私と智也の想い出の場所、噴水のある公園。
 そこで、私は智也に想いを告げられた。
 智也の親友と、彼の大切な人の想い出の場所、噴水のある公園。
 そこで、稲穂君は音羽さんに想いを告げた。
 この噴水のある公園で、彼は音羽さんに抱き締められて、『大丈夫だよ』そう言われた。
 かつて、智也が唯笑ちゃんにそう言われたように。
 智也が私の所に来てしまった、紅の翼を手に入れてしまったバレンタインのあの日。
 私と稲穂君は、私達の使命の終焉と、願いの成就を見届けようとしていた。
 希望という名の灯火が、燃え上がろうとするその瞬間を、見届けるはずだった。
 そして、私と彼は、何一つすることもできず、ただ悪夢を目の当たりにしていた。
 ただ、絶望した。 
『Merry X’mas……』恋人達の為の夜。
 誰の目にも映ることはなく、静かにその夜を見守るべき私の所に、一本のシャンパンと共に彼は来てくれた。
『雨は、いつ上がる?』私の、唯笑ちゃんの気持ちを代弁したそんな一通の手紙。
 ただ見守ることしか出来ずにいた私に代わって、彼はそっと智也を支え続けてくれた。
 私達三人のことを、いつだって考えてくれていた。
 稲穂信、私の知る彼はそんな人だった。
 彼と私が始めて出会ったのは、全ての音という音を呑み込んでしまうかのような、叩き付けるような雨音が響き渡っていた、昼というのが嘘のようだったあの日。
 智也にだけ教えてあげた、私のお気に入りの白い傘。
 そんなお気に入りに相応しいお天気の到来に、私は一人で有頂天になっていた。
 そんな時に掛かってきた、一本の電話。
『傘、持ってきてくれないか?』
 さすがは智也♪私は智也に感謝した。
 待ちに待った、この傘をお披露目できる日。
 どうせ使うなら、お母さんのお使いとかなんかでは使いたくなかった。
 どうせなら、そう、恋人を迎えにいく優しい少女、そんな役回りが良かった。
 私は、鼻歌交じりに家を出る。
 まずは智也の家に寄って、智也の、私のそれよりちょっとだけ大きな黒い傘を取る。
 智也に想いを告げてもらった時に着ていた、あの時の白いワンピース。
 ちょっとだけこの季節には寒いけど、お気に入りの傘とお気に入りの服。
 白い傘に白いワンピース。
 我ながら、悪くない組み合わせだと思えた。
 きっとこの降りしきる雨に良く映えていると思う。
 でも、私はちょっとだけ心配だった。
 智也はこういうのに鈍感だから。
 白いワンピースを見て、『なんだかずいぶん寒そうなかっこうだな?』なんて言われたらどうしよう?
 それより、傘の色が変わったからって、私のことに気がつかなかったらどうしよう?
 そんな、必要のない心配をしながら、それでも上機嫌に通い慣れた学校への道を歩いていった。
 ふと、気がつけば、すぐ先には交差点。
 学校へ行くには、ここを渡って後もう少しなのだけど……
 横断歩道のすぐ脇に、一つの傘があった。
 それは、私が持つ智也のそれに良く似た、何の飾りっ気もないありふれた紳士用の黒い傘。
 その空間にわだかまる様に、その傘はそこにあった。
 特に気にするでもなく、私はその横をゆっくりと通り過ぎて往く。
 刹那、私の視線と傘の主、同年代くらいの男の子の視線とが絡まりあう。
 だがそれは一瞬、瞬きするかしないかの時の経過と共に、絡まりあった私と少年の視線とが解き放たれる。
 何故だろう?
 少年は、今にも泣き出してしまいそうな、哀切に濡れた瞳をしていた。
 それはまるで、捨てられることを理解していながら、それでも自分を捨てようとする主人を恨みきれないでいる、そんな子犬のような哀しすぎる瞳だった。
 彼の瞳に灯る哀しみ、諦め、悔恨、それらのない混ぜになった、やるせなさ過ぎる感情、その感情の正体が何なのか、その感情に相応しい呼称とは何なのか、その時の私には知る由もなかった。
 ただ、もうすぐ私に向けられるであろう、私の一番大好きな人の微笑みを思い浮かべて、私は微笑んでいた。
 にっこりと……
 そして、少年とすれ違ったその直後。
 鈍い衝撃に襲われ、白い傘がくるくると宙空で廻りながら舞っているのを見て、私の意識はこの世界から消えた……
 次に私が目覚めた刻、私は黒く冷たいアスファルトの上に倒れていた。
 私の体はピクリとも動かなかった。
 ただ、ひたすら雨に打たれていた。
 路面の水を吸った白いワンピースが、重たげに黒っぽくなっていた。
 それどころか、どこからともなく溢れ出した赤い液体が、お気に入りのワンピースをどうしようもない位に汚していた。
 赤い液体は、ぐんぐんとアスファルトの上に広がっていった。
 広がってゆく赤いラインを目で追いかけてゆくと、その先に一つの傘があった。
 それは、私のもう一つのお気に入り。
 昼というのが嘘のような、今日のこの日の為にとっておいた、私のとっておきのお気に入り。
 だが、その傘もまた、べったりとした濃い赤色でひどく汚れてしまっていた。
 私は思わずがっかりしてしまった。
 これじゃあ、智也に見て貰えないよ……
 そして、不意に気がついた。
 智也?
 そう、智也、智也に、傘を届けに行く途中だったんだよ、私。
 行かなきゃ、私が行かないと、智也、帰ってこれないよ。
 ずっと、ずっと、私のこと待ってなきゃいけないじゃない……
 さぁ、行かなきゃ、行かなきゃ……
 行かなきゃ……行かなきゃいけないのに……なんで、なんで……?
 なんで……動かないの?私の体……
 ほら、動いてよ。
 いつもみたいに動いてよ。
 私がいなかったら、智也だって困っちゃうでしょ?
 ねぇ?動いて?どうして動いてくれないの?
 朝、智也を起こさなくちゃ……
 智也にノート見せてあげなきゃ。
 智也に、この白い傘を見せてあげなきゃ。
 智也に、智也に……
 ね、ねぇ?そうでしょ?そう、だよ…ね……?
 でも、私の体は動かない。ピクリとも動かない。
 動くのは、赤い液体の波紋だけ。
 赤い液体は、どんどんと染み出していった。
 私の体の、どこにこんなに入っていたんだろう?
 そんな疑問が浮かぶほどだった。
 不意に、白い傘のその向こうに、別の影が見えた。
 それは、白ではなく黒い傘。
 闇のような漆黒の傘。
 その傘の下には、小刻みに震える小さな肩と、物言わぬ小さな背中とがあった。
 その双肩の主は、何をするでもなくただその場に立ち続けていた。
 何をしているのだろう?そんなどうでもいいような疑問が、朦朧とする意識の中に一瞬だけ掠めて消えていった。
 やけに小さく見えるその背中から、白い傘へと視線を戻した私は、やがてそのまま何も考えられなくなっていった……
 …………?
 長いような短いような時間が流れたその後に、何かが聞こえた気がした。
 それは、サイレンの音だった。
 その音がどんどんと膨れ上がるように大きくなり、あまりのうるささに耳でも塞ごうかと思ったその瞬間、その音はぴたりと止んだ。
 その直後、荒々しく扉の開かれる音。
 ぱしゃぱしゃという多数の水の跳ねる音に、耳障りな金属同士の接触音。
「おら、急げ!もたもたすんじゃねぇ!!」
 やがて、私の体が何かの台に乗せられ、白い車に運び込まれ、そしてその場を去っていった。
 後に残されたのは、白い傘と黒い傘。
 白いという形容よりも、赤いという方が相応しかったその傘は、今は再び白い傘という方が相応しくなっていた。
 アスファルトの地面も、ところどころに赤い染みを残す程度に戻っていた。
 そんな中、道路に転がったままの白い傘は雨に打たれ続け、いつの間にかこちらに向き直った黒い傘の少年は、ただ沈黙していた。
 誰も何も言わず、ただ叩きつけるその雨音だけが世界を満たしていた。
 それから程なく、雨音の中に微かな雑音が混じり始める。
 苦しげな息遣い、踏み抜かれ弾け飛ぶ水溜り。
 激しい雨音の中、随分先でしているはずのその音が、私にはなぜかはっきりと聞こえた。
 やがて……
「…………ッ!!!」
 現れたのは独りの少年。
 どこにでもいるような、私や、黒い傘の少年と同じ年頃の少年。
 よろよろと、何かに導かれたかのように、夢遊病者のように、路面に転がる白い傘へと歩み寄っていった少年。
 少年の喉が鳴った。
 擦れ気味な声が、切れ切れに聞こえてきた。
「あ、あや…か……?」
 智也、この傘、覚えてくれてたんだ……
 私は、思わず嬉しくなってしまった。
 だが、智也の膝はがくりと崩れ落ちた。
 智也?どうしたんだろう?
 背後から智也に、私は静かに歩み寄った。
 智也は、白い傘を抱き締めていた。そして、そんな智也の肩に、私はそっと手を置いて……
 ……すり抜けた。
 え?
「彩花……彩花…………」
 智也が呟いていた。
 言い様のない焦燥感が、不気味に湧き上がってきた。
 不安を打ち消そうと、私は愛する人に呼びかけた。
『智也?智也?智也ったら、ねぇ、智也!!?』
 だが、私の叫びが空気を震わせることはなく、肩に掛かるはずの手はすり抜けてしまった。
 私の足も、髪も、身体の全てが、智也に触れることが出来なくなっていた。
 触れてもらうこともできなくなっていた。
 どうして?どうしてなの!?
 私はここにいる。ここにいるのに。どうして?これじゃぁ私、まるで……
 そして、始めて私は気がついた。

『私の体が何かの台に乗せられ、白い車に運び込まれ、そしてその場を去っていった』

 あれは?あれは、何?あの、あの台の上にいたのは、あれは、アレは……
 じゃあ、何?何なの?私、私は、今、ここにいる、この私はッ!!
 私は、無我夢中で智也を抱き締めようとして、自分の両手で、自分の両腕を抱いた。
 その私の身体と重なり合うような形で、触れ合うどころか、言葉すら交わすことも出来ないのに、まるで私と一つになっているかのような智也が、白い傘を抱き締めて私の名を絶叫していた。
 その時、私と私の中の智也を包み込むようにあった白い翼を目の当たりにして、ようやく私は全てを理解していた。
 この翼が、他の誰でもなく、私のものであることを……




「……ッ!!!」
 ひどいしわがれ声の絶叫で、彼は朝の目覚めを迎えた。
 彼は、その身をゆっくりと起こした。
 そして知る。
 先程の、醜い老婆のような絶叫が誰の上げたものであるかを……
 彼は顔を伏せ、全てを否定するかの如く両手で顔を覆った。
 だが、彼の涙は既に枕に根こそぎ吸い尽くされてしまっていた。
 彼には、泣くことすらも許されてはいないのかもしれない。
 神無月。
 神のいない季節。
 彼にとって、最も相応しい名称であろう季節。
 そんな季節の、ややもすれば薄ら寒さすら感じられる朝。
 老婆のそれよりもまだ陰鬱で、どこまでも疲れきり絶望したしわがれ声が、声にならない悲鳴となって彼の部屋を包み込んでいた……




Memories Off Nightmare
第二十三章「千々に乱れし想いの欠片」
 Produced By コスモス










「智ちゃん、彩ちゃん、おはよう〜」
 小さくいつもの挨拶をしてから、唯笑は智ちゃんのうちと彩ちゃんのうちの前を後にする。
 登校前のいつもの日課。
 智ちゃんがいなくなって、唯笑が無理に笑っていようとしていたのを、信君に怒ってもらってからの習慣。
 二人は、いつだって唯笑の隣にいてくれる。
 唯笑は一人じゃない。
『おはよう、唯笑。遅刻すんなよ?』
『唯笑ちゃんおはよう。今日もがんばってね』
 そんな声が聞こえてくるような気さえしてくる。
 だから……
「うん、いってきま〜す!」
 そうにっこりと、唯だ笑ってから唯笑は歩き始める。
 登校前の、もう一つの日課を果たすために。
 
 ピンポ〜〜ン。
 いつもの玄関でいつものチャイムを鳴らす。
 やがてほどなく聞こえてくる足音。
「あら?今日は随分早く来てくれたのね」
 そう言って、どことなく気不味げな顔を見せたのは、信君のお姉さんだった。
「あ、はい。今日信君、クラス当番なんですよ」
 信君が退院してから、毎朝信君を迎えに行くのが唯笑の新しい日課になっている。
 このお姉さんとは、入院時のお見舞いなどですっかり顔なじみになっていた。
「あ、そうなの?あの、悪いんだけど、信、まだ寝てるのよ」
 そんなわけで、いつもは疲れた表情なりに、それでも笑顔で唯笑を迎えてくれていた。
 でも、今日はその笑顔がどこかぎこちない。
「今、起こして準備させるから、ちょっと表で待っててもらえないかな?」
 どうか……したのかな?
 お姉さんの表情が、なんとはなしに気になって仕方がない。
 ん?
 今どこかで、ちっちゃく風の鳴るような音がした?
 唯笑の気が、そちらに一瞬だけ逸れると、その瞬間にお姉さんが言った。
「ほら、じゃぁ、起こしてきちゃうから、表で待っててあげてね?」
「あ、はい」
 我に返って振り返り、玄関を後にしようとする。
「ま、待って」
 そこで小さな声に呼び止められる。
 そう言ったのはお姉さん。
「……?」
 お姉さんの緊張が、今度ははっきりと分かった。
「あの……ね?見て、欲しいの」
 何を言っているのかわからなかった。
「信を、弟を……私の大切な弟を見てあげて欲しいの……」
 そう言うお姉さんの瞳は、どことなく後ろめたそうだった。
「来て……」
 嫌な予感がした。とても嫌な予感が……

 カリ…カリカリ……

「……?」
 玄関から廊下に上がった所で、そんな音がした気がした。
 お姉さんには聞こえなかったようで、無言で階段を上っていく。

 カリカリカリカリ………

 また、そんな音がした。
 今度はもう少しだけはっきりと。
 冬の裏路地に響く、風切り音のような甲高い音と共に……
「………………」

 そして、目の前には一枚の扉。
 何の変哲もない、木で作られた、ドア。
 成人者の腰の辺りの高さには、鍵の付いていないただのドアノブ。
 その前で、お姉さんと唯笑は沈黙していた。
 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。
 そこに静寂はなかった。
 もう、何もかもが分かってしまっていた。
 なぜ、お姉さんが気不味そうだったのか。
 なぜ、風の鳴るような音がしたのか。
 なぜ、お姉さんに呼び止められたのか。
 なぜ、お姉さんが物音に全く反応しなかったのか。
 なぜ、この扉を開いてしまうことに後ろめたさを感じずにはいられないのか。
 唯笑とお姉さんは、牽制しあうかのように見つめあい黙りこくる。
 部屋の中の猫が、出して出してと騒いでいるかのような物音だけが続き、時折それに、冬の裏路裏を駆け抜ける風の悲鳴、甲高くひどく耳障りな音が混じる。
 お姉さんが、ゆっくりと言い直す。
「見て……あげて欲しいの。あの子を」
 そして、ドアノブに手が掛けられた。
「可哀想な、あの子を……」
 ドアノブが小さな音を立て、ゆっくりと回り……
 ぶんっ、と空気を押しのけるような音がして、内側から凄い勢いでドアが押し開けられる。
 それと同時に、膝立ちになってドアを引っ掻いていたであろう人影が、倒れ込むように廊下に出てきた。
「信ッ!!」
 耳障りな甲高い悲鳴を上げるその人影を、抱き止めるような形でお姉さんが廊下に屈み込む。
「………みんな…」
「信、大丈夫だよ!お姉ちゃんはここにいるよ!?」
「死んじゃう……みんな死んじゃう……」
「もう、誰もいなくなったりしないから!!」
「ボクが、ボクが……みんな、みんなコロシて……!!」
 吼えるように、そう叫ぶ信君。
「ほら、今坂さんが迎えに来てくれてるよ?」
 唯笑がそこに立っているのにようやく気が付いた信君のその目は、唯笑の知らない目をした信君だった
 唯笑は何も言えなかった。
「早く着替えてご飯食べなきゃ、ね?」
 寝ている間に涙を流し過ぎたのだろう。
 目が真っ赤になっているし、その涙に濡らされた髪も凄いことになっている。
 暴れ馬かのような荒い鼻息が、それでも少しずつは治まっていく。
 まるで、いつかの智ちゃんを見ているようだった。
 あんな光景は二度と見たくないと思った。
 まるで、いつかの自分を見ているようだった。
 あんな思いは二度としたくないと思った。
 でも、今の信君は……
 きっと、信君はこの後火が消えたみたいに静かになるんだと思う。
 ううん、絶対にそうなる。
 悪夢が終わって目が覚めても、結局自分が悪夢の中にいることに変わりはなくて。
 どっちが夢でどっちが現実なのかが分からなくなって、分かりたくなくなって。
 何もかもがわけが分からなくなってしまう。
 きっと、信君もそういう感じなんだと思う。
 そうに決まってる。だって、唯笑と智ちゃんもそうだったから……
 ふと気がつけば、信君を抱き締めて目に涙を溜めたお姉さんが、信君の肩越しに唯笑をじっと見詰めていた。
 お姉さんの物言いたげな瞳は、どんな言葉よりも分かりやすかった。
 だから唯笑は、思わず目を逸らしてしまう。
 にっこり笑ってあげたかった。
 気休めでもいいから、『大丈夫ですよ』って言ってあげたかった。
 それだけが唯笑にしてあげられることだったから。
 でも、唯笑は知ってしまっているから。
 お姉さんの気持ちも、信君の気持ちも。
 だから、唯笑には……




「詩音ちゃん、おはよう〜〜」
 朝のざわめきに包まれた教室。
 その中で、詩音に掛けられる一つの挨拶。
「今坂さん、稲穂さん、おはようございます」
 その挨拶と共に、無秩序だったざわめきに流れが生まれてゆく。
 潮が引くように、詩音達の周りから遠ざかってゆく。
 そして、彼女達は、ざわめきの中にあって静寂に包まれる。
「詩音ちゃん、なんだか今日は随分涼しかったねぇ〜〜」
 このクラスのメンバーの間では、以前にも同じ様な光景が展開されていた。
 誰かが亡くなり、その近しい人が哀しみに暮れる時、誰も彼もが気を使おうとして、でも結局どうしてもいいかわからずに、ただ戸惑い浮き足立つばかりで何の役にも立てずにいる。
 そんな、善意の空回りが毎回展開されている。
「もう、10月ですからね」
 そんな中で、信は必要最低限以外の受け答えには一切反応せず、ただ唯笑と詩音の会話を聞くばかりだった。


 キ〜〜ン、コ〜〜ン、カ〜〜ン、コ〜〜ン……
「俺は……どうしたいんだろうな……」
 信の独白が、秋風に吹き流されては消えていく。
 退院し、再び登校するようになった信にとって、ここは格好の潜伏場所となっていた。
 チャイムが鳴るたびに、皆の視線から逃げるように、この屋上へと足を運んでいた。
 信はそっと右袖をまくってみる。
 そこには生々しい大きな傷跡が残っていた。
 医者の話では、またこうして自分の思うままに動かせる所まで回復するとは、手術を執り行った誰もが予想し得なかったとのことだった。
 文字通り不幸中の幸い、どうしようもない不幸の中の、せめてもの救いといった所なのだろう。
 だが、腕がまた動くからなんだというのだろう?
 信はそう思わずにはいられなかった。
「どうして、俺は……」
 意識を取り戻してしまったんだろう?
 その何度も問い返した疑問がまたも頭を掠め、信はついつい苦笑を漏らしてしまう。
 周りの人間がどれほど自分のことを心配してくれていたか、そして今もどれだけの心配を掛けてしまっているか。
 それが分からないほど信は鈍感でもなければ、恩知らずでもなかった。
 だから、信は苦笑してしまう。
 自分のあまりの恩知らず加減に。
 自分のあまりの無責任さに。
「本当に、俺はどうしたいんだろうな……?」
「そんなの、決まってるじゃないですか?」
 信が振り向いた先に立っていたのは、その幼い顔に真剣な表情を浮かべた小柄な少女だった。
「みなも……ちゃん…」
 信の顔に浮かぶ複雑な感情の波。
 その顔に、みなももたじろいだような、後ろめたいような、そんな表情を一瞬だけみせる。
 だが、それはあくまで一瞬。すぐにそのわずかな動揺も真剣な表情の裏に隠される。
「稲穂先輩。先輩は唯笑ちゃんを助けたいんですよ。
大切な幼馴染を失った悲しみに暮れる唯笑ちゃんを、自分のせいで稲穂先輩が苦しんでいると思っていしまっている唯笑ちゃんを、助けてあげて支えてあげたいと思ってるんですよ。でなきゃ……」
 そこまで言って、みなもは口を紡ぐ。
 そんなみなもを、何とも言えない表情の信がじっと見つめる。
 涼しさを通り越し、冷たさすら帯び始めた秋の風が、二人の頬を撫で上げては過ぎてゆく。
 秋晴れの空の下、二人はじっと見詰めあう。
 やがて……
「でなきゃ……なんなんだい?」
 そう尋ねた信に、みなもは長い沈黙の後、小さく先の言葉を続けた。
「還ってこられるはずがありません。あの子のところから……」
 そう答えたみなもに、今度は信が沈黙を返した。
 秋風が吹き抜ける音ばかりが二人の耳に届いていた。
 二人は沈黙し続ける。
 秋風の合間に、チャイムの音も届いてはきたが、二人ともピクリともしなかった。
 長い沈黙を破ったのは信だった。
「どこまで、知ってるんだ?」
「この前、話した事を覚えていないのですか?」
「この前?」
「稲穂先輩がこちらに還ってくる直前の、墓地の時のことです」
「……ごめん。あいつがいなくなってからのことは、記憶が凄い曖昧なんだ」
「そうで……え?
あの時のこと……覚えてないんですか?」
「墓地で何かを語りかけてくれてたのは覚えてるよ。ありがとう。」
「じゃ、じゃあ、あとひと……」
 そこまで言って、みなもは口を閉ざす。
 みなもの顔に逡巡の色が浮かんでは消えていく。
 何度か口を開きかけては結局、その口を金魚のようにパクパクとさせるだけでしかなかった。
 そして、みなもが選んだのは沈黙だった。
「何を、言ったんだい?」
 問う、信。
「…………なんでも、ないですよ」
 隠す、みなも。
 立場は完全に入れ替わっていた。
「いや、それ以前に、何故あの子の事を君が知っている?」
「……………………」
「何故だ?どういうことだ?唯笑ちゃんなら分からないでもない。
百歩譲って双海さんでも納得しよう。
でも、どうして君なんだ?みなもちゃん、君は……?」
「……………………」
「関係……あるのか?
君も……俺の夢の、登場人物なのか?」
「……………………」
 みなもは何も答えはしなかった。
 だが。
「そうなのか?そう……なんだな?」
 この状況での沈黙、それは肯定を意味して十分に余りあった。
「失礼します」
 そして、みなもは結局何一つ答えることなく、信の横をすり抜けて屋上を去っていった。
 歩み去るみなもの顔に表情はなく、その胸中を窺い知る事はできなかった。
 そうして屋上に残されたのは、苦悩の表情で金網のフェンスを握り締める信と、貯水タンクの陰で揺れる、銀色の長い髪だけだった……




「……………………」
 ガードレールに歩道側から腰を預けながら、雑踏のざわめきに信は一人耳を傾けていた。
 夕暮れのメインストリートで、花束片手に風に吹かれる信は、はっきりいって浮いていた。
 信自身そのことに多少の自覚はあるらしく、どことなく気恥ずかしそうではあった。
 そんな心境からか、あるいは手持ち無沙汰からだろうか?
 その香りを確かめるかのように、手にした花束にそっと顔を寄せたりしていた。
――うわっ、何恥ずかしいことしてるのよ!?――
「いや、香りを間違えたりしてないかな〜〜って」
 背後から突如掛けられた姿無き声に、信は少しも驚くことなく、振り向かずに応じる。
――香り?――
「そ、やっぱ柑橘系は桧月さん専用だからね」
――なるほどね。テーマソングみたいなものね?――
 そう言いながら、声の主もまた、車道側からガードレールに腰掛けた。
 ガードレール上で、寄りかかりあって触れ合う背中と翼。
 一瞬だけ、複雑な表情が少年の顔をよぎる。
――振り向いちゃダメよ?――
「わかってるさ」
 そして二人は沈黙した。
 話すことがなかったのではなかった。
 ただ単に、言葉にする必要がなかっただけだった。
『久しぶり、かおる』
『そう?私的には、いつだって一緒にいるつもりなんだけどね♪』
『ハハッ、そうだったっけ』
『ところで、この背中、どうやってるんだ?桧月さんには触れられなかったぞ?』
『別に本当に触れてるわけじゃないけど……そんな細かいことはいいじゃない。
私達は背中と背中で触れ合ってるの。私はそう思いたいんだから、そういうことなの、わかった!?』
『まぁ、わかったけど……相変わらず強引だな、かおるは』
 苦笑を漏らす信に、同じく苦笑を返しながらかおるが答える。
『ほっといてよ。で?こんなところでいじけて、何やってたの?信は』
『全部わかってるくせに、随分と意地悪なんだな?』
『そう?』
 クスクスと漏れる忍び笑い。
『はぁ、かおるは変わらないな』
『信は……変わちゃったの?』
 沈黙の中に、さらに静寂が溢れ返ってゆく。
 二人して、しばし雑踏のメロディーに意識を集中させる。
 そして、しばらくの後。
『そんなことはないさ』
 信はそう答えた。
『そうだよね。ただ、ちょっと怖くなっちゃってるだけなんだよね?信は』
『……そういうことは、面と向かって言わないでくれよ』
『別に背中合わせなんだから、面と向かってるわけじゃないでしょ?』
『そういう問題じゃないだろうに』
『フフフフ』
『でも、そうだな、俺は変わっちゃいないんだよな』
『唯笑ちゃんを助けたいんだよな、俺は』
『……でも、怖いの?』
『ああ、怖い』
『…………』
『怖いんだ』
『…………』
『どうしようもなく、怖いんだ。俺は……』


「智ちゃん、唯笑、来たよ?」
 唯笑は、物言わぬ墓碑にそう声をかける。
 その墓碑には、『三上家之墓』こう銘打たれていた。
「…………」
 ここは、この街で最も太陽に近づける場所。
 暮れゆく夕日を、誰よりも最後まで見送れる場所。
 その場所で、花を供え、線香をあげ、唯笑は目を閉じ手を合わせていた。
「…………」
 沈みゆく太陽から投げ掛けられるオレンジ色の光が、大きな神木から長い長い影を生えさせていた。
 墓碑が、花束が、少女自身が、大地の全てが紅に染まっていた。
 線香から立ち上る一筋の煙さえもが紅だった。
――よう、唯笑――
「…………」
――…………――
「智ちゃん?」
――なんだ?――
「唯笑、信君の支えになってあげたい」
――……いきなりだな?――
「唯笑は知ってるから。信君の今を……」
――そうか――
「でも」
――怖いのか?――
――知ってるから、分かってるから、怖いのか?――


「次がないと……誰が言い切れるのさ?」
 信は敢えて空気を振動させ、肉声としてその現実を吐き出す。
「今度こそは大丈夫、そんな都合のいい……」
――ことは誰も言えないよね――
 信の言葉を、かおるが途中から引き継ぎ言い切る。
「……そうだ。いや、むしろ今度もそうなるに決まってる。
なのに、それなのに……同じ過ちを繰り返すなんてことが、できると思うのか?」
――繰り返すんじゃないかな?それが『過ち』だって言うんなら……――


――いいか、唯笑。確かに俺達は死んだ。ひょっとすると、それはお前のせいなのかもしれない。でもな?それは『過ち』だったのか?――
「え?」
――あのまま、彩花のことに縛られたまま、唯笑とすれ違ったまま生きていて、それで俺は幸せだったのか?それ以前に、すれ違ったままだとしても、それでも結局何か別の事故にあってた可能性だってあるわけだろう?――


「そんなの、仮定の話に過ぎない」
――信の言ってる可能性だって、仮定の話でしょ?――
「……………………」


――大事なのは、結果じゃないんだ――

「でも、それでも死んじまったら何もかもがお終いなんだぞ!!」

――あの時、私は幸せだった。慰めでもなんでもなく、確かに幸せだった――

「でも、でも……二度と会えなくなっちゃうんだよ!?智ちゃんも彩ちゃんも唯笑の隣にいてくれてるけど、それでも唯笑は、生きてて欲しかったって思っちゃうよ!?」

――それ、どういうことを言ってるのか分かってて言ってるの?あのどうしようもない宙ぶらりんの状態のままでいろって、私にそう言ってるのよ?――

「それは……」

――あんなことになっちまったが、俺は今でも、彩花を愛したこと、唯笑を愛したこと、どっちも後悔なんかしちゃいない。お前は、後悔してるのか?――

「そ、そんなことないよ!ない、けど……」

――迷わないで、信!私達の死は、意味のないものなんかじゃない。私達は精一杯生きれた。だから、こんな結果だけど後悔だけはしなかった!そうでしょう、信!!?――

「……………………」

――俺達三人は、いつだって絶対に一緒なんだ。
だからお前は、唯だ、笑っていられるんだ。違うのか、唯笑!?――

 昼と夜の境目のその刹那。
 ガードレールに腰掛けた少年と、墓碑の前にかがみ込んだ少女とが、同じ街の同じ夕焼けの空の下で、その両の眼を閉じ瞑目にふけっていた。
 長い長い沈黙の後、やがて、二人はゆっくりと瞳を開いた。
 そして、それぞれに己の想いを噛み締めるかのような呟きを、秋風の中へと流し込んだ。
 少女は囁く。
「唯笑、きっと支えてみせるよ。信君を……」
 少年は呻く。
「そんなに俺は…強くないんだ……」
 一つの同じ問いがあった。
 だが、辿りついたその答えは……






>>二十四章へ




あとがき

 ども、皆様こんにちは。コスモスです。ここに、メモオフナイトメア第二十三章「千々に乱れし想いの欠片」をお届けしまっす♪さてさて、本章では、最近影が薄くなりつつある桧月彩花嬢のラストシーンから始まった冒頭部が、やったらと長くて冒頭と本文とどっちがメインやねん!!とか突っ込みを入れたくなるような構成でしたが、智也とかおるのラストに比べるとあまりにサクッと流され過ぎてて可哀想だなぁ、というのと、ちょっとした構成上の不都合と、個人的な趣味から、唐突に信の夢という形で回想させてみました。個人的には結構好きな感じに仕上がったのですが、正直、あんまり感動!!感涙!!彩花ぁ〜〜〜!!って感じにはなり難いかもしれません。痛いなぁ、というのは感じて貰えるのではないかなとは思いますが。
ところで最近常々思うのですが、私の感性って、どこか人とずれてますね。いや、そりゃ、普通の感性ってなんだよ?とか突っ込まれると困りますが、単純に、墓場のある風景って皆さんどう思われます?やっぱ、ちょっと引いちゃいませんか?実は、私はその逆だったりして(^^; なんかもう、お墓のある風景ってもの凄い好きなんですよね。そりゃ、お墓の隣の敷地に住め!!とか言われたらさすがにげんなりしちゃうとは思いますけど、車窓の風景とかで、大きな霊園とか、山間のちょっとしたスペースにひっそりとある墓とか、住宅地の中に出てくる唐突な墓地とか、いずれにしろなんか惹かれるんですよね。このナイトメアで墓地の描写が多いのも偶然ではありません。まぁ、これを書いてて余計に好きになったという面もあるのですが、やっぱお墓はいいです。ね、おかしいでしょ?(爆 
そんなわけで、なんかいい加減このあとがきにも次章以降のネタばらしくらいしか書くことが思いつかなくなってきましたので、なぜかお墓トークを展開してみたのですが、ホントに唐突かつ意味不明ですな(^^;
さてさて、それではいい感じに紙面も埋まってきましたので今回はこの辺で。おそらく次章が準決勝くらいになるのかなぁ?という風に踏んでおりますが、いずれにしろいよいよクライマックス直前です。それでは皆様、次はメモオフナイトメア第二十四章「前夜祭」(仮)でお会いしましょう!!(^o^/~~~~~ 



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