-twilight memory-
第五章 遠きあの日の愛しき人を……
作:暇人(八坂 響)



「………………」
 宿の一室で、亜紀は彰の傍らにずっと座っていた。横浜と呼ばれる街の、ある宿である。
 あの後、彼の身体をなんとかバイクに乗せて帰ってきた亜紀は、急いで病院へと駆けこんだ。モグリ同然の医者だったが、診せないよりかはマシだった。傷が見た目ほど深くなかった事も幸いし大事に至らずに済んだが、血液をあまりにも大量に失いすぎている。輸血はしたが、数日は目が醒めないだろうとの事だ。一通りの処置が済んでから、今日で三日目になる。
 彼女はこの三日間、ほとんど彰につきっきりだった。時々食料を買いに行ったりする以外には、何をするでもなく、彼を寝かしてあるベッドの横に椅子をすえて、ただ腰掛けていた。ここの宿を取ったのも彼女だ。
 仕事はもう終わっている。全ては柴場たちの仕組んだ茶番劇だったという事実の露呈によって。仕事が終われば彼女と彰は他人同士。ここまでする義理などあるはずもない。
 しかし彼女は、ここで彰を見捨てられる人間ではなかった。偽善かもしれない。あるいは、ただの馴れ合いかもしれない。それでも彼女は、彰を見捨てたくなかった。自分がそうしたいからする。彼女にとってはそれだけの事だ。見返りを望むわけでもなんでもない。
 理由は他にもあった。後味が悪すぎる。結局のところ何も解決していないのだ。どころか、彼女にとっては疑問が増えた。三日間考えても答えは出ない。彼女の中では、この仕事はまだ終わっていない。
「……でも、どうしよう」
 小さく呟く。今の自分には知らない情報が多すぎる。奪われたコア。彰と紫乃の因縁。『あの女』と呼ばれた人物。その人物が鞘であるという事。そして、彰が不殺を貫く理由。亜紀の直感は、それら全てが複雑に絡まりあっていると告げている。
 だが、彼女が真実を知る術はそう多くない。彰に訊くか、紫乃に訊くか。そのどちらも、現状では不可能だった。
「仕方ない……やるしか」
 そう言って彼女は席を立ち、彰の枕もとへと歩み寄ってベッドの端に小さく腰掛ける。目を瞑って眠っている彰は、サングラスを取られてその素顔をさらしていた。
 彼女はその細い指を彰の額にあてがう。
 指先に全ての意識を集中。見えない能力が奔流となり、彰の中へと流れこんで――
「―――ッ!」
 刹那、膨大なヴィジョンが亜紀の中へとなだれ込んできた。めくるめく記憶の洪水。亜紀の意識は、その中心へと呑み込まれて行った――

「――真琴っ!?」
 聞こえてきた銃声に、思わず叫んでいた彰。銃声は確かに、真琴の家の方から聞こえてきた。だが、それだけで真琴の身に何かが起こったと決めつけるのは――
「くそっ!」
 考えるのを中断し、遅くなり始めていたペースを再び上げ、全力で走り出す。
 ――怖かった。ただそれだけ。他に理由など、あるはずもない。
 真琴の家が見えてきた。ゆっくり、ゆっくりと、こちらの方へ近づいてくる。その妙に遅い速度が、ひたすらもどかしかった。
 目指す建物まで、あと百メートルぐらい。そこまで来た時、人が現れた。真琴の家の玄関先。ふらふらと、足元がおぼつかない様子で現れたのは――
「――真琴っ!」
 少女の名を叫び、スパートをかける。ドアから出てきた少女の顔は妙に色が青く、血の気があまりない。
 ――だから、叫んだ。
 こちらへと駆けて来る彰に気付いたのか、ゆっくりと首をめぐらし、少年の姿を求める真琴。その瞳には、生気がまるでなかった。
「――あき……」
 少女が何か言おうとして、口を開いた。が、その瞬間――

 ――轟音――

 ――一瞬、彰には、状況が理解できなかった。勢いよく踏み出した足が――全身が凍りついた。見えない呪縛にとらわれたかのように。頭の中が真っ白になる。しかし彰の網膜には、少女が血を噴いてのけぞる姿がはっきりと映し出されている。
 真琴が何か言おうとして口を開きかけた瞬間、突如轟音とともに、一発の銃弾が真琴の身体を貫いたのだ。
 ――これはきっと夢だ。悪い夢。そうなんだろう?きっともうすぐ真琴が起こしにやって来る。いつものように乱暴に布団を剥ぎ取って『彰、起きなさい!』って怒鳴るんだよ。きっとそうだ。そうしたら、真琴にも話してやろうか?バカみたいな夢を見たってさ――
 必至に自分の中で誰かが弁解している。言い聞かせるようなそれは、どこか虚しさと酷薄さを持っていた。真っ白に染まった頭の中に、声は届かない。響かない。
 まるで映画のワンシーンのように。
 あたかもスローモーションでもかかっているかのように。
 だが、これはあくまで現実だった。現実味を失った、残酷な現実。
 ゆっくりと――ひどくゆっくりと、真琴の肢体が、地面に向かって倒れて行く。
 ――とさ……
 軽い音を立てて、少女が倒れ伏す。
 そこでやっと、彰は何が起こったのか理解した。
 理解し――それと同時に、肩に走った激痛で我に帰った。
「――っくぁ!?」
 真琴の家の玄関先に、一つの人影。拳銃を構えている事を除けばなんの特徴もない二十から三十の、ごく普通の男。
 見ればわかる。真琴と自分を撃ったのは、間違いなくその男だ。
「キサマアァァァァッ!」
 吠えると同時に、彰が地を蹴る。二人の間に横たわる距離はおよそ五メートル。飛び道具を持った男には有利な距離であり――持たない彰には、絶望的な距離だった。
 瞬くマズル・フラッシュ。放たれた鋼鉄の矢は、一直線に彰へと迫り――
 ――突如として虚空に生まれた白い光に弾き散らされ、消し飛んでしまった。
「うぉぉあぁぁぁぁぁっ!」
 一足飛びに突進した彰が拳を振りかぶる。閃光を宿したその拳は、あらゆるものをも粉砕する破壊力を秘めている。
 だが、軽い音と共に、彰の拳は受け止められていた。白い光を撒き散らしているその拳を、男は片手で受け止めている。もう片方の手には、効果を発揮しなかったオートマティックはすでになく――かわりに、一振りの剣があった。
「―――!?」
「スパーズか。……雑魚だな」
 その男は呟くと、剣の柄を彰の鳩尾に叩きこむ。無造作ともいえる動きだが、その動きは滑らかで淀みがなく、冷静さを欠いていた彰はそれをかわせなかった。
「ぐっ……は……!」
 あまりの激痛に、思わずその場にうずくまりそうになる。だが、このまま負けるわけにはいかない。真琴が危ないのだ。
 折れかけた膝に活を入れ、全感覚を最大限に活性化させる。――感じた。男の気配は、彰のやや後ろにあった。距離的には調度、大刀の間合いのぎりぎり外といった具合だ。
 振り返りながら、右手を懐に突っ込む。冷たい鋼の感触。母親の数少ない遺品である、愛用の黒い装飾銃を引き抜く。抜き撃ちには自信があった。剣が振り下ろされるよりも早く、相手に銃弾を撃ちこめる。無意識のうちに、薬室に装填された銃弾へ能力を送り込む。
 だがそこで、違和感を感じた。気配は一つではなく、二つあった。
 振り返り、銃口を向け――目の前の光景に愕然とした。
「…………真琴?」
 両手を広げ、彰と男の間に割って入った真琴。彰の盾となるための捨て身の行為。彼女は幼馴染の少年を助けるために、傷を負った体に鞭打って男の前に立ちふさがる。
 刹那の躊躇は彰の判断を狂わせ、思考を奪われた彼の指先は、悲劇への引き金を引いてしまった。
 ――黒の刃が彼女を袈裟に薙ぐのと、マグナム弾が少女の体を吹き飛ばすのとは、ほぼ同時だった――

「真琴……真琴……ッ!」
 小さく囁くように。あるいは呪を唱えるかのように。弱々しくねじれたかのような声は、まだかろうじて少女へと届いていた。彰の手を軽く握り返す真琴。その息は弱く、ともすれば消えてしまいそうな儚さがあった。
 彼女は明らかに致命傷を負っていた。
 背中と太もも、そして左腕に小さな銃創。痛みは並大抵のものではないだろうが、これはこの際問題ではない。
 彼女を死へと導く元凶となりうる二つの傷。一つは、彼女の左肩から袈裟懸けに走る巨大な裂傷。刃は完全に内部へと到達し、肺に大きな傷を付けている。真琴の息が弱々しいのは、おそらくこのせいだろう。心臓を外れている事がせめてもの救いではあるが、大きな動脈にも傷がついている。
 そして駄目押しの、右下腹部の銃創――いや、銃創と呼ぶのもおぞましい。脇腹の部分がごっそりと抉れていた。ただでさえ化け物じみた破壊力を誇る357マグナム弾を至近距離で撃ち込まれたのだ。ショック死しなかったのが不思議なほどである。
 だが、彼女はもう長くはもたない。脇腹や裂傷からは耐えず出血が続き、上下を繰り返す胸の動きも、次第に弱まりつつある。
 傷の状態からして、おそらく中で何度か撃たれたのだろう。それでも何とか脱出して――そこで彰をかばい、斬られ、また撃たれた。
 気が付いた時には、そこにはすでに男の姿はなかった。忽然と、まるで最初からいなかったかのように。
「真琴……死ぬな、真琴!」
「あは、は。ごめん……だ、ダメみたい……」
 言葉を吐き出し、小さくせきこむ。言葉に続いて吐き出されたのは、赤い小さな命の断片だった。
「なんでだよ……お前までいなくなるのかよ!?」
 少女の小さな体を抱きしめた彰の頬を、光るものが伝って落ちる。涙。悲しみが産み落とした涙。後悔の念が溢れた故に生まれた――涙。
「ごめん、ね……?彰」
 だが、少女の唇から紡がれたのは希望の一言ではなく、終わりを告げる絶望の詩だった。
「もう……しゃべるな!傷口が……」
「いいの。もう……いいの」
 焼け石に水なのを承知で応急処置をしようと動き始めた彰を、真琴はその一言で止めた。手探りで彼の右手をそっと掴み、何かを握り渡す。
 手を開いてみる。彼の掌に納まっていたのは、銀細工のペンダントだった。彰の母親の形見。真琴にとって、二番目に大切なもの。彰の熱い滴が、その上に落ちる。
「……お願い……これで、最後の……あたしのわがまま」
 もう一度彰の手を――本当に弱々しく握り返す。力が入らず指先は震え、両の瞳の焦点はすでに定まっていない。
 おそらくはこれが最後の言葉。
「……連れて行って欲しいの……
 ――彰と、あたし……二人で創る……あの――」
 声が震えている。いや、途切れ途切れになっているせいで、そう聞こえるのだろう。
 ――真琴の命が、終わりかけている。
 彰は必死に、真琴を抱きしめた。こうしないと、真琴が今すぐ消え去ってしまうかのように。弱々しく打つ小さな鼓動。彼の頬をくすぐる彼女の吐息。微かに匂うラベンダーの香り。真琴の香り――それら全てが、どうしようもなく愛しかった。
 そんな彰を、愛しげに弱々しく抱きしめ返しながら。微笑を浮かべながら。そして、その瞳に涙を浮かべながら――
「……あの―――」
「………………」
 少女の身体が、徐々に温度を失って行く。彰はただその様を、なす術もなく見守るだけだった。
「何でだよ……何か言えよ……」
「――――――」
「微笑ってるじゃねぇか……どうせ寝たふりだろ?わかってるんだよ……」
「――――――」
 真琴はもはや何も語らない。ただ、涙を浮かべた瞳を伏せ――どこか微笑んでいた。安らかな顔。例え彼女は死んでいるといっても、一体何人の人間がそれを信じるだろうか。それほどに安らかな――寝顔だった。
 目を驚いたかのように見開き、彰は硬直していた。自分を抱きしめていた真琴の腕は、糸の切れた操り人形のように、だらりと垂れ下がっている。そこに生命の力強さは、もう感じられなかった。
「分かってるんだよ……分かって……!」
 嗚咽に呑まれ、言葉が途切れる。
 ただ一緒にいたかった。いつものようにくだらない事でケンカして、仲直りして。二人でバカやる時もあれば、どっちかがそれをいさめたり。つまらない学校にも行って、居眠りする彰を真琴がたたき起こして、結局先生に二人とも怒られて。やがては学校も卒業して、恋もして、大人になっていく。そんな日常が欲しかっただけなのに、どうして自分にはその『当たり前な日常』が手に入らないのか。
「わかってるんだよ!俺はまた、守れなかったんだ……!」
 少女の亡骸をきつく抱きしめ、叫ぶ。彼女はこの少女を、自分の母親と同じ目に遭わせてしまった。これで二度目。過ちは繰り返された。
「なにがなんでも守って見せるから。たとえ世界中敵に回しても、絶対守って見せるから……!」
 ――だからもう一度、瞳を開けてくれ――
 そう続くはずだった言葉は、再び嗚咽に飲み込まれて消えた。あふれ出る激情。だがその激流のような感情の嵐も、すぐになりを潜める。奇妙な感覚が彰の心に広がって行く。この感覚の正体を、彰は知っていた。真琴と出会う前までは、よく知っていたものだ。
 少女の最期の言葉は少年の中に悲しみを残し――
 そして、少女のまだ温かみを残している唇からは、もう何も――どんな言葉も、紡がれる事はない。
「………………」
 彰は動かない。もはや言葉も出ない。微動だにせず、じっと何かを見つめていた。
 ――ふと、涙に濡れた彰の頬に冷たいものが触れる。触れた次の瞬間には消えてなくなってしまう、はかない存在。彰の肌に微かな痕跡を残して散って行く。
 それは花びらのような形をした、白く冷たいものだった。
 ――桜雪――
 ゆっくりと、虚ろな瞳をめぐらせ、空を見上げた。
 黄昏時の灰色の空から降り来るそれを見つめていると、まるで天に昇って行くかのように錯覚してしまう。
「……真琴……」
 たった一言だけ、呟いた。
 だがそれも、桜雪の中へと消える。あるいは言葉たちも、桜雪とともに散って行くのかもしれない。
 ――真琴の魂は桜雪に導かれて、天へと昇って行くのだろうか――
「……真琴」
 もう一度、呟く。
 その声には、ある感情がにじみ出ていた。
 悲しみ――ではない。その先にあるもの。
「俺は……俺は……ッ!」
 再び溢れ出す涙に彩られ、彰の左目が蒼く染まっていく。どんな空よりも遠く、どんな海よりも深く――あるいは、悲しみの色なのだろうか。だがそれは、錯覚でもなければ幻でもない。彼の瞳が、蒼く変色している。
 それは悪夢の再来。
 幼き日の記憶を呼び覚ます、禁断の瞳。底知れぬ悲しみを湛えた嘆きの瞳(グリフ・アイ)。
 そして少年の心にあるものは、深遠な悲しみなどではなかった。
 悲しみを越えた先にあるもの――すなわち、絶望。
「――あぁあぁぁぁぁぁあぁぁっ!!」
 ――幾千の後悔と。
 ――数百の不条理と。
 ――十年来の友情と。
 ――二つの恋心と。
 そして――一つの日常を伴って、命は散った。
 真夏の淡雪にも劣らないほどに白い光が、二人を包んで立ち昇って行く。
 少年の悲痛な叫びは桜雪で白く彩られた黄昏の街に木霊して――消えた。

 やがて、事件が明るみに出る。街の自警団によって、事件の解明が急がれた。死者は全部で三人。遺留品などから、死亡したのは神月涼(かんづき りょう)と妹の真琴、そして二人と親しかった宮藤浩二の三名だ。宮藤浩二は事件当時、知り合いである神月家へと出かけていたらしい。身寄りのない二人の世話を何かと焼いていたようだ。彼が事件に巻き込まれたのは、不幸としか言いようがない。
 そして容疑者は、事件の前後に行方不明となっている少年――宮藤彰。被害者である宮藤浩二の息子で、神月姉妹とは幼馴染に当たる。特に、妹の真琴とは仲がよかったとの情報が、自警団の調査によって判明した。
 理由はいたって簡単、『スパーズだから』だ。事件直後、神月家の玄関から、白い光が立ち昇っているのを目撃した人が多数いた。それは、人にあらざる能力。スパーズの証。
 人とは、どこまで愚かなものか。偏見と憎悪、あるいは彼らの持つ共通の価値観――『常識』と呼ばれるそれに則り、彼に『罪』があると決めつけた。
 だが、この事件以降、街中で彰の姿を見たという人は、誰一人としていない。おそらく彼は真琴という少女のつけていた銀のペンダントを手に、この街を去ったのだろう。
 ――唯一、手がかりがあるとすれば――
 海の見える公園。その一角に佇む森を抜けたところに、ちょっとした小高い丘がある。そこに建てられた――二つ目の小さな墓標。
 そこには、一人の少女の名が刻まれていた。
 神月真琴という少女を弔った墓の前には、新しいものや古いもの、いくつも取り混ぜて作られた、様々な種類の花束が手向けられていた。
『――あの懐かしい未来へ――』
 少年の心に刻み付けられたこの言葉を知るものは、誰一人として――いない。

「――――――」
 彰の額に当てていた指をそっと離し、閉じていた瞳を開いて彰の寝顔を見つめる。彼女の瞳には、いつのまにか涙が浮かんでいた。
「苦しかったんだよね……」
 彼女の手はそのまま彰の黒髪へと伸び、そっと撫でつける。母親が子どもを寝かしつけるかのような、優しい手つき。
「苦しくて、悲しくて、やるせなくて、絶望して……でも彰は、真琴との約束だけは破らなかった……彼女の墓前で誓った、不殺だけは……」
 亜紀はヒトとスパーズのハーフだ。常人よりもその六感を含む全知覚が優れているのだが、彼女はある特殊能力を持っていた。劣性遺伝にもかかわらず発現した能力は、第六感の大幅拡張。強い意識ならば、近くにいるだけで自動的に感知してしまうほどだ。それを応用してやれば、他人の記憶を垣間見る事も、逆に強力な影響を与える事も出来る。
 彰の記憶に介入した亜紀は、その全てを知った。真琴を斬った男は、間違いなく紫乃だ。彰が以前言っていた『探している人』とは、おそらく真琴ではなく彼の事だったのではないだろうか。幼馴染であり――相思相愛の仲であった少女の仇。だから彰はあれほど激昂していたのだ。
 残る疑問はコアが奪われた事と、真琴が一体何の鞘だったのか、そしてなぜ鞘だったのかという事だ。
 コアに関しては、一応の見当はついている。コアというからには何かの部品――というよりむしろ、何かの中心となるものだろう。
 紫乃は『力が欲しい』と言った。ならばその何かとは、恐ろしい能力を――最有力候補として、絶対的な破壊力を秘めているに違いない。
 そしてその何かとは、おそらくあの黒い刀の事ではないだろうか。一瞬『核兵器』の三文字が浮かんだが、それはないだろう。しっくりこない。これはただの直感だが、外れている気はしなかった。
 一方、真琴が何の鞘であったのか、なぜ鞘であったのかという事に関しては、何も分からない。先の彰の様子からして、おそらく彼も知らない。彼が反応したのは彼女が鞘であるという事ではなく、彼女が人間ではなかったという事実に対してだ。
 となると、真実を知る残る手段は一つ。紫乃に直接訊く。あるいは柴場も知っている可能性がある。
 だが、彼女は行動する事をためらっていた。これは彰と紫乃の問題であり、彼女が首を突っ込んで話だとは思えない。せめて、彰が目を醒ましてからでもいいんじゃないのか――そう思う。
 しかし一方で、時間がないというのも事実だった。つい先日、東京圏のいくつかの街が、たった一夜にして消失したという情報を入手した。もちろん、食料の買いだしついでに柴場たちの動向を探るため、情報屋から買った物なのだが。ためしに彰のバイクの回収を近くにいた運び屋に依頼したが、二日経ってもその何でも屋は帰ってこない。料金は後払いだ。この事実が、街の消失が真実であると告げている。
 おそらくそれは、紫乃の仕業なのだろうと亜紀は考えていた。今回の事件の経緯を知っていれば、誰もがそう言うだろう。あまりにもタイミングがよすぎるのだ。
 そしてその奇妙な現象は、だんだんと西のほうへ向かっているらしい。海沿いに南下していくと――ここ、横浜に辿り着く。どうやら相手は、二人が横浜にいることを掴んでいるらしい。
 ――遊ばれてる……
 二人は――いや、亜紀は選択を迫られていた。二人の狙いは間違いなく自分と彰だ。コアの入手により完成した何らかの兵器の実験も兼ねて街を潰しながら、二人に二択を迫っているのである。この街を――彰にとって思い出深いこの街を捨てて逃げるか、それとも戦うか。亜紀にしてみれば、前者は街とケガを負った彰を捨てて逃げるか、となる。
「いいじゃない……逃げれば」
 ふと呟く。できるはずもないと、頭では分かっていた。
 できるはずもなかった。街を――彰を見捨てて逃げるなど。かといって、彰を連れて逃げられるだけの機動力はないし、彰はまだ逃亡に耐えられる身体ではない。逃げるならば、彰を見捨てる事になる。
 だが一方で、戦って勝つというのは実質不可能だ。頼みの綱の彰は昏睡状態、しかし彼女一人でどうにかできる手合いではない。もっとも、彰が万全であっても、勝てるかどうかは分からない。相手はあの気まぐれな怪物と、街を一夜にして壊滅させてしまう兵器なのだ。
「――逃げたって誰も責めはしない。悪くなんかない」
 右手をかたく握る。皮膚が白くなるほどに強く。
 逃げるのが当たり前だ。つまらない意地やプライドは捨てる。栄光は求めすぎない。それが今を賢く生き残る秘訣。仮に戦って勝てたとしても、未来がなくなっては意味がない。勝負には負けても、明日は勝ち取れる――これは常識だ。彼女が逃げたところで、誰も責めはしない。勝ちの見えないものに向かって行くのは勇気ではなく、ただの無謀だ。
 それはわかっている。しかし、譲れないものがある。捨てたくないものがある。
「……ホント、バカ。結局何も分かってないんじゃない」
 自嘲気味に小さく笑い、ベッドから立ちあがった。彼女のやろうとしていることは、あまりにもバカげている。彰の中に、自分を見た。同じ傷を見つけた。たったそれだけの理由で、彼女は命をかけようとしている。あまりにも愚かで――そしてあまりにも優しい。
 最後に彼女は一つだけ、小さな魔法をかけた。ともすれば消えてしまいそうなその光は、静かに彰の胸へ降り立ち、消える。
「――あたし、やっぱり行くね。彰はゆっくり休んでて」
 小さく告げると、彼女は部屋から出て行った。ドアが閉まり、足音がだんだんと遠ざかって行く。彰は、目を醒まさなかった。

 CB900を駆り、道を急ぐ。大き目の都市を経由して東京へ辿り着くルート。おそらく彼女は今、紫乃が辿るであろうルートを逆行している。このルートを走っていれば、いつかは紫乃と遭遇するだろうという考えだ。
 遭遇して――どうするのか。普通に戦ってはまず勝てない。かといって、勝ちが全く見こめないわけでもなかった。
 彼女の能力は応用すれば他人の記憶に介入できるし、何らかの影響を与える事が出来る。それは覗き見るだけにはとどまらず、同時に彼女のイメージを植え付ける事も可能だという事。一種の洗脳である。この能力を利用して、相手を混乱に陥らせる。無論、本当の洗脳をかけている暇などない。少しでもいいから、何かのイメージを相手の頭に割りこませ、隙を作らせる。そこに付け込んで倒すという寸法だ。
 だが、彼女の能力は接触型――対象に触れていないと効果がない。至近距離まで接近しなくてはならないというリスクがあるが、それは翻せば倒すチャンスである。いくら気まぐれな怪物であろうと、混乱しているところに至近距離から銃弾を撃ちこまれては、防御も回避もままならないだろう。
 それでも、この勝負は賭けだ。はっきり言ってあまりにも分が悪すぎる賭け。
 その時、遠くで爆音が聞こえた。かなり規模が大きい。一度バイクを止めて周囲を確認してみる。目標はすぐに見つかった。灰色の煙と真っ赤な炎を燃え盛らせている街。考えるまでもなく、紫乃の仕業だ。何キロか離れているのだろうが、バイクを飛ばせば十五分で着く。
 そこに、紫乃はいる。
 幸いにも交通量は少ない。道が大きい事もあり、バイクを思いきり加速させる。メーターは軽く120を切っていた。
 ほどなくして、彼女は街へと着いた。だが、そこはもはや瓦礫の山。強烈な地震にでもあったかのような様相を呈している。とても人が住んでいたとは思えない。
「………………」
 あまりの光景に、思わず絶句していた。何せ、人の声すら聞こえてこない。すでに避難していたのか、あるいは全員殺されたのか。どちらにせよ、この街が再び活気を取り戻すにはかなりの時間を要するだろう。
 ――ドォ…ン……
 再び爆音。当たり前の事だが、さっきよりはるかに近い。音を辿れば紫乃に辿りつけるだろう。彼女はアクセルターンをかけると、再び加速して行った。

 見えない。聞こえない。感じない。
 何もかもがその存在意義すらを失っている。音は空気を振るわせることなくただ頭の中に反響し。光は世界を照らす事なく無為にわだかまり。あらゆる感覚器はなんの感触すら知らせない。自分の存在すら感じられない――あるいはそこに、自分の居場所はないのかもしれない――場所だった。呼吸する事すらためらわれるような瘴気の満ちる場所。一息吸えば肺を蝕み、二息目には心まで蝕む。
 暗い空。
 凍てついた時。
 そこは闇の覆う世界。
 同時に希望の存在しない世界。
 あらゆる希望は絶望の前に無力だ。その壁はあまりにも高すぎる。乗り越えられるとするならば、それはおそらく『死』だけ。
 深く、深く、深く。果てしない奈落の底のような闇の世界は、終わりなく地平線の彼方まで続いている。だが、そこに夜明けというものは存在しない。
 彰は、闇の中にただ座りこんでいた。
 真琴が人間ではなかった。彼女は鞘であったという。おそらくは、あの黒い剣の鞘だという意味だろう。その程度の見当は彼にもついた。
 真琴はその事を自分には教えてはくれなかった。紛れもないその事実を。動かしがたい現実であったそれを。
『処女より出でし神の力、その最期(おわり)に降臨せん』
 彼の持つペンダントに刻まれた言葉だ。なぜ彼の母親が持っていたのかは分からない。それに、真琴へとあのペンダントが渡ったのはあくまで偶然だ。そもそもあのペンダントの出自が不明なのだから、この言葉など信用に値しない。
 しかし、もしこのペンダントに刻まれた言葉を信用するのなら。この『力』があの黒い剣のことを指すのなら、紫乃の言っていた事は真実となる。真琴が息絶えたから、その中で眠っていた能力が――力が発現した。その発現した力の正体があの黒い刀なのではないだろうか。
 そして彰には、それが真実に思えて仕方なかった。
 その事実が、彰の心を蝕んでいた。
 真琴は普通の少女のはずだ。他の同年代の少女と何ら変わりない人間であるはずなのだ。そう思う。思いたい。そうでなくては困るのだ――!
 それほどまでに、あのペンダントの存在は彰に重くのしかかっていた。怒りと悲しみに心を囚われた彼には、そのプレッシャーを跳ね除ける事はできない。故に彼は、絶望の淵へと追いやられている。
 厳然と突き付けられた事実。覆しようのない存在。信じられない心。壊れた想い。ありとあらゆる負の感情が、彼を支配している。
 ふと、白いものが彼に触れた。
 空を見上げてみる。サングラス越しに見えたそれは、暗い空から滲み出でるように現れた。冷たく、ひんやりとした感覚。そしてその間隔は次の瞬間に消え失せてしまう。儚く、夢のような存在。あまりにも唐突な再来だった。フィルタの奥に封印された嘆きの瞳と同じ悲劇の痕。
 桜雪はただしんしんと降り注ぎ、彼の全身を静かに打つ。触れた場所から痺れが走り、消えたはずの感覚が痛みを伝えて悲鳴を上げる。それでも彼は動かない。動けない。
 ――彼の心には、今も桜雪が降りつづけていた。

 破壊に満ちた世界。全てが破壊されていく世界。
 黒の刃が一度疾れば大地に巨大な亀裂が走り、支えを失った建築物は壊される。再び閃けば、それは崩れ行くビルを粉々に粉砕し、土砂とコンクリートの雨を降らせる。三度虚空を切り裂けば、刹那の瞬間に十の命を消し去る。
 紫乃はこの感覚に、言いようのない不快感を抱いていた。面白くない。もともと物言わぬモノを壊す事は好きではない。命あるものをなぶり、その輝きを奪う。彼にとって最高の『暇つぶし』だった。
 だが最近、それも飽きた。人間はいい声で「助けてくれ」だの「殺さないで」だのと叫ぶ。中には「いくらでも金は出す」などと寝ぼけた事を言うモノもいた。そのくだらない断末魔の悲鳴は彼の心の空虚を満たしてくれた。――満たしてくれていた。それも過去の話だ。ただの殺人による快感は、彼になんの悦びも与えてくれない。
 だから彼は、普通ではない殺人を求めていた。つまり普通では死なない相手を。自信たっぷりに彼に挑んでくるもの。腕に覚えのあるもの。瞳に強き意思を宿すもの。それら『強きモノ』が最期に見せる恐怖の表情といったら――たまらないものがあった。やめられない。これは一種の脳内麻薬だ。一度ヤれば再びヤりたくなり、やみつきになる。それを続けているうちにより強いモノを求め、やがてそれは何事にも優先される欲求となる。彼が更なる強者を求めるのは当然だった。
 だから神の左手との邂逅には期待していた。そして期待は裏切られた。なんなのだ、あの腑抜けは。一度――いや、彼が二度見せた怒りの表情には『イケるか?』と思ったのだが、たった一言であの男の全てが崩れた。その音が聞こえるのではないかというほどあっさりと、決定的に。
 あれではダメだ。彼の空虚を満たしてはくれない。
 彼が今やっている破壊は、一種の憂さ晴らしだ。期待を裏切られて、彼は不機嫌だった。
「……よくやるものだ」
 彼の後ろをついて歩く柴場が、小さな声で呟く。その後ろには数人のボディガード達。いずれもスパーズだ。彼らは攻撃の余波で飛んでくる瓦礫などを能力で弾き、柴場を防御している。
 この切れる男は紫乃の心の中を全て見抜いていた。それも不満だといえば不満なのだが――この男がコアを持っている以上、迂闊に手を出すわけには行かない。殺せば済む話ではなかった。今コアには爆薬が仕掛けられていて、その爆弾は柴場の死と共に起爆する。その爆発にコアが耐えられるかどうか分からないうちは、迂闊に手を出せないわけだ。そうやって柴場は紫乃を飼っている。
 ――と、これはあくまで柴場の言い分。それを思いながら、紫乃はほくそえんだ。この程度の演技も見抜けないようでは、この男もそう長くはない。
「………………」
「これほどまでの破壊力とは、なかなか大したものだ。気まぐれな怪物の二つ名は伊達ではないという事か」
「………………」
「しかし、それだけの能力がありながら、なぜもっと有効に使わない?」
「………………」
「……言う必要はない、か」
 紫乃は黙して語らず、柴場の言葉はあくまで無視する。ずっとこの調子だった。柴場が何を話しかけても、紫乃は相づちの一つすら返さない。
「結局お前は、何がしたいのだ?」
「……その言葉、そっくり返す」
 ここに来てやっと、紫乃が反応を見せた。柴場の唇が笑みの形に吊りあがる。
「……知りたいか?」
「言うなら言え。俺をいらつかせるな。死にたいのか?」
 その言葉に、柴場の笑みがより一層深くなる。口調も、自分の呼称すらも変わった彼の素直な物言いに満足したようだ。同時に、紫乃のいらつきも増した。ビルが先ほどより少々派手に吹き飛んだ。
「私はただ、裏の世界を手に入れたいと思っているだけさ」
 おどけたように、柴場。紫乃はそれをとても信じる気にはなれなかった。この男の性格からして、嘘は言っていないだろう。だがそれは翻せば、彼の言葉が真実全てではないという意味だ。裏世界を牛耳り、何か事を起こすに決まっている。
「――関係ないな」
 そう、柴場が何をしようと彼には関係のないことだった。
「関係あるのだよ、これが。君がいなくては話にならない。違うか?」
「………………」
 再び黙る紫乃。柴場は彼の能力を利用して裏世界のトップに成り上がるつもりなのだ。
 今回の『行軍』の目的は神の左手の抹殺。Sクラススイーパーとして近頃名を上げ始めたあの男を倒すこと。これはテストだ。彼の力を試すためのテスト。
 それはつまり、一度斬った相手にとどめを刺しに行くだけなのだ。これほど面白くないことがあろうか。よりにもよってあの腑抜けを、だ。
 しかし最初の契約内容には『関係者の全てを抹殺』とあった。神の左手と、ヤツと一緒にいた女を殺さない事には、依頼は完了したとはいえない。
「……つまらん」
 彼がまた刃を振るう。その先には一人の子どもがいた。小さな子ども。その表情は恐怖に歪んでいる。もはや泣き喚く意外に、その子どもに残された方法はないかのように。
 だがしかし、刃から放たれた衝撃波は何もない空を切り裂くだけの結果に終わった。
 一陣の風が駆ける。その風の正体を紫乃は一瞬で見破っていた。見破ると同時に、今度は連続で刃を閃かせる。間断なく繰り出される真空の衝撃波。だが、風はその全てを紙一重でかわし続ける。
 風の正体はバイクだ。高速で突っ込んできたバイクのライダーが子どもを抱え上げ、類稀なテクニックで紫乃の攻撃をかわしていた。
 そのライダーに興味を覚えたのか、紫乃は攻撃の手を一旦休める。それを見て、ライダーもバイクを止めた。子どもを下ろし、その背中を押す。子どもは泣きじゃくりながらも、どこか遠くへと駆けて行った。
 ライダーは女だった。顔に見覚えがある。あの時の女だ。とある行政府からコアを持ち出していた女。その女は腰から古ぼけた銃を引き抜くと。再び加速して行った。バイクを走らせながら後ろへ向けて銃を撃ち放つ。
 これはおそらくあの女なりの戦術なのだろう、と紫乃は判断した。まともに戦ったのでは、能力を持たない女の方がまず不利だ。しかし、バイクを利用した高速戦闘――例えば時速100キロを越える速度での一撃離脱戦法などを取ればどうだろうか。高速移動に能力を使わねばならない紫乃は不利だ。これで状況は五分。そういう考えなのだろう。
「……面白い。その誘い、あえて乗ってやる」
 不敵に呟くと、彼は懐から水晶球を取り出した。それを迷う事なく刀の柄の窪みにはめこんだ。すっとなじむかのように、水晶球はそこへ身を納める。
「―――!?」
 驚愕の表情を浮かべる柴場。彼は自分の手元にあるコアを見やった。その輝きはどこか怪しく――しかし決定的に何かが欠けていた。
 ――ハメられた……!
 しかし柴場がそれに気付いたのは、あまりにも遅すぎた。
 刹那、黒の刃から闇色の何かが溢れた。そう、刃の黒から滲み出るかのように、その闇は静かに立ち昇っている。柄の中央で輝く水晶は、微かに黒みを帯びていた。
 ――これだ、この力。溢れるかのような力だ。これを求めていた……!
 彼の心は歓喜に満ち溢れていた。暴走しそうになる闇を押さえつけながら、しかしその圧倒的な力に打ち震えている。
 所詮、数百人の人間の血を吸った程度では足りなかったという事か。この刃の真の力を目覚めさせるには、やはりコアが必要だったのだ。
 突如紫乃は柴場達に向けて闇色の炎を放つと、振り向きもせずに空を駆けた。空中飛行。その速さは下手なバイクなどよりよっぽど早い。だがそれ故に風の抵抗が大きく、あまり刃を振るう事ができない。女が狙っていたのはまさにこれなのだろう。刀の使い道は攻撃か防御のどちらかに絞られる。両方同時にはできない。
 しかし、紫乃の心は満たされていた。
 ――そう、これだ。この快感。この緊張感。忘れられるはずもない――
「……………」
 そんな悦びの笑みをたたえて飛び去る紫乃を、柴場はただ黙って見つめていた。冷酷な光を宿していた瞳に、突如として怒りが湧く。とっさに柴場をガードした部下たちは全滅、かろうじて彼だけが生き残った。
「……怪物めが……!」
 彼はその怒りを押し殺した声で呟くと、たった一人で去っていった。あの男――紫乃に一矢報いるために。

 ――どれだけそこでそうしていただろうか。三日ほどになるのか。もはや時間感覚すら失われている。いや、そもそも時間という概念そのものに価値がなかった。少なくともこの空間では。
 彰の周囲では、今だの桜雪が降り続いている。それは数時間で消えてしまう、儚い幻などではない。圧倒的な現実味を伴って押し寄せる、彼の心の絶望そのものだ。
 そう、絶望。隠しようもなくはっきりとした、彼の魂の根底にあるもの。絶望を原動力に生きる人間は、やはり周囲には絶望しか振り撒かない。
 不意に思い出した。それは彼の心を埋めるにはあまりにも力不足で――陳腐な言葉達。心の空虚に虚しく消えただけの、残響。
『なんで宮藤くんは、サングラスをいつでもかけてるのかな?』
 ――決まっている。瞳を隠すため。そして――薄汚い世界を直視しないためだ。
『お前さ、ちょっと愛想よくした方がいいんじゃないのか?』
 ――うるさい。俺の性格は生まれつきだ。お前なんかに言われたくない。
『貴方は心の中に、何を隠して生きているのですか?』
 ――何を隠していようと俺の勝手だ。他人にわかられてたまるか。
『辛い事とかあったんだろうけどさ――しょうがないじゃん、過去の事なんだから』
 ――過去のことだから割り切れだと?笑わせる。過去は消えない。どこまでも付いて回るんだ。生きている限り。
『過去にイヤな事があったんなら、これから未来を創ればいいじゃないか』
 ――それができたら苦労しないね。大罪人の俺に未来なんて、あるはずもない。
『ここで立ち止まれば、彰くんは一生そのままだよ?魂の抜け殻のまま――』
 ――なら、踏み出した先に何がある?どうせ待っているのは死神さ。今と何も変わりゃしない。
『そんな生き方――真琴さんが喜んでくれると思うの?』
 ――ならせめてあいつに、俺が苦しみ悶える様を見せつけて満足してもらうさ。なにせ俺は、あいつを殺した張本人だからな。
 今まで知り合ってきた人達の、無責任な言葉達。あらゆる言葉は絶望の前に無力。絶望は絶対にして完璧の存在。当たり前だ。そこには何もありはしないのだから。ない――つまり無とは、すなわち一切の矛盾を内包しない存在。揺るぐ事もなければ変わることもない、古より遥か未来まで、永遠に変わることがない。唯一にして無二の存在。
 ただ――そう、一つだけ。
『…………大切、なんだよね?ごめんね……』
 ふと少女が漏らした言葉。あの時彰は冷静さを欠いていたが、それでもはっきり覚えている。亜紀は確かにそう言った。
 大切。何が?一体彼女は何を指して『大切』といったのか。今の彰が大切にしているものなど、あるはずもない。
 分からない。分かるはずがない。分かりたくない。自分は全てを捨てた。本当に大切なものを失くしてしまったから、残るもの全てを捨てた。想い出は封印し、小さな日常は街へ置き去りにし、母の形見は流血と硝煙のヴェールに包み、ラベンダーの香りとペンダントは彼の罪の証と化した。
 乾いた心に苦い感触が広がる。何かどうしようもなく切実なものが、絶望の壁にヒビを刻み彼の心へ流れこんでくる。
 だから彼は、このどうしようもなく理解しがたい言葉の答えを、少女に求めた。
「…………教えてくれ、真琴……」
 それは魔法の鍵。言葉をきっかけとし、それは顕れる。
 桜雪に染め上げられた世界に、一際まばゆく白い光が満ちて――彼の視界には、虚空より舞い落ちる一枚の羽根が映っていた。

 高い排気音を響かせてCB900が荒れ果てた街を駆け抜ける。このオフロードを70キロオーバーで走るのは自殺行為に等しいのだが、亜紀はそれを実行している。暴れる車体を巧みなテクニックで御し、街中を縦横無尽に駆け抜ける。
 むしろこの状況では、止まったり後方への牽制射撃を怠る方が命取りになるだろう。紫乃に攻撃の隙を与えるとかなり危ない。さっきは何度か衝撃波をかわして見せたが、そう何度もできる芸当ではない。いつかは当たってしまう。その前に決着をつけなくてはならないのだが、こんな牽制射撃などで倒せるとは思っていない。どちらかがミスを起こさない限り、当分はこのまま膠着状態に陥るだろう。
「この……当たりなさいよ!」
 バックミラーだけで後ろを確認して銃を撃つ。当然その間は片手運転だ。危険極まりない行為だが、やめるわけにはいかない。
 しかし銃弾は当然のように刀で弾かれる。元々当たりは期待していない。
 再び撃とうとして、途惑う。弾切れだ。慌てて空になったマガジンを手首のスナップだけで器用に振り落とし、腰のベルトにあてがう。そこには横向きに立てたマガジンが幾つか並んで固定されていた。これなら片手でも弾倉交換ができる。バイクに乗った状態での戦いを想定して亜紀が考え出した工夫の一つだ。
 その時、紫乃が刃を振りかぶるのが見えた。不可視の衝撃波を撃つつもりだ。銃では間に合わない。亜紀は迷わず、左のグリップに増設されたスイッチを親指で押し込んだ。
 パン、と弾けるような音がして、バイクの後部にぶら下がっていた袋の一つが破裂した。そこから白い粉のようなものが飛び出す。街で買った小麦粉を使った即席の煙幕だ。衝撃波は空気を切り裂いて飛んでくる。当然、煙幕に飛びこめば衝撃波の軌跡ははっきりと見えるはずだ。そうなれば避けるなど造作もない。
 亜紀の期待通り、衝撃波の軌跡が見えた。右にハンドルを切り、それをかわす。
 だが、煙幕の効果はそれだけでは終わらない。
「―――!?」
 後ろの方で紫乃が小さく悲鳴を上げているのが聞こえた。煙幕の中に高速で突っ込んだのだろう。70キロオーバーという速度であれを避けるのは至難の業だ。そして、空中にばら撒かれた小麦粉を防ぐ手段などあるはずもない。目潰しの効果は十分だった。
 畳みかけるかのように銃を連射する。だが、紫乃はその全てを叩き落していた。目は見えなくとも、気配か、あるいは空気の微妙な流れである程度分かるらしい。
「や、やるわね……」
 しかし、亜紀のもう一つの狙いは達成された。紫乃の追撃速度は格段に遅くなっている。これはつまり、亜紀にある程度の余裕ができた事を示す。
 グリップを握りなおし、路地へと折れる。一陣の疾風と化して、亜紀は駆けた。
 ――あたしは負けない……こんな所で死んでたまるものですか!

「………………」
 彰は目の前に展開する光景に言葉を失っていた。桜雪の降りしきる絶望の世界。黄昏の時。その中に座りこむ彰と――そして、その青年の前に立つ一人の少女。
「ば、バカな……なんで」
「六年ぶりなのに、いきなりバカはないでしょ。まさかあたしのこと忘れたなんて言わないわよね?」
 少女は嘆息して、小さく首を傾げる。
 覚えている。忘れない。忘れられるはずもない。その声も。その服も。その顔も。その仕草も。その長い髪も。そこから漂う微かな香りも。その全てを。何から何まで、全てがあの日のままだった。
 忘れているはずがなかった。
「…………真琴……」
「そ。久しぶり」
 言って今度は笑顔を浮かべる。懐かしい笑顔。彰は彼女の晴れやかな笑顔が好きだった。
 しかしそこで会話は途切れる。少女は青年の言葉を待つかのように。青年は少女の真意を計りかねて。
「……なんで?」
 沈黙を破ったのは真琴の方だった。さっきとは打って変わり、悲しげに瞳を伏せている。
「何でこんなところにうずくまってるのよ?」
 単刀直入に切り出してくる。少し違和感を覚えたが、それはすぐに消え失せた。
「見れば分かるだろ。絶望してるんだよ」
 驚きはもう失せていた。それを至極当然の現実と受けとめた上で、冷めた口調で告げる彰。
「分かるわけないわよ。分かりたくもないわ、絶望なんて」
「……そうか」
「そうよ。それと一つ言っておいてあげる。彰のはね、絶望なんかじゃない」
 小さく深呼吸する真琴。その瞳に強い光を宿して、彰を見つめる。
「彰はただいじけてるだけだよ」
「――!」
「絶望とか悲しみとか何とか言って、結局逃げてるだけだよ。イヤなものからは目を背けて受け入れない。何とかしようと歩み寄ってきた人達は文句を言って追い返す。駄々っ子と大差ないじゃない」
「……それが俺を裏切ったヤツのいう事か?」
 皮肉るような一言。彰は自棄になっていた。自分を取り巻く全てが鬱陶しい。腹が立つ。言葉など選んでいない。
 だが、真琴の意思は揺るぎもしなかった。
「裏切った――そうね、あたしはあなたに自分の秘密を話さなかった。でも、それがなんなのよ?当たり前の事じゃない」
「当たり前……だと?ふざけるなよ!」
 彰は怒りもあらわに立ち上がると、真琴へと掴みかかる。襟首を掴まれた真琴は、しかし表情一つ変えなかった。
「俺はお前を信じていた!だから全部打ち明けたんだ!過去も、能力の事も、全部……!それを、お前は――」
「――怖かったのよ」
 静かに紡がれた言葉に、彰の勢いが削がれた。
「怖かったのよ。秘密を打ち明けるのが。今までの彰との関係が壊れちゃうんじゃないか、なくなっちゃうんじゃないか、って。でもあの刀は、あたしが望んでどうこうできるものじゃなかった。だから、秘密にしたの。何も起きなければ守り通せると思えたから」
 実際には彼女はその秘密を彰に打ち明けるつもりだったのだ。その胸に秘めた想いと共に。あの日、真琴が伝えたくて伝えられなかった言葉。
「あたしは彰が好き。――でも彰は、あたしが昔の遺産を中に宿していると知って、それでもあたしを捨てないでいてくれる?」
「そんなの……!」
 当然だと答えようとして、彰は言葉に詰まった。自分自身経験した想いではないか。自らの秘密を打ち明けるというのは怖いものだ。自分はその真実を、誰よりもよくわかっていたのではなかったのか。
「でも、あの男――気まぐれな怪物がその秘密を知っていた。だからあたしは殺された。あたしが死ねば、あの刀は自由になるから。
 彰には悪い事をしたと思ってる。でも――あなたの事が大切だから、知って欲しくなかったの」
 それっきり彼女は顔を伏せてしまった。
 分かっている。全てが彼女の責任ではないという事を。伝えようとして、それでも結局は伝えられなかった。真琴のせいなどではないのだ。
「――ちッ……!」
 吐き捨てるように舌打ちし、気まずそうに視線を真琴から外す。その時、彼女の片手が視界に飛びこんできた。
 白く小さい手。その手は小刻みに震えていた。
 彼を目覚めさせるために、気丈に振舞っていたのだ。いつになく強気だった発言も、頑として引かないという強い意思も、全てはこの小さな恐怖を隠すためのものだっただろうか。死んでなお――愛する者に受け入れられないかもしれないという恐怖を。
 ここ六年間の経験によって培われた自分の目敏さを彼は呪った。
 どちらもなんとも言えず……気まずい沈黙が、二人を包んだ。

 紫乃は予想外の展開にやや途惑っていた。あのライダーは、コアを使いパワーアップした乙女座(ヴァルゴ)を持つ彼から未だに逃げつづけている。
 もちろんこれが本気というわけではないのだが――ここまで愉しめたのは何年ぶりだろうか。悦びが彼の中を満たしている。
 紫乃はあのライダーの女を、狩ろうと思えばいつでも狩れるのだ。あえてそれをしないのは――他でもない、愉しむためだ。
 だが相手は思いのほか頭が良かった。先ほどの煙幕にはしてやられた。なんとかしようと思えば力押しで何とかできるのだが、彼はこの刀――コアと一体化したヴァルゴの能力の上限を知らない。下手をすれば能力の暴走で彼の肉体が崩壊するかもしれない。
 ――だがまあ……少しなら大丈夫だろう。
 刃に黒い闇が収束する。コアが黒々とした閃光を放っていた。その闇を衝撃波に乗せ――放つ。
 虚空を裂く黒い衝撃波はバイクの横を掠め、その数メートル先で爆裂した。巻き起こる砂煙。紫乃はその中を疾風のように駆け抜けた。
 前方には無傷のバイクとライダー。機体を横に振ったおかげで無事だったようだ。もっとも、あの程度で死んでもらっては困る。
「なら……これはどうかわす?」
 ライダーによる銃撃の合間――特に弾倉交換の最中に、紫乃は狙い打つような攻撃を加えて行ったのだが、今回はその方法を変えてみた。闇が刀身に集い、黒い炎と化す。彼はそれを、当たり構わず解き放った。
 雨のように降り注ぐ黒い炎。狙ったものではないので、最初から当たりは期待していない。バイクにはその一つも当たらなかった。
 炎をよけきったと安心したのだろうか、ライダーが銃を後ろ向きにこちらへ向ける。放たれた数発の銃弾を紫乃は全て叩き落す。
 そしてやっとライダーが異変に気付いた。雪崩か、地震か。そうとしか思えないような地響きを立てて、半壊したビルの残骸が道路に降り注いできた。さっきの炎はバイクを狙ったものではない。これを狙っていた。
 いかに驚異的なテクニックを持っていようと、降り注ぐ残骸の全てから身をかわすことはできなかったようだ。バランスを崩したバイクは横転し、地面を数十メートル横滑りする。ライダーはヘルメットを装着していない。よほど運が良くない限りは死んでいるだろう。だが、万一という事はありうる。
 彼はライダーの死亡を確認するため――また生きているのならとどめを刺すため、少女のもとへと加速した。

「……彰……」
 沈黙を破ったのは真琴だった。うつむいたまま言葉を紡ぐ。一方の彰はまるで反応しなかったが――真琴は構わず続けた。
「あたし、ね?最近思うことがあるの」
「………………」
「生きる事ってなんなんだろうな、って」
「………………」
「死んでるヤツがそんな事考えるな、とか思ってるかもしれないけど……むしろ、死んじゃったからだと思う」
「………………」
「彰は……なんだと思う?生きる事って。生きる……意味って」
「辛い事だろ。意味は……ない」
 ひどく乾いた声で、彰はそうとだけ返した。

「くッ……!」
 横転したバイクを捨てて、亜紀は素早く路地の裏へと逃げこんだ。
 さっきのあまりにも周囲を省みない攻撃には驚かされたが、真に驚嘆すべきは亜紀の運動能力と頭の回転の速さ、そして運の強さだろう。
 あの瞬間、ビルの瓦礫が降り注いでくると悟った時、亜紀はスロットルを全開にしてショートダッシュした後、自らバイクを横転させた。いくつか瓦礫やその破片が当たったが、致命傷にはなっていない。もっとも、動けば全身に激痛が走る。
 バイクを自ら横転させたのが良かったのか、単に運がいいだけなのか、これについては擦り傷程度で済んだ。
 だが、本当の地獄はこれからだ。バイクなしであの紫乃と――気まぐれな怪物と渡り合わなくてはならない。勝つためには、宿で立てたあの作戦を実行するしかないのだ。
「くっそぉ……辛すぎるわよ!」
 悪態を吐きつつも牽制射撃だけは忘れずに、彼女は路地裏の奥へと逃げこんだ。

 今度は真琴が沈黙する番だった。じっと彰の言葉の続きを待つ。
 少し躊躇いながら、途切れ途切れに彰は口を開いた。
「……生きていたって、辛いだけだ。大切なものを山ほど失くして……死ぬよりも辛い目にもあって……それでもなんで生きなきゃならないんだよ」
 彼は静かに腰を下ろした。相変わらず真琴のほうを見ない。それは真琴にしても同じだった。二人ともどこか――遠くを見つめていた。
「いっそ死ねたらどれだけ楽な事か――もう数える気もしないほど、何度も自殺を考えたさ。このまま死にたい、ってな」
 そこで自嘲気味に笑う彰。ふと、おかしな矛盾を自分の中に見つけた。
「――今まで何度も死ぬチャンスはあったのに、だ。なんでだろうな……?」
「………………」
「多分俺はこう思ってたんだろうな。『どうせ死ぬなら、せめて真琴に――』」
「やめて」
 怒りでもなければ悲しみでもない。ただ厳然とそこにある感情。小さな滴の形をしたそれは、静かに真琴の瞳から零れ落ちた。
「辛いなんて――当たり前よ。当たり前過ぎるのよ」

 正直、ここまできついとは思ってもいなかった。相手は彼女に接近するどころか、むしろ距離を取った。空中から狙い撃ち。絨毯爆撃といってもいいだろう。
「ひょっとして、あたしの考えがバレてたりするんじゃないでしょうね?」
 その疑問に答えられる者は、遥か頭上の彼方だ。
 とにかく立ち止まっていては危ない。両手で頭をカバーしながら、物陰から物陰へと走り抜ける。それも気休めにすらならない。相手はこの程度の建築物を楽々粉砕できるだけの武器を持っている。状況は相変わらず圧倒的に不利だ。
「―――!?」
 その時、一際大きな爆発が背後で起きた。その爆圧に吹き飛ばされ、少女の身体は今度こそ地に倒れ伏した。

「当たり前なのよ……そんなの」
 真琴の肩は小刻みに震えている。恐れからくるもの、ではない。ありとあらゆる激情がない混ぜになったそれが、彼女の心を突き動かしていた。
「辛いのなんて当たり前よ。障害はあって当然なの。時には『死』っていうどうしようもない溝だって生まれるわ。どうやったって、楽しい事ばっかりじゃ終われないの」
 彰はそれをただ呆然と、見上げていた。彼女の言葉の一つ一つが乾いた心を雨のように打つ。
「だけど――それでも、みんな生きてるの!明日に向かって精一杯あがいてるのよ!」
 胸が、どうしようもなく痛んだ。

 紫乃はただひたすらに愉しんでいた。そう、至上の悦び。彼の心の渇きを潤してくれるのは、哀れな人間の悲鳴と、強い心を持った者の上げる断末魔。
 彼はそうして生きてきた。最初に殺したのは蟻だった。列を為して歩いていたのを、一匹ずつ摘んでは潰し、潰しては棄てて次の一匹を殺していた。あれは、彼がまだ五歳の頃だったろうか。
 それから蝶々、蝉、バッタ……とにかく殺しまくった。そしてあれは彼が十歳の時だったろうか――針金で野良犬を絞め殺しているところを両親に発見され、そのまま二人とも殺した。
 幼い頃から殺伐とした世界で生きてきた彼は、いつしか殺人を愉しむようになっていた。人を殺すのがたまらなく愉しかった。だが、殺して愉しんだ後にやって来るのは、どうしようもない虚無感。他の事では決して癒されない心の乾き。それを潤せるのは、唯一『殺す事』だけだ。
 そしていつしか紫乃は『力』を求めるようになった。より強き者を殺せる『力』。絶対不可侵の『力』。
 その一つの答えがこの黒刀――神に身を捧げし乙女(サクリファイス・ヴァルゴ)だ。乙女座の名を持つその刀は、旧世界最後の大戦――『ラグナレク』最強と謳われた決戦兵器の一つ。力を限界まで引き出せれば、街の一つや二つを一瞬で消し去るなどたやすい事だ。そのポテンシャルは戦術核兵器を軽く凌ぐ。
 その時、爆発の衝撃で少女が吹き飛んだ。思いきり頭を打ったのか、うつ伏せに昏倒したようだ。その肢体の下に、赤い染みが少しずつ広がって行く。
「………………」
 今度こそ死んだ事を確認するため、紫乃は地面に降り立った。懐から取り出した拳銃の弾を、弾切れになるまで少女の身体に撃ち込む。あの衝撃波は、相当の精神力を消費するのだ。打ち過ぎはあまり得策ではない。
 弾丸が食い込むたびに少女の体が小さくはねる。それ意外はピクリとも動かない。その光景を紫乃は冷静に眺めていた。ただ唯一、頭にだけは一発も弾を撃ち込んでいない。これは彼の癖だ。身体に染み付いた無意識の動作。顔面を潰してしまっては、賞金首を換金する際の照合が面倒になる。
 弾切れはすぐにやってきた。何階か虚しくハンマーが空振る音が響く。
 紫乃はそれを横に放り捨て、少女の近くへと歩み寄った。ブーツを血の海に沈め、やがて辿りついた少女の体までやってくると、その手を無言で踏み付けた。無反応。その時、彼女の身体の下からはみ出ている銀色の輝きに気付いたが、紫乃はすぐにそれへの興味を失った。
 次にダミーでない事を確認しようと身体を屈めて――
「――ひっかかったわね」
 笑うかのような声と共に、少女の手が彼の足首を捕まえた。

「結局『生きる事』っていうのは、『死ぬ事』に対するあがきよ」
 真琴は言い切った。その言葉には一切の淀みすらない。
「みんな死ぬのが怖いから生きようとする。生きたいから、必死であがく。生きるっていうのは、そういう事」
「……ならなんで、お前は死んだんだよ!あがいたんだろ!? 精一杯あがき続け――」
「殺して欲しくなかったから!」
 彰の言葉をさえぎり、真琴の想いが吐き出される。
「誰も殺して欲しくなかった。母親殺しっていう辛い過去を持つ彰に、これ以上人を殺して欲しくなかったから――」
「そんな……たった、それだけで……」
 愕然とする彰。その強すぎる想いゆえに、結果的に彼はまた人を――最愛の女性を殺してしまったのだ。
 真琴はそっと、沈黙した彰の前に屈みこむ。青年の両手を取り、互いの顔の前で静かにあわせた。
「ホントはね、こんな事言うのは無責任なのかもしれない。でも、お願い。――生きて」

「ひっかかったわね」
 思わず漏れた声は、笑っているのか喘いでいるのかよくわからない、中途半端なものだった。血かと思われた赤い液体は、絵の具を水に溶かしただけの代物――ダミーだ。
 しかし、いくら防弾スーツを服の下に着ていたとはいえ、着弾の衝撃まで消えるわけではない。今も全身に激痛が走りつづけている。もし頭を狙われていたらその時点でアウト。かなり危険な賭けだったが、彼女はその賭けに勝ったのだ。彰から借りたこのお守り――銀細工のペンダント――のご利益が、少しはあったのかもしれない。
 右手は痛みでいまいち感覚がはっきりとしないが、感覚神経の訴える痛みのお陰でむしろ集中しやすくなった。紫乃が攻撃を仕掛けてくる前に、能力を相手の身体に注ぎ込む。
「―――!?」
 紫乃の顔が驚愕に歪んだ。奔流の如く頭へ直接流れこんでくる意味不明な映像(ヴィジョン)。これは紛れもない、紫乃の過去だ。彼は今、過去を見ている。
 突然の理解不能な事態に紫乃は我を忘れかけた。黒刀を握る手は力なく垂れ下がり、膝が折れる。致命的に大きな隙を、亜紀の前に曝け出していた。
 そしてそのチャンスを逃す亜紀ではなかった。銃を引き抜き、心臓にポイントする。
「これで――終わりよ!」
 立て続けに響く轟音。紫乃の身体を衝撃が突き抜ける。さっきのお返しとばかりに、亜紀は弾が切れるまで銃を撃ち続けた。
 やがて弾が切れるとほぼ同時に、紫乃の体がぐらりと傾き――
「―――!?」
 男の体は、その均衡を取り戻して踏みとどまった。
「……皮肉なものだな」
 紫乃は態勢を立て直すと、地面に転がっていた刀を取り上げる。
「スイーパーや暗殺者の性故か。頭よりもつい心臓を狙ってしまう。頭を狙えば、それで決着だったのにな。お互い――」
 底冷えするような冷たい視線を亜紀に向ける。その瞳に射抜かれ、亜紀の身体は神縛りにあったかのように硬直した。
 紫乃が穴だらけになった上着を破り捨てると、その下から防弾チョッキが現れた。そこら中にへこみが出来ている。紫乃は不用だとばかりにそれすらも脱ぎ捨て、黒い刀――乙女座の名を冠する刀を握り締めた。
「――実に、皮肉な話だ」

「生き、る……?」
 目の前の少女の言葉を、小さく反芻する。
「そう、生きて。生き抜いて」
「生きる……生き抜く……」
 うわごとのように呟き、真琴の顔を見上げた。
 皮肉な話だ。絶望して生きる意思を失くした者に対して『生き抜け』とは。
 そう――死したものの言葉に何か力を与えられるとは。一度は絶望したというのに、それでも生き続けられるという事に喜びを感じるとは。実に、皮肉な話だった。
「………………」
 もう一度、視線を落とす。その瞳には――嘆きの瞳には、静かな『生』への執着が見て取れた。強い意思の力。何よりも強い――生きる意思。
 彼はゆっくりと、そのサングラスを外した。あらわになる蒼い左の瞳。だが、隠す必要などどこにもない。
「…………生きる」
 再び顔を上げた時、その表情のどこにも迷いはなかった。曇りのない瞳。左目に残る悲しみの痕は消える事はないだろう。だが、その瞳に心が呑み込まれる事もない。
 右手でそのサングラスを握りつぶした。細かい破片が虚空に舞う。
 フィルタ越しに見える偽りの真実など――いらない。
「――――――――」
 安堵の表情を見せた真琴は何事か呟き、そして――

 紫乃がゆっくりと、黒い刃を振り上げる。ヴァルゴと呼ばれた刃は陽光を照り返して鈍く輝いている。
 今から弾倉交換したのでは遅すぎる。到底間に合わないのは明白だった。だが、それでもやらなくてはならない。震える手で空になった弾倉を外し、新しいマガジンを取り出して、それを銃にセットして――
 ――死にたくない……!
 その想いだけが、亜紀を突き動かしている。他のどんな想いも、考えも、入りこむ隙間はなかった。
 ただ、生きたい。

 少しずつ現実味を失って行く少女。虚空を舞う白い光に包まれ、その存在感が少しずつ希薄になっていく。
 真琴は何かを歌うように続けている。白光に乗って流れるリズムは、心地よい子守唄のようで――
 そして彼女は、彰の前から姿を消した。

 紫乃の心は最高潮まで昂ぶっていた。そうだ、この瞬間。刃を振り下ろす瞬間、目の前の少女がいかな表情を見せてくれるのか。涙で崩れた表情か。悲しみに満ちた表情か。断末魔にもがき苦しむ表情か。いずれにせよ、おぼつかない動作で弾倉交換などしている、この少女が見せる最期の表情は、彼の空虚を満たしてくれるに違いない。
 その時、少女のペンダントが微かに煌いた。紫乃はそれを陽光の照り返しと判断し、気にすら留めず――
「――この渇きを、癒してくれるか……?」
 ――黒の刃を、振り下ろした。

 さっきまで真琴が立っていた場所を眺める彰。微かな温もりの痕跡。左手で、そっと自分の唇に触れてみる。
 ――笑った。懐かしむような、慈しむような、今までの彰からは到底想像もできそうにない、優しい微笑み。
「さて――行くか」
 彼の心は自由だ。もう何者にも束縛されることはない。ただ時々、ほんの少しだけ後ろを振り返り――微笑(わら)えばいい。
 彰は色違いの双眸を、そっと伏せた。

「――この渇きを、癒してくれるか……?」
 呟くと同時に、紫乃は刃を振り下ろした。黒い刀が風を切り裂いて亜紀へと迫る。それはどうにも覆しようのない現実――
 弾倉交換など間に合うはずもなく――亜紀はただ切に願った。
 ――イヤだ、死にたくない……あたしはまだ――
 刹那、ペンダントが小さく煌いた。亜紀はそれに気付かない。圧倒的な死という存在の前には、全てが無意味だからだ。
 ――それでもあたしは……!

 閉じたままの瞳はそのまま、彰は立ち上がった。あの桜雪はもうやんでいる。
「じゃあな、真琴。縁があったら、あの場所で会おう」
 ――いや、聞こえなくてもわかるよな、お前には……でも。
 銃を引き抜く。銃身に施された獅子の装飾は、どこか力強かった。
「――ありがとう。やっと気付いたよ。俺は――」

『――生きたい』

 一つの想いが少女の心とペンダントを繋ぎ。時も空間も越えて重なり。
 ――奇跡は、起きた。

 死を覚悟した瞬間、亜紀は目をかたく閉ざしていた。だがしかし、次の瞬間には訪れるであろう死は、いつまで経ってもやってこなかった。
 おそるおそる目をあけてみる。二つの人影が陽光を遮っていた。
「―――あ……」
 見覚えのあるシルエット。コートは着ていないようだが、その銃には見覚えがあった。獅子を象った縁取りの施された装飾銃。
「まさか、瞬間移動してきたとでも言うのか……!」
 紫乃の声が心なし震えている気がした。ヴァルゴによって能力を拡張された彼が、接近するものの気配を捉えそこなうはずがない。
 瞬間移動。スパーズの持つ能力の中で最も行使の難しいとされる技。過去に瞬間移動を成功させた者は十人にすら届かないと言われているが、彰はそれを使ったというのか。
「――もう誰も死なせない。ヒトもスパーズも関係ない。一人たりとも、俺の前では殺させない」
 言葉そのものに力があるかのごとく、装飾銃は受け止めた黒い刃を徐々に押し返していく。以前は押し負けていたにもかかわらず。
「俺は死に抗ってやる。絶対に死なない。死にたくない。死ぬわけには行かない」
「――ちッ!」
 状況を不利と見て取ったか、紫乃は鍔じり合いをやめて飛び退る。そこにすかさず彰からの追撃が入った。
 それらを巧みにかわし、紫乃は衝撃波を撃ち放った。彰は――避けない。
「俺は……」
 ゆっくりと、開いている右手を大きく振りかぶる。その手には白い光が集っていた。真夏の陽光よりも、幻の淡雪よりもなお鮮烈な白い光。
 それを衝撃波に叩きつける。次の瞬間、亜紀が覚悟していた轟音も荒れ狂う風もなく、ただ全てを白い光が呑みこんでいた。甲高い金属音のような余韻を残し、白い光はまるで彰の背中に翼の如く広がって――
「――どこまでも、あがき続けてやる」
 澄み渡る蒼穹のように鮮烈な蒼を宿した瞳が、紫乃を射抜いていた。




>> 第六章 我が心を楔とし……




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