ナツコイ-first love-
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第7章 再開






     “あの……オレと君って――”





 最初の感触は背中から生まれた。
 一瞬、柔らかい、と感じたそれは、次の瞬間叩き落されたかのように固い感触へと変わった。
 開かれた視界は、ぼんやりと薄い膜が張ってあるかのようにぼやけていて、何が何なのか理解できなかったが、少し遠い所に壁があるのがなんとか判った。
 次に、先ほどの固い感触は背中だけではなく、体全体の後方から感じられるものだということが判った。そして次第に、それが固いというよりやや柔らかいと感じ始めた。
 そして胸からの下の全身の前方に、柔らかい感触を感じ、それが自分の方向へと向かってきていることが判った。
 と、いうより、それはオレの体を覆っていた。
 オレは、やや柔らかい何かの上に仰向けになっていたようだ。
 段々クリアになってきた視界で、先ほどの壁、否、天井が、白一色であることが判った。
 そして、今自分が仰向けになっているやや柔らかい何かはベッドであることが判った。
 オレを覆っているのは布団だ。
 他の感覚とやや遅れて回復した聴覚は、いくつかの喧騒を捉えたが、それが具体的になんなのかは判らなかった。ただ、遠い所に酷く沢山の人がいて、それぞれがそれぞれで何事かを話しているということが判った。
 気が付けば全身の感覚が回復していた。
 ほぼ無意識に周りを見渡してみると、そこが部屋であること、そして普通とは少し違う部屋である事が判った。
 天井の高さは普通の高さだ。ベッドのすぐ右脇には小さな机があって何も置かれてない。小さな椅子が一個あって、誰も座っていない。右手に3メートルぐらい離れて壁があって、扉もあった。左手には1メートルくらい先に、ガラスがあった。その向こうは細長い廊下みたいになっていて、見える範囲だけでも一個扉があった。ともあれ、そのガラスの向こうはこの部屋とは全く別で、通り抜ける事はできないようだ。
 頭を少し浮かせて前後も見てみると、頭の上の方には窓があって、外の風景を見ることができた。空は曇りがちで、空全体を白とも灰色ともつかない雲の膜が覆っていた。そのお陰で光は弱く、今が朝なのか昼なのか夕方なのかすらよく判らなかった。
 季節はすぐ判った。そんな空の下のほうに、幾つかの杉に紛れて葉の少ない木々が見えた。僅かに残った葉っぱは完全に枯れ果てていて、やがてそれらも足元に舞い落ちるであろうことが予想できた。
 秋だ。
 秋?
 秋、だと?
 視線を巡らすと、右手の壁にカレンダーがかけられていることに気付いた。目を凝らすと――電気がついていないうえにこの天気なので室内は薄暗くて仕方ない――そのカレンダーの上部には枯れ木の写真と共にでかでかと11という数字が載っていた。11。つまり、11月。
 寝ぼけ気味の脳が休息に活動を再開する。
 秋? 11月?
 大体オレは何故眠っていた? ここは何処だ? 眠る前の記憶が思い出せないのは何故だ?
 脳の深層に眠るオレ自身の睡眠前の記憶を必死に探し出す。やがて発見されたそれは――4、月? そうだ。オレは、眠る前までは4月という季節にいたはず、だ。あ、れ? 判らない。解らない。カレンダーは11月を指しているし窓から見える景色は秋そのもの。だけど、そうだ、オレは確かに4月という時間を過ごしていた。いや判らない。あまりにも眠りが深すぎて時間的な感覚が狂っている。ホントに4月? いや、4月のはずだ。オレはもう一度オレの中の記憶を整理する。
 そうだ。4月に入ったばっかりの頃。エイプリルフールだって言って友人に馬鹿なメールを送りつけてやったことは覚えている。その直後。2日とか3日とか、そのへんだ。7日にあるはずの始業式よりも前だ。それは確かだ。じゃあ何故カレンダーは11月を指しているし世界は秋の終りを突き進んでいるのか。
 寝てた、のか?
 いや待て、7ヶ月も? しかしそうでないと説明がつかない。大体それくらい眠っていても不思議じゃないくらいオレは今、体の感覚がおかしいし、脳も上手く働かない。確か以前丸二日眠り続けた時なんかと同じ感覚だ。しかし今回は7ヶ月。丸二日なんかとは訳が違う。当たり前だがそんなこと体験したことがない。
 いや、そもそもここは何処だ? オレの部屋じゃない。普通の人の部屋とも絶対違う。こんな何も無くて無機質な感じの部屋で――大体、左手にガラスがある部屋ってどんな部屋――
 病院?
 そうだ、確かにそうだ。そういえば以前こんな部屋を見た事がある。よくよく考えてみれば周りの必要最低限かもしくはそれ以下ぐらいの備品しか無い部屋もそんな感じだし、窓から見える風景もよくよく見たら病院の前の駐車場じゃないか。薬局もある。その向こうには町営のグラウンドも遠くに見える。そうだ、間違いない、病院、だ。
 そこまで考えて、突然右手のドアがノックされた。
 滅茶苦茶驚いた。
 かろうじて返事をしようとして第一声が言葉にならなくてもう一回トライしてなんとか声を出せた。
「は、はい」
 やけに高い声になってしまった。
 オレの返事とほぼ同時に、いや、それよりも若干早くそのドアは開かれた。ほんの僅か開かれたところで、オレの返事に反応してびくっと止まった。驚いた、ようだ。
 ほんの少しのタイムラグの後にその扉は何の問題も無く開かれ、その先から一人の看護婦が入ってきた。オレと同じくらいの身長で、顔はまあまあ悪くない。着やせするタイプのようだが胸も小さいというわけではなさそうだ。その表情はやはり驚いているような様子だった。
「目、覚ましたんですね」
 結構可愛い声で、そのお陰かオレの独断的容姿レベルが若干アップした。
「え、ええ」
 とりあえずそう返事をした。それだけしか返事なんてできなかった。何しろ情報が少なすぎる。何も判らないのだ。彼女が看護婦ということで、ここが病院だという推測が証明されたということぐらいである。
 向こうは表情でオレの内心を悟ったのか、安心させるように笑顔を作って説明を始めた。
「よかった。君、2ヶ月も眠っていたのよ」
「は、は――い?」
 ?
 2ヶ月?
 ん?
「あの、2ヶ月って」
「ああ、ほら」
 わけのわからないまま訊いてみようとすると、彼女は壁のカレンダーを指差した。
「11月、でしょ? 信じられないかもしれないけど、君、事故から丸2ヶ月も眠っていたのよ?」
「じ……こ?」
「うん……あ」
 頷いて、彼女ははっとしたように口元に手をあてた。
「そっか、事故の瞬間とか、あまり覚えてないよね、そりゃ。起きたばっかりなんだし。もうちょっと落ち着けば思い出すと思うけど」
 彼女は笑顔のままぺらぺらと言葉を紡いでいった。
「とにかく目が覚めてよかったわ。今、お医者さん呼んで来るから、待っててね」
「あ、はい……」
 そう言って、彼女はさっさとその部屋――病室を出て行った。オレは彼女の背中と閉まるドアに曖昧な返事だけを残した。
 後に残ったのは相変わらず遠くから聞こえる無数の喧騒と疑問だけだった。
 ……2ヶ月?
 ……事故?

 …………
 ……

 医者が駆けつけ、2,3言葉を交わし、その後は向こうからの質問責めといった感じだった。それでも、こっちから質問しようとしていた内容が必然と引き出されるような質問だったため、特にそれを不快と感じることは無かった。
 それらの質問と会話の中で、ようやく俺は現在の状況を確認することが出来た。
 俺は、あの看護婦の言うとおり、確かに2ヶ月前、橋を降りた所にある交差点の近くで、車に轢かれて気を失ったらしい。外傷はそれほど酷くなかったが、脳に対する強い衝撃により、この2ヶ月間ずっと眠っていたらしい。
 しかし、その事故がもたらしたものは2ヶ月間の眠りだけではなかった。
 俺の記憶の中に在る7ヶ月前までの記憶と実際の2ヶ月前の事故との間にある失われた記憶。
 局部的な記憶喪失。現在に近い部分だけの記憶が失われた、通常よりも若干軽い記憶喪失。
 通常よりも軽いので、すぐに治るだろうということでそれほど深刻には考えなくてもいいらしい。
 とは言え、やはり何かと不安ではある。
 5ヶ月間の空白。
 外傷も完治しおり、2ヶ月の身体的ブランクも記憶喪失も、日常生活を再開した方が回復は早いだろうとの判断で、とりあえず入院とリハビリは一週間くらいで終りにするらしい。
 オレの目覚めを聞きつけて、わざわざ仕事を中断して駆けつけてくれた両親は、涙を流して喜んでいた。あまり両親のことは好きではなかったが、その姿にはさすがに、オレ自身も少し嬉しかった。思わずぶっきらぼうに対応してしまったが、感謝している。
 なにはともあれ、なんとかやっと色々と状況も掴めてきて、少しずつではあるが安心してきた。
 次の日に見舞いに来てくれた友人達の姿も、その安心を深めてくれた。

 その前に、病室を移された。
 他の患者達と一緒で、一部屋に6つのベッド。各ベッドの間にはカーテンで仕切りがかけられていて、様々な小物やポスターなども多い部屋。見慣れた部屋で、生活臭もあり、他の人たちとも話が出来て、目覚めたばっかりの時のあの、ガラスの壁の不気味な部屋なんかよりよっぽどマシだった。
 そんな部屋に、彼らは訪れてくれた。
 オレの親友の、柿崎雅人。オレの部活――11月ってことはもう終わっているだろうが――の部長の桐生直人。オレの幼なじみの相川千穂。オレのクラスメイト――と言っても、もう学年は変わったのでどうなったかは判らないが――の椎名美奈。それとあと一人……よく椎名さんや千穂と話していて何度か見たことはある、けれど名前は知らない少女。その5人だった。
「よう、隆二、2ヶ月ぶりのお早う!」
 開口一番、雅人は、ベッドの中で上半身だけを起こしていたオレに向かって、大声で挨拶を交わした。そしてそれに対し、すさかず千穂が突っ込みを入れた。グーで後頭部だった。
「病院でいきなり大声出さない」
「はい……」
 雅人は後頭部を抑えたまましゃがみ込み、泣きそうな声で答えた。
「でもホント、お目覚めおめでとう、リュージ」
 千穂が笑顔でそう言ってくれた。
「おめでとう、隆二」
「おめでとうございます、志倉さん」
 直人も椎名さんも、続いて笑顔で祝福を告げてくれた。おめでとう、という言葉がこの場面で相応しいのかは判らないが。
 そして彼らと一緒にいたもう一人の、名前が判らない少女も、顔を少し赤らめながらも近づいてきた。
「ほら、那美」
 その少女の背中を千穂が軽く押した。少女は軽く頷いた。
「おめでとう、隆二…………ほんと……良かっ……た……」
 少女の言葉の末端は震えていた。その双眸から、雫が頬を伝っていた。
「ホント……良かった……」
 言いながら少女は、突然オレの体に抱きついてきた。と言っても両の二の腕の部分の服を掴んで胸に顔を埋めてきただけだが。
「な……」
 その突然の事態にオレは思わずうろたえ、何も出来ないまま固まってしまった。なんとか説明を求めようと千穂に顔を向けると、彼女はニコニコと笑顔を作っていた。
「那美、凄く心配してたんだよ、ホント。2ヶ月も眠ってさ……泣かせるなんて、最悪だね、アンタ」
 冗談半分で告げる千穂。だが、オレにとってはそんな言葉だけじゃ何が何だかなんて理解できるわけがない。
 名前も知らない顔だけしか見たことの無いような少女に、いきなり抱きつかれてそんなこと言われても、何も解るわけがない。
「あの、さ……」
 胸の中の少女に向けて、小さく言葉をかけてみる。しかし彼女は肩を震わせて嗚咽混じりで答えるだけしかできなかった。その光景を雅人も直人も椎名さんも勿論千穂も、微笑ましげに眺めている。どうやらこの状況を理解できていないのはオレだけのようだ。
「あの……」
 もう一回声をかけてみると、少女はなんとか泣き止むのに成功し、ゆっくり顔を上げてオレを見つめた。覗き込むような彼女の瞳に、思わずドキッとした。
「あの……オレと君って、一体、どういう関係なんですか……?」
 言葉を選んで、そう訊いてみた。
 そこにいる誰もが、その言葉に硬直した。

「なっ……!」
 数秒間の沈黙を破り捨てたのは、雅人の声だった。
「おま、お前、何言ってるんだよ!?」
 身を乗り出してきてオレを睨み付け、怒気を必死で堪えながら言葉を吐き出してくる。
「どういう関係って……はあ!?」
 訳がわからない、と言った感じでオレの瞳を見つめる。説明を求めるような表情だが、それはオレだって同じだ。
「……もしかして、この半年の間のことか?」
 その可能性に思い当たり、訊いてみる。オレの言葉に、雅人、そして胸元の少女含め一同は疑問の表情で互いを見回す。
「半年の間のことって、どういう意味……?」
 胸の中の少女がオレを見上げながら訊いてきた。
「オレ、どうやら事故のショックで今年度初めからの半年間の記憶を失くした様なんです」
 彼女の両肩を掴んでオレの体から話しながら、そう告げた。彼女と、そして他の皆は全て一様に驚きと、そして理解できないといった感じの表情を見せた。それはそうだろう。オレだっていきなりそんなこと言われたら、信じることなんてできないだろうに。
「だから、もし君との何らかの関係がこの半年の中での出来事なんだったら……悪いけど、暫くの間はその記憶を失ったままになると思う」
 少女は呆然とした表情でオレの言葉を一つ一つ噛み締めていった。
「半年……」
 彼女はぽつり、と呟いた。
「でも、記憶喪失としては軽いものだから、日常生活の中で徐々に回復していくらしいし、きっとすぐに思い出すと思うよ」
 安心させるように丁寧に、できるだけ笑顔で彼女に告げた。
「な……」
 傍らで雅人は何か言おうと口を開いたが、結局何も語ることはできなかった。
「で、でも、いくらなんでも……忘れてるからって……そんな、」
 千穂が抗議するように口を開いたが、本人も上手く言葉にできないようにして結局口をつぐんだ。
 しかし彼女は首を振った。
「そっか……隆二……記憶失くしちゃったんだ……」
「あ……うん」
 彼女は同情するように哀しい瞳でオレを見つめ、呟いた。その言葉と表情があまりにも哀しすぎて、また思わずドキッとしてしまった。
「そっか……大変、だね……」
 かける言葉が見つからないように迷いながら直人は呟いた。
「記憶喪失……」
 椎名さんも何も言えないままその言葉を反芻する。
「いや、でもホント、そんな深刻じゃないし、さ。すぐに治るってことだし、大丈夫だよ」
 そうフォローしてからオレは、目の前の少女に視線を向け、言った。
「君のこともきっとすぐ思い出すと思うし……ホント、ごめん」
「あ……いえ……」
 彼女はぎこちない様子で首を振って答えた。
 
 結局その後はイマイチ雰囲気が回復しないままお開きとなってしまった。
 それでも、その後も何回かお見舞いに来てくれたし、その際には色々とまた話をした。
 彼ら以外にも、見舞いに来てくれた人はいた。
 例えば、朝倉由実とか。

 これはオレ的にかなり意外だった。
「おめでとう……」
 部屋に入ってきて、オレの前に来るなり告げたのはその一言だった。心なしか恥ずかしそうに見えたが、彼女が恥ずかしがるなんてことは先ずないだろう。
「あ、ああ……」
 だがさすがに校内一美人と称されているほどの少女のそんな表情は、少なからずオレに動揺を与えた。
「フルーツ買ってきたけど、食べる?」
「あ、ああ……」
 なんかいつもとは違う雰囲気にオレが戸惑っている間に、彼女はさっさと持参してきた袋の中から梨と皿とナイフを取り出し、切り出した。シャリシャリシャリという皮を切り取っていく音だけが残り、なんとも気まずい雰囲気だった。
「あ、あのさ」
「ん……?」
 オレが彼女に声をかけると、彼女は梨に向けていた視線をこちらに向けて僅かにに首を傾けた。
「なんか、様子おかしくない……?」
「そう……?」
「あ、いや、なんか、大人しいというか……」
「……別に」
 それきり彼女はまた梨との格闘を続けた。様子はおかしいが、コミュニケーションの取りづらさは特に変化無しの様で、仕方なくオレは口をつぐんだ。
 で、その後も終始こんな感じで、やがてオレの短い不思議体験時間は終りを告げた。

 また、ある日、石川杏子もやってきた。
「あ、隆ちゃん、久しぶり〜」
 入ってくるなり笑顔になって間延びした口調で話しかけてきた。
「はい、これ。おみやげ」
 そういって杏子は袋を手渡してきた。
「ん? 何コレ……って、柿?」
「そ、お母さんが持っていけって」
「いや、ああ……ありがたいんだけど……ナイフも何も無いぞ?」
「え?」
 そこで杏子は固まった。
「あ、そ、そうなんだ……」
 アハハハハ、と乾いた笑い。
 ふう。
「まあ、いいや。後で貰うよ。ありがとう」
「ん。ごめんね。どういたしまして」
「どういう日本語だよ、それ」
 苦笑しながら貰った袋を脇の棚の上に移した。
「記憶喪失……なんだって?」
「ん、ああ……」
 突然深刻そうな口調で杏子は呟いた。
「いや、でも軽い奴だし。半年間分だけみたいだし。まあ、それほど深刻なものじゃないよ」
 そう言いながらオレはとりあえず笑った。それを見て杏子も安心したように表情を和らげる。
「で、どうだよ。オレがいない……っていうかオレの解らない間の半年間は。何か変化とか、あった?」
「んー……ああ、うん、まあ、色々あったけど……うん」
 イマイチ歯切れが悪い。
 まあ、オレの質問も中々解りづらいものではあったし、何かこっちから具体的なことを訊くしかないだろう。
「この学校には慣れたの? オレが覚えてる限りじゃ、結構まだぎこちなかったみたいだったけど……そろそろ一年経つでしょ?」
「あ、うん……」
 頷きながら、二コリと笑った。
「色々あったし……3年になってから女子テニス部に入ってね、そしたら結構友達増えて……」
「ああ、そういえば前の中学じゃテニス部だったんだよな」
「うん」
「上手かったのか?」
「ん……まあ、それなりにね」
 えへへ、と照れたように後頭部を掻く仕草を見せる。
「男子部の方の直人クンとも仲良くなったし……」
「ああ、直人と? へえ」
「うん……」
 まあ確かに直人は優しいし、特に女子テニス部とは交流持ってて人気も高いしな。元カノも女子テニス部だったし。
「アイツ、いい奴だろ?」
「う、うん……」
 オレの言葉に、恥ずかしそうに頷く。何故か顔中赤面していた。
「そうか、テニスか……」
 ふう、とため息をついてから思い出したように訊いてみた。
「テニス部……終ったんだよな、もう」
「あ、うん……」
「……どうだった?」
「……どうだったって……?」
「いや、成績とか……」
 記憶は無いが事故は8月末なので、オレは確実に大会には出たはずではある。
 自分が出たはずの大会を覚えていない、なんて、まるで過去にタイムスリップするSFの主人公にでもなった気分だった。
「あ、うん……」
「駄目だった?」
「ん……」
 曖昧に、でも確かに頷いた。まるで自分のことのようにうなだれている杏子の姿を見て、なんだか可哀想になってきた。答えの解ってるような問いかけで、彼女を苦しめるべきではなかっただろう。
「悪い、どうでもいい質問だったな」
「え……いや、そんなことは」
「ああ、いい、いい。それより、お前はどうだったんだ?」
 質問の矛先を杏子に向ける。オレの言葉を必死で否定しようとしていた杏子は、突然振られてきょとんとする。
「あ、私は……私も、県大会初戦敗退だし……」
 オレに遠慮するように声を小さくして呟く。
「でも、県大会まで行けたんだし、いいじゃん」
「ん……」
 つい口から出た言葉は、自分でも解るくらい嫌味っぽかった。
「あ、悪い……」
「え?」
 オレの謝罪の意味に気付いていないかのように不思議そうな顔で聞き返してくる。その顔を見て思わず吹き出してしまった。
「な、なんで笑うのぉ!?」
 突然笑われて怒り出す杏子。その仕草もまた本当に怒ってるようには見えない仕草で、なんというか、
「お前らしいな」
「なっ……」
 そこまで杏子は言いかけて、病室の扉が開かれる音が聞こえた。
 看護婦かな? と思ったら、やってきたのは見慣れた人だった。
「志倉さん、こんにちは……あ、石川さんもご一緒だったのですね」
 椎名美奈だった。
「あ、椎名さんこんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
 笑顔で挨拶を交わすオレと椎名さんとは対照的に、杏子は突然萎縮してしまう。オレの知ってる限りではこの二人は特に話したことも無かったし、そもそも杏子は相手に敬語で話されると思わず萎縮してしまうタイプだ。椎名さんなんかはかなり相性が悪いだろう。
「あ、おいしそうな柿ですね。私も実は持ってきたんです。ナイフもありますし、食べましょうか?」
 そう言って彼女は持っていた袋を差し出した。
「あ、ありがとう。だってよ、杏子? お前も食べるだろ?」
「え、あ……あ、ごめん、私、これから実は用事が……」
「へ?」
「お母さんに頼まれてた用事忘れてて、アハハハハ」
 わざとらしく笑いながらさっさと帰る支度を始める。その様をオレと椎名さんは呆然としたまま眺めていた。
「そ、それじゃ、またね〜」
 最後まで笑顔を残したままその場を去っていく。
「……私って、もしかして石川さんに嫌われていたり……するんですか?」
 椎名さんは不安気な顔で閉まった扉を見つめる。
「いや、断じてそうではないよ。唯アイツは極度の人見知りだったりするから……」
 苦笑しつつフォローする。椎名さんはあまり納得できていない様子だったが、なんとか気を取り直したかのよう笑顔に戻り、先ほどまで杏子が座っていた椅子に座る。
「それじゃ、ちょっと柿が多くなっちゃいましたけど……とりあえず、2個くらい切りますね」
「あ、ああ、ありがとう」
 彼女はナイフと柿を取り出して、手際よく柿を切っていく。
「石川さんって確か、志倉さんの幼なじみさん……なんですよね?」
「……ああ」
 柿を切りながら、彼女はふとこちらに視線を向けて訊いてきた。
「と言っても本当に昔だけどな。ほとんど覚えてないし」
「相川さんも、石川さんの幼なじみなのですか?」
「千穂は違うよ。アイツは、杏子が引越しした後に知り合ったんだ。だから千穂と杏子とは、杏子が去年の一月に転校してきた時、初めましてだったってことだ」
「そうなんですか……」
 感心したように呟きながら、彼女は用意した皿に切り分けた柿を置いていった。
「はい。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 笑顔で促され、オレは素直にそれを手に取り、口に運んだ。丁度旬だった柿は、オレの口の中で甘く溶けた。椎名さんも一つ手に取り、口に運んだ。
「おいしいね」
「そうですね」
 オレの言葉に、彼女は柿を頬張ったまま答えた。
「しかし椎名さん一人っていうのも、珍しいね」
「そうですか?」
 口の中の柿を飲み込み、彼女は驚いたように返した。
「まあ確かになみちゃんも誘ったんですが、彼女今家にいなかったようなので……」
「ああ、そうだったんだ」
 なみちゃんこと水瀬那美、以前彼女や雅人達と一緒にお見舞いに来てくれた娘。オレの記憶が無い期間で、親しい関係にはなったようなのだが、今ではそのことは全く思い出せない。
「まだ、記憶は戻らないのですか……?」
「ん……ああ、みたい」
 彼女が心配そうにして訊いてきた。オレは思わず顔をうなだれて答えた。
 そんなオレの様子に、椎名さんは悲しそうな表情を見せる。オレは慌ててフォローする。
「いや、まあ、まだ一週間も経ってないし……それに日常生活に戻れば回復は早くなるだろうとも言ってたし……すぐ治るよ」
「……そうですね」
 オレの言葉に、とりあえず椎名さんは笑顔に戻った。そんな彼女の笑顔に、オレも思わずほっとする。
「それに確かに少しずつではあるけど、断片的には思い出すようになったし……」
 呟きながら、オレは必死に、回復しつつある記憶を探り当てようとする。
「確か、今年度は椎名さんとは違うクラスになったんだよね?」
「あ、ええ、そうですね」
「ちょっと残念だな」
「そ、そうですね」
 オレの言葉に、椎名さんは少し赤くなった。ちょっと違う意味で取られたのかもしれないが……そういう意味で言ったわけではないのにオレ自身も恥ずかしくなってくる。
「なみちゃんと同じクラスになったってことは、思い出しました?」
「え? ああ、いや」
 それは初耳だ。
「ああ……それで彼女と親しくなったんですね。道理で」
 同じクラスになれば確かに親しくなってもおかしくはないだろう。実際、普段あまり人とは話さないタイプの椎名さんともこうして親しくなったわけだし。
「え、ええ……そうですね」
 だが椎名さんは曖昧に頷いた。何故曖昧なのかはよく解らなかったが、その時はとりあえずあまり気にしないことにした。

 その後も椎名さんと色々話したりして時は過ぎ、彼女は帰って行った。
 お見舞いがこない時も、同じ病室にいるおばさんやおじさん達と、カーテンを開いてよく会話した。その病室でオレが一番若かったという事で結構可愛がられたりした。
 しかしあっと言う間に一週間という時は過ぎ、オレはついに退院することになった。

 そして。
 その日はよく晴れた日だった。
 通学路を歩いて通るという行為が、非常に懐かしく感じられた。
 感覚的にはほとんど半年間の空白を埋める事はできた。後は具体的なその内容だった。
 しかし思ったよりは回復していない、というのが、周りは何も言わないがオレ自身が感じた感想だった。
 だからと言って悲観しているわけではない。何はともあれ今日から学校も復帰する。学校の空気に触れて生活していけば、きっと良くなっていくだろう。
 いつもの通学路を踏みしめて歩く。病院内やその周りである程度リハビリはしたものの、未だに完全には筋力は回復していない。暫くの間は登下校だけでも疲労を逃れる事は出来ないだろう。
 しかしそれも特に苦痛だけではなかった。不思議な感じだった。今まで何の気なしに歩いていた通学路。それら全てが新鮮に感じる。周りに見える景色も、アスファルトを踏みしめる足の感触も。全てが。
 周りの景色が夏を通り越して秋に変移しているというのも、非常に不思議な感じだった。もうすっかりと木々は裸になり、アスファルトの上には枯れ果てた葉っぱが敷き詰められている。それらを踏む度に、カサ、と軽い音がした。
 ちょっと意識して特に落ち葉の集まっている部分に足を踏み入れてみると、ガサガサっと意外なほど大きな音がして、少しだけ驚いてみたりする。
 冬の色を纏い始めた空が視線の上部に移る。白に近い空色。薄い雲が世界を覆っている。そんな少し薄暗い朝の空気を、秋と冬の間の風が通り過ぎる。それは襟首を通って冬服の制服の中へと入り込んでいった。
 久しぶりの学校には、うまく入って行けるだろうか。さすがに半年間の空白は、少なからず支障をきたすに違いない。
 服の中を突き抜ける風を感じながら、少しだけ弱気にそんなことを考えていた。

 学校が近づくに連れて、視界には非常に懐かしい風景が広がって来始めた。昇降口へと向かって歩いていく幾多もの生徒達。ある者は個で、そしてある者は集団で。オレもまた、そんな人々たちと並んで懐かしき昇降口へと歩を進める。
 一、三年共用の西側生徒玄関。何人かの顔見知りと顔を合わせ、向こうは一瞬驚いたもののすぐ笑顔になって手を挙げ、挨拶を交わしてくる。対してオレも、同じようにフレンドリーに挨拶を返す。
 久しぶり、とか、いつ退院したの、とか、普通にお早う、といってきたりとか。知人に目を合わせるごとにほぼ確実にそんな反応をされ、オレは少し照れながらも対応していった。
 今日は月曜日で朝会。オレは鞄を玄関に置いて、何人かの友人と共に体育館へと向かった。
 体育館は朝会の直前で皆がやっと並び始めている頃だった。まだバスケットボールで遊んでいる者達もいて、喧騒と人ごみでカオス状態になっていた。そんな中を掻き進んでいくと、途中でばったりと千穂、椎名さん、そして水瀬さんと出逢った。
「あ、お早う、リュージ」
 早速オレに気付いた千穂が笑顔で挨拶をしてくる。
「ああ、お早う」
「もう退院なされたのですね」
「ええ。お見舞いありがとうございました、椎名さん」
 椎名さんの言葉に、オレは頷きそしてお礼も言っておいた。
「水瀬さんも、お早うございます」
 そして水瀬さんにも挨拶をする。
「あ、うん、お早う……ございます、志倉さん」
 水瀬さんは少しうろたえながら挨拶を返した。
「あーもう!」
 突然千穂が背中を叩いてきた」
「っ痛! 何をす――」
「何をじゃなくてー! もう、何でそんなに他人行儀なのよ! いつも通り那美、で良いじゃん!」
 顔をずいっと近づけられ、そんな風に言われる。
「いや、でも、なんか、まだ知り合ったばっかりの人に呼び捨てにするのとか苦手だったりするし……」
 思わず逃げ腰になりながら恐る恐る答える。
「だから! 知り合ったばかりじゃなくて前は――」
「ああ、いいよいいよ千穂」
 更に攻撃してくる千穂を、水瀬さんが後ろから抑える。
「まだ、記憶、あまり戻ってないんですね」
 そしてオレに向き直って笑顔を作りながらそう口にした。
「はい……そうみたいです。すみません……みな、那美……」
 ……やっぱり激しく違和感を感じる。
 そんなオレを見て、水瀬さんはクスッと微笑んだ。
「水瀬さん、でいいよ」
 そう言いながら右手を差し出してきた。
「今年度から志倉さんのクラスメイトになった、水瀬那美です。改めてよろしくお願いします」
「あ、ああ」
 とりあえず頷いて、オレもその右手を握り返した。
 その手の感触は、とても柔らかく、暖かく、彼女と病院で初めて――実際には初めてはないのだろうが――話したとき抱きつかれた感触を思い出した。
「はあ……せめて那美はそんな他人行儀にならなくても」
「あ、そうだね……でも、志倉さん……は迷惑では?」
 千穂の言葉を聞き、意見を求めるように水瀬さんはオレの顔を窺う。右手はまだ握ったまま。
「あ、いや、オレは別に構わない……よ」
 オレもできるだけ親しげに言葉を選びながら答える。
「うん、それじゃ、隆二、って呼び捨てにして良い?」
「あ、ああ」
 隆二、と慣れていない人に呼び捨てにされるとさすがにドキっとする。
 彼女はオレの返事にニコリと笑顔になって右手を離した。その瞬間、少し肌寒い空気が右手を包んだ。
「それじゃ隆二、よろしく」
「ああ、よろしく」
 オレも笑顔になって、そう返した。その光景を見ていた千穂も椎名さんも、安心したような笑顔になった。
「そろそろ並びましょう」
 椎名さんにそう促され、オレたちは並びつつある生徒達に混ざって規定の位置へと向かう。
「そういえば前から聞きたかったのですけど」
 その流れの中でオレはふと水瀬さんに尋ねてみた。
「ん?」
 水瀬さんは首を小さく傾げながらオレを見上げた。
「オレと水瀬さんって、この半年の中ではどういう関係だったの?」
 一呼吸置いて、水瀬さんは答えた。
 千穂がその前に何か言おうとしたが、それを遮るような形で。
「仲の良い、友達です」
 笑顔で。
「そっか」
 オレも笑顔で、返した。
 やがてもう少しでチャイムが鳴って朝会が始まろうとする丁度ギリギリ、雅人と直人が慌てて体育館へと入ってきた。
 懐かしくも相変わらずな光景がそこにあった。
 こうして、オレの学校生活が再開された。





to be countinued to chapter.8



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