしさなど、いつの間にか吹き飛んでいた。
 亜紀は彰の表情に満足したのか、きびすを返して部屋を出る。
「じゃ、またあとでね」
 一言だけ残し、ドアを後ろ手に閉める。だが、すぐに部屋へは帰らなかった。廊下の天井を――あるいは、その先にある何かを――見つめながら、小さく微笑んだ。
「ラベンダーか……いいかも」
 跳ねるようにしてドアから離れ、自分の部屋へと向かう。
「あたしもつけてみようかな?ラベンダーの香り……」

「………………」
 彰はしばらく、何も言わずにドアを見つめていた。亜紀の去って行ったドアを。
 彼女は彰の心の中にあるわだかまりを、一瞬にして溶かし去ってしまった。そんなわだかまりなど最初からなかったかのような気にさせてくれる、あの笑顔が――
 だが次の瞬間、罪の意識はより一層重みを増した。
 あの笑顔を認めるのは、そのまま思い出を裏切るという事――心の中で、誰かが告げていた。
 彼が髪を伸ばしているのも、ラベンダーの香りをつけているのも、ただの趣味などではない。強いて言うならば贖罪か。長い黒髪にラベンダーの香り。忘れようとしても忘れられない、もういい加減忘れたい――だが決して忘れる事を許されない彼女の残り香。そう、これはまさしく贖罪なのだ。
「……なんだよ、これ……」
 無意識のうちに、その右手は胸元のペンダントを握っていた。ベッドを背もたれにして、くず折れるように座り込む。
「わけわかんねぇよ……」
 そこにいたのは冷徹に人を撃てる神の左手ではなく、宮藤彰という悩める青年――いや、少年だった、彼の時間は、あの日から止まったまま。今も少年のまま、六年前と何ら変わっていない。
「わけわかんねぇ……なんなんだよ、コレは……!」
 その後に続く少女の名は、無理やり噛み砕いた。ただひたすら、青年の悲哀を帯びた言葉だけが、繰り返された。

「――で、これからどうすんの?」
 ちょっとした茂みの中で、二人は立ち話をしていた。と言っても、たわいもない世間話をしているわけではない。これからの行動についてだ。傍らにはそれそれの愛機が停車していた。
 目の前にそびえるビル。およそ二十階程度だろうか。ビルそのものは過去の遺物を修復して再利用しているため、あちらこちらがボロボロになっている。だが、ビルが傷だらけなのは、再利用したものだからというだけではないだろう。戦争の後遺症は一ヶ月に一度くらいは襲ってくる。それになにより、ここはつい最近襲撃を受けたのだ。
「正面突破。敵の機械兵を片っ端から撃破し、頭を押さえる」
「……なんともわかりやすい作戦で」
 いつもの調子に戻った彰のぞんざいな物言いに、思わず閉口する亜紀。例え彰がどれほど強くとも、一抹の不安は拭いきれない。
「ホントにいいの、それで?」
「いいわけがないだろう」
 念の為に確認した亜紀に、さも当然のように返す彰。
「ここに一本のダイナマイトと数発の焼夷手榴弾がある。まずは俺がこれを使って陽動に出て、敵の機械兵を引きつける」
「それってすんごく危険なんじゃあ……それに、あたしの役目は?」
 ジト目で睨む亜紀に、彰はふと真剣な視線を向け――
「お前には機械兵どもの主制御システムを探し出してもらう。そいつを支配下に置くか、あるいは破壊すれば機械兵が止まる。あとは首謀者を捕縛して終わりだ」
「って、それもやっぱり辛いんじゃ……」
「数十体の機械兵とデスマッチするよりはマシだろ。それで……ちょっと見てくれ」
 そう言うと彼は、自分の荷物から一つのハンディパソコンを取り出した。液晶モニターに表示されているのはビルの見取り図。それを見れば、ビルの内部構造が全てわかるといっても過言ではない代物だ。
「ここがお前の目標だ」
 彼が指差した先のモニター上には『セキュリティシステム制御室』とあった。階表示は24階となっている。
「侵入者達は真っ先にここを押さえにかかったらしいから、機械兵の制御はここから行っていると考えて、まず間違いはない。で、ここを制圧してセキュリティを支配したら――」
 彰の指先がキーボードの上をすべり、別の階が表示される。そこのある一角に、赤い光が灯った。
「ここ。29階の展望室に、機械兵の停止から三十分以内に集合だ。首謀者の一味に遭ったら――どうするかはお前に任せる。目的は研究所の奪還であって、首謀者の捕縛じゃあない、って事は忘れるな」
 それは取り方によっては冷たい物言いだ。だが、相手は研究者の半数以上を虐殺した凶悪犯。おそらく手加減して勝てる相手ではないだろう。
「ねぇ。二つほど聞きたいんだけど……」
「なんだ?」
「破壊じゃダメなの?どうあってもセキュリティの制圧?」
 その問いに彰は少しだけ黙考し、
「破壊はあまり好ましくないな。下手をすれば機械兵が暴走(スタンピート)を起こす。コンピューターの相手は苦手か?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。ハッキングとか乗っ取りとかって、やっぱ面倒だしリスクも大きいから」
「だが、お前が首尾よく制圧してくれれば、俺の方の危険は格段に減る」
「見捨てちゃおうかしら?」
「その時は全力で吹き飛ばす。ビルと心中してくれ」
「……笑えないわね」
 彰の冗談の通じなさに苦笑してから、亜紀は続けた。
「もう一つ。こっちの方が本題ね」
「……なんだ?」
 表情を引き締める亜紀。彰はおおよその見当が付いていたのだろう、少し間を置いてから訊いた。
「詮索すべき事じゃないかもしれないんだけどさ、連中はなんでこんな研究所を襲ったのかな?」
「………………」
 亜紀のごくまっとうな問いに、彰は沈黙した。
「聞けばただのバイオプラントでしょ?そんなところ襲ったって、少数の東京市民サマに迷惑かかる程度よ。掃除屋を二人も雇って排除するほどのモンじゃないと思うんだけど?」
「……まぁ、正論だな」
 そうとだけ答えを返し、彰は前髪を掻き揚げた。
「正直俺も、それは気になっていた。襲う理由がない。あったとしたら、そこにあるものはなんなのか――だがまぁ、いけばわかるだろう」
「そりゃッ……そうだけど……」
 何か強く言いかけ、結局亜紀はその言葉を飲み込んだ。だが、やはり不満らしく、不機嫌そうに頬を膨らませている。
「ガキじゃないんだ、もうちょっと大人になれよ?」
 言って、彼女の頬を片手で挟みこみ、頬の空気を噴き出させた。不意討ちを食らった亜紀は空気を全て吹き出し、間抜けな顔を彰の前にさらしてしまった。
「な、なにすんのよ!」
 恥ずかしさからか、頬を上気させ、彰に食って掛かる亜紀。彰はそれを軽くいなすと、亜紀の頭を押さえたままビルの方に視線を移した。
 彰に頭を押さえられた亜紀は両手をやたらにぶん回すのだが、そもそも腕の長さが違う。亜紀の両手はただ空を掻き、傍から見れば父親と駄々っ子だ。
「ホラ、その怒りをあそこにいる連中にぶつけて来い」
「もぉ、うるさい!」
 怒ったかのように、亜紀は大股で歩き出した。ビルの裏手へまわりこむためだ。
「あ、亜紀。ちょっと待て」
 その亜紀を、彰が呼びとめた。彼女は不機嫌な表情のまま、少しだけ振り向いた。見てみると、彰が首の辺りに手をやって、何やらいじっている。
「これ、貸してやる」
「……っと」
 彰の手元から放物線を描いて飛んで来た銀色のそれを、亜紀は両手で受け止めた。掌に収まっているのは、銀細工のペンダントだった。裏には何か、くすんで読み取れなくなっていたが、文字とだけ分かるものが刻まれている。
「……何、これ?まさかお守りとか?」
「似たようなもんさ。お前はあまり幸運の女神とは縁がなさそうだからな、貸しておいてやる」
「もぉ……そんなのばっか」
 ぶつぶつ文句は言いつつも、どこか嬉しそうにそのペンダントを首にかける。陽光を弾いて輝くそれは、亜紀の瞳に眩しく映った。
「……ありがと。いい事ありそうだわ」
 最後に一言だけ軽口を叩いて、亜紀は去って行った。いや、去って行こうとして、一度だけ振り返り――
「……大丈夫、だよね?」
「大丈夫だ。死にはしない」
 その返答に満足したのか、彼女は二度と振り返らずにその場を歩み去った。彼女の小さな背中を、彰は無言で見送る。
 あのペンダントは、少々いわく付きの品である。
 幼きあの日、彰は能力の制御がまだ完全ではなかった。元々情緒面で不安定な幼少期だ。ちょっとした事が原因で、感情が爆発してしまう。あの日もそうだった。『スパーズ』と差別されるのは、子どもにはあまりにも辛過ぎる事だったに違いない。我を見失った幼い彰は能力を暴走させてしまい――結果的に自らの母親を殺してしまった。
 人間の子どもはそれぞれの親に護られ。その親たちは銃を構え。怒りに我を忘れた彰は、持てる能力の全てを彼らにぶつけるべく、閃光を撃ち放つ。
 その間に割って入った彰の母親は無数の銃弾を体に受け、白い光りに焼かれて死んだ。言うまでもなく、自分の息子を護るため。そして、彼に人殺しをさせないため。皮肉な事だが、その強すぎる想い故に、彼は結果的に人殺しとなってしまったのだ。
 それでも自分を殺そうとする人間たち。スパーズの母親が死んだところで、全く意にも介さない冷酷な人間。醜い人間。その口から吐き出される、彼ら以上に醜く、汚い罵声。乾いた音を響かせて飛び来る銃弾は、母の亡骸を抱えてうずくまる少年に牙を向く。
 その時、母親の懐から一丁のリボルヴァが転がり出た。
 なぜ母親がこんな物騒なものを持っているかなどという疑問は微塵も抱かず――彰は迷うことなくそれを構え、怒りの全てを彼らに叩きつけた。
 あのペンダントは、元々彼の母親がいつもつけていたものだ。母親が死の間際に、彼へと託したのである。『それは、大切な人へあげなさい』という言葉とともに。
 その後、あのペンダントはある少女の手へと渡り――結局今は、亜紀へ貸している。彼がそれを亜紀に貸したのは、ただの気まぐれだった。少なくとも、自分よりは彼女の方が似合うだろう――そんな考えが脳裏を過った。
 が、それもそう長く続けるつもりはない。亜紀の背中が見えなくなったのを確認すると、彼もまた歩き出した。
 右手に握ったダイナマイトの導火線を、その人差し指で器用に一撫でする。着火。光に熱運動を与えるなど、彼にとってはたやすい事だ。
 続いて左手が霞む。抜き放たれたリボルヴァは鋼鉄を五回吐き出し、咆哮を止めた。目標の建物の正面まで、距離にしておよそ百メートル。銃弾は狙い違わず、窓の一つを粉々に粉砕していた。そこへ目掛けて、ダイナマイトを放りこむ。爆弾は割れた窓から建物の中へ入り――
 轟音。強烈な爆風を伴って、炎の舌が荒れ狂う。フロア一つを丸ごと潰しかねないほどに強力なダイナマイトは、防御機構の目を充分に引きつけた。冷静に銃弾を装填する彰の前に、数体の機械兵が現れる。いずれもかなりの重武装で、完全な戦闘用のものだ。
 吹きつける熱風に、彰のコートの裾が翻る。影が不自然な方向へと長く歪み、世界から現実味を奪っていた。
「さて――仕事でもするか」
 火の粉と陽炎が舞い踊る最中、彰はあくまでクールだった。
 そして再び、装飾銃が咆える。白い光芒を引きずって突き進む矢は、正確に機械兵の人工精神集積回路の中枢を撃ち抜いていた。

 オォ…ン……
 ビルの反対側から、遠い爆発音が聞こえた。それほど距離が離れているわけでもないのだろうが、巨大な建造物に阻まれているため、実際よりも遥か遠くに聞こえた。
「始まったわね。それじゃあたしも……」
 裏口のドアをそっと開ける。中に機械兵がいないことはすでに確認済みだ。監視カメラはおそらく復旧されないままになっているはずだから、機械兵以外に恐れるものなど何もない。逆に、発見されれば非常に危ういわけだが――
「とりあえずは問題なし、と」
 足音を殺して通路を行く。ワルサーを両手で構え、油断なく視線を周囲に行き渡らせ、一切の音を立てぬように気を配る。気分はまさにスパイだが、おそらくそんなに大差ないだろう。
 通りの向こうに機械兵が二体。それらは上の階へと通じるエレベーターを護っているようだ。
 ――こんな所にこれだけの数を割けるなんて……よっぽど沢山機械兵を乗っ取ったのね。
 思わず感心してしまうが。いつまでもそうしているわけにもいかない。陽動に引っかからなかった機械兵が多ければ多いほど、亜紀の任務達成は難しくなる。相手は二体――彰に言わせればたった二体だろうが、亜紀にとってはかなりの脅威だ。まともに戦って勝てるなど、微塵も思ってはいない。元々機械兵とはそういうものだ。
 別のルートを探すしかない。できれば階段がいい。待ち伏せされやすく、いざという時の逃げ場が確保できないエレベーターはあまりにも危険だからだ。
 そうと決まれば、いつまでもここにいる理由はない。すぐ行動に移す。
 何度か機械兵と鉢合わせしそうになりながらも、亜紀はなんとか階段を発見した。幸い、見張りの機械兵はいない。
 その時、遠くでまた爆音が響いてきた。彰と機械兵の戦闘だろう。
「大丈夫。あいつは絶対に大丈夫だから、あたしは目の前の事に集中しなくちゃ」
 自分に言い聞かせるようにして、階段を上り始める。だが、どこか不安が付きまとう感覚がある。それは彼女の傷だ。
 彼女の父親もやはり『大丈夫だ』と言って、彼女を残し戦場へ赴いた。あの時自分の頭を撫でた父親の手の温もりは、今なお忘れてはいない。あれが、彼女が最後に感じた父親の温もりだった。結局彼は亜紀との約束を守れず、物言わぬ死体と化して彼女の前に現れたのだ。
 彰との別れ際の一言。あの瞬間、彰が自分の父親に重なって見えた。自信たっぷりに微笑みながら紡がれた『大丈夫だ』の一言は、彼女の不安を煽るだけの結果に終わっていた。
 ――何考えてるのよ、亜紀!今は目の前の事に集中しなさい!
 心の中で自分を叱咤する。勇気と呼ぶには程遠いだろうが、少しでも前向きな考えを持って行動を再開する。一段一段、踏みしめるようにして階段を上り。各フロアーごとに警戒を怠らない。
 このビルは建物の構造上、階段を一気に駆け上がるという事ができないようになっていた。フロアーごとに階段のある場所が入れ替わるのだ。ただ上の階の位置と入れ替わるだけだから迷う事はないが、それでもこの構造は、侵入者側にとってはかなり辛い。あるいは元々、その効果を狙ってこういう構造に設計されたのか。とにかく亜紀は、駆け出したい衝動を押さえながら、一歩一歩確実に踏み出して行った。
 ――その事ばかりに気を取られていたせいか、彼女は自分の腰のポーチに押しこんである水晶球の、薄い発光現象と微振動に気付かなかった。
 目標のフロアまで、あと22階。

 亜紀が二階へ辿り着いたその頃、彰はまだ建物の中にすら入っていなかった。外壁付近で依然として激しい戦闘を繰り広げている。
 ――ここでこいつ等をどれだけ引きつけられるか……それにかかってるからな。
「もっと来いよ、俺はまだいける」
 わざと狙いを上の方へ向けて発砲。壁が砕け、瓦礫が機械兵に降り注ぐ。
 挑発が機械兵に通じるかはわからない――というより、挑発という概念があるのかすら不明だが、二体の機械兵が彰に襲いかかった。TypeVと呼ばれる型で、現在最も普及しているタイプである。スペックや反応速度では最新型のTypeWには及ばないが、その汎用性と信頼性の高さから、今なお一線で動きつづけている。
 一体目の射軸から素早く身を引き、一発。避けるまでもないと判断した機械兵はそれをまともに食らった。それが普通の弾ならば機械兵は充分に耐えられただろうが、彰が放ったのは能力を込めた弾丸だ。対象の装甲強度などもはや関係ない。
 二体目は仲間の撃破に混乱していたところを攻撃された。機械兵とはあくまで機械であり、プログラムされていない事態に対する処理方法など持ち合わせているはずがない。機械兵が認識できる事はあくまで現実的な事象に対してだけである。非現実的なスパーズの能力を見抜く事は不可能だ。
 その調子で、この場にいた機械兵は全て破壊した。
 少し待って新手の敵が現れないことを確認すると、彰は崩れた外壁から建物の中に足を踏み入れる。入ってすぐのところに機械兵が二体、待ち伏せていた。一体を抜き撃ちで撃ち倒し、もう一体には白い輝きを直接叩きこむ。二体とものけぞって吹き飛び、壁に激突してやっと停止した。
 刹那、正面の壁が崩れ去り、その向こうから数体の機械兵が現れる。みな一様に構えた銃器を、彰の方へ向けていた。
「――!?阻め!」
 彰の声のほうが一瞬早かった。
 轟音。警告なしの不意討ち。次の瞬間には騒音だけが満ちる。けたたましい無数の銃声にかき消されそうになりながらも、その声ははっきりと聞きとれた。
「うるさいんだよ……注げ!」
 光の壁となって彰を守っていた白光は、無数の白い銃弾と化して、さながら豪雨のごとく機械兵の群れに降り注ぐ。十数体いた機械兵は残らず撃ち抜かれ、全て機能を停止した。
 彰の能力はあくまでこの白い光であって、銃弾にこめるだけのものではない。場合によってはこのように、光そのものを武器とする事も可能だ。だが、こういった能力だけによる攻撃は拡散消滅しやすく、精神的な疲労が大きいため、普段はあまり使わない。
「楽じゃないな……」
 軽く呟きながら、右側の通路へ駆け出す。なるべく広い場所に、できるだけたくさんの機械兵をひきつけなくてはならない。無論、隠れる事はできない。自分は囮であり、できる限り目立たなくてはならないのだ。
 それから幾度となく戦った。次から次へと現れる機械兵を、あるときは銃弾で撃ちぬき、あるときは光を纏った拳で叩き伏せ、大多数で現れれば光の豪雨を降らせる。当然逃げる事もあった。彼は囮であり、必ずしも敵を通す必要はない。しかしそれでも彼の通ったあとには、スクラップと化した機械兵の残骸が折り重なっていた。
 移動に階段は使わない。亜紀が使っているだろう階段付近で、あえて騒ぎを起こす必要はない。エレベーターなど論外だ。彼はこの間の行政庁の時とはちょうど逆の行動を取った。天井を破壊し、そこから上の階へ移動する。脳裏を『今回の任務は研究所の奪還』という自分の言葉が掠めるが、契約内容に『無事』の二文字がなかった事を思い出し、気にせず作業を続行する。
 ――もし仮に責めたてられても、『機械兵の仕業』と言えばすむ事だな……
「しかし、亜紀を追い越さないようにしなくちゃならないというのがしんどいな。これだけの数が相手だと、結構疲れる」
 再び現れたTypeVを撃破し、次の敵へと狙いを定め――
「――!?」
 驚愕する。銃弾が避けられた。今までの機械兵は、ただの銃弾に自分の装甲を貫けるはずがないと知っていたため、回避運動すら取らなかった。だがその機械兵は、見た目にはただの銃弾である彰の放った357マグナムを、あえて避けたのだ。元々機械兵の運動能力を持ってすれば、リボルヴァの弾丸を避ける事など造作もない。
 ――TypeW?いや、あの型は人口精神集積回路をTypeVと共有しているはずだ。なら、人口精神集積回路を改造したカスタムタイプか?
 素早く物陰へ身を隠すと、シリンダーホールへ銃弾を装填する。こうなっては迂闊に手を出すわけにはいかない。じっくりと待って、タイミングを窺い――
「――?」
 ふと違和感を感じたのは偶然だった。あれだけ響いていた銃弾が止んでいる。代わって聞こえたのは、腹の底に響くかのような発射音だった。
 ――マズいッ!
 慌ててその柱から身を離し、床に飛び込むようにして伏せる。続いて、建物全体を揺るがさんばかりの轟音。荒れ狂う炎の舌は、伏せた彰の頭上を荒れ狂う。
 バズーカだ。それも焼夷弾を使用している。彰の光は物体の侵入を防ぐが、熱までは防げない。敵は彰の銃弾に能力が込められている事を見破り、光が熱を阻めない事まで見抜いたのか。
「…………違う」
 我知らずの内に自分の考えを否定する。プログラムされた通りにしか動けぬ機械兵に、相手の能力の正体を見破る機能など付いていない。たとえ人工精神集積回路を拡張し、高度な学習能力を持たせたとしても、所詮機械兵は現実的な現象に対してのみ反応し、あくまでプログラムに基づいて動く人形だ。
 素早く立ち上がって走り出す。逃げるのだ。囮がどうのといっている場合ではない。先制攻撃で倒さねば、自分の身が危うい。
 ――そう、相手は間違いなく、彰の能力の正体をあらかじめ知っている。
 角を曲がった先に、例のカスタムタイプが待ち構えていた。マシンガンを撃ち鳴らしながら、しかし決して物陰から身をさらすような真似をしない。
 ふと、ある考えが浮かんだ。相手は彰の力のことを知っていた。それはすなわち、敵が彰であることを知っていたのと同義だ。しかし、情報を仕入れるにしては時間がなさ過ぎる。考えられる答えはただ一つ――これは、罠だ。
「もしそうなら……」
 機械兵の攻撃に対して彰が取った行動は、実に原始的で単純だった。力でねじ伏せる。ただそれだけ。虚空へ放たれた白い光は不意に消え失せ、六本の光の槍となって再び現れる。それらは全て、機械兵への直撃コースを確保していた。彰の合図で槍は機械兵に牙を向く。六本の光に串刺しにされた機械兵は何度か痙攣した後機能を停止し、完全に動かなくなった。
 もう一度彰が指を鳴らす。棘のごとく機械兵から生えていた槍は弾け飛び、駄目押しとばかりに機械の体を粉々に吹き飛ばした。
「こいつはヤバいな……」
 フィルタに覆われた瞳の奥で、彰の意思の光はあくまで冷たく、冷酷に輝いていた。言葉とは裏腹に、愉しさの輝きに彩られていた。

「これはまずいわね……」
 通路の奥へと視線を注いだまま、声に出さずに呟く。機械兵のセンサーは感度がいい。声に出して独り言など言おうものなら、どんなに小さな声だろうと、十メートル離れた場所からでも捕捉されてしまう。
 彼女が今いるのは24階だ。つまり、目標であるセキュリティ制御室のある階。彼女がさっきから見つめているのは、セキュリティ制御室のある通路だ。
 だが、さすがに敵もバカではない。彰の暴れっぷりは相当なもの――おかげで一度も機械兵と遭遇しなかった――なのだが、ここの前には常に二体の機械兵が控えていた。コントロールが奪われれば、当然機械兵は停止する。おそらく部屋の中にも、ニ体程度は配備されているだろう。
 ただ解せないのは――ここまで一人たりとも、人間に出くわさなかったという事だ。
 彼女の手元にある武器は、愛用のワルサーとスタン・ブレードが五本。スタン・ブレードは文字通り、スタンガンを棒状に長くした武器だ。もっとも、非致死性のスタンガンと違い、瞬間的に流せる最大電圧は百万ボルトを超える。人なら一撃で死亡、機械兵ですら行動不能に陥る程の電撃だ。欠点を上げるなら、出力を最大にした場合はすぐにバッテリーが切れてしまうことと、接近戦用の武器である事。後者は専用のカタパルトを使って飛び道具にすることでカバーできるが、バッテリーだけはどうしようもない。
 もう一度配置を確認する。セキュリティ制御室までの距離はおよそ二十メートル。大した武器も持たない亜紀にとっては、絶望的な距離だ。
 とすると、残された手段は上から攻めるか、下から攻めるか。あるいは――
 ――外から行く、か……
 それしかない。彰のように能力が使えるならば、上下から攻めることも可能――むしろその場合は正面突破した方が早いだろう――だが、あいにく亜紀にそんな能力はない。ならば、外壁を伝って攻める以外に方法はなかった。
 一旦この場を離れ、目標からある程度離れた窓から外を見る。いける。階の境界ごとに五十センチほどの張り出しが出ている。そこをうまく伝って行けばなんとかなるだろう。
 一度だけ周囲に敵がいないことを確認してから、窓を慎重に開ける。全部開いたところで身を乗り出し、グローブの手の甲から引っ張り出したワイヤーの先端にあるフックを、窓辺りに引っ掛けて固定する。ワイヤーの強度を確認した後、片足ずつ張り出しに降ろす。何事もなく無事に足を着いた。ワイヤーに少し体重を預けたまま窓を閉め、フックを外す。
 ここまでは順調。だが、問題は次だ。支えになるようなものは全くないこの状況で、外壁添いに二十メートルは移動しなくてはならない。落ちれば命はないだろう。ワイヤーを使っている暇はない。フックなど引っ掛ける場所もなく、放り投げるたびにバランスを崩してしまう。結局のところ、自力で行くしかないのだ。
 あえて下は見ないようにしながら、壁に張り付くようにして少しずつ移動する。二十メートル。決して長くはない。心の中で何度も念じながら、一歩一歩慎重に踏み出す。
「少しずつ……少しずつ……」
 踏み出すリズムに遭わせて呟きながら、少しずつ移動する。時たま響く爆音に驚くが、決して平常心を崩してはならない。もし崩してしまえば、さっき彼女が蹴った小石と同じ末路をたどる事になる。一際大きな爆発音が起きたときは少々驚いた――どころか、建物そのものが細かく震えていた――が、バランスを崩すほどのものではなかった。
 それでも努力の甲斐あってか、無事に目標の部屋の前まで辿り着いた。好都合な事に窓が設置されている。もし侵入口がなければどうしようかと思っていたが、それは杞憂に終わった。両手のグローブからワイヤーを引き抜き、フックを引っ掛ける。その強度を確認して、自分の体を懸垂の要領で持ち上げた。一瞬だけ頭を出し、部屋の中を確認する。
「…………何もいない……?」
 自分の見た光景がいまいち信じられず、もう一度だけ中を覗く。やはり何もいない。機械兵の一体すら配備されていなかった。
 これは好都合と考えるべきか、罠が仕掛けてあると考えるべきか。当然彼女の思考は後者へと傾いたが、こんな所で悩んでいても仕方ない。今の亜紀には、前進以外の選択肢は与えられていなかった。
 右手だけで体重を支えながら、左手で器用に窓を開ける。今すぐサーカスにでも転向できそうな軽業で窓枠に着地すると、部屋の中へ飛びこんですかさず物陰に身を隠す。
 十秒。二十秒。三十秒たった時点で、彼女は全身の緊張を解く。まだリラックスしていいわけではないが、警戒態勢はある程度解除しても問題ないだろう。
 物音は立てないまま、部屋の中を軽く物色してみる。いたって普通の構造をしたセキュリティシステムだった。全ての情報を、中央に設置されたコンピュータで処理しているようだ。つまり、このコンピュータを停止させてやればいいわけだ。
 彼女は別に機械関係に強いわけではないが、最低限要求される程度のスキルは持っている。簡単なプログラミングやハッキング程度の事ならお手のものだ。
 ――よしッ……!
 軽く気合を入れると、コンピュータを乗っ取るべく、キーボードに軽く触れ――
 ――ばぢッ。
「―――!?」
 指先から伝わってきた電撃に、体がぐらついた。罠だ。キーボードに触れると電流が流れるように仕組まれていた。グローブの金属部品を伝わって流れてきたらしい。
 不覚だった。彼女はその罠に、まんまと引っかかってしまったわけだ。
 次第に混濁し、ブラックアウトして行く意識の中、彼女は何者かの気配を背後に感じていた。意識を失う前に、せめてそいつの顔を見てやろうと最後の抵抗を試みて――
 見る間もなく、彼女の意識は闇に沈んだ。




>> 第四章 幼き頃の私の姿を……




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