ナツコイ-first love-
freebird presents

第9章裏 片愛






     “やっぱり、一番好きな人のところにいてもらいたい、から”





 秋の風が吹いていた。それは襟元から入り込み、服の中を掻き乱し、僕は思わず肩をすくめてしまう。
「寒いね、少し」
「うん、そうだね」
 僕の言葉に、隣を歩く少女が答えた。僕より少し小さいくらいの小柄な少女。ベージュのフード付きパーカーに、薄いブルーのデニムのパンツ、そして短いツインテールをした少女。名前は、水瀬那美。僕の友達、志倉隆二の、恋人だ。
「まさかこんなにも寒くなるとは思わなかったからなぁ……」
「もう少し、厚着にしてくればよかったね……」
 うん、そうだね、と、僕は彼女の方に少しだけ視線を向けながら答えた。彼女もまた、僕と同じように肩をすくめていた。
「もう、冬が近いんだねぇ……」
「うん……」
 今度は彼女の言葉に、僕が頷いた。ぎこちない会話だった。当然と言えば当然なのかもしれないけど……彼女は、僕の彼女ではなくて、隆二の彼女なのだから。
 アスファルトを踏みつける靴底に、時折乾いた感触と音を感じる。周囲の木々から秋風に散らされた褐色の枯葉たちが、足元にまばらに広がっていた。
 空を仰ぐ。何処までも高い空。遮るものも何も無く、ただ澄み切った蒼色を広がらせた、秋の空。
 どうして僕が、僕の彼女ではない水瀬さんと歩いているのか。それは、今から少し前に、隆二の口から発せられた提案によるものだった。
 ――それじゃ、さ……シャッフルしてみない?
 隆二と彼女、そして僕と、僕の彼女の朝倉由実。それぞれのカップルは共に初デートであり、そして偶然、この街の駅前で出会った。そしてその後はダブルデートとして、一緒にボーリングを楽しんだ。それが終った時、互いに全く予定を立てていなかった僕たち二組のカップルは、隆二のその提案のもとで、それぞれの男性女性を交代してデートをするというシャッフルデートへと進んだのだ。
「ふわぁ……ぁ……」
 暫くの無言の後、唐突に水瀬さんは欠伸をした。そしてそれに驚いて振り向いた僕と視線が合うと、恥ずかしそうに頬を赤らめ、そして申し訳無さそうに目を細めて笑った。
「ごめん、ごめん……あはは……実は、昨日、眠れなくて……」
 照れ笑いを浮かべながらそう弁解する彼女に、僕はなんとなく、微笑ましさを感じた。
「そうなの? いや、別に気にしなくてもいいよ。それより眠れなかったって、どうして?」
「う、うん……いや、今日、初デートだからさ……ついつい緊張しちゃって……」
 しどろもどろになりながら、彼女は告げる。僕は、柔らかく自然に笑った。
「そっかぁ……実は、僕もなんだ」
「え?」
「僕も、今日は初デートだからさ。実は……昨日、眠れなかったんだ」
「そうなの?」
「うん」
 水瀬さんは随分と驚いたようだったが、やがて納得した表情に変わり、人懐っこい笑顔を見せた。
「うん、うん。そうだよねぇ……緊張しちゃうよねぇ……やっぱり」
「うん。あ、でも……このことを朝倉さんに言ったら、自分は全然そんなことは無くぐっすりと眠れた、と答えていたけどね」
「あ、そ、そうなの……?」
「うん。ものすっごく、悪意の無い表情でね。本当にわからない、って感じだったよ」
「あはは……そうだね、朝倉さんは確かにそんなタイプだよね。凄く美人で、頭もいいけど、なんていうか、そういうところ抜けてるっていうか鈍感っていうかって感じで……だから可愛らしくもあるんだけどね」
「そうだね」
 確かにそうだ。確かにその時は少なからずショックだったけど、それと同時に僕は胸の奥からこみ上げてくる不思議な感情を感じていた。微笑ましい、っていう感情なんだろうか。さっき水瀬さんに感じたのとはちょっと違う、もっと、僕の恋人としての朝倉さんに対する、微笑ましい……というか、嬉しい、というような感覚。この人といられて、本当に嬉しい、本当に良かった、本当に幸せ、というような感覚。
「嬉しそうだね」
 その時の想いを回想していた僕を、水瀬さんは可笑しそうに笑った。
「そ、そう?」
「うん、ものすっごく幸せそうな顔してた。なんか、妬けちゃうくらい」
「妬けちゃう?」
「うん。本当に幸せなカップルやってるんだなぁ、とか」
「そんな、それは水瀬さんだって同じじゃないか。水瀬さんだって、隆二といる時、本当に幸せそうな表情してたじゃん」
「そう?」
「うん」
「そっかぁ……うん、そうだろうねぇ……やっぱり、顔に出ちゃうか……」
 困ったような口調で呟きながらも、彼女もまた、幸せそうな表情を浮かべる。日曜日の繁華街。にも関わらず、僕たちのような若者の姿はそれほど多くは無かった。シャッターの下ろされた商店街が、寂しそうに沈黙していた。
 水瀬さんと隆二は、今年の春、クラスが同じになったことをきっかけに親しくなっていった。やがてその関係はただの友達を超えた深いものになっていくように思え……しかし、そこで大きな悲劇が二人を襲った。隆二の交通事故。およそ二ヶ月間に渡り、彼は昏睡状態に陥った。そしてその後もまた、彼らには悲しい事態が待ち受けていた。部分的な、隆二の記憶喪失。それは、この春からの記憶がごっそりと抜けてしまったという事態。つまり、水瀬さんとの出会いから、親しみを深めて行く、その過程……。しかし、それでも彼らは、やはり結ばれる運命にあったのだろうか。その後、意を決した水瀬さんの告白により、彼らは再び付き合い始めたようだ。隆二は依然として春からの記憶を失っている。しかし、今でもこうして、二人は幸せそうな関係を築いていた。それは傍から見ているだけでも嬉しくなり、そしてこれからもずっと、消えることなく続いていくのだろうな、と感じさせてくれるような……。
「朝倉さんのことは、好き?」
 唐突に、水瀬さんは僕の方を向いてそう訊いて来た。
「うん?」
 僕は思わず聞き返した。
「朝倉さんのこと、やっぱり好き?」
「……? うん、好きだよ。それは勿論」
 彼女の質問の意図はよくわからなかった。しかしその質問の内容は、至って簡単で迷う必要の無いものだった。僕は間違いなく、確かに頷いた。
「うん、そうだよね」
「……?」
 満足気に呟く彼女に、僕は再び首を傾げた。
「どのくらい好き?」
 またも彼女は訊いて来た。そしてまたもよくわからない質問。……どのくらい好き?
「物凄く、好きだよ。本当に好き」
 言いながら、少し恥ずかしく感じ、頬が紅くなっていくのが自分でもわかった。しかし、それは確かに僕にとっての真実だった。
「うん、そうだよね……そうだよね」
 彼女はまた満足気に頷く。嬉しそうな表情を浮かべながら。
「どうして突然そんなこと訊くの?」
「うん、いや、別にあんまり意味は無いんだけどね」
 そう言いながら、あはははは、と小さく笑う彼女。
「水瀬さんは、どうなの?」
「え?」
「水瀬さんは、隆二のこと、どれくらい好き?」
 その質問をした途端、彼女は足を止めた。え? と僕が驚いて彼女を振り向くよりも早く、彼女はこちらに顔を向けた。そこには、いまにもはちきれそうなほどの笑顔を必死でためこんだような、にまぁっとした表情が浮かんでいた。
「みな、」
 水瀬さん? と問いかけようとしたが、それよりも早く、突然彼女は走り出した。そして僕の前方10メートルくらいのところで立ち止まり、こっちを振り返り、両手を左右に大きく広げて、
「だぁーーーい好きだよっ!」
 と、叫んだ。周囲を歩いていた高校生くらいのカップルやらお洒落な服を着た20代前半といった女性やらぶかぶかのジャケットを羽織った少し猫背気味のおじさんやら杖をついて歩くおばあさんやらが何事かと振り返る。当然僕は、恥ずかしい。だけど水瀬さんはもう完全に満面の笑みで両手を広げながらこっちを向いており、今にも何度も飛び跳ねてしまいそうな感じだった。
「み、水瀬さん……」
 僕はよろよろと彼女に近づいていく。なんだか精神的に随分と疲れている。っていうか、今の状況、まるで僕が大好き、と言われているような感じだ。
「あは、ちょっと、羽目を外しちゃったかな……」
 さすがに自覚はあるようだ。すぐ傍まで近づいてきた僕に、彼女は恥ずかしそうな笑顔を向けた。

「隆二も、同じだと思うなぁ」
 適当にくつろげるところ、ということで僕たちは近くの公園のベンチに並んで座った。日曜の昼下がりということもあって、子供連れの母親が3組ほどいた。ベンチの他には、ブランコや砂場、いくつもの黒い球体がぶら下がっているような遊具しかなかったが、子供達はその中から自分の好きな物を選び、友達たちと一緒に力いっぱい遊んでいた。母親に連れられてきた子供以外にも、近所から一人あるいは兄弟で遊びにきた子供たちもいるようで、子供たちの総数は10人くらいあった。3人の親はそれぞれ固まって談笑しながら、子供達が遊ぶ姿を笑顔で見守っていた。
 そんな風景の中で、水瀬さんは唐突にそう告げたのだ。
「同じ、って?」
「さっき、直人くん、言ってたじゃない? 自分が眠れなかったこと、朝倉さんに告げたら、朝倉さん、どうして? って真面目な顔して返したこと」
「ああ、そのことね」
 ここに着たきり二人ともまた何も話さなくなって、何か話題が欲しいとは思っていた頃だったが、まさかその話を再びぶり返されるとは思っていなかった。
「それでさ、多分、私が隆二に同じように眠れなかった、って話しても、隆二も朝倉さんと同じように理解できない、って感じの表情をすると思うな、って」
「ああ……」
 確かに、そうかもしれない。
「隆二も、結構鈍感だからね」
「うん」
 僕が苦笑してみせると、水瀬さんも苦笑しながら、やれやれ、と小さく、だが勿論僕に聞こえるようにわざとらしくため息をついた。
「お互い、苦労してるね、相方に」
「うん、告白組の辛さだね」
 水瀬さんのその言葉に、朝倉さんの『あの言葉』を思い出し、少し背筋が冷たくなった。だけどまあ……大丈夫さ、と僕は自分を納得させるために、心の中で胸に手を置いた。
「なーんか、あの二人って、結構お似合いだよねえ」
 と、水瀬さんはぽつりと呟いた。
「え……?」
 僕は思わず彼女の顔を覗き込む。そこには、相変わらずの楽しそうな笑顔と苦笑が交じり合ったような表情があったが……なんだか、少し、無理をしているような、本当の表情とは言いがたいような雰囲気を持っていた。
「なんかもう、本当に鈍感で、こっちの気持ち、わかってるのかなぁ、とか思っちゃうくらいに」
「う、うん……」
 僕はなんとか返事をするが、内心、少し焦るような気持ちも抱いていた。お似合い。その言葉。確かにそうかもしれない。あの二人は確かにお似合いかもしれない。水瀬さんの言うように二人とも、ある面では同じような性格をしているし、それに――
「それに、何だか、あの二人って、部外者が入り込めないような、っていうかなんていうか……特別に親しい雰囲気を持っているんだよね」
「うん……」
 確かにそうだ。その感覚は、理解できる。
「恋人同士のそれってわけじゃないんだけど……なんていうか、親友というか幼なじみというか……千穂といる時も、隆二は同じような雰囲気を見せる。千穂とは私も友達だから、まだ入り込めるような部分は残っているんだけど……」
 呟きながら、僕は、水瀬さんの表情が、楽しそうなそれから少し落ち込んだようなそれに変わっていく様を見届けていた。
「うん、そうだね……」
「こんな心配、するべきじゃないとは思うんだけど……それに直人くんの前だし……」
 水瀬さんの言葉に、僕の口は自然と動き出した。
「大丈夫だよ」
「え?」
 水瀬さんは僕を見つめた。僕は何て言ったらいいか考えあぐねながら、それでもなんとか少しずつ言葉を紡いでいった。
「何ていうか、大丈夫だと思う。その……水瀬さんも言ったように、二人のあの雰囲気は恋人のそれとは違う気がするし……。あの二人は去年から結構親しい感じはあったし、うん、そういうのはやっぱり、恋人とかとは違うと思う」
 言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなってきていた。しかし水瀬さんは真面目な顔で、僕の方を向きながら、僕の言葉を一言一句聞き逃すまいとするように耳を傾けていた。
「人には、それぞれ、特有の波長があると思うんだよ。なんでもないような、ありえないような位置関係にある人間同士でも、ある波長が合えば、意外な関係を結んでしまうことだってあるんじゃないかな……。それはつまり、隆二と朝倉さんが、親友のような幼なじみのような関係になったように……」
 それから、僕はちらりと水瀬さんに視線を向けた。
「それと、水瀬さんと隆二が恋人同士という関係になったような……」
「え?」
 突然自分達のことを振られ、水瀬さんは驚いた表情を浮かべた。
「だって、隆二は水瀬さんとの記憶を失っていたのに、今ではこうして、しっかりと恋人としていられているでしょう? やっぱりそういうのって、運命っていうか、そういう、波長が合ったとか、そういうのじゃないかな」
「う……うん……」
 彼女は納得したようなしてないような、複雑な表情を浮かべた。無理も無いだろう。
「ごめん……何か、全然日本語になってないや……」
「ううん! そんなこと無いよ! うん、ありがとう。何か、そう言ってもらえると、安心できるっていうか嬉しいっていうか……」
 項垂れた僕に、水瀬さんは咄嗟のフォローをしてくれる。そこにはいつものあの笑顔を浮かべていた。しかしそうやって感謝されることは、実は僕にとって複雑な感情を抱かせた。と言うのも、実際、僕としては、彼女を安心させるためというよりも、自分を安心させるためにその言葉を紡いでいたのだから。それに気付いてしまった故に、僕はそうやって感謝してくれる水瀬さんに対し、申し訳ない気持ちがどうしてもこみ上げてくるのを感じていた。
「うん、そうだね……そうだよね……」
 水瀬さんは顔を俯かせながら、しかし口元には柔らかい笑みを浮かべながら、しきりに何かを呟いた。
「あの二人はあの二人なりの関係があるんだろうし、私には私なりの、隆二との関係があるわけだしね……。うん、そこは、やっぱりあまり心配しちゃいけないことなのかな……」
「うん……」
 呟く彼女に、僕は小さく頷いた。彼女の表情には、未だ、時折複雑そうな表情が浮かび上がることはあるが、しかしそこら辺はやはり彼女の中で片付けられるべき問題であろう。それよりも今は、僕の中に、どうしても消えない問題があった。
 自分ではあんなことを言ってしまったが、やはり不安は残っていた。そもそも、隆二と水瀬さんとの間にある波長は理解できるとしても、僕と朝倉さんの間には、果たしてそのような波長はあるのだろうか。僕と朝倉さんは、真に恋人同士として、これからも間違いなくやっていけるのだろうか。寧ろ、僕なんかよりも、よっぽど相応しい波長を持った相手がいるのではないだろうか。
 そしてそこで浮かび上がるもう一つの不安。僕は、朝倉さんの中の、ある一つの想いに、それとなく、気付いている。それはもしかしたら間違いかもしれないけど、でも何故か、不思議な確信が、僕の中には潜んでいた。それはつまり……
「どうだろう。そろそろ時間かなぁ?」
 隣に座る水瀬さんが、自分の携帯を開きその中のディスプレイを見つめながら呟いた。そしてその呟きで、僕は深く入り込んでいた思考から引きずり出されることとなった。
「時間?」
「うん、約束の一時間、そろそろ経つかなって。ボーリング場からここまでも結構距離あったし、そろそろ、話がらでも帰らないと、時間に間に合わなくなるかなって」
 僕も自分のポケットから携帯を取り出して時間を調べた。確かに、水瀬さんの言うとおりだ。
「うん、そうだね。それじゃ、ボーリング場まで戻ろうか」
「うん」
 彼女が頷いたのを確認して、僕は立ち上がった。そして彼女もまた、その後について立ち上がった。公園の中では、相変わらず10人くらいの子供たちと3人の母親が、それぞれがそれぞれの意味を持った笑顔で時を過ごしていた。僕たちはそんな世界から、抜き足差し足に静かに抜け出すように、公園の出口へと向かって歩いていった。そして、公園を出て暫く歩くまで、僕らの間には再び無言の世界が生み出されていた。
「きっと、隆二は、さ」
「うん?」
 そこで沈黙を破ったのは、また水瀬さんだった。そして、また唐突な呟きだった。直後に紡がれた言葉と共に、僕を酷く驚かせた。
「私のことは、好きじゃないんじゃないかなって思う」
「え……?」
 僕は驚きのあまり何も言えなくなって、水瀬さんを凝視した。水瀬さんもこちらと視線を合わせて、そして困ったような、何処か、諦めたような弱々しい笑顔を浮かべた。
「ううん、自惚れるわけじゃないけど、好きとは思ってくれているかな、やっぱり」
「うん、それは間違いないよ。と言うか、それ以外の真実なんて無いよ」
 僕は力強く、大きな確信をもって彼女に告げた。
「隆二は間違いなく水瀬さんのことを好きだよ。そして、水瀬さんも隆二のことを好き。間違いなく、二人は相思相愛のカップルだよ」
 言いながら、僕はどうなんだろうな、という思いが胸の奥からこみ上げてきた。
「うん、ありがとう……。確かに、そうなのかもしれない。ううん、確かに私は、本当に、隆二のことを、心の底から、誰よりも一番、好きだって言える」
 秋の風はいつの間にか止んでいた。寒い、という感覚は失われていた。だけど、胸の奥には、なんともいえない、不思議な寂しさの感覚が浮かび上がっていた。
「一番、好き。私は、隆二の事が、一番好き」
 強調するように、水瀬さんは何度も呟いた。
「でも、隆二は違うかもしれない」
「……隆二は、水瀬さんのことを、一番には想っていないってこと?」
 水瀬さんは無言で頷いた。
「好き、ではあるのかもしれないけど、でも一番ではないと思う」
 水瀬さんの言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。何故だか、否定することすらできなかった。そうすることが許されるだけの素材が、僕の手元には無かった。その領域は、僕にはわからなくても、彼女達にはわかる領域なのだろう。そこに僕の判断が含まれる道理は無い。
「でも、どうして……」
 それでも僕は、結局それだけを口にしていた。それきり、またも無言。数秒が経過した後、再び開いた僕の口から流れ出た言葉は、結局、大して変わることのない言葉だった。
「でも、だったら、誰を……?」
 水瀬さんは小さく首を振った。わからない、と言いたいのだろうか。でも、なんだかそういうのとは違う気がした。きっと、水瀬さんはわかっている。その相手が誰なのか。そして、首を振ったのは、僕がそれを訊くべきではない、あるいは訊いても無意味だということ。少なくとも、僕の自分勝手な解釈装置は、彼女のその動作を、そう結論付けた。
「そんな……確かに隆二は水瀬さんを好きだとは思うけど、でも一番じゃないなんて……」
 僕は、どういう思いでその言葉を紡いでいるのだろうか。友人のカップルが、実は相思相愛では無かったかもしれないということに関して残念な思いを抱いているのか、それとも、絶対に完璧に合っていたと思っていた波長のカップルのもつれというものを目にし、自分と朝倉さんとの関係に対しより不安な感情を抱いているのか。
「隆二は……どうするの? まさか、その、一番の人の元へ……」
 不適切な質問だったかもしれない。そう思い、僕ははっとして水瀬さんの方を向く。しかし彼女は俯きながら、相変わらずどこかもの悲しそうなしかし諦めたような表情で呟いた。
「わからない……わからない、けど」
 彼女はこちらに顔を向け、弱々しい笑顔で、しかし間違いなく目を細めた笑顔で、告げた。
「隆二には……やっぱり、一番好きな人のところにいてもらいたい、から」
 それはきっと、彼女の間違いの無い本心なのだろう。そんな思いを抱き、満面な笑顔を見せる彼女を、僕は心の底から眩しい、と感じた。彼女はあまりにも眩しい存在だった。自分の気持ちが、果てしなく薄汚れていると思わせてくれるほどに。

 乾ききった枯葉を踏みしめるカサカサッという音を聴きながら、僕たちは待ち合わせ場所のボーリング場にやってきた。約束していた集合時間より、若干早いくらいの時間だった。しかし隆二と朝倉さんは、果たして間もなくやってきた。
 少し救われた気分だった。と言うのも、ここに来るまでも、そしてここについてからの僅かな時間も、僕たちは互いに何も言う事ができず、それも少し息苦しいような雰囲気で過ごしていたからだ。しかし隆二たちの姿を認めるや否や、水瀬さんは、まるでさっきまでの告白と表情を忘れてしまったかのように、ぶんぶんと手を振って彼らを迎えた。その姿は、少なからず、僕にとっての救いにもなり、そしてまた、彼女の眩しさにも触れることになり、そして更に、僕の胸の奥をちくりとさす痛みにもなった。とりあえず僕も、水瀬さんと同じように手を振って隆二たちを出迎えた。
「悪いな。待ったか?」
 隆二が近寄ってきて、僕たちにそう訊ねた。
「ううん、全然。私たちも今来た所だし、ね?」
 そう言って、水瀬さんは笑顔で僕の顔を覗き込み、同意を促した。
「うん。今丁度約束してた時間だし。別に隆二たちが遅れたわけじゃないよ」
 それに対する僕の返答は、自分でも驚くくらいにすらすらとしたものだった。胸の奥では、様々な想いがぐるぐると渦巻いて混沌とした様相を繰り広げているというのに、それに反して、口腔から紡がれる言葉には、一切の揺らぎが含まれていなかった。それはもしかしたら水瀬さんも同じようなものなのかもしれない。水瀬さんの何事も無かったかのような言葉の裏には、やはり複雑な感情が秘められているのかもしれない。いや……きっと、そうなのだろう。その通りなのだろう。僕は彼女の横顔を覗き見た。そこには、好きな人を前にして、満面な笑顔を浮かべる一人の少女の横顔があった。
「どうだった? そっちの方は」
 隆二の言葉、それに返答する僕の言葉、そこに付け加えられる水瀬さんの言葉。僕たちは僕たちでお互いにそれぞれの言葉を紡いで交換して、一つの会話を成り立たせていた。しかしそれはあくまでも空気の振動の世界の話で、僕は、僕の中の意識の世界の中では、そうではない、もう一つの展開を見せる世界が広がっていた。
 僕は会話を続けながら、ちらりと朝倉さんの方に視線を向けた。そしてほぼ同時に、彼女もまたこちらに視線を向けた。互いの目が合う。僕は思わずどきっとする。だが……彼女は、驚くほど柔らかな笑顔を口元に浮かべた。それは、本当に注意しないとわからないくらい――いや、寧ろ目の錯覚だったのではないかと思ってしまうくらい――ほんの些細な変化だった。だけど僕は、その笑顔の中に、いくつかの感情を垣間見たような気がした。友好、感謝、そして謝罪……? 僕は、そんな彼女の笑顔に対して、どんな表情を返せていただろうか。僕もまた笑顔を返せていただろうか。それすらもわからない、けど……
「そうだな……んじゃ、行くか。……二人とも、またな」
 隆二のその言葉に、僕の意識は、再び空気の振動の世界へと舞い戻っていた。会話は進展していて、いつの間にか、この後またそれぞれのカップルでデートをしなおそう、という提案に至っていた。そして、隆二が別れの挨拶を告げたのだ。
「うん。それじゃ、またね。隆二、水瀬さん」
 僕もまたほとんど無意識的にその言葉を返し、手を振った。そしてもう一言、隆二は告げた後、水瀬さんと共に歩き出して行った。
「直人」
 それを見送っていた僕に、朝倉さんは唐突に声をかけてきた。
「うん?」
「行こうか」
 聞き返す僕に、朝倉さんは、口元にうっすらと自然な笑顔を浮かべ、手を差し伸べてきた。
「……あ」
 僕は、思わず、その差し伸べられた手を凝視したまま、硬直してしまった。
「……どうした? 手を繋ぐのは、嫌か?」
 少し残念そうに、朝倉さんは呟いた。その反応に、僕は驚きながらも思わず、
「う、ううん! 全然! ごめん、つい、驚いて……」
 慌てて弁解しながら僕はその差し伸べられた朝倉さんの右手を握った。初めて触れる彼女のその掌は、想像していたよりもずっと柔らかく、温かかった。
「驚くようなことなのか……?」
 朝倉さんは少しむすっとしたような表情で僕を見つめた。
「あ、いや、その……」
 思わず返答に窮してしまう。その僕の様子に、また、朝倉さんはくすりと小さく笑った。その仕草に、僕は、胸の奥に強い感情の塊が生まれるのを感じた。
「朝倉さん……」
 思わず、僕はその名を呟いていた。その時の僕の表情は、きっと笑顔だったに違いない。
「ん?」
 朝倉さんは小さく首を傾げる。そんな一つ一つの動作すらも、今の僕にはとてつもなく大切なものに感じられた。
「あのさ、朝倉さん」
「何だ?」
「由実、って呼んでいい?」
「――っ!?」
 さすがの朝倉さんも、この不意打ちに驚いたようだ。クールな表情が、面白いくらいに崩れた。しかし、今の僕には、その要求は譲れなかった。
「な……」
「朝倉さんも、僕のことを直人って呼んでるんだし、それに折角、恋人同士なんだし、さ……」
 畳み掛けるように主張する僕を、朝倉さんは暫くの間じっと見詰めていた。しかしやがて、またあの笑みを浮かべて、
「ああ、構わない。そう呼んでくれ」
 その言葉を耳にした瞬間、僕の体の芯は感動に打ち震え、そこから大きな感情の塊が生まれ出でるようにして膨れ上がってくるのを感じた。
「うん……ありがとう、由実!」
 叫んだ瞬間、気恥ずかしさのようなものを若干感じたが、しかしそんなことよりもやはり嬉しさの方が強かった。僕はもう、間違いなく満面の笑顔のはずだ。
 由実の右手を掴んだ僕の右手を、少し強めに引っ張る。由実は小さく驚いた表情をして、しかし抵抗することなく僕と共に並んで歩き出した。
「これからもよろしくね、由実」
「ああ、こちらこそ……よろしくな、直人」
 不安も沢山あった。それは今でも消えてはいないと思う。
 だけど、それ以上に、僕には、嬉しさが沢山あった。
 少なくとも、僕はこの瞬間だけでも、由実という少女と想いあっていることができているように感じられる。
 それは、とてつもなく大きな幸せの塊となって、僕の体の中で暴れまわっている。
 幸せ、幸せ。
 とてつもなく、幸せ。
 そう、それはとてつもなく幸せ。
 恋をするということの幸福。
 恋をするということの喜び。
 僕は今、間違いなく、それを全身で感じているのだと思う。
 他人がどうこうとかじゃなくて、僕の中で、それは確実な形を成しながら……。
 天を仰ぐ。果てしなく蒼い空。高い空。秋の空。その空がやがて冬の空へと変わり行く頃、僕たちの関係はどうなっているのだろうか。僕たちの周りの環境はどうなっているのだろうか。それは今の僕には到底わかる術は無い。だけど、それでも、僕は、今のこの瞬間は、もう何の問題も無く、幸せに感じられていた。それだけは確かなことであり、そしてそれだけでもとても大切なことだと思う。
「そうだよね、由実」
「え……?」
 振り返った由実に、僕は、ふふふ、と笑った。










 その後、僕は、隆二と水瀬さんが別れたことを知った。



 そして、隆二は――。





 to be countinued to chapter.10




 あとがき

 皆さん、お久しぶりです。ナツコイ作者freebirdです。
 およそどれくらいの連載再開なんでしょうね。3月入ってからは全く投稿していなかったと思います。少なからず、読んでくださっている方々もいるというのに、これはやはり大変失礼なことだと思います。いや、本当、申し訳ございません。
 とにかく、そんな、失礼極まりない私の拙作を最後まで読んでくださってありがとうございました。心から感謝いたします。
 それではこの作品の解説を行いたいと思います。久しぶりの連載再開だというのに、10章ではなく9章裏という謎の作品が現れたのはなんでやねんと疑問に思っている方もおられることでしょう。で、内容を読んでいただくとわかるのですが、実際にこれは純粋な9章の続きではなく、9章の中のある物語を、主人公の隆二とは別の視点、即ち直人の視点から見た作品なのです。この作品を創るきっかけとなったのは、感想BBSにて、この作品を読んでくださっている某氏の要望として、シャッフルのもう一組も見たいとの話がありましたので、リクエストを受けたのならば是非ともやろうと意気込みまして作ったわけです。で、せっかくやるんだったら、ただのアミューズメントやオマケのようなものではなく、物語に関係するものを作ろうと思い、こうした、那美という少女の本心を間接的な形で描き出すような作品を作らせていただいたわけです。普通の小説ではまずできないようなこんなアクロバティックな手法も行える自由さは、本当にありがたいですね。素晴らしきこのBFの管理人様明氏には、多大の感謝の念を抱かせていただきます。
 さて、そんな感じで作られた本作でしたが、どうでしたでしょうか? 間を開けたもののその間にも色々やってきたというのに、大して実力アップしていないと自覚して少しナーバス気味な私ではありますが、もしよろしければ、温かなお言葉を一つか二つ、頂戴していただければな、と思います。勿論、厳しいご意見ご感想もお待ちしております。メールでバッシング、匿名希望でバッシングバッシング! なんてのも、私の一時期の精神崩壊を招く危険性はあるものの歓迎いたします。どうかよろしくお願いします。
 それでは、次の作品はできるだけ早く出したいと思います(が、保障は何処にも無いです/マテ)。これからも変わらぬご愛読、よろしくお願いいたします。でわでわ、freebirdでした。




感想BBS



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送