ナツコイ-first love-
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第11章『恋歌』






     “どうして…………ですか?”





 ――その時、歌が聞こえた。





 遠くに見える空 流れる雲達
 僕はただ独り 追いかけ続けて
 アスファルトに転んで 膝を擦り剥いて
 それでも僕は 立ち上がった





 その歌は、廊下の奥、音楽室の方から聞こえてきた。実際には歌が聞こえたわけではない。そこから聞こえてきたのは、かすかなピアノの音色だった。けれど、オレにとって、その音色は特別な意味を持っていた――らしかった。わからない。その音色は聞き覚えの無い音色だった。緩やかに、穏やかに流れていくピアノの旋律。確かに聞いたことはないはずの音色なのだが……何故か、その音色はオレの中の何かを呼び覚ましていく。それが、その浮かんだ歌のフレーズだった。聞いたことが無いはずの音色なのに、その音色は、その曲の歌詞を頭の中に思い出させていったのだ。わからない。何故なのか。どうしてなのか。それは一体何なのか……何もかもわからない。オレの頭の中は混乱していた。
 そしてオレは混乱したまま、歩き出した。昇降口の前でその音色を聞きながら立ち止まっていたオレは、ゆっくりとその廊下の奥へと向かって歩き出した。校舎の西側の突き当りから、音楽室のある東側の突き当たりまでの、100メートル近くはある一階廊下。その奥からかすかに聞こえてくるピアノの旋律を目指し、オレはゆっくりと歩きだした。
 保健室の前の廊下を歩く。扉の前には、『ただいま先生は不在です。ご用の方は教務室までお越しください』と書かれた札がかかっており、保健室の中は冬の夜の闇に埋もれていた。廊下の掲示板には今月分の保健新聞とやらが貼られていて、人間の身体の簡単な絵とそこから伸びるいくつもの線、その先にある文章が確認できる。そこから更に歩くと、今度は放送室が現れた。数えるほどしか入ったことの無い放送室。そこには特に思い出もなく、感慨も無かった。だけど、もしかしたらオレが記憶を失っている時期にでも、このピアノの曲の歌が流れていたのかもしれない。そうであれば、聞き覚えがないはずなのに聞き覚えがあるように感じてもおかしくはない。そこからオレは止まらずに歩く。中央にある職員玄関の前を通り、職員室の前を通り、校長室の前を通る。目的の音楽室はもうすぐ目の前だ。ピアノの音色はいよいよはっきりしたものになっている。音楽室は第一音楽室と第二音楽室の二つがある。今ピアノの音色が聞こえているのは、第二音楽室の方からだ。第一音楽室からは何も聞こえないということは、
今日は吹奏楽部の活動は休みのようだ。そういえば顧問の教師が今日は出張であるという話を耳にしたが、おそらくそれも理由の一つだろう。
 資料室の前を通り、ついにオレは、第二音楽室の前までやってきた。音楽室の扉に、右手をかけた。そして、それを、さっ、と右にスライドさせた。ガラガラガラ、と、予想以上に大きな音が、ピアノの旋律に割り込んだ。空気が、はっ、と息を呑んだ。扉が開かれる音が無くなったとき、同時に、ピアノの旋律も無くなっていた。その空間に、音という存在は、全く影すらも残さずに消滅してしまった。それだけで、そこにある全ての『生きているモノ』が消滅してしまったかのような錯覚を、オレに与えた。ただ蛍光灯の光だけが、無生命の存在としてそこにわだかまっているかのように感じられた。
 無論、そこに何一つ生命が存在していなかったわけでは決して無い。実際に、こうしてオレがこの空間に立っているのだから。そして、ピアノを弾いていたその少女が、そのピアノの前に座っているのだから。
「隆二……?」
 こちら側を向いているピアノの向こうから、椅子に座ったその少女が顔を覗かせていた。その表情に、酷く驚いた様子を映し出しながら。
「水瀬さんだったのか……」
 そしてオレも同じく驚いていた。驚いたまま、ピアノの向こうの水瀬さんを凝視する。
「びっくりした……突然扉が開くんだもん」
「……ああ、ごめん。邪魔しちゃったかな」
「あ、ううん。そういうのじゃないの。うん、大丈夫。むしろ、止めるきっかけが出来て助かったかも」
 と、言いながら水瀬さんはあはははは、と笑った。
「こんな時間までピアノを弾いているなんて……というか、水瀬さんはピアノ弾けるんだね。知らなかったよ」
「あー……そっか」
 オレの言葉に、水瀬さんは少し苦笑した。その様子に、オレは首を傾げた。
「実は、一学期の頃にも、みんなに……隆二や、千穂や、柿崎くんに、ピアノ、弾いてみたこともあるんだけどね……」
 その声は、沈み込んでいくように段々と小さくなりながら水瀬さんの口元から流れ出た。オレは、はっとした。
「そっか……ごめん。オレ、そんなことも忘れて――」
「ううん、いいのいいの。仕方無いんだから。隆二だって、忘れたくて忘れているわけじゃないんだしね」
 オレの言葉を遮って、水瀬さんは無理やり作ったような笑顔を見せた。オレは何も言えなくなった。
「それに……忘れていた方が、もしかしたらいいのかもね」
 零れ落ちるようにして生まれた、水瀬さんの言葉。
「……どういうこと?」
「え……いや、ううん。何でもない。気にしないで、うん。私……変な感じだから」
 また水瀬さんは笑った。変な感じ? とオレは疑問に思ったが、結局聞くことは無かった。
「あー……それにしても、もう真っ暗だね。今何時だろ……?」
 そう言うと、水瀬さんは椅子から立ち上がり、教室の前にかけられた時計に視線を送った。
「もう6時半かぁ……完全下校もうすぐだね。早く帰らないと……」
 オレの方に視線を戻し、少し苦笑しながら彼女は言った。オレは、そうだね、とだけ返した。
 ……そこで、二人の会話は途切れた。
 水瀬さんは椅子から立ち上がったまま、オレの周りに視線を彷徨わせていた。オレもまた、彼女ではなく、彼女の前にあるピアノの黒と、そこで反射する蛍光灯の白を見つめていた。互いに視線を合わせることもできず、ただ暫くの間、そこには沈黙の塊が頓挫していた。
 その沈黙を破ったのはオレだった。
「そういえば、さ」
 その言葉で切り込んだ。視線は水瀬さんの方へと戻した。それと同時に、はっとしたような勢いで水瀬さんもオレへと視線を戻した。絡み合う瞬間、ほんの少しだが、彼女の頬が紅潮したように感じられた。
「さっきの曲……なんていう曲なの?」
 だが、続けられた言葉に、彼女の表情は一瞬で凍りついた。
「なんだか、聴き覚えがあるような気がするんだ……でも、思い出せないんだ。そもそも、聴いた覚えが無いんだ。……いや、矛盾するけど、実際にそうなんだ。確かに聴いた覚えがあるような気がするんだけど……でも何故か、それを何処かで聴いた、というような記憶は全く残っていないんだ」
 自分でも要領を得ていないように感じるその言葉を、水瀬さんはじっと聞いていた。そして言い終るや否や、彼女は口を開いた。
「うん……きっと、気のせいだと思うよ」
 全く、予想を越えた答えだった。オレは驚きのあまり、何一つ言葉を発することができなかった。
「だって、これ、私が勝手に作った曲だもん」
「……え?」
「私が作曲した曲」
 水瀬さんは繰り返した。自信満々に。
「って、そんなわけ無いでしょう?」
「本当だってば。本当に、私が作ったんだってば」
「だって、随分としっかりした曲だったじゃん」
「何? 私が随分としっかりした曲を作っちゃ駄目なの? 私だって結構ピアノも出来るし、作曲だって出来るんだよ。私のピアノを聴いたこと無い癖にそんなこと言わないでよ」
 う……、とオレは怯んだ。そこを突かれるとさすがに何も言えなくなる。段々と不機嫌になっていった様子だった水瀬さんも、怯んだオレを見ると、小さく笑った。
「まあ、いいや。許してあげる」
 仕舞いにはすっかり満面の笑顔でそう言った。
「でも……」
 なおも反論しようとするオレを、水瀬さんはぎろっと睨んだ。オレは一瞬口ごもったが、すぐさま繋げた。
「その曲を聴いているとさ、自然と、歌詞が思い浮んで来るんだよ。聴いた覚えは無いはずなのに、聴いたことがあるような気がするのは、そのためなんだ」
 オレの言葉に、水瀬さんは少し真面目な顔になって沈黙したが、またすぐに笑顔を作った。
「それじゃあきっと、その歌詞の曲と似ていたんじゃないのかな。ほら、やっぱりさ、私みたいな初心者だと、どうしても無意識に他の曲に影響されてしまうことってあるじゃん。だからさ、その隆二が連想する歌詞の曲を、私も知っていて、自然と影響されちゃったんじゃないかな」
「でも、あまりにもしっくりと来るんだよ。歌詞と曲が」
「気のせいだってば。そう思っているから、そう感じるんだよ。この曲は私が創ったの。私のオリジナル。OK?」
 OK、では無かった。が、しないわけにはいかない。オレは渋々と頷いた。
「ほら、もう時間だよ。早く学校出なきゃ。先生に怒られちゃう」
 そう言って水瀬さんはピアノを閉じ、脇に置いてあった鞄を拾い上げた。オレも仕方無く、教室を出て行く彼女の後に従った。
 廊下の窓の外は既に真っ暗だった。天井に一列に並んだ蛍光灯からの無機質な光が、オレたちの前方に真っ直ぐ広がっている。この場所とは反対側にある1,3年生用昇降口に向かう彼女の隣に、オレは並んだ。
「隆二の好きな人って、ミーちゃんなんだよね?」
 あまりにも唐突な質問に、オレは驚いて彼女の顔を見た。
「……あ、やっぱり、そうなんだよね」
 彼女もこちらを向き、オレを見上げながら、小さく笑った。
「……なんでわかったの?」
「わかるよ。なんとなく」
 悪戯めいた微笑を見せる彼女に、オレは少しうろたえる。
「そんなものなの?」
「うん。だって……」
 彼女はそこで、何かに迷うように、一度、言葉を切った。
「だって、ミーちゃんだって、同じように、そんな感じで、気付いたんだと思うし」
 オレは、本当に何も答えることができなくなった。色々なイメージが頭の中を駆け巡り、益々オレを混乱させる。混乱させる。混乱させていく。
「それで……いつ、そのことをミーちゃんに告げるの?」
 混乱するオレなどお構い無しに、彼女は話を進める。既に視線は前を向いている。いつの間にか歩みを止めていたオレをその場に残し、教務室の前を歩いていく。オレは混乱した頭はそのままに、とにかく足だけは動かして、彼女に追いつくように歩を進めた。
「多分、心配しなくても――そんな心配をしているかわからないけど――彼女は隆二の告白を断ったりはしないよ」
 一瞬、その『彼女』が誰を指しているのか、わからなかった。彼女の隣に追いついたオレは、それを探る為なのか彼女の顔を覗き込んだが、彼女は依然前だけを見つめていた。
「だからさ、早く告白しちゃえば? そうすれば、隆二も、ミーちゃんも、幸せになれるんだから」
 オレが諦めて視線を前に戻そうとした丁度その時、やっと彼女はこっちを向いた。その顔に、満面の笑顔を浮かべながら。それは、数日前、オレが彼女に『告白』をしたときの、あの「諦めたような」笑顔とは違う、一点の曇りも無いような笑顔。オレにはそういう風に見える笑顔。
「幸せ……」
「うん、そうだよ」
 混乱したまま、ぼうっと彼女を見つめながら呟いたその言葉を、彼女は視線を前に戻してから引き継いだ。
「幸せ。隆二も、それに、ミーちゃんも、隆二のこと……好きだから。きっと、好きだから」
 オレは、まだぼうっとしていた。上手く頭の中を整理することができずにいた。だから水瀬さんのその言葉も、ぼんやりとオレの頭の中に浸透していく。もやもやとした形で、はっきりとしていない形で。
「だから、隆二が彼女に告白すれば……隆二も、ミーちゃんも、幸せになれる」
 最後に、一番最後に、彼女はもう一度こちらを向いて、もう一度あの純粋(とオレには見える)な満面の笑顔を向けて、告げた。
「きっと、幸せになれる」
 オレはいつまでもその笑顔を忘れる事ができなかった。眩し過ぎる笑顔。目の前のそれだけが、世界の全てであるかのように感じてしまいそうな笑顔。
 気がつけば、オレは家に帰っていた。誰もいない薄暗い家の中で、オレはぼんやりと立っていた。そこまでの経緯は全て、頭の中には入っていなかった。ただぼんやりとした霧のような感覚だけが残っていた。
 ただ一つ、確信できることがあった。
 それは、オレが、水瀬那美さんとは、昇降口で別れたということ――。



 オレは一体何処を歩いているのだろうか。
 わからない。わからない。
 ただ、ただぼんやりとしていた。
 それは頭の中も、そしてオレの身体の周りも全て。
 いや、もはや頭の中と身体の周りの境界すらも酷く曖昧だ。
 ただ、ただぼんやりと、オレはその世界の中で漂っていた。
 常に流動する形容しがたい配色の靄の中で、オレ[わたし]は曖昧に[酷く]曖昧にただ漂っていた[ただ、ただ]。
 ただ、ただ酷く[わたしは]オレは[わたしは]曖昧に漂っていた。
 世界は全て配色無くして形容なくしてただそこに佇んでいる[居坐っている]。もやになり、きりになり、意味も無く、無味も無く。
 おれは一体何をしているのだろうか。
 オレはただ佇んでいた。
 その世界で。
 オレは。
 ただ、佇んでいた。



 意識が覚醒した。オレはうつ伏せになっていた頭を冷たい机から離した。視界は酷くぼんやりとしていた。だがすぐに、それらは輪郭を取り戻し、それが、昼休みの喧騒の中、せわしく動き回る生徒達の姿であることを確認した。いつもの通り4時限目を寝過ごして(もしかしたらそれ以前から眠っていたかも知れないが、その当たりははっきりとしていない)、オレはどうやら昼休みに入っていたようだ。時計へと視線を向けると、既に昼休み開始から5分が経っていた。その間、誰一人オレを起こす事は無かった。水瀬さんも、千穂も、そして雅人も。
 そういえば雅人はどうしているのだろうか。先日、彼と屋上であの話をして以来、彼とは全くと言っていいほど何も会話をしていなかった。それはオレがそうしているのか彼がそうしているのか――実際にはその両方だろうが――わからなかった。ただオレは、そんなことすらも特に気に留めずに、まあいいか、と席を立ってしまうほど、頭の中を酷くぼんやりとさせていた。
 いつ頃からだろうか。オレがこんな感覚に常に囚われるようになったのは。常に頭の中に霧が入り込み、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜているかのように、オレの頭の中にはまともな感覚が残っておらず、深くぼんやりとし続けていた。
 そんな気分のまま、オレは何も持たず、ゆっくりと教室の後ろの扉から廊下へと出た。周りの世界は全て、輪郭ははっきりしているのに、それらが幻であるかのような印象を持っていた。オレは力が入っているのかどうなのかわからないような気持ちで、一度開けた扉を後ろ手に閉めた。
「あ、志倉さん。こんにちは」
 そんなオレに、唐突に廊下に出てきた椎名さんが話しかけてきた。……いや、この場合、どう考えても唐突に出てきたのはオレの方か。
「……どうしました? 酷く無口なようですが」
 胡乱気な瞳で見下ろしたオレに、彼女は心配そうな表情を向けた。
「……いや、ううん。なんでもない。気にしないでいいよ」
 オレは軽く苦笑を作って彼女にそう告げた。……とは言え、本当に苦笑を作れたかどうかは自信が無い。もしかしたらまだ胡乱気なままだったか、あるいはとても変な顔だったかもしれない。
「そうですか……それならいいんですけど」
 いまだ釈然としないような表情で彼女は告げる。だけど、すぐに気を取り直したかのように、笑顔でこう告げた。
「それじゃあ、一緒にご飯を食べませんか」
 本当に笑顔だった。きらきらと輝く笑顔だった。そしてここは廊下の真ん中だった。当然オレたちの周りには喧騒の中の生徒たちが歩いている。そして勿論その中にはいくつかの男子生徒も含まれている。
 ……一瞬、気温が下がったように感じた。
「だけどそれは……気のせいだった……と思う」
「え?」
「いや、何でもない。それより、どういうこと?」
「あ、はい。えっと、なみちゃんが、いつものように私とご飯を食べようとしたんですが、その時に、もし良かったら志倉さんも誘わないかって」
「ああ……」
 成る程、水瀬さんの提案か。それならわかるが――どういうつもりなんだろうか。
「それで、どうでしょうか。駄目だったら、全然かまわないのですが」
「……いや、いい。あ、いいっていうのは、その、OKという意味で……つまり、うん、一緒に、ご飯を食べようか」
 上手く答えられず、自分でも変な言い方をしてしまった。しかし椎名さんはそのことはあまり気にしない様子で、そうですか、では行きましょう、と笑顔のまま告げた。
 踵を返し、彼女が、彼女のクラスである3組へと入っていくその後姿を眺めながら、オレは頭の中に次第にはっきりとした形が生まれてくるのを感じた。それは、主に、水瀬さんへの疑問と、そして……今目の前にいる、椎名さんへの、なんだろうか、椎名さんに関する、様々な事柄、思い。
 3年3組も、オレのクラスである2組と同様、昼休み特有の喧騒を作り出していた。その中にいくつか蹲る沈黙。それらを掻き分けながら、オレは前を行く椎名さんの後を追った。そして水瀬さんは、その中で一人、椎名さんの机の前に座っていた。
 ただし彼女の姿は例外だった。それは、予期していた事態とは違っていたという意味と、周りの生徒達のどの行動とも違っていたという意味の。
「あれ? どうしたの、なみちゃん」
「あ、うん、ミーちゃん……隆二、連れてきたんだね。それで……折角、連れてきてもらったのに悪いんだけど……」
 アハハ、と水瀬さんは照れ笑いをした。その手元では、水瀬さんの机の上に広げた自分の弁当箱を、いそいそと片付けていた。見たところ、中身は全然減っていなかった。
「実は、今日突然、ちょっと部活の顧問の先生から呼ばれることになって……私、すぐに行かなくちゃいけないから、ごめん、今日は、二人で食べて!」
 そう言い放つと、片付け終わった弁当箱を持ってさっと椅子から立ち上がり、ごめん、と何度も謝りながら、椎名さんと、そしてオレの脇をすり抜けて行った。
「あ、ちょっと……」
 思わず椎名さんが呼び止めようとするが、その後に続く言葉を失ったまま、結局水瀬さんを捕まえることは叶わなかった。
 後には、オレと椎名さんの間で、微妙な沈黙だけが残ることになった。
「……どうします?」
「どうします、と言われてもなぁ」
 オレを見て、驚いた表情のまま訊いてきた椎名さんに、オレもなんともいえない表情で答えた。
「まあ……仕方ないですよね。急な用件なら。さ、志倉さん、ご飯、食べましょう」
「え……?」
「え、ではありません。さぁ、さぁ。食べますよね? ちゃんと食べないと駄目ですよ」
 いまいち的を射ない言葉を残しながら、彼女はさっさと自分の席へとついてしまう。オレも、釈然とはしないものも、とりあえずさっきまで水瀬さんが座っていた後ろ向きの椅子に座る。
「さあ、ご飯ですよ」
 椎名さんはさっと鞄からお弁当を取り出し、机の上に広げた。オレが弁当を置くためのスペースを半分作って。だけどそこで、彼女も気付いたようだ。その一瞬前に、オレも気付いていた。
 ……弁当は教室に置いたままだった。

「あれ? 何してるの、リュージ」
 3年2組の教室の後ろの扉を開けると、目の前に千穂の姿があった。少し驚いた表情でオレを見る。
「いや、弁当忘れたんでな……取りに来た」
「弁当忘れた? っていうか、ここで食べないって、結構珍しーね」
「まあな」
 適当に返事を返しながら、オレは自分の机のところまで行き、その脇にかけられた鞄の中から弁当を取り出した。
「何処で食べてるの?」
「ん……」
 何気ない千穂の問いに、オレは言葉を詰まらせた。振り返ると、不思議そうな顔でオレを見る千穂の姿がある。
 何故だろうか。簡単に『3組で椎名さんと食べている』と答えることができない。どうしても言葉が詰まってしまう。別にやましいことをしているわけでもないし、時にはそういうことがあってもそれほど不思議なことでもないだろうに、何故か今のオレはそれをぽろっと口に出すことができないでいた。
「いや、まあ……」
「……はい?」
 言葉を濁そうとすると、千穂は更に訝しげな表情でオレを睨みつけてきたが、
「……まあ、いいや」
 と、唐突に話を切り上げた。
「私もちょっとこれから用事があるしね。リュージだって一緒に食べてる奴とかを待たせるわけにはいかないでしょ? そういうわけで、解散解散」
「用事?」
「そ。なんか、今の陸上部の顧問に少し呼ばれてね。一体何の用だか……おかげで、私の昼食が中途半端なところでやめさせられる羽目になってしまったよ……まったく」
「そうなのか? なら、水瀬さんと同じ用事か。二人とも、大変だな」
「……那美?」
 千穂は怪訝な表情を浮かべた。
「なんで那美の名前がそこに出てくるの?」
「え、いや、だって水瀬さんも、なんか部活の顧問に呼ばれたらしくてさっさと昼食切り上げていたよ」
「……そうなの? でも、呼ばれたのは私だけのはずだよ。ついさっき。確認もしたし。だから嫌なんだけどね、独りだから」
「……え?」
「何か聞き間違えたとかそういうのじゃないの? まあ、いいや。とにかく私は行くね、じゃあね」
 そう言って急ぎ足で教室を出て行く千穂を送ってから、オレは少しの間呆然とそこに立っていた。だが、椎名さんを待たせていることに気付き、オレもまた千穂の後を追って教室を出た。

「あ、おかえりなさい、志倉さん」
 3組の椎名さんの机に、彼女はしっかり座って待っていた。目の前に置かれた弁当箱は、開けられていない状態でそこに放置されていた。
「まさか、まだ食べてないの?」
「ええ。まだ志倉さんが帰ってきませんでしたし」
 彼女はただ笑顔でそう告げる。オレは多分、ほとんど呆れたような表情でそれを見つめていたと思う。
「そんな……待っていなくてもよかったのに」
「そんなわけにはいきませんよ。はい、座ってください。早く食べないとお昼休み終ってしまいますよ」
 促されるままに、さっきオレが一度座った席にもう一度座りなおし、持ってきた弁当を彼女の机の上に広げた。小さな机の上に、二つの弁当箱が広げられた。
「結構狭いですね」
「そうだね……こんなところで、水瀬さんは本当に3人で食べようとしたんだろうか」
 呟きながら、オレは先ほどからちらちらと向けられる視線を少し気にしていた。さすがに、この教室には他に、男女で食べているところは無い。3人だったらまだしも、男女2人だとさすがに怪しい部分があるのかもしれない。いや、きっと間違いなくそう見えるのだろう。そう考えると、本当にオレは正しい選択をしたのだろうかと思わず冷や汗を掻いてしまう。
 だがそれ以上に気になることがあった。それは、水瀬さんの『用事』のことだ。
 彼女は本当に、部活の顧問に呼ばれたのだろうか。いや、彼女は嘘は言っていないけどオレが何かしらの勘違い、あるいは千穂の言うとおり聞き間違いをしただけかもしれない。もしくは、千穂が聞いた情報が実は間違っていただけかもしれない。そのように、色々な解釈はできる。しかしそれらが全て間違いだとしたら……。
「美味しそうですね」
「……え?」
 声に反応して思考を閉じると、目の前に、オレの弁当を覗き込んでいる椎名さんの姿があった。
「美味しそうって……何が?」
「何がって、お弁当に決まってるじゃないですか」
「……あ、そうだね」
「あれ? そういう意味じゃありませんでした?」
「いや、そういう意味で合ってるよ。……ちょっと、混乱してた」
 オレは苦笑して返した。思わず思考の中に入り込んでいたので、唐突な椎名さんのアクションに上手く対応できなかったため、自分でもよくわからない質問をしてしまっていた。
「お母さんが作ったのですか?」
「え……あ、うん。まあね」
 ちょっと恥ずかしく思いながらも、オレはそう返事した。恥ずかしく思う必要は無いとは思うのだが、何故かオレは恥ずかしく感じた。それはきっと、あまり家族の事について入り込まれるのが少しいやだったからかもしれない。
「……椎名さんのは? 椎名さんのも、親が作ってくれたの?」
「あ、これですか? これは……」
 そこで彼女は、少し顔を俯けて、言葉を切った。その表情が、若干紅潮しているように見えた。
「えと、私が……作りました」
「え……」
 オレは驚いて、ほんの少しだけしか見ていなかった彼女の弁当を、改めて見つめた。全体的にこじんまりとしているものの、配置もバランスがよく、色彩も豊かで整然としていた。野菜類も肉類もきっちりと入っていて、栄養価も問題なく揃っているように見える。
「これ、椎名さんが……?」
「はい……」
 まだ少し恥ずかしそうに、彼女は答えた。オレは驚いたまま、彼女と彼女の弁当を見比べる。
「あんまり自信が無いんですが……」
「そんなことないよ! これ、かなり美味そうだし……」
「そ、そうですか?」
「ああ!」
 紅くなったままの顔で少しだけ見上げる彼女に、オレは力強く何度も頷く。
「本当に美味しそう! 綺麗だし、バランスも良い感じだし……あんまりいい感想は言えないけど」
「いえ、充分です。本当に嬉しいです……ありがとうございます」
 まだ恥ずかしそうに、だけど何処か嬉しそうに彼女は小さく笑う。オレも微笑みながら、周りからまた注がれたさりげない視線に、ちょっと興奮しすぎた自分に気付く。
「そっかぁ……料理も得意なんだね、椎名さん」
「そういうわけではありませんよ……私なんかより、なみちゃんの方がよっぽど上手いですし」
「そうなの?」
「はい」
「……それは知らなかったなぁ……」
 放心したように呟きながら、先ほどちらっと見た、水瀬さんの弁当箱のほとんど減っていなかった中身を思い出した。
「じゃあやっぱり水瀬さんも手作り弁当なの?」
「はい。私なんかよりよっぽど綺麗で、美味しいお弁当です」
「そんなことないよ。謙遜しすぎだよ。さっき少しだけ見たけど、確かに水瀬さんのお弁当すっごい綺麗だった。けど、それは椎名さんも同じじゃないか」
 オレはまだちょっと興奮した様子で告げた。だけど、彼女はさっきのように小さく微笑みながら喜んだりは、しなかった。逆に、何故か沈むような表情を見せながら、顔を俯かせた。
「……ありがとうございます、でも」
 その顔は間もなく再び上げられ、その口元にも微笑が作られていた。けれど、その何処か沈んだような表情はそのままで、またその微笑もなんだか寂しそうな、ちょっと嬉しい、とは違うような微笑だった。
「でも……やっぱりなみちゃんには勝てませんよ、私」
「え……」
 想像以上に暗い響きを伴ったその言葉に、オレは何も言えず黙り込んでしまった。
「さて、と。あ、やっぱり志倉さん、食べるの早いですね。もう無くなってしまうじゃないですか。私の方が量は少ないのに、まだ全然終わりませんよ。さすが男の子です」
 と、唐突に彼女は笑顔に切り替えて、朗らかにそう言った。オレは呆気に取られながらも、彼女の言葉の示す自分の弁当箱へと視線を落とすと、確かに残りの量は少なくなっていた。話しながら食べていたのであまり意識していなかったが、もうすぐに終る段階だった。
「私も急いで食べなくっちゃ。私、話しながらだと食べるの本当に遅いんですよ。志倉さんみたいに、話しながらでもぱくぱく食べれちゃう人って、羨ましいです」
 本当にさっきまでの彼女とは別人の笑顔だ。オレはもう、何も喋る気力も失い、「あ、うん」とか「あ、そうだね」とか間抜けな返答ばかりをしていた。
 やがて彼女も食べ終わり、その後も適当に軽く会話をし、昼休み終了の予鈴が鳴った後にオレは彼女に別れを告げて自教室へと戻った。しかし、彼女と話している時も、自教室へと戻る間も戻った後も、オレの頭の中では、何度も彼女のあの表情とあの言葉がリフレインしていた。ただそれだけに気を取られていた。
『でも……やっぱりなみちゃんには勝てませんよ、私』
 それほど特別な言葉でも無いと思う。話の流れから、また彼女の性格から、ただの謙遜の一種でしかないと考えるのはそう難しいことではない。あの表情だって、適当な解釈はいくつかできそうな気もする。だけど何故か、オレの中では何度も何度も、その表情、その言葉が繰り返し流れ続けていた。
 それは何故だろう。オレはただ、本当にその彼女の様子に疑問を持っただけだからなのだろうか。いや、そうではない。それだけではない。それはわかっている。そのことはわかっている。……だけど、気付かないふりをしてオレはさっさと席に着いた。そして教室へと戻ってくるクラスメイトたちの姿を眺めながら、5限が始まるその瞬間を待ち構えていた。気付かないふりをしても、何の意味も無いというのに。どのみち近いうちに、決断をしなくてはいけないというのに。何故だかオレは、焦っていた。その決断を、今すぐにでも行わないと、後悔する、と。……あるいは、そうすると……逆に後悔する、と。
 ……水瀬さんより先に、千穂が教室に戻ってきた。だからオレは、彼女に質問してみた。……結局、やっぱり現陸上部顧問が呼び出したのは千穂だけだったようだ。そのことに関して、すぐ後に戻ってきた水瀬さんには、何も訊かなかった。そうしない方がいい、とオレは感じたから。……だって、答えはもうわかっているのかもしれないから。



 冬は日が短く、世界はすぐに闇に包まれる。そしてそれは、その日だって決して例外ではなかった。
 夜の闇に包まれたいつもの通学路を、オレは独りで歩いて帰っていた。マフラーも無い寂しい襟口から、冬の夜の冷たい風は容赦なく入り込んでくる。首筋を撫でまわすように、いや、寧ろその厳しさは切り裂くかのように、オレの皮膚を傷つけていく。思わず両肩を竦めながら、全身を小さくしながら、そして震えながら、とぼとぼと歩いていた。
 吐く息は当然白い。闇の中にもわっと生じる白い霧。その先に、人影を見た。暗闇の一角の、道路の脇に、彼女はうずくまっていた。暗闇の中で、なお黒く映えるショートカット。夜風に晒されるそれには無関心に、ただ目の前の何かを見下ろしているその儚げな横顔。僅かに微笑んだ表情と共に仄かな神秘性と類稀無い美しさを映し出す。それら全ては一体となってオレの心臓を確かに揺らした。
「椎名さん」
 最近良く口にするその言葉を、そのうずくまって少女に投げかける。少女は少し驚いた表情で、だけどその小さな微笑は残しつつ、オレの方へと視線を向けた。
「あ、志倉さん。どうしたんですか?」
「どうしたって……それはこっちの台詞だよ。何をやっているの、こんなところで」
「猫です」
「え?」
「これ」
 そう言って、彼女は自分の手元にある『何か』がオレにも見えるように、わずかに体をずらした。確かにそこにいたのは、彼女の言うとおり黒い小さめな猫だった。
「可愛いでしょう?」
「ああ、うん、そうだね」
 小さな黒猫は、オレの方へと視線を向けて、にゃあ、と微かに鳴いた。その響きは何処か幻想的な香りを含んでいて、冬の夜の空気の中に、まるで夢の中の響きのように伝わった。
「随分と人に慣れているね。……もしかしたら、何処かの飼い猫じゃないの?」
「うん、そうかもしれない」
 椎名さんは答えながら、また手元の猫に手を伸ばしてじゃれ合った。小さな猫の黒い体毛を、ゆっくりとゆっくりと撫で回す。その小さな掌の持ち主は、確かに楽しそうに楽しそうに微笑んでいた。その少女を見上げながら、猫は金色の双眸を不思議そうに揺らしていた。
 静かだった。静謐に包まれた冬の夜のある一角。ある1ページ。だけどそれは、全て用意され、完全に待ち構えられた大切な1ページに思えた。
 それがただのオレの勝手な錯覚だとしてもどうでもいい。とにかく今こそ、オレにとって最大のチャンスであるように思えた。最大の機会。
 遠くで、電車の音が聞こえた。微かに踏み切りの鐘の音も聞こえた。ただそれだけ。人の声だって決して空気を震わせない。金色の双眸の猫も何一つ言葉を発さない。ただ黙って少女を見上げるだけ。そして少女は手を動かすだけ。音すらしない小さな愛撫。音すらたてない小さな猫。ただただ静謐に、静謐に。そしてオレは無言で立ち尽くす。
「あ……」
 零れ落ちたオレの声。喉から搾り出すように生み出したその言葉は、ただその一文字だけとなって夜の空気を震わせる。張り詰めた糸に軽く触れた程度のその揺らぎは、彼女の肩を小さく震わす程度の役にも立たなかった。
「あ……の」
 今度はもう少しだけ大きな声を絞り出した。そしてそれは、確かに彼女に届いたようだった。
 疑問を浮かべるように、オレの顔を見上げるあどけない少女の顔。冬の夜の暗闇の中で、それは果てしない輝きを持ってそこに在った。
「猫……好きなの?」
 オレは小さく訊いてみた。言おうとしていたこととは違う言葉。だけど彼女は笑ってちゃんと答えてくれた。
「はい。私、猫好きなんです」
 にっこり笑うその彼女。オレはもう、いますぐ叫んでその場所から走り出してしまいたくなるくらいに動揺する。
「なみちゃんと一緒で」
「え……」
 笑顔が少しだけ寂し気な色に移り変わったように見えた。だけどオレは、酷く混乱していた。
 なみちゃん? なみちゃんって誰だ?
「あの、志倉さん……」
 か細く揺れる椎名さんの声。『彼女』の声。オレの中に溜まる想い。溢れんばかりにせめぎあう想い。
 なみちゃんって誰ですか?
 ごめんなさい、わかりません。
 そんなことより、そんなことより……。
「志倉さん、その……」
 見上げ、俯き、また見上げ……さっきまでの楽しそうだった表情とは一変して、不安に揺れる彼女の表情。それは真摯にオレを見つめる。開かれようとする小さな唇。それは今にも何かを紡ごうとしている。自分を撫でていた掌が動かなくなり、訝しげに思った子猫が少女を一度見つめ、なあっ、と一鳴きする。
 だけどそんなことは全てオレにとって何の意味も持たなかった。
「オレ……」
 開きかけた彼女の唇。そのことを気にかけず、オレの唇は言葉を紡いだ。
「君のことが――」
「志倉さん、お願いです。なみちゃんとまた――」
「君のことが、好きだ――」
「なみちゃんとまた、付き合って――え?」
 幾たびにも重なり合った二人の言葉は、唐突に闇に沈んだ。静まり返ったその空間。にゃあっ、とまた猫が一鳴きした。
「え……?」
 再び聞こえた彼女のその呟き。さっきもそれだけしか聞こえなかった。
「……え……」
 震える彼女の声。震える彼女の表情。何度も何度も同じ呟きを漏らす彼女の唇。
 オレはただそこに立ち尽くしていた。冷ややかに堆積する静寂の空の中に、オレは微かに震えながら彼女を見下ろしていた。
 彼女が何か言っていた。
 え、と呟く前に何かを言っていた。
 だけどそれを聞き取ることはできなかった。
 オレはただ、自分の中にあった想いを言葉にして生み出した。
「え……」
 彼女はその言葉の前に、震えていた。
 大きな驚愕をもって震えていた。
 猫はもう鳴かなかった。
 いつの間にか彼女の手元からはあの猫はいなくなっていた。
 チャリンチャリン、と音がした。
 オレたちの脇を自転車が通り過ぎた。
 電気をつけていないその自転車はあっと言う間に闇の向こうへと消えていった。
 オレはただ立ち尽くしていた。
 彼女はただオレを見上げていた。
「……あ、……あ」
 彼女は、震えていた。



そして呟いた。





「どうして…………ですか?」















 どれくらい時間が経っただろうか。無意味だと感じてしまうくらいに凍りついた静寂の中、オレは独りベッドの上に寝転がっていた。白い天井は無言で目の前に座っている。オレは話しかけることもできずにただそれを見つめていた。両手は後頭部の下に敷かれていた。体は布団にくるまれていた。そして空気は凍り付いていた。
 ストーブの稼動音を耳にする。遠くで国道を走る車の音を耳にする。ただそれだけで、オレは静寂の中にいた。視線は動かず頓挫していた。
 そして頭の中ではただ一つのことだけで一杯だった。今からどれくらい前のことかわからない。今日の放課後の、ある一角。削り取られたその思い出は、オレの頭の中に明確な写真となって残り続けている。
 彼女の髪、彼女の双眸、彼女の鼻、彼女の口元が、全て一体となって想起される。目の前を覆い尽くすように広がっていく。そしてあの表情、そしてあの……呟き。
 オレは告げた。告白の言葉を。今までずっと口にできなかった告白の言葉を。たった一つの言葉。あまりにも頼りないくらいに小さな言葉。だけど大切な言葉。
 その言葉に、彼女は大きな間を開けて返した。

 ――どうして、ですか?

 たった一言、その言葉。
 オレには理解できなかった。
 その言葉の意味を。
 何がどうして、なのか。
 そして、
 彼女は、オレの告白に、OKしてくれるのかどうか。
 ……あの一言を漏らした後も、彼女は驚いたままオレを見上げていた。そして悲しげに震えていた。今にも泣き崩れてしまいそうなほど儚く震えていた。オレは何も言葉をつなげることができなかった。彼女の言葉にも何も返すこともできず、無言で彼女を見下ろしていた。彼女はやがて顔を俯かせた。深くなっていく夜の闇の中で、俯いた彼女のその表情を覗き込むことはできなかった。ただ体は小刻みに震えていた。それからも互いに何一つ言葉は発しなかった。ただもう少しそのまま時間が過ぎてから、彼女は顔を俯かせたまま無言で立ち上がった。そしてオレを見ることも無く踵を返し、たったったっ、と背を向けながら走り去っていった。夜の闇の中。冬の夜の闇の中。あの自転車が消えていったその方向へ、彼女は駆け去っていった。そしてその姿をオレはただ呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。
 手を握った。目の前に翳した手。オレと天井との間に、その握られた手はある。握った瞬間に、そこには確かに感触を感じた。だけどやがて、静寂に解けていくようにその感触は失われていった。あ……、と小さく言葉を漏らした。だけどそれは本当に自分の漏らした言葉かどうかわからなくなった。いつの間にか手は開かれていた。汗が少しだけ浮かんでいた。握ったところだけ少しだけ白くなっていた。すぐに赤くなった。汗が微かに流れ落ちた時、ただその感触だけを感じた。冷たくも熱くも無い感触だった。
 オレはわからなかった。わからないまま、ただこうして布団の中でくるまりながら寝転がっていた。
 静寂。
 その静寂の中に、
 オレは微かな音楽を聞いた。
 それは、
 それは、規則正しく響く小さな音だった。
 それは、枕元に置かれた、時計の秒針の音だった。
 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、
 無機質に、規則正しく、それは響いていた。
 静寂の中響く秒針の音。
 それは、どうしてか、酷く懐かしい音だった。
 いや、それは当たり前のはずだ。毎日聞いている音なのだから。
 でも違う。そういう意味じゃない。
 どうしうてだろう。
 オレはとにかく、この音が、凄く凄く懐かしい音として、耳に入ってきていた。
 それはまるで、あの『歌』を聴いたときのようだった。



 その時、唐突に静寂を震わす音が響いた。
 それは、机の上に置かれたオレの携帯の着信メロディだった。
 オレはベッドの上の体を起こし、手を伸ばしてなんとかその携帯をとった。
 そして、ディスプレイを見た。
 そこには、『椎名美奈』と描かれていた。










『もしもし……』
 その声は震えていた。
 オレはその声を、何百年も昔に聞いたことがあるような声に感じた。
「あ……」
 オレは何か言おうとして、何か言いたかったのに、ただそれだけの言葉でもない言葉だけを漏らした。
『あの……志倉さん』
「……はい、椎名さん……」
 彼女の震える声に、オレは答えた。
『さっきは……本当に、申し訳ありませんでした……』
「……いや、いいんだ」
 オレは答える。
「こっちこそごめん……あんなこと、いきなり……」
『……ううん』
 椎名さんも答える。
 沈黙。
 携帯のこっち側と、向こう側。
 遠く隔てられた空間を挟んで、二つの世界は共に沈黙に包まれていた。
 ただ沈黙だけが存在する世界。
 オレたちだけの、オレたちの沈黙だけの、世界。
「……椎名さん」
『……志倉さん』
 二人の声が重なる。互いに驚き、言いかけた言葉をひっこめる。
 そして再び沈黙が訪れる。
 気まずい沈黙……?
 ……いや、違う。
 なんでだろう。
 そこには沈黙しかないのに。
 オレには、その沈黙が不快なものではなかった。
 それよりも。
 オレはその沈黙を酷く心地よく感じていた。
 オレはその沈黙を、彼女とのつながりのように感じていた。
 それはなんでだろう。
 何処か酷く懐かしく感じるこの沈黙。
 だけどなんでだろう。
 それは、その懐かしい沈黙とは、その部分で違っていた。
 温もりを感じる沈黙。
 それはあの懐かしい沈黙とは違っていた。
「椎名さん……」
『ん……』
「オレ……」
『…………うん』
「オレ……」
『……ん』
「オレ…………」
 そこまで言いかけたとき、
『……やっぱり、駄目……』
「…………え」
 椎名さんがたった一言だけ、答えた。
『やっぱり……駄目』
「駄目って……」
 そのたった一言だけの答えを、オレは理解できない。
『私は……その言葉には応えられません』
「……どうして」
 震える彼女のその言葉を、オレは理解することができない。
『……嬉しいです。本当に嬉しいです。私も、志倉さんのこと好きでしたし……』
「え……」
 彼女は言葉を続ける。震えたままの、小さな唇で。携帯電話の、向こうの世界で。
『だけど……私は駄目です。それに応えることは……できません』
「だから、なんで……」
 オレは問い返すことしかできない。
『なんで……なんで、志倉さんは私のことが好きになったんですか……?』
「え……?」
 今度は彼女からの問いかけだった。
『なんで……志倉さんは、なみちゃんが好きだったんじゃないんですか……?』
「…………え」
 彼女のその問いに、唇は固まる。何一つ言葉は生まれてこない。ただ携帯電話の向こうの世界へと、耳を傾けるだけ。
『あんなに彼女のことを好きでしたのに……彼女も、あんなに志倉さんのことが好きでしたのに……』
 泣いてしまいそうなほどに震えるその声を、オレは何も言わずに聞き入っている。
『だから私も……志倉さんのことをあきらめたんです』
 彼女の声。
『なみちゃんが志倉さんのことが好きだって知ったから……だから私は志倉さんのことをあきらめて』
 震える声。
『それで、私はよかったんです。それで、なみちゃんも、そして志倉さんも幸せになれればそれでよかったんです……』
 携帯電話の向こうから聞こえる声。
『本当にそれでよかったんです……別に、不満なんて何もなかった……。何も、不満なんて感じていなかった……。なみちゃんが幸せそうに志倉さんと一緒にいてくれるだけで、私は本当に充分に幸せでした……』
 オレは、ただ沈黙してそれを聞いている。
『だからそういう意味で、本当はそんなに志倉さんのことは好きだったわけじゃないのかもしれません……』
 携帯電話の向こうで、沈黙の中に、何か別の音がしたような気がした。
『……なみちゃんは、本当に志倉さんのことが好きです。今でもとても大好きに思っているはずです』
 オレはただひたすらに沈黙していた。
『だから……』
「でも……」
 オレは、ようやく口を開いた。
 そして、言葉を紡ぎだしていく。
「でも……オレは……」
 だけどそれは……数日前にも、オレの親友に告げたような言葉。
「オレは……もう……」
 自分でも嫌になるような……言葉。
「オレは……もう……水瀬さんのことは……」
『そんなのは、今だけです!』
 向こうの世界から、椎名さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
 それは殆ど聞いたことの無いような声だった。
『そんなのは……今だけです……。だって……なみちゃんはいい娘ですし、志倉さんとも凄く相性が合うはずです……』
 オレはまた口を閉ざした。胸の辺りに、言葉には上手く言い表せないような思いが生まれてきていた。なんだか、出口の見つからない迷路を走っているかのような。
『それは……今はまだ志倉さんがなくしている記憶の中に、あるはずです』
「それを……思い出せないんだよ……」
『すぐに戻ります!』
「そんな保障は無いよ……」
『そんなことはないです!』
 オレの言葉を聞こうとせず、彼女は何度も強い口調で主張する。
『すぐに戻ります……戻らなかったとしても、いつかまた、なみちゃんと過ごしているうちに、彼女のことが好きになるはずです……』
 オレには言いたい事があった。けれど、今はまだ口を閉ざしている。
『……絶対に、そのはずです。絶対に、志倉さんは、なみちゃんのことを……』
「好きだよ」
 オレは口を開いた。
『え……?』
「好きだよ。確かにオレは水瀬さんのこと、好きだって思ってるよ」
『……じゃあ……』
「でも、好きだ、って思ってるけど、でもそれは、彼女のことを、女の子として好きなのかはわからない」
『え……』
「そうであるのかもしれないけど……でも、少なくとも……彼女は一番じゃない」
 向こうの世界から、息を呑む音が聞こえた。同時に、やっぱり彼女は泣いているのか、鼻をすする音も聞こえた。……同時?
『一番じゃない、って……』
「うん……」
 オレは、本当に、確かに、水瀬さんに惹かれている部分は強くある。
 けれど、やっぱり、それは一番じゃないんだ。
 それは、何度も、色んな人たちに言ってきた。
 その度に、オレは嫌になることもあった。
 オレという人間が、とてつもなく嫌いになることもあった。
 雅人には、怒鳴られた。
 当たり前かも知れない。
 いや、当たり前だろう。
 オレは本当に嫌な奴だ。
『……でも、なみちゃんは、本当にいい娘で……』
「うん、わかってる……」
 ああ、それはわかってる。
 わかっている。わかっているよ。
 水瀬さんは本当にいい娘だ。一緒にいて居心地いいし、最後のデートの別れの時も、彼女は笑ってくれていた。この前の音楽室の時も、彼女は笑ってくれていた。
 そんな彼女なのに……オレは……一番じゃないという。
 本当に、雅人に殴られたっていいくらいかもしれない。
 ……けれど。
 けれど、それでも。
 それでも、オレは嘘なんてつけない。
 嘘なんてつきたくない。
 そんなときに、自分を騙したくない。騙せやしない。
 どんなに言葉を並べたって、どんなに事実を並べたって。
 オレの中に生まれたその想いは、もうどうしようと消せはしない。
 もうどうしようもない。
 そこにそれは確かにあるんだ。それは誤魔化すことなんてとてもできないんだ。
「わかっているよ……わかっているけど……」
『志倉さん……』
 椎名さんは本当に泣き声になっている。
 なんで泣いているんだろう、って一瞬思った。
 その次に、ああ、そっか。なんて、友達思いなんだ、って思った。
 それは、正しいのか。
 何が、正しいのか。
 間違っているのか。
 わからない。
 オレはおかしいのか。物凄く嫌な奴になっていることは間違いない。
 ……だけど、それでも、オレは告げた。
 何もかもわからなくなったけれど、それだけは確かな真実だから。
『志倉さん……なみちゃんは……』
「……オレは…………オレが、一番好きなのは……」
『私は……』
 水瀬さん、ごめん、とオレは心の中で謝った。
 それでもオレは、椎名さんに謝る事はしなかった。
「椎名さん……君だけしかいない」
 その一言が、二つの世界を、再び水を打ったような静けさの中へと陥れた。
 果てしない沈黙。
 ただそれだけがそこにある。
 沈黙、沈黙。
 それだけがそこにあって過ぎ去る中、
 その果てしの無い沈黙の、ついに果てが、現れた。
 唐突に、意外な声によって。
『……え、ちょっ、な――』
『……隆二?』
 唐突に椎名さんの慌てたような声が聞こえたかと思ったら、別の声が向こうの世界から聞こえてきた。それは、とても聞き覚えのある声だった。
 オレは、思わず呆気に取られ、咄嗟に言葉が出なかった。
『やっほー』
 なんて、陽気なこと言ってくるその声。その声、とても聞き覚え、ある。
「……水瀬さん」
『あ、わかってくれた? よかったぁ、声だけでもわかってくれるなんて、私、結構嬉しいよ』
『なみちゃん、ちょっと……返して』
 向こうの世界からは、水瀬さんの声に混じって、遠くにあるような椎名さんの声が聞こえてくる。
『ごめんね、ドタバタしてて。今、ミーちゃんに携帯取られないように逃げ回っているからさ』
『取られないようにって、それ、私の……』
 言葉どおり、確かに向こう側では随分とドタバタしているようだった。
 まあ、どんな状況かは、察しがついた。
「でも、どうして水瀬さんが……? さっきから、ずっといたの?」
『うん。私、ミーちゃんの家に遊びに来てるの』
「……は、はぁ……」
 どこか楽しそうに呟く彼女の声。だけど、さっきからずっといたってことは、当然あの会話も聞いていたわけで……。
『まあ本当はさ、遊びってわけじゃないんだけど』
『なみちゃん……』
『ああ、もう。落ちついてよミーちゃん。いいじゃん。さっきは何があっても何も言うなって言ったくせに。それにちゃんと従ったんだよ。だから、今度はミーちゃんが従ってよ』
 水瀬さんの声のあと、向こう側からの微かな椎名さんの声はぱたりとやんだ。
『ふー。よかった。なんとか落ち着いてくれたよ。……ははは、ごめんね。騒がせちゃって』
「はぁ……」
 オレは脱力して答える。さっきまでの緊張感は何処吹く風だ。
『……うん、本当はね、遊びに来たわけじゃないんだ』
 だが唐突に、その水瀬さんの声が真面目になった。オレも反射的に肩を張る。
『本当は、ミーちゃんに、隆二に告白させるつもりだった』
『なみちゃん……』
 向こうから、かすかに椎名さんの声が聞こえてくる。だけど彼女の声はそれっきりだ。
『ミーちゃんは嫌がったから、何度も説得した。本当は好きなくせに、バレバレなのに、何度も何度も遠慮するんだもん。骨が折れたよ』
 オレは黙っていた。向こうの世界でも、もう一人の少女は黙っている。
『それで、なんとか渋々ながら電話させたらさ、今度は、いきなり……今言ったような話を始めちゃって』
 ははは、と水瀬さんは笑う。それはどんな笑いなんだろう、とオレはなんとなく思った。
『そういえば、隆二、ミーちゃんに告白したんだね。凄い。ちゃんとしてくれたんだね。はは……ミーちゃんとは大違いだよ』
 オレの中には色んな思いがぐるぐると渦巻いていて、それが頭の中に昇ってこようとしてきていた。だけどオレは、沈黙を守り続けていた。
『そして……ちゃんと今も、告白したんだね。さすがだよ』
 さすがって……オレは、口を開こうとしたが、その後に続く言葉が思いつかず、結局は閉ざした。
『……ちょっと、じぇらしー、かな』
 はは、と冗談をいうように笑いながら告げる。だけど、それは弱々しい笑い声だった。
『でも!』
 今度こそ何か言おうとしたオレを遮ったのは、今度は彼女の声だった。
『それでいいと思う。それが一番いいんだよね、やっぱり。隆二は物凄くミーちゃんのこと好きだし、ミーちゃんも……一度あんなこと言っちゃったけど、本当に、隆二のこと好きだし』
 オレはまた何も言えなくなったまま、そこにいる。時計の針の音が、何度も何度も寂しい音を刻んでいる。
『それでもう本当に何もかも完璧なんだよ。一番綺麗な形ですっぽりと収まったんだよ』
『なみちゃん……』
 沈黙していた椎名さんの声が、小さく聞こえた。
『っていうか、隆二はもう大丈夫なんだよね。問題は、ミーちゃんだよね』
『え……』 
『ミーちゃん。強情だよ。本当に』
『……そんな』
『そんな、じゃない。……ねえミーちゃん。ミーちゃんは本当に、隆二のこと好きなんでしょ?』
『…………私は』
『……すぐ人に遠慮して何も言えなくなるからねぇ。私がいると、言えないんでしょ? 私がいなければ、ちゃんと言っていただろうに。ってか、さっきもちょっとだけ言ったかな』
『…………なみちゃん』
『それとも……本当は、好きじゃないの?』
『…………』
『首振っても、向こうには伝わらないよ。ちゃんと言葉にしないと』
『だって……』
『だっても何も無いよ。大体さ、もうわかってるでしょ?』
『え……?』
『隆二は、あんなにミーちゃんのこと好きなんだよ? あんなにしっかりと、何度も告白して……あんなに好きなんだよ。……私が羨ましいって思うくらいに、好きなんだよ』
『…………でも』
『その好き、の対象は、私じゃないんだよ』
『…………』
『それは、ミーちゃんなんだよ』
『でも……』
『でもじゃないってば。……ミーちゃんさ、私と隆二が幸せに付き合っていられることができたら、自分も幸せって言ったでしょ?』
『…………』
『でもさ、隆二はミーちゃんのことが好きなんだよ。だから……片思いの私が、どうしたって、意味が無い』
『そんな……そんなことは』
『そんなことはある。それよりもさ』
『…………』
『それよりも、ミーちゃんが、素直に隆二と一緒になって、本当に、幸せそうに笑ってくれることが、その、私と隆二がそうであったときミーちゃんが幸せに感じるように、私も幸せだって思うことができるんだから』
『……そんな』
『何? 嘘だと思ってるの?』
『そんなわけは……』
『うん、勿論嘘なんかじゃないよ。だって……』
『…………』
『だって……私は、ミーちゃんの大親友だもん』
 そこで一端会話は閉じた。
 オレは何も言わずに、その会話を聞き届けていた。
 携帯電話の向こうから聞こえてくる二人の少女の声。
 それに重なる、時計の音。
『……前も、おんなじだったよね』
 やがて再び聞こえてきたのは、水瀬さんの声だった。
『……前?』
『私が……初夏の頃に、隆二と距離を置いたとき……』
 息を呑んだ。
 それは、携帯電話の向こうの椎名さんか。
 ……それとも、オレの方か。
 …………初夏。
 …………距離を、置いた。
 …………それは、何だ?
 …………何だか、何かに思い当たるような気がする。
 …………それは、おそらくオレが失っている時の出来事。
 …………それは、多分……何か、大切な思い出。
『あの時も……二人とも、互いに遠慮しあったよね』
 水瀬さんの言葉に、椎名さんはただ沈黙している。
『……結果は、なんだか酷いことになっちゃったね……』
 結果? わからない。それは全部、オレが失っているときの記憶……。
 ……本当にそうか?
 本当に、失っているのか?
 わからない。
 わからなくなってきている。
『あの時は……志倉さんは、なみちゃんのこと好きだったのに……』
『うん、隆二、私のこと好きだった時――って、自分で言うのもなんだか変だけど……その時だった』
 失った時代。確かにそのはずだ。
『だけど……もう、あの時みたいな嫌な感じになりたくないでしょ? ……何よりも、隆二が辛いと思うし……』
『…………うん』
 二人の会話に、オレは何も答えられずにいる。
『だから……』
『…………』
 椎名さんは沈黙する。
『だから、さ……』
『でも……』
 二人ともいつの間にか弱々しい声に変わっている。
 どちらが今携帯電話を握っているのかわからなくなるくらいに。
 少しの間、再び全くの沈黙が訪れた。
 オレは何も言わないし、向こうからも何も聞こえない。
 全くの沈黙が、その場を包んでいた。
 だけど、その沈黙もすぐに破られた。
 向こうからの、はっきりとした水瀬さんの声で。
『隆二……』
「ん……」
『悪いけどさ……』
「……ああ」
『今から、出てこれる?』
「……え?」
『駅まで……来てくれるかな?』
「……駅まで?」
『うん……』
 水瀬さんの突然の言葉に、オレは困惑した。
『駄目かな……』
「いや……」
 別に、駄目な理由なんて特に無い。
 だけど……その場所で、果たして何が語られるのだろうか。
「いや、駄目なわけはない。いいよ。今すぐ、駅でいいんだな?」
『うん……ありがとう』
「ああ……」
『……それじゃ、待ってるね』
 最後に、そう言って、彼女は通話を切った。
 後に残ったのは、耳障りなピー、ピー、という音だけだった。
 オレは、通話を切断し、携帯を耳から離した。
 カチ、カチ、カチ、と定期的に冷たい音が刻まれる。
 オレの部屋。ベッドの上。
 時計の針の音を聞きながら。遠くに聞こえる車の音を聞きながら。オレは少しの間ぼうっとしていた。
 だけど。
 だけど、やがてオレは立ち上がった。
 そして、部屋の出口の扉へと歩き出す。
 特に準備なんて必要ない。
 このまま、少し出てくる、と親に断ってから玄関を開け、自転車に乗って真っ暗な夜空の下を駆け抜けていけばいいだけだ。
 それだけでいい。
 扉のノブを手に取った。
 オレは、
 オレは、廊下へと歩き出した。



   ――冬の夜空は、なんて美しいんだろうか。



   ――冬の夜風は、なんて鋭く、冷たく、厳しいものなんだろうか。



 オレは10分もかけずに駅までやってきた。家からならば東口の方が近いのだが、そっちは駐輪場が離れているため、駐輪場が近くにある西口へとオレは辿り着いた。真っ暗な闇の中の、簡単な屋根がついた駐輪場に、オレは自転車を置いて、そこから鍵を抜き取った。
 路地裏のようなスペースにあるその駐輪場から歩いてすぐ、西口駅前の広場に辿り着く。同級生が住んでいるお土産屋が目の前にある。彼女は、オレと、そして他の同級生たちが今この場所で逢う事などきっと知らないだろう。彼女とは結構親しいが、オレはやっぱり、知られたくはなかった。それはきっと、気恥ずかしいとか、そういうのだけではないと思う。
 駅構内へと入る。自動ドアを抜け、誰一人いないロビーを通り抜けて、エスカレータに乗る。ゆっくりと、ゆっくりと登るエスカレータ。誰一人他にいないエスカレータ。彼女達はもう来ているだろうか。椎名さんの家はうちよりも遠いし、自転車で飛ばしても15分はかかるんじゃないだろうか。登りきったところの目の前にある待合室に、オレは向かう。そこにもある自動ドアを抜け、緑色の並んだ椅子に、腰掛ける。オレのほかに、頭が禿げ上がった老人がいて、新聞を読んでいた。女性の老人もいて、何かするでもなくじっと座っていた。他には誰もいない。何の声も無い。新聞がこすれあう微かな音と、近くにある立ち食い蕎麦屋から聞こえる食器を片付けるような音と、真上を新幹線が通った音。それくらいしか、そこには無かった。そこで、オレは彼女達を待っていた。
 それから10分くらいは経っただろうか。緑色の椅子に背を預けたままなんとなく後ろを振り返った時、エスカレータの下から見慣れた二人組みの少女が現れた。勿論、それは水瀬さんと椎名さんだった。
 水瀬さんはオレを見つけると、笑って手を振った。椎名さんも、控えめな笑顔になって小さく手を振ってくれた。オレも、立ち上がって手を軽く挙げた。……彼女達がオレに気付く前、彼女達が何処か沈んでいるような表情を作っていたことは、忘れようとした。
 自動ドアをくぐり、待合室から出たオレは、水瀬さんたちと向き合う。こんばんは、なんて冗談交じりの笑顔で水瀬さんは告げた。オレも微笑しながら、ちは、と答えた。
 向き合ったオレたちは暫く無言だった。他にほとんど人のいない静かな夜の駅構内で、オレと、水瀬さんと、椎名さんはそれぞれ無言でその場所に立っていた。
「それじゃあ、さ」
 やがて、その沈黙に耐えかねたように水瀬さんが呟いた。
「私、もう帰るね。そろそろ帰らないとヤバイだろうし」
「え……」
 水瀬さんの言葉に、オレは驚いて声を上げた。椎名さんは、うん……、とほとんど消え入りそうな声で答えた。成る程。最初からそういうつもりだったのか。
「……そっか。わかった。じゃあね、水瀬さん。気をつけてね」
「うん、ありがとう」
「なみちゃん……」
 オレの言葉に、笑顔で手を振って答え、踵を返そうとした水瀬さんを、椎名さんが小さな声で呼び止めた。水瀬さんはきょとん、とした表情で彼女に振り返った。
「何? ミーちゃん」
「うん……」
 無垢な様子で首を傾げる水瀬さんに、椎名さんは小さな声で、控えめな表情で……でも確かにさっきとは違い、その口元に僅かな笑顔を浮かべながら、答えた。
「ありがとう……色々と……それと、ごめん」
 椎名さんの言葉に、水瀬さんは笑って、
「何がごめんなの? 謝ることなんて何も無いじゃん」
 あはは、と笑って、
「こっちもさ、何だかんだいって強引なことしちゃった私に、ちゃんと付き合ってくれて……ありがとうって感じだよ、うん」
 笑い合う水瀬さんと椎名さん。その二人の笑顔はなかなか対称的だけど、でもオレにはとても相性のいい、これ以上ないってくらいかみ合った笑顔に見えた。
「私も、本当に、ミーちゃんが幸せになってくれると、嬉しいんだよ。本当に」
「……なみちゃん」
「だからさ……素直になってね。なんか、本当にミーちゃんは遠慮しすぎだよ。どこがミーちゃんの本音かわからなくなっちゃう。それじゃ誤解されてもおかしくない」
「……うん」
「……本当は、本当に……隆二のこと好きなのに。それなのにそんな態度とってちゃ……勿体無いよ」
 こういうときオレはなんていえばいいのだろうか。携帯電話の時も気まずかったが、こうして目の前での会話だと更にきまずい気がする。とりあえず一歩退いて二人の様子を眺めていた。
「隆二も好きなんだからさ……隆二は、ミーちゃんのこと好きなんだから」
 さすがに少し気恥ずかしくなって、オレは何処を見るとでもなく視線を逸らす。だけど、視界の隅に、ちらっと、椎名さんの表情を映した。……また寂しそうな表情を、見せていた。
「うん……わかった」
 椎名さんは、小さな声で答えた。口元には、さっきオレが一瞬見た表情が嘘だったかのような笑顔が浮かんでいた。
「ありがとう……なみちゃん」
「いいって、いいって」
 水瀬さんは照れたように笑う。
「それじゃ、私は本当に帰るね。……頑張ってね」
 最後にそう言って、今度こそ彼女は踵を返した。椎名さんはもう呼び止めなかった。ただ彼女の背中を見つめていた。
 ここには下りのエスカレータは無い。だから、彼女は階段を一段ずつ、軽快に駆け下りていった。その背中が段々小さくなって、最後にロビーから外に出たその時まで、オレたちは共に彼女の方を向いたまま無言で佇んでいた。
「……志倉さん」
 彼女の姿が見えなくなってから暫くして、椎名さんはこちらを振り向いた。その表情が笑顔のままで、オレは内心ほっとした。
「……本当に、色々と……迷惑かけて、申し訳ありませんでした……」
 オレはかぶりを振った。
「いいんだよ。オレも、かなりいきなりなことしちゃったし……驚いたでしょ? オレも君に随分と迷惑かけちゃったよ」
「そんな……確かに驚きましたけど、迷惑なんてことは……。それに……」
 彼女は少し視線を落とした。
「それに……」
 だけどまた、意を決したようにオレの方を見上げた。その表情は、僅かに赤みがかっていたように見える。
「嬉しかった……ですし」
 オレを必死に見据えて、告げた。と思ったら、全部言い切る前にまた脇に視線を逸らしてしまった。
 だけど、気持ちはわかる。オレも思わず視線を逸らしそうになったくらいだから。
 それでも、オレは彼女を見据え続ける。それに気付いて、彼女もこちらにまた視線を戻した。
「うん……オレも、そう言ってもらえて、嬉しい……」
 言ってから、随分と恥ずかしく感じた。多分今のオレの表情も、かなり赤くなっているだろう。
 だけど彼女の表情も負けてはいない。いつも大人しく控えめな彼女の表情が、今ではかなり強く自己主張をしているようだった。
 恥ずかしそうに視線を彷徨わせながら、言葉に窮し沈黙を続ける彼女。同様に、オレもまた何も言葉を繋げられず沈黙を伸ばす。
 よく考えてみると、最近はこういう瞬間が多いように感じる。沈黙。果ての無い沈黙。
 だけどそこには、きっと何も無いわけじゃない。言葉では形を成すことのできない何かが、そこにあるからこそ、そこに沈黙は生まれるのだろう。
 だから沈黙は意味の無いものではない。
 それは確かに、意味のあるもの、形のあるものなんだろう。
「椎名さん……」
「……はい」
 だけど、沈黙だけでは、やっぱりはっきりとは進まない。
「……オレ、本当に椎名さんが、好きだから……」
 だから、沈黙の果てに、オレは言葉にして、彼女に伝える。
「だから……付き合って、ください」
 そうすることで
 沈黙の中に埋め込んだ
 何よりも大切なメッセージを
 何よりも伝えたいメッセージを
 彼女に、伝える事が
 できるって、思うから……。
「……はい」
 彼女は、最後に、笑顔で、そう答えた。





     やがて冬の日々は過ぎていく。





 オレたちの住む町から45分ほど電車に揺られ辿り着いた街。田舎っぷりを見せつけるオレたちの町と比べ、この街はそれなりになんでも揃っている。だから、少し贅沢したデートをする時は、この街に来るのがオレたちの地域での基本だった。
 鋭い音と共に吹き付ける冬の風。ひゅうぅ、ひゅうぅ、と、空は鳴く。アスファルトの道路には、ところどころに濡れた後が残っている。道路の脇には、ほんの少しだけ、白い塊が点在している。
 オレたちは歩いていた。日曜日の午後。生憎の曇り空で、太陽の冬とはいえ暖かい恩恵も今は無い。マフラーで固められた首元に、容赦なく風は侵入しようとしてくる。
 それでも、右手だけは温かかった。オレの右側に、少し俯いた様子で、顔をどことなく紅くしながら、オレの右手に左手をつないでいる少女。さっきから無言でいるので、こっちとしても中々困ってしまうが……それでも、今のオレは、彼女といるだけで充分満足だったりする。
 とは言え、やはりこういう状況ならば、こっちから何か喋らなくてはいけない。そう思い、視線をめぐらし、思いついたことを口にしてみる。
「……なんか、もう、クリスマス一色って感じだね」
 我ながら月並みな台詞だな、と言ってから損した。だが、その言葉に反応して、少し俯いていたその少女の顔が、オレと同じように辺りを彷徨い始める。
「……そうですね。本当です。……あはは……気付きませんでした」
 少女――椎名さんは、こっちを見上げてから、恥ずかしそうに笑った。前からオレは彼女よりも少し背が高かったが、最近では更にその差がついたように感じる。いつ頃からそんな感じだったかは、もう覚えていないが。
 オレも笑い返し、もう一度辺りを見回す。小さな店がいくつも並ぶ商店の店先に置かれた小さなクリスマス・ツリー。華やかに飾られたネオン郡。そして今オレたちが歩いている所からも見える、駅前の中央広場に置かれた、大きなツリー。そこにはいくつものイルミネーションが飾られ、夜になればきっと人々を圧倒するであろう美しさを、今この時点でも充分に想像できる。
「なんだったら、今度また、夜に来てみたいね」
「そうですね……そうなったら、帰るの遅くなっちゃいそうですけど……。両親は、そういうのうるさいですから……」
「冬だし、暗くなるの早いから、大丈夫だと思うよ」
「そうですね」
 他愛無い会話を交換し合い、柔らかな笑顔を互いに見せ合う。ただそれだけ。ただそれだけで、後は繋げられた手の温もりだけ。そこには、たったそれだけのものしかない。だけどそれだけで、充分だった。それだけが、最も価値を持つもので、それだけあれば、オレたちは充分すぎるほど幸せというものを感じることができた。
 オレたちの間に、再び沈黙が生まれる。スーツ姿のおじさんや、コートを着込んだ青年、楽しそうに笑い合う二人組の女子高生か女子中学生。そしてその他にも、オレたちの町やその周辺では比べ物にならないほどの多くの人々が歩いている。時にオレたちと並ぶように、そして時には逆流する川の流れのように、それらは活動する。道路上でパンフレットを配布する女性、携帯で何処かに電話しながら待ち合わせをしている男性3人組。噴水の近くのベンチで並んで座るカップル。そこには、様々な人々がいる。そんな人々の海の中で、オレたちもまた、確かにそこに存在していた。無言だけど、確かな意味のある、価値のある時間を共有しながら。
「あ、そうだ、志倉さん」
「ん?」
 楽しそうに笑いながら、椎名さんが声をかけてくる。
「ちょっと、ケーキ屋さんに寄っていきませんか?」
「ケーキ屋?」
 言うが早いか、握ったオレの手を引っ張って、駅前にある小さな、でも結構豪華な外観をしたケーキ屋へと引っ張っていく。
「ほら、もうクリスマスですよね? やっぱり、クリスマスパーティって、したいじゃないですか」
「そ、そうだね」
 いつもの彼女とはちょっと違った雰囲気に、オレは圧倒されながらも返答した。だけどオレたちはすぐにそこへと向かう事ができなかった。目的地は道路の向かい側にあるのに、生憎そこへと通じる信号が赤になっていたからだ。他の15人くらいの人々と共に横断歩道の前で立ち止まり、信号が青になるのを待つ。ここは駅前だから、中々信号が青になることはないだろうから、少し煩わしく思う。
「でも、クリスマスケーキなんて、特に人気のものなんて、もうすぐに売り切れちゃうじゃないですか」
「ああ、そうだね。そっか。だから今のうちに予約しておこうってことだね」
「ええ。もっとも、今でも遅い方なんですけどね」
 失敗しましたね、と笑う椎名さんの姿を見ていると、信号待ちごときで煩わしくなんか感じた自分が嘘のように消えていく。寧ろ、この人ごみの中で、信号なんて永遠に青になんかならず、ずっとこのままでいいのに、なんて考えていた。新聞を広げて立っている中年のおじさん。おそろいのコート、おそろいのマフラーでくっついているカップル。みんなみんな、このままでいい。このままの風景で、このままでいたい。そんな思いを抱きながら、信号を睨みつける。それはやがて、青へと変わる。
 止まっていた世界の動きが再開する。こっちからも、あっちからも、人々の波がせわしなく動き始める。車のクラクションの音が響き、視界の端でごうごうと唸りを上げて動き始める。相変わらず空は曇りだけど、そんなことを忘れさせてしまうくらいに、世界は活動的だった。
 ケーキ屋の前へとオレたちは辿り着く。店内からBGMが流れてきている。やはりお洒落な店内だ。さ、入りましょう、という椎名さんの声がする。
 椎名さんの声がする。
「……志倉さん?」
 椎名さんの声が、した。
 オレは、はっとして彼女の方を向く。彼女は驚いたようにオレを見上げていた。
「……どうしました? 大丈夫ですか?」
 不安そうに聞いてくる彼女。それでオレは気付いた。ああ、そうだ。何をやっているんだろう。入ろう、と声をかけられたんだから、何をぼうっとしているんだ。
 そう自分に言い聞かせ、彼女と一緒に店内に入る。甘い匂いが鼻をつく。BGMの音量は大きくなる。それらは全て耳へと入る。オレの脳内へと入り込む。オレの思考はかすんでいく。
 そんなオレに気付いていて不安そうにしつつも、本質には気付いていないように、彼女は早速残っているケーキの物色を始めていた。だけどオレには、それに参加する余裕なんて何処にも残っていなかった。
 店内に流れるBGM。店の外の喧騒を全て遮断するかのように流れるBGM。それは酷くゆったりとしていて、ノスタルジックな感情を奮い起こすようなメロディ。
 それは、夏の歌だった。
 それは、初夏の歌だった。
 それは、こんな冬に、こんな時期に、こんな今更の時間に、流されるべきではなかったBGM。
「……志倉さん?」
 再び椎名さんが呼びかける。
 だけど今度は、オレに、返答するなんていう選択肢は無かった。
 オレは無言で、立ち尽くしていた。
 店内に流れるBGM。
 男性ヴォーカリストの中性的な声が、切ないメロディに乗って静かに歌い上げている。
 そんな、初夏の歌。
 オレは、その歌に、とてもとても、聞き覚えがあった。



 遠くに見える空 流れる雲達
 僕はただ独り 追いかけ続けて
 アスファルトに転んで 膝を擦り剥いて
 それでも僕は 立ち上がった



「あ……」
 それはどんな感覚だったろうか。
 パズルのピースが全て揃ったような、感覚?
 いや違う。
 最初からピースは揃っていた。
 それなのに、オレはそのことに気付いていなかった。
 そして、ふと、そのことに気付いた、そんな瞬間の感覚。
「あ……」
 それだけしか言葉を漏らせない。
 なんで今まで気付かなかったのだろうか。
 もうとっくにパズルは完成していたのに。
 どうしてオレは、そのことに早く気付かなかったのか。
 早く、気付いてさえいれば……。
 もしくは、一生気付くことがなかったのならば……。
 こんな、こんな思いを生み出すことなんて無かったのに。
「志倉さん……?」
 椎名さんの声。
 オレは焦点を合わせる。
 彼女の不安そうな表情。
 それは確かに、オレが一番好きな少女の顔。
 だけど、だけど……。
 初夏の歌は流れていく。
 オレの、大切な、想い出のメロディ。
 失われていた初夏の記憶を呼び覚ます、たった一つのメロディ。
 そうだ。
 そうだった。
 思い出した。
 全て、この初夏にあった。
 オレは……
 オレは……思い出してしまった。

「……志倉さん……」

 震える声。
 震える肩。
 震える表情。
 オレの一番好きな少女の顔が、そこにある。
 オレはそれなのに、
 そんな不安そうな表情を浮かべる彼女を、
 抱きしめたり、優しい声をかけたり、笑いかけてあげるようなことが、できなかった。
 オレはただ、
 何も出来ず、
 ただ震える瞳で彼女を見据えることしかしていなかった。

「志倉さん……」

 椎名さんの声が紡がれる。
 その店内には他に客の姿はなかった。
 だけどレジに座る店員が、怪訝な表情でこちらを見ていた。
 だけど、そんなことを気にしている余裕なんて無かった。
 ただオレは彼女を見つめていた。
 ただ彼女はオレを見つめていた。

「…………志倉……さん……」

 椎名さんは強くオレを見据える。
 そして、小さな唇を開き、言葉を紡いだ。



「……記憶、戻ったんですか……?」





 なんで彼女はそのことに気付いたのだろうか。
 わからないけど、もう無理にごまかそうとしても無駄だということはわかっていた。
 じゃあ、なんて答えればいいのだろうか。
 オレは今、なんて答えればいいのだろうか。





 白状しよう。
 心の中で吐露しよう。
 決して言葉にして空気に伝えることなんてできないけれど。
 心の中で、正直に告げよう。



 この店内にかかる、初夏のメロディ。
 それを耳にして、オレの中に甦った記憶たち。
 その中で、一番最初に生まれた映像。
 それは、





 ――那美、という名の少女の笑顔。










 誰も彼も悪くなくて
 誰も彼も優しすぎて
 たくさんありすぎる正しいこと
 僕は自分を呪い続ける






to be countinued to chapter.12...



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