-拳狼(仮)-
壱.科子のこと
作:憂怒



 打撃音、打撃音、そして打撃音――荒い呼吸と板の軋む音に混じりながらもさらに打撃の音が続く。ほの暗い中、二つのが、絡み、離れ、互いに互いを制圧せんと、弾きあい、叩きつける。

 片方の影は、太い。肥満体である、というわけでは無い。それなり、というよりは並よりも高い身長を持っている。だが、それを見た大抵の人間の第一印象はやはり「太い」であろう。脚も、太い。胴も、太い。腕も、太い。首廻りも、太い。およそそれを構成する、全てのパーツが、太い。全体として統合してみれば、バランスは取れているはずなのに。だがしかし。やはり、受ける印象は、太いのである。

 片方の影は、にくらべると明らかに小さく、そしてまたか細かった。胴着から伸びる腕や足は、まるで柳の如く。その細い影が相手の攻撃をかわし、打ち返す度、その背後に黒く長い影が羽衣の如くたなびく。下ろせば背中の半ばまで届くであろう、髪だ。胴着とはおよそ不釣合いな華奢な手足に長髪。驚くべき事に、その巨漢の相手は、女性であった。

大きな影が、動く。巨躯に似合わぬ閃光のような左。拳・肘・肩・腰の完全な同調が産み出す、棍棒の如き拳圧。その左を、小枝のような腕が下から上へ打ちまわしに跳ね上がり、払う。払いながら、続けて左前へと上体を沈める。一瞬前まで顔面が存在したに、右の逆突きが捻じ込まれていた。
だがしかし、その場所にもう標的は、無い。低く沈んだ的へと意識を向けた一瞬、巨漢の側頭部へ向けて何かが唸りをあげながら、しなる様に、その身をよじる様に飛来する。
右の拳だ。鉤突き。それも、上体を沈めながら、その体の真上から弧を描くかの様に、相手の死角から。拇指拳を叩きつける。所謂「ロシアンフック」と呼ばれる技術だ。瞬き一つ分の差で、その右の拳と頭との間に左腕が外側へと円弧を描く。
その一瞬の後、巨漢の右大腿へ走る衝撃。上体への鉤突きで意識を散らしてからの、左下段廻しだ。上から下へと螺旋を描きながら、蹴り終わったその時には腿・膝・脛・爪先がほぼ直線となる、運動エネルギーを余さず対象に伝える蹴り方。インパクトの瞬間に腿を内へと回しその分のエネルギーを逃がしても、かなりの衝撃が伝わる。
通常ならば。勝負処と判断し、突っかけるところであろう。だが、女は、退いた。勘、とも言うのだろう。だがこの場合に退かせた理由としては「恐怖」と言う名の方が正しいのかも知れない。背中からうなじにかけてを、節足動物が這い回るかの様な悪寒が走る。
豪、と、何か圧倒的な物体が女の鼻先を通過する。拳か、脚か。肘かもしれない。確認する間も無く。次の一撃が来た。
前蹴り。単純な、あまりにもシンプルな前蹴り。女の体の正中線上に、真っ直ぐに、真ん中に。それがどちらかに寄っていたのならば、どちらかに瞬時にかわすことも出来たであろう。
だが、あまりにもシンプルで、あまりにもど真ん中に、何のフェイントも無く繰り出されたその前蹴りは、どちらにかわすか、という判断を迷わせた。その迷いが、時間を奪い、女からかわす時間を奪った。だから。

女は、受けた。両手を腹の前で交差させ、背中を丸め、後方へと跳ぶ。
衝撃。空白。そして浮遊。また衝撃。肺から酸素が搾り出される。背中が接地したのだ。その勢いに任せたまま、背中と首を支点に後方へ回転、膝立ちになる。
気配。禍々しい気配。とっさに頭を低くする。その上を、風切る音を立て、重量をもった物体が擦過する。
くうきの、こげたにおい。幻臭だろうか。女は視線を上げた。右の、中段廻し蹴り。放ち終えた巨躯の背中を捉える。好機。立ち上がりざま、左の貫手をその無防備な左脇へと放つ。が、回転の勢いをそのままに、振り下ろされた太い左腕がそれを阻む。
阻まれながらも、するりと女は右肩から、回転を終えて正面を向いた相手の内懐に潜り込む。
女の右手が跳ね上がる。甲から指先にかけての部分で、顔を払う。その細い指は、滑りながら、たやすく眼窩へと向かう。事実首をそらし、後方へと回避しなければその指は、眼球を掠めていただろう。
その振り上げられた右腕に、ずるり、と太いものが絡みつく。いつの間にか忽然と出現した腕が、女の細い腕を捕らえていた。手首が内側へと折りたたまれる。内から外へと、捻り上げられる。
一切の迷いも無く。あっさりと関節の可動範囲を超える位置へと、手首が導かれる。手首・肘・肩が同時に悲鳴を上げる。苦痛の余りに跳ねたその身体は、取られた女の右手を軸として空中に素晴らしい速度で、デキの悪い特撮のように、重量を感じさせず、小さな楕円を描いた。
直後に、背と床板とが、雷鳴じみた音を産み出す。一時的に停止したその身体は、右手首に走る痛みの為に再び吊り上げられた鯰の如く、跳ね、その身をくねらせる。
ままならない呼吸を整えるまもなく、後ろ手に押さえ込まれる。右腕の痛みが全身を支配し、抵抗することも許されない。完全に極めが入っている。
腕が更に深く極められていくが、女は音を上げることも出来ない。背を打ち付けられた時のダメージが肺に障害を及ぼし、腕の苦痛も相まって、満足な呼吸すら許されない。口から生じるのは苦しげな雑音だけだ。
「口で言えない時にはどうするんだった?」
降参を促しつつ、腕に少しずつ体重を加えていく。
 畳が一回叩かれた。まだ緩めない。
 二回目、手の平を畳に置こうとしたが、その動きは寸前で止まった。手の平は握りしめられ、歯が噛みしめられ、首は左右に振られる。口の端に泡を覗かせ、涙もこぼしながら、ただ首を振る。
「キミが認めるまで、ボクは解くことができない」
俯せのまま激しく首が振られる。

「そこまで」
 静かに、声がかけられる。
「哲導師、まだ科子殿は屈していないが」
 眉を顰め、声の主に顔を向ける。制止したのは、中肉中背の、男だ。老人、と言った方が良いかも知れない。
「吾堂、科子殿は折れぬよ。たといその腕を折ったところで、そのまま御主に向かうじゃろ。そういう子じゃそれに……武は草木を伐るものではなかろ」
 吾堂と呼ばれた男は、腕を解くとゆっくりと立ち上がり、呼吸を整える。
「肩は大丈夫か?」
 ハキハキと明快な語りかけは、先ほどまで自分が組み敷いていた相手を心使うモノには到底見えない。
「抜けてもいないし伸ばしてもいない――やった貴方が一番解っているでしょう――」
 右肩を押さえつつ、呻く様に応える。
「それが解っているから降参しない、と言うのなら」
 低く、ややしゃがれた声。あるいは、咽喉を潰したことがあるのかもしれない。
「――やはり折っておくべきだったやもしれんな」
 親族全てが死に絶えたかのような渋面で、科子を見下ろしながら言い放つ。
「一回か二回、痛い目に逢っておいた方が良い。そうすれば自ずから身を守るようになるだろう」
「そんな身の守り方を考えるようなら――」
羽化し立ての蟲の如くもがきながら。
「最初から、強くなろう、なんて考えない。強くなりたいなんて思わない」
顔を顰め、膝立ちになりながら、搾り出すように。あるいは痛みの所為だけでは無いかもしれなかった。
「私は、私を否定されないために、強い必要があるのよ」
 吐き棄てるように。呟くように放たれたその言葉を聞いたものは、幸いにもいなかった。



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