ナツコイ-first love-
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第8章 告白






     “なみ、だったな、そういえば”





 放課後の教室。
 いつも見慣れているはずの世界が、いつもとは違って見える。
 それはまるで雨に包まれた街の風景のように。
 多くの友人達に囲まれて、いつも通りの喧騒に耽(ふけ)っていたはずのその教室。
 しかし、今ではそこには誰もいない。
 誰も。
 窓から射し込んで来た茜色の光が、無人の教室を鮮やかに侵食している。
 机や椅子たちの影絵が、より黄昏の寂しさを助長している。
 静寂。
 遠くに聞こえる微かな喧騒は、あくまでも此処ではない世界の音でしかない。
 その空間には、何一つ、音は無いのだ。
 そしてオレは、その空間に足を踏み入れた。
「あ……」
 声が、聞こえた。
 オレのではない声。
 誰もいないと思い込んでいた。
 だから、かなり驚いてしまった。
 声の聞こえた方向――窓に最も近い列の、後ろから三番目の席へと、視線を向ける。
 オレが入ってきた西側の扉(教室前方の扉)からは決して死角ではない。
 入ってきた途端に気付いても全く不思議ではないし、寧ろそっちの方が必然だろう。
 だけど、オレは気づかなかった。
 教室に入った瞬間、この空間のえもいえぬ美しさに心を奪われたことも理由の一つだろう。
 しかし、それ以上に、その席に座る『彼女』が、あまりにもその風景に同化しすぎていたこともまた理由の一つかもしれない。
「…………」
 その席に独り座った『彼女』は、オレを凝視したまま何かを呟こうと口を開いて――閉じた。
「あ……椎名さん?」
 だから、オレが先に彼女に話しかけた。
「あ、はい……」
 彼女は頷く。
「志倉さん……ですよね?」
「う、うん」
 オレは思わずらしくない返事を返してしまった。
「…………」
「…………」
 会話が続かない。
 互いに何かを話しかけようとはするのだが、それが実際に言葉になって口から放たれることは無い。
 椎名美奈。
 オレのクラスメイト。
 だけど、彼女は何だか、他のクラスメイトとは異なる印象を持っていた。
 いつも、他者との間に見えない壁を張っているかのような。
 他人との干渉を、最小限に抑えようとしているというか。
 愛想が無いわけではない。
 人付き合いが苦手だというわけでもない。
 友達だって沢山いるらしい。
 それでも、彼女がいつも見せる態度は、その周りにいる人々と、心の奥底で接触しようとはしていないように見えるのだ。
 儚げだけど、可愛らしい笑顔。
 無口だけど、そこから紡ぎだされる言葉は優しい。
 だけど、決して本心は見せない。
 いつも周囲に見えない壁を張り巡らせている。
 そういう印象を受ける。
 一方的ではあるが。
 そう、あくまでも一方的。
 オレの、独りよがりの勝手な印象。
 それだけで、充分だった。
 オレは、その勝手な印象だけで、彼女に興味を持つことが出来た。
 だから、オレは彼女に話しかけた。
「部活は、出ないの?」
「あ、はい……今日はあまり気分も優れないので……」
「そっか……二限の授業の時も保健室行ってたしね」
「はい……」
「それで、どうしてここに独りでいるの?」
「あ、はい……なみちゃんを……友人を待っていますので」
「ああ、なるほど」
 話しかけながら、オレは少しずつ彼女の席へと近づいていく。
「でも、気分悪いんでしょう?」
「あ、はい……それはそうですけど……」
「今も何か、元気無さそうだけど?」
「え、ええ……まあ」
「無理しない方がいいんじゃない?」
「……そう、ですね……」
 斜陽の光で判りづらかったが、近づいてみると彼女の顔色があまり良くないことが判る。
 出来るだけ優しく紡いだオレの言葉に、椎名さんは小さく頷いた。
「でも、なみちゃんを待たなくちゃ……」
 小さな声ではあるけれど、彼女ははっきりと呟いた。
 彼女の笑顔が、オレには苦笑いに見えた。
「それじゃあ、オレがそのなみって娘に伝えておいてあげるよ」
「……え?」
「だから、椎名さんは保健室とかに行った方が良いんじゃないかな? 駄目?」
「あ、いえ、駄目じゃないですけど……」
 彼女は笑顔を止め、少し迷ったような表情を見せた。
「でも、いいんですか?」
 気遣うような視線で、傍らに立つオレの顔を見上げる。
「いいに決まってるよ。だって、伝えるだけでしょ?」
「そうですけど……志倉さんはこれから帰宅するのではないのですか?」
「……いや、いいよ。どうせ家に帰ったって暇だし」
 そう言って、オレは彼女に笑顔を向けた。
「でも、部活終るまで来ないと思いますよ?」
「いいっていいって」
 決して変わることの無いオレの返答に、彼女は少しの間迷いを見せていたようだが、
「……解りました。お言葉に甘えさせていただきます」
 申し訳無さそうな笑顔を見せながら、彼女は最後にはそう言った。
「それじゃ、保健室まで送っていくよ」
「……え、いえ……」
「遠慮しないで」
「……い、いいんですか?」
「いいからいいから」
「わ、わかりました……」
 彼女は別にオレの提案に遠慮したわけではないだろう。
 だがオレは構うことなく強引に事を進める。
 彼女はいつも『引いて』いる。そこでオレまでが『引いて』しまったら意味が無い。
 半ば無理やりでも、オレは『押して』いく。
「それじゃ行こうか」
「は、はい」
 オレの言葉に、彼女は頷き、ゆっくりと立ち上がる。
 そしてオレについてきながら教室の出口へと向かう。
 廊下に出て、オレたちは共に保健室へと向かう。
 少し前を歩くオレと、その少し後ろを歩く彼女。
 基本的に彼女からは何も話しかけてこなかったので、オレは自ら、暑いね、とか、すっかり夏だね、とか、笑いながら振り返って話を振る。
 振られた彼女は、そうですねとか、本当、暑いですねとか、やっぱり笑顔で返してきた。
 だけど、オレから話しかけて、彼女が返答して、それで終わり。
 それ以上、会話は続かず、また新しい話題をオレが作って彼女に振る、そのサイクルを繰り返していた。
 その度に現れる彼女の笑顔。
 それはとても可愛らしくて、とても美しくて。
 けれど、オレが惹かれたのはそんなところじゃなくて。
 その笑顔が、オレにはどうしても、本心からの笑顔じゃない、作られた仮面のような笑顔に見えたから。
 だから、オレは惹かれた。
 今思うと、馬鹿馬鹿しかった。
 あまりにも。
 作られた仮面。
 そんな陳腐な言葉と、それを外そうとすることで自分がヒーローになれると思い込んでいた、自分が。
 あまりにも馬鹿馬鹿しかったけど。
 それでも、あの時のオレは、そう信じてやまなかった。
 保健室に着いた。
 オレは後ろを振り返って、彼女に笑顔を向けて、入るように促した。
 彼女が保健室に入っていった後に自分も入る。
 彼女は保健室の先生に事情を説明した。そしてとりあえず親に迎えに来てもらい、その間に保健室で休養させてもらうことになった。
 そして彼女はふと気付いたようにオレの方を向き、笑顔でありがとう、と言ってくれた。それを見て、内心とても満足したオレは、それじゃさようならと同じく笑顔で手を振った。彼女がそれに応えて手を振って、さようなら、と言ってくれたのを見届けると、オレは保健室から抜け出した。
 保健室から出た後もオレは満足な気分のまま、窓から差し込む西日に包まれて教室へと向かう。
 放課後の教室。
 いつもと同じ空間の、いつもと違う顔。
 いつもと同じ席の、いつもと違う人物。
 一番窓側の席の後ろから三番目。
『彼女』の席。
 そこに、一人の少女が立っていた。
 誰もいない空間。
 茜色の空間。
 椅子や机の影絵が踊る空間。
 そんな空間の、ある一部分に、その少女は立っていた。
 オレは、少女に気付いた。
 教室に入ってすぐに。
 少女も、オレの姿に気付いた。
 そして少女はオレを見つめた。
 オレはすぐにその少女について思い当たった。
 名前も所属のクラスも知らないけれど、顔は見たことあった。
 よく、この教室で椎名さんと話しているのを、見たことがある。
 多分椎名さんの友人だろう。
 そして、その少女こそが椎名さんの言っていた『なみちゃん』なのではないかと思った。
 そういえば、彼女からその『なみちゃん』の本名とか容姿の特徴とかを訊くのを忘れていたな、とか思いながら、オレは少女に尋ねた。
「えっと……もしかしてなみ、さん?」
「え? あー、はい、そうですけど?」
 オレの問いかけに、少女は不思議そうな顔をしながら応えた。
「ああ、やっぱり。椎名さんの友人だよね?」
「あ、はい。……ミーちゃんの、知り合いですか?」
 少女はほんの少し意外そうな表情を見せる。
「うん。クラスメイトでね」
「あ、そうなんですか」
 オレの答えに、少女は納得したように呟いた。
「それで、椎名さんから、伝言を預かっているよ」
「え? 伝言?」
「うん。伝言とは……ちょっと違うか。今、彼女、保健室にいるんだ」
「保健室?」
 意外な単語に、少女は過敏に反応した。
「ミーちゃんに、何かあったんですか!?」
「何だか、気分が優れないんだって。それで、休養してる」
「あ、そうなんですか……。それで、部活も休んでたんだ……」
 小さくなっていく語尾と共に、その表情も沈んでいく。
「両親を呼んでいたから、もう少しで迎えが来るとは思うけど、一応行って上げたら?」
「そうですね……どうもありがとうございました」
 オレの提案に、少女は沈んだ表情をなんとか元に戻し、感謝の言葉と共にオレに向けて頭を下げた。
「いいよいいよ。でも早かったね? 部活じゃなかったの?」
 少女の感謝の態度に、オレは少し照れる。
「ミーちゃんが今日お休みって聞いて、心配になって、適当に理由つけて早退させてもらったんです」
「そっか……友達想いなんだね」
「え、そ、そんなことないですよぅ!」
 今度は少女が赤面する番だった。面白いほどに大袈裟でわかりやすいリアクションに、オレはふっと口元を緩める。
「それに、ミーちゃんのことだから、一緒に帰る約束をしていたってことで、ずっと待っているかもしれないと思って……」
 恥ずかしさを誤魔化すように早口で告げる少女の言葉に、オレは、ああ、と心の中で呟いた。
「そういえば、確かに彼女、体調が悪かったっていうのに、君を待っていようとしてたしね」
「あ……やっぱり」
 オレの言葉に、少女は苦笑しながら呟く。
「でも、そのことに気付いて、早退までして戻ってくるなんて、」
 言いながら、オレは少女に満面の笑顔を作った。
「やっぱり、随分と仲が良いんだね」
「は、はい……」
 少女は赤面しながら小さく頷いた。
「っと、オレと話していたら彼女帰っちゃうね」
「あ、そ、そうですね」
「それじゃ、行きなよ」
「は、はい」
 まだ僅かに顔を紅潮させつつも、少女は頷いて促されるままに教室の出口へと向かう。
 だが教室から出る直前、少女は思い出したように、オレに言った。
「あの、えっと、今日はありがとうございました」
 茜色の世界。
 少女の、小さな感謝の詞。
「それで、その、お名前、教えてくれますか?」
 小さな、少女の詞。
「オレの名前? オレの名前は、志倉隆二、だよ」
 返す、オレの詞。
「志倉、隆二さんですか……」
 少女は、口の中でその名前を反芻する。
「それじゃ、志倉さん、今日は、ありがとうございました、本当に!」
 そして、満面の笑顔を作って、手を振りながら、廊下の向こうへと消えていった。
 その少女を追いかけるようにして、長い影が廊下に伸びていた。
 窓から入り込む西日の中へと消えていくように。
 少女は走り去っていった。
「そういえば」
 オレは、ふと気付いたようにボソッと呟いた。
「彼女の名前、教えてもらってなかったな」
 彼女が中央階段へと左折し、そこにはもう誰もいない放課後の二階東側二年生教室前廊下だけが残っていた。
「ま、いいか」
 オレは呟いて、その茜色の廊下を歩き始める。
「なみ」
 呟きながら。
「なみ、だったな、そういえば」
 呟きながら。
「なみ、か」
 何度も、呟きながら、オレは歩いていく。
 まるでそれが、
 何ものにも代えることの出来ない、大切なものであるかのように。






「ほら、起きろ」
 声と共に、オレの体を、揺れが襲った。
「起きろって、ほら」
「ん〜?」
 自分でも間抜けだと思えるような声を出しながら、オレはうつ伏せになった顔を上げて声の主の方へと視線を向ける。
「やっと起きたか。ほら、もうAHRも終ったよ」
 声の主――相川千穂は呆れたように呟いた。
「んー……左様か……」
 まだ少し寝ぼけたままの視線で、既に人影の少なくなった教室を見渡す。
「随分ぐっすりと眠っていたねぇ……」
 千穂とは反対側から、水瀬那美の感心したような呆れたような声が聞こえてきた。
「そうみたい。なんか、夢まで見てしまったよ」
 目を軽く擦りながら、水瀬さんの方に視線を向けて呟く。
「夢?」
 水瀬さんは不思議そうに呟く。
「なになに? どんな夢?」
 背後から千穂が興味深そうに訊いてきた。
「いや、内容はよく解らない……っていうか、はっきり覚えてない」
 自分がさっきまで見ていたはずの夢を、記憶の底から必死で掘り出そうとしてはみるが、それはもう蜃気楼の様に頭の中から消え去ってしまっていた。
「なんていうか……うーん……」
 もやもやしたとりとめのないものに、腕を突っ込んで、掻き回して、必死で探してみる。
 手ごたえのあるものに触れようとして、でもそこには、もう掴めるものなんて、
「うーん……なんか……懐かしいような……」
「懐かしい?」
 水瀬さんは首を捻った。
「懐かしいって……わけわからんぞ……?」
 続いて、千穂が困惑しながら呟く。
「いや、ホント、全然思い出せないんだって……うーん……」
「む、無理しなくても」
 水瀬さんが呟く。
「うー…………夏?」
「は?」
 突然飛び出した謎の単語に、千穂が怪訝そうな表情を見せる。
「いや、なんでもない。なんかそんなワードが思いついただけ……」
「はあ……」
「ま、まあ、夢なんてすぐ忘れちゃうのが普通だし、それに思い出せないからといって困るわけでもないし、気にしないにしようよ」
「そうだね」
 水瀬さんの言葉に従って、オレは夢の内容を思い出す作業を中断した。
 しかし、思い出せないから困るってわけでもない、という言葉に少し引っかかりを感じた。しかし、間違ってはいないので気にしないことにした。
「それより、隆二。今日は、委員会だよ?」
「委員会?」
 水瀬さんの口から出た聞き慣れない単語に、オレは眉根を寄せた。
 ……いや、聞き慣れなれていないわけではないが。
 ただ、オレの委員会?
「オレ、委員会なんて入ってたの?」
「……あ、そうか。三年になってからの記憶、失くしちゃってるもんね」
 オレの言葉に、水瀬さんは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに納得した表情に切り替えた。
「隆二は、三年に入ってから委員会に入ったんだよ」
「そ、そうなのか……」
 オレは少し愕然とした。
「オレが委員会なんかに入るとは……一体何委員会だ?」
 三年になってから進化を遂げたらしい自分自身に胸をときめかせつつ、尋ねる。
「図書委員会」
「図書委員会?」
 そっくりそのままリピート。
 図書委員会?
 はて。
 そんな委員会あっただろうか?
「まさかその存在すら忘れてる?」
 千穂の言葉。
 大正解。
「そんな委員会あったのか?」
「……あったよぉ」
 違う意味で愕然としているオレに向けて、水瀬さんは呆れた様に呟いた。
「……そんなマイナーな委員会に、何故オレは入ったんだ?」
「マイナーじゃないよ……」
「楽だからでしょ?」
 水瀬さんの突っ込みを無視しながら千穂は答えた。
「楽だから?」
「そ、楽だから」
 言われてみれば確かに。
 楽かもしれない。
「なるほどな」
「納得しないでぇ」
 水瀬那美・魂の叫び。
「さて、ショートコントも終った所で……そろそろ行かないと委員会始まる時間じゃない?」
「ショートコント扱い……」
「ん、そうだな。委員会って、確か四時半からだったよな」
 呟きながら時計を見ると、既に四時二十五分を指していた。
「うわ、マズ……ほら、水瀬さん、しょげてないで、行くよ?」
 立ち上がり、水瀬さんの手を握って半ば椅子から引きずり上げるように引っ張りながら促す。
「わ、わ」
 突然のオレの行動にうろたえながらも、水瀬さんはなんとか立ち上がった。
「それじゃ、千穂。またな」
「はいはい。それじゃ」
 そのまま水瀬さんを無理やり引っ張る形で教室を飛び出す。
 背後から水瀬さんの悲鳴にも似た声が聞こえてくる。
 あー、そういえば。
 時間ヤバいのって、眠ってたオレの所為?



 ところ変わって図書室。
 目の前にはボロボロになった木製の本棚と、そこに並べられているこれまたボロボロになった無数の書物達。
 オレはその中から倒れかけていたり逆さになっていたり順番がバラバラになっていたりその区画にはあるべきでない書物などを見つけたとき、それらの整理をする。
 それが、図書委員としての仕事だ。
 真面目にやれば結構メンドクサイものではある。
 しかし、オレは真面目にやる気など毛頭無い。そもそも担当の教師からしてやる気が無さそうである。やるべきことを伝えたらさっさと教務室の方へと帰っていった。そして各自分担が終わり次第、帰宅と言い残していった。
 まあ、教師も他の仕事があって忙しいのかもしれないが。
 それでも、そうやって教師が見ていない上に点検もしないのであれば、真面目にやる理由など何処にも無い。
 故に、オレは決して真面目になんてやりはしない。
 ……はずだった。
「ほらほらほら、ちゃっちゃとやる!」
 オレの隣りで同じようにして本棚の整理をしていた水瀬さんが、急かすように声をあげる。
「わかってるって……」
 オレはため息をつきながらのろのろと本を整理していく。
 歴史もののコーナーに何故かある図鑑。
 更に、逆さになっている本。
 そういうものを見るたびにうんざりしながら整理していく。
 各個人が本を棚に返す時にほんの少しだけ注意するだけでこんなに苦労しなくてもすむようになるというのに、なんでそのツケを自分が払わなければならないのか。
「あー、もー、図書委員会って本当に楽な委員会なの?」
 少し八つ当たり気味に隣りの水瀬さんに問いかけてみる。
「そんなこと私に言われても……」
 呆れたように返してきた。
「なんで、こんな委員会に入ったのかなぁ……」
 一際大きなため息をついて呟く。
「…………」
 隣りからのリアクションは無かった。
 それが気になってちらっと視線を向けてみると、水瀬さんは聞こえて無かったかのように黙々と作業を進めている。
 だけど、その表情には若干翳(かげ)りがあるように見えた。
 少し、嫌な発言だったかもしれない。
 水瀬さんはこうして真面目に委員会に取り組んでいるというのに。
「……それじゃ、今日はもうお開きにする?」
 自分の失言に激しく後悔していると、水瀬さんはこちらに笑顔を向けてそう告げた。
「え……でもまだ少し残ってるんじゃ……?」
 あからさまに不自然なその笑顔は気になったが、上手くフォローする言葉が思いつかず、仕方なく水瀬さんの言葉に対し素直に返す。
「大丈夫。少しくらいなら別に残ってたって何も言われないよ。また来週、真面目にすればいいんだし」
「本当に、いいの?」
「いいっていいって。私も、そろそろ帰りたかったしね」
 オレの返答に、安心させるかのような笑顔のまま水瀬さんは明るく答える。
「……そっか。わかった。じゃあ、帰ろうか」
 どう答えればいいか判らなかったが――結局、オレは表面的な意味に対してだけ素直に頷いた。
 その後オレたちはすぐさま帰る準備をし、準備室の方などで他の作業に取り掛かっていた他の委員に挨拶をして、二人並んで図書室を出た。



 廊下は一面、茜色の西日によって彩られていた。
 そして窓から秋色の風が入りこみ、冬服の中へと潜り込んでいった。
 そこに微かに感じられる匂いは、僅かだが冬の香りを抱いていた。
「ねぇ、隆二」
 背後から水瀬さんが声をかけてきた。
「何?」
 オレは振り返りながら返事をする。
「一緒に、帰らない?」
 彼女はオレの目を真っ直ぐ見据え、そう訊いてきた。
「……別に、いいけど?」
 オレは、彼女の提案に若干驚きながらも、そんな様子を見せないようにして頷いた。
「うん。ありがと」
 そして彼女は何故かお礼を言って、オレの隣りまでやってきた。
 一緒に、帰らない?
 何気無い一言ではあるが、オレは思わずドキッとなってしまう。
 別に深い意味は無いだろうに。
 失われた記憶の時期。そこで親しくなった少女。
 そして今でも、すっかり親しくなっている、水瀬那美という名の少女。
 こうして隣りを歩くことも、もう既に当たり前になっているはずだった。
 けれど。
 何故か今オレは、彼女が隣りにいるという事実に対して、何故か理由のわからない胸の鼓動を感じていた。
 いや。
 理由は、わからないわけではないのかもしれない。
 ……でも、オレはその答えを見つけ出そうとはしなかった。
 することが出来ない、何かがあった。
 大きな壁のようなものが、オレを遮っていた。
「寒くなってきたね」
 暫く続いていた沈黙を破ったのは、水瀬さんの声だった。
「あ、ああ、そうだな」
 オレもなんとか返事を返す。
 だけどその後、再びオレたちの間には沈黙が降りた。
「…………」
「…………」
 お互いにお互いの顔を見ることも、お互いの口元から何か言葉を紡ぎだすことも無いまま、オレたちは中央階段にまで辿り着き、そのまま一階まで二階分の階段を下りていった。
「…………」
「…………」
 絶えない沈黙。
 踊り場の窓からは、裸になった木々を見ることができた。
 左手には、木製の手すりの感触。
 両足には、リノリウムの階段の感触。
 一歩一歩、オレたちは沈黙の中、踏みしめるようにして階段を下りていった。
 そして一階に辿り着いた時。
 オレたちは、一人の少女と出逢った。
「あ、なみちゃん」
「あ、みーちゃん」
 その少女は、オレのかつてのクラスメイトであり、水瀬さんの幼なじみでもある、椎名美奈という少女だった。
 椎名さんはオレたちに気付き、そしてまた水瀬さんも彼女に気付き、互いに笑顔で挨拶を交わした。
「志倉さんも、こんにちは」
「こんにちは」
 礼儀正しく首を傾げて礼をする椎名さんに、オレも思わずつられて首を傾げる。
「今、お帰りですか?」
「ああ。委員会が終ったからな」
「みーちゃんも、委員会だったの?」
 水瀬さんの問いに、椎名さんはこくりと頷く。
「私は、まだ途中だけどね」
 そう言って、その手に持ったダンボールの箱を見せる。
 そこには、色とりどりの様々なペンが入っていた。
「確か、みーちゃんって生徒会だっけ?」
「うん」
 頷く。
 生徒会か。
 初耳だった。
 まあ、オレが図書委員だって言うことも初耳だったし、別に無理は無いかもしれないが。
 ……いや、性格には初耳ではないか。
「志倉さんとなみちゃんは、図書委員会でしたっけ?」
 椎名さんの問いに、オレと水瀬さんは揃って頷く。
「早いんですね。まだ委員会始まって30分くらいなのに……」
「あー、それは隆二がちょっと色々と不平不満を言いまくってね」
「お、おい」
「しかたなーく早めに切り上げることにしたの」
「ちょ、ま」
 それは違う。
 切り上げようと提案したのは水瀬さんではないか。
 そう反論しようとしたが、しかし確かに提案した理由はオレが不平不満を言ったからだった。
 つまり、水瀬さんの言っていることは間違っていないどころかまさしくその通りである。
 その通りではあるが。
 なんだか、釈然としなかった。
 なんだかとても、否定したかった。
 理由はよくわからないが。
「そうだったんですか」
 椎名さんはオレたちの顔を見比べてクスクスと笑った。
「うぐ……」
 オレはなんだかとてつもなく恥ずかしかった。
「まあ、いいんだけどね。私だって別に長々と委員会の仕事をやっているのが好きなわけじゃないし」
 水瀬さんはフォローするように笑顔で告げた。
「仲良いですね」
 椎名さんは笑顔のままそう言った。
「見ているこっちが、楽しくなります」
「そ、そう?」
 椎名さんの言葉に、水瀬さんは少し照れながら応える。
「まあ、確かにそうかもね」
 オレは苦笑しながら水瀬さんの顔を見た。
「何? その苦笑は。その視線は」
 その視線を受けて、水瀬さんはむっとした表情でオレをにらみつける。
「いやいや、特に深い意味はありませんよ?」
 肩をすくめておどけてみせる。
 水瀬さんはまだ不満気に頬を膨らませる。
 そんなオレたちのやり取りを見て、椎名さんはまたクスクスと笑った。
「あ、そうだ。みーちゃん、まだ委員会の途中なんでしょ?」
 思い出したように水瀬さんは椎名さんに訊いた。
「あ、そうだったね。忘れてた」
 椎名さんは驚き、腕の中の段ボール箱に視線を落とす。
「忘れてたって……」
 オレは意外に間の抜けた椎名さんの発言に呆れの呟きを漏らした。
「ごめんね。引き止めちゃって」
「ううん、こちらこそ」
 申し訳無さそうに誤る水瀬さんに、椎名さんは笑顔で首を振る。
「それに、なみちゃんたちと話せて、楽しかったし」
 笑顔で言った椎名さんの言葉に、水瀬さんも嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それじゃ私、行くね」
「うん。じゃあね」
 段ボール箱をしっかりと持ち直し、中央階段へと向かって歩き出す椎名さんに、水瀬さんはバイバーイと手を振った。
 椎名さんも笑顔でバイバイ、と告げ、そしてオレにも首を傾げて礼をした。
 オレも手を振って、彼女を見送った。
「さ、行こっか」
 水瀬さんはオレに振り返り、そう言った。
「ああ」
 オレも彼女に視線を戻し、頷いた。
 そして一階の西側廊下を、一、三年生用の西側生徒玄関へ向けて並んで歩く。
 トイレの前を、放送室の前を、保健室の前を、相談室の前を。
 右側の、開け放たれた窓から入り込む秋の風を感じながら。
 そして西側玄関に辿り着いたオレたちは、各々の下駄箱から靴を取り出して内履きと履き替え、そして内履きを下駄箱に戻した後外に出て合流し、そしてまた並んで歩き出した。
 すでに太陽はその身の殆どを山並みの中に埋めており、光線と化した西日だけをオレたちに投げかけている。
 その光にさらされたアスファルトには、オレと水瀬さんの二人分の細長い影が、オレたちを追うように伸びている。
「もう随分と、学校に慣れたみたいね」
 オレの隣りで、水瀬さんが話しかけてきた。
「ああ、そうみたいだ」
 最初の頃は色々と忘れていることもあってあまり慣れることの出来なかった学校生活も、一週間も過ぎた現在、なんとか調子を取り戻し始めている。
「最近、笑うことも多くなっているからね。なんだか、こっちも嬉しいよ」
 水瀬さん自身もが笑顔になってそう言う。
「オレ、最初あまり笑ってなかった?」
「んー……っていうか、なんだか話題についていけないこととかやっぱり多かったみたいで、ぎこちなく感じていたけど……」
「……ああ、そっか」
 そういえば、確かに思い当たることは多くあった。
「それにしても、よく見てるんだね」
 オレはなんとなく、思いついたままに口に出した。
「え……?」
 そのオレの言葉を聞いた水瀬さんは、少し驚いたように顔を向ける。
「いや、そんな細かいところまで気付いてるなんてさ。結構見てるんだなぁって」
「え、あ、ああ……うん」
 付け加えたオレの言葉に、水瀬さんは赤面しながらしどろもどろに言を発する。
「あー……なんか、オレ変な言い方しちゃったかな……?」
 自分の言葉が中々変な意味を含んでいることに気付いて、自分でも恥ずかしくなりながらも訊いてみる。
「あ、う、ううん。別に、そんな」
 ふるふるふる、と水瀬さんは首を振った。
「よく見てるのは、本当のことだしね」
 少し俯き気味で、しかも頬を紅潮させたままそんなことを言われては、こっちもかなり赤面してしまう。
 思わず視線を逸らして、無言になる。
「…………」
「…………」
 オレたちの間に、なんとも気まずい沈黙が下りる。
「あの、」
 何か言おう、と思ったとき、突然水瀬さんが声をかけてきた。
「……ん?」
 少し驚きながらも、発言を促す。
「私、さ」
 少し恥ずかしそうに、俯きながら、水瀬さんは必死で言葉を紡いで行く。
「?」
 オレは隣りを歩きながら、水瀬さんの次の言葉を待つ。
「私、ね」
 少しずつ、少しずつ、一つ一つ丁寧に言葉を刻んで行く。
「えと、」
 ときおりオレの表情をちらりと窺いながら、それでもまたすぐに視線を逸らしながら。
「あの……」
 もどかしいほどに。
「…………」
 やがて、俯いたまま言葉を失ってしまう。
「み――」
「私……!」
 水瀬さん? と声をかけようとしたオレを遮って、水瀬さんは決意したように力強く言葉を吐き出した。
「私、隆二のことが、」
 その瞬間、心臓が激しく揺れた感触を、リアルに感じた。
 時間が止まったかのように感じた。
 その次に吐き出される言葉がすぐに予想できて。
 でも、その言葉がうまく頭の中で形にならなくて。
 何が何だか、わからなくなって。
 不思議な感覚だった。
 懐かしい、気もした。
「隆二のことが、好き、だから」
 たった二文字に、オレの足は止められてしまって。
 そのままの姿勢で、オレは水瀬さんの顔を凝視してしまっていた。
「…………」
「…………」
 オレはその言葉を受けたことによる驚きを。
 水瀬さんは突然オレが立ち止まってしまったことによる驚きを。
 互いにその表情に映し出し、沈黙のままそれを見つめ合った。
「……だから」
 やがて水瀬さんは沈黙を破り、
「付き合って、ください」
 そう、呟いた。
 逸らしそうになる視線を必死にオレに固定させて。
 ゆらめくその双眸の光は、オレを真っ直ぐ捉えた。
 オレは暫く何も言えなかった。
 ごくり、と唾液が喉を通過する音が五月蠅いほどに脳に響いた。
 やがて、震えそうになる唇を開きながら、
 オレは、答えた――。





to be countinued to chapter.9



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