ナツコイ-first love- |
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“今ここにいるのは今のオレでしか無いんだ。……昔のオレじゃ、無い” 「隆二」 後ろから声をかけられた。聞き慣れた声。 「よう」 オレは返事をしながら振り返る。そこには、右手を軽く挙げて笑っている雅人の姿があった。 秋も確実に終わりに近づいていた。制服の襟から入り込み、首筋にまとわりつく冷たい空気。冬という季節は既に準備万端で、あと数日で迎えるであろう12月という暦を待ってそわそわしている雰囲気が、そこには感じられる。 廊下の北側にある窓。そこから眺めることのできる風景には、秋の衣を脱ぎ捨てたせっかちな木々の、その足並みを揃えている姿があった。そんな風景の傍らの、北側普通教室棟3階西側3年生教室前廊下。そこで、オレと雅人は向き合っていた。 「どうよ、飯、一緒に食べないか?」 「ああ、いいぜ。そういえば、最近一緒に食べること無かったしな」 雅人の提案に、オレは頷く。先ほどのチャイムで4時限目を終了した校舎内は、いそいそと昼食の準備に取り掛かる者達の姿で溢れかえっていた。ある者は教室でさっさと弁当を広げ、ある者は一緒に昼食の時間を共にする仲間達を求め校舎内を徘徊している。そしてまたある者は学食へと飛び出していく。 オレはというと、4時限目の途中からずっと我慢してきたトイレを、4時限目終了直後に終えてきたばかりだった。そして今まさに教室に戻り、弁当を取りに行こうとしていたところだ。最近、オレはずっと弁当だったが、対して雅人はずっと学食だった。だから最近は、一緒に食べることも無かった。 「お前は今日、弁当なのか?」 「ああ、さすがに学食は飽きたしな。それに、学食ばっかり行ってるとやっぱり財布が軽くなって……」 「お前の財布じゃないくせに」 雅人の胸に軽く突っ込みを喰らわす。オレよりもほんの少しばかり背の高い雅人はけらけらと笑う。 オレたちの教室――2組の前まで来て、オレは教室から飛び出してきた人影にぶつかりそうになった。 「――きゃっ!」 「……っと……」 わずかばかり身を退いてなんとかやり過ごした。その人影を見ると、それはオレのよく見知った顔だった。 「あ……リュージ……」 「なんだ、千穂か……」 オレは呆れたように呟いた。 「なんだとは何よ……」 「どうでもいい。大体、何だよ、きゃ、って。柄じゃあるまいし」 「うるさいな。どうでもいいでしょ」 「ああ、どうでもいいな」 「ふん。アタシは急いでるんだから、じゃあね!」 頬を膨らませてオレを睨み付け、そのまま西側階段の方へと走っていく。途中、廊下を歩く他の生徒にぶつかりそうになりながらも、陸上部で鍛えたその脚力は、その後姿をあっと言う間に消し去った。 「ったく、何を急いでいるんだか……」 オレは呟きながら、同意を求めるように雅人の方を振り向く。すると、何故かコイツは苦笑していた。 「何が可笑しいんだよ?」 「いや、別に」 まだ笑っている。 わけわかんね。 まあいい。オレは自分の机に近づき、その脇にかけている鞄から弁当を取り出す。 「で、何処で食うの?」 とりあえず取り出した弁当を机の上に置き、雅人に訊ねる。教室の中では既に数人、数組のグループが大小色とりどりの弁当(中にはコンビニで買ったパンの奴とかもいるが)を机の上に広げていた。早い奴らは本当にあっと言う間に昼食を始める。 「屋上にしないか?」 「屋上?」 思いがけない雅人の言葉に、オレは首を傾げる。 「ああ、たまには、な」 「たまにって……屋上で弁当食べるの、この学校に来てから初めてだぜ?」 屋上は一応立ち入り禁止だが、そんなものを律儀に守っている奴はそんなに多くないと思う。だけどそれでも、なんだかあそこでは弁当を食べようって言う気は起きないし、実際に食べたことのある人なんて聞いたことが無かった。中庭で食べる奴ならいくらでもいるしオレも食べたことはあるのだが……。 「そっか……隆二とは食べたこと無かったな……」 「お前はあるのか?」 「ああ。……一人でな」 一人? 「……えらく寂しいな」 「まったくだな」 口元に手を添えて小さく苦笑する。 ……オレは、雅人のそういう姿を見るのは初めてだった。 何処と無く大人びた雰囲気と仕草。彼のほんの些細な行動から、オレはそんなものを感じ取った。そんなもの、オレは知らなかった。オレにとって雅人はいつまでも同じラインに立っているような悪友で、いつまでも同じように成長しつづけている奴だと思っていた。 ……いや、一緒じゃなかったのか。 少なくとも、このオレが眠っている間の2ヶ月。そして、その前の5ヶ月も、オレに記憶は無い。 並んで歩いていたわけじゃない。いつの間にか彼は一人で歩き出していた。オレの隣から離れて。そうしていつの間にかオレの知らないアイツの人生を送り、いつの間にかオレの知らない仕草を覚えて……、 ――隣にいつもいた友達が いつの日か離れてしまったら 僕はどうやって空白を 埋めていくことができるのですか…… 「隆二?」 突然、雅人がオレの顔を覗き込んできた。 「……ん?」 「ん? じゃねえよ。どうしたんだよ。いきなりぼうっとして……」 大丈夫か? と目の前にある雅人の表情は、オレを訝しげに見つめていた。その表情はオレのよく知っている彼の表情だった。オレの両耳には、ほんの少しの間失われていた昼休みの喧騒が舞い戻ってきていた。 いつの間にか何処かに消えていた喧騒と、オレの意識と……。 「あ、ああ……オレ、ぼうっとしていたか?」 「ああ。かなり。大丈夫かよ? 今季節の移り変わりだからな……結構体調崩している奴もいるみたいだし」 今度はオレが苦笑する番だった。 「……なんだよ。俺が何かオカシナこと言ったか?」 「いや、なんか、オレのこと心配しているのかなぁとか思って」 オレはにやにやと意地悪げな笑みを口元に広げる。 「……なんだよお前。意味わかんねぇ。帰るぞ、俺」 「ああわかったわかった冗談だよ。そんなに怒るなって雅人クン」 「テメェ……馬鹿にしてんのかよ……」 そう言いながら、雅人の口元にも笑顔が映し出されていた。 『立ち入り禁止』の屋上への扉は、今日もただの立て付けの悪い扉っぷりを全開にしていた。 「……よっ……っと……!」 少し力を入れて、オレは無理やりそいつを開けて、屋上へと通路を繋げる。次の瞬間には晩秋の風を身体全体に感じる。 「ふう……」 オレの後をついて屋上に入ってきた雅人は、いきなり伸びをして声を絞り出した。そしてその後、入ってきた扉を閉めた。 空を仰ぐと、薄く高い秋の青空が広がっていた。点々と、ほんの少しずつ、白い、真っ白い、そして綿のような雲たちが眠っていた。快晴と評価するには充分すぎる天気だった。 「さて、と……」 オレは適当に腰を下ろし、持ってきた弁当箱を目の前に置く。雅人もオレに習って、オレの前に座って弁当を置いた。 「で、お前はマジに、こんなところによく一人で来るのかよ?」 「よくってわけじゃねえよ。たまに、な」 弁当の包みを広げながら、オレは雅人に話しかけ、雅人がそれを返す。 「たまに、一人でセンチメンタルになりたくなってか?」 「そんな感じだ」 冗談めかして訊ねると、奴も冗談めかして笑いながら答える。 「あんまし一人で抱え込むなよ。オレに相談しろよ」 「は?」 オレの言葉に、雅人は虚を突かれたように顔を上げ、オレを覗き込む。そんな彼に、オレは満面の意地の悪い笑顔を見せて答える。 「恋のお悩み、ダロ?」 あっけに取られたように雅人はオレを見つめ……。 「ああ、まあな」 と、答えた……って、 「はぁ!? ホントに!?」 「……って、言ったらどうする?」 今度は、奴が満面の意地の悪い笑顔を広げる番だった。 「…………なんだよ」 はぁ、と盛大にため息をつく。 「フェイクかよ」 「はっはっはっ」 意味のわからない笑い声をたてながら、雅人は蓋を開けた弁当箱に早速箸を伸ばしていった。最初の標的はピーマンの肉詰めのようだ。 「ホントにそうなのか?」 「そうって、何が?」 ピーマンの肉詰めを口に頬張り、次に白いご飯に箸を伸ばしながら笑顔で雅人は聞き返す。 「ホントにフェイクなのか?」 オレも自分の弁当の中のレタスを取り出してパリパリと食べながら訊ねる。 「さあな」 雅人の答えは曖昧だった。オレは沈黙するしかできなかった。弁当と一緒に入れていたペットボトルに手を伸ばす。 「……それよりも、お前はどうなんだよ?」 雅人は箸を動かしながらオレを見た。その表情にはまだ半分、笑みが残っている。だが、もう半分は、何処か真面目なそれだった。 「どう、って?」 「……水瀬さんと、別れたんだろ?」 ああ、と心の中で呟く。天を仰ぐ。まだ空は青い。果てしなく遠い。雲は白い。果てしなく手なんて届かない。 ペットボトルの中のウーロン茶をごくりと喉に通す。潤った。サントリーは苦味が強い。 「ああ、そうだよ」 「……どうして?」 雅人は箸を止めていた。ほとんど、そりゃあもう8割は真面目な顔でオレを見据えていた。そこには非難とか怒りとかの感情も、勿論悲しみだとか喜びだとかのほかの感情も何一つ無いように感じられた。ただ淡々としていた。 「どうしてって……」 彼のその雰囲気に、さすがのオレも、ふざけながら適当に答えていることができなくなっていた。ペットボトルを弁当の脇に置いて、彼を見る。 「水瀬さんのこと嫌いになったのか?」 「んなわけねえだろ」 「好きじゃなくなったのか?」 「そういうわけじゃ、無いと思う」 っていうか、とオレは呟いた。 「彼女はいい娘だよ」 「そりゃそうだ」 雅人は即答した。オレは少し俯いた彼の表情を覗き込もうとする。 「お前はどうだったんだよ?」 だけどその前に、彼は再び顔を上げた。そしてオレを見据える。 「あ?」 「水瀬さんと付き合っていて、お前はどういう風に感じてたんだ? そもそも、好きだって思ってたのか?」 オレは口をつぐんだ。雅人の表情が、その淡々とした表情が、少し諦めの翳りを帯びたように感じられた。 「どうなんだろうな……いや、好きだと思う。好きだと思っていたと思う。最初彼女に告白を受けたときは驚いたけど、実際に付き合ってみると凄くいい娘だし、オレは確実に惹かれていた……」 「記憶を失って、完全に、もう彼女のことは忘れてしまったのか?」 雅人は唐突に質問の方向を変えた。 「あ、ああ」 オレはうろたえながらも答える。 「そっか……」 雅人はふう、と軽くため息をついた。 「そっか……」 もう一度同じ言葉を繰り返し、雅人はまた俯いた。 彼は箸を弁当に伸ばそうとしなかった。オレもまた、そういうことができないでいた。もう一度ペットボトルに手を伸ばそうかと思ったが、その前に、また彼が言葉を紡いだ。 「それでお前は、やっぱり、完全に唐突だったんだよな? 彼女の告白が」 「あ、ああ……」 「そうか……そうだよな……。それじゃ、やっぱり、いきなりすぎて……いきなり好きになるなんてことは無いか……」 オレは少し黙って彼の言葉を聞いていたが、何となく、彼がどういう風に思っているのか……悟ったような気がした。 「まさか、それでオレが別れたと思っているのか?」 「は?」 「いきなりすぎて好きかどうかよくわからないから、別れたって……」 「違うのか?」 やっぱり、そういう風に思うか。 「違うよ。そりゃ違うよ。そんなことだけだったら、別にもっとはっきりするまで付き合っているって。少なくともオレは確かに彼女に惹かれていたんだし、遠からず好きになったような気がする」 それに、とそこで区切った。 「オレは、もう既に、結構彼女のことを好いていたと思う。そういう意味で」 「……じゃあ、何で?」 雅人がオレを見据えながら聞いてくる。オレは彼を真っ直ぐには見つめない。まあ、やっぱりそっちの質問に行くよな、そりゃ。 「他に、どんな理由があるっていうんだ?」 その問いに、オレはさすがに即答できなかった。だけど雅人は、オレが答えるまでじっと待っていた。 ほんの数秒間、オレたちだけしかいない屋上は沈黙に包まれた。校舎内にも校舎周辺にも無数に生徒の姿があって五月蠅いほどに騒いでいたりもするはずなのに、そこは不思議なほど完全な沈黙に覆われていた。 「オレ、他に好きな人ができたのかもしれないんだ」 曖昧な答え方をしてしまった。 雅人は沈黙していた。だがさっきまでの『待ち』の沈黙ではなく、言葉を失った結果の沈黙。驚いた表情で、オレを見ている。オレはまだ、目を合わせられないでいた。 「他に、好きな人?」 「……ああ」 また暫く沈黙が訪れる。けれどそれはすぐに破り捨てられる。雅人の言葉で。 「かもしれない?」 その訝しげな問いに、オレは一瞬、言葉を失った。しかし、その直後に言葉を返す。 「いや、かもしれないじゃない。確かにいる。間違いなくいる」 「他の、好きな人」 「ああ」 何度も、幾度と無く、オレたちの間には、沈黙という影が右往左往していた。訪れては去っていき、そしてまた訪れる。その間、オレたちは二人とも、その手に握られた箸を動かすことはなかった。昼休みの時間は確実に動いている。5時限目開始は刻一刻と近づいてきている。けれどオレたちの間の時間は何度も停滞していた。 「なんでまた……」 意味の無いような雅人の質問…………いや違う。意味のわからない質問だ。オレにはよく理解できない質問だ。 ――落ち着け、頭の中を整理しろ。 晩秋の風は初冬の風と一体化し、その肌寒さを冷たさへと変じ、オレたちの身を切り裂こうとしてくる。 「誰なんだよ?」 オレは答えられない。 「まあ、答えないよな」 雅人の呟きには、何の感情も乗っていなかった。 けれどその次の言葉には、明らかな感情が乗っていた。 「あんまり、意味が無いしな。それが誰かなんて」 「雅人……?」 オレは思わず彼を見た。彼はあらぬ方向を見つめていた。その声にも表情にも、少し怒りかそれに近い感情が混じっているように感じられた。 「なあ隆二」 「ん?」 「お前が、記憶を失っている間のこと……」 「……?」 「お前本当に、覚えていないんだよな?」 「あ、ああ……」 そのやり取りの後、オレたちは何も喋らない。ずっと一緒にいた悪友2人組みは、この屋上で2人ぼっちで、確かな心の距離を置いて向き合っていた。 「お前、水瀬さんが、お前のただの友達だったって、訊いてたよな?」 「ああ……」 オレは彼を見つめていた。彼はオレと目を合わせようとしなかった。 さっきとは逆の構図がそこにはあった。 「でもな、違うんだ」 雅人の呟き。 「違う……?」 オレの言葉。 風が吹く。冬の到来を告げる、冷たい風。そしてそれに乗ってひらり、くるりと舞う、一枚の枯葉。オレたちの頭上を、オレたちに知られることなく、ひらり、くるりと通り過ぎていった。青く高く遥か遠い空へ。 「お前は、彼女のことが好きだった」 雅人は告げる。 「そして彼女も、お前のことが好きだった」 オレは何も喋れない。 「二人は二人とも、互いのことが好きだった」 それはオレの知らない時間の中の、オレの知らない物語。 「なのに、お前らは結ばれることは無かった」 オレの知らない、オレと水瀬さんの物語。 「結ばれなかった……?」 オレはかろうじて、喉の奥から言葉を搾り出した。 どういうことだ? 雅人は、オレと水瀬さんが昔付き合っていた、と言い出すのかと、オレは思っていた。それならまだ想像することはできた。――だけど、どういうことだ? 互いに互いを想い合っていて、それでも結ばれなかった……? 「ああ」 「どうして?」 頷く雅人に、オレは立て続けに質問した。 「互いに想い合っていても、上手くいかないことがあるんだろう」 雅人は小さく、呟いた。 「俺には、わからないことだけどな」 誰に言うでもなく、小さく、小さく。 「…………」 そしてオレの方も全然分かっていなかった。どういうことか、上手く理解できていない。頭が上手く働かない。それでも、確実に理解出来る部分はもちろんある。 「オレは、彼女のことが、好きだったのか? 記憶を失う前も」 「ああ」 雅人は頷いた。 「お前は、誰よりも彼女のことが好きだった。そして、お前は彼女に告白もしたんだ」 覚えていない。 「そのことは、お前の口から聞いたことなんだぜ?」 全く覚えていない。 全く……嫌になるほど、覚えていない。 はっきり言って、雅人の言っていることを信じることなんてできなかった。何しろ、全く身に覚えの無い事なのだ。こんなことで嘘をついても仕方ないし、彼は間違いなく真実を告げているのだろうけど……どうしても、オレには信じることができなかった。それらは遥か遠いところにある、ある一つの男女の御伽噺のようにしか聞こえてこない。 「ホントなのか?」 オレのその問いに、雅人はオレの方を振り向いて、鋭い視線で睨み付けて返した。 「……ああ」 雅人の声は震えていた。 「覚えてないのか? 本当に」 「あ、ああ」 「そのことについて俺に相談したこともあったんだぞ? お前は」 「……いや、覚えてない」 彼は暫くオレを睨み付けていた。しかしやがて、大きくため息をついた。昼休みの時間は更に残り少なくなっていく。しかし手元の弁当の中身は減らない。オレはどうでもいい確信をしていた。きっとこれ以上、この弁当は減らないだろう、と。 「彼女は、お前のことが好きだった」 彼はまた語り出した。オレは沈黙してそれを聞いていた。 「そして彼女がお前と同じクラスになってから、お前に振り向いてもらうためにアプローチをかけていった」 オレは彼を見ていた。彼もオレを見ていた。 「そしてお前もまた、そんな彼女に徐々に惹かれていった」 だけどオレは何処も見ていなかった。そして彼もきっと、何処も見ていないだろう。 「ついにお前は、彼女に告白をすることを決心した」 「…………」 オレは黙っていた。全く身に覚えない出来事が、嘘としか思えない、虚構としか思えない出来事が、オレを主役として語られていた。 ――オレが水瀬さんに告白? そんなことが本当にあったのか? 「そしてお前は彼女に告白した……しかし」 彼は何処も見ていないであろう瞳でオレを見つめ、淡々と語り続ける。 「彼女は、断った」 「断った……?」 オレが挟んだ言葉に、雅人は無言で頷いた。 「詳しいことはわからない。本当はお前の方が知っているはずのことなのにな……。だけど、彼女はお前の告白を断ったらしい」 「何故?」 「わからない」 雅人は首を振った。 「だけど、彼女は間違いなくお前のことが好きだった。間違いなく。昔から、そして今もずっと」 「……どうして、そんなことがわかるんだ?」 雅人は黙っていた。オレの言葉を引き金に、一瞬で彼はその深い沈黙の中に身を潜めた。まるで遥か古来からずっとその場所にいたかのように、すっぽりと、彼はその沈黙の中に収まったのだ。しかしその沈黙から抜け出す瞬間もまた、入り込む時と同様、唐突で一瞬だった。 「俺は昔、彼女のことが好きだったんだ」 「…………」 初耳だった。全くの初耳だった。 ――雅人が、水瀬さんのことを、好きだった? 「だけどまあ、そんなことはどうでもいいんだ」 彼は口元に僅かに笑みを浮かべて、そう告げた。その笑みはどういう意味なのか、上手く解釈できなかった。 「でも俺は、昔、彼女とはそれなりに付き合いがあった。それで、それからも、何度か、色々と他愛の無い話や相談などを交わすことはあった」 彼の瞳の焦点が、オレを捉えた。 「お前のことについても」 オレは何を言っていいのかわからなかった。 相変わらず、オレと水瀬さんの話は、現実とは思えないままほいほいと進んでいく。そして雅人の想いについても初耳でただ驚くことしかできない。何が重要で何をどうするべきかなんて、オレの頭の中には全く思いつかなかった。それくらい混乱している。 「お前は、今でも水瀬さんのこと……」 ようやく口について出た言葉は、そんな言葉だった。 その言葉に、彼は静かに首を振った。 「今は違うよ。今は違う。今は、彼女のお前への想いを、なんとか手助けしたいと思っている」 「手助け?」 オレが反芻した瞬間、柔らかくなっていた彼の表情がまた引き締まった。 「お前は彼女に別れを告げたが……その時、彼女はどんな様子だったんだ?」 固く引き締まった表情に、オレは若干気圧されていた。だから、それがつい先日の話であることに気が付かず、混乱したままの頭を暫く抱えていた。 「……ああ、この前のことか?」 「ああ、そうだよ」 彼は若干苛立ったように頷いた。 「彼女は……うん、オレでも驚いたけど、凄く、普通だった」 オレは内心少し焦りながら答えた。 「普通?」 「ああ。何か、オレが、そのことを……好きな人がいるから、もう付き合えない、と言ったら……」 オレはあの時の様子を頭の中に思い出しながら、言葉を紡いでいく。 ――秋の街。枯葉が敷き詰められたアスファルトの街。オレと彼女の間に吹く風。ほんの僅かな距離を開けて向き合うオレと彼女。あの時の彼女のあの表情。 「彼女……そっか、って……。そっか、って……笑いながら、答えた」 雅人の表情が歪んだ。苦しげに歪んだ。 「凄く柔らかく笑った。だけど何だか、変な笑い方だった。無理やり作ったとか、偽者とか、そういう風には見えなかったけど……何だか、」 「諦めたように」 雅人が呟いた。 「え……?」 「諦めたように」 再び雅人は同じ言葉を口にした。 「アイツはいつだってそうだ」 雅人は呟く。表情を歪ませながら。 「いつだってアイツは優しすぎるんだ」 その視線は何処を見ているのか。すぐ目の前か、果てしなく遠い何処かか、何処でもない何処かか。 「いつだってアイツは自分のことを二の次にして……」 歪む。 「なんだっていうんだよ……畜生ぉぉっっ!!」 叫んだ。 雅人が叫んだ。 オレを見てはいない。 俯いて、肩を震わせて、右手を握り締めて、冷たいコンクリートに押し付けて。 雅人は……。 「雅人……?」 「お前はっ!」 突然、雅人が顔を上げてオレを睨み付けた。 「わかってるんだろっ!? お前……アイツが、お前のことがどれほど好きかっ!」 オレは何も答えられない。 ただただ、圧倒されていた。 突然の雅人のその変化に……。 「どれくらいお前のことを好きで……どれくらいお前のことを想ってお前のためになろうとしているか……」 オレは…… 「俺にだってわかるんだっ! お前にわからないはずないだろっ!? アレだけ近くにいて……アレだけ一緒にいて……どうしてわからねぇんだよっ!」 「オレは……」 「お前は、かつてはアイツのことが好きだった! 誰よりもアイツのことが好きだったはずだ! そしてアイツもお前のことが好きだった!」 数センチの距離をおいて目の前にある彼の視線。それはオレを飲み込むかのように大きく広がる。それはオレを突き刺し抉るかのように鋭く突き刺さる。 「アイツは一度お前の告白を断ったけれど……それでもその時でもお前のことが好きだった」 ――わからないよ。 「そしてその時お前はオレにそのことで相談したんだ! だからオレは、お前がまた彼女と結ばれるようにアドバイスをした……!」 わからない、わからないよ……。そんなことを言われてもわからないんだ。オレは何も覚えちゃいないんだ。お前には悪いけど、オレは何も覚えちゃいないんだ。オレがどれくらい彼女のことを好きだったのか。彼女がどれくらいオレのことを好きだったのか。オレと彼女との間にどんな思い出があったのか。 ――全て、覚えちゃいないんだ。 だからそんなこと言われても、わからないんだ。 「……アイツとお前は、絶対に結ばれる筈だったんだ。その間に色んな何かがあったとしても、必ず、アイツとお前は結ばれる筈だった……」 雅人の声のトーンが、唐突に沈んでいく。 「だけど……俺がお前にアドバイスをしたその日……お前が再びアイツに告白をしようとしたその日……」 それもわからない。それも全てオレのわからない物語なんだ。 「お前は…………あの事故にあったんだ」 オレは、ただじっと無言で雅人を見つめている。オレにはまったくわからない、何処か遠い国のお話を耳にしながら。 「そしてお前は二ヶ月間眠り続けて……そして記憶を失って……」 目の前の雅人は、肩を震わせていた。それは間違いなく、オレの知らない雅人だった。 「なあ、これって悲しいよな……折角、折角結ばれるはずだったんだぜ……?」 雅人は顔を上げてオレを見る。その言葉の通り、彼は双眸を揺るがせ、唇を震わせ、何かに耐えるように表情を歪めてオレを見据える。 「それなのに記憶を失って……たった5ヶ月間の……でもアイツとの、大切な5ヶ月間を…………全て、失ったんだぜ? 何もかも、無かった事になったんだ」 オレは何も言葉にしない。 「それって悲しいよ……絶対悲しいよ……」 「…………わからねぇよ」 「……え?」 オレの返答に、雅人は表情を凍らせた。 「わからねぇよ、そんなこと言われても……悲しいとか言われてもわからねぇよ。悪いけど、オレには、お前の言っているそういうことが全部、本当のことだって思えないんだ」 「隆二……」 「いや、わかってる。それが本当のことだってわかってる。お前が嘘をつくはずないし、つくにしてもこんな嘘はつかない」 だけどな、雅人。 「だけどな……そういう風に理屈でわかっていても、オレの頭の中には何も残っていないんだ。だから……だから、そんなことがありましたよ、って言われても、わからないんだよ」 雅人は、放心したようにオレを見つめる。オレは気にせず、言葉を紡いでいく。 「確かにかつてのオレは、彼女のことを誰よりも心から好きだったのかもしれない。だけどな……」 だけど……。オレは、その先を言おうとして、しかし、一旦噛み締めた。何か苦しいものがこみ上げてくる。表情が濁る。掻き混ぜられる。わからない。いやな感覚。 「だけど、今のオレは違うんだ」 言ってしまって、その言葉が、あまりにも冷たい響きをしていることに、何処か遠いところにいるオレじゃないオレは感じていた。そしてまた、目の前の雅人も感じていたのだろう。その表情に、更に驚きが加わる。震える表情。 「今のオレは違うんだ……今のオレは、彼女以上に想っている女性がいる」 雅人は何も答えない。再び顔を俯かせる。肩はもう震えていない。全てが硬直した状態で、彼は顔を俯かせていた。 「お前には悪く思っている。それ以上に彼女にも申し訳なく思っている」 オレはもう、自分でも止めようが無かった。オレではないオレの口は、しかし間違いなくオレであるオレの口は、淡々と言葉を紡いでいくだけだ。 「だけど……結局、今のオレは今のオレでしかないんだ。今更、昔のこととか言われてもわからないんだ」 わからない。昔のことなんてわからない。だけど、何故か、オレは凄く胸が苦しかった。 「今ここにいるのは今のオレでしか無いんだ。……昔のオレじゃ、無い」 その瞬間、チャイムが鳴った。昼休み終了のチャイム。5時限目が始まるまではあと5分しかないことを知らせる余鈴。手元にある時の止まった弁当箱に、晩秋であり初冬である風が吹きつける。 「今のお前にとって、那美との出会いは、無意味だったのか?」 立ち上がろうとしたオレに、雅人は俯いたまま、訊いてきた。オレは立ち上がりかけた中途半端な姿勢のまま、しばらく固まった。 ――いや、違う。それは違う。全然無意味なんかじゃない。オレが目を覚ましてから付き合った彼女との時間だけでも充分にオレにとっては意味のある時間であり、確かに彼女のことを好きになれた時間だった。 そう言おうとして、しかしオレはやめた。そんな言葉には意味は無い。それは、雅人の質問の意味とは違うから。そんなのはただの揚げ足取りの答でしかない。そのことをわかっていながら答えるのは……するべきではない。 だからオレは、無言のまま立ち上がった。弁当箱を丁寧に片付け、何事も無かったかのように無言で踵を返す。無言は、肯定でもあり否定でもある。いや、そんなのはオレの勝手な解釈だ。オレの中でしか納得のいかない答えだ。沈黙は肯定だ。それが、雅人の中での、雅人の勝手な解釈だ。 オレは歩き出す。晩秋であり初冬である空気の中を、屋上から校舎内へと続く扉に向かって。今のオレは今のオレであって、昔のオレではない。そんなのは結局、オレの中での、オレの勝手な解釈でしかない。オレの勝手な言い訳で、オレの勝手な言い分でしかない。そして、オレはかつて水瀬さんのことが好きだった。オレと水瀬さんは結ばれるべきだった。それも、雅人の中での、雅人の勝手な解釈でしかない。雅人の独りよがりの言い分でしかない。 ――そうなのか? ――そうなのだろう。 そんなものだ。みんなそれぞれにそれぞれの、それぞれの中でしか存在しない唯一無二の言い分を持っている。それだけのことだ。だからこういうことが起きる。 ――でもどうしてだろう。 オレは、校舎内へと向かう扉に手をかけながら思う。 ――オレはオレの中にある言い分にしたがっただけなのに。 ――どうして、オレの心はこんなにも痛むのだろうか? そして秋は終わり、冬が訪れる。 紅く染まった教室。南側に取り付けられた窓から差し込んでくる紅い光。放課後の、人影の無い教室に入り込む。 ――いや、人影の無い、というのは間違いだ。机や椅子の影が幾重にも重なり合い、複雑な模様を築く床。そこに、椅子に座った少女の影も映っていた。 「あ……志倉さん」 「椎名さん……か」 教室の前方の入り口に立つオレの姿を認め、少女――椎名美奈は声を挙げた。 「どうしました?」 椎名さんはオレに笑いかけながら、ちょっと慌てたように座っていた椅子から立ち上がる。床に映る影の形が大きく変動した。遠くに聞こえる運動部の声以外にはほとんど無音だった教室に、椅子と机が床に引きずられる音が異様に高く響き渡った。 「椎名さんこそ、どうしたの?」 オレは入り口に立ったまま問い返した。椎名さんは机の脇に置いてあった鞄を手にとってからオレを見て、はにかんだような微笑を見せた。 「ちょっと、ね」 彼女は少し悪戯めいた表情でそう呟いた。いつもの彼女の雰囲気とは少し違ったその表情に、オレは思わず胸を震わせた。 「ふうん……」 オレは曖昧に返事をして、少しだけ後ろを振り向いた。無意識に生まれた動揺を隠すため。振り向いた先にある廊下の窓からは、完全に丸裸になった学校前の並木が見えた。ああ、もう冬だ。 「志倉さんは今日はもうお帰りですか?」 「うん」 椎名さんは鞄を持って、入り口の方へ近づいてきた。オレはもう一度視線を戻して頷いた。 「部活が終わってから随分経ちますけど、こうしてみると少し寂しい気がしますね」 椎名さんはオレを見て、言葉通り何処か寂しそうな表情でそう呟いた。 「ずっと校庭の陸上部の声を聞いてたの?」 「まさか」 オレの驚きの声に、椎名さんは小さく笑いながら頭を振った。 「さすがにそんなことはありませんよ」 「そうだよね」 オレも笑い返しながら答えた。じゃあどうして、こんな放課後に教室に残っていたの? そう付け加えようとしたが、言葉にはならなかった。彼女が一人で座るその姿に、何か、ひっかかるようなものを、オレの意識の奥底に感じたから。 「でも本当は、この時間を寂しいなんて思っている暇があったら受験勉強、しなくちゃいけないんですけどね。そのために与えられたこの時間なんですから」 椎名さんの笑い方は、控えめだけど、それが大人しく上品というか……とにかく、見ているほうを心地よくさせてくれる、決して不愉快ではない笑い方だ。 「そういえば、もう受験、近いんだね」 「そうですよ。もうすぐですよ。あと一ヶ月で今年も終わりです。そうしたら、もう目の前ですよ」 オレは頭の中にカレンダーを描いた。もう12月。あと一ヶ月で、確かに年が明ける。そして、1月がやってきて、オレたちの目の前には、間違いなく受験という世界が待っている。時間は流れている。確実に。 「でも確か、椎名さんは推薦だよね」 オレはそのことを思い出した。 「ええ、そうです」 「スポーツ推薦だよね?」 「はい、アルペンスキーの」 そう、彼女は、勉強の方も出来るほうではあるが、それ以上に、運動神経はとても良いのだ。陸上部に入っているだけあって走るのは勿論、水泳や、そしてスキーもとてもレベルが高い。毎年冬はアルペンスキー部に入っていて、大会では県レベルの選手として活躍をしている。 「凄いね、まったく」 「でも、小野くんも確かスポーツ推薦、決定したんですよね」 「ああ……小野はサッカー、得意だからな。中崎高校」 「凄いですね」 「君もね」 ふふ、と彼女は控えめに笑う。オレも笑い返す。 「えっと、引き止めてしまいましたね……すみません」 「え? ああ、いや、オレは楽しかったし」 「そうですか? ありがとうございます」 教室の入り口で、オレと彼女は顔を見合わせながら小さく笑い合う。 「でも、そうだね。そろそろ帰るか……」 「そうですね」 「オレの方こそ、時間取っちゃったね。ごめん」 「いえ、そんなことはありません」 彼女はその笑顔を崩さない。オレと共に、半ば定型化したような文句を言い合う。 「ありがとうございました」 「いや、うん、こっちこそ」 「それでは、志倉さん、また、明日」 「ああ、また明日。さようなら、椎名さん」 「さようなら」 オレは教室の入り口に立っている。椎名さんは、こっちを見ながら、その右手を挙げて小さく振る。笑顔で。そしてそのまま3年玄関へと降りる西側階段の方へと歩いていく。オレもその姿に右手を振り返す。 視界から彼女が消えた後、そこに残ったのは、相変わらずのグラウンドからの声と、そしていつの間にか弱くなった紅い光の教室。沈みかけの太陽からもたらされる光は時の経過と共にその力を弱め、今では教室全体に一層の暗い影を落としている。電気の点いていないその教室には、いくつもの闇が燻っていた。 「オレも、帰るか」 オレは誰に対するでもなく呟いた。最後にその教室に一瞥をくれてから、数分前に椎名さんが向かった西側階段の方へと歩を進める。 ――椎名さん……。 歩きながら、オレの頭の中では、先ほどまで見ていた椎名さんの笑顔がフラッシュバックしていた。あの微かな笑顔。小さな笑顔。控えめな笑顔。儚い笑顔。それに呼応するかのように微かに、空気を綱わたるかのように細く響くその声。全てが、まるで今まさに目の前で進行している出来事であるかのように、オレの5感に再現される。 ――ふう……。 オレの心の中は複雑だった。不思議なわだかまりがあった。自分でもよくわからないわだかまり。これは何なのか。これは何なんだろうか。 ――なんてのは嘘だ。わかっている。オレは当然わかっている。その心の中の何かの正体。オレが思い抱いているモノ。思い抱いている想い。 階段の一歩目に足をかける。リノリウムの床の感触が中履き越しに伝わってくる。踊り場の窓から見える空には既に青色の侵食が始まっている。それはやがて灰色に、そして黒へと変色していく青。闇に溶け込もうとする青。夜は近い。オレの心の中の想いが揺れる。一歩一歩階段を踏みしめ下りるごとに。オレの心の中の想いが揺れる。その脳内に、彼女の笑顔を思い浮かべるたびに。 ――オレは……。 もう分かっていた。改めて言葉にする必要が無いほどにわかっていたけど、言葉にできない以上は何処かで誤魔化してしまいそうなその想い。 ――オレは……オレは……。 いつからだろうか。よくわからない。気が付けばそれはいつだってオレの心の中に在った。いつだったかわからない。もしかしたらそれは記憶を失う前の時期。即ち去年からだったかもしれない。それだってきっと可能性はある。確かにあの時期から惹かれつつある部分はあったような気がする。 ――あ……。 オレはそこで気付いた。さっき、あの、彼女が紅色の教室の中で一人で椅子に座っているその姿を見たときに感じた、ひっかかる何か。確か……オレは昔、あの姿を見たことがあるような気がする。それは決して遠くない昔。彼女の姿が、二重に重なる。昔にも見たようなあの姿。 ――オレは……。 オレは、オレの心の中にある想いを、必死に言葉にしようとする。形もはっきりしないその想いを、必死に掻き集めて、繋ぎとめようとする。それはとても大変な作業だった。何しろ、まるで煙を掴むかのようなものだから。それでも、それは確実に存在し、確実に意味を持つ。形になるべきものなのだ。オレは頭の中で必死に掻き集める。気体となったその想い。 一階に辿り着く。リノリウムと靴底が音を生む。目の前の窓からは、校門の周りに敷き詰められた腐りかけと乾いた落ち葉たちの絨毯が見える。 ――オレは……。 形は定まっていく。アモルファス状のその想いが、有形のモノへと。 ――オレは……オレは……。 ……オレは――――――――――。 ――その時、歌が聞こえた。 to be countinued to chapter.11 |
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