ナツコイ-first love-
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あの夏の蜃気楼(ミラージュ)―3






     “結構恋って、実らないもんだな”





 目覚めると、そこは自分の教室だった。突っ伏していた体を置きあげ、僅かに口元についた涎を拭いて、教室中を見渡す。南西に向いた窓から夕焼けの光が差し込まれ、教室を茜色に染める。それは同時に、壁やカーテンや机の形の影を生み出し、茜色と闇色の美しいコントラストを生み出していた。
 ……どうやら俺は眠っていたようだ。周りを見渡しても他のクラスメイトの姿は無かった。
 いつから眠っていたのかを探る。記憶を引き戻し、そして辿り着く。……そうだ、俺はAHRの時に眠りについたのだった。しかし、AHR終わった後、誰も起こしてくれなかったのかと思うとやるせない気持ちになる。いや、むしろその下校の喧騒の中で起きなかった自分に対し、なんともいえない感情を抱いてしまう。随分と深い眠りだったのだろう、ということにしておく。
 風の音が聞こえた。目の前のカーテンが波を生んだ。それ以外の音は辺りには無く、この教室の空間は完全に静まり返っていた。いや、それはその教室だけというより、まるで校舎全体が静まり返っているようにも感じられた。生徒のほとんどは下校したか、もしくは部活へと出向いたのだろう。時折グラウンドの方から部活をしていると思われる声が聞こえてくる。
「ふわぁぁぁぁ」
 大きく欠伸をし、暫くボーっとした後、ゆっくりと席を立ち上がる。
 誰もいない夕方の教室というのは、とてつもなく不思議な風景だった。そしてまた、とてつもなく懐かしい風景だった。
 ……あの時もこんな風景だったな。
 そう感じると共に、既にあの夏から3年が経過していることに気付き、時の流れを思い知らされる。
 誰もいない夕方の教室。茜色と闇色のコントラスト――やめた、さっさと帰ろう。感傷に浸るなんて、俺らしくない。そう思いながら、席を机の中に押し込んで教室を後にする。
 廊下にも誰もいなかった。茜色の光と共に入り込んできた一枚の枯葉が、寂しそうに風に舞う。その枯葉をじっと見つめ、それが廊下に落ちたのを確認すると、俺は西側の階段に向かって歩き出した。
 自分の教室である3年2組を通り過ぎ、3年1組の教室を左手に通り過ぎ、そして西側階段へと辿り着く。一歩一歩踏みしめて降りていく。そんな俺の視界に、踊り場にある窓からの風景が入り込んでくる。西日にさらされた体育館。そこから僅かに聞こえてくる喧騒。
 右手に感じる、木製の手すりの感触。俺はらせん状に回転しながら一段ずつ降りていく。普段なら一段飛ばしで一気に駆け下りる階段。こんなにゆっくりと時間を過ごすのは、随分と久しぶりだった。
 そんな気分で一階に辿り着いた俺を出迎えたのは、そこから数十メートル先にある保健室から出てきた、一人の少女だった。
 よく知った顔だった。白石南――かつて俺が陸上部にいたときの後輩。数十メートルもの距離があるのに、彼女は保健室から出てきてすぐさま俺に気付き、笑顔で手を振った。
「先輩ー!」
 手を振りながら、元気に走ってくる。頭一つ分は小さい彼女の姿が近寄ってくる。色素の薄いショートカットの髪には、アクセントとして小さなヘアピンがつけられていた。
「奇遇ですね、こんな時間に」
 さすが現役陸上部だけあって、息も切らさずあっと言う間に俺の元に辿り着く。
「お前、部活は?」
 俺を見上げる小柄な後輩に、俺は訊ねた。現役陸上部ならば今はグラウンドで練習中のはずだ。
「少し、体調悪くて……これから参加するつもりですけどね」
 胸に手を当てて元気無さそうに呟いていたが、その途中で元気な声へと変わる。満面の笑顔は、少し無理が混じってるように見えた。
「無理するなよ」
 だから俺は、思ったままのことを口に出した。出来るだけ優しく。
「優しいんですね、先輩。でも、大丈――」
「無理したって言いことは無いって。俺も現役のとき、結構無理して練習に参加したこともあったけど、やっぱりその後酷くなったりしたからな」
 彼女の言葉を遮り、優しく、しかし力強く説得する。彼女は一瞬真剣な眼差しになったが、またすぐ笑顔になって、
「先輩、無理して出るほど真面目だったんですか?」
 と、笑いながら言う。
「失礼なこと言うな! ……俺だってそんな時はある」
 とりあえず叱ってみるものの、完全に否定も出来ない。
「大体、笑い事でもないぞ。今は季節の変わり目だし、本当に無理するなよ?」
「はーい。……なんか、先輩に恥ずかしいトコ見られちゃったかな?」
 解ってるのか解ってないのかはっきりしない返事をしながら、南はバツが悪そうに笑う。
「なんか、結構元気そうだな、お前」
 苦笑しながら、そっと南の額に手を添える。そこには確かに、体温以上の熱を感じた。
「でしょ? 元気元気、大丈夫ですよ! 大体新人戦近いのに休んでられませんよ、今更」
 俺の言葉に顔全体で喜びを表現する。飛び跳ねてしまうのかと思えるほどのテンションだ。それは俺に、一層『無理している』という印象を与えた。
「何処が大丈夫なんだよ。熱、やっぱりあるみたいだぞ? そもそも大会近いならなおさら自己管理をすべきだ」
「なんか、顧問の先生みたい、先輩」
 見上げながら、南はがっかりしたような表情を見せる。
「まあ、OBだしな。なぐさんレベルには口うるさいぜ」
 そう言って俺は笑う。
「まあ、そういうことだ。今日くらいは無理せず休め。無理しなければ、風邪なんて一日で治るさ」
 言いながら、南の額に添えていた右手を、今度は彼女の頭に乗せてポンポンと叩いてやる。
「う〜……まあ、先輩がそう言うならそうしますよ」
 まだイマイチ納得できていないようだが、とりあえずといった形で了承した。その表情にも、笑顔が戻ってきた。
「それじゃ、俺は帰るな」
 そう言って、右手を離し、俺は踵を返した。
「あっ、先輩!」
 その俺の背中を、彼女は呼び止める。
「?」
 振り返ると、彼女は少し慌てた感じで俺を見上げていた。
「あ、あの……」
 何の準備もせず反射的に呼び止めてしまった、という感じだった。彼女は必死に次の言葉を模索していた。
「どうした?」
 俺が促すと、彼女は赤面し、俯いた。
「あ、あのぉ……」
 消え入りそうな声で、俯いたまま呟く。だがすぐにその顔を上げ、再び俺を見据える。そこには、決意の色が見えていた。
「私、先輩のことが好きです」
 言ってから、再び恥ずかしくなったのか、頬を紅潮させて俯く。
「も、もしよかったら……お付き合いして、いただけないかな、って……」
 恥ずかしさを堪えるかのように一言一言言葉を紡いでいく。
 最初、さすがに俺も驚いてしまったが、そんな彼女の態度を見ていてなんとか落ち着いてきた。それにこういうことは初めてじゃない。初めてじゃないから、次に出てくる言葉もすぐにすんなりと出て行くはずだった。
「いいよ」
 だけど、そこで出てきた言葉に、一番驚いたのは俺自身だった。
「……え!」
 そんな俺の心情は露知らず、南は驚きの表情でその顔を跳ね上げ、そしてその表情を嬉しさとそれゆえの困惑で染め上げる。
「ほ、ホントですか!?」
 見上げる彼女のその表情は、見ているこっちが嬉しくなってしまいそうなほど輝いていた。
「ああ」
 だから俺は、肯定した。別に、断る理由も無い……わけでもないのだが、ほとんど無い。いつもは問答無用で断ってきたが、今日は不思議な気分だった。たまにはいいかもしれない。そう感じていた。
「いいよ」
 だから俺は、優しく笑った。
「あ……ありがとうございます!!」
 そして彼女は、満面の喜色を浮かべた。
 茜色の光が差し込む、放課後の廊下。黄昏の風の中、彼女の笑顔はとても美しかった。俺には勿体無いなんて思えるくらい。

 いつも通りの朝。いつも通りの西側玄関で俺を迎えたのは、俺の友人、桐生直人だった。靴を履き替えていた彼は、玄関に入ってきた俺を見て何故か驚いた。
「お、おはよう、雅人」
「ああ、おはよ」
 あからさまに困惑しているご様子の直人。
「……どうした?」
 俺は自分の下駄箱の蓋を開け、同時に靴を脱ぎながら、訊く。
「いや、今日、朝会だよ……?」
 一足先に中履きに履き替えた直人は、下駄箱の蓋を閉めながら、未だ困惑した様子で答える。
「そんなことは解ってる。それがどうかしたのか?」
 俺は脱いだ靴を下駄箱の中に放り込み、そこまで言ってからハッと気付く。
「まさか、お前まで、俺が普通の朝会の日に早く来たことが珍しいとでも言うのか……?」
「あ、いや……アハハ」
 俺の問いに、直人は唯乾いた笑いだけを返す。完全に図星のようだ。
「まあ、否定はしないけどな」
 俺はため息をつきながらそう呟き、中履きを履いた直人と共に体育館へと向かう。そしていつも通りカバンをその場に置いていく。
「でもさ、本当になんで今日はこんなに早いの?」
「別に」
 歩き始めながら直人が訊いてくるが、俺はそっけなく答える。一階西側廊下、左手の窓から正門が見え、右手には保健室が所存する。
「気分だよ、気分。たまにはこんなこともあるさ」
 それは嘘ではない。本当に気分なのだ。大体俺自身が、普通に朝会に出ようとしている自分に驚いているくらいだ。特に理由も無く、本当になんとなく、今俺はここにいる。
「ふうん」
 納得したのかしていないのかよくわからない感じで――まあ、直人も付き合い長いし、きっと納得しただろう――呟いた。
 右手の保健室はやがて放送室に変わる。そして目の前に中央廊下が見えてくる。西側廊下と東側廊下と教員用玄関が合流するこの学校の中心のポイント。ここから北側へは体育館や特別教室棟へ続く中央廊下が、そして真上へは中央階段が伸びている。
 そんなこの場所で、俺は彼女と出逢った。
「あ、先輩」
 そう言って晴れやかな笑顔を見せたのは、かつて陸上部に在籍していた時の後輩である、白石南という少女。2年用の東側玄関から伸びる東側廊下を歩いてきた彼女は、ここまで走ってきたのか、少し息が切れている。
「あは……ちょっと、遅刻しちゃいました」
 俺の視線に気付いた彼女は、そう言って悪戯がばれた子供のような顔をする。何らかの理由で(可能性として高いのは寝坊だろう――というのは俺の場合か?)遅刻しそうになったので、ここまで急いできたのだろう。彼女は自転車通学のはずだ。俺は彼女が必死に自転車を漕ぐ姿を少し想像してしまう。
 周りを見ても、他の学生の姿がないことから解るように、実は俺や直人は他の生徒と比べると随分と登校が遅いほうである。まあ、徒歩通学になるくらいの距離だから余裕があるのだが。俺たち以外で朝会に参加する生徒は、先ず間違いなく既に体育館に集まり並んでいる頃だろう。俺たちは大体、そんな並んだ他の奴らの後ろに後からくっついていく形になる。俺の場合は臨時朝会の時だけの話だが。今までは。
 そんなこんなで、俺たちと同じ程度で登校してきたということは、遅刻とまでいかないものの遅めなのは間違いない。
「雅人の友達?」
 南の姿を認め、直人が俺に訊いてくる。
「ああ、俺の彼女」
 だから俺は正直に答えてやったが……やはり、直人はかなり驚いている。少し体を仰け反らせるというオプション付きで驚きのリアクションをとってくれる。
「はじめまして、先輩。えと、白石南っていいます」
「あ、うん、はじめまして」
 にこやかに挨拶を交わす南とは対称に、困惑しつつぎこちない笑みを返す直人。傍から見るとなかなか笑える。というか解りやすいな、直人。
「えっと、僕は桐生直人っていう、雅人の友達……よろしくね」
 とりあえず落ち着いた直人は、そう言って自分の紹介をする。
「はい、よろしくお願いします、桐生先輩」
 ふむ。陸上部の時はそれほど意識していなかったが、かなり礼儀正しい感じである。そもそも彼氏であるはずの俺と会話する際も敬語を忘れない。ほとんど癖に近いんだろうか。
「っと、そろそろ行かないと本当に遅刻になっちゃいますね。行きましょう、先輩」
 この『先輩』はどちらを指したのか判らないが――いや、両方を指したのだろうが――南は俺たち二人を見渡してから、中央廊下を体育館への方向へと先行して走っていく。俺たちもまた、その小柄な後姿を追うような形で体育館へと向かう。

 結局体育館に着いたときは、いつも通り他の生徒達の背中の中に向かっていくことになった。さすがに慣れていない南は、他の生徒達の視線を酷く気にしている様子だったが、既にこんなことは毎回のこととなっている俺たちは、彼らの視線を気にしないばかりか、彼ら――というか同じ3学年の友人達からニヤニヤとした笑顔を向けられる。
「遅刻組、いらっしゃぁ〜い」
「って、なんで柿崎君がいるの?」
 そんな俺たちを真っ先に迎えてくれたのは、やたらテンションの高い千穂の声と、やたら俺の心にグッサリくる那美の声だった。まあ、別にそう言われる事は予想していたが、千穂や由実ならともかく、まさか那美から言われるとは思っていなかった。その事実が、構えていたはずの俺のハートに、死角から突き刺さった。
「ホント、僕も今朝玄関で逢った時驚いたよ」
 そして直人が笑顔で追い討ちをかけた。
 俺達が来たのを見計らったかのように教師が号令をかけ、朝会が始まる。その後適当な挨拶と校歌というお決まりのパターンの後、恒例の校長の話が始まる。だが始める前の礼をした後に、俺たちは着席させられるため、その後は待ってましたの居眠りタイムである。この校長の話を苦痛だ公害だのなんだの言う輩が何人かいるが、とんでもない。俺にしてみれば心置きなく眠りにつける素晴らしい時間である。そういうわけで俺は、胡坐をかいた姿勢のまま首をうなだれて目を閉じた。

 教師の起立という響きに目を覚まし、すさかず立ち上がる。慌てず騒がず、いかにも真面目に聞いてましたよといった感じで。そんなことしなくてもばれているだろうが。
 ……しかし、自分の話をしている時に、自分の方を向かないばかりかぐっすり眠っている奴を見て、校長はどう思うのだろうか?
 まあ、そんなことを考えると若干良心が痛むので、考えないことにする。俺以外にもそういう暴挙に出ている奴らは何人もいるだろうし、案外慣れているかもしれない。……そういう問題でもないか。
 そんなことを考えているうちに礼も諸連絡も全て終わり、回れ右の号令の後、教室へと戻される。そして静かに立ち尽くしていた学生の群れは一気に喧騒に包まれ、一同教室へと大波の如く移動する。
 そして俺もまたその喧騒の一部になろうと考え、直人の方へと視線を向ける。すると彼の視線は丁度由実の方へと向けられている所だった。朝倉由実。他の女子や男子の一部よりも高めの身長であり、しかもあまり他人とは普通に話さない性格ゆえ、こういう人がたくさん集まる場所では結構目立っていた。
 彼女が、直人の視線に気付いた。二人はどんなことを話すのかと思いきや、特に何の反応をすることもなく再び視線を戻した。俺はさすがに驚いた。
「あ、そうそう、雅人」
 そしてまた直人も、特に気にした様子はなく突然俺の方へと話しかける。
「おい、お前……」
「ん?」
 自分が話しかけられたのに逆に話しかけられ、直人は少し困惑した表情で首を傾げる。
「そういえば、告白の結果聞いてなかったが、まさか……」
 周りの生徒に聞かれないようにボリュームを落として訊いてみる。もし俺の予想があっているのであれば、あまり訊いてはいけないことなのかもしれないが、やはりそこははっきりとさせておきたかった。
「ああ」
 そのことね、と言った感じで笑顔に変わる。予想外のリアクションに少し拍子抜けしてしまう。
「うん……振られちゃった」
 だが、その後の言葉に俺は絶句してしまった。笑顔でさらっと告げたその言葉は、満面の笑顔に見えた彼の表情の裏にある、悲しい表情を俺の脳裏に映し出した。
 俺たちは周りの生徒から避けるように体育館の端を歩いていたが、比較的近くにいた女子生徒が少し視線を向ける。が、すぐに興味を失ったかのように、隣にいた友達と思われる女子生徒と笑顔で何事かを話しだす。
「そっか……」
 なんと言っていいか判らず、俺はそれだけを答えた。他に何と言えばよかったのだろうか。そもそも直人がどんな言葉を求めているかも俺には判らない。そんな俺の心中を他所に、直人は相変わらずの笑顔で言葉を続ける。
「でもね、友達としてならいいって……とりあえず今は友達として始めようって」
 先ほどは悲しい表情に見えたが、やはりそれは紛れも無い彼の本心からの笑顔だった。彼が口にした事実について本気で喜んでいるようだ。
「だけどそれは……」
 断る時の常套手段、と言おうとして、辞めた。
 というより、次の直人の言葉で辞めさせられた、というほうが正しい。
「なんか、凄く嬉しいよ。交際は断られたけど、それでも彼女の友達になれたってだけで、僕にとってはかなりの進展だよ」
 直人は俺の顔を真っ直ぐに見て、笑顔でそう告げる。それは自分への言い訳とかの類ではないような気がした。
「それに……よく考えたらさ、特に親しくも無い人からいきなり告白されても、OKなんて出せないよね、普通。真剣に考えている人ならなおさら」
 狭い体育館の出口に辿り着く。他の生徒達の波と合流して、必然と俺たちの声も小さくなる。わざと歩を遅めて同学年の生徒からは特に離れていたつもりだが、それでも知り合いの生徒数人が視線を向ける。それから逃れるかのように、ほとんどの生徒が利用する(何故かはわからないが通行の際、特に理由がなければ絶対といっていいほど)中央廊下をあえて通らず、特別教室棟二階へと続く中央階段を昇る。
「付き合うっていうのは、友達とかそういうラインから順に親しくなっていった先にあるものなんじゃないかなって……」
 階段に足をかけ、一歩一歩昇っていきながら、直人は話し続ける。だが、その口元に少し自嘲気味な笑みがこぼれる。
「まあ、彼女が僕を振ったのはそういう理由だけじゃないんだけどね」
「……というと?」
 直人が先に告げた理由は、確かに由実の性格からして可能性はあった。アイツはもともと色恋沙汰には興味は無さそうだし、いきなり告白されても即OKとならなくてむしろ当然なのかも知れない。しかしよく考えると、そんな彼女が友達から始めようなんて台詞を吐くという事もなかなか意外だった。勿論、唯の社交辞令的なものかもしれないが、案外直人に好意を持っているのかもしれない。
 だが、それ以外の理由とはなんなのだろうか。
「彼女、他に好きな人がいるんだって」
「……は?」
 今度は間違いなく意外な事実だった。
 ……アイツに好きな人? アイツに? そんなことは思ってもいなかった。まさかそんな、あの女が誰かを好きになるなんてことは、全く想像の域を超えていた。
 俺の中でのアイツのイメージというモノが、突如変質していった。
「どうしたの? なんか意外そうな顔してるけど……」
「ビンゴだ」
 特別教室棟二階に到着し、そのまま真っ直ぐ普通教室棟へと向かう二階中央廊下を歩く。普通教室棟は三階まであるが、特別教室棟は二階までしかない。だからここを直進しきって普通教室棟に辿り着いた後、もう一階分階段を昇らなくてはならない。ほとんどの生徒が一階中央廊下を利用する理由はここにあるのかもしれない。
「ってことはお前が告白した時、既に先約がいたってことだな」
 廊下の先にある普通教室棟二階の廊下を歩く二学年の生徒を眺めながら俺は呟いた。
「先約ってわけじゃないらしいけどね」
「ん?」
 同じように廊下の先を見つめながら呟いた直人の表情を、俺は説明を求めるように覗き込んだ。
「なんか、その好きな人にも既に先約がいるみたいでさ」
 ……なんじゃそりゃ。
 ってことはなんだ。俺は石川さんから直人との恋の仲立ちを頼まれて、でも直人には既に好きな人がいて、その好きな人にまで好きな人がいて、その好きな人には既に先約がいるということか。……なんて奥が深い。
「そうやって訊いてみるとアレだな」
「?」
 唐突に呟いた俺を不思議そうに見上げる直人。
「結構恋って、実らないもんだな」
 呟きながら、視線は上に向けていた。そこにあったのは澄み渡る秋空でもなんでもなく、ちょっと汚い学校の天井だったりしてちょっとショックだった。だからすぐにまた前の方に視線を戻した。既に中央廊下を渡りきっていて、目の前には街の風景と澄み渡る秋空があった。
「そうだね」
 始めはぽかんと俺を見ていた直人も、小さく笑いながら答える。
「でも、実らなくても幸せだったりもするんだね」
「そうだな」
 左に曲ってすぐのところにある、三階への階段に足をかける。少しのんびりしすぎたのか、周りには他の生徒の姿は見えない。
「お前の場合はとりあえず友達から始められたわけだしな……大事にしろよ」
「うん」
 なんか随分偉そうなこと言ってるな、と心の中で苦笑しつつ、俺たちは教室へと向かう。
 そして心の中で思う。結局、皆同じなんだな、と。直人たちも、俺も。

 俺と南の関係は、世間一般的に見て良好なのだろうか?
 なんだかんだ言って女性との真剣な交際経験が無い俺にとって、そこらへんは微妙だったりする。
 顔を合わせれば必ず挨拶をし、時間のあるときには色々ととりとめの無い話なんかをしたりする。……って、特にこれくらいしかやってない。
 まあ、まだ付き合い始めてから二週間目だし、こんなものなんだろう。それに確実に進展しているとは言える。なにしろ今日は、彼女との初デートってわけだ。
 去年やっとコンビニが出来た程度の田舎である我が町には、当然の如くデートスポットと言えるようなデートスポットが存在しない。よって俺たちは隣街にある、某有名大型商店に足を運ぶこととなった。つまりショッピングなわけだが、本日のスケジュールはこれだけである。いくら初デートいえども少し寂しい気もするが、本当にそれ以外にはボロい映画館とかぐらいしかないのだ。別に観たい映画もないし、金も無駄になること間違いなしであり、双方一致でショッピングオンリーに決定した。そもそもデートはその過程が大事なんだから別に何処にどれくらいいようが関係ない、と心の中で主張してみる。
 駅でそんな自己弁解をしながら椅子に座って待っていると、エスカレーターを走って昇って来る少女を見つけた。南だ。
「ご、ごめんなさい、遅くなっちゃって……」
「いや、まだ時間には早いし。それに君の方が遠いし、仕方ないことでしょ」
 息を切らしながら申し訳無さそうに弁解する彼女を、なんとかなだめる。待ち合わせ時間は10時だが、現在の時刻はその10分前である。遅刻どころか充分早い。ちなみに俺が着いた時は20分前だった。なんだかんだ言ってやる気満々だな、俺。とか思ってみる。
「んじゃ、行くか」
 そう言って立ち上がり、切符売り場へと向かう。その隣りをなんとか息を落ち着かせた南が歩く。俺たち以外にはほとんど誰もいなかった。高校生然とした3人組の男性と、老人が数名、20代前半と思われる女性が一人いる程度だ。3人の高校生は円を作ってしきりに何か話している。ときおり大声を出して笑ったりもする。数人の老人は待合室で特に話すこともなくぼーっとしているようだ。一人の女性は何度も腕時計を見ながら階下の入り口を気にしている。誰かと待ち合わせだろうか。
 ここから上りで二駅目にあたる目的の駅への切符を買い、改札を通る。駅員が窓口で直接チェックするタイプなのだが、中々やる気も無く、ときおり無線乗車なども起きているらしい。まあ、俺にはどうでもいいことだ。俺は普通に切符を見せてチェックしてもらい、普通に通るだけだ。勿論、後ろの南も。
 改札を通って階段を降り、ホームへと辿り着く。そこにも数は少ないものの数人、電車待ちの人々がいた。中学生と思えるような女子が3人ほど固まっていたが、見た感じ一年生って感じだ。もしかしたら小学生かもしれない。とりあえず、知り合いでなくて少し安心した。彼女達は俺たちに気付き少し視線を向けたがすぐに話しに戻る。まあ、別に知り合いにばれても構わないのだけど。
「先輩って、私と付き合っていること、誰かに話しました?」
 ホームの黄色いライン(と言ってもここでは白いが)のすぐ傍に立って電車を待っていると、唐突に彼女が訊いてきた。
「まあ、この前の月曜の朝会の時、直人って奴に紹介した時以外は、誰にも」
「そうですか」
 一人納得したかのように頷く。
「私も、誰にも話してないんですよ、実は」
「ふーん……何で?」
 我ながら素っ気無い返事だ、と思ったので少し理由の質問を付け加えてみた。
「ん……まあ、あまりべらべら喋ってもノロケみたいな感じで聴かされた人が不愉快になっちゃうかなって思って」
 まあ、確かに判らなくも無い。言わない必要も無いが、言う必要も無い。そんなとこだろう、基本は。
「でも、私が柿崎先輩と付き合ってるなんて言ったら、皆きっと驚くかも」
「……何で?」
 また同じ言葉を繰り返してしまったが、今の結構、素だった。
「知らないんですか? 柿崎先輩、実はかなり人気ですよ」
「あー……」
 隣にいる俺を見上げながら南はそう告げた。その視線から逃れるように視線を逸らし、つい頬をぽりぽりとかいてしまう。
 知らないわけではない。後輩限定ではあるが、確かに人気はあるようだ。
「何人か告白したって言ってましたけど、皆、断っちゃったみたいですね」
「ま、まあな……」
 なんか責められているみたいで落ち着かない。皆、というわけではないが確かに大半は断った。しかしよく考えてみると結構な数から告白されていることに気付く。うーむ、しかし何故後輩限定なんだ……?
「でもなんで、私の告白にはOKしてくれたんですか?」
 目を逸らしている俺の横顔をじっと見つめながら、南はそう訊いてきた。俺は頬をかく手を止め、言葉に詰まる。
 ……OKした理由……正直に答えるのならば、『なんとなく』である。間違いなく。だがそんなことを正直に答えてしまったら、さすがにヤバいだろう。
「い、いや、まあ……その、なんだ……」
 いい言い訳が見つからずしどろもどろになってしまう。これじゃなおさらヤバイ。怪しすぎる。
 しかし南はそんな俺を見て、くすっと微笑する。
「OKしてくれて、ありがとうございます」
 そして、満面の笑顔でそう告げた。俺は視線を彼女に戻し、その表情を真っ直ぐ見つめた。茶色気味のショートカットに包まれた小さめな顔は、素直にとても可愛らしかった。慕われる幸せというかなんというか、そんなものを感じてしまう。
「その笑顔が、すっごい好きとか」
 だからそんな結構恥ずかしめな台詞が口から出た。けどやっぱり恥ずかしくて、口調は少々ぶっきらぼうで視線も背けてしまった。
「またまた先輩、無理して理由とかつくなくてもいいですよ」
 そんな俺の中途半端な態度が仇になって、彼女は俺の台詞を冗談と受け取ったようだ。……結構本気だったんだけどな。
「理由なんて無くても、ここにいてくれているのは事実ですし……私はそれだけで充分嬉しいです」
 それが本心なのかどうかはわからない。唯、電車がくるであろう線路の先を見つめながら呟いた彼女の表情は、真剣そのものだった。
「なんて、私の勝手な解釈ですよね」
 俺に視線を戻し、照れ隠しのように笑う。そんな彼女を見て、俺は口元に自然と微笑がこぼれた。
「そんなことないよ」
 そう言って、そっと彼女の右手に触れた。彼女は少し驚いたが、すぐにその俺の左手を握り返した。
 なんとなく、か……
 なんとなくでも、俺はOKしたんだから……
 俺は、彼女のことが好きなんだろうな……
 そう、思った。
 けど。
 けど、その時既に、俺の頭の中には他の女性への想いがあった。
 それは紛れも無い事実だった。
 けれど少なくとも今は、その事を忘れようとしていた。

 南との初デート。その途中経過の感想としては……疲れた。
 11時少し前にショップに着き、その後延々と約4時間……洋服売り場、靴、洋服、鞄、洋服……なんだか同じ所をぐるぐると回っているかのような錯覚を覚えてしまいそうな――いや、錯覚ではないのかもしれないが――ルートで物色していく。女性の買い物は時間をかけるというがよもやここまでとは……いや、南だけかもしれないが……。
 まあ、他にすることも無いんだ。それに退屈しないように彼女は気を使い、俺に色々な話を振ってくれた。確かに疲れてはいるが充実した疲れ、と言った感じであった。
 彼女も今回のこのショッピングは非常に楽しかったらしく、終始笑顔といった感じではしゃいでいた。そういう姿を見ることも、俺を退屈や疲れから救ってくれた。
 そして回り回って現在午後3時。俺たちは少し遅めの昼食をとるべく店内のマクドナルドへと足を運んだ。
 近くにゲームコーナーがあるからか、結構子供づれの母親の姿なんかが多い。店の外にもマクドナルドはあるのだが、そこは此処とは対称に学生や若者が多い。この店にはもう一つ、ケンタッキーが一階にあり、ここよりは遥かに若者が多いが、南はマクドナルド派だし俺もどちらかというとマクドナルド派なので結局ここにした。それに子供づれの母親に囲まれたマクドというのも、違和感はあるものの別に嫌、というわけではない。
「何食べる?」
 レジに向かって歩を進めながら傍らの南に訊ねる。
「えっと、じゃあ、月見チーズバーガーを……」
「ああ、もうそんな時期か」
 メニューを見ると大きく月見バーガーと月見チーズバーガーの写真が。ここ最近マクドなんていってなかったから気付かなかった。そう、もう秋なのだ。それも、月見バーガーが出るほどの。
「んじゃあ俺もそうしようかな……一個でいいのか?」
「あ、うん。あんまりお腹も減ってないし」
「OK。飲み物とか、ポテトとかは?」
「あ、うん。いいです。ハンバーガーだけで……」
「OK」
 了解しながら少し残念だったりする。せっかく奢ってあげようと思ったのだ。それなのに月見チーズバーガー一個というのもなかなか張り合いが無い。まあ、俺が奢る気満々なのを感じ取ってそう言ったのかもしれないが……。
「じゃあ、月見チーズバーガー二つとポテトLで」
 そう言って注文を終え、適当なテーブルに腰を下ろす。南もそれに倣って俺の向かい側の席に座る。
「先輩も一つでいいんですか?」
 南は少し不安げにそう訊いてきた。自分が下手に遠慮した所為で……とでも思っているのだろう。まあ、実際にはそうなのだが。
「ああ。実は俺もあんまり腹へって無いんだよ。朝、食いすぎてな……」
 冗談交じりに笑いながら答えてやる。それを見て南もまた少し不安が和らいだようだ。口元に小さな笑みが生まれる。
 そこは喧騒に包まれていた。特に先述した通りゲームコーナーが近いこともあって子供達の声が中心になっていた。
 やがてトレイを持った店員が現れて、トレイの中から二つのハンバーガーとLのポテトをテーブルの上に置いた。
 店員が去るのを横目にしながら俺はハンバーガーを俺と南の前に置いて、その間にポテトを置く。
「ほら、これも食えよ」
 そう言って置いたポテトを指差す。
「い、いいんですか?」
「当然。そのつもりで買ったんだから」
「あ、ありがとうございます……」
 恐縮したように呟いたが、その顔は嬉しそうだった。そしておずおずとその指をポテトに持っていき、一本だけとって口に運ぶ。その微笑ましい仕草に思わず微笑する。
「遠慮しないで、どんどん食えって」
 そういいながら、手本を見せるかのように自ら手を伸ばして数本掴んで口に運ぶ。
「は、はい」
 そして南もまた手を伸ばし、数本掴んで口に運んだ。
 俺はそれを確認しながら、手元のハンバーガーを掴み、口に運ぼうとした時……
「あれ? 雅人に……南ちゃん?」
 背後から突然そんな声が聞こえた。聞き慣れた声。だがまさかこんなところで聞くとは思わなかった声。俺が振り向こうとする前に、目の前の南が驚いた表情でその名を呼んだ。
「あ、相川先輩!? ど、どうしたんですか!?」
「どうしたって……何? 日曜日の真昼間に女一人で買い物しているのがそんなに不思議?」
 相川と呼ばれた背後の女性は、南の言葉に対し、俺達への皮肉を僅かに込めた言葉を返した。
 ゆっくりと振り返ると、そこには私服姿のショートカットの少女――俺のクラスメイトであり、俺や南と同様に陸上部に在籍していた相川千穂という少女である。
「あ、いや、そういうわけではないんですけど、その、あの」
 千穂のわざとらしい不機嫌な声に気圧されて、思わずしどろもどろに弁解をする南。そんな南を見て千穂はくすっと口元を綻ばせ、笑いながらフォローする。
「解ってるって。私だってアンタ達見つけて驚いたし。それにしても、もしかしてお二人、お付き合いしているってわけ?」
 途中までは笑顔だったのだが、その後は違う意味での笑顔――悪戯を思いついた悪魔の笑顔っていうのはおそらくこんな感じなんだろう――を見せる。
「え、あ、いや、その、あ、はい……」
 前置きは長かったようだが、とりあえず南は肯定した。
「ふーん」
 千穂はニヤニヤとしながら俺と南の顔を見比べる。
「まあ、そういうことなら私はお邪魔かな? それじゃ、ごきげんよう♪」
 意味ありげな笑みを残したままそう告げ、去ろうとする千穂。それを南は突然引き止めた。
「あ、あの、先輩も一緒に食べませんか? 皆で食べた方が楽しいですよ……柿崎先輩も、いいですよね?」
 そう言って俺にも意見を促してきた。まあ、別に却下する理由も何も無い。俺はOKの意味を込めて頷いた。と、同時に持っていたままだった月見チーズバーガーを口にした。結構冷めてた。
「え……いいの? あーでも、そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど……その代わりにあんたらのノロケ話を聞かせられるって言うのなら遠慮するよ」
「そ、そんな、しませんよ!」
 悪戯っぽい笑みで告げた千穂の言葉を、慌てて否定する南。そんな南の様子を、千穂は完全に楽しんでいるようだった。そういえば、陸上部にいた頃から南はよく千穂にからかわれていた。
「そんじゃ、遠慮なくお邪魔させてもらうよん」
 そう言って南の隣の椅子の上に荷物を置く。荷物といっても洋服が入っているであろう紙袋が一個だけだが。
「じゃあ私は買って来るね」
 そう言って千穂はレジの方へと向かっていった。その様子を眺めながら残りのハンバーガーを一気に頬張る。
「まさかこんなところで相川先輩に逢えるとは思いませんでしたね」
「そうだな」
 同じくハンバーガーを口にしながら告げた南の言葉に相槌を打つ。まあ、休日にこのショップで知り合いと逢うこと自体は特に珍しくは無い。が、この昼時からも少しずれた時間帯に、このショップの中のマクドで逢うことは結構珍しいことだと思う。
「私、ちょっとトイレ行って来ますね」
 ハンバーガーを全て食べ終えた南はそう言って席を立ち、トイレへと向かった。
「ん。いってらっしゃい」
 ポテトに手を伸ばしながら俺はそう言って南を見送った。数人いた子供づれの親達も、さすがにこの時間にまでなると姿を消していた。時計を見るともうすぐ3時半となっていた。
「あれ? 南ちゃんは?」
 ポテトを頬張りながら暫くボーっとしていると、ハンバーガーとポテトが乗ったトレイ片手に千穂がやってきて、訊いた。
「ああ、トイレだって」
「ふーん」
 俺の回答を耳にしながら、千穂は先ほど置いた、自分の荷物を席の脇に置き、その席に自分が座る。そしてトレイを目の前のテーブルに置いて、そのトレイの中からポテトを取り出して、既に置かれている俺の買ったポテトの脇に置いた。俺の買ったポテトは既に残り少なくなっていた。
「はい、補給」
「どうも」
 とりあえず俺は、自分の買ってきたポテトの残り数本を一気に口に含む。それを眺めながら、千穂もまた新しいポテトの方を数本取って口に含み、その後自分のハンバーガーに手をつける。フィレオフィッシュバーガーのようだ。
「しかし、お似合いだねぇ」
「あん?」
 千穂の言葉に、訝しげな視線を返す。
「アンタと南ちゃん、さ」
「ああ……」
 曖昧な返事を返しつつ新しいポテトの方にも手をつける。
「何? 妬いてんの?」
「……南ちゃんがいるときはそういうこと言わないほうがいいよ」
 冗談交じりの俺の言葉に、千穂は曖昧に苦笑して返す。
「彼女から告白してきたんでしょ?」
 千穂は表情を取り戻して訊いてきた。
「ああ」
「相変わらず後輩にだけはもてるね〜」
 ハンバーガーをもぐもぐと口にしながら笑う千穂に、俺は「だけ、は余計だ」とだけ返した。
「でもまあ、そのこと自体は珍しくないんだけどね。前々から南ちゃんの気持ちには気づいてたし……。それよりも珍しいのは、アンタが告白にOKしたことだよね」
「ああ、それは俺もびっくり」
 新しいポテトを一本ずつちみちみと食べながら答える。そんな俺の回答に、千穂は理解できない、といった表情を表す。
「びっくりって……。アンタは何でOKしたの?」
「いや、なんとなく」
 俺の返答に、再び千穂は呆れたような驚いたような表情を浮かべる。
「なんとなくってさあ……。なんか、あの娘のここが好みでとか、そういう理由は無いの?」
「いや、可愛いと思う。性格もいい娘だし、一緒にいて楽しい」
 それだけ答えて、ポテトを食べる手を休める。そして千穂に向き直る。
「でも、別にそういう理由でOKしたわけじゃないと思うんだよ……ホント、あの時はノリっていうか勢いっていうか……」
「何それ」
 はぁっ、と千穂はため息をついた。
「じゃあ、あの娘のことが好きってわけじゃないの?」
 千穂もまた、残り後少しのバーガーを食べるのを中断し、俺を真面目に見つめる。そんな千穂に、俺は何も言わず頷いた。
「なんだ……そうなんだ」
 千穂は少しがっかりしたような表情で俯いた。
「あの娘はそのこと知ってるの?」
「さあ」
 再び顔を上げ、訊いてきた千穂に、俺は短く返した。
「でも、多分気付いてるんじゃないかな。自分でも少しそっけなさすぎると思うくらいの態度とってたし……」
 そして俺もまた小さくため息が出てしまった。
「できるだけ好きになろうと思って、それでいい感じの態度を返してあげようかと思ったけど……結局、無理だったみたいだ」
「好きには、なれない?」
「……かもしれない。まだ判らないけど……」
 俺の返答に、千穂は「そっか」とだけ呟いて再び顔を伏せた。
「アンタには、誰か好きな人、いるの?」
 唐突な問いだった。俺は一瞬何を訊かれているか、理解できなかったが、すぐ落ち着きを取り戻し答える。
「……いるよ」
「そっか」
 伏せたままの千穂の顔を見つめながら答えたが、彼女は顔を上げないまま、あまりにもそっけない答えを返した。
「それじゃ、仕方ないか」
 少し遅れて彼女は顔を上げ、俺を見た。
「だったら、最初からOKしなきゃよかったのに、さ。彼女が結構可哀想だよ」
「かもな」
 俺は目を逸らし、南が消えていった通路の方を見つめながら呟いた。
「まあ、それでもデートできただけでも嬉しかったかも知れないけどね」
 俺をフォローするかのように笑顔を取り繕いながら千穂は言った。俺も視線を戻し、曖昧に笑った。フォローする部分が違うだろ、と心の中で呟いてみたが、勿論聞こえるはずは無い。
「お前もいるんだろ?」
 俺は千穂に訊いた。
「……好きな人?」
「そ」
 千穂は何も答えず、曖昧な微笑で返した。その表情に肯定の意味を感じ取った俺は、しかし別段驚くことも無かった。その問いは疑問というより確認に近いものだったから。
「――」
 俺は何か言いかけて口を開き――
「お待たせでっす」
 そこに、南が帰って来た。
「……あれ? なんか、ちょっと邪魔しちゃいました?」
 テーブルの周りに漂う不思議な雰囲気を感じ取ったのか、南は困惑した表情を浮かべた。
「いや、そんなこと全然無いよ」
 そんな南に、千穂は笑顔で返す。
「ほら、ここ」
 そう言って千穂は自分の隣の席、つまり南の席を指差す。
「あ、はい」
 南は答えて、その席に腰を下ろす。それを横目にしながら千穂は残りのハンバーガーを一気に口に入れた。
「それじゃ、私はそろそろ帰るね」
 口の中のハンバーガーを咀嚼し、そう言いながら千穂は席を立った。
「え? あ、もう帰るんですか?」
「うん。いつまでもアンタらの邪魔できないしね」
「そ、そんなことないですよ」
「いいっていいって。私も本当にそろそろ帰るつもりだったし」
 千穂は笑顔のまま南をなだめ、さっさと帰る準備をする。
「それじゃ、南ちゃん、雅人、バイバイ」
 洋服の入った荷物を左手に持ち、右手で俺たちに向けて手を触る。
「バイバイ」
 南も体を立ち去る千穂の方へと向けて手を振った。俺も「じゃあな」とだけ。我ながらそっけないな、と思った。いつだって俺はそうだ。
「なんか、私、全然話せませんでしたね」
 南は体をこちらに戻し、残念そうな笑顔で呟いた。
「そうだな」
 俺も相槌を打って、千穂の残したポテトに手を伸ばした。

「今日は、本当に楽しかったです」
 俺たちの街の駅のホーム。電車から降りた後、南はそう呟いた。振り返った俺は、南がどことなく寂しそうな表情を見せているのに気付いた。
「そうだな」
 だがその表情については何も触れず、笑顔でそう答えた。
「先輩も、楽しかったですか?」
「勿論だろ」
 嘘偽りの無い俺の答えに、南は少し安堵した表情を浮かべた。
「楽しかったよ」
 それは紛れも無い事実だった。疲れはしたが、充実していた。唯のショッピングだけだったが、その中で交わされた会話の一つ一つが、南の見せた笑顔の一つ一つがとても楽しく、美しく、幸せというものを感じられた。
 ……けれど。
「だけど」
 ぽつり、と南は呟いた。
「だけど、やっぱり、先輩って私のこと好きじゃないんですね」
 南は笑顔でそう答えた。寂しそうな笑顔だった、と感じたのは俺の一方的な思い込みだろうか。南の言葉の中に含まれていた感情の断片の所為かもしれない。
「…………」
 そんな南に返してやれることは、唯の沈黙だけだった。
「今日は、ありがとうございました」
 そう言って南はぺこりと頭を下げた。もうこのホームには、俺たち以外誰もいなかった。
「ごめん」
 嘘でも「好きだよ」と呟こうとして、そんな言葉が出てきた。
 顔を上げた南は、笑顔のまま俺を見つめた。
「謝る必要なんか無いですよ……。今日まで『彼氏』してくれた先輩には、本当に凄く感謝しているんですから」
「いや……」
 否定しかけて、それを南が首を振って静止する。
「先輩、好きな人いるんですよね?」
「え……?」
 その唐突な問いに、俺は何も言えず固まってしまった。
「やっぱり」
 その俺のリアクションを見て、南は楽しそうに笑った。けれどそこには、それでもまだ悲しみが含まれているように俺には見えた。
「そんな感じが、してたんです。なんとなく」
「……そっか」
 ふう、と小さくため息をついて俺は頷いた。
「ごめん」
「だから、謝らないで下さいって」
 俺の小さな謝罪の呟きに、南は笑って返した。けれど今の俺の口からは、そんな小さな謝罪の言葉しか出すことが出来ない。情けない、と自分でも感じていた。
「ごめん、本当に……」
「もう」
 南は少し、俯いた。
「私に謝る暇があったら、その好きな人に告白でもしてくればいいじゃないですか」
 俯いたまま、そう呟いた。
「私だって先輩に告白できたんですから……それで先輩はOKしてくれたんですから……先輩だって、それくらいしましょうよ」
「…………」
 暫く俺は、南の言葉を黙って訊いていた。
「……そうだな」
 やがてぽつりとそう呟いた。
「頑張ってみるよ」
 そう、呟いた。
「絶対ですよ」
 南は顔を上げ、俺を見つめた。
「絶対……」
 言いかけて、やがて何も言葉をつなげなくなって、南は顔を逸らした。
「ん……」
 俺も顔を逸らし、無言になってしまう。真上にある新幹線のホームに、ゴゴゴゴゴ、と騒音を建てながら新幹線が入ってきた。
「先輩」
 騒音の中聞こえたその声に視線を向けると、南が俺の顔を見上げていた。とても儚く、切ない表情で。
「最後に……」
 そう呟いた直後、騒音はぴたっと止まった。辺りに静寂が訪れた。
「……なんでもないです」
 笑顔を浮かべ、そう答え、南は身を翻した。
「さ、帰りましょう」
 俺のほうへと振り返った彼女は、そう告げた。
「ああ」
 俺は唯それだけしか返せなかった。

 その後俺たちは簡単な別れの挨拶を交わし、それぞれの帰路に着いた。
 たった、それだけだった。
 それで、終わりだった。

 駅から出てきた俺は、茜色に染まる空と藍色に染まる空を見上げた。もう既に、陽は沈もうとしていた。その輪郭は既に山々に隠されて視界には無かった。日は段々と短くなっていき、季節の移り変わりを克明に示していた。
「…………」
 俺は暫くそんな空を黙って見つめていて、そしてやがて歩き出した。
 ……近いうちにアイツの所に行ってみるか。
 そんなことを、考えながら。





to be countinued to [that mirage of summer-4]



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