親愛なるフィンランドのお父様へ。 |
16 November 2002 |
おはようございます、お父様。詩音です。 日本はようやく風の冷たさが本格的になって、次第に日が短くなってきています。 そちらはどうでしょうか?もう、ほとんど日は昇らなくなってしまっているのでしょうか? それとももう既に、朝の訪れない無限の夜の季節なのでしょうか? ふふふ、無限の夜の季節、我ながら詩的な言葉ですね。 でも、この言葉、正確に言えば間違ってますね。 フィンランドの高緯度地方でしたら、確かに冬の間はずっと日が昇らなくなって夜が続きますけれど、それでも、春になればまた日が昇ります。 明けない夜なんて、ありませんから。 明けない夜なんて……ありませんよね……? この前の手紙にも、その前の手紙にも、その前の前の手紙にも書きましたけれど、私の仮面を取ってくださった三上智也さん、三上さんが愛した今坂唯笑さん、三上さんの親友の稲穂信さん、そして稲穂さんが愛された音羽かおるさん、この四人と私の物語がありました。 いいえ、あると思っていました。 でも、それは間違っていました。 この物語は、四人と『一人』の物語。 でも、その『一人』は私ではなかったのです。 伊吹みなもさん、彼女こそがその『一人』だったのです。 稲穂さんが、伊吹さんにこう言われました。 『関係……あるのか?君も……俺の夢の、登場人物なのか?』 その言葉に、伊吹さんは何も答えず立ち去ってゆかれました。 沈黙こそが、彼女の稲穂さんへの返答でした。 彼女は、登場人物だったのです。 彼女こそが、最後の『一人』だったのです。 私ではありませんでした。 私では、なかったのです…… 私は、ずっと自分がその『一人』だと、そう信じていました。 だから、私が助けにならなければならないと思っていましたし、なれるとも思っていました。 私が、三上さんから仮面の外し方を、素顔で接する世界の素晴らしさを教えてもらったように。 私が、今度は稲穂さんと音羽さんに教えてあげる番だと思っていました。 私になら、私にこそ、それはできることだと思っていました。 でも結局、私に稲穂さんと音羽さんを導いてゆくことは出来ませんでした。 色々ありました。 一時的にでしたが、二人は仮面を取り払って、自分達の幸せに向かって歩もうとしたこともありました。 でも、それは本当に僅かな時間。 ほんの一瞬の邂逅の時、その哀しいほどに短いその時を経て、音羽さんは…… 音羽さんが旅立たれた時、結局私にはどうすることも出来ませんでした。 いえ、事態を把握することすらできませんでした。 今ですら、全てを理解できているとは言えないのが現実です。 あの頃は、伊吹さんも事態を理解されていなかったように思います。 ただの三上さんと今坂さんの知り合いだった方、それ以上でもそれ以下でもなかったはずです。 ある日私が見つけしてしまった一冊の託宣の書、そこには哀し過ぎる運命が記されていました。 金翔鳥に課せられた残酷な運命が成就したその時、伊吹さんと私は何も理解できないままに涙を流すばかりでした。 そこには何の差もありませんでした。 でも、気がつけば、彼女は変わってしまっていました。 音羽さんが逝ってしまわれ、稲穂さんも意識を失われた日の翌日迄。 皆が哀しみに沈む葬儀の席、その時迄の伊吹さんは、まだ私と大差のない脇役でした。 音羽さんのあまりに早すぎる死を悼み、稲穂さんの様子を心から心配されていました。 たったそれだけの役柄でした。 でも、その次に出会われた時には…… |
Memories Off Nightmare 第二十四章「前夜祭」 |
Produced By コスモス |
「毎度ありがとうございました〜〜」 うふふふふ♪ 店員さんの言葉に送られながら、私はにんまりしながら店を出る。 手の中にはまだまだ温かい紙袋。 ちょっとだけ袋の口を開いてみれば、イースト菌の芳醇な香りが私の鼻腔いっぱいに立ち昇る。 はぁ〜〜、朝一番にこの香り、ホントにたまらないわ〜〜♪ 半ばうっとりとしながら、私はここのパンを買った時御用達のアジトへと向かう。 アジトはそのお店から歩くことの3分。 我が愛すべき職場への道すがらにある公園。 当然、手の中の袋はまだまだほっかほか。 私はベンチに腰掛けるのももどかしく、さっそくその中身に勢いよくパクついた。 「……………………はぁ♪」 あまりの美味しさに、言葉もない。 ほっぺが落ちるって、こういう美味しさの為にある表現よねぇ〜。 溜め息混じりにそんな感慨に浸りながら、私はついつい本音を漏らしてしまう。 「はぁ、隠れて食べる他所のパンって、どうしてこんなにおいしいのかしら……」 「……………………?」 なにか視線を感じる気がする。 右方面確認、異常なし。 左方面確認、異常なし。 OK両方面、異常な〜し。 「…………………………………………?」 なにか、すごい視線を感じる気がする。 ……横断歩道を渡る時は右・左・右だからもう一回だけ、右方面異常な〜〜し。 え〜〜と、一応、念の為、万難を排する為に、背面方面…… 「お母さんごめんなさいごめんなさい。もう他所では買わないから、うにパンは勘弁して〜〜〜!!」 振り向きざまに視線の主へと平謝りに謝り倒す。 「ど、どうしたんですか?」 そこには、まさに悪鬼の形相で私を見下ろす……って、あれ? 「おはようございます。小夜美さん」 「な、なんだ〜〜〜、みなもちゃんじゃないの。全く、お母さんかと思ってびっくりしちゃったじゃない」 そう、振り向いた先にいたのは小柄で可愛らしい女の子、伊吹みなもちゃんだった。 「あ、あの、すいません。驚かすつもりはなかったんですけど……ごめんなさい」 しゅんとなった、元気のないみなもちゃんが小さくそう答える。 「ああ、いいのいいの、私が勝手に変な勘違いしちゃっただけなんだから、みなもちゃんはぜ〜〜んぜんっ、気にしなくてもいいのよ?」 「あ、そ、そうなんですか。よ、良かったです。はは……」 なぜか、みなもちゃんの笑いが乾いているような気がするのはきっと気のせいよね。 うん、そう。そうに違いない、きっと、たぶん、だといいなぁ〜〜。 「えっと、そ、それじゃ、みなもはもう行きますね?」 そう言って、そそくさとみなもちゃんが立ち去ろうとする。 だが!それでは私が困ってしまうのだ。 今朝のこの反逆行為が、もし万が一にもお母さんに知られでもしたら…… ……はぅっ。 脳裏を掠める恐怖の惨劇、一瞬の眩暈。 これは非常に緊急事態な様な気がしてならない。 そんなわけで、明日の明るい人生設計その壱の為、私は迅速かつ的確な行動に移る。 「ちょっと、待ったぁ〜〜〜〜〜!!」 ぐわしと、立ち去りかけたみなもちゃんの首根っこを鷲掴みにして、爽やかに微笑みかける。 「な、何ですか……?」 たじろぐみなもちゃんに、『二人だけの秘密』をしっかりと守ってくれるよう口封じ、もとい、お願いすることにする。 「ね、みなもちゃん、袖すり合うも他生の縁、なんて言葉知ってるかな?」 「え、は、はい、知ってますけど……」 「そう、なら話は早いわよね。 服の袖がすり合うだけでも何かの縁があるんだもの、手と首がすり合ってる私とみなもちゃんには、きっと前世から脈々と運命共同体としての縁が続いてるに違いないわ」 「は、はぁ……」 「つまり、あなたの秘密は私の秘密。私の秘密はあなたの秘密。 今朝のこと、誰にも言っちゃダメよ?」 「は、はい?何を、ですか?」 「だ〜か〜ら〜〜、私がここで他所の店のパンを食べてたこと! もしお母さんにばれたりでもしようものなら、地獄のフルセットコースに即決なのよ?」 「…………」 「フルセットよフルセット、うににメロンにバナなっとうよ? みなもちゃんもウチの生徒なんだから、この恐ろしさがわからないわけはないでしょ!?」 「……………………」 みなもちゃんの目が、じと目になっていた。 なら、そんな物売るなとでも言いたいのだろうか? 非常に正論なのだが、敢えて私は気づかない振りをする。 「……わかりました。今朝のことは誰にも言いませんから。じゃぁ、みなもはもう行きますね?」 溜め息混じりにそう呟くような答えだけを返して、みなもちゃんは再び歩き出す。 「絶対よ?」 その背中に私は念押しの声を掛ける。だが返事はない。 「絶対に絶対だからね〜?」 何とはなしに不安を感じ、私はもう一度大声で念を押す。 みなもちゃんがちらりとこちらを振り返って口をパクつかせる。 「わかりましたって、言ってるじゃないですか……」 不機嫌そうな、その声なき声がそう言っていた。 みなもちゃんはまたくるりと振り向き歩き始める。 なんとなく、違和感のようなものを感じる気がした。 でも、よく分からなかった。 私はみなもちゃんを良く知っているわけじゃないから。 小さな背中は、ゆっくりと、でも真っ直ぐに公園の出口へと一直線に歩んでいく。 途中、小さな落ち葉の山があった。 風に吹かれて自然に集まったものなのか、はたまた早朝のボランティア活動か何かの一環か、冬支度を始めた木々の落し物がそっとそこに集められていた。 でも、みなもちゃんはそんな場所には目もくれることなく…… 踏み潰した。 え? 一瞬理解できずに目を擦って、もう一度そこを良く見てみる。 そこには、崩れた落ち葉の山。 ただ、それだけ。別にどうということもない風景。 悪戯好きなやんちゃな男の子が好んでやりそうなこと。 そう、たったそれだけのこと。 でも、気になった。 気になって仕方がなかった。 確かに私はみなもちゃんを良く知ってるわけじゃない。 それでも、今のみなもちゃんと、唯笑ちゃん達と笑顔で話していたあの子との間には強烈な違和感が感じられた。 むしろ…… あの時のみなもちゃんが思い出される。 取り憑かれたかのような、あの、みなもちゃんを。 私の中の違和感が急速に成長を始める。それはいつしか不安その物へと入れ替わっていった。 なぜ、今朝のみなもちゃんはあんなに素っ気ないのだろう? いや、そもそもみなもちゃんはこんな時間にこんな公園で、いったい何をしていたのだろう? そんな疑問が次々と浮かんでは消えていく。 やがて、みなもちゃんの小さな背中がもうじき公園の外へと消えようという時、私の不安は頂点に達して弾けた。 「みなもちゃん、ちょっと、待って!!」 そう叫ぶと同時に走り出し、私はみなもちゃんの正面へと回り込み、その顔を覗きこんで愕然としてしまった。 ようやくそこで私は気がついたのだ。 「みなもちゃん?あなた……泣いてたの?」 挙動不審だったのは、私だけではなかったことに。 どうしてこんなことに今まで気がつかなかったのだろう? よくよく見ないでも、みなもちゃんの目は真っ赤だった。 夢を見ながら泣き続けていたのか、朝起きてからここで泣き続けていたのか、いずれにしてもひどい顔をしていた。 その印象が私の顔に表れてしまったのだろうか? 「ほっといてくださいよ!」 荒げられた言葉と同時に、私の手が強引にはねのけられる。 踵を返して今度こそ走り去ろうとする。 「あ、ちょ、ちょっと待ちなさい!」 私は思わず彼女を反射的に捕まえてしまう。 「放して、放してくださいよ!!」 「落ち着きなさい、いいから取り合えずは落ち着きなさい、みなもちゃん」 言いながら、私は暴れる彼女を後ろから羽交い絞めにする。 もともと私と彼女とでは体格差がある。 自分では私をどうにもすることができないことを悟って、ようやくみなもちゃんが動きを止める。 「いったい、どうしちゃったって言うの?落ち着いて話してみて。ね?」 腕の中の少女の息遣いがだんだんと落ち着いてゆく。 そして、荒い呼吸音の代わりに漏れ始めたのはすすり泣き。 「みなも、みなも…… どうすればいいんですか?どうしたらいいんですか? わからないですよ。もう、無茶苦茶。何もかもが無茶苦茶なんです。 みなもはどうすればいいんですか?みなもはどうしたいんですか? いったい、何がどうして、こんなことに……」 何を言っているのかわからなかった。 みなもちゃんが、肩越しにこちらを見つめてくる。 その目には大粒の涙。 その口からは苦悩の言葉。 「あと一人、あと一人いるのに。 みなも、勇気を出して言ったんです。 悩んで、悩んで、悩んで…悩んで…… 悩みに悩んで、それでも勇気を出して言ったんですよ!? なのに覚えてない。先輩は覚えていてくれない。 みなもは、どうすればいいんですか?もう一回言うんですか? また、またあのことを言えって言うんですか? また先輩を絶望に叩き落せって言うんですか? それとも、その人は、あきらめるしかないんですか? 忘れられるどころか、気づいてすらもらえないままなんですか? みなもは、みなもはいったいどうすればいいんですかっ!!?」 最後はほとんど絶叫だった。 でも、何の事を言っているのかがさっぱり分からなかった。 分からなかったけれど、それでも、私は驚いていた。 信じられなかったから。この子がこんな声を出すなんて、こんなに深い悩みを秘めていたなんて、いったいこの子は何を苦しんでいるのだろう?何を悩んでいるのだろう? 伊吹みなもちゃん。この子は、いったい……? 「答えて、くれないんですか? どうしたらいいのか、教えてくれないんですか? 何も言っては、くれないんですか?」 火の消えたような小さな声で呟くその子の微笑みは、ひどく冷たくて乾いていた。 何と言ってあげることもできなかった。私の手には負えないレベルだった。 どうしたらいいかを教えるどころか、稲穂君絡みなんだろうなと辛うじて分かる程度でしかなかった。 そんな私に何かが言えるわけもなく、ただ私はひどく疲れの漂った少女の哀しい微笑みを見つめることしかできずにいた。 眼前のみなもちゃんが、寂しく微笑んだそのままで頭を軽く左右に振った。 まるで、何かを諦めるかのように。何かを断ち切るかのように。 そして、その愛らしい顔から微笑みが消え、人形のような表情のない能面がその下から現れてみなもちゃんの顔を覆っていった。 その自分の理解の範疇を大きく逸脱した光景は、どこか遠くの国の出来事のように見えて仕方がなくて、私はただみなもちゃんをぼうっと眺めることしか出来ずにいた。 「だったら……ほっておいてくださいよッ!!」 私の手からは、力が抜けていた。入れ続けることなんて、出来るはずもなかった。 だって私は、所詮部外者だから。 私は、遠ざかってゆく小さな背中を見つめながらぼんやりと思った。 そう、私は部外者。部外者の大人。 なら、部外者は部外者らしく、大人は大人らしく、私は私の役割を果たそう。 結局、私にできることはそれだけなんだから。 それだけだけど、それだって誰かがやらなきゃならない役割なんだから。 自分が部外者である事を未だ受け容れられずにいる、健気なあの子に教えてあげよう。 脇役も、誰かがしなくちゃいけないことを。 哀しすぎる登場人物達を、せめて見守り続けてあげる人も必要な事を…… 私の選択は、きっとこれで、いいんだよ、ね? そうなんだよね。かおるちゃん、智也君…… 朝の喧騒に包まれた教室に、もう一つ喧騒の元が勢いよく入ってくる。 「みんな、おっはよ〜〜〜」 その声は明るかった。声の主は微笑んでいた。声の主は、いつだって微笑んで、唯だ笑っていた。 その少女に挨拶を返しながら、クラスの誰もがこの少女の強さに密かに感動していた。 そして、笑顔を返すことで敬意を表した。 だが、その中にあって、唯だ一人微笑まない者がいた。 もう一人の、誰よりも強く誰よりも弱い存在。 今朝の二人は、何かが違っていた。 互いに、昨日までとは何かが決定的に違っていた。 周囲の人間達には、その決定的な何かが何なのか、そこまでを認識することは出来ないでいた。 ただ、何かが違う。これまでとは、何かが明らかに違う、それを感じとらずにはいられないでいた。 少年は何も言わずに、少女が自分の所までやってくるのをじっと待っていた。 少女が少年へと近づいていく。 何気ない様子の少年と少女。 だが、教室の空気は敏感に変質していった。 「おはよう、信君」 「ああ、おはよう、唯笑ちゃん」 そう二人が挨拶を交わした時には、教室からざわめきは消えていた。 「あのね、信君?」 「なんだい、唯笑ちゃん?」 そんな周りに、二人は一切構わなかった。 「唯笑、信君に大事な話があるんだ」 「それは奇遇だね。実は俺も唯笑ちゃんに話したいことがあったんだ」 構う余裕など、なかったのだ。 「ちょっと長くなると思うんだ。ね、今日一緒に帰ろ?」 「ああ、そうしよう」 クラスメート達。 思えば、彼らもまた、見守ってきた者達だった。 途切れ途切れにではあっても、一つの物語をずっと見守ってきた。 二人の幼馴染の想いがせめぎあい、すれ違い、そして最後に溶け合い、散った事を。 同じ志を胸に秘めた者同士の想いがせめぎあい、すれ違い、そして最後に溶け合い、散った事を。 そのクラスメート達の誰もが、ここに居合わせた誰もが感じていた。 彼らの長すぎて哀しすぎた物語。それが今まさに、終わりに向かっている事を。 一つの物語が、形はどうあれ集束し、結末へと向かおうとしている事を…… 「………………」 小さく風の中に驚きの呟きが漏れる。 一時間目の予鈴が鳴るのを耳にしながら、その小柄な少女はわずかに悩み、すぐに結論を出した。 「はぁ……」 少女は小さな溜め息と共に、屋上のフェンスをぎゅっと握り締める。 フェンスを握り締めるその手は、気味が悪いほどに真っ白になっていた。 「みなも、どうしてこんなことになっちゃってるんだろう」 自嘲気味な呟きが、再び晩秋の風に乗ってどこかへと流れ去ってゆく。 わかってはいた。 どうしてこんなことになってしまっているのか。 いつから歯車が狂い始めてしまったのか。 おかしいと言えば、大好きな従姉妹の少女が亡くなってしまった時点で、いや、もっと言えば、みなも自身が不治の病などにかかってしまった時点で、すでにおかしな運命と言えばおかしな運命だった。 だが、もっと直接的に不可解で、全てをおかしくさせてしまった事象があったことを、みなもははっきりと覚えていた。 『――知りたいの?――』 ソレは、あの朝そう言って現れた。 厳密に言えば、現れたわけではなく、ただそう聞こえた。 その時、みなもは知りたかった、全てを知りたかった。 だから、その結果が何を意味するかまでは考えることなく、手を差し伸べた。 闇へ…… みなもは全てを知ることができた。 信の物語の全てを。 そう、全てを、みなもは全てを知ってしまった。 だからみなもは、これまで以上に唯笑が好きになってしまい、より唯笑を支えたいと想ってしまった。 彩花の切なさを知り、智也の深い優しさを知ってしまった。 かおるの強さと弱さを、詩音の無力感と焦りを、小夜美の押し隠された哀しみを知ってしまった。 そして、みなもは信をこれまで以上に支えてあげたいと思うようになり、それと同時にどうしようもなく信を恨み、憎み、嫌悪せざるを得なくなってしまった。 そう、みなもは、信を憎んでしまっていた。 全てを知ってしまった以上、信を支えたい気持ちがどれだけあろうとも、心の片隅には、全ての悪夢の原因を彼に求めてしまう自分がいることを、みなもはどうしても否定することが出来なくなってしまっていた。 生まれてしまった負の感情は、なぜか自分でも制御できなくなるほど燃えたぎってしまい止まらなかった。 そんな考えを抱いてはいけないこと、信を恨むことがとてつもない逆恨みであること。 理屈では十分に分かっていた。分かっていたのに、止まらなかった。 あまりに燃え盛り、自分が自分でなくなってしまったかのような錯覚すら覚えた。 いや、そもそもあれは本当に自分だったのだろうか? それすらもみなもには、断言することはできなくなっていた。 自分が歩き、自分が話し、自分が行動していたにも関わらず、そうすることを心の奥底では自分自身が渇望して止まなかったことにも関わらず、みなもは自分のやってしまったことを信じることが出来なかった。 かおるを愛していたから、友達想い過ぎたから、だからこそ壊れてしまった信に、更に追い討ちを掛けるような真似をしてしまったことを…… その後、どれだけ信に尽くしても、みなもの気が晴れることはなかった。 むしろ、いつまた同じことをしてしまうのか、それが恐ろしくなるばかりだった。 「どうして……こんなことになっちゃったんだろう?」 虚ろな自分の呟きが、冬の冷たさを帯び始めた風に運ばれてゆく。 「みなも……いったい何をやってきたんだろう?何がしたかったんだろう? みなも、稲穂先輩を助けたかったの?それとも……ただ、憎かっただけなの?」 「憎かった……ですか?」 不意に、みなもの独白を遮る訝しげな声が、みなもの背後、給水タンクの陰から聞こえた。 「おはようございます、伊吹さん」 厚い本を数冊小脇に抱え、詩音が悪びれた様子もなく姿を見せる。 「……いつからいたんですか?」 「貴女が来る前からですよ。ここにいればその内いらっしゃると思いましたから」 「授業はいいんですか?」 「構いませんよ、いつも関係のない本を読んでいるだけですので、読む場所が変わっただけの話です」 「そうですか」 そして、二人の間に沈黙が落ちた。 かつて、二人は今と同じ場所で、同じ様に沈黙に包まれて向かい合ったことがあった。 誰もいない屋上で、夕陽に照らされオレンジ色に染まっていた。 あの時の二人は何もしらなかった。 二人とも、ただ何も理解できないままに、黄金色の煌きに魅せられ涙を流していた。 詩音は、かおると唯笑が好きだった。智也も好きだった。 みなもは、彩花と智也が好きだった。勿論唯笑も好きだった。 だから、信も好きだった、二人ともが…… あの頃の二人はとてもよく似た存在だった。 二人自身は似ても似つかないのに、その立場は本当に良く似ていた。 二人は、親友になることができたのかもしれない。 そう、『できた』は過去形、『のかも』は可能性。 現実はそうはならなかった。 あの頃、桜の花や新緑の若葉に彩られた世界は、とても鮮やかで希望に満ち溢れていた。 だが、時は流れた。 季節の移ろいと共に、枯れゆく世界は色を失い始めている。 彼女達の間に、流れる風は冷たく、厳しいものだった。 その硬い表情が何よりも雄弁に、今の彼女達の状況を物語っていた。 長い髪の少女の目が、ほんのわずかだけ、心持ち細められる。 それが、開始の合図となった、彼女達の対峙の時の…… 「伊吹さん、何があったのですか?」 「双海先輩……」 「あなたと稲穂さんの間に、いったい何があったのですか?」 またも満ちる静寂。 眼下の校庭から、体育教師の吹く集合のホイッスルの音が聞こえてくる。 おそらく、次に取り組むべきメニューが示されて、生徒達が悲鳴なり歓声なりを上げていることだろう。 「先輩に、答えなければいけないのですか?」 賑やかな歓声が小さく耳に届いた。 気合のこもった男子生徒の熱血の声。 女子生徒達の華やかな声。 それから一拍置いて、生徒達を追い立てるかの様なホイッスル。 「……答えてほしいです。いえ、答えて貰います、必ず」 「できるんですか?」 先程より小さくホイッスル、それと同時に、ワッと校庭が湧きあがる。 なにかのゲームが始まったらしい。 詩音は何も言いはしなかった。 ただ、グランドから小さく流れ込んでくるざわめきに耳を傾けるばかり。 「できるんですか?みなもに、答えさせることができるんですか?双海先輩?」 やはり詩音は何も答えない。 不意に、グランドの喧騒が一際大きくなる。 誰かが、得点を決めるかなにかしたらしい。 「できるんですか、と聞いているんです!双海先輩!」 「できるわけないじゃないですか!?そんなこと、私だってわかってますよ!」 荒げられた声に、返されたのも荒げられた声。 友好という名の仮面を取り去りあったみなもと詩音は、睨み合いながら吠え立て責め合う。 「できないんですか?そんなこともできもしないのに、何で先輩は割り込もうとするんですか?先輩は、関係なんかないじゃないですか!!」 「関係あります!私は智也さんに仮面を外してもらいました。素顔で触れる世界の素晴らしさを教わりました。だから、私は今坂さん達を支えたい。それが、智也さんへの恩返しにもなるはずですから!」 「そんなの、先輩の自己満足です。そんな無関係な人が、私達の物語に勝手に入ってこないで下さいよ!みなも達のことは、ほっておいて下さいよ!!」 瞬間、詩音の顔が引きつる。 みなももその表情の変化に、己の言い過ぎを悟っていた。 だが、放たれた矢はもう戻らない。 言っていいことと、いけないことのライン。 みなもはその線引きを大きく見誤ってしまったのだ。 「あなたのせいでしょうが!?伊吹さんッ!! 『私達の物語』?それは、こちらのセリフです。 『私達の物語』に、あなたが勝手に入り込んできて、何もかもを無茶苦茶にしてしまったんでしょうが! 壊れてしまった稲穂さんに、あの時あなたがなんと言ったのか、忘れたなんて言わせませんよ!?」 「そ、それは……」 「それは、なんなんですか?伊吹さん、あなたこそ答えることができるんですか。 あれほどのことをやっておいて、私達が納得のいく答えを返すことができるんですか? 稲穂さんをヒトゴロシ呼ばわりした挙句、あなたこそ稲穂さんを殺そうとしたヒトゴロシじゃないですか!『憎かった』?ええ、あれだけのことができるんですから、それはさぞかし『憎かった』のでしょうね!!」 言いがかりだった。詩音の言い分はもはやただの言いがかりでしかなかった。 だが、そんなことを冷静に考えられる余裕は、この場にいる人間にはなかった。 他人を想うが故に苦悩して、苦悩のあまり空回りし続けるこの二人には。 そして、売られた言葉は即座に買い上げられた。 財布に入らない程のお釣りと共に。 「先輩が、双海先輩が何を知ってるっていうんですか!? 自分の大切なヒトを殺されて、次は自分が殺される事を決められている人間の気持ちが。 双海先輩なんかに分かるって言うんですか!!?」 詩音が目を剥いていた。 空気が完全に凍り付いていた。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、詩音はみなもの言葉を理解していった。 みなもの台詞を、一字一句、脳の奥深くまで浸透させ、その言葉の主旨がどういうものであるかを、確実に呑み込んでいった。 どういう経緯で、みなもがそういった結論に到達したのかまでは彼女にはわからなかった。 だが、そんなことにたいした意味はなかった。 ことこの物語に関しては、不可解であろうがなんだろうが、ほとんど何でもありなのは、詩音自身が金翔鳥の一件で痛い程に理解していた。 みなもの言葉を疑うことは、詩音にはできないことだった。 不可解だろうと理不尽だろうと、全ては真実の結果と予言であると思うしかなかった。 だからこそ。 その言葉はあまりに重すぎた。 意味する所があまりに大きすぎた。 みなもの言葉が彼女の勘違いでない限り、まだこの物語は終わっていなかったのだ。 悪夢はまだまだ続くのだ。 詩音は思う。 きっと全てが繋がっているのだろうと。 桧月さんの死に端を発したであろうこの悪夢の物語。 その物語の最初から、きっと稲穂さんは深く関わられていたのだろう、と。 詩音は今なら分かる気がした。 智也の死、かおるの死、そして次に起こるであろうみなもの死。 そのいずれもが信の物語の一部であり、その現場には必ずや彼の姿がそこにあり、そしてその度に絶望してきたのだろうと。 と、いうことはどうなるのだろう? 詩音は真実のピースを組み立て直してみた。 詩音はすぐに、一つの仮説へと辿りついた。 そして、絶望した。 受け容れられなかったのだ。 そう、そのあまりな仮説を詩音は受け容れることができずにいた。 それ以前に、まだ、ヒトが死ぬ。 この目の前にいるあどけない少女が殺される。 どんなことをしようとも、何があろうとも殺されることがすでに定められている。 その事実一つが、詩音の意識を完全に支配し尽くしていた。 目の前で口を押さえ自身の失言を悔いるみなもの様子も、変わらず、日常のざわめきを緩やかに演奏している校庭も、全く目にも耳にも入っていなかった。 詩音は絶望の海に浸りながら思う。 自分は、どうしたかったのだろう? 自分は、どうするべきだったのだろう? 自分は、この物語のどの辺の片隅に位置していたのだろう?これから、どこで佇めばいいのだろう? 自分は、自分は…… 詩音の顔は、すでに真っ青に変貌していた。 その変化は、『面白い程』というレベル通り越して、『恐い程』の変貌だった。 青ざめた顔は変貌を続け、やがて顔面蒼白へと至り、血色の悪くなった手の指先や唇は小刻みに震え始めていた。 そんな詩音を横目に、みなももまた複雑な想いに囚われていた。 言う必要はなかったし、言うべきでもなかったことを言ってしまった。 その自責の念に駆られながらも、それでもどこかみなもは全てを吐き出してしまったことに一抹の満足感を覚えていた。 ただひたすらに自らの内に溜め込むことしか許されない、そう思っていた事を思わぬ形で白状してしまい、不安と安堵の相反した感情に包まれながら、途方に暮れることしかみなもにはできなかった。 そうしながら、二人とも言葉を交わすこともなくただ沈黙したまま見つめ合っていた。 奇妙な形容しがたい静寂の中で二人の少女はどうすることもできずにただ立ち尽くして見つめ合っていた。 グランドの笑い声が、どこか空々しく聞こえて仕方がなかった。 「お〜〜、やっぱりここだったのね〜〜」 唐突に、金属音と共に屋上の扉が開き、場違いにのんびりとした声が響いた。 二人は、どちらからともなく視線を互いから視線を外す。 視線は突然の乱入者を見ることもなく当てもなく彷徨っていた。 「ああ、そういう状況なのね……」 乱入してきた人物は、左手に右手をポンと打ちつけながらなぜか訳知り顔に頷いていた。 つかつかとその乱入者は詩音の元まで歩み寄るといきなりぐわしと抱き締める。 「お疲れ様、詩音ちゃん……」 「こ、小夜美さん?」 いきなりのことに目を白黒させている詩音に構わず、小夜美は胸の中の彼女の頭を撫で続けた。 「ね、詩音ちゃん。私、詳しい状況は全然分かってないんだ。 サボってふらふらしてる生徒が通らなかったかって、朝から先生達に何度も聞かれてるのよ。で、サボリ=屋上って、ことで来てみただけなの」 そう言う小夜美は、とても温かな微笑みを浮かべていた。 語る言葉とは裏腹に、全部わかってるんだよ、とでも言いたげな雰囲気で。 「でもね、分かってることもあるの。 ね、詩音ちゃん。詩音ちゃんが今みたいに明るくなった時、あの時、ああいう風に変われたのは、何から何まで、全部が智也君のおかげだった?」 「え?」 唐突な話の転換に詩音は戸惑い答えられずにいた。 「ね、大事なことなの、だからちゃんと答えて?詩音ちゃん」 そんな詩音をあやし諭すように、小夜美が答えを促す 「あの時詩音ちゃんが変われたのは、全部智也君一人のおかげだったの?」 「……いえ、周りで他にも見てくれてた人達がいましたから。 今坂さんや、音羽さん、稲穂さんやクラスの皆さん、それに霧島さんも」 「そうだよね。でも、別に私なんかたいしたことはしてないよね。 そう、ただ、見守ってただけで……」 「……ただ、見守ってくれていた……?」 「そう、私は見守ってた。ただ、それだけの脇役。詩音ちゃんなら、私の言ってること、分かるよね?」 「……でも、私は、三上さんに……」 「優しいね、詩音ちゃんは。でもね?私思うんだ、役割には二種類があるって」 「二つ?」 「そう、一つは最初から決められた誰かがやらなくちゃならない役。例えば、物語の中に出てくる名前のついた重要な登場人物。 もう一つは、あんまり重要じゃなくて、誰がやっても構わないけど、でも、誰かが絶対にやらなければならない役。 目立つ方は決まってるけど、どっちが足りなくても物語はできないの。わかるかな?」 「霧島さんが言われることは、理屈ではわかりますけど……」 「感情では納得できない?」 「……………………」 詩音はその問いに答えようとはしなかった。 ただ、その憮然とした表情が詩音の意思を雄弁に代弁していた。 「ん〜〜?何かいいたげだねぇ?詩音君?」 苦笑を浮かべながら、小夜美は詩音の頬を人差し指でぐりぐりといじり回す。 「や、止めてくださいよ、霧島さん」 心持ち頬を赤らめながら、詩音が無駄な抵抗を試みる。 「ふふふ、諦めなさい詩音ちゃん。 ところで、ね、みなもちゃん?」 「え、あ、はい!?」 急に自分に矛先を向けられ、二人を呆然と眺めていたみなもが我に返る。 「ね、朝、みなもちゃんが私に言ったこと、ちゃんと覚えてるよね?」 「す、すいません!みなも、取り乱して小夜美さんにひどいこと言っちゃっ……」 「はい、そこ、スト〜〜ップ! そういうことを言ってほしくてこのネタ振ってるわけじゃないのよね、私。 「???」 「ね、みなもちゃん、あなた、私に言ったよね? 『どうしたらいいのか、教えてくれないんですか?』って。 みなもちゃんもつらくて、苦しいのよね? 私は、細かな事情はわからないけど、わからないからこそ、そのことだけははっきりとわかるの。 みなもちゃんも、ずっとずっと悩んで、哀しんできたってことが……」 詩音が小さく息を飲み込むのを感じながら、小夜美は更に言葉を続ける。 「だからね?一つだけ、一つだけでいいから質問させて欲しいの。 みなもちゃん?あなたは、唯笑ちゃんと信君のことが好き? 支えてあげたい、そう思ってあげられる?」 そう問いかける、微笑みをたたえた小夜美の眼差しはどこまでも穏やかなものだった。 その瞳を見返すみなもは、担任の先生に悪戯を咎められた子供のようにどこか気不味げだった。 そんな二人を見守る詩音は、両親の夫婦喧嘩を見せ付けられた子供のようにただかわるがわるに二人の様子を窺うばかりだった。 「唯笑ちゃんのことは好きです。大好きです。何があっても支えてあげたい。そう心から思えます」 「信君は?」 一瞬の間、それはみなもの躊躇いの証。 それでも、意を決した少女は口を開く。 「よく……わかりません。稲穂先輩も可哀想な被害者だって、みなもだって頭ではわかってます。先輩がこれまでをどうやって過ごされてきたかもみなもは知っています。だから、みなもは稲穂先輩を好きでいたいです。好きじゃなきゃいけないと思います。でも、それでも心のどこかで、先輩を憎んでる自分も確かにいるんです。いちゃいけないんですけど、それでもいちゃうんです! だって、かかってるのは……」 胸の前の小さなこぶしを握り締めながら、みなもは詩音を抱き締めている小夜美に言い募った。 「はい、合格♪」 そんなみなもに、小夜美の答えは実にあっけらかんとしていた。 そして、言葉と同時に、詩音を抱き締めていた両手の内、右腕が詩音から離れてにょきりとみなもへと向かう。 「きゃっ!?」 小さな悲鳴が上がるのも無視して、小夜美の右手はみなもをぐわしと捕獲すると、一気に自分の身体へと引き寄せる。 「こ、小夜美さん?」 詩音と同じ様に目を白黒させながらも、小夜美の胸に引き寄せられたみなもの頬はわずかに赤らんでいた。 「それで十分なの、みなもちゃん。みなもちゃんにはみなもちゃんの事情がある。 それで、その上で、悩んで苦しんで今みたいになっちゃってるんでしょう? もっと悩んだっていい、もっと苦しんだっていい。人間だもん、間違える時だってあるよ、迷う時だってあるよ。 でも、それでもいいんだよ、みなもちゃん。それでいいから、自分で考えて、自分の想いで決めるの。 そうすれば、本当の意味での後悔だけはしないから。後悔さえしなければ、それでいいの。 辛くなったら周りを見てみればいい、いつだって、誰かが絶対に見守っててくれるから。 何か役に立つ事をしてくれるかどうかはわからないけど、それでも見守っててくれるから。 じ〜〜っと、あったかい目で見守っててくれるから。少なくとも、私が見守っててあげるから。 だから、がんばんなさい、女の子!!」 そう言って、小夜美はにっこりと胸の中の少女に微笑んだ。 小夜美の胸の中の、彼女を見上げる小さな小さな女の子は、しばらくの間ぽかんと間の抜けた表情をしていた。 しばらくした後、女の子の瞳には涙がいっぱいに溜まっていった。 そしてその次の瞬間には、堰を切ったように涙を溢れ出させて女の子は泣いた。 そのあどけない見かけに似合った子供っぽい泣き方で、ワンワンと声をあげて泣いた。 小夜美の胸にしがみつき、華奢な手でその胸を時折叩きながら、大声で泣いた。 泣きながら、『寂しかった』と言い、『怖かった』とも言った。 そして最後に、『忘れないで』と小さくお願いをした。 『みなもっていう女の子がいた事を、忘れないで下さい』と、哀しいお願いをしていた。 小夜美はそれらに、ただ黙って頷きながら微笑んでいた。 唯だ、笑いながら、女の子の背中に回した手でその柔らかな髪を撫でてあげていた。 それから二人の少女と一人の女性は、その冷たさに冬の到来を感じずにはいられない晩秋の風に吹かれながら、一塊になったまま抱き合っていた。 屋上を吹き抜ける風は、確かに冷たかった。 しかし同時に、柔らかく降り注ぐ太陽の恵みが、微かな温もりを三人に与えてくれてもいた。 グランドに試合終了のホイッスルが鳴り響いた頃、小夜美が詩音へと囁きかけた。 「ねぇ、詩音ちゃん?」 詩音は小声で、だが即答した。 「何も言わないで下さい。 私も自分の役割を果たしますから。 どんな結末になるのかはわかりませんが、絶対この物語を最後まで見届けますから。 必ず、目を逸らさずに見届けてみせますから……」 「そう」 小夜美はそれ以上何も言わなかった。 ただ、もう一度だけ詩音のほっぺたをぐりぐりといじって、にっこりと微笑んだだけだった。 噴水公園の一角にある、海の見える展望台。 そこに朱に染まった一対の男女の像があった。 海に向かい並べられたその象は、彫像らしく、その場にただ悠然と佇んでいた。 遥か彼方の海面は夕陽を照り返して煌き、オレンジ色の絨毯が敷き詰められているかのような光景であった。 そんなオレンジ色の輝きを瞬きもせずに見守っていた彫像が、不意にその唇を皮肉気に歪ませる。 「どうしたの?」 彫像の片割れがそう口を訊いた。 「……ん?なんでもないよ。下らないことさ」 「……音羽さんのこと?」 再び彫像が唇をひしゃげさせた。 「色々あったよね」 「そっちこそ」 「うん、唯笑も色々あったよ、本当に色々……」 二人は、放課後ここへとやってきて、そして今までただこうして海を眺めていた。 信には信の、唯笑には唯笑の、複雑すぎるそれぞれの想いが去来し続けていたのだろう。 退屈する様子もなく、二人はただ海辺の彫刻と化していた。 そして、夕陽の反射が目に染みたのか、今にしてようやくぽつりぽつりと話し始めたのだった。 「なぁ、唯笑ちゃん?」 「ねぇ、信君?」 二人の声が重なり、そして消えた。 展望台の下方から、広がる砂浜に打ち寄せる潮騒の音が聴こえてくる。 寄せては返す、波の音。 遥か昔からこの渚に鳴り響き続け、今も変わることなく潮騒の音はそこにあった。 見詰め合う二人を、夕陽と潮騒だけがゆったりと包み込んでいた。 不意に信が振り向き、夕陽に背を向ける。 展望台の手擦りに身体を持たせかけたまま、唯笑はそんな信の動作を眩しそうに見つめていた。 体の向きを入れ替えた信は、唯笑の姿勢をそのままひっくり返したかのように、その背を手擦りへと持たせかける。 手擦りの向こうに垂れ下がった信の両腕が、乗り手が急にいなくなったブランコのようにぶらんぶらんと大きく一二度揺れてから止まった。 暫らくして、信がちらりと視線を唯笑へと向ける。 その視線は、始めようか?そう唯笑に語りかけていた。 唯笑はただ、黙ってこくりと小さく頷いて、ゆっくりと語り始めた。 「唯笑、昨日智ちゃんに会ったの」 「俺も、かおるにあったよ」 「そっか」 「ああ」 「それでね、唯笑、智ちゃんと約束したんだ」 そういう唯笑を見る信の眼差しが、少しだけ細められる。 「唯笑、信君を支えてあげるのって」 細められた眼差しに、逡巡の色が駆け巡って消えた。 「そっか……」 溜め息混じりに吐き出された短い返事は、どこか後ろめたさのような物を帯びて聞こえた。 「俺は……約束できなかったよ」 搾り出されたその言葉には、はっきりと苦渋の色が浮かんでいた。 「俺は、唯笑ちゃんほどは強くはなかった」 吐き出されたのは、後悔の呪詛。 「唯笑ちゃんみたいに、強くはなれなかったんだ」 自虐の呟き。 「強い振りすらしきれなかったんだ」 己の限界を悟った者の苦悩。 「何もかもが、俺のせいだって言うのに……」 稲穂信の抱いた絶望。 「そうなんだ」 唯笑はそう短く答えた。 その短さは信のそれと同じ様でありながら、生気のみなぎったその声色は全く別物であった。 「じゃあ、やっぱり唯笑が支えてあげるね」 そう言いながら、唯笑はその視線を紅に輝く夕陽へと向ける。 「唯笑も、弱かったから。強い振りだって出来なかったから」 燃え上がる太陽を瞳に宿し、その瞳をオレンジ色に輝かせた少女が語り続ける。 「智ちゃんだって強かったけど弱かったもん。誰だってそうなんだよ。 哀しいことがあれば、誰だってつらくて寂しくて弱気になっちゃうんだよ」 信は何も答えはしなかった。 何も言わず、温かなオレンジ色に輝く少女の横顔を、目を細めたまま、どこか羨ましげに見つめていた。 「だから、今は信君も弱くっていいんだよ。その間は、唯笑が支えてあげるから」 「俺に……支えてもらう資格なんてないよ」 そこで会話が途切れた。 唯笑は海と太陽を見つめ、信は夜色へと変じつつある薄青紫色の空を眺めていた。 次に沈黙を破ったのは信だった。 「最近いつも思うんだけど、何で、こんなことになっちまったんだろうな……?」 そう、囁いた。 「ただ、俺は……」 「ね、信君?」 「ん?」 「かおるちゃんを愛したこと、後悔してる?」 ほんの僅かに、信が微苦笑を浮かべ答える。 「唯笑ちゃんも、かおると同じ事を聞くんだね」 「うん、唯笑も智ちゃんに聞かれたから」 「それで?後悔してないって、唯笑ちゃんはそう答えたの?」 「うん、だって唯笑、後悔してないから」 そして、手擦りから身体を起こした唯笑は、信の顔を覗きこみながら聞いた。 「信君は、そう答えられなかったの?」 信が身体を仰け反らせ横を向いて、その真摯な瞳から逃れながら答えを搾り出す。 「答えたく、なかったよ…… 後悔した。こんなことになるぐらいなら、始めからかおるのことなんて好きになんかならなければ良かった。 そう、答えたかったよ」 揺らぎ当てどなく彷徨う視線と、ただ真っ直ぐな視線。 やがて絡め取られるように、吸い込まれるように、彷徨う視線が一点へと収束してゆく。 そして、苦しげな言葉が紡がれた。 「でも、後悔できなかった…… 仕方ないだろ!好きだったんだ。大好きだったんだ!! 俺は、かおるを愛してしまったんだ、そのことを、後悔なんて出来るはずがないだろ!?」 苦々しい呟きが、一転苦悶の叫びへと変わる。 己の過ちへの言い訳と、それを許せない自分と、そんな考えしか持てない自分への苛立ちと。 そんな負の感情の螺旋階段を駆け登る信に、唯笑は何も答えはしなかった。 ただ、そっと抱き締めた。 予想外の出来事に信の動きが止まる。 唯笑は何も言わないまま、信の胸に顔を埋めて、その腰に手を回して抱き締めていた。 「ゆ、唯笑ちゃん?」 「信君……好きだよ」 唐突な告白だった。 何の前触れもなかった。 信にはしばらく状況が飲み込むことが出来なくて、抱き締められたまま馬鹿みたいに固まっていた。 「ど、どういうこと?」 うろたえる信に、唯笑がクスリと悪戯っぽく微笑んだ。 「なんか、ちょっといつもの信君だね。可愛い♪」 張り詰めた糸が緩んでいた。 「唯笑ちゃん、それはひどくないか?」 いわゆる、苦笑い、という微笑みではあったが、それでも信の顔にも小さな笑みが浮かんでいた。 二人はそうしながらもしばらく見詰め合い、視線を絡ませあっていた。 やがて、張り詰めすぎていた糸は、変な方向に緩み始めていた。 どうというわけではないのだが、それでも信の目尻が下がり、唯笑はくつくつと小さく笑い始めていた。 そして、最後に信が小さく吹き出した。 それが合図となった。 次の瞬間には、二人はお腹を抱えて大笑いしていた。 信は空に向かって声が枯れるほどの大声で笑い、唯笑はその信の胸をぽこぽこと叩きまくりながら笑っていた。 何が可笑しいと言う訳でもなく、ただ二人は笑った。 笑わなければ損とばかりに笑って笑って笑い倒した。 笑いすぎで腹がよじれ捻じ切れるかというほど笑った。 ひっひっひと信がバカっぽく笑い、きゃははははと唯笑がアホっぽく笑った。 「も、もう、信君、い、いつまで笑ってるのよ〜」 と、いいながら、プッとまた吹き出す唯笑に、対する信も似た感じで、本当に二人は長い間笑い続けた。 「あ〜〜〜、もう、笑った笑った〜。唯笑、もう一生分の笑いをここで使っちゃうのかと思ったよ〜」 「そりゃ、こっちの台詞だよ、唯笑ちゃん。ホントに一体全体どうしたんだよ」 そう、晴れやかに笑う信の笑顔は、本当にいい笑顔だった。 「うん、やっぱ信君はそういう笑顔じゃないとね」 そんな信をみた唯笑もまた実に満足そうに微笑んでいた。 「でも、さっき言ったけど、唯笑、やっぱり信君のこと、好きだよ! 今、言ってみて、一緒に笑ってわかったよ。唯笑、信君のことが好き。 だから、唯笑はやっぱり信君を支えるよ。 好きな人を支えるのに、理由なんかいらないもん」 唯笑は完全に一方的に断じきった。 信の都合など完全無視、眼中にも無いといった感だった。 信の微笑みが再び苦笑のそれへと取って代わられる。 「いったい、どういった経緯で、そういう結論に達したのよ、唯笑ちゃん?」 「じゃあ、どういった経緯で、信君は資格がないとかそんな勝手な結論に達しちゃたのよ?」 質問をそっくり返され、思わず口ごもってしまう信。 「唯笑はね?智ちゃんがいなくなってから、信君が隣でずっと支えてくれて、信君なら信じられるって、信君なら唯笑の事を、智ちゃんのことも彩ちゃんのことも、全部ひっくるめて分かってくれるって、そう思えた。 それで、音羽さんが逝っちゃってから、信君の隣にずっといて、唯笑なら、信君のことを全部受け止めてあげられるって、音羽さんのこと、智ちゃんのこと、同じ体験をした唯笑なら、ううん、唯笑だからこそ受け止められるって。 唯笑が支えて守ってあげなくちゃいけないって、そう、すっごく大切に思えたの。 だから、唯笑は信君のことが好きなんだよ。信君は?」 あっさりと唯笑はそう言い切った。 横を向き、斜めを向き、いじいじと前を向けずにいた信。 そうなってしまうのも仕方がないと思えた、仕方が無いはずだった。 でも、それを唯笑はこともあろうに真正面から一刀両断して見せた。 そして、今、信に問いかけている。 信君は?と。 信君は唯笑のこと好きですか?と、信君はどうして唯笑に支えられる資格がないんですか?と。 それぞれの質問に対して、単発なら信も即座に返答できたかもしれない。 普通に訊かれていれば、普通に返せれていたかもしれない。 しかし、信に訪れている現実はそのどちらでもなかった。 右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも逃げ道が無く、真正面には大上段に大剣を振り上げた唯笑が唯だ微笑んでいた。 信は笑うでもなく、回答を口にするでもなく、口をあんぐりと開いたそのままで固まってしまっていた。 「信君は?」 そんな信に、唯笑が無邪気に返答を迫る。 のろのろと片手の人差し指で唯笑を指差し、そして何やら口をパクつかせる信。 当然、口ぱくだけでは声にはならない。声にならなければ返事にはならない。 「し〜ん〜く〜ん〜は?」 ことさらにゆっくりと、あやす様に唯笑がもう一度同じ質問をし、ようやくにして信の硬直が解けた。 「ゆ、唯笑ちゃん、自分が何言ってるのか分かってる? 俺、今だってかおるを愛してるんだけど?」 「唯笑だって、智ちゃんのことは大大大好きだよ?愛してるよ?」 「だったらどうして!?」 「『雨はいつ上がる?』」 「なっ……」 「智ちゃんと唯笑は、二人とも信君のおかげで立ち直れたよ。だから今度は信君の番」 信は何も言えなかった。 確かに、その手紙は信が書いたのだから。 彩花のことを振り切れずにいる智也に、もう前を向けと、唯笑を見ろと、あの手この手で、他の誰でもない信が迫っていたのだ。 だから、信はその言葉の意味を誰よりも理解することができた。 信も、いつかはかおるのことを振り切って前を向くべきなのだろう。 「……俺と智也や唯笑ちゃんとじゃ、状況が違うんだよ」 普通なら…… 「違わないよ?大切な人を失って哀しくって辛くって。何も変わらないよ」 だが、信は普通ではなかった。 自分に課せられた運命をはっきりと認識している信にとって、唯笑のいう当たり前は当たり前にはなり得なかった。 自分が幸せを求めてしまうこと、自分が希望にその身を委ねてしまうことが何を意味するか、それを既に理解している信にとって、それは受け容れられざるものだった。 だから、信は言った。 「じゃあ本当の俺を知っても、唯笑ちゃんはそのままでいられるのかい?」 唯笑の顔に怪訝そうな、それでいてある種の予感を感じているかのような表情が浮かぶ。 「俺、唯笑ちゃんに隠してたんだよ。大事な事を……」 『唯笑、大事なこと……智ちゃんに隠してたんだよ?』 信の言葉が、自分の言葉になってリフレインしてくるのを聞きながら、唯笑はかつての智也と同じ台詞を返していた。 「大事な……こと?」 今と同じ様な夕暮れの中、メリーゴーランドが廻り続けていた。 「俺が智也と再開したあの日から、ずっと隠し続けてきたこと」 『昔から……ずっと隠し続けてきたこと』 これ以上なく皮肉気に、どこまでも自虐的に、信の口許が歪みきっていた。 「あの日、全ての悪夢が始まったあの日……」 『あの日……彩ちゃんがいなくなった、あの日……』 唯笑の目の前に立っているのは、呆然とした智也なのだろうか? 「俺はあの事故現場にいたんだよ」 『ほんとは唯笑……あそこにいたんだよ?』 あるいは、唯笑こそが呆然と立ち尽くしているのか。 「桧月さんがいなくなっちまったのは、全部俺のせいなんだよ!」 『彩ちゃんがいなくなったのは、全部唯笑のせいなの!』 乾ききった笑みが、信の顔面でのた打ち回っていた。 その正面には、唯だ笑っていない少女がいた。 「嘘……」 その少女がそういった。 「嘘じゃない」 少年が答えた。 「唯笑……あの時、嘘を言ったの」 一方的に、そう言った。 「…………」 いろいろな場面があった。 「でも、信君のは、嘘じゃないんだよね」 彩花とは面識の無いはずの信の口から、彩花の名が発せられたことがあった。 「……ああ」 みなもが、信をヒトゴロシ呼ばわりしたこともあった。 「なんとなくは、わかってたんだけどね……ハハ」 泣き笑いの唯笑の頬を、一筋の涙が伝い落ちていく。 「後、智ちゃんの時にもいたんだよね?」 唯笑のそれは、疑問ではなく確認だった。 「いつから……それを?」 「そんなの、わからないよ。唯笑だって、そんなこと分かりたくなかっただから……」 「……ごめん」 いつの間にか、空気はいつもの重苦しさを取り戻していた。 うんざりするほどの重苦しさを。 潮騒の音だけが間を埋めていた。 随分と長くなった自身の影を睨み付けながら、信は小さく唇を噛んでいた。 暮れゆく夕陽がやけにぼやけて見えるのに苛立ちを感じながら、唯笑はその原因の元を拭いさることもせずに、沈黙したまま佇んでいた。 やがて、唯笑がぽつりと呟いた。 「それでも……唯笑は信君が好きだよ?」 潮騒の音が緩やかなリズムを刻み続けていた。 波打ち際を、一匹の犬と一人の中年男性が歩いていく。 犬が男性の後になり先なり、ちょこちょこと楽しげに動き回っている。 やがて流木に興味を惹かれたらしく、盛んに臭いを嗅ぎ始めた。 やや離れた場所から、男性がその犬に何かを呼びかける。 流木から顔を上げ、呼びかけに応えて主人の足元へと戻ってゆく。 尻尾を振る愛犬の頭を撫でながら、その主人もまた微笑んでいた。 不意に、信が唯笑に答えて呟いた。 「……どうして、なんだ?」 潮騒のような囁きに、唯笑がさらりと答えを返す。 「だって唯笑、もう信君のことが好きになっちゃったから……」 「答えになってないだろ? 唯笑ちゃんの愛する智也は、この俺が最後にあの場所へと送り出したんだぞ? あいつは、俺の夢の犠牲者なんだぞ!?」 「そうなの?」 「そうなんだよッ!!」 「信君、智ちゃんのこと嫌いだったの?殺したかったの?」 「……………………」 「なら、いいよ。唯笑、別に信君のことなんか恨んで無いし、智ちゃんだって絶対にそうだもん」 「桧月さんはどうなるんだ!? 俺があの時、止血するなり救急車呼ぶなりさっさとしてれば、それだけで彼女は助かってたんだぞ? そうだ、智也だけじゃない、桧月さんだって俺が殺したんだ。 桧月さんを見殺しにしてしまって、その罪滅ぼしの自己満足の為、俺は智也と唯笑ちゃんに近づいた。 それでその挙句に、今度は智也まで殺しちまった。 わかってるのか!? 唯笑ちゃんの大切な幼馴染は、二人そろって俺に殺されてるんだぞ? 俺のことを好きだなんて、これでもまだ言えるのか!?」 「言えるよ」 「『言えるよ』って、唯笑ちゃん……」 「信君を誰よりも恨むことが出来る人、それが唯笑なんだよね?」 「……ああ」 「じゃ、その唯笑が信君を許してあげる。信君、もういいよ。今までご苦労様でした」 「だから、そういうもんだ……」 「そういう問題なの!! 唯笑は、彩ちゃんと智ちゃんと約束した。 唯笑は唯だ笑って生きて、智ちゃん達のぶんまで笑うって。 彩ちゃん達の分まで幸せになるって! それなのに、唯笑は笑い方を忘れて。幸せになるのを自分から拒んで、彩ちゃんと智ちゃんを裏切ろうとしてた。 それを、それを信君は正してくれた。二人の想いを、信君や音羽さん、周りのみんなの想いを教えてくれた。 唯笑を守って、唯笑が進むべき道に導いてくれた!! だから、許すの。 他の誰でもない、唯笑が、信君を許すの。 だから、これ以上後ろを向いて苦しむなんて、それこそ許してあげないから! 唯笑が、絶対に許さないんだから!!」 そう叫んだ少女の瞳の端に、大粒の涙が浮かんでいた。 「唯笑ちゃん……」 信は何も言えずにいた。 どこまでも強く、どこまでも優しい少女を眼前にして、頷くべきだと思った。 わかったよ、唯笑ちゃん。そう自分が言うべきだと思いながらも、それなのに言えなかった。 口の中はからからに乾ききって、舌が口内にへばりついて動こうともしなくなっていた。 頷こうにも、ギプスで固めでもしたかのように首周りをピクリとも動かせなくなっていた。 そんな自分がどうしようもなく惨めで憐れだった。 信は心の中で唯笑に謝った。それが今の信の限界だった。 すまない、唯笑ちゃん。それでも、俺は……と。 その声に、何かが応えた。 応えたのは唯笑の涙。 夕陽を浴びた涙が、黄金色に煌き輝いたのだ。 刹那、信の全身を何かが駆け抜けて消えた。 「か、かおる……」 誘われるかの様に、呆然と信が背後を振り返る。 そんな信に、唯笑も慌ててその視線の先を追いかける。 黄金色の海。 そこに広がっていたのは、黄金色の海だった。 一日に、たった一度だけ訪れる奇跡の瞬間。 神の悪戯か、はたまた過酷過ぎる運命へのささやかなプレゼントか、そこは見渡す限りが黄金色だった。 黄金色の草原が、眼下一杯に広がっていた。 唯笑は見た。 その黄金色の草原のただ中で、何かが一際強く黄金色に煌いているのを。 それを凝視する信の背中が小刻みに震え始め、手擦りを握り締めるその手の甲に、血管がはちきれんばかりに浮き上がっていくのを。 そして、信は叫んだ。 愛する人の名を、声の限りに絶叫した。 天まで届かそうとばかりに声を張り上げ。 そして、同時に告げた。 別れを。 密やかに…… 程なくして神の悪戯が終わった。 夜の帳が静かに、だが着実に早足で近寄ってきていた。 東の空はすでに夜となり、西の空に僅かに紫色の昼の残り香が漂うばかりとなっていた。 そんな頃になって、ようやく信の硬直が解けた。 彼が、稲穂信が呟いた。 「唯笑ちゃん……俺も、唯笑ちゃんのことが好きだよ……」 そういった信の背中は、幸せそうに微笑んでいるようで、哀しそうに泣いているようで、あらゆる感情の何もかもが入り混じってごちゃごちゃになっていて、ただ、あと少しだけ時間が欲しい、そう強く訴えていた。 だから、唯笑は何も言わなかった。 そっと、その背中の服の裾を、ちょこんと摘まんだだけだった。 そうして、二人は安らぎの静寂へとその身を委ねていった。 夜の帳が落ちきって、世界が闇に包み込まれてからしばらくして、闇のその向こうの誰かが振り向くのを唯笑は感じた。 人影は言った。 「もう一度だけ、もう一度だけ俺は希望を信じてみようと思う。人を好きになって、俺自身を、唯笑ちゃんを信じてみることにするよ……」 唯笑は人影に微笑んで答えた。 「うん、幸せになろう?ずっとずっと一緒に過ごして、一緒に幸せになろう? 唯笑だけが笑うんじゃない。信君だけが笑うんじゃない。 二人で生きるの。二人でそろって、一緒に幸せになるの。いい?」 闇の向こうの少年もまた、微笑んで答えた。 「ああ」 見えずとも、その笑顔がとても温かで何よりも信じられるものだと、そう唯笑には分かった。 「約束だ……」 そして、闇の中の二つの人影は、重なり溶け合い一つになった。 |
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――やっぱり、こっちには来てくれないんだね……―― ――もっともっと哀しくなるだけなのに―― ――可哀想なお兄ちゃん……―― ――さぁ、終幕だよ?―― |
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>>二十四章へ |
あとがき はい、ここにメモオフナイトメア第二十四章「前夜祭」をお届けしました。みなさんどうもこんにちは。コスモスでございます〜〜\(^O^)/ え?なんかハイテンションだって?ええ、そりゃ、もうここまで来ちゃいましたからね〜〜。だって、次回はいよいよ最終章ですよ?最終章!!思えばこのナイトメアを書き始めて早……どれくらい経ってるんですかね〜。遅筆なのもそうですが、途中で2度3度間が空いたりもしましたしね〜。うん、しみじみですよ。ま、この辺はまた完結した時にでもしっかりやるとして、まず本題其之壱、本章の振り返りです。この章は大きく二つの要素に別けることができます。一つが詩音VSみなもネタ。これは、自分が物語の脇役でしかなかったことに、智也の恩義に報いることが出来なかったことに苦悩する詩音と、自分のこれまでの不自然な言動と、先行きの暗い自分の未来とを恐れるあまり、逆恨み的に信を憎んでしまい、自虐の無限ループ真っ只中のみなもとの間のどろどろ対決シーン。そしてそこへの介入役という、初めて真っ当な役割が小夜美さんに与えられた最初で最後の記念すべき章でもあったわけです。そして、もう一方が、言わずと知れた信VS唯笑ネタなわけです。ここでは、一方的に信が攻められて攻められて一方的にあっさりさっくりと撃破されてしまうという、ある種拍子抜けに近い部分もあるような状況です。ただ、あんまりひっぱり過ぎてどろどろやりすぎても、すぐ前のシーンがほとんど似たようなシーンな上に、当然、今後はラストまでシリアスの嵐なわけで、ある程度、この辺は軽めなぐらい&ちょっと角度変えた変化球ぐらいがバランス的にいいのではないかな〜〜。などと思っていたりします。まぁ、この辺の良し悪しなんぞもアドバイスくれたりなんかしたら嬉しい限りで小躍りしますので感想くれる方はその辺もよしなに(^^; で、今回書いてて他に思ったことと言えば、作者的には二十章で開眼したっぽい音表現ですが、今回ほとんど意識しないですごいナチュラルに使い込んでいけたんですよね。何かすごいモノになってる!!という実感が湧いて嬉しかったです。後、なんか、本章は久しぶりに細かな表現で色々満足できる表現があっちこっちに転がってて密かにルンルンだったりもします。 さて、それではそろそろ本題其之弐に行きたいんですが、もうけっこう文量をいっちゃってますのでタイトル予告だけで。 ついに完結!! メモオフナイトメア最終章(第二十五章)「虹かかる刻」お楽しみに!! (次章も長々ですぞ〜〜♪) それでは、皆さん、アディオ〜〜ス♪(^o^/~~~~~ Presented by コスモス deepautumncherry@excite.co.jp < |
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