ナツコイ-first love-
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あの夏の蜃気楼(ミラージュ)―2

 





     “強いんじゃなくて、ただ、臆病なだけかも知れない”





「好きな人? いるよ?」
 学食のうどんをほおばりながら、桐生直人は言った。
 遠くからは他の学生達の喧騒が聞こえる。それを背景に、直人はまるで何事も無かったかのように食事を進める。
「……マジで?」
 何気なく訊いたつもりだった。まさかいるわけがないだろうと思っていた。
 訊きながら俺は、右手に持った箸に挟んだ直人と同じうどんを、今まさに口に運ぼうとしていた最中だった。
「うん」
 その口に運ぼうとしている姿勢のまま硬直してしまった俺に、うどんの中に視線を落としている直人は気付くはずも無く頷く。
 少女のような中性的なその表情をほころばせながら、せわしなく右腕を動かしてそのうどんを口へと運ぶ。
「おいしいねぇ、ここのうどん。学食でうどんを食べるのは初めてだけど、まさかここまでとは……侮っていたよ」
「そ、そうか」
 本当に幸せそうな笑顔を作りながら彼は顔を上げた。そしてその時初めて、俺が食事を摂る手を止めていることに気付く。
「どうしたの? 食べないの?」
 彼もその手を止め、訊いてくる。
「なんか気分でも悪いの?」
「ああ、いや、そうじゃない」
 俺はなんとかぎこちない笑みを作ったまま、とりあえずその箸に絡まったうどんを口に運ぶ。
「はは、ははは……確かに、おいしいなぁ」
「うん、そうだね」
 その様子に安心したのか、彼は気を取り直し、再び幸せな食事を再開すべくうどんの中に視線を戻す。
 そして俺もハッピーなランチタイムを……摂っている場合ではない。
「……誰だよ?」
 うどんをほおばるペースは落とさず、訊く。
「何が?」
 もとより落とすつもりの無い直人は、口にうどんを生やしたまま顔だけをこちらに向ける。
「お前の好きな人だよ」
「……ん」
 とりあえず生やしているうどんは口腔に収め、口元を拭いてから、彼は俺に向き直る。
 そしてそのまま、俺の顔をジーっと見つめる。
「な、なんだよ?」
 さすがにうろたえて、右腕の動きを中断する。
「いや、なんでそんなこと訊くのかなって」
 再び箸を持ち直し、うどんの容器を手にし、それでも視線だけは俺に残したまま呟く。
 突如、背後の女子生徒たち総勢4名が爆笑した。何か思わずウケるような話題でものぼったのかは知らないが、迷惑この上ない。勿論、そんなことは胸の中だけにとどめておくが。
「ただの好奇心だけでそんなこと訊かれると……さすがにいい気分はしないしね」
 薄く目を閉じ、直人はうどんの汁をすする。口の中でじっくりとその味を確かめているようなその仕草は、彼が男性であることを忘れてしまうほどの美しさだった。
「いや、そういうわけじゃないんだ……」
 そういうわけではない。さすがの俺も、そんな無遠慮で失礼なことはしない。……おそらく。
「じゃあ、どういうわけ?」
 容器から口を離し、俺に向けたその瞳は、少しばかり悪戯っぽい光を宿していた。
「う……」
 思わず口ごもってしまう俺を見て、直人は更に口元にも笑みを広げる。
「そういう雅人は、いるの?」
「な、何が?」
 笑顔の直人の問いに、反射的に問い直すものの、何を聞かれたかなんてことは明白だ。
「決まってるでしょ。ス・キ・ナ・ヒ・ト」
 ワザと区切りをつけてその言葉を呟く彼の顔全体には、堪えられなかった満面の笑みが広がっている。
「あー、いや……その……」
 返答に窮し、彼の真っ直ぐな視線を避けようとする。すぐ脇を通る男子生徒の手元を見れば、出来立てのカレーが湯気を上げていた。彼はもう一人の男子生徒と談笑しながら歩いていて、そのもう一人の男子生徒の手元にはラーメンが乗せられていた。
「いることにはいるが……」
「そっか」
 笑顔を絶やさず、直人はそれだけを言った。
 再び俺は、彼に視線を戻す。
「いや、別に名前まで教えてもらわなくたっていいよ。いるってことだけ判れば、それで」
「は、はあ……」
 それだけ言って再び食事を再開した彼に、俺は曖昧な返事だけを残した。
 そしてまた俺も、気を取り直して残りのうどんにトドメをさすべく右手を動かす。
 とりあえず彼に好きな人がいるということは判った。誰なのかまでは判らなかったものの、それだけで充分な情報だ。――善い情報では、無いが。
 石川さんにはどう話そう――そんなことを考え悩みながら食事を進めていると、背後の女子生徒総勢4名がなにやら話しながら席を立った。ガチャガチャと食器の音を立てながら、その音にも劣らない声量の談笑をしつつ俺の脇を通り抜ける。俺は、頭の中で回答を求め、めまぐるしく彷徨う悩みを意識の隅に置き、彼女達の挙動に気を向けていた。
 だから直人の呟いた声を、俺は聞き逃してしまった。
「ん?」
 それを問い直すべく意識と視線を彼に向かわせ、口の中に存在するうどんたちによって発することの出来ない普通の言葉に代わり、その短い声だけを彼に飛ばした。
「その、僕の好きな人について、雅人に協力してほしいことがあるんだ」
 うどんを全て排し、汁だけになった容器を両手で掴みつつ、彼は告げた。
「協力してほしいこと……?」
「うん」
 協力……直人が好意を寄せている相手に関する、協力。
 ……なにやら、ややこしいことになりそうな予感がする。
 最後の一本を勢いよく口の中に放り込み、俺はそう感じた。
「駄目?」
 両手で持った容器を口元に運びつつ、彼は小さな声で呟いた。心なしか、その表情が残念そうに曇っている。
「いや……俺に出来ることなら、するさ」
 そんな表情をされて断れるわけが無い。『なんでもするさ』と言うのだけはなんとか回避したものの、俺は思わずそう返答してしまった。
『なんでも』するわけにはいかない。直人も大事な友人だが、既に俺は石川さんと約束しているのだ。
 しかし……まさかこんな事態になるとは思わなかった。俺はどこまでやれるだろうか? 直人が好きな相手と結ばれることを望むなら、俺にそれを引き止める権利は無い。それを引き止め、無理やり石川さんと直人を結ばせても、両者共に満足できるはずが無い。
 とりあえず、今は直人の話を聞くしかない。全てはそれからだろう。
 遠くから聞こえる喧騒がやけに楽しそうだった。アハハハハ、馬鹿じゃないの、お前。そんな笑い声が彼方から聞こえてきた。
 はあ……なんで俺、こんなことでこんなに悩んでいるんだろう? 『こんなこと』なんて言ってしまってはいけないような気もするが、あくまでも他人事だ。……俺だって、しなきゃいけないことがあるのに。
 そこまで考えて、はたと気付く。
 ……しなきゃいけないことと言いつつ、それを実行に移さない愚か者は何処のどいつだよ。
 思わず自己嫌悪に陥りそうな思考を落ち着かせるためにも、俺は大きなため息を一つついた。それが逆に、俺の心に重くのしかかった。
「?」
 そんな俺を、直人は訝しげに眺める。だがやがて思い立ったかのように、うどんの容器を乗せたトレイを両手で持ち上げ、自身も立ち上がる。
 顔を上げた俺に、彼は目線だけで促す。俺は頷きもせず、彼と同じようにトレイを両手で掴み、立ち上がる。
 俺達同様食器を片付けようとしていた後輩の男子生徒とぶつかりそうになりながら、俺は直人の後ろを歩く。目の前の、少し小柄な彼の体を眺めつつ、俺は心の中だけでもう一度ため息をついた。

 校舎とは切り離された形で存在する、この学校のカフェテリア。そこから出てきた俺たちは、最も近い西側玄関――つまり、一・三年用玄関へと入り込み、靴を履き替える。
 いつもならそこで西側階段を上り、3階の教室に戻り、他の友人達とくだらない話でもしているだろう。だが、今回は違った。俺と直人は、その西側階段と用務員室に挟まれるようにしてある通路の先の扉を開き、西側の中庭に出る。
 この学校には中庭が二つ存在する。主に普通教室が並ぶ北側校舎と、体育館や理科教室、調理室などの特別教室が所存する南側校舎。この二つに挟まれるようにして中庭が存在するわけだが、その二つの校舎を結ぶ中央廊下が、その中庭を二分している。
 東側の中庭には、池やベンチや各学級が育てている花々が有り、今日みたいに天気が良い日は数人の生徒達が遊びに来ている。だから俺たちは、そんな東側の中庭とは打って変わって人気の無い西側の中庭に向かったのだ。さすがに、人に聞かれていい話では無いだろうと思ったので。
 西側の中庭は、東側の中庭のようなオプジェは存在しない。杉の樹が何本も生えているだけである。普段生徒達が利用することといったら、今俺達が出てきた扉の脇にあるポリバケツにゴミを捨てにくるか、もしくは体育館と保健室を結ぶ石畳を横断するくらいだろう。
 だから、天気の良い今日ですら、誰一人姿は無い。だから、俺たちは今ここにいる。
 石畳をひょいひょいと渡り、俺たちは反対側の体育館まで進む。そしてその壁を背に、横に並ぶ。
「で、協力っていうのは、具体的にどういうことだ?」
 体育館の壁を背にしたまま、俺はその場にしゃがみこむ。不良チックなポーズをとりながら、立ったままの直人を見上げることも無く、目の前の側溝に視線を向ける。側溝の中には、周りを囲む校舎と木々に遮られ、太陽の光が届いていない。そのため、僅かに残る水たちは、僅かに付着している苔と共に黒ずんだ光を見せていた。
 背中に体育館の喧騒を感じる。バスケットボールを床に叩きつける音と震動が目立つ。ときおり一本集中ー!とかいった威勢のある声が聞こえてくる。
「まあ……そのまんまだよ。僕が彼女に告白することを、手助けして欲しいというかなんというか……」
 やっぱりな。ってゆうかそれ以外には無いだろう。俺は声には出さず苦笑する。
「具体的には?」
 意地悪く訊いて見る。別に実際に協力して欲しいわけでもないのだろう。自分の胸の中で燻る、決断できない想いを他人に打ち明け、更には背中を押してもらうこと――それが本来の目的だろう。
「えっと……彼女に好きな人がいるかどうかとか……」
 またまた心の中で苦笑してしまう。これじゃまるっきり、石川さんの時と同じじゃないか。
 それにしても経験者のくせに中々億手なんだな、直人は……って、今まではずっと告白される側だったな、そういえば。
「あと、彼女の好きなものとか……」
「おいおい」
 苦笑を口元まで出しながら俺はゆっくりと立ち上がる。バンバンバン……ドリブルの音が続いたかと思うと、途中で途切れ……ガコン! ボールがバックボードを叩く音が聞こえた。直後、着地の音も聞こえた。誰がシュートしたのかは知らないが、入ったのだろうか? ……どうでもいいことだが。
「そんなことまで調べられるのか? 俺が」
「うん……多分可能だと思うけど……」
 俺を横目で見上げながら、直人は呟く。その表情は俺が協力を引き受けてくれるかどうかに対する不安で彩られていた。
「一体誰なんだよ、そのお前の好きな相手って。俺の知ってる奴か?」
「うん……」
 恥ずかしそうに顔を伏せる直人。さすがに誰であるかを告げるには抵抗があるようだが、その相手を教えてもらわない限りには協力も何も無い。
「知ってるっていうか……仲がいい人」
「で、誰だよ?」
 顔を上げたものの、彼はなかなか答えを出さない。
「俺が仲いい相手なんていったら――」
「朝倉、さん」
 少し、時が止まった。ナイスパァース! と叫ぶ声が背中に響いた。2,3階の教室のベランダから、何人かがこちらを見ていた。
「朝倉……朝倉由実?」
「うん」
 間違いなく頷く彼に、まさか、と返しそうになって止める。
 俺にとっては『まさか』だが、ヤツのことを知らないものにとって見れば……
 いや、そんな、直人だって俺と一緒にいること多いし、あ、でも、別に話した事ってなかったような、ってゆうかさっき直人は俺とアイツが仲がいいとか言ってなかったか? おいおい、冗談じゃないぞ……
「雅人?」
 スーハー。訝しげな表情で俺を覗き込む直人には構わず、深呼吸。とりあえず混乱しかける思考を取り戻す。
 朝倉由実。確かに俺の知り合いで、たまに話したりはする。だが決して仲が良いわけではない。すらっとした長身と整った顔立ち、肩まで伸びた、揺らぐと音が鳴りそうなくらい美しいストレートは、男女問わず人気は高い。だが、俺は惹かれない。いや、最初は惹かれたかもしれないが、もう惹かれることは無い。
「そ、そうか……まあ、アイツ、確かにルックスはいいからな」
「うん」
 直人の表情が、恥ずかしさで、でも自分の好きなものを褒められたことによる喜びで、彩られる。
「まあ、アイツ、男子からの人気も高いからな」
「うん……」
 直人の表情が、俺の告げた事実によって僅かに翳る。
「やっぱり、彼女、人気あるよね」
「ああ、男子だけじゃない。女子からもだ」
 実際、去年のバレンタインデーも、先輩後輩同級生問わず、大量のチョコを貰っていた。女子が仲のよい女子にチョコをあげるこ自体はもはや当然だが、彼女に与えられたチョコは紛れも無く愛がこもっていた。3学年男子陣最強のモテモテ男・杉田稔(元陸上部所属)の14個という記録を上回る17個という記録を残している。義理チョコを含めても、おそらく由実の方が勝利するだろう。ちなみに俺は4個だ。全員後輩だ。
「…………」
 直人の表情のかげりが一層深くなる。事実とは言え、あまりにもショッキングなことを言ってしまったか……?
「……やっぱり、もう恋人いたり……するよね?」
「……は?」
 直人の呟きに、思わず耳を疑った。
 恋人? アイツに?
 それこそ、まさか、な感じだった。
 もともと高嶺の花的存在で告白する男も少なかったようだが、やつに限って告白されてはいOKですと了承するとは思えん。ヤツは色恋沙汰には全く興味無しといった感じだからだ。実際にヤツに告白し、撃沈していった奴らを、俺はこの目で見届けてきた。
 まあ、俺としては、ヤツに告白する男の気が知れないが……って、直人もその一人か。
 ……むしろ付き合わず物陰から見つめていた方が幸せかもしれないな……
 由実とのやりとりを思い出し、そんな風に思ってしまう。
 ……ん? そういえば、最近アイツの毒舌もなりを潜めているような……
「いない……かなぁ?」
「ん? ……あ、ああ……いないだろ、きっと」
 直人の質問に答えず思考に入り込んでいたことに気付き、慌ててそう返答する。
「恋人どころか、多分好きなやつもいないぞ」
「そ、そう?」
 俺の言葉に、直人はあからさまな喜色を浮かべる。
「だけど……それはつまりアイツは愛だとか恋だとかに興味ないわけで……」
 さすがにちょっと言いづらかった。そんな俺の雰囲気に気付いたのか、直人は喜びの表情にほんのわずかだが翳りがさした。
「もしかしたら、OKは貰えないかも……」
 もしかしたら、なんてものじゃないかもしれないが。
「そっか……」
 僅かな翳りは急速に広がり、再び彼を俯かせる。
 ドリブルの音はもう鳴っていなかった。代わりに、ボールがバックボードを叩く音と、床を叩く音のみが断続的に聞こえてくる。フリースロー勝負でもしているのだろうか?
「なあ、直ひ――」
「でも」
 呼びかけようとした俺の声を遮り、直人は力強く声を紡いだ。上げた顔からは翳りが失われていた。
「恋人も好きな人もいないなら、やってみようと思う」
 俺ではなく、前方にある誰もいない保健室をにらみつけ、そう告げた。そこには、決心の表情が映し出されていた。
「そっか……」
 友人の決断。俺はそれを喜ぶべきかも知れない。だが、心の中はなんとも複雑な心境だった。
「なあ、直人」
「うん?」
 明るくなった彼の表情が、俺を捉える。
 少し強い風が俺の頬を撫で、木々を揺らし、唄を奏でる。
「もし、もしも――」
 確実に秋の衣を纏ったその風は、冬服とはいえど着込んでいない制服の中に入り込み、身を震わせる。
「もしも、他にお前のことを想っている人がいたとしたら……」
 サワァァーー……。夏の頃は聞いているだけで暑くなってきそうな蝉の唄を奏でていた杉の木々が、今では聞いているだけで寒くなってきそうな秋風の唄を奏でる。
 沈黙。木々の唄だけがそこにあった。校舎からの喧騒も、すぐ後ろにある体育館からの喧騒も、何故か聞こえなかった。まるでこの中庭だけ隔離されたような――そんな不思議な感じを受けた。
 そして、隣りの直人は沈黙していた。沈黙しながら、俺の言葉の意味がわからない、といった感じで俺を見上げている。
 沈黙を破り捨てたのは、隔離されていた世界を突き破ったのは、無機質なチャイムの音だった。
 弾かれたように、俺の聴覚に校舎からの、すぐ後ろの体育館からの喧騒が舞い戻ってくる。チャイムの音にまぎれさせるかのように、俺は小さなため息をつく。
「なんでもない」
 鳴り終ったのを確認した俺は、それだけ告げて体育館の壁から背中を離す。
「へ? へ?」
 石畳の上を歩き、校舎へと戻っていこうとする俺の背中に、直人の困惑した声が投げかけられた。
「なんでもないって……どういう――」
「がんばれよ」
 直人の方へと振り返りながら、俺は告げた。
「告白、頑張れよ。成功を祈ってるぜ」
 そう言って、俺は彼に笑った。
「うん」
 彼も笑った。美しいと賛辞を並べられる程の満面の笑顔で。
 背中、押しちまった。

 今の時期は丁度、秋の中間の辺りだからだろうか。風の冷たさが、日に日にその強さを帯びてくるように感じるのは。見渡せる風景に、確実に秋の衣が多いかぶされていくように見えるのは。
 屋上に降り立ち、数歩歩くと、後ろで扉が閉まった。俺が閉めたんじゃない。風によって自動的に閉まったのだ。
 見上げると、秋の空が浮かんでいた。いくつかの雲が漂っているが、どれも薄く、ほとんど快晴だった。強い秋風に流され、南の方へ動いているのがよく判る。そののんびりと堂々とした動きは、いつまでも見ていたいような衝動に駆られる。
「柿崎クン……」
 俺の意識を下界に引き戻したのは、またもや先に屋上についていた石川さんの声だった。
 意識と共に引き戻した視界は、不安げに揺れる彼女の双眸を捉える。
 朝、予め彼女に伝えておいた。昼休みに屋上に来て欲しいと。話したいことがある、と。
 話したいこと――それは勿論、昨日のことだ。昨日の昼休み、直人から聞いた話と、そして……そして、俺が直人に最後の一押しをしてしまったこと。
「えーっと……サ……」
 なんとか笑顔を取り繕って、話を切り出そうとする。
「…………」
 しかし彼女の不安げな瞳と気まずい沈黙に、どうしても続く言葉が出てこない。
 既に彼女は、ある程度予想しているのかもしれない。別に何の問題も無く、どうぞ頑張って告白しなさいっていうのなら、ワザワザこんなところに呼び出して、改まったように話をする必要は無い――そのことに、感づいているのかも知れない。
 だけど、どちらかというと、そっちの方が話しやすいかもしれない。
 そう思い、話を切り出そうとして――
「駄目、だった?」
 彼女が……笑顔でそう訊いてきた。
「……へ?」
 予想外の行動に、思わず何も言えなくなる。
 彼女は依然笑顔のまま、俺の次の言葉を待っていた。
「あ、ああ……」
 そこで一旦言葉を区切ってしまった。どうしても躊躇われた。……だけど、彼女の笑顔に押されるように、
「アイツ、好きな人、いるって」
 言った。
「そっか」
 彼女の反応も、短かった。だけど、俺は、彼女のその笑顔の中に、小さな憂いが含まれた瞬間を見逃さなかった。
「そっか……」
 彼女は口の中で、その言葉をもう一度呟いた。さっきのよりも、小さく、消えていくかのように。
「…………」
 彼女が、口をつぐんだ。
 俺も、口をつぐんだ。
『そっか』という言葉は、不思議な響きをしているな、と、今更ながら思う。ポジティヴな響きのようで、全てを諦めた、ネガティヴな響きを含んでいるような。そもそも、ポジティヴとネガティヴって、どう違うんだろうか、なんて、どうでもいいことが頭の中を駆け巡る。
 落ち着け。俺が何か言わなければ。
「なんとなく、そんな気がしてたんだ」
 だけど、また彼女が先に言葉を紡いだ。
「……え」
「嘘」
 そうなの? そう訊こうとしたところを、いきなり遮られた。
「嘘だよ。そんなの、わかんなかったよ。私は、ずっとずっと、直人クンに対する想いばかりで、彼の想いに気付いてなかった」
 そこに、笑顔は無かった。いや、実際にそれは笑顔と言えるかもしれない。けど、それは笑顔ではなかった。そう、確信できた。
 ゆっくりと、一言一言紡いでいく石川さんの声。それは別に震えてるわけでもないし、悲観的な響きを持っているわけでもなかった。
 けど、いつもの、あの独特な石川さんの声とは、違う感じがした。
「結局、思い切り片思いだったね」
 寂しそうな笑顔で、彼女はそう呟いた。
 俺は、結局何も返すことができなかった。
「ごめん……」
 そう、俯いて、謝ることしか。
「そんな、柿崎クンの所為じゃないよぉ」
 そう言ってくれた石川さんの声。少しだけ、彼女らしさが戻っているように感じた。
「それどころか、柿崎クンには感謝したいくらいだよ」
「……え?」
 思いがけない言葉に、俺は顔を上げた。そこには、笑顔が戻っていた。まだ少し寂しさが残っているように感じたが、それは笑顔だった。
「柿崎クン、言ってくれたよね。OKもらえなくても、意識させることぐらいはできるって」
「あ、ああ……」
 頬を撫でる風は、幾分その力を失っていた。遥か下界から聞こえる、サッカーに興じる者達の声が届く。
「もし、私が告白していたら……直人クン、優しいし……」
「ああ……」
 彼女が言わんとしていることは、理解できた。それはすなわち、俺が最初に危惧していたことだった。避けたかった結果であり……実際に避けられると、それはそれで悲しい結果。
「柿崎クンの、お陰だよ」
 にっこりと、笑顔を見せてくれる。今の俺には、その笑顔は痛々しく感じた。それは、本当に彼女が悲しいからなのか、それとも……
「でもそれじゃ、石川さんが」
 言いかけた俺を、彼女は首を横に振ることで制止する。
「いいの」
 秋の風は、冷たい。
「直人クンが好きな人と結ばれるのなら、私は充分」
 彼女は、変わらない笑顔だった。
 校舎の中やグラウンドの喧騒は、あの中庭の時よりも遥かに遠かった。木々の囁きも聞こえない。秋風の声だけ。
「本当に?」
 はっきりと出したはずのその声は、その秋風にさらわれてしまいそうなほど、小さい声になってしまった。
「……嘘」
 彼女が、俯いた。その直前、彼女の笑顔に、影がさすのが見えた。
「嘘、だけど」
 再び顔を上げたあとの彼女の顔は笑顔ではなかったけど……そこには悲しみがあったけど……彼女の表情だった。
「それでもいい。充分じゃないけど、それでいい」
「そっか」
 俺は呟いた。それは、この風の中、どんな響きをしていただろうか。
 でも、俺がその言葉に込めた意味は、理解のつもりだった。
 俺には、彼女の気持ちを理解することが、できたから。
「石川さんは、強いね」
 ――じゃあ俺は強いのか?
 湧き上がってくるその思いを断ち切って、笑顔を作る。
「そんなことないよ」
 首を振る。
「強いんじゃなくて、ただ、臆病なだけかも知れない」
 ――。
 ――そう、だな。
 その心の中だけの言葉は、目の前の少女に向けられた者じゃないことは、俺は解ってる。
「ところで」
 話を一旦打ち切るように、彼女は笑顔を作った。
「その直人クンの好きな娘ってのは、誰なんですか?」
 当然の質問だろう。その当然の質問を、彼女がこれほど普通の笑顔で行ってくれたのは、俺にとっては凄くありがたかった。
「朝倉、由実」
 その名を告げると、彼女は一瞬驚きの表情を見せ……やがて納得したように頷いた。
「朝倉さんか。それじゃ、敵わないね」
 今、目の前にあるのは、紛れもなく石川杏子さんの紛れもない笑顔だった。
 それは諦めでも言い訳でも皮肉でもなく、心からの言葉だったようだ。
「幸せになると、いいね」
「そうだな」
 直人の告白を、アイツがOK出すとはまだ決まっていない。むしろ今までの経験から言って、出さない確率の方が高いかも知れない。
 本当はそのことも石川さんに告げるつもりだった。けど、告げなかったのは、もしかしてなんとなく感じていたのかもしれない。由実が、OKを出すと。根拠の無い確信……矛盾しているが、そんな感じ。直人の成功を祈っているから、そう感じるのかもしれないが。
「幸せになるといいな」
「うん」
 俺の言葉に、彼女が頷いた。
 そんな彼女を見て、俺はあのことを告げることにした。
「アイツを……直人に最後の一押しをかけたのは、俺なんだ」
 その言葉に、虚を突かれたかのように、石川さんは俺を見上げる。
「アイツに決心させてしまったのは、俺なんだ」
 諦めさせることが出来たら、もしかしたら……
 いや、そもそも諦めさせるつもりなんて全く無かっただろう。俺はどうしても、直人の背中を押していただろう。……石川さんを裏切ってでも。もしかしたら、石川さんの強さを、予想していたかも知れない、なんていうのは、突拍子過ぎるだろうか?
「そっか」
 笑顔で、彼女はそう呟いた。満面の笑顔で、『そっか』と。
「さすが柿崎クンだよぉ」
 笑顔で、そう言ってくれた。
 彼女は、強いな。心から、そう感じた。
 ……俺はどうなんだろうな。

 屋上に続く廊下から降りてきたところで、俺たちは直人とバッタリ出会った。
「何してたの? 二人して屋上で……」
「秘密会議だよぉ」
 答えになってるのかなってないのか、また真実のようなそうじゃないような答えで対応する石川さん。彼女はもう既に、いつもの彼女だった。
「は、はあ……」
 案の定よくわからないといった表情を見せるものの、別に最初から正直な答えが返ってくるとは思っていなかったのか、彼はさほど気にする様子も無く、その視線を石川さんから俺に移した。
「雅人、僕……」
 俺を見据えるその双眸には、はっきりとした決意の光が見えていた。
「……ああ」
 俺は、その彼の瞳に、深く頷いた。
「あ、朝倉さんに告白しにいくの?」
「……!!」
 石川さんのその言葉に、直人は思い切り動揺する。勿論、俺も。
「い、石川さ――」
 俺の抗議の声を、こちらに向いた彼女の表情が遮った。それは、紛れも無く笑顔だったが……まるで、悪戯の道具を見つけた子供のような……俺の背筋を、秋風とは違う冷たいモノが走る感触がした。
「雅人……石川さんに言ったの?」
「あ……いや……」
 ずい、と身を乗り出して抗議の視線をぶつける直人に、思わずたじろいでしまう。言い訳も見つからない。
「ま、いいけどね」
 パッと体を元に戻し、直人は苦笑する。
「頑張ってね〜」
 石川さんはいつも通りの正常な笑顔を直人に向けて、励ましの言葉を送る。
「うん、ありがとう」
 直人もまた、笑顔で応える。
「それじゃ、行ってくるよ」
「ああ……グッドラック」
 階段を下りていく彼の後姿を眺めながら、以前にも似たような状況があったことを思い出す。
「…………」
「大丈夫、だよね?」
 後ろから聞こえた声に、俺はハッと振り返る。
 その言葉が、本来自身が意図した意味以上の意味を、俺に感じさせたからだ。
 だがその振り返った先にあったのは、例の悪戯めいた笑顔だった。
「そういえば……さっきのアレは一体……?」
「アレ? なんのことですかぁ?」
「いや……なんでもない……」
 とりあえず、さっさと教室に戻ろう。そっちの方が、懸命な選択だと感じた。
「作戦失敗の、報いですよぉ」
 教室に向かって歩き出した俺の背に、そんな悪戯めいた声が届けられた。
 ――作戦失敗。
 それでも清々しく感じるのは、石川さんに失礼だろうか?
 開け放たれた窓から入り込む秋の風に包まれながら、そんなことを考えていた。
 落ち葉の季節は、近い――。





to be countinued to [that mirage of summer-3]



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