ナツコイ-first love-
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第9章 相思






     “お前に変に気を遣われるより、普通に楽しんでもらっていた方が嬉しいと思うぜ”





 ――水瀬那美と付き合い始めてから、一週間が過ぎた。



「お早う」
 朝。辿り着いた昇降口で、水瀬さんは笑顔で挨拶をした。
「お早う」
 オレもまた、笑顔で返した。
「さ、行こ」
 靴を履き替えているオレを、彼女は急かす。両手で持っていた鞄を左手に持ち替え、余った右手をオレの方へと差し出してきた。
「はいはい」
 苦笑しながら、その差し出された手に自分の右手を重ねた。残った左手で、脱いだ外靴を拾い上げ、靴箱の中へと放り込み、蓋を閉める。
「よっと」
 呟きながら、繋いだ右手を引っ張る。それは水瀬さんを引き寄せる形となり、そして同時に、自分の体も彼女の方へと近寄らせた。
「わ」
 小さく悲鳴を上げながら彼女はバランスを崩す。オレはすぐさま右手を離して、彼女の肩にその右手を回し軽く支えた。
「大丈夫か?」
 オレは悪戯めいた笑顔を作ってみた。
「うー、隆二の所為だよぉ」
 頬を膨らませたまま彼女はそう呟いた。その顔は赤面していた。
「ははは」
 笑いながら、彼女の肩に回した手を離し、さっさと階段へと向かう。
「もー」
 彼女は未だ不満気だ。しかしすぐに後ろへとついてくる。ちらっとその顔を盗み見ると、嬉しそうに笑っていた。
「ふんふんふーん♪」
 オレの隣にぴたっとくっついて、彼女は小さく鼻歌を歌い始めた。
「今日も、いい日になるといいね」
 前を向いたまま、彼女はそう呟いた。



 ――水瀬那美と付き合ってから、一週間が過ぎた。



「オハヨ、リュージ、那美」
「あ、お早う、千穂」
「おはよ」
 オレたちが教室に入るなり、千穂が挨拶を投げかけてきた。
「今日もらぶらぶ?」
 更に、奇怪な質問をしてきた。
「らぶらぶ〜♪」
 そして、水瀬さんが奇怪な返答を返した。
「…………」
 オレは極力他人のフリをしながら自分の席に座った。
「よう、隆二」
 そしてそれと同時に、後ろの席から身を乗り出して声をかける奴がいた。
「今日もらぶらぶだな」
「……お前は奇怪だな」
 雅人だった。
「随分な物言いだな」
「心当たりが無いのか?」
 オレは嘆息しつつ、半ば無視する形で机に突っ伏した。
「コラコラ、早速眠ろうとするな」
「朝から頭痛のするようなコト言われたら眠りたくもなる」
「まあまあ、」
 オレの態度に気を悪くするどころか、彼は寧ろ満足気な表情でオレの机の前に回りこんできた。
「俺は嬉しいんだよ」
「……は?」
 オレは顔だけを上げた。
「……ありがとう」
 彼は突然感謝した。
 その一連の行動は、全く理解不能だった。
 ……だけど。
 最後の言葉は、何故か酷く懐かしく、感じた。



 ――水瀬那美と付き合い始めてから一週間が過ぎた。



「あ、隆ちゃん」
 三階三学年教室前廊下で背後から呼び止められた。振り返るまでも無く、その声と呼び方から誰であるかは明白だった。
「ん?」
 返事をしながら振り返り、そこに立っていた石川杏子の姿を捉える。
「ども〜」
 間延びした声で手を振りながら近づいてくる。
「どうしたよ」
 首だけを彼女の動きに合わせ、そっけなく言い放つ。彼女は隣にくるなり、オレの顔を見上げながら訊いてきた。
「水瀬さんと、付き合い始めたんだって〜?」
「ん、ああ……」
 そのことか、と思いながら返事をする。
「そっかそっか」
「……なんだよ?」
 一人勝手に頷く彼女に、訝しげな視線を向ける。
「ううん、別に大した意味はないけど、」
 そう告げて、
「良かったね」
 ぽん、とオレの肩を叩いた。
「……は?」
 怪訝な表情で彼女を見据える。
「意味わかんねえよ」
「あらら」
 彼女は、驚いたような……よくわからない声で答えた。
「いいじゃん。水瀬さんと付き合うことは、嫌じゃないんでしょ?」
「そりゃ、そうだけど……?」
 にこっと、彼女は笑った。
「ならそれで、いいじゃーん」
 相変わらずの、どことなく眠たそうな表情でオレを見て、
「好きな人と、好きって言い合えて、一緒にいられるのは、幸せなことだよ」
 そう、告げた。
「って、まだ私は未体験だけどね〜」
 あははは〜、と乾いた笑いを残しながら視線を前へ向けた。
「なんじゃそりゃ」
 ふ、とオレも苦笑しながら前を向いた。
「――別に、」
 オレは何か言いかけて、
「ん?」
 彼女がそれに反応してオレを見て、
「……いや」
 オレは、なんでもない、と首を振って、
「そうかもな」
 そう言って、彼女の方へと視線を戻した。
「うん」
 彼女は小さく頷いた。
「好きだって思えることも、好きだって思われることも、凄く幸せだし、」
 彼女はまた視線を前に向け、少し俯き気味に言葉を紡いでいく。
「両想いが、凄く幸せだってことか?」
 オレは何気なく、そう訊いてみる。
「……うん、両想いなら本当に幸せだろうし、でも、」
 彼女は言葉を小さく区切りながら発していく。
「想いは、形じゃないし、だから、その、」
 次に紡ぐべき言葉を模索するように口をぱくぱくとさせながら、
「あーもうぅ! 何が言いたいかわかんないよぉ〜!」
「……それはこっちの台詞だ」
 はぁ、とオレはため息をついた。
 ……結局、彼女が何を言いたいのかよく解らなかった。
 そして、彼女が何故そんなことを言い出したのかも。
 だけど、彼女の言葉――『良かったね』――ほんの少しの皮肉も無いその言葉と、
『好きだって思えることも、好きだって思われることも、凄く幸せだし』――その言葉。
 その二つの言葉が、オレの頭の中で、いつまでも、いつまでも、リフレインし続けていた。






 オレが水瀬那美と付き合い始めてから一週間が経った後の、ある日曜日。オレは、駅構内の直方体の柱に背を預け、視界の先にある小さな売店を見つめていた。何処にでもあるようなキオスクの売店で、中にはおばちゃんが一人だけが椅子に座って何か本を読んでいる。その周りには、雑誌や新聞やお菓子類が、幾多もの塔の様に積み重なっていた。
 ふと視線を移し、壁の高い位置に取り付けられている時計を見た。時刻は既に九時五十分を周っていた。待ち合わせの時間である十時までは、あと十分ある。
 少し早すぎたかな? そんなことを考えながら、先ほどと同じく、何を見るでもなく視線を彷徨わす。すると、視界の片隅にあったエスカレーターを、懸命に走りながら登って来る少女を目にした。
 少女は片手を手すりにつけながらぜいぜいと息を切らしていた。それでも上げた視線がオレの視線と合うと、はっと弾かれたように体を上げ、また走りながら近寄ってくる。
「ごめ……ん……遅れ……ちゃった……」
 目の前に辿り着くや否や、両手を両膝に乗せて肩で息をして、それでもなんとか顔だけはオレに向けて謝ってくる。
 そんな彼女の姿を見て苦笑しながら、先ほどの時計に視線を向ける。その視線に促されるまま彼女もそちらに顔を向ける。
「あ……れ……? 九時……五十五分……?」
「待ち合わせ時間五分前。何をそんなに慌ててたんだ?」
 少し悪戯っぽく訊いてみる。彼女はその言葉が耳に入っていないみたいに時計を凝視し続け……。
「……家の時計、十分も早かったみたい……」
 顔を真っ赤にしながらオレの方へと視線を戻した。
「直さないのもアレだが、気付かないのもアレだな。携帯見ればよかったのに」
「だって、慌ててたから……」
 彼女は、つまり水瀬さんは、既に紅くなっていた顔を更に紅くして俯き、ぼそぼそと呟いた。
「まあ、何はともあれご苦労さん」
 オレは笑いながらぽんぽんと彼女の頭を優しく叩く。
「さ、行こうか」
 そして彼女の背中を優しく押しながら、一緒に改札の方へと向かっていく。
「道理で……気付いたら十分も経っていたから……驚いて……」
 それでも彼女は、何事かをぶつぶつと呟き続けていた。
 オレと彼女は改札を抜け、無意味に広いフロアを通り、ホームへと続く階段を下り、日曜日だというのに誰もいない朝のホームへと辿り着いた。いくつかの線路と、柵の向こう。既に潰れてしまったレストランや、この駅の有料駐車場がある。レストランの背中は汚く汚れていて、華やかな表側とは全く異なる印象を見せていた。それはこのホームが、真上にある大きな新幹線用ホームによって日光を遮られ、薄暗いイメージを作り出しているからかもしれない。駐車場の方は、相変わらず適当な数の車と適当な数の空きスペースが存在していた。休日の夕方にでもなれば何人かの不良がたむろして花火だの何だの好き勝手なことをするんだろう。そういう場面には何度か出くわしたことはあるが、そいつらの顔とかは見たことが無い。どんな顔をしたやつらが、そんなことをするんだろうか。今そこにあるのは無意味な落書きだった。白いチョークの痕だった。そして、棄てられた煙草だった。
「何見てるの?」
 唐突に水瀬さんが、背後から声をかけてきた。
「世界の裏側」
「はい?」
「冗談」
 軽く笑いながら振り返り、彼女を見る。釈然としない表情でオレを見る彼女。ベージュのフード付きパーカーに、薄いブルーのデニムパンツ、そして短いツインテール。いつも通りといったスタイルが、いかにも彼女らしかった。
「あ、来たみたい」
 そう言って彼女は、線路の先へ視線を送る。オレもそれにならう。確かに、その線路の先の方から、一台の電車がこちらに向かってきていた。ガタガタガタガタと唸りを上げながら、その巨体はオレたちだけしかいないホームへと滑り込んでくる。鋭い音を鳴らしながら、そして強い突風を吐き出しながら、徐々にそれはスピードを下げていき、オレたちの目の前で停止した。
 そして音と共にこちら側にある全ての扉を開いた。降りる者は誰一人いなかった。そして、乗る者も、オレと彼女以外にはいなかった。
 オレと彼女が乗ったのを確認し、少し経つと、ぷしゅーっという音と共に扉は閉まり、再びゆっくりと電車は動き出した。視線を巡らすと、オレたちが乗った車両にはオレたちの他に五人くらい乗っていた。そのどれもが、腕組みをしながら椅子に座ってウォークマンを聞いていたり、または前かがみに座って何も無い空間を見つめていたり、背もたれに背を預け、電車に揺られるままに眠りについていたり、目の前に新聞を広げてその中の文字を追っていたり、手の中の携帯をゆっくりと弄っていたり、と、それぞれがそれぞれだけの時間を過ごしていた。
 ゆっくりで、平和で、とてつもなく不思議な世界だった。それでは、いつもの世界は平和ではないというのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。あの世界は平和ではないのだ。
 水瀬さんは電車に乗るなりすぐに、入り口の脇にある座席へと座った。そしてオレの顔を見上げた。オレはその視線を、隆二も座りなよ、という意味に受け取った。そしてオレは彼女の隣の席に身を沈めた。
「静かだね」
 彼女がオレの耳元に顔を近づけてきた。その側頭部が少し左肩に触れ、思わずドキドキとした。
「まあ、こんなものだろ」
 日曜日って言っても朝なんだし、とその後に付け加えた。
「でも、朝って言ってももう十時でしょ」
「まだ、十時だよ」
 不満気に呟く彼女に、オレは小さくはっきりと呟いた。
「ここは田舎だからね。正真正銘の」
 次第にスピードを上げてきた電車の窓からは、いつも見慣れた街の、余り見ない方向からの風景が、普通見るはずの無いスピードで流れていく。コンクリートの壁が、木が、道路が、家が、何も無い水田が、恐ろしいスピードで流れていく。
「ここは田舎だよ。全くもって平和な」
 背もたれに背中を預けて、そう呟いた。その左肩に、彼女の側頭部が、今度ははっきりと乗っかった。
「――」
「気持ちいい」
 オレが何か言う前に、彼女が薄目を開けてそう言ってきた。
「オレも」
 ふっ、と小さく笑みを作りながら、呟いた。
「ホント?」
「ホント」
「疲れない?」
「疲れるかもしれないけど、気にならない」
 小さな囁きを互いに交わし、そしてそれは唐突に終った。彼女の瞼は優しく閉じられ、その口元からは小さく、規則的に吐息がこぼれた。すー、すー……。その音と、電車が揺れる音と、新聞がめくられる紙の音だけが、その空間を支配していた。
 それは底なしに静かな世界だった。



 いくつかの街の残影が四角い窓を通り過ぎていった後、目的の駅への到着を予告するアナウンスが響き渡る。途中一回だけ駅に停まった時も起きなかった水瀬さんが、弾かれたようにぱっと身を起こす。もしかしたら本当は眠っていなかったのかも知れない。
「着いたね」
「そうだな」
 それだけ言葉を交わすと、彼女はいそいそと降りる準備を始めた。と、言っても、準備するものは何もないのだということに気付いて、彼女は動かし始めた手をちょっと止めて、その後ポケットの中の切符を確かめてからちょこんと自分の両手を両膝に乗せた。オレもそんな彼女を見つめながら右手だけでポケットの中の切符を確かめて、再び窓の外の景色へと視線を移した。その風景は、確実にその流れるスピードを失っていった。
「着くね〜」
「そうだな」
 彼女は何故か待ちきれないと言った感じでそわそわと体を動かす。オレの顔を見上げながら、彼女はその口元に心無しか小さな笑みを作っている。
 そんな、完全に下車モードなオレたちとは打って変わって、その車両にいる他の乗客は相変わらずそれぞれの時間を過ごしていた。先ほどまで眠っていた高校生らしき青年は天井からぶらさがっている広告をぼーっと見つめていて、新聞を読んでいたおじさんは今でも新聞を読んでいた。そしてそれ以外の三人は、背もたれにもたれかかったり前かがみになったりしながら眠りについていた。相変わらずの、静かな世界だった。
 やがて減速し続けている電車は、見慣れたホームへと滑り込んでいく。ゆっくりとゆっくりとそのスピードを落とし、最終的には完全にその動きを停めた。そして一呼吸を置いてから、ぷしゅーっという音と共に片方の扉を一斉に開いた。
「さ、降りよう」
「ああ」
 立ち上がった彼女に促されるままオレも立ち上がり、開いた扉からホームへと足を踏み出す。オレたちの後についてくる人はいない。オレたちのいた車両で、オレたちと共にこの駅に降りる人はいないようだ。あの車両は、あくまでも彼らの静かな世界だった。
 オレたち以外にこの車両から降りる人がいないと確認すると、四人組の女子高生らしきグループが、互いに五月蠅く会話を交わしながら車両の中へと入り込んでいった。
 これで、あの車両は静かな世界ではなくなるんだな、と思うと、何故だか勿体無い気分になってしまった。
 だが、オレはそんな考えをさっさと振り払い、先行して歩いている水瀬さんの後を追う。いかにもご機嫌といった感じの彼女の背中を見つめていると、オレもついつい楽しくなって言ってしまう。しかし、その反面、オレの中にはどうしても、それを素直に楽しいと受け止められない感情が生まれている。
 これでいいのか、とそれはオレに問いかけてくる。このままでいいのか、と。これが、お前の望んだ世界なのか、と。オレはその問いに無言を返しながら、彼女の後をついていく。そして改札を通り、結構な人がいる駅構内を通り抜け、駅前の駐車場へと出た。晩秋の空気が肺一杯に満たされていくのを感じながら、オレが住んでいる街の隣町であるこの街の、駅前の風景を一望する。駐車場に停まっているまばらな車。三本に分かれて伸びている商店街。そのうちのいくつかは、永遠に開かれないシャッターで閉じられていた。
 突然オレの右手が、柔らかく、温かい感触に包まれた。驚いて右に視線を転じると、水瀬さんが悪戯めいた、でも少し赤面した表情でオレの顔を見上げていた。
「行こ」
 そう言って、オレの右手を軽く引いて促してくる。
「ん。ああ、そうだな」
 オレも呟きながら、その右手に誘われるように足を踏み出していく。
「なあ、水瀬さん」
「何?」
「これ、ちょっと恥ずかしいんだけど」
 そう言って、オレは繋がれた右手を彼女の眼前まで上げてやる。
 彼女はその手を不思議そうな表情で暫く見つめた後、
「何で?」
 と、返してきた。
「いや、だってバカップルみたいじゃん?」
 おそるおそるそう告げると、彼女はまた悪戯めいた表情を作りながら、
「じゃあ、こうすればいい?」
 と、言って繋がれた左手を離したかと思うと、そのままその左腕をオレの右腕に絡ませてきた。
「〜♪」
 その上、その頭をオレの右肩に押し付けてきて、ご機嫌そうに鼻歌を歌い始めた。
「お、おい」
「まあまあ」
 彼女は何の恥ずかし気も無くオレに寄り添ってくる。その態度に、何を言っても無駄であることを悟ったオレは、ため息をつきながらも仕方なくそのままにしておいた。ちらちらとこちらを向いてくる通行人が恨めしかった。
「こういうのって、嫌?」
 そんなオレの心の内を悟ってか、彼女はオレの顔を見上げながらそう聞いてきた。
「嫌って言うか……」
 見上げてきた彼女の表情が、あまりにも哀しそうな表情だったため、オレはそう言うしかできなかった。
 しかし、
「アハハ」
 途端に彼女は笑顔になったかと思うと、その顔も左手も解放した。
「冗談だよ」
 それはおそらく、先ほどの哀しそうな表情のことを言っているのだろう。確かに、あまりにも極端な変わり身だった。
「私もさすがに少しは恥ずかしかったし……それに、隆二が嫌だっていうならやめるよ」
「……嫌って言うわけじゃ……」
 言いかけたオレの言葉に、彼女はふるふると首を振る。
「さ、行こ。せっかくの初デートなんだから、時間無駄にしたくないよ!」
 そう言って彼女はさっさとオレの先を行く。一度オレの右手をまた掴もうとしたが、それを途中で引っ込めて。
「…………」
 オレも無言でその後をついていく。晩秋の風を肌寒く感じて、両手をポケットに突っ込んだ。
「あれ? あれって、」
 先行していた水瀬さんが突然立ち止まり、何かに気付いたように呟く。そしてオレの方へと振り返り、視線でそれを指し示した。
「……直人? 由実?」
 オレもそれに気付き、その名を呟く。それは、街中を並んで歩く、桐生直人と朝倉由実の姿だった。
「桐生くんに朝倉さん……そういえばあの二人って、付き合っていたんだね」
「ん…………え?」
 思わず耳を疑った。
「付き合って……いた?」
「あれ? 知らなかったっけ?」
 オレの言葉に、水瀬さんは不思議そうな表情を作る。
「そっか、その時は隆二まだ気を失っていたときだったもんね。でも、退院してから二週間も経つけど、気付かなかったの?」
「いやだって、二人ともそんな素振りは見せなかったし……会ってる所も見たこと無いし……大体何も言わないし……」
 オレはかなり驚いていた。
「まあ、確かにあの二人、学校でも全然恋人らしいことしてないもんね。私だって、柿崎くんに教えてもらって初めて知ったし」
 苦笑しながら、彼女はそう言った。
「でも、ちゃんとああやってデートしてるみたいだね」
「……そうだな」
 未だに信じられない。まあ、直人は判る。由実は顔も悪くないし、アイツが好きになるのも問題は無いだろう。そして、アイツが誰かから好かれるのも不思議ではない。……しかし、由実が誰かを好きになって一緒にデートなどするとは……かなり奇妙な光景としか言い様が無かった。
「……どうしたの?」
「ん? あ、ああ、いや」
 乖離(かいり)しつつあった意識を呼び戻したのは、水瀬さんの声だった。
「何だか、驚いているみたいだけど」
「いや、何でもない」
 オレはぎこちない笑顔でそう返した。
「ふーん」
 訝しげな表情のまま、彼女は視線を直人たちの方へと戻した。その時、
「あ」
 彼女は小さな声を上げた。見ると、直人たちがこっちを見ていた。彼らもオレたちに気付いたのだろう。
 彼らは互いに二言三言話した後、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「隆二ー!」
 直人が手を挙げて声をかけてきた。
「ういーっす」
 オレも適当に手を挙げて返した。
「水瀬さんも、こんにちは」
「こんにちは」
 近寄ってきた直人は水瀬さんに挨拶をして、彼女もそれを返した。
「……こんにちは」
 隣に立つ由実も、何故か恥ずかしがりながら小さな声で挨拶をしてきた。
「こんにちは、朝倉さん」
「ちは」
 水瀬さんもオレも、彼女に対して挨拶を返した。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて」
「そうだね〜」
「……オレとしては、お前ら二人が並んで歩いている所を見たことがものすごく驚きなんだが」
 直人と水瀬さんの会話の中に、オレは嘘偽りの無い言葉を割り込ませた。
「……言ってなかったっけ? 隆二に」
「私は……言ってない」
 直人と由実は顔を見合わせた。
「そっか。そういえば、ほとんど誰にも言ってなかったね。僕たち、一応付き合うことになったんだ」
 こちらに向き直ると、直人は笑顔でそう告げた。
「そっかぁ。よかったねぇ。なんだか、二人ともお似合いだよ?」
 水瀬さんがそう言った。
「あはは。ありがとう」
「……ありがとう」
「……なんか、由実、元気無くないか?」
 さっきからぼそぼそと小さな声で話している彼女に、何となくそう感じて聞いてみた。
「うーん、最初から、なんか、こんな感じなんだよね」
 困ったように呟く直人。
「僕とのデートは、やっぱり面白くないかな……?」
「そ、そんなことはない」
 直人の言葉に、由実は慌てたように首を振る。
「ただ、こういうのは初めてだから……」
「恥ずかしがっているわけだ」
 オレが言葉の最後を借りると、由実は赤面して黙ってしまった。
「…………」
「何だよ、可愛い所あるじゃん」
 オレは笑いながら、その由実の肩をぽん、と叩いてやる。
「な……」
「結構いい奴捕まえたじゃん。やったなぁ、直人」
「え? え、あ、う、うん……」
 オレが話を振ると、直人も赤面して答えた。なんとなく似たり寄ったりの二人組みだ。水瀬さんの言うとおり、お似合いといった感じだった。
「それで、お前らこれから何処行くつもりだったんだ?」
「あ、僕らは、ボーリング場」
「ほーう」
「隆二たちは?」
 直人のその質問に、オレと水瀬さんは顔を見合わせた。
「……あー、いや、これといって特に決めてなかったんだ」
「……え?」
 恥ずかしそうに呟くオレと、俯いた水瀬さんを見渡して、直人は驚いたように声を上げた。
「決めて無かったって……」
「いやー、なんかさ……何処でもいいから、適当にどこかに遊びに行こうってことになって……だったら何か色々遊び場のあるこの街にしようってことになって」
 どうせオレたちの住む街の周辺でデートスポットと言えるような場所はこの街くらいなのだ。だからこの街に来れば何か良さそうなものが見つかるかなってことになって、こうして何も考えずに二人でやってきたのだ。
「……じゃあ、さ。僕たちと一緒にボーリング行かない?」
「……え?」
 突然の直人の提案に、水瀬さんはさすがに驚きの声を上げた。
「一緒にって……お前ら、せっかくのデートなのに……」
「いいじゃんいいじゃん。ダブルデートってことでさ。朝倉さんは、どう?」
 笑いながらそう言って、彼は自分よりも背の高い由実の顔を見上げながら聞いた。
「私はそれで構わない……ボーリングは、大勢の方が楽しいだろうし」
 およそ彼女らしくないような言葉を呟いた。
「……どうする? 隆二」
 水瀬さんがオレを見上げて聞いてくる。
「ん……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうか」
 オレは笑いながら頷いた。
「決定だね。それじゃ、行こうか」
 直人は告げ、踵を返して先ほど自分達が歩いてきた道を引き返して行った。由実もそれに続き、そしてオレたちも続いた。
「それで、お前らっていつ頃から付き合ってんの?」
 直人の左隣に就いて、彼と、彼の右隣の由実に聞いてみた。
「十月頃からだよ」
 足元の枯葉を踏む度に、クシャクシャと乾いた音が聞こえた。
「雅人がさ、色々と手伝ってくれて。それで、僕から告白したんだ」
「お前から?」
「うん」
 直人は恥ずかしそうに頷いた。
 休日の商店街は、休日には非相応に人が少なかった。いくつかの店には、もう何年も前からシャッターが閉まっている。
「僕は、ずっと彼女のことが好きだったから、それで、思い切って告白したんだ」
「それで、OKを出したと?」
 直人にではなく、由実に対してそう聞いてみる。由実は、無言で頷いた。
「へー、成る程ね」
 まだ色々と気になることはあったが、それは聞かずに今の状況を素直に感心した。
「そっちは?」
「へ?」
 直人の質問の意図が解らず、オレは聞き返した。
「そっちは、どういうきっかけで?」
「あー……きっかけ……か?」
 答えるのに戸惑いながら、ちらっと、さりげなく左隣の水瀬さんを見た。
「あ、わ、私が、告白したの」
 その視線を受けて、水瀬さんが恥ずかしそうにおずおずとそう告げた。
「放課後の、委員会があった日の帰り道に」
「へえ」
 直人も感心したように呟いた。
「それじゃ、僕らは告白組か。で、朝倉さんと隆二は被告白組」
 そう言って、人懐っこい笑顔で笑う。
「そうだね〜」
 その笑顔にほだされて、水瀬さんも笑顔になる。
「被告白組か……色々な意味が込められてそうだな」
「被告白組は、告白組の言うことを何でも聞かなければならないんだよ」
 と、直人が言った。
 ……訳解らん。
「だってさ」
 水瀬さんが何かを企むような笑顔でオレを見上げた。
「……だってよ」
 オレはその視線をワザと無視して直人の向こうの由実に振った。
「……ただし、被告白組はいつでもこの関係を終らせる権利がある」
「……冗談になんないよ」
 直人がショックを受けたように呟く。
「隆二はそんなことしないよね〜?」
 突然オレの左腕に腕を絡ませながら水瀬さんが聞いてきた。
「……どうだか」
「な、何それ〜!」
 オレの言葉に、水瀬さんは頬を膨らませて反論してきた。
「あははは」
 直人が楽しそうに笑った。
「…………」
 無言だが、由実もその口元を緩めた。
「何か言いなさいよ〜!」
 怒ったように、でも楽しそうな笑顔で、水瀬さんは叫ぶ。
「冗談だよ、冗談、」
 ――冗談。
「終らせねーよ――」
 終らせない……
 その後に、もう一つ、言葉があったはずだった。
 けれど、オレはそれを飲み込んだ。
 何故か?
 それは、分かりきっていた。
 分かりきっていて、オレは目を逸らしていた。
 その言葉は、
 ――絶対。
 オレは、嘘をつき続けていた。
 嘘をつき続けて、笑っていた。
 いつか、いつの日か。
 オレは、狼に食べられてしまうのだろうか。
 ……それは、いつなのだろうか。



 ボーリング場に着いた。早速料金を支払ってシューズを借りる。
「ほら、水瀬さん。料金くらいオレが奢るよ」
「え? いいの?」
「いいっていいって」
「あ、ありがとう」
 オレの提案に、水瀬さんは恥ずかしそうに俯きながら、でも嬉しそうに応えた。
「……あ、朝倉さん、僕も、朝倉さんの分、一緒に払うよ」
 そんなオレたちのやり取りを見て、慌てて直人も由実に提案した。
「……? いや、私は別に構わないが」
 しかし由実はそんな彼の思いも知らず、普通に返してしまう。
「あ、いや、その、い、いいからいいから。これくらい……」
「……そうか」
 しどろもどろになりながらも、それでもなんとか奢ろうとする直人の態度に、由実は結局頷いた。
「ありがとう」
 そう言いながら由実は真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「あ……うん、いや、その」
 直人は真っ赤になりながらも、必死で目を逸らさないようにしながら返す。
 そんな二人のやり取りに、オレは少し口元が緩みそうになる。それをなんとか抑えながら、オレはシューズを持って水瀬さんと共に適当なレーンへと足を運ぶ。
 このボーリング場も、休日だというのに酷く閑散としていた。オレたち以外の客は、二人組みのカップルと一人のおじさんだけだった。これで経営は上手く成り立っているのかと関係ないのに心配してしまう。
「なんか、誰もいないね」
「……まあ、仕方ないだろ」
 シューズに履き替えて、それから適当にボールを見繕う。水瀬さんもオレの後をついてくる。直人と由実もシューズを持って同じレーンに入ってきた。
「……これくらいかな」
 そう呟いて14のボールを選んだ。水瀬さんは10のボールを選んでいた。
「さて、順番はどうする?」
 全員の準備が揃ってから、オレはそう聞いてみた。
「適当でいいんじゃない? ジャンケンで、勝った人から決めるとか」
「そうだね、それでいいんじゃない?」
「私はそれで構わない」
 直人の提案に、他二人も賛成する。勿論、オレにも異論は無い。
「んじゃ、最初は――」
 ジャンケンを終え、順番は直人、由実、水瀬さん、オレという順番になった。
「それじゃ、トップバッター張り切っていけよ、直人」
「OKOK……うー、なんか緊張するなぁ」
 自分のボールを持ってレーンの方へと歩いていく直人。
「……頑張って」
 その背中に、由実が、掠れてしまいそうなほど小さな声だが、声援を送った。
「……あ」
 その声に、直人は思わず驚いて彼女の方へと振り返った。そしてそのまま止まってしまう。オレも水瀬さんも、驚いた表情で由実を見た。
「……な、何だ、その視線は? そんなにおかしいか?」
 憮然とした、しかし真っ赤に紅潮したその顔を、オレたちから逸らす。
「あ、いや、ごめん、その、つい」
 気を悪くしてしまったと思い直人は慌てて何とかフォローしようとする。
「……頑張るよ」
 だが最後にはそう呟いて、真っ直ぐレーンの向こうに林立するピンを睨み付ける。
「…………」
 由実も再び、その視線を直人の背中へと戻し、そして今、彼の背中を見つめていた。
「…………」
 不思議な沈黙が辺りを覆う。右に二つ隣のレーンでプレイしている二人組みのカップルがキャッキャッと何事か騒いでいる。左に三つ隣のレーンでプレイしている一人のおじさんが、半ば適当な感じでボールを投げている。それでもとても静かな世界。
 直人は構えを解いた。ボールを持った右手を一気に振り上げる。そして振り下ろした直後、その右手を離す。ボールは解き放たれ、真っ直ぐにレーンの中央を高速で走りぬける。そして――
「おおっ」
 思わず感嘆の吐息を漏らしてしまった。水瀬さんも由実も、驚きの表情でそれを見ていた。
 レーンを走るボールは真っ直ぐに真っ直ぐに林立するピンの中央へと向かっていき――その全てを、一撃で倒した。パカァンという小気味良い音が響く。全てのピンとボールは、レーンの向こうへと消えていった。
 ――ストライクだ。
 それも初回いきなり。
「やったぁ!」
 直人は振り返るや否や、両手を挙げて無邪気に勝利の雄叫びを上げた。
「スゲェ、いきなりかよ!」
 オレも水瀬さんも、そして由実も立ち上がって彼を出迎える。
「ナイス、直人!」
 オレは挙げられた彼の両手に、自分の両手を重ね合わせて叩いてやる。
「サンキュー、隆二!」
「おめでとう! 凄いね、直人くん!」
 続いて水瀬さんも笑顔で彼に両手を差し出していく。オレの時よりもやや低い位置で二人の両手が重なり合った。
 そして、
「……凄いな、桐生」
 由実もそう呟いて、直人の前に立ち、彼を見つめる。
「おめでとう」
 そしてその言葉と共に、両手を挙げた。
「……ありがとう!」
 直人は満足気な表情で、その挙げられた両手に自分の両手を重ねた。
「ホント、凄いね」
「ああ、まさかトップバッターいきなりとは……なんか、オレまで緊張してきたよ」
 各々の椅子に座ってオレと水瀬さんは囁きあった。
 直人の次は由実の番だ。由実は自分のボールを持って、直人とすれ違うようにしてレーンへと足を踏み入れた。
「頑張ってね」
 その彼女の背中に、直人はそう呟いた。
「……ああ」
 由実は振り返り、直人の顔を見て、力強い言葉と共に、力強く頷いた。



 オレたちは二ゲームをプレイしてボーリングを止めた。そして今、オレと直人は男子トイレで、そして水瀬さんと由実は女子トイレで、それぞれボーリングの球で汚れた手を洗っていた。
「何だかんだ言って、しっかりと仲いいじゃんか、お前ら」
 清潔感溢れる白い壁に囲まれた小さな二つの洗面台で、オレと直人はそれぞれの両手に薬用石鹸を塗りたくっていった。
「うん……僕も、安心した」
 泡だっていく自分の両手に視線を落としながら、彼は少し嬉しそうにそう答えた。
「隆二たちと会うまでは、実はもっと大変だったんだ。ろくな会話も無くて……凄く、不安だった」
「オレたちが来てから、ああいう風になったのか?」
 ボーリングの間中、由実は、彼女にしては珍しい、本当に楽しそうな笑顔を見せていた。
「うん……やっぱり、よく知ってる人と会ったから彼女も緊張が取れたんじゃないかな、とか思うけど」
「それはお前も同じだったんだろ?」
「……うん」
 オレの指摘に、彼は恥ずかしそうに頷いた。
「ったく……由実の性格はお前も知ってるだろ? それに、お前から告白したんだし……お前が積極的にリードしないでどうするよ?」
「うん、そうだね……」
 蛇口から勢いよく流れ出る水で両手の石鹸を洗い落としながら、彼は苦笑する。
「応援してるぜ。期待もな。だから、頑張れよ」
「うん……」
 彼はオレの方へと視線を向けた。
「隆二、ありがとう」
「オレに礼を言ってどうする」
 面と向かって礼を言われ、恥ずかしく感じたオレは苦笑しながら返した。
「ホント、頑張れよ、直人」
「うん、隆二も、頑張って」
「……ああ」



 トイレから出てきたオレたちは、同じく女子トイレから出てきた二人組みと合流し、ボーリング場から出た。
「さて、これからどうする?」
 オレはそう提案しながら一同を見渡してみた。
「うーん、なんか、面白そうなこと、無いかなぁ」
 水瀬さんが思案顔でぽつりと呟いた。
 面白いこと、か。
 これが水瀬さんとの初めてのデートだというのに、不思議な感じだった。なんとなく、いつもの遊び仲間との気楽な付き合いと同じような感じ。本来ならもうダブルデートも止めてそれぞれがそれぞれのカップルで二人きりの時間を過ごした方が良いのかもしれない。けれど、何か面白いこと、ということで、オレはこんな提案をしてしまった。
「それじゃ、さ……シャッフルしてみない?」
 三人を見つめてそう呟く。
「シャッフル?」
 直人が不思議そうに聞き返す。
「そ、シャッフル。すなわち、それぞれのペアを交代する」
「つまり、私と桐生くん、隆二と朝倉さんってこと?」
「そうそう」
 水瀬さんの言葉に頷く。
「ふーん……」
 直人は賛成か反対か迷っているといった感じだ。そしてそれは水瀬さんも同じだった。由実の表情はあまり変化が無いのでよくわからないが……。
「駄目か? ただの思いつきだし、駄目だったらいいんだけど」
「……んー、でも、私は面白そうだと思うな」
 水瀬さんが、そう呟いた。
「私も、別に問題は無い。それで構わないが」
 続いて、由実もそう言った。
「そうか? 直人は?」
「……うん、僕も、構わないよ」
 直人は頷きながらそう答えた。
「それじゃ、決定か。まあ、お試し期間みたいな感じで、気楽に行こうぜ」
「そうだね」
 笑いながら言ったオレに、水瀬さんも笑いながら返した。
「あ、でも、だからって浮気とか、無しだよ?」
 と、彼女は突然睨み付けるような眼差しで覗いてきた。
「わ、解ってるって」
 オレは多少慌てながらもそう返した。
「それじゃ、一旦それぞれのペアで解散して、また何処かで集まる?」
 直人がそう提案する。
「そうだな……それじゃあ、まあ、一時間後くらいに、またここで。それでいいんじゃないか?」
「そだね」
「けってー」
「ああ」
 一同全員賛成となり、言葉どおりオレたちはシャッフリングされたペアで適当に別れた。



「さて」
 呟いて、オレは隣を見る。そこには、朝倉由実の姿があった。彼女は、オレの隣りにはいるが、時折ちらちらとこちらを見ては、すぐにまた視線をあらぬ方向へと戻すようなことを繰り返していた。その口は何の言葉も生み出そうとしない。
 よくよく考えてみたらシャッフリングされた相手というのは彼女だったのだ。今更ながらに自分が彼女を苦手だということに気付いてしまった。
 オレたちと会うまでも、直人はこんな状況だったのだろうか……? そう思うと、少しばかり彼に同情してしまった。
 ……しかし、今日の由実は、今までオレが苦手としていた彼女とは明らかに違っていた。表情も柔らかく、口数も多かった。それに今の彼女も、昔の彼女とは、なんとなくではあるが、少し違うように感じられる。それに、病院で会った時も、なんだか違った印象だった。
 何かしらの会話を作れば結構話は弾むんじゃないだろうか。直感でそう思ったオレは、思い切って話を切り出す。
「なあ、由実」
「何だ?」
 オレが名前を呼ぶと、意外なほど素直にこちらを振り返った。その表情は柔らかく、やはり昔とは違うという印象を与えた。
「歩きっぱなしもアレだし、なんかそこら辺の適当な喫茶店にでも寄らないか」
「ん……」
 彼女は言葉少なく頷いた。彼女を連れて、オレはこの辺りで一番近い喫茶店へと向かった。
 ボーリング場同様、休日なのに人の少ない小さな喫茶店。水瀬さんたちももしかしたら来てるかも、とも思ったが、客はオレたちだけだった。入った途端、いらっしゃいませ! と若い女性の店員が元気よく挨拶をした。オレたちは一番奥の窓際の席へと向かった。
「お前、何飲む?」
 メニューを見ながら、オレは軽い感じで訊いてみた。
「……私は、隆二のと同じでいい」
「…………」
 何とも微妙な感じにさせてくれる由実の返答。思わず顔を上げ、彼女の顔を凝視したまま硬直してしまう。
「……?」
「いや、なんでも」
 頭を振って気を取り直し、メニューへと視線を戻した。
「じゃあオレは激辛唐辛子オレンジ」
「ん」
 由実は、頷いた。
「お前も、それでいいの?」
「隆二がそれにするなら」
 っていうかそんなものメニューに無ぇよ。
「わかったわかった。じゃあオレはコーヒー。お前もそれでいいな?」
「ん」
 彼女が頷いたのを確認すると、店員を呼び止めて注文を行った。ホットコーヒーブラックお二つ、以上でよろしいですね? という店員の確認の言葉に頷くと、その店員はカウンターの方へと戻っていった。
「ふう」
 特に意味も無くため息をついてみた。
「で、どうよ? 直人とは上手くいってる?」
「……わからない」
 オレの質問に、由実は少し表情を暗くしてそう答えた。
「こういうの、初めてだから。自分が上手くやっているのかどうか、よくわからなくて」
「……じゃあ、上手くやろうとはしてるわけだ?」
 オレの言葉に、由実は無言で頷いた。
「そっかそっか。それじゃ、直人が嫌いとか、付き合うこと自体が嫌になったとかは、ないんだな?」
「うん、それは無い」
 従順に頷く。かつての気の強い、堅苦しいような彼女のイメージとは打って変わった雰囲気だった。
「なら、何の問題も無いだろ?」
 少し、可愛いという感想を意識の隅に感じながら、オレは笑ってそう言ってやった。
「……?」
 小首を傾げながら、由実は無言で疑問を表現した。
「楽しく付き合うのに、つまらない小手先とかなんて必要ないだろ。そんなものは、付き合いをつまらなくするだけだ」
 手元に置かれているおしぼりを軽く弄りながら、言葉を紡いでいく。
「要はお前が如何に楽しく過ごすかだ。少しくらい我が侭になったっていい。そっちの方が、相手も付き合いがいがある」
 コーヒーを持った店員がやってきたため、オレはそこで少し話を中断した。湯気を立てているホットコーヒーが、オレと由実、それぞれの目の前に置かれる。ごゆっくりどうぞ、とぺこりと頭を下げながら店員は告げて、踵を返してまた店の奥へと戻っていく。
「少なくとも直人は」
 目の前に置かれたコーヒーに両手を添えて温かさを感じながら、オレは言葉を再開した。
「お前に変に気を遣われるより、普通に楽しんでもらっていた方が嬉しいと思うぜ? 多少の我が侭とか弾けたところを見せたとしても」
「…………」
 由実は目の前に置かれたコーヒーにも全く関心を寄せず、じっとオレを見つめ、話に聞き入っていた。
「ま、」
 オレは苦笑を零した。
「偉そうなことではあるけれどな。オレだって全然経験未熟者だし、ほとんど適当なことだよ。あまり参考にならないかもな」
「そんなことはない」
 オレの言葉を、由実はやんわりと拒否した。
「凄く、参考になった。ありがとう」
「……コーヒー、冷めないうちに飲めよ」
 真っ直ぐこちらを見つめてくる彼女と目を合わす事もできず、オレは少しぶっきらぼうにそう応えた。今更ながらに、結構恥ずかしかった。
「楽しむ、か。そうだな」
 両手でそっとコーヒーの容器を掴み、一言一言噛み締めるように呟く彼女。その姿は、本当に可愛らしく、オレは思わずドキドキと胸を高鳴らせてしまった。
「隆二は、今、楽しいか?」
「……ん?」
 そっとコーヒーに口をつけながら彼女はそう聞いてきた。オレは視線を彼女に戻しながら、小さく反応した。
「水瀬さんと一緒にいて、楽しいか?」
「……ああ」
 オレは頷いた。
「楽しいよ」
「そっか」
 まだ熱いであろうコーヒーを、少しずつ、少しずつといった感じで口につけていく彼女。
「水瀬さんのことが、やっぱり好きなんだろう?」
「……ん、そうだな」
 由実の問いに、オレは迷うように答えた。
「確かにオレは、彼女のことが好きだよ」
「……?」
 オレの言葉に少し引っかかりを感じたのだろう。由実はコーヒーから口を離し、オレを見据えて訝しげな視線を送る。
「確かにオレは彼女のことが好きだけど……なんだろう、よくわからない」
 今までずっと誰にも言えず胸のうちにしまっていたその本音。今なら、語ることができるように感じられた。
「よくわからない?」
「ああ」
 彼女の疑問に、オレは言葉だけで頷く。
「彼女のことを好きなのは間違いないけど……それは、それは……」
 うまく言葉にならないその思い。ゆっくりと、ゆっくりと、噛み締めるように、自分に聞かせるように呟く。
「一番じゃ……ないんだ……彼女のことは好きだけれど、それは一番じゃないだ」
「一番じゃ、ない」
 彼女は口の中で反芻する。
「……他に好きな人でもいるのか?」
「…………」
 彼女の問いに、オレは図らず押し黙ってしまった。
「……どうなんだろうな」
 そう呟いてみたものの、答えはほとんどはっきりしていた。
 今まで言葉にせず、そして自分の胸の中でも誤魔化し続けてきたその真実。今こうやって言葉にしてみたことで、その存在は自らをはっきりと主張するようになった。
「オレは……」
「隆二は」
 オレの言葉を引き継ぐように、彼女は呟いた。オレは弾かれるように顔を上げた。彼女は、オレをじっと見つめていた。
「隆二は、隆二の思うようにすればいい。好きなように。隆二自身の意思で。それがどんな結果を与えようとも、どんなに認められそうにない手段でも」
 彼女の言葉の一つ一つが、オレの胸の内に突き刺さっていった。
「それが、さっき隆二が私に教えてくれたことじゃないのか?」
 彼女は知っているのだろうか。オレの、本音に。今のオレの行動の理由に。言葉にしただけの真実では、そこまではわからないはずだ。だけど、彼女は、まるでそれをすっかり解っているかのように……的確な言葉を与えてくれた。そしてそれは、確実にオレに突き刺さった。
「……そっか。そうだな」
 オレは半ば諦めたかのように、顔を俯かせながらそう呟いてみた。
「もう、耐えられなかったりするしな」
 右手だけをコーヒーの容器に触れさせる。熱がその右手に伝わって、体全体へと運ばれていくように感じられた。
「ちょっと、我が侭になってみても、いいのかな」
 独り言の様に、いや、実際独り言としてそう呟いた。
「……いいと思う…………わからないけど」
 そんなオレに、由実は頷きながら答えた。
「……なんか、正直だな、最後」
「……ごめん」
 苦笑しながら顔を上げて彼女を見た。彼女もまた、言葉の内容とは裏腹に薄く笑みを作りながら応えた。
「ありがとうな」
 そして最後に、オレは彼女に礼を告げた。
 彼女は、照れたように笑った。



 照りつける午後の日差しは、秋風に晒されて冷えてしまった体を温めてくれる。今がもう晩秋であることも忘れさせてしまうくらいに。だが確実に季節は巡る。各個人の事情も何もお構い無しに。ボーリング場前の駐車場。そこにも、近くに植えられた木々から舞い降りた落ち葉が、所々に点在している。踏み入れた足がそれらの上を歩くたびに、軽快な、しかしどことなく寂しそうな音を奏でる。―――カサッ、カサッ、カサッ。まるでその一歩一歩で、徐々に冬へと向かっていくかのように。
 駐車場には既に水瀬さんと直人の姿があった。並んでやってきたオレたちに気付き、水瀬さんが手を振ってきた。そして直人も右手を挙げて出迎えた。
「悪いな。待ったか?」
「ううん、全然。私たちも今来た所だし、ね?」
「うん。今丁度約束してた時間だし。別に隆二たちが遅れた訳じゃないよ」
 四人集まって、そんな普通のやり取りを交わす。
「どうだった? そっちの方は」
「うん、まあ、色々と話してたよ」
「桐生くん、結構面白いってゆうか、可愛いってゆうか……なんかいつも隆二にからかわれているから、いいストレス解消になったよ」
 悪気も無くそんなことを言ってのける水瀬さんに、オレは苦笑してしまう。直人の方は別段気にした様子もなくあはははーとか笑っていた。よく考えてみたら中々面白い組み合わせだった。
「そっちの方は?」
 どうだった? と直人が訊いてきた。
「ああ、まあ、ぼちぼちとな」
「何それ?」
 曖昧な返答に、水瀬さんが怪訝な表情を見せた。
「何か、怪しー」
「いや、別にそんなことは無いんだが……」
「……隆二には、色々とアドバイスを貰ったよ」
 フォローするように、由実が言った。
「アドバイス?」
「ああ、恋愛に関してのな」
 直人の疑問に、由実が答えた。その由実の表情は、今日彼らと初めて逢った時と比べて随分穏やかなものになっていた。
「まあ、別に……オレも、ちょっと助言してもらったしな……」
 オレは少し恥ずかしくなって、頬を掻きながらそう答えた。。
「そっか……僕も、実は隆二からアドバイス貰ったしね」
「そうなの?」
 水瀬さんは直人の顔とオレの顔を見比べた。
「うん、ちょっとね」
「……いや、アドバイスっていうか……」
「ふーん……そっかぁ……私は別に、桐生くんにも朝倉さんにも何もして無いけど……」
 水瀬さんは申し訳なさそうに呟いた。
「いや、水瀬もいてくれて、今日は楽しかった」
 由実がそうフォローを入れた。そういえば由実が水瀬さんにそういうこと言うのは初めて見た気がする。
「そ、そう?」
 驚いたのは水瀬さんも同じらしく、驚き半分照れ半分で由実を見る。
「ああ、水瀬も隆二も、今日は本当に楽しかった。ありがとう」
「うん、僕からも礼を言うよ。ありがとう、二人とも」
 由実と直人は並んで、オレたちを見渡してそういった。色々とアンバランスだったりもする二人だが、今では結構良い感じに見える。
「それはこっちも同じだよ。ありがとな」
「うん、楽しかったよ」
 オレも水瀬さんも、同じようにして二人に礼を返す。
「それじゃ、この後はそれぞれのペアに解散しよっか」
「そうだね。ちゃんとしたデートも、楽しまなくっちゃね」
 直人の言葉に、水瀬さんは頷いた。
「そうだな……んじゃ、行くか。……二人とも、またな」
 オレも頷いて、水瀬さんを連れて歩き出す。
「うん。それじゃ、またね。隆二、水瀬さん」
「ああ、さよなら」
 直人と由実も手を振って、並んで歩き出していく。
「……良かったね、あの二人」
「ん?」
「何だかんだ言って、いい感じでやっていけそうじゃん?」
「そうだな」
 水瀬さんの言葉に、オレは頷いた。
「それで、私たちも」
 そう言って、水瀬さんはまたオレの左腕に巻きついてきた。
「良い感じで、やっていこうか」
 そして満面の笑顔で、オレを引っ張った。
「……って、おいおい」
 オレは危うく転倒しそうになって、何とかバランスを取る。
「あはは、ほらほら、早く早く」
「はぁ……だから恥ずかしいっての……」
 恥ずかしげも無く無邪気に振舞う水瀬さん。そんな彼女の様子に、オレはため息混じりに苦笑する。
 それはとても楽しい時間。とても幸せな時間。
 いつまでもそこに浸かっていたいと感じさせてくれる、至福の世界。
 だけど、そう感じられるのも今だけであることを、オレは知っていた。
 家に戻れば、学校に行けば、忘れかけていた様々な想いが体中を巡っていく。
 それは、もしかしたら完全に無くなってしまった方がいい想いなのかもしれない。
 けれど、オレにはその想いを棄ててしまう事など、出来なかった。
 そしてその想いと、今ここにある快楽に挟まれて、息苦しい思いをし続けていくのだ。
 何が正しいのか判らない。どうすれば一番良いのか判らない。
 けれど、オレは、決してこの想いを棄てる事など……出来ない。

「それじゃ、何処行こっか?」

 オレの顔を見上げてそう訊いて来る彼女は、とても愛しい存在だった。
 けれど、オレにとって、それは、一番の存在ではない。
 ……いつか、あの想いと引き換えに失わなくてはならない存在。

 ――それでも、それでも。

「んっと、そういえばさっき良さそうな洋服が売っているお店、見つけたんだ。行ってみない?」

 今だけは、今だけは、ここにある笑顔を曇らせたくは無い。
 今だけは、今だけは、彼女と共にいる幸せに浸っていたい。
 いつかくる喪失。それをただ先延ばしにしているだけ。
 それでも、今だけは。
 それは、間違っているのかも知れない。
 それは、贅沢な選択なのかも知れない。
 ……だけど、どうか、許して欲しい。
 それは、決して偽りではないから。
 それもまた、オレの本当の想いなのだから――





 to be countinued to chapter.10



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