雨上がりの朝、白い朝靄が立ち込めるこの場所。
 ここは、この街で最も空に近い場所。
 この街で最も風の吹き抜ける場所。
 訪れし者達が哀しみに暮れ、過去と触れ合い、時に未来へと想いを馳せる場所。
 そんなもう慣れ親しんでしまったこの場所で、私は慣れ親しんだ儀式に取り掛かります。
 右手のマッチ棒を左手に持った箱に二度三度擦り付けます。
 が、昨夜の大雨の影響か、今朝は妙に空気が湿っぽくって火の点きが悪いようです。
「綺麗な夕焼けの翌日は晴れ……
案外、昔からの言い伝えも当てにはなりませんね」
 誰に言うでもなく、私は一人ごちます。
 実際の所、昨日の夕方は本当に綺麗な夕焼けでした。
 それこそ明日の晴天も疑いようの無いものと思えるくらいに美しかったです。
 でも、昨夜未明に天気は急変。
 太平洋側から流れ込んだ、湿った空気を大量に吸い込み急成長した低気圧は、今年一番の記録的な大雨をこの街にもたらしました。
 だからどうしたと言われると、マッチの火の点きが悪いくらいのことしか思いつきませんが、これで今から天気が急回復して晴天になった場合、あの言い伝えは当たったことになるのでしょうか……?
 そんなどうでもいいことを考えながらも、私の作業の手が止まることはなく、マッチ三本目にしてようやくくぐもった音が小さく響き、オレンジ色の炎がその先端に灯りました。
 すかさず炎の先端にお線香の束を手早く寄せると、オレンジ色の炎が精一杯その短い舌を伸ばし、線香の先へと絡み付いていきます。
 そして2秒後、太く短い煙が消え、瞬間的にマッチの焦げ臭ささが私の鼻をつきました。
 そしてその焦げ臭さと入れ替わりに、すぐにどこか古臭くすっとした芳香が漂い始めます。
 ゆらりと細く長い白煙が、真っ直ぐに立ち上ってゆきます。
 真っ直ぐに、一直線に、遥かなる高みを目指して……
 どこよりも風の吹き抜けるこの場所に、今、風は吹いていないようでした。
「おはようございます。三上さん」
 そっと私は朝の挨拶をしました。
 私の声が、朝靄に吸い込まれて溶けてゆきます。
「今日は報告に来ました」
 しんと静まり返ったこの場所に、私の声以外には、小鳥のさえずりぐらいしか聞こえてはきません。
「私、見守ることにしました」
 そんな中、私は三上さんに語りかけます。
「今坂さんと稲穂さんの物語を、最後まで見守り続けたいと思います」
 ふと、背後に誰かの気配を感じました。
「できればあなたに教わった事を、今度は私が二人に教えてあげたかったです」
 微かに風が流れ、線香の芳香が私の背後へも流れてゆきます。
「そうして、世界はこんなに綺麗で、こんなに素晴らしいんですよって、言ってあげたかったです」
 背後の気配は、沈黙したままそこに立っていました。
「でも、そうすることは私の役割ではなかったみたいです」
 穏やかで、温かな気配を滲ませていました。
「私が三人目の登場人物だったらなと思いました。本当は少しだけ悔しかったです」
 背後の気配が苦笑したようでした。
「でも、これで良かったんですよね。私は、見守っていてあげればいいんですよね。
何があっても、ずっと、ずっと……」
 そして穏やかな微笑みを感じた次の瞬間、私の体が温かな両腕に包み込まれていました。
 ありがとうございます。霧島さん……




「よ、来たぜ、智也……」
『ああ、おはよう、信』
 俺の目の前には、俺が遥かな高みへと昇ったその場所の前には、小さな花束を小脇に抱えた信がいた。
 信に俺の姿は見えてはいない。
 俺の返答は聞こえてはいない。
 その筈だった。
 見えさせる、聞こえさせる、そんな力を俺は使ってはいなかったから。
 でも……
「昨日、唯笑ちゃんに告白されたよ」
 信は事故現場脇の、ガードレールの根元を見つめていた。
「俺を支えてくれるって、俺のことを守ってくれるって」
 その視線の先には、少し汚れ始めているガラスの瓶。
 昨夜の雨でたっぷりと雨水に満たされたその瓶の横には、ぐっしょりと濡れそぼった花束、但しその色は少し干からびて茶色くなっている。
「俺なんかのことを、好きだって……」
 そう言いながら信は、小脇の未だ瑞々しさを失ってはいないその花束と、足元のそれを取り替える。
「なぁ、智也?」
 どこか後ろめたげな表情で、信が俺に尋ねかける。
「智也は、本当にこれで良かったのか?」
 正直、複雑に思う部分もないわけじゃない。
『でも、これでいいさ……』
「…………悪い」
『信の方こそ……良かったのか?』
「…………ああ」
『あの子が……来るぞ?』
「構わない」
『…………』
「覚悟は……できてる」
『そうか……』
「なぁ、智也?」
『なんだ?』
「今まで、ありがとう」
『…………』
「俺、お前と親友になれてたよな?
俺は、稲穂信は、三上智也の、立派な親友だったよな?」
『少し、違うな』
「…………」
『だった、じゃない。俺とお前は親友だ。
過去も、現在(いま)も、未来(これから)も、ずっと……な?』
「……そうだったな」
 信の顔が綻び、真っ直ぐに、見える筈のない俺のことを見つめていた。
「きっとあの子は、すぐにでも俺のところへやってくるだろう」
 その穏やかな顔に絶望の色はなかった。
「でも、俺は約束したんだ」
 その顔に、短い言葉に秘められていたのは、決意。
「だから、見ていてくれ。全ての夢が終わる、その刻を……」
 何よりも気高く強い、ただ一色の、決意。
「じゃあな」
 短い別れの言葉と共に、信の背中が去っていく。
『信!!』
 その背中が、振り返ることなく動きを止める。
『…………あいつを……これ以上泣かせないでくれよ?』
 背中は何も答えはしなかった。
 ただ右手を軽く上げ、合図だけをよこして消えていった。
 稲穂信、かつて俺の愛した少女を見殺しにした男。
 稲穂信、かつてこの俺を死地へとその手で送り出した男。
 稲穂信、かつて自分が愛した少女をその手にかけてしまった男。
 あいつは、間違いなく覚悟していた。
 これから始まる最終幕に、あいつ自身の悪夢に、自らの手で終止符を打つ事を。
 俺には、それがわかった。
 あいつが、俺の親友であり、俺の映し身だったから。
 だから思わずにはいられなかった。
 せめて、最後の結末だけは、俺とは違うものになって欲しいと。
 最後は幸せに、唯だ笑っていて欲しいと。
 俺との再会の刻は、まだあまりにも早すぎるから……




 私がこんな身体になってどれくらいの時間が過ぎたんだろう?
 愛する人と話すことも、触れることもままならないこんな身体になってから。
 そんな風に一人ごちていた私の元に、待ち人が向かってくるのが見える。
 私が、この背中の黄金色の翼を手に入れてしまったこの場所へと……
 その待ち人は、私の最期の場所の前に立って元気良く挨拶をしてくれる。
「音羽さん、おっはよう〜〜」
 今日も唯笑ちゃんはテンションが高い。
『おはよう、唯笑ちゃん』
 すっかりと見慣れた微笑み。
 この笑顔が曇った時があった。
 陰ってしまった時もあった。
「音羽さん、唯笑、今日は報告に来たんだよ」
 でも、今、彼女は笑顔だった。
 優しく、穏やかな、温かい笑顔。
「唯笑……信君のことが好き」
 そんな唯笑ちゃんだから、許せた。
 そんな唯笑ちゃんだからこそ、私の信を、託すことが出来た。
 そんな唯笑ちゃんに頼ることしか出来ないからこそ、私は哀しかった。
「昨日、告白して、それで唯笑達、つきあうことになったの」
 本当は私が支えになってあげたかった。
 毎朝一緒に登校して、毎日一緒に下校したかった。
 私が右手を差し出したら、きっと信は何にも言わないでもそっとその手を握ってくれる。
 その手は温かくて、大きくって、とっても安心できるのに、ちょっとだけドキドキしてしまう。
「唯笑、信君を支えてあげたい」
 テストの時には、ぐずる信に『もう、信はホントにダメなんだからぁ〜〜』なんて言って、溜め息をついてみせたかった。
 そうしたら、信は大袈裟にこの世の終わりみたいな顔をして私にすがってくるの。
 それで私は仕方ないな〜って、顔をして一生懸命教えてあげる。
「唯笑、信君を守ってあげたい」
 時々、不意打ちみたいに手作り弁当を持ってきてあげて、屋上かどこかで甘々な雰囲気を楽しみたかった。
 信が面白がって、『かおる、はい、あ〜〜ん♪』なんて言って、私に食べさせようとする。
 私は最初だけ恥ずかしがってるんだけど、結局、最後は言いなりになってしまう。
 それで『おいしい?』なんて聞かれて、自分で作ったお弁当に、『美味しい……』なんて顔を赤らめさせながら答えちゃったりする。
「唯笑、信君を幸せにしてあげたい」
 休日には二人で遊園地に行きたかった。
 きっと信は他の女の子達に目をやってしまうから、私は信の腕を思いっきりつねって睨んでやる。
 信は慌てて謝り始めるんだけど乙女の純情をもてあそんだ罪は大きいの。
 私はそっぽを向いて聞く耳も持ってはあげない。
 それで、結局最後はアイスのトリプルで手を打ってあげるんだ。
「唯笑、信君の隣で唯だ笑っていたいの……」
 信の隣で、いつでも微笑んでいたかった。
 信の隣で、最高の笑顔を見せていたかった。
 ただ、それだけのことを叶えたかった。
 どこにでもある、些細な日常の幸せ。
 憧れていたのはそんなことだった。
「だから、音羽さん……」
 でも、もうそれは叶わない。
 何一つとして叶わない。
 私には支えられない。
 幸せにしてあげられない。
 縛ることしかしてあげられない。
 前へと進む足枷にしかなることができない。
 だから、これでいい。
「ごめんね……」
 これでいいの……
 信の中には、私がいる。
 いつまでも私はいる。
 私達はもう二度と会えないけれど、いつだってどこでだって共にある。
 それに、私の中にも信はいる。
 最高の想い出と共に、信はいる。
 私のたった一度だけ叶った、たった一つの願いごと。
 最後の刹那に、信が叶えてくれた私の祈り。
 信はあの時、こう私を呼んでくれた。
『かおる』と……




『みなもは、ヒトゴロシを許してはあげられませんよ』
 そう言ったみなもの言葉に、びくりと稲穂先輩の肩が震えました。
 それを見たみなもの心の中に、言いようのない快感が広がっていきました。
 満面の笑みが浮かんでくるのが、止められませんでした。
 止めようとさえ、思えなくなっていく自分がどうしようもなく恐ろしくて、でも楽しく堪らなくて。
『ヒトゴロシの稲穂先輩?』
 次々と囁いていくのを、どうしても止められなくって……
『いつまで先輩は、そうして逃げ続けているんですか?』
 クスクスと嗤い続けながら、そっと優しく、みなもは稲穂先輩の傷口をやすりで撫で上げていきます。
 できたばかりの乾きかけのかさぶたが、ぼろぼろと剥がれ落ちていきました。
 一度は止まった血が、またじっとりと滲み出てくるまで、そっと擦り続けてあげました。
『そして、稲穂先輩のこの手が……智也さんに、翼を与えたんですよね』
 じゅくじゅくと血で濡れた傷口に、今度は爪を突き立て、力を込めて引っ掻いてあげました。
 稲穂先輩の上げる苦痛の呻きが、みなもの心を酔わせ痺れさせるハーモニーに。
 その顔に浮かんだ苦悶の表情が、みなもの心を溶かし喜ばせる至高の彫刻に。
 夢の中を漂いながら、押し寄せる快楽に導びかれるまま、みなもは更に言葉を重ねていきました。
『おはようございます、稲穂先輩。気分はどうですか?』
 愉悦の表情を湛えたそのままに……
「……………………ッ!!」
 ガバリと跳ね起きたつもりで、でも実はただ目を開いただけ、その目だけをばちりと見開かせたまま、みなもは完全に凍り付いていました。
 最後に響き渡ったのは稲穂先輩の絶望の叫びだったのか、それとも心の奥底で眠っていたみなもの悲鳴か、あるいはその両方か。
 どちらにしても、その叫び声のおかげで、ようやくみなもは夢の世界から解き放たれることができました。
 目覚めたばかりのみなもは、身動き一つ取れないまま、呆然と天井を睨みつけていました。
 息さえ止めて、呼吸器官の限界が訪れるまで、みなもはそうし続けていました。
 そうすること以外は、何もかもの全てを忘れ切ってしまったかのように。
 しばらくして、耳が痛くなるほどの静寂に満たされた部屋に、はぁ、というみなもの息をつく音だけが、ゆっくりと大きく長く響きました。
 何度も見た夢、何度見ても慣れられない夢。
 この夢を見た後はいつもこうです。
 全身が冷たい寝汗でぐっしょりと濡れ、体の硬直がしばらくは解けません。
 ドラマかなにかのワンシーンのような呼吸音は、冗談みたいにゆっくりとしていて、一回ごとの音が異常に大きいのです。
 胸の動悸もとてもスローペースで、ゆっくり息を吐き出すのに併せて、どきんどきんと、胸の小人が胸骨を打ち砕こうとでもしているかのように大きく脈打っていました。
「はぁ……」
 溜め息を声にして出した所で、ようやく強張っていたみなもの全身から力が抜けていきました。
 そうしながら、脂汗でじっとりと滲んだ額を拭っていると、何度も何度も考えたことが次々と頭に浮かんできました。
 みなもは、いつまで生きられるんだろう?
 いつまでこうやって苦しみ続けなければならないんだろう?
 これから、稲穂先輩や唯笑ちゃんとどうやって接していけばいいんだろう?
 智也さんと彩花ちゃんに、なんて言って謝ればいいんだろう?
 そこまで考え再び目を閉じると、また何かが頬を伝っていきました。
 それが何かなんて、もう考えたくもありませんでした。
 みなもはどうしたらいいのでしょう?どうしたかったのでしょう?
 なんでこんなことになってしまったんでしょう?
 どうして、どうしてこんなことに……
 唐突に、違和感を感じました。
 沈黙と漆黒が五感の内の二感を支配する中で、何かがそっと揺らいだような気がしました。
『ごめんね、みなも……』
 それは聞き覚えのある声。
 夢の中以外では聞こえないはずの、忘れられるわけのない、聞き間違えるはずのない声。
『私達の夢に、みなもまで巻き込んじゃって……』
 どうしても聞きたくて、でもどうやっても聞くことは出来ないはずの声。
「彩花……ちゃん?」
 でも、その声を耳にしてみなもが返すことが出来たのはそんな一言だけでした。
 消耗しきったみなもには、それが精一杯だったみたいです。
 気だるい身体をゆっくりと起こすと、ぼんやりとした視界の中心に、中学生くらいの女の子が立っていました。
 どこか現実感の希薄なその少女は、全身を薄ぼんやりとしたとした白い輝きに覆われていて、部屋の暗闇の中に浮き上がるようにしてみなもを見つめていました。
「彩花ちゃん……」
 そして、その背中には純白の翼が。
『みなも……久しぶり』
 そう言いながら微笑んでくれる彩花ちゃんに、みなもは何も言うことができませんでした。
 彩花ちゃんとの再会、それは何度夢見たか分からないくらいのこと。
 言いたいことはいくらでもあったはずでした。
 会いたくて会いたくて堪らないはずでした。
 でも、この闇の向こうに彩ちゃんがいる今、みなもは何も言うことが出来ませんでした。
 ただ、彩花ちゃんが佇んでいるだろう闇を見つめるばかりで……
『ね、みなも?』
「な、なに?彩花ちゃん」
『今日はみなもにお詫びを言いに来たの。後……』
 そこまで言って、彩花ちゃんが続きを言い淀みます。
 そして、十分な沈黙の後、こう言いました。
『……お別れを』
 みなもはますます何も言うことが出来なくなってしまいました。
 そんなみなもに、彩花ちゃんはゆっくりと語り始めました。
 彩花ちゃんのお詫びと、別れの言葉を……
『みなもはもう知ってると思うけど、今ね、私達は哀しい悪夢の物語を紡いでるの。
ずっとずっと、そう、私が死んじゃったあの時から紡ぎ続けてきたの。
望んでそうしてきたわけじゃないのだけど。
それでも紡ぎ続けてきたの。
元々は、この物語にみなもは関係なかった。
だけど、今の語り手は心の強い人だったから、物語は中々結末を迎えられずにいたの。
物語自身の望む結末を、中々受け容れようとしなかったの。
だから、選ばれたのよ。
みなもが。
物語の望む結末への導き手として。
哀しみの、悪夢の運び手として……』
 彩花ちゃんの言っていることはなんとなく分かりました。
 私の心にそっと囁きかけて全てを教えてくれた幼い少女。
 あの女の子こそ、彩花ちゃんの言う物語自身なんだと。
 細かな部分ではよく分からないところもありましたが、みなも自身が今置かれている立場と、彩花ちゃんや智也さん達が置かれている立場というものが、なんとなくだけど分かったような気がしました。
 分かった所でどうにもなりそうもないというのが残念でなりませんでしたが。
『その物語は、多くの語り手の間を脈々と受け継がれてきたの。
そして、その物語の現在(いま)の語り手、それこそが稲穂君。
ある日、稲穂君は一冊の台本を渡されていた、本人には内緒でね。
稲穂君が手にしてしまった台本の最初の登場人物、それが私だった。
そして、最後の登場人物が音羽かおるさん……のはずだった。
でも、稲穂君はそれを乗り越えてしまった。
それで、みなもが選ばれてしまったの。
修正役として。
それでみなもにもいろいろとつらい思いをさせちゃった。
謝って済むことじゃないけど……本当にごめんね?
お願いだから、稲穂君を悪く思わないであげて、彼はただの可哀想なだけの人だから。
そう、どうしようもないくらいに、ただ憐れなだけの人だから……』
 そこまで語り、彩花ちゃんは言葉を切って黙り込んでいました。
 やがて、闇の中に浮かび上がった彩花ちゃんは、瞑目して小さく頭を左右に振りながら、どこか疲れたようにそっと呟きました。
『でも、もうそれもお終い。
何もかもが終わるの。哀しい物語は今日で終幕。
そう、もう、終わらせるつもりなのでしょう?
もう、止めるつもりはないのでしょう?』
 その声色には深い深い憂いの色が秘められていました。
 私にではなく、私以外の誰かに確認をするかのような、その声色には……
 気づけば、みなもを見つめていたはずの彩花ちゃんの視線が、いつの間にかみなもを素通りしていました。
 素通りした先、みなもの背後の空間、わだかまる漆黒の闇がくすぶっている場所。
 ただ闇だけがあり、他にはなにもない、それだけのはずの場所。
 そこに彩花ちゃんの視線は吸い込まれていました。
 そして、背後から滲み始める存在感。
 誰もいない筈のその空間からひっそりと、でも確実に流れ出し溢れ出し始める存在感。
 ようやく落ち着き始めたみなもの胸が、また苦しさを訴え始めていた。
 みなもには、わかっていたから。
 振り向かなくっても、そこに誰が佇んでいるのかが、それが何を意味しているのかが分かっていたから。
――久しぶりだね、お姉ちゃん達――
 耳に届いたのは、男の子のような女の子のような中性的な声。
 脳裏に浮かんだのは、長い髪の愛らしく幼い女の子。
 みなもに全てを教え、みなもの死を予言し、そしてそっとみなもの背中を押して稲穂先輩を絶望の底へと導いた存在……
――それはひどいよ……――
 みなもの想いを読み取ったかのようにそっと声が掛けられ、みなもの背中に悪寒が駆け抜けてゆきます。
 ただそこにいて、ただ言葉を発しているだけなのに。
――私は、お姉ちゃんにいろいろ教えてあげただけ。ただ、それだけ――
『あなたは、どこまで……』
 そういって、小さく含み笑いを漏らす女の子に、彩花ちゃんが何を言い掛けて口をつむぐ。
――ふふふふ……お姉ちゃん、どうしたの?――
『みなも……いい?』
 彩花ちゃんは自分に向けられたその言葉を無視してこちらに向き直って言いました。
『これから、みなもはすごい辛い目に遭ってしまう。でも、私はそれを助けてはあげられない』
「あ、彩花……ちゃん?」
 戸惑うみなもに、真剣な口調の彩花ちゃんが言葉を続けます。
『そうして、もう、こうやってみなもと会うことも出来なくなっちゃうの。
今日で、全てが終わるから。何もかもが終わりを迎えるから』
 クスクスクスクス……
 その真剣な彩花ちゃんの言葉の合間に、どこかで聞き覚えのある嗤い声がしていました。
 彩花ちゃんはどこか辛そうに表情を歪ませながら言葉を続けていました。
 まるで、その嗤い声など始めから聞こえていないことにしようとするかのように。
『だから、みなもとも、今日でお別れ……』
 クスクスクスクス……
 再び聞こえる嗤い声。
 その嗤い声は、遠くから聞こえてくるような気もすれば、すぐ耳元で囁かれているような気もして、音源がどちらにあるのかすら全く分かりませんでした。
『でも、忘れないで。私はいつだってみなもと一緒にいる。
私も、智也もいつだってみなもを見てるから!』
 クスクスクスクスクスクスクスクス……
 焦りの色を見せ始める彩花ちゃんのとは対照的に、その嗤いはだんだんと長く大きくなっていくようでした。
『今、私はみなもを守ってあげることはできない。でも、忘れないで。
自分を信じて、絶望しないで、みなもはみなもだって言うことを、忘れないで!!』
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
 叫ぶように彩花ちゃんはそう言うのを掻き消そうとするかのように、最後にはその嗤い声が耳元で絶叫するように反響増幅して大きく響いていました。
――もう、待ちきれないみたいだね――
 不意に、女の子がそう言いました。
 クスクスクスクス……
「何が……おかしいんですか?」
 今の嗤いは女の子の嗤いだったのかな?
 そう思って振り向かないままみなもが口を開いた瞬間に、嗤いはぴたりと止まりました。
――何がって……お姉ちゃんが一番良く知ってるんじゃないの?――
 その言葉の直後、またも嗤い声が響き始め……
 みなもが言葉を返そうとした直前にまたぱたりと途絶えました。
 まるで、みなものしゃべりだすタイミングが完全に分かっているかのように……
――よっぽど、嬉しいんだね――
 女の子の少し嬉しそうな声がそう言い、また嗤い声が聞こえ始め、目の前にいた彩花ちゃんはどこか憐れむような、そんな目でみなもを見つめていました。
――そうだよね。そんなにお兄ちゃんが憎いんだもの……――
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
――絶望、させてあげたくなっちゃうよね――
 どこかからかう様なその口調と、その内容が何かとてつもなく恐ろしいものに感じられて、冷えきっていたはずの全身に、また新しい悪寒が走っていきました。
――お兄ちゃんの、一番大切な人を奪ってみたくなっちゃうよね?――
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
 お兄ちゃん。一番大切、奪……う?
 断片的な言葉から、一つの答えが、知ってはならない答えが……
――だって、『少なくとも、あと一人』は決められてるわけだから、ね……――
「どういうことですか!?」
 気がついた時には叫んでいました。恐怖も何もかもを忘れ、みなもは叫んでいました。
「あと一人って、大切な人って、どういうことなんですか!!?」
――どういうことって……この『物語』であと一人が死んじゃうのが決まってるのは、前にも教えてあげたと思うんだけど……?――
「それは……稲穂さんに殺されるのは、みなもなんじゃないんですか!?」
――……………………――
「あと一人、死ぬのが決まってるって、ドナーの彩花ちゃんがいなくなって、ただ死を待つことしか出来ない、みなものことじゃないんですか?
稲穂先輩に殺されるのは、もう殺されてしまったのは、みなもなんじゃないんですか!?」
――……………………――
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
――ふふふふふふ……――
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
「何が可笑しいんですかッ!?」
――お姉ちゃん、勘違いしてるよ?――
――ううん、勘違いしてる振りをしてるって、言った方がいいのかな?――
「ど、どうゆう……」
――誰が言ったの?――
「え?」
――お姉ちゃんが死ぬって。私はそんなこと言ってないよ?――
――『あと一人、死ぬのが決まってる』って言っただけ――
――誰が、とか、全部で何人が、なんて、言ったことはないよ?――
「…………そ、そんなの……それじゃぁ、なんだって言うんですか……」
――…………?――
「みなもがやってきたことは、なんだったって言うんですか!!?
最後に死ぬのがみなもだったから、みなもで何もかもが終わるって思ってたから!
なのに、なのに、これじゃあ、なんだって言うんですか!!?」
――さぁ?――
「みなもは、こんなことを望んでなんかないでし。
なんでこんなことに。なんで、なんで……!!」
――お姉ちゃんが、そう願ったからだよ……――
「違います!みなもは、こんなことは願ったりなんかしません!!」
――でも、お姉ちゃん。口許が嗤ってるよ?――
 クスクスクスクス……
「え?」
――ほら、今も……――
 クスクスクスクス……
 遠くから聞こえていたような音。すぐ近くから聞こえていたような音。
 その音が、次第にはっきりと方向性を持って感じられるようになっていきました。
 その音の音源が、次第に収束していきました。
「ま、まさか……」
 そう、声に出した瞬間、忍び嗤いの音が止みました。
 クスクスクスクス……
 そして、声を止めた瞬間また忍び嗤いが。
 闇が……言いました。
――お姉ちゃん、さっきからずっと嗤ってるよ?……とっても、嬉しそう――
 刹那、みなもの体中の産毛がぞくりと総毛立ち、背後からそっと忍び寄って来ていた何かがみなもの全身にすばやく絡まりついていきました。
 闇の中で蠢くようにみなもの全身にまとわりついたソレは、染み込むかのようにみなもの中へとゆっくりと消え始めます。
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
 気づけば、みなもは嗤っていました。
 頭の中一杯に、みなもの狂ったような嗤い声だけが響いていました。
 ふと、気づけば、目の前に彩花ちゃんが映っていました。
 目に涙を一杯に溜めて、みなもを食い入るように見つめていました。
「彩花……ちゃん…………」
 クスクスクスクス……
 何とか、そう呼びかけた直後にも、またみなもは嗤っていました。
 同時に軽い眩暈と共に、意識が急速に白濁していくのが自覚できました。
――みなもが、だんだんみなもじゃなくなってっちゃうよ……――
 クスクスクスクスクスクスクスクス……
 そう言えているのか、ただ嗤い続けているのか、それすらも分からなくなっていきました。
 ぼんやりとした煙るような視界の向こうで、彩花ちゃんが何かを言っているような気がしました。
――嫌、嫌だよ。みなも、こんなの嫌だよ――
 でも、そんな光景もどんどんと遠ざかってゆき、嗤い声だけがますます大きくなっていきました。
――止めてよ、みなもをみなもに返してよ!彩花ちゃん、どこにいるの?みなも、怖いよ、助けてよ、彩花ちゃん!!彩花ちゃん!!!――
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス……
 そう叫んだ刹那、埋め尽くすかのような、圧倒的な音量の嗤い声がみなもの意識を貪っていきました。
 狭く長い真っ暗な回廊の中に、みなもの嗤い声が反響し、もっと反響し、もっともっと無限に反響し、増幅され続け、音質も上がり続け、ガラスを血で濡れそぼった爪で引っ掻き回すかのような、不愉快で、陰惨で、狂気じみた、聴覚を通じて全てを破壊する音色となって、漆黒の回廊をもっと昏い闇色で塗り替えてしまうかのような、そんな、そう、絶望的な絶叫となって……
 最後に、みなもの脳裏に小さく優しく、でも残酷に響いたのは、女の子のこんな囁きでした。
――さ、お姉ちゃん。お仕事の時間だよ――
 稲穂先輩、唯笑ちゃん、ごめんなさい。
 本当に、本当に、ごめんなさい……
 きっと、みなもが届けてしまう
――絶望を……ね――




11月17日
運命の日
ある者は己の役目を再確認し
ある者は親友と語らい
ある者は愛する者についてを語らい
ある者はただただ恐怖し涙していた
それぞれが、それぞれの朝を迎えたこの日
何人の者が気づいているのだろうか?
一年前の今日と同じ日
一人の少年が、想い出の呪縛を断ち切り未来へと向き直った事を
一人の少女が、心の底から唯だ笑った事を
今日、11月17日
運命の日
彼らは今、まさにこの日を迎えていた
愚かなほどに勇敢で、美しいほどに残酷で、憐れなほどに愛し過ぎる絶望的な一日
そんな悪夢の物語の終焉の日を……




Memories Off Nightmare
最終章「虹かかる刻」
 Produced By コスモス




「それじゃ、お母さん。いってきま〜〜〜す」
 ある晴れた朝。台風一過、そんな言葉を使いたくなるような昨晩の天気からは考えられないような素晴らしい青空。
 全ての汚れが、欠片も残さず洗い流されたかのように、どこまでも真っ青な大空だった。
 遥かなる高みの世界が、どこまでもどこまでも無限に広がっていた。
 その太陽の恵みを一杯に浴びた大地の上に、一人の少女が姿を現す。
 頭の上二ヶ所で縛った髪型が、小柄で童顔なのとあいまって、とても愛らしく良く似合った可愛い女の子だった。
「あ、みなも〜?そんな傘なんかなんて持っていってどうするの?
今日はもう降水確率0%って言ってたわよ〜?」
 そんな娘を玄関先まで送りがてらに出てきた中年女性がそう言った。
「あ、この傘はこれでいいの」
「ふ〜〜ん、ま、いいならいいんだけど……
あんまり遅くならない内にちゃんと帰ってくるのよ?
最近は調子いいけど、無理なんかしたら絶対ダメだからね?」
「は〜〜〜い、じゃ、いってきま〜〜す♪」
「はい、いってらっしゃい」
 そんな取り留めのない会話を交わした後、女の子はゆっくりと歩き出す。
 母親が見守る中、女の子は道路に出て3メートル程の所で、手にした傘のワンタッチボタンを押してバサッと広げる。
「日傘代わりか……あの子も、もうそんな年頃なのかねぇ……」
 そんなことを呟きながら母親は踵を返して家の中へと戻っていく。
 そして、バサッと広げられた傘が、女の子の持つ手の動きに従い、背後へとゆっくり回され、頭・背中と、その姿を順に覆い隠していく。
 そして、ゆっくりと後ろへ回された傘は、そのまますとんと地面へ落下していた。
 その向こうに女の子の姿は既になく、そこには女の子のいた痕跡すら残されてはいなかった。
 まるで、最初からそこに女の子などいはしなかったかのように……
 しばらくして、突如として旋風がその通りを駆け抜けていく。
 冬の木枯らしというにもあまりに強すぎるその突風は、通りに落ちていた無数の落ち葉と一緒に、その女の子の傘をも持ち去っていく。
 遥かな高みへと舞い上がり、くるくる、くるくると気持ちよさげに廻ってどこかへと飛び去ってゆくその傘は、眩しいほどに真っ白だった。
 青い空に良く映える雲のように、ただひたすらに、眩しいほどに、真っ白だった。




「それでは、ごきげんよう」
「またね〜」
 一人の少女は上品で柔らかな微笑みと共にそう言い、もう一人の女性は楽しげで穏やかな微笑みと共にそう言いながら歩み去っていく。
 初冬の日溜まりの中二人の姿は遠ざかり、やがては生垣の向こうへ消え、街へと続く長い石段へと向かっていった。
 後には、線香の煙と小さな花束だけが残され、辺りはゆったりとした静寂に包まれていた。
 その沈黙の中、線香から伸びる白煙が、細く長くゆらゆらと、唯だ無心に空を目指し続け、小さな花束は陽光を目一杯に吸い込んで日向ぼっこを楽しんでいた。
 ようやく線香の長さが半分位になった頃、がさりと近くの茂みで音が鳴る。
 そこからひょっこりと姿を現したのは一匹の猫。
 その猫はとことこと線香と花束のある墓石の横まで歩いてくると、ふわぁ〜と大きな欠伸を目に涙さえ溜めながらすると、体を丸めて墓石を枕代わりにたちまち眠り込んでしまった。
――おいおい、お前な……――
 失笑の気配と共に、空気を振動させない声なき声が響く。
――この子、ほんとに智也が好きなんだね……――
――きっと智也は、ケモノの類に好かれやすい体質なんだろうねぇ――
 次の瞬間には、その猫を見下ろすような形で、3つの輝きがそれぞれの自らの墓石の上に腰掛けていた。
 白き翼と紅の翼、そして黄金色の翼。
 三対合計六枚の翼、それが今ここに、一堂に会していた。
 やがて、翼と同じ紅の光に包まれた天使が囁く。
――もう、いいのか……?――
 応えたのは黄金色の煌き。
――信なら、大丈夫。私達がいなくても、きっと大丈夫――
 締め括ったのは純白の輝き。
――それに結局、私達はあの子の前には無力だから。元から、長く居すぎちゃったんだよ。もう、還らないと――
 そして、ゆっくりと頷きあう。
 紅き天使がそっと眠る猫の耳元で何事かを囁いた次の瞬間、三対の翼が一斉に打ち鳴らされる。
 三つの輝きはぐんぐんと大空へと翔け上がり、たちまちの内にその姿は青空に溶け込み消えてしまった。
 その溶け込みようは余りに自然すぎて、まるで、そんな輝きなど始めから存在せず、ただ夢か幻があっただけのようでさえあった。
 輝きが存在した痕跡といえば、せいぜい急に目を覚ました猫が、遠吠えのような、慟哭しているかのような、そんな物悲しい鳴き声を上げていることぐらいしかなかったのだから……




 濁った水が、うねりを上げながら下流へとすごい勢いで押し流されてゆく。
「なんつー勢いだよ……」
 いつもの穏やかな風景とのあまりのギャップに、思わず俺は呟いていた。
 俺は今、藍ヶ丘と隣町との境となっている川にかかっている、一本の鉄橋の上へと来ていた。
 川上には紅葉も終わり、冬支度へと向かいつつある寒々とした山並みの風景が。
 川下には河口の風景、数百メートルも下った先では、大きくうねる冬の波がコンクリートの防波堤に打ち付けられ、砕け散った白い飛沫が高々と跳ね上がっている。
 そんな物寂しくもいつもとなんら変わることのない遠景に比べて、足元の近景は本当に違いすぎていた。
 普段のこの川は、両岸の堤防から堤防までの間のスペースの4割方が河川敷になっており、河川敷グランドの名前で休みの日には少年野球やら何やらでいつも賑っている。
 そして、その河川敷に挟まれた川それ自体も、水量こそ豊かなものの、ゆるゆると静かに、はるか上流から海へと続く長い旅路の最後のゴール、河口へと向かってゆっくり穏やかに流れてゆく。
 その様子は静かで優しげで代わり映えしなくて、長い間見つめていると眠気すら誘われるような眺めのはずだった。
 だが、今の眼下の風景にはグランドも畑も葦の原も、どれもその影すら残ってはいない。
 それどころか、堤防から堤防までを隙間なく埋め尽くした茶色の奔流の中では、自転車や流木、建築物のなれの果てやらまでが、凄い速さで押し流されていく。
 ところどころで、離島のように一・二本の木の枝葉だけが顔を覗かせているのが、いつもの風景の名残りのようで印象的だった。
 時折下方から響いてくる鈍く重い音、そちらを見やれば橋脚にぶつかって真っ二つにへし折れた太い流木がそれぞれに別れて流れていく。
「まじかよ……」
 その迫力満点の光景に、苦笑しながらも俺は無意識の内に手擦りから身を乗り出していた。
 それにしても……
「信君?」
 唐突な横合いからの呼びかけに、俺の中をよぎりかけた一つの予感が霧散する。
「……唯笑ちゃん」
 視線を川面から橋上へと戻せば、そこには心持ち心配そうな表情を浮かべた唯笑ちゃんが立っていた。
「なんだかぼ〜〜〜〜〜〜っと、してたみたいだけど、どうしたの?」
「いや、すげぇ状況だなぁって」
 そう言いつつ顎をしゃくって川を指し示してみる。
「そっかぁ。昨日の夜は凄かったもんねぇ。でも、良かった♪」
「ん?何が?」
 顔を綻ばせる唯笑ちゃんの真意が分からず問い返す。
「あのね、てっきり唯笑、信君がまた智ちゃんや音羽さんのことを思い出してるのかなって。なんか真剣な顔してたし、唯笑がここまで近寄っていったのにも全然気がついてなかったみたいだから」
 思わず苦笑いしながら俺は答えを返す。
「おいおい唯笑ちゃん。俺だって別に四六時中かおる達のことばっかり考えてるわけじゃないって。つーか唯笑ちゃん、今のは微妙にひどくないか?今の言われ方だと、まるで俺がかおる達のこと以外じゃ真剣な顔をしないみたいじゃないか」
 嘘だった。
「え?あ、あはは……
やだなぁ、信君、気のせいに決まってるよ〜」
 気のせいではなかった。
「本当かよ?案外唯笑ちゃんもきっついよなぁ」
 適当に唯笑ちゃんを誤魔化しつつも、内心うんざりとする。
 そう、俺は四六時中かおるのことを考えていた。
 今だってそうだった。
 確かに俺は空を見たり、山並みを見たり、足元の川の流れを見たりしていた。
 でもそれは表層的な話。
 いつだって心の片隅には、智也のことが消えずに残っていた。
 ホワイトボードにマジックで書いた文字の跡のようなものだ。
 ボードをちょっと拭けばパッと見はすぐに見えなくはなるけれど、白い中にも更に白いペン跡だけがどうしても残ってしまう。
 いつだって残ってしまう。
 そう、いつだって、どんな時でも、だ。
 前髪を揺らす秋風。
 全てを押し流す茶色い濁流。
 鮮やかな赤から、茶褐色と暗い緑へと変わった山。
 わずかにでも気を緩めると、途端にそれらの俺の五感を刺激する全ての存在が、どこか別の場所の出来事のように感じられてしまう。
 全てが、色を失ったモノローグの向こう側へと消えてしまいそうだった。
 悪夢の始まりを告げた桧月さんの微笑みが、今この時にも俺の脳裏に鮮明に焼きついていた。
 足元から聞こえてくる音の奔流が、迫り来るトラックのブレーキ音に聞こえて仕方がなかった。
「……信君?」
 急に黙り込んだ俺を不審に思ったのだろう。
 どことなく不安げな様子で唯笑ちゃんが俺を覗き込んでくる。
 その顔を、逆に覗きこみ返し、脳裏の視覚認識を唯笑ちゃん一色に埋め尽くしながら俺は確信していた。
 そうだったんだ。やっぱりそうだったんだ。
 俺は迷っていた。
 自分の決意が貫き通せるものなのか。
 もう、後戻りは出来ないというのに、今更になって怖気づいていたんだ。
 昨夕、唯笑ちゃんを受け容れた瞬間。
 未来の希望を信じ、唯だ微笑み、俺が幸せになることを望んだその瞬間。
 どうしたって彼女の訪れが避けられなくなるということは、分かりすぎるほどに分かりきっている。
 今朝にもそれを、智也と確認しあったばかりだっていうのに。
 なのに俺は彼女を恐れ、なんとか現実から目を背ける方法がないかと必死で逃げ惑っていたんだ。
「ね、ねぇ?信……君?」
 そうして唯笑ちゃんにまでいらない不安を撒き散らしていたんだ、俺は。
 そこまで考えると、ふっと肩の荷が下りたような気がした。
 なんのことはない。
 昨夜のあの時、すでに俺は決断を済ませてしまっていたんだ。
 良くも悪くも、もう後戻りなんてできはしない。
 俺一人では無理かもしれないけど、この目の前の少女がいてくれる限り、俺は、俺達は大丈夫だ。
 俺はあの時、そう信じて決断した。
 なら、迷うことはない。
 もう、夢を見ているのは俺だけじゃないんだから。
「なぁ……唯笑ちゃん?」
 俺の隣で、ずっと俺を支え続けてくれていたこの少女が、俺と一緒に夢見てくれる。
 だから俺は、唯だ微笑んでくれるこの少女を頼ればいい。
 この少女、今坂唯笑ちゃんを、唯だ信じて!
「なぁ、唯笑ちゃん。俺、ちょっと不安になってみたいだよ」
「信君……」
 そして、俺は唯笑ちゃんから目を逸らして、再び荒れ狂う川面へと視線を向けながら語り始める、俺の想いを。
「今までも、ずっとずっと怖がってきたんだ。
でも、俺はそのことを誰にも話すことはしなかった。
結局、俺は信じられなかった。
誰一人として、信じることができなかったんだ。
智也に、かおるに、『巻き込んでしまうから』って言い訳をして、結局あの子のことは最後まで俺の胸の中にしかなかった。
二人には、伝えなかった。
そう、俺が伝えなかったんだ。
伝えようと思ってさえいれば、いつだって伝えることは出来たのに。
俺が手渡されていた物語を語って、こう言えば良かっただけなのに。
俺だけでは持ちきれそうもない。
だから、俺を助けてくれないかと。
たったそれだけのことだった。
それだけのことでしかなかった。
何もかもが手遅れになるまでに、そうしていれば良かったんだ。
でも、俺はそれをしなかった。
俺が、しなかった。
だから、二人は死んだ!
死んでしまった!!
俺が殺してしまった!!!」
 最後は、意味もなく叫んでしまっていた。
 唯笑ちゃんは、どう思っているのだろうか?
 あの子のことなどは分からないだろうから、話の全てが分かるわけじゃないだろう。
 でも、俺の言いたいことは、唯笑ちゃんなら分かったはずだ。
 伝わったはずだ。
 間違いなく……
 ゆっくりと、俺は振り返って唯笑ちゃんを見る。
 そこにいたのは、優しげな笑みを湛えた少女。
 唯笑ちゃんも、俺に習うように鉄橋の手擦りに体を預け、川面に視線を向けると大きく一つ深呼吸をする。
 そして、俺と同じ様におもむろに語り始める。
「唯笑ね、彩ちゃんと智ちゃんと、ずっと昔から、とってもちっちゃい頃から一緒だった。
唯笑達はいつも三人一緒で遊んでた。
唯笑が何か叱られるようなことをすると、彩ちゃんと智ちゃんが飛んで来て守ってくれた。
それで唯笑は彩ちゃんの背中の後ろから『そうだそうだ〜』って、言ってた。
今、思い出してみると唯笑、ずいぶんずるい子だったかもしれない。
でも、それでも全然良かった。
智ちゃんはいつだって変なことばっかり思いついていて、彩ちゃんはそれに振り回されてるみたいで、だけど本当は振り回されてなくて、唯笑は唯だ笑っていればそれで良くて。
あの頃の唯笑達は、唯だ幸せだったの。
そんな頃、唯笑達、一つの約束をしたんだ。
最初に言い出したのは彩ちゃん。
私達三人、いつか離れ離れになっちゃうかもしれないけど、心はいつだって一つだよ。
どんな時でも、どんなことになっちゃっても、心だけは、想いだけは、いつだって、どこにいたって必ず三人一緒なんだよって。
でも、彩ちゃんがあんなことになっちゃって、最初は智ちゃんがその約束を破っちゃった。
智ちゃんは、自分を責めて、自分を恨んで、自分を憎んで、心を閉ざしてしまった。
自分の想いの中だけに閉じこもって、彩ちゃんとも唯笑とも離れ離れになっちゃった。
それから、次に約束を破ったのは唯笑。
やっと智ちゃんが唯笑と彩ちゃんの所に還って来てくれたと思ったら、その途端に智ちゃんは彩ちゃんの所に逝っちゃって、それで今度は唯笑が自分の想いの中に閉じこもっちゃった。
昨日も言ったよね?
それを助けてくれたのは、智ちゃんと唯笑を還ってこさせてくれたのは信君だって。
そうだよ、唯笑はいつだって誰かに頼ってたの。
彩ちゃんと智ちゃんがいた時は二人に、二人がいなくなったら信君や音羽さん・詩音ちゃん・小夜美さん……
いつだって、どんな時でも誰かに支えてもらって、手を引っ張ってもらって、励ましてもらって、それで唯笑は今ここにいるの。
勿論、それが間違ってただなんて、唯笑は思わないよ?
いっぱい迷惑は掛けちゃったけど、それが間違いだなんていったら、それこそみんなを裏切ってしまうから。
だから……
唯笑も支えるよ!
詩音ちゃんがつらいなら詩音ちゃんを!
小夜美さんがつらいなら小夜美さんを!
唯笑に支えきれるかは分からないけど、でも何かをしてあげたいんだよ。
それで、今、誰よりもつらくって、哀しくって、支えが必要な人、それが信君!!
信君を見てると哀しすぎて切なくなってくるから。
唯笑まで泣きたくなってきちゃうから。
だから、唯笑は信君の支えになる。
唯笑だってまだまだ信君に支えて欲しいし、ずっとずっと支えになり続けてあげたい。
傷を舐めあってるだけだって、そういう人もいるかもしれない。
でも、傷を舐めあったらいけないの?
哀しいことがあっても、辛いことがあっても、何でも自分の中だけで解決して乗り越えなきゃいけないの?
そんなことない、そんなことはなかったよ。
唯笑は、そんなに強くなかったから。
助け合って、支え合って、一緒に手を繋いで生きていったって、唯だ笑っていられればそれでいいもん。
一緒に歩きながら、もっとお互いを好きになっていければ、それで唯笑は幸せ。
そうしていられれば、智ちゃんも彩ちゃんもきっと喜んでいてくれる。
……そう、唯笑は思うんだ」
 その川面を見つめる少女の横顔は、哀しみを知っている顔だった。
 絶望を知っている顔でもあった。
 だが同時に、希望を見失っていない、強い顔でもあった。
 眩しかった。
 ゆっくりとこちらへと向き直ったその少女の前髪を揺らす為、微かに吹き抜ける冷たい風が流れ去っていく。
 唯笑ちゃんの上気した頬をそっと撫で上げ、熱を冷まして上げようとするかのように……
 その顔にあるのは、唯だ無邪気な微笑み。
 余りに眩し過ぎて、俺は目を背けたくなってしまうけれど、でも俺は決して目を背けはしない。
 なぜなら、俺は彼女に支えてもらうと同時に、彼女を支えてあげるパートナーでもあるのだから。
 いつもその隣に立って、穏やかな微笑みを湛えて、手に手を取り合っていかねばならないのだから。
 俺も、こんな所でいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
 そして、俺は改めて唯笑ちゃんに向き直ると長い長い物語を語り始める。
 俺が、いつの間にか受け継いでしまっていた『物語』の全てを。
 いつから始まったのかも、前の語り手がどんな新たなページとなって散ったのかも知らぬまま、俺は『稲穂信の章』朗読し始めていて、今日こそがその章のエンディングであるということ。
 それらの全てを、俺が理解できている全てのことを。
 結局、かおるには話せないまま隠し続けてしまったことまで、あの女の子のことまでを含めた全てのことを、俺は唯笑ちゃんに語りきり、最後に唯笑ちゃんの瞳を見つめながらこう頼んだ。
「俺は、唯笑ちゃんのことが好きだ。唯笑ちゃんに、俺の隣にいて欲しい。俺を支えていて欲しい。
……頼めるかい?」
 足元では茶色の濁流が轟音をがなりたて、大空では寒風が舞い踊り、空の蒼をより一層引き立てている。
「信君、唯笑はもう昨日約束してるよ?」
 視界を蒼一色に染め抜くために、俺は大空を見上げた。
「……ところで話は変わるけど、唯笑ちゃん、今日はどうしてこの橋に?」
 見上げた空はどこまでも果てしなく広く、雲一つなくて。
「え?みなもちゃんに呼ばれたんだよ?」
 たった一つの染みを除いて、抜けるような青空で。
「やっぱり、唯笑ちゃんも呼ばれてたんだ」
 くるくる、くるくると気持ちよさげに廻っていた。
「喚ばれてたんだね、あの子に……」
 どこまでも優しげで、どこまでも残酷そうな微笑みを連想させる傘が。
「……約束」
 白い傘が、純白の染みが、風に乗って一直線にこちらへと。
「確かに昨日、約束したね」
 風は俺達の頭上で止まったようだった。
「うん」
 アスファルトに何かが落下してきて、そっと控えめな乾いた音がする。
「なら、なろう」
 そして、俺達の背後で、白い、眩しいほどに真っ白な傘がそっと持ち上げられるのが視える。
「……二人で生きて、二人で笑って、二人で揃って、一緒に幸せになろう」
 まるで、その純白の傘の向こうに、誰かが佇み、その傘を持ち上げているかのように。
「それが俺達の、約束なんだからね……」




「はぁ、やっと終わりね〜。あぁ、疲れた〜」
 階段を降りきって、ようやく私は一息をつく。
「ふふふ、お疲れ様でした、霧島さん」
「ここは上からの眺めがいいのはいいんだけど、この階段がきついのよねぇ〜〜
本当、もう少し来訪者を労わって欲しいよねぇ」
 こんなことを詩音ちゃんに言っても仕方がないのはわかってはいるが、ついつい愚痴ってしまう。
 そんな私を見て、なぜか詩音ちゃんが面白そうに含み笑いを堪えている。
「な、何よ〜、詩音ちゃん。なんか私、変?」
「いえいえ、全然そんなことはないですよ〜」
 そうは答えながらも、笑いを堪えようと辛そうに歪んでいるその目に説得力はない。
 おにょれ、あれは絶対にそんなことある顔だ!
「ああ、霧島さん。何でもないんですから、そんなにむくれないで下さいよ〜」
「そんな頬をぴくぴくさせながらそんなこと言ったって、全然信用できないんだから、さっさと白状しちゃいなさい!全く、この子は〜〜」
 そう言った途端、詩音ちゃんが小さく吹き出して笑い始める。
 けらけらと、本当に面白そうに。
「わ、分かりました。言います、言いますから、そんなに怒らないで下さいよ〜〜」
 そこまで言って、また吹き出す。
 どうやら妙なツボにはまったらしい。
 なんとなく嫌な予感を感じながら、私は詩音ちゃんの種明かしを待つ。
「あ、あのですね。怒らないで下さいよ?なんとなく思っちゃったんですよ。なんとなくですよ?本当はそんなこと全然ないんですからね?」
 どうも奥歯に物が挟まったような言い方だけれども、嫌な予感が強くなっていくのがひしひしと感じられる。
「さっきの『あぁ、疲れた〜』辺りからなんとなく思っちゃったんですけど、なんだか、妙に……」
 うあ……
 未来が見えるぅ。
 って、そんなかっこいいものじゃ全然ないのだけれど、詩音ちゃんがこの後何を言おうとしているのかが想像できてしまう。
「おばさん臭いなぁ、なんて思ってしまいまして♪」
 嫌ぁああああああ。
 予想通りの言葉を聞かされ、思わず両耳を塞ぎ、頭を抱えてしゃがみこんでしまう。
「聞こえない、聞こえない。私は何にも聞いてない。私はおばさん臭くなんかない〜〜!!」
「……あぁ、霧島さん、そんなに落ち込まないで下さいよ〜〜」
 笑いを噛み殺したまま、詩音ちゃんが私を慰めようとする。
「この口か!この口か!!
このびゅーりほー女子大生、霧島小夜美様をつかまえて、おばさん臭いなんぞとのたまうのはこの口か〜〜〜!!んん〜〜!?」
 言いつつ、詩音ちゃんの上唇と下唇を親指の腹と人差し指の第二間接部の横っ腹で押さえ込みながら、上下にぶるぶると小刻みに振ってあげる。
 最初はむ〜む〜言っていた詩音ちゃんだったが、私がちょっと手の力を緩めてあげた機を逃さずに脱出する。
「もう、何するんですか!?」
 ぷはぁ〜、と大きく息をついて開口一番にそう言ってくる。
「ほほぉ、まだ教育が足らなかったみたいね〜。今度は左右にぶるぶるの刑がいいのかな〜〜?」
 右手を軽くわきわきさせながらそう言って一歩間合いを詰めると、まだその目に笑みを浮かべたまま、詩音ちゃんが一方後ろに下がる。
 二歩近づけば、二歩下がる。三歩近づけば、三歩下がる。
 そんなことをして、最後にはなし崩し的に鬼ごっこのような形になってしまう。
「もう許してくださいよ〜〜」
「こらぁ、待ちなさ〜〜い!!」
 そして、数歩駆け出したところで、突然詩音ちゃんが立ち止まる。
「え、ちょ……!?」
 予想外の急ブレーキに、大半の勢いは殺せたものの、私は対応しきれずに詩音ちゃんに抱きつくような形でなんとか止まる。
「もう、今度はなんなの〜?」
 そう言いながら詩音ちゃんの横顔を見る。
 そこに浮かんでいた表情は、怪訝そうではあっても、さっきまでの調子とは明らかに違うものだった。
 その変化につられて、私も思わず詩音ちゃんの視線を追いかける。
 詩音ちゃんの視線の先には、どこか見覚えのある一匹の猫いて、こちらをじ〜っと見上げていた。
「あの猫が……どうかしたの?」
 良く分からないまま、詩音ちゃんにそう問いかけながら、不意に自分の既視感の正体に私は気がつく。
「たぶんあの猫、みか……」
「ああ、あの猫!なんか見覚えあるなって思ったら、随分前にここでごろごろしてた子猫ちゃんに似てるんだ!!」
 詩音ちゃんの言葉を遮り、思わずそんな驚きの声を上げてしまう。
「……ひょっとすると、飼い主の墓参りにでも来てたのかもしれませんね。その猫、たぶん三上さんのうちで飼われてた猫ですよ」
「へ?」
「三上さんが亡くなられてからは見たことがありませんから、見間違えているかもしれませんけどね……」
 思わず二人して、逆にその猫をじっと凝視してしまう。
 するとその猫は、まるで私達の一連の会話が終わるのを待っていたかのようなタイミングでこちらへと歩み寄ってくると、私達に向かって一声みゃあと鳴いた。
 詩音ちゃんに視線を戻すと、考えることは同じなようでちょうど目があってしまう。
 無言のまま二人して猫に視線を戻すと、その猫はまたもみゃあと一声鳴いて、今度はゆっくりと走り出す。
 そして、10メートル程離れた所でこちらを振り向き一声鳴くと、またゆっくりと走り出す。
「これってひょっとすると……」
 私が言いかけた言葉を詩音ちゃんが続ける。
「ついてこい、ということなのでしょうね……」
 それから私は、久しぶりに持久走にチャレンジすることになってしまったのだが、なぜだかこの時の私には、そうすることがどうしても必要なことであるように思えてならなかった。
 もちろん、特に何かの根拠があったわけではない。
 でも、それでも私達は走らずにはいられなかった。
 後になって思ったのだけれど、きっとこの時こうすることこそが、見守る者としての唯一無二の義務だったのだろう。
 この運命の日の運命の刻、その最後の結末の瞬間を見届けること。
 その責務を果たす為にこそ、この日のこの持久走は不可避な義務だったのだと思う……




 蒼い空の中から、滲み出るように現れたのは一輪の白い花。
 可憐なその純白の花は、風の囁きにその身をそよがせ、吹き流され、ただ漂い、そうしてここまで導かれるままにやってきたのだろう。
 俺の記憶に、絶望と悪夢とを共に焼きつけたその純白の白い傘。
 その到来の意味すること。
 それ、すなわち……
 俺は、ゆっくりと、そう、できうる限りゆっくりと、でも躊躇うことなく振り返った。
 振り返ったそこにいる相手が誰なのか、そして今から何が始まろうとしているのか。
 俺は全てを理解していたから。
 今日こそが、今こそが運命の刻だということを。
「おはようございます。唯笑ちゃん、稲穂先輩」
 四度目の運命の刻だということを。
「み、みなも……ちゃん?」
 先にそう答えたのは唯笑ちゃん。
 三度、かつて俺は運命の刻を迎えた。
「……久しぶり、でもないか。あの夢の中以来かい?」
 遅れて俺は、そう答える。
 一度目は、どうすることも出来なかった。
 自分が突如として放り込まれた舞台に驚き戸惑い、どうすることもできないで、身じろぎ一つ出来ないまま、ただ桧月さんを見殺しにして、智也が絶望の海に沈むのを唯だ見つめていた。
「い、稲穂先輩?何を……言ってるんですか?」
 戸惑うように、後輩の少女の姿をしたその女の子が答える。
 二度目は、気づいたときには何もかもが手遅れだった。
 あの日以来、思い返す度に右手の手の平がちりちりと痛む。
 あの忘れられないような大雪だったあの日、この俺の右手が、あいつを死地へと送り出してしまった。
 そうして、唯笑ちゃんが絶望の雪に埋もれていくのを、ただ為す術もなく無言で見つめていた。
「もう、演技は必要ないと言っているんだよ。
……君のことは、誰よりも俺自身がよく知っている。そうだろ?」
 返した俺の言葉に、女の子が沈黙する。
 三度目は、俺は抗った。抗い続けた。手段を選ばず、なりふり構わず抗い続けた。
 でも、足りなかった。
 足りなかったんだ。
 結局、俺は怯え続けていただけだった。
 あんな簡単なことを、たった一つ、俺はどうしようもないミスをしていた。
 そのミスは致命的だった。
 だから、俺の愛する彼女もまた散った。
 黄金色に輝く血溜まりの中で、壊れて捨てられた人形のようになって。
 かおるは、俺の腕の中で死んだ。
 俺の為に微笑みを浮かべて、俺にありがとうと囁き、俺の未来を案じながら、俺に殺されて遥かなる高みへと還った。
 愚かな俺には、俺の腕をすり抜けて血溜まりに落ちるかおるを見守ることしかできはしなかった。
 ただ、跳ね飛ぶ血飛沫が黄金色に煌めくのを、見守ることしかできはしなかったのだ。
「…………ふふふふ」
 目の前の、みなもちゃんの姿をした女の子が微笑みを浮かべる。
 どこまでも優しげで、どこまでも残酷そうな微笑みを。
 そして、迎えた四度目の刻。
 俺は、今度こそこの子を止めることが出来るのだろうか?
 もう既に定められたことを、俺自身の意思で書き換えることができるのだろうか?
 この無限に続く悪夢の宴に、終止符を打つことが出来るのだろうか?
 俺の愛する少女を、唯だ微笑ませ続けることができるのだろうか?
 全てはこれから始まり、そして終わる。
 物語は終わる。
 始まりにして、終わりの刻、運命の刻。
「さぁ、始めようか!」
 俺の宣言の瞬間、微かな震動が感じられた。
「ねぇ、お兄ちゃん?なんだか凄い盛り上がってるみたいなのに悪いんだけど……」
 そう言う彼女の声は、男の子のようであり女の子のようでもある、どこか中性的でひどく幼い、聞き覚えのあり過ぎる忘れようのない声で……
「み、みなも……ちゃん?」
 一人状況について来れていない唯笑ちゃんが、みなもちゃんの雰囲気と声の変化に戸惑い、怯えた表情で俺の上着を右手で掴む。
「この子が……さっき話した彼女なんだ。今のみなもちゃんは、もうみなもちゃんじゃない」
 微かな震動に全身を震わせながら、俺は短く唯笑ちゃんに説明をする。
 唯笑ちゃんの顔に疑問と驚愕、疑惑に衝撃と様々な表情が浮かんでは消えていく。
「……う、嘘……」
「他に答えはない」
 俺の短いこれ以上なく断定的な解答に、唯笑ちゃんの顔に困惑の色と理解しようとする色とが交互に広がっていく。
 ほどなくして色の塗り替わりが終わり安定していく。
「わかった。唯笑、信君を信じるよ」
「ありがとう、と言いたいところだけど……この状況じゃ、俺の説明ぐらいしか納得できそうな方法はどの道ないみたいだね」
 その俺の囁きを肯定するかのように、気のせいでもなんでもなく、俺達を震わせている震動が徐々に勢いを増し始めている。
「もう、お兄ちゃんと話し合うことは、何もないと思うんだ……」
 最初はともかく、今では間違いなくその揺れを感じずにはいられないような状況にあって、女の子だけは全くその揺れの影響を受けていないかのように、髪の毛の先すら震わせることなくそう言ってくる。
 その顔には、相変わらずの場違いすぎる微笑みが。
 おそらく女の子の立っているそこだけは、本当に全く揺れていないのだろう。
 どこまで不公平なんだ!そんなことを心中で毒づきながら、俺はなんとか手近な手擦りにつかまり身体を固定する。
 続いて俺の上着をつかんでいた唯笑ちゃんも、片手で手擦りをつかみ、残った片手で俺と手を繋ぐといった体勢で落ち着く。
「お兄ちゃんは……私がなんなのか、もう分かってるんだよね?」
「ああ、君は……」
「そう、絶望……悪夢から生まれた絶望。
ひょっとすると、私の方から最初に悪夢が生まれたのかもしれないけど。
今となっては誰にも分からないこと……
でも、ただ言えること。
悪夢の前には、何もかもが無力。唯だ、絶望するだけ。
絶望の前には、何もかもが無力。唯だ、悪夢に呑み込まれるだけ。
希望も、絆も、想いも、微笑みも、幸せも……」
「……………………」
「何もかも……そう、何もかもが呑み込まれちゃう。
お兄ちゃんも、そう。これから悪夢に呑み込まれて絶望するの。
分かってたんでしょ?
なのに、どうして?
どうして……?
どうしてなの!?
どうしてお兄ちゃんは絶望しなかったの!!?
苦しいだけなのに、想いが厚ければ厚いだけ、絆が強ければ強いだけ、もっともっと哀しくなるだけだって分かってて、どうして絶望しなかったの!!?
お兄ちゃんがもっと早くに絶望しなかったから、お兄ちゃんはこんなにたくさんの悪夢を撒き散らしちゃったんだよ!?
わかってるの!?」
 嗤っていた。
 女の子は嗤っていた。
 そして、涙を流していた。
 俺を嗤っているのか、あるいは自分を嗤っているのか。
 おそらくはその両方、何もかもを、目に映るものの全て、耳に聞こえるものの全て、手に触れるものの全て、五感に感じられるありとあらゆる物の全てを嘲笑い、全てに哀しみ絶望しているのだろう。
 自分が泣いていることに気づいてすらいないだろうその女の子は、少しも美しくなく綺麗でもなかった。
 ただ、果てしなく、どこまでも凄絶だった。
 隣で息を呑む音を聞きながら、いつかどこかで見た顔だと感じていた。
 この女の子は、こうやって悪夢と共に歩み続け、ただ絶望を撒き散らし続けてきたのだろう。
 そして、これからも歩み続けようとするのだろう。永遠に……
 俺には分かった。
 何もかもに絶望し、全ての希望を捨て去っていたあの頃、俺自身が文字通り彼女そのものだったのだから。
 俺は、あの女の子で、あの女の子は俺だったのだから。
「それでも、俺は君と一緒には歩いていけない。
俺は君にはなれない。俺はもう、二度と絶望はしないよ」
 俺の短い応えに、女の子からの応えもなかった。
 次第に震動が激しさを増し、手擦りがなければ立っていることすらままならないような状況の中、俺と女の子は互いに何も言いはしない。
 分かっていたから。
 女の子が言ったように、もう、俺達の間に話し合うことは何もないということが。
 それでも叫ばずにはいられなかったのは、悪夢を撒き散らす少女に残った最後の良心の欠片が、自らを苛んでどうしようなかったからだろう。
 でも、その最後の儀式すら、今、まさに終わろうとしていた。
 俺は女の子を視る。
 そこにいたのは、一つ年下の伊吹みなもという後輩ではなく、髪の長い幼い少女。
 前髪の奥に隠れてその瞳を視ることはできないけれど、切なげに揺れる長い髪と白いワンピースの裾が唯だ哀しかった。
 女の子が、そっと、その手に持った白い傘を空に向かって放り投げる。
 そのどこまでも真っ白な、眩しいほどに真っ白な純白の傘は、くるりくるりとゆっくりと廻りながら、どんどんと遥かなる高みへと昇って往く。
「絶望と還ろう」
 そんな澄み切った声が、地響きの音を打ち消すように、なぜだかとてもはっきりと俺の耳にまで届く。
「悪夢へと還ろう」
 俺の心を抉り立てる、どこか懐かしい女の子の歌声。
「悪夢が絶望を生み」
 気づけば、俺もまたその詩を口ずさみそうになっていた。
「絶望はまた悪夢へと還る……」
 そうして、みなもちゃんの姿を借りた女の子が、絶望が、どこか寂しそうな微笑を向けて消える。
 瞬間、みなもちゃんの身体が、操り糸が切れた人形のようにくたりとくずおれる。
 重力の楔を無視して舞い上がり昇り続けていた白い傘も、力尽きたかのように同時に上昇を止め、ゆっくりと落下し始める。
――悪夢は…巡り続けるんだよ……――
 そんな囁きが耳を掠めるのを聞きながら、これ以上巡らせはしないさ、そう心の中で一人ごちつつ、その白い傘が舞い降りてくるのをじっと見守る。
「……智ちゃん、彩ちゃん、お願い……」
 隣の唯笑ちゃんが、呟きながら俺と繋いだ手に力を込めてくる。
「大丈夫。絶対に大丈夫だ」
 眩しいほどに真っ白な傘からは目を離さないまま、俺はそう唯笑ちゃんに呟き返す。
 気づけば、いつの間にかあんなに真っ青だった大空が、このわずか数分の間に厚く重い暗雲にすっぽりと覆われてしまっていた。
 暗鬱とした背景の中、輝くような、浮き上がるような白さのその傘が、今落下を終えて、鉄橋上のアスファルトへとその先端を……
 着ける。
 カツン……
 そんな硬く控えめな音が反響して、音という音が全て消失した無音の世界に広がっていく。
 凍りついた世界の果てから、反響していった音が山彦となってゆっくりと返ってくるのが耳の奥へと染み込んでいく。
 そして、訪れる静寂。
 瞬きを二度。
 その直後。
 大地が咆哮した。
 鼓膜が轟音に震え上がるのとほぼ同時、身体の真芯を突き抜けていくような衝撃に襲われる!
 すぐ横にいる筈の唯笑ちゃんの顔が四つにぶれて見える。
 泣きそうな顔で何かを叫んでいるが、それすらも聞き取ることができない。
 次の瞬間、背筋を悪寒が駆け抜ける。
 乾いた単音が、鼓膜を揺らしたのだ。
 足元を見れば、狙い打たれたかのように、俺達の足元の地面に亀裂が走っている。
 やばい!
 考えるまでもなかった。
 この鉄橋が、落ちる!?
 だが、手擦りを握り締めて振り落とされないようにするだけで精一杯の俺達に、ここから逃れる術はなかった。
 一本だけだった亀裂が、より深くなり、そこを基点に小さな新たな亀裂が無数に走り始める。
 俺達の置かれた状況に気づいた唯笑ちゃんが、慌てて俺に視線を向ける、刹那!
 一際、大きな破砕音が俺の耳を突き抜け、同時に握った唯笑ちゃんの手が凄まじい力で真下へと引かれる。
 ほとんど抵抗することもできないまま、するりと俺の手の中から唯笑ちゃんの手の感触が消失する!
 大地の鳴動音を掻き分けながら、微かに聞こえる唯笑ちゃんの悲鳴を追いかければ、唯笑ちゃんのつかんでいた手擦りと足場の部分がごっそりと欠落している。
 そして、その部位のアスファルトと一緒に、唯笑ちゃんの姿もまた俺の視界から消え失せていく。
「くそったれぇええええええ!!」
 躊躇いはなかった。
 次の瞬間には、俺自身も唯笑ちゃんを追い、荒れ狂う濁流目掛けて宙を舞っていた。
 視界いっぱいに広がる茶色の濁流の真ん中で、派手に水飛沫を撒き散らしながら一本の水柱ができる。
 唯笑ちゃんはあそこだ!!
 そんな判断を脳裏に駆け抜けさせながら、俺もまた濁流の真っ只中へと突っ込み水柱を立てる。
 水中へ入った途端、凄まじい水流が一気に俺へと襲い掛かってくる。
 十一月の水は予想以上に冷たい上、全てを押し流そうとする濁流が、俺の全身をとんでもない力で締め上げてくる。
 まずは何とか水面に出ようと身体を動かそうともがくが、その途端に押し潰されかねないような勢いで胸部が圧迫される。
 溜まらず俺は息を吐きこぼしそうになる。
 ダメだ!息を吐いたら死ぬぞ!!
 堪えろ!堪えるんだ!
 そうだ、まずは堪えろ、堪えたら次は考えろ!
 どこだ、俺はどこにいる!?どっちが水面だ!!?あっちか!?
 全身を揉みくちゃにされながら、俺の体は信じられない速さで流されていた。
 だが、だいたいは下流の方へと流されているだろうことは分かっても、一番肝心な俺が向かうべき方向がわからない。
 水面が、空気がどっちにあるのかかが分からないのだ!
 全身を無茶苦茶に振り回されて平衡感覚を失っていた俺は、ちょっとしたパニック状態に陥っていた。
 とにもかくにも今すぐ全力で流れに抗って泳ぎだしたい気持ちを強引に黙らせて、俺はようやく己を制御する。
 落ち着け、稲穂信!!
 焦るな。焦ったって無駄だ!
 まずは水面だ。水面はどっちだ?落ち着いて考えろ。落ち着いてさえいればこんなことは簡単なはずだ。さぁ、落ち着いて考えろ!!
 落ち着け、落ち着けと、繰り返し呪文のように自分に言い聞かせながら、俺は全身から無理矢理力を抜けさせる。
 ただ流されるに身を任せ、手足を伸ばして冷水に体力が奪われるのを甘受する。
 体力の喪失と引き換えに、痺れたように熱くなっていた脳髄が冷やされ、意識が徐々に落ち着いていくのが確かに実感できる。
 だが、俺は更に目をつむりくだらないことを考える。
 くだらないこと、そう思って頭に真っ先に浮かんだのは、今となっては懐かしい親友の顔。
 俺はそいつに聞いてみる。
『お前なら、こんな時どうするよ?』
『あん?決まってるだろ。三上智也様、サブマリンモードに移行するんだよ。それでこの川底を縦横無尽に泳ぎまくるついでに唯笑も回収してやってだな……』
 アホ過ぎる……
 異様な程鮮明に思い浮かべられる智也の姿に、俺は状況を忘れて本気で失笑してしまう。
 どれ程そうしていたのだろう?
 俺の身体は、未だ荒れ狂う奔流に流されるままになっていた。
 なんとなくではあるが、ずっと前からこうして水の中を漂い、こんなどうしようもなくくだらないことを、ただひたすらに延々と考え続けていたような気さえしてきた頃、ようやく俺は瞳を開く。
 濁った水の中を、俺の身体が木の葉か何かのように流されていた。
 その様子をまるで他人事のように感じながら、俺は状況を再確認する。
 実際の所、まだ瞬きするほどの時間しか経ってはいないようだった。
 俺の身体が、まだほとんど息苦しさを感じてはいなかったからだ。
 ありがたい、ただ純粋にそう思いながら、次の瞬間には俺は行動を起こす。
 そこに迷いは全くない、もう既に、意識は完全に冷えているからだ。
 パニックさえ抑え込めれば、やること自体は決まりきっている。
 ただそれが、実行可能かどうかだけが問題なだけで。
 大きく目を見開いた俺は、一瞬だけ口を大きく開く。
 ぼこりという音と共に、馬鹿でかい気泡が一塊のまま、俺の顔の横を素通りして背面方向へとぐんぐんと沈んでいく。
 迷うことなく俺はその後を追い、そして……
「ぶはぁっ……!!」
 大きく息をつきながら周りを見回し唯笑ちゃんを探す。
 唯笑ちゃんは、俺の今いる所から少し下流を流されていた。
 どうやら川に落ちるその前後であっさりと気絶して、パニックを起こしたりすることもなく、ひたすら流されるままになっていたようだった。
 ほぼ同じ地点に飛び込み、二人とも無駄な抵抗をほとんどしなかったのが幸いしたのだろう。
 俺達の間の距離はほとんどなく、唯笑ちゃんの所にまで辿り着くこと自体は比較的簡単に思えた。
「ハッ!」
 俺は、気合を込めて流れに背中を押されるように真っ直ぐに下流へと泳ぎ始める。
 流れるプールなど目ではない、かつて経験したことのないスピードで俺の身体は進んでいく。
 水上バイクか何かで引っ張られでもすればこんな感じか?
 などと思う程の余裕のまま、俺は無事唯笑ちゃんに辿り着く。
「……唯笑ちゃんッ!!」
 まずは右手でその肩を?み引き寄せ、そのまま左手を腰に回して完全に唯笑ちゃんを確保する。
 そのまま流されながら、俺は左手で唯笑ちゃんを固定し右手でその頬をばしばしと叩く。
「唯笑ちゃん、唯笑ちゃん!」
 流されながら、なんとか顔を水面に出し、息継ぎを兼ねながら叫び呼びかける。
「起きろ!唯笑ちゃん!!」
 すぐには反応しなかったが、何度か叩く内に、抱いていた身体に微妙な力が加わる。
「……ぅうう……」
「唯笑ちゃん!」
 わずかな呻き声の後、目を覚ました唯笑ちゃんが大きく咳き込み水を吐き出す。
「起きたら、俺につかまれ!」
 激しく暴れる唯笑ちゃんをなんとかつかんだまま俺は叫ぶ。
「え、え、なに?これ……っ!?」
 まだ状況が把握できていない唯笑ちゃんが、悲鳴を上げかけて水をもろに飲む。
 その直後、俺の指示を聞いてというより条件反射的なものなのだろうが、俺の首に両手を回してしがみついてくる。
 ようやく重荷から解放された左手から力を抜きながら、俺は次の算段を考える。
 だが、これまで息継ぎのたびに垣間見てきた周囲の状況は、何から何まで俺に希望を見出させないようにと必死になっていた。
 俺達がいるこの場所は、幅の広い川のほぼ真ん中。
 しかも増水しているせいで普段と違い両岸は完全な垂直絶壁と化している。
 そも、さっきのように下流に泳ぐとなれば別だが、横に泳ごうなど無謀にも程がある。
 では、流れが弱まり浮力も得られる海までこのまま流され続けるか?
 それも無理だ。
 いくら近いといっても海まではあの橋から見ても相当な距離があった。あの鉄橋からここまで流されただけでこれだけ体力を消耗してしまっているのに、あんなところまでは俺達の体力が絶対にもたない。
 仮にそこまでもった所で、河口の両岸は取っ掛かりのないコンクリートの堤防で覆われている。
 そんな所に波に押されて叩きつけられようものならひとたまりもない。
 どうする!?
 いちかばちか、川岸まで泳いでみるか?
 ひょっとしたら何かつかまれる物の一つでもあるかもしれない。
 少なくとも、このまま流されていてはジリ貧だ。
 まだ体力が残っている間に今の内になんとかやって……
「信君、あれ!」
 そんな俺の逡巡を破ったのは、唯笑ちゃんの切羽詰まった声だった。
 慌てて背後を振り向こうとして、振り向ききる前にその言葉の意味を理解する。
 俺と唯笑ちゃんの真横に、一本の木の枝が水面から顔を突き出していたのだ。
 橋の上からも見えた普段の河原の名残の欠片、それが偶然にも今、ここにあったのだ!
 俺は無我夢中で身体を投げ出すように捻り、川の流れを突き破るかのように右腕を可能な限り真横に突き出す。
 瞬間走りぬける鈍痛、俺の肘と肩の間、力こぶの辺りが焼きつくように痛む。
 俺は呻きと気合が入り混じった、奇声のような無茶苦茶な叫びをあげながら右腕の肩から先に力を込める。
 全ての感覚が麻痺してしまうような冷たさに全身を犯されながら、右腕のその一点だけが焼きただれた鉄串でも押し当てられたかのように熱い。
 そしてそのまま痛みの点が、俺の右腕の皮膚を剥ぎ取っていくかのように横滑りしていく。
 それでも俺の右腕から力が抜けることはない。
 なぜなら、この痛みこそが生への希望。
 残された未来への希望なのだから!
 濁流の水圧に加えて、俺と唯笑ちゃんの二人分の体重分の負荷までを受けて、その直径わずか20センチ程の木の幹が悲鳴を上げながら限界までかしいでいく。
 俺の腕と、川面に沈む木の幹、その双方が細胞レベルの部位で断末魔の叫びを連鎖させていく。
 焼け付く痛みが力こぶから肘へ、肘からから手首へと進み、そして最後に俺の右手の手の平のその中へ!!
 魂の咆哮とでも言うべき絶叫の声をあげながら、俺は体内にわずかに残った全精力を一気に右手の握力へと変換する。
 みしみしと断続的に俺の脳裏に響いてゆく細胞断裂の音、それでも俺の腕と木の幹の両方が、最後の一線で踏み止まって堪えきる。
 不快な音がぴたりと治まったその瞬間、俺とその木は共に勝利していた。
 生か死かの、極限のサバイバルゲームに。
 木の幹は俺と唯笑ちゃんという新たな負荷に耐え切り、俺の右手は確かにこの濁流の中に流されることなく直立する物体を握り締めていた。
 実際の所、流されるだけだったのが川面のど真ん中に取り残された状態に変わっただけで、好転というほどのものではなかったかもしれないが、それでも俺は自分の気持ちが昂ぶり高揚していくのを止められないでいた。
 だから、この歓喜を分かち合おうと、会心の笑みを浮かべて横を向く。
 そして、俺は見せ付けられる。
 儚い希望の夢が打ち砕かれるその瞬間を。
 唯笑ちゃんの表情が、まさに絶望一色に染め上げられてゆくその瞬間を……
 唯笑ちゃんの視線をもう一度追い掛け、その理由を俺も知る。
 ソレは今、ついさっきまで俺達がいた鉄橋の真下を過ぎようという所だった。
 まだ距離は随分とある。
 だが、この流れの中にあっては、そんな距離など全くと言っていい程無いに等しい。
 ソレは俺と唯笑ちゃんが声も無く見守る中、あっという間に近づいてくる。
 ソレには、俺達に見つからないようにこっそりと忍び寄ってやろうなどという殊勝な考えは欠片もないようだった。
 当然かもしれない。
 そんなことは不可能なのだから。
 ソレがどれ程隠密行動に長けていようがなかろうが、あの膨大な質量を隠しきることなど誰がどう考えても不可能だった。
 いや、そもそもソレがそんな殊勝な考えを持つ必要性がなかった。
 何故なら、ソレにとって俺達はあまりにちっぽけな存在だったから。
 ソレは、自分が俺達を呑み込みなぎ倒したことにすら気づきはしないだろう。
 ここに流れ着くまでに、数限りなく呑み込み粉砕し尽くしてきた物の中のほんの一部といった程度の認識でしかないのだろう。
 ソレにとって、俺達などそれ程ちっぽけな存在でしかないだろうから。
 そうこう考える内にも、ソレはぐんぐんと俺達との間合いを詰めてきていた。
 まるで狙い済ましているかのように、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
 ずっと上流で地崩れでもあったのだろうか?
 それとも、俺達が今しがみついているような木の内の一本が遂に力尽きてしまったのだろうか?
 ソレは、どうしようもない程の質量を持った巨木であった。
 全長は優に10メートルはある。
 学校の校庭の片隅にどっしりと構えているような、重厚感の滲み出ている巨木。
 そんなものが、どうして途中で折れもせずにここまで流れ着けるのか、そんな疑問を感じてしまうようなサイズの巨木。
 ソレが、今まさに俺達の目前へと迫っていた。
 今すぐこの幹から手を話して下流なり両岸なりに逃げようにも、それがどれだけ非現実的なのかはさっきまでの検証で十分だった。
 ましてや、この幹にしがみつくのに体力の大半を消耗してしまっている今の状態では尚更分が悪い。
 それに右腕の傷も、やはり相当にひどかった。
 視線をちらりと走らせれば、水面から上に出ている手首から肘に掛けての部位が血でべっとりと赤黒く濡れている。
 今のこの状況から体力勝負というのは如何にも無茶苦茶すぎる。
 では一か八か、この木の幹の耐久性に全てを賭けてみては?
 それもいいかもしれない。
 今の状態に耐えていることにすら感動を覚えてしまうような直径約20センチのこの幹が、下手をしなくても直径がメーター単位に届いてしまいそうな、しかも濁流の慣性力というおまけつきの巨木からの一撃に耐えられるかどうかという、泣きわめきたくなる程の素晴らしいオッズではあるが。
 あるいは、タイミングを合わせて、あの巨木に唯笑ちゃんと二人で飛び移る?
 バカな、押し流されないだけでも必死なこの状況でどうやって水面に上がるんだ?
 どうすれば巨木の上へと飛び移れるんだ?
 こんなどうしようもない状況にあっても、俺の意識は恐ろしいほどに冷静に冴え渡っていた。
 だが、意識がシャープであればあるほど、的確な判断を下せれば下せるほど、この状況の救いようの無さ加減を思い知らされるだけだった。
 あの子の嗤い声が聞こえてくるようだった。
 何をしたって、どれだけ頑張ったって、何もかもが無力なんだよ、と。
 もう、決められてしまっていることは、何をしたって無駄なんだよ、と。
 多少の先送りが出来たって、結局はそれだけ、もっといっぱいの悪夢を撒き散らしちゃうだけなんだよ。もっともっと哀しくなっちゃうだけなんだよ、と。
 その愛らしい顔には不似合いな自虐的な嗤いを浮かべた、あの女の子の泣き笑いの笑顔が思い浮かんでくるようだった。
「……し、信君…………」
 どこか呆けたような気の抜けた表情の唯笑ちゃんから、虚ろな声色が零れ落ちる。
 俺は、返す答えを持てないまま、ちらりと唯笑ちゃんに走らせた視線をまた巨木へと戻す。
 もう、巨木はすぐ目の前に来ていた。
 これがバラエティ番組か何かだったら、そろそろカウントダウンでも始まろうかという頃合だろう。
「信……く…ん……」
 途切れ途切れのその声の主に、今、笑顔はないだろう。
 唯だ、笑っているべきその少女に、微笑みは浮かんではいないだろう。
 その巨木を、巨木の向こうの絶望を見つめ始めたその少女に、微笑みはないだろう。
 全てが終わる。
 このまま、全てが終わってしまう。
 どうすることもできない圧倒的な現実の力の前に、俺達は為す術もなくねじ伏せられ絶望に叩き落とされ、そして……
 死ぬ。
 二人で一緒に幸せになることはできずに。
 二人で一緒に微笑むこともできずに。
 二人で一緒に生きることさえできずに。
 俺達は、ここで死ぬ。
 俺達が、二人一緒に絶望に堕ちた刻。
 その刻こそが、もう二度と覚めることのない悪夢の始まり。
 巡り続ける悪夢と絶望の詩が成就する、運命の刻。
 なら。
 なら……
 俺は絶望しない!
 足掻いてみせる!!
 足掻き抜いてみせる!!!
 最後の最後のその瞬間まで、俺一人でも足掻き続けて、信じ続けてみせる!!
 かおるの刻には、足りなかった。
 自分を、未来を、希望を信じるということが!
 でも、今度は違う。
 今度こそは違う。
 俺は信じる。
 唯笑ちゃんを、智也を、桧月さんを、かおるを、そして、俺自身と希望を信じ抜いてみせる!
 俺達は二人とも揃って生き抜いて、笑って、幸せになる。
 絶対にっ!!!
 唯笑ちゃんの絶望の悲鳴が大きく響き渡ったその瞬間、遂に到達した巨木が、俺達のつかまっていた幹に牙を剥く。
 俺の首に両腕でしがみついた唯笑ちゃんを左腕で抱き締めたまま、俺は身体を反転させて唯笑ちゃんをできるだけ水面奥へと押し込みながら、川面に対して半身になりながらプールの壁蹴りの要領で今までつかまっていた幹を蹴り飛ばして水中奥深くに逃げる……つもりだった。
 そこで尋常でない衝撃が、俺の足裏から胸部にかけてへ襲い掛かる!
 幹越しにぶち当たって来た巨木がその幹を粉砕して、直に俺の足裏に接してきていたのだ。
 両足を揃えて幹を蹴り出しこの窮地を逃れるその間すらなく、巨木は幹を粉砕し、俺の右足を、そしてわずかな時間差で左足迄もを巻き込み、人体の構造上あり得ない角度にまで折り畳み、押し潰し、そのまま俺自身の肉クッション越しに、俺の胸部に圧倒的衝撃を直接叩き込んできたのだ!!
 先刻の細胞断裂音などとは比較にならない明瞭な骨折音が、俺の脳裏に何度も繰り返し突き抜けていく。
 胸骨と肋骨をやすやすと粉砕したそのどうしようもない力が、俺の内臓にまで貫通していき、最後はゴムボールか何かのように、俺と唯笑ちゃんは弾き飛ばされてしまう。
 それでも辛うじて意識だけは残していた俺は、どんどんと水底深くへと押しやられていくのを感じながら、渾身の力を振り絞って薄目を開ける。
 掻き回され茶色く濁った水の壁越しに、眠るように意識を失った唯笑ちゃんの顔が見える。
 唯笑ちゃんを抱く左手は冷水に包まれたせいで温かみを感じることはできないが、胸に手を突っ込んで確認すれば、確かに微かな鼓動が感じられる。
 痛む肺を引きつらせるながらも、水底へと向かう俺の顔には自然にせせら笑いが浮かんでくる。
 ざまぁ見やがれ、俺と唯笑ちゃんはまだ一緒だ。
 まだ、二人一緒に生きてるぜ。
 まだ、俺も唯笑ちゃんも生きてるんだ。
 生きてさえいれば、後はこの水ん中から這い出さえすれば、俺達は笑い合える。
 幸せになれる。
 約束は……守れるんだ!!
 刹那、肺を抉り立てる様な鈍痛が全身を駆け抜け、俺の意識もまた闇へと堕ち始める。
 ざまぁ……みや、が…れ…………
 そして、俺達は堕ちていく。
 水底深く、深遠なる闇の底へと、漆黒の闇が渦巻く、あの子の領域へと……




「ママ、ママ。パパはぁ?」
 纏わりつく風が生ぬるいある日、夕焼けで真っ赤に染まったある街角、そこでお母さんを見上げる、にっこり笑った笑顔の可愛らしい、とある小さな女の子の物語。
「…………パパは、お仕事。そう、とっても長いお仕事にいっちゃったの」
「ええ〜?そんなのやだよぉ〜」
 ちょっとだけ哀しいかもしれないけれど、あまり無いようでいて探せばけっこうどこにでもありそうな、そんな物語。
「……ごめんね?でも、パパはお仕事だから、我慢してね?」
「やだぁ、そんなのやだもん。やだやだやだやだ〜〜!!」
 お母さんの長い髪がサラリと流れ、小さな音を立てました。
 その顔は、どこかくたびれていて、どこか遠くを見ていて、どこか物哀しげで……
「……ごめんね」
 女の子への返事は、とてもとても短く小さなものでした。
 そんなお母さんを、女の子がじ〜っと見上げます。
「さ、ママと一緒に帰ろう?」
 お母さんが、女の子の視線から逃れるように夕陽に目をやりながら、女の子の手を取って歩き始めます。
 でも、お母さんの足はすぐに止まってしまいました。
 ぐん、と後ろに引っ張られてしまったから。
 自分の歩みに合わせて歩むはずの女の子が、自分では歩いてくれない大荷物になってしまったから。
 お母さんは振り返って聞きました。
「どうしたの?」
 夕陽と女の子の間を遮るように立つ、お母さんの黒い影の中から答えが一言。
「ママ?パパ、どこ?」
 女の子の瞳に映る、逆光で輪郭以外は真っ黒な人影が凍りついてしまいました。
 カラスが一声二声鳴いてから、どこかへと飛んでいきます。
 黒い人影の中で、何かに救いを求めるかのように瞳が彷徨いました。
 行き交う人々が次々と近づいてきては何事もなく通り過ぎ、そしてそのまま雑踏の奥深くに溶け込み消えていきました。
 やがて、女の子が言いました。
「ママ……」
 ポツリと一言。
「泣いてるの?」
 息を呑むお母さん。
 そう、息を呑んだのはお母さん。
 一瞬の、一瞬だけの躊躇いがありました。
 それはお母さんが、気丈な母親として振舞っていられた最後の瞬間。
 そして、その後に残されていたのは、心の折れた一人の弱い人。
 人生に絶望した、心弱き一人の女性。
 お母さんはくずおれ、膝を着き、女の子を抱き締めました。
 女の子が痛がるのも無視して、力の限り女の子を抱き締めていました。
 お母さんの漏らす嗚咽を子守唄に、お母さんの流す涙に濡れながら、女の子はなんとなく理解することができました。
 もう、大好きで大好きで仕方がなかったパパには会えないのだと。
 そう、もう二度と会うことはないのだということを。
 やがて、夕陽が沈み、二人の心も沈み冷めきってしまった頃、宵闇の中を二人は手を繋いで歩いていきました。
 互いに、お互いだけが自分の寄る辺なのだということを噛み締めながら、もう、この手を失ったら何も残りはしないのだと噛み締めながら、ひたすらに無言で歩んでいきました。
 そして、女の子は出会ったのです。
 二人と同じ様に寄る辺のない存在と。
 暗がりの隅っこで、ダンボールの中で来る筈の無い主人の迎えを待つ一匹の子犬を。
 唯だ憐れなだけの、自分達のような存在を……




 堕ちていく。
 俺の身体が堕ちていく。
 ただ、そのことだけがわかる。
 そのことだけが……
 あれから、あの濁流の中で俺はいったいどうしてしまったのだろう。
 気がつけば俺はここでこうして堕ち続けている。
 どこまでも果てしなく真っ暗な、本当の闇の中に俺はいる。
 右手を伸ばしても右手の影すら見えず、耳を澄ましてみても何の音もしはしない。
 声を上げても、闇に吸い込まれ自分の声すら聞くことはできない。
 足を振ろうと、手を伸ばそうと、叫ぼうと、目を凝らそうと、何もかもが意味を為しはしなかった。
 せめて唯笑ちゃんの安否だけでも確認したかったが、手先の感覚すらも無くなってしまっていてどうしようもない。
 手を動かせば動かしている意識はあるのに、何かに触れているのか、それとも虚空を虚しく抱き締めているのか、それすら感じ取ることができないでいる。
 なのに、なぜか自分が堕ち続けていること、それだけははっきりと自覚することができる。
 文字通りどうしようもできない状態だった。
 それと、自覚できたことがもう一つだけ。
 懐かしい……
 こんな状況下にあってなお、そう思わずにはいられない自分が確かにいた。
 そう、こここそ俺の心の第二の故郷。
 かつて、一度はここへと辿りついてしまい、そしてあの子を置いて嫌々立ち去ったこの場所。
 この淀みきった澱のような闇の中へと、あの時の俺は自ら望んでこの身を堕とした。
 全てを捨て去り全てから顔を背け、この漆黒の闇の奥深くへと逃げ込んだ。
 だが確かに俺は、一度はここを後にし立ち去っている。
 あの時の俺が、本当にここから戻りたがっていたのかと聞かれれば、実際の所それは俺にも良くわからない。
 表層的な部分での俺は絶対に戻りたくないと思っていた。
 このままずっと、この苦しみも悲しみも何もない、そんな虚しくも哀しい安らぎに延々と浸り続けていたかった。
 でも結局、俺は還った。
 またも悪夢に迎えられるかもしれないという事実に怯え狂いながら、それでも俺は現実へと還った。
 あの時、あの場所で、あの子は俺に言った。
 ここから還ることはできるんだよと。
 お兄ちゃんが望みさえすれば、お兄ちゃんはここから還ることができるんだよと。
 でも、それは夢から覚めるということではなくて、夢から覚めて現実という名の悪夢へとまた還るということで。
 俺はその選択肢を拒んだ。
 かおるの死を受け入れることのできなかった俺は、ただここでたゆたっていたかった。
 そう、永遠に何を望むことも無く、ただぼんやりと覚めない夢を見ながらたゆたっていたかった。
 そのはずだった。
 でも、俺にはそれすらも許されてはいなくて……
――私、お兄ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるみたい……――
『……お、おい?』
――あの……ね?――
 女の子は語った。
――この世界に留まるにはね?私と一つとなるにはね?お兄ちゃんも絶望しなきゃいけないの――
 女の子の言葉が俺には理解できなかった。
『したよ!したさ!絶望したからこそ、俺は今ここにいるんだろ!?』
 まるでかおるの死を俺が哀しんでいないかのように言われた気がして、つい俺は言葉を荒げてしまう。
――違うよ。そういうことじゃないよ――
『どう違うって言うんだ?俺はもうあんな悪い夢はたくさんだ!』
――本当に?――
 俺の叫びに、女の子の反論はあまりに素早く簡潔だった。
 その思わせぶりな言い様に、俺はわずかにたじろいでしまう。
 一つ小さく頷いてから女の子が再び囁きかけてくる。
――本当に?お兄ちゃんは、本当にもうあっちには還りたいとは思っていないの?心残りはないの?諦めきれないことはないの?どうしても捨てきれない望みはないの?――
 刹那、脳裏を掠める友の笑顔。
 俺は、かつてあいつに償いという目的を持って近づいた。
 そのことを告白した後に、あいつはこう言って俺の言葉を退けた。
『それはお前が俺のことを思えばこそ、だろ?それに、例えそのことがなかったにしても俺とお前は遅かれ早かれ親友になってたさ』
 そう、俺は智也に償いをしなければならなかった。
 だが、そうじゃなかった。
 その時の俺は、もうすでにそれだけではなかった。
 だから、俺は答えることができなかったんだ。
 やがて、何も答えを返すことのできない俺に、あの子がゆっくりと宣言する。
――ここでたゆたい夢を見続けられるのは、全てを諦め全てに絶望した存在だけ。
お兄ちゃんには、まだここにいられる資格はなかったみたいなの。
だから……もっともっと哀しんで?もっともっと悪い夢を見て?
それで、何もかもに絶望しきってから、またここに来て欲しいな。
そうすれば、今度こそは一緒になれるから、お兄ちゃんも私になれるから。
だから、今はこれで、お別れ……――
 そうして俺は、夢から目覚め、また悪夢へと還った。
 なら、今の俺はどうしてここにいるんだろう?
 まだ俺は諦めてはいない。
 絶望なんかしてはいない。
 どうしようもない状況ではあったけど、俺は足掻いて足掻いて足掻き続けた。
 だから、俺がここにまた来るようなことは決してない筈なのに。
 どうして……?
 俺の疑問に、回答はすぐに見つかる。
――私が喚んだから……――
 そんな囁きが俺の耳をくすぐると同時に、俺の体の落下が一瞬だけ止まり、何かに包まれたかのような浮遊感に囚われる。
 だが、それもすぐに消える。
 直後、俺の体はまたも落下を始める。
 空気を揺らすこともない闇の中、一寸の光さえ届かず、全ての五感が麻痺しきった中、自分が堕ち続けていることだけが、落下感だけが唯一感じられる。
 そして、その唯一の感覚は、完全に別なものになっていた。
 例えるならば、ジェットコースターかフリーフォールの一番初めのあの瞬間。
 無制限な留まることを知らない加速感。
 ぐんぐんと速度は無制限に上がっていく。
 風も抵抗感もない世界で、それでも俺は無意識に歯を噛み締め手を握り締めてしまう。
 不意に、俺の視覚が闇の奥底に闇ではない何かを遥か彼方に捉え、それが光点だと認識できた瞬間、俺はもうすでにその光点の中に吸い込まれるように飛び込んでいた……
 闇に慣れた目に浴びせかけられる眩しい白金の輝きが、俺の網膜を焼き切り視界の全てを純白に染め抜いていく。
 またも何を見ることも叶わない、黒から白へと転じたその世界では、視覚以外の全ての五感はその機能を完全に回復させているようだった。
 まず感じられたのは、穏やかだけれどひんやりとした大気の息遣いの感触。
 切るように冷たい微弱な風が、俺の手足に頬に首筋に、場所の別なく纏わりついてくる。
 その空気を鼻腔いっぱいに吸い込んでみる。
 するとたちまち俺の白濁とした大脳に大量の酸素が供給されていく。
 途端に俺の意識は急速に覚醒を果たし、朝一番に濃いブラックコーヒーを一気に呷った時のようにしゃんとしていくのが実感できる。
 そして、直後にもう一つのことに気がつく。
 今、吸い込み俺の鼻腔を満たしている風が、どんな些細な香りも含んではいはしない、完全なる無香であるということを。
 ありえない話だった。
 どれ程空気が綺麗な場所であっても、森には森の、海には海の、それぞれの固有の香りが必ず程度の差はあれ感じられるはずであった。
 だが、今、俺が佇むこの場所はそのいずれでもない、そんな香り無き世界のようだった。
 まるでどんな生き物ですら、そう、その背に空へと挑む為に二枚の翼を与えれられた鳥達ですら、決して届くことはなかった至高の空間、汚れ無き遥かなる高みにでもやってきたかのような錯覚を覚えてしまう。
 雲海という名の白き海だけを旅してきたかのような、そんな汚れなき清涼な風を心ゆくまで堪能しながら、俺は自分の感じたイメージに苦笑いしてしまう。
 当然だろう。
 何をどう考えて、遥かなる高みなどと言うのだろう?
 俺は雲の上の空気の味と香りどころか、飛行機にすら数えるくらいしか乗ったことがないというのに……
 そこまで考えた所で、ようやく目も光に慣れてきてぼんやりと辺りの景色も結像を始める。
 その景色は、圧倒的な青の世界のようだった。
 黒、白と来て今度は青ですか、などと思っている間に今度は風向きが変わる。
 全くの逆方向から吹いてきた今度の風には、微かな香りが含まれていた。
 その香りは本当に微かなものだったが、なぜだか俺にはとても懐かしく温かく感じられるものだった。
 でも、それは俺の嗅覚を刺激するには当たり前過ぎる香りで、何の香りだったのかを思い出すことができないでいた。
 喉元までは出掛かっているのに、その香りがなんであるのかがどうしても出てこない。
 俺はその香りがどうにも気になって、香りのする方向へと一歩足を向けたところで動きを止める。
 磨りガラスの向こうのようにぼやけて見える視界の中心に、これまたとても懐かしくて温かい気分にさせられる、視界の中に存在することが当たり前過ぎる存在が横たわっている。
「やっと見つけた……」
 俺の胸の中から離れてしまったのはほんの一時。
 でも、それでも、再会はこんなにも嬉しかった。
 未だそのシルエットはぼやけているけれども、間違えるはずがない。
 間違えようなんてあるはずがない。
 視力が回復すればするほど、その想いは確信へと変わっていく。
 制服ほどではないけれど、今となっては見慣れたと言ってしまっても過言ではない、彼女のお気に入りの黒いタートルネックのセーター。
 緩やかな風にさらさらとそよぐショートボブ。
 その中にはトレードマークのカチューシャが見え隠れしている。
 今坂唯笑。
 俺の親友の幼馴染にして大切だった人。
 いつだって唯だ笑っていて、隣で俺を支えてくれた人。
 そして、今、俺が最も大切に思う、守り抜きたいと切望して止まない存在。
 そんな少女が、唯笑ちゃんが、目の前に横たわっている。
 その穏やかな顔はとても安らかで、とても満ち足りていた。
 俺は彼女の所にまで歩み寄り、そっと優しく抱き寄せる。
 温かい……
 俺の腕の中で未だ眠り続ける唯笑ちゃんは、とても温く、とても柔らかだった。
 そっと彼女の胸へと顔をうずめて耳を澄ます。
 トクントクンと規則正しいリズムが、服越しにでも俺の鼓膜を震わせてくれる。
「唯笑ちゃん、唯笑ちゃん……?」
 言いようのない嬉しさを噛み締めながら、俺はその小さな耳元へと優しく囁き掛ける。
「ん、んん……し、信、君……?」
 何度かの呼びかけの後、俺のお姫様がようやくお目覚めになられる。
「おはよう、唯笑ちゃん……」
 どこかまだ寝ぼけまなこの唯笑ちゃんが、どうにも愛しく感じられて堪らなくて、俺はつい唯笑ちゃんを抱き締めてしまう。
「し、信君……?」
「良かった。無事で良かった。本当に……」
 ようやく、今の状況に理解が追いついてきたのだろうか。
 唯笑ちゃんもまた俺を抱き締め返してくれる。
「信君こ…そ……!?」
 そう返す言葉を紡ぎかけ、なぜか唯笑ちゃんが絶句する。
「唯笑ちゃん?」
「し、信君……ここ、どこ?」
「へ?」
 呆然とする唯笑ちゃんにあわせて、俺も視線を周囲に巡らせる。
 ようやく完全回復した俺の視界に映っていた世界、そこは遥かなる高み、一切の濁りを見せない純粋なる蒼天の世界だった。
 ちゃんと固い床の上に立っている感触が確かにあるにも関わらず、足元には塵一つ漂うことはなく、足元からずっと下、その先に文字通り航空写真のような街が見える。
 黒から白へと転じ、そして更に白から青へと変わっていった世界の色
 その最後に辿り着いた青の世界の正体、それは本当に遥かなる高みだったのだ。
 それはまさに、大空の青。
 微塵の曇りもない、完全なる、真なる青の世界。
 あるのは蒼き空とそこに漂う白き雲。
 それがこの世界の全てだった。
 だが、俺を驚かせたのはこの世界の真実だけには留まらなかった。
 先に気づいたのはまたも唯笑ちゃん。
「信君!腕!!腕の傷が治ってるよ!!」
 興奮したその歓声に、先程木の幹をつかんだ際にできた擦り傷が、痕も残さず完治していることにようやく俺も気がつく。
 ついでに言えば、流れてきた巨木に押し潰された筈の両足も、何事もなかったかのように綺麗になっている。
 つまりは……
「驚いた?」
 不意に横合いからかけらる、男の子のような女の子のような中性的な声。
「それ程でもないさ」
 その声に、俺は落ち着いた返事を返す。
 つまりは、そういうことだった。
 そう、俺は、俺と唯笑ちゃんは来ているのだろう。
 この子の創り出した世界をも突き抜けて、この子が本来存在すべき筈の領域にまで。
「そうなんだろう?違うかい?」
 想いを敢えて言葉にまではせずに、俺は断片的な言葉で問い掛ける。
「それ程でもないよ」
 俺の問い掛けに返ってきたのは、くすりと小さく笑いながらの俺の声真似。
 その声のした方向に視線をやれば、そこには小さな小さな女の子。
 蒼い空に浮かぶその女の子の姿は、あまりに儚く、あまりに希薄な印象だった。
 遥か彼方を流れる雲に溶け込んでしまいそうな白いワンピースが、穏やかな風にふわりとなびいていく。
 その細く小さな体は、ぎゅっと力いっぱい抱き締めてしまったら潰れてしまうのではないかとさえ思えた。
 とても小柄な上に俯き加減なのも相まって、その顔はよく窺うことはできないけれど、長くさらさらとした前髪のベールでは隠しきれずにいる口元だけが、密やかに微笑みを形作っている。
 その周囲では長く腰まである黒く滑らかな髪が、時に一本毎に気紛れに、時にシンフォニーを奏でるように一斉に、風が囁くそのままに楽しげに踊っている。
「こうやって会うのは久しぶりだね、お兄ちゃん」
「あんまり久しぶりって言う気はしないけどね……」
 俺の答えに女の子は面白そうにころころと笑い、俺もそれにつられて小さく微笑み、一人唯笑ちゃんだけが不思議そうに見守っていた。
「ここは地上にいるべき場所を失った存在が手繰り寄せられる場所。それがここ、『遥かなる高み』なんだよ」
「ま、簡単に言えば、あの世の入り口ってとこかな」
「ゆ、唯笑達、死んじゃったの!?」
 女の子が説明し俺が補足するも、どうも俺の説明がかえって唯笑ちゃんをより混乱させてしまったらしい。
「違うよ。お姉ちゃん達はまだちゃんと生きてるよ。一応、だけどね」
「とりあえず、俺たちの身体の方から意識だけが飛んじゃってるってことだよ」
 本来なら俺の右腕は相変わらず血まみれのままだろうし、両足も胸骨も折れて骨折したままなのだろう。
 だが、大袈裟に言ってしまえば幽霊か何かのような、ある種の精神体である今の俺達にとって、肉体の損傷は何の意味もないわけで。
 つまり、この不可思議な世界の中の俺達に影響を及ぼすのはもっと別のこと……
「それで……」
 女の子の口調が一転する。
「どうしてお兄ちゃんは……」
 どこかほのぼのとした空気が霧散してゆく。
 代わりに辺りにたちこめ、急激に濃密になってゆく緊張の色。
「絶望しないの?」
 いきなりの一言。
 女の子の想いが凝縮された、前置きなしの一言だった。
 俺達の間をすり抜けてゆく空気が、一気に冷たくなる。
 肌を撫ぜていた、ひんやりと心地良く感じられた風が凍てつくそれへと変化していく。
 目深に被った麦藁帽子のような前髪のその奥で、女の子はどんな表情をしているのだろう?
 悔しがっているのだろうか?
 怒り狂っているのだろうか?
 それとも、俺を恨み呪っているのだろうか?
「……どうして?」
 同じ問いが繰り返されてゆく。
「どうして、絶望してくれないの……?」
 ただ虚ろに……
 俺は思う。
 この子はきっと、悔しがってはいない、怒ってもいない、恨み呪ったりなどしようはずもないだろうと。
 かつて、悔やんだこともあったかもしれないし、怒ったこともあったかもしれないし、恨み呪ったりしたこともあったかもしれない。
 でも、今のこの女の子にそんな想いは、もはや欠片も残されていないように思えてならなかった。
 唯だ、哀しんでいるだけで。
 唯だ、絶望しているだけで。
 そう、思う……
「白い傘のお姉ちゃんを見殺しにして、親友のお兄ちゃんを死に場所に送り出して、大切なお姉ちゃんをその手で殺して、やっと私の所に来てくれた。
これからはずっと一緒にいられて、もう寂しいこともないんだって、そう思ってたのに。
また、お兄ちゃんは還っちゃった。
でも、あんなに還るのを嫌がってたから、またすぐにこっちに来てくれるんだって思ってた。
なのに……どうして?
どうして私の所に来てくれないの?」
 女の子が、哀願するように、助けを乞うかのように俺に言う。
「それは……違うだろ?」
 だが、答えになっていない俺の短い答えが女の子を突き放す。
「……………………」
 しばらくの沈黙の後、女の子もまた短く答えを返す。
「そう……」
 その口許に浮かんでいるのは、微笑み。
 全てを諦めきった者の浮かべる、疲れきった微笑み。
 絶望し続けてきたこの子は、この子達は、希望を捨てるのにも慣れきっていて、何もかもを諦め続けていて、何一つとして叶えられなくなっていて。
 唯だ、嗤っているしかなくなっていて……
「……なら、もうお兄ちゃんの夢はこれでお終い。
ここで二人とも消えて、それでお終い。
お兄ちゃんもそれでいいんだよね?
私を見捨てていっちゃうんだから!そうなったっていいってことなんだよね!!」
 全てを簡単に投げ出して絶望へと逃げ込んでしまう。
 熱を帯び始たその口調は既に歪み捻じれ始めていて、ついには不似合いな哄笑すらあげ始める。
 女の子のそんな様子に不安を覚えた唯笑ちゃんが、俺の服の裾をぐっと握ってくる。
 そんな唯笑ちゃんの頭に軽く手を乗せながら、俺はもう一度同じ言葉を静かに返す。
「だから……それは違うだろ?」
「……………………」
 赤ん坊が泣き止むかのようにぴたりと哄笑を止め、女の子は身じろぎすらしなくなる。
 限界まで引き絞った弓のように、空気がどこまでも張り詰めていく。
「……何が?」
 返ってきた返事はそれだけだった。
 それだけで何もかもが十分だったから。
 俺と女の子の間に、言葉はもうそれだけで十二分だったから。
 だから、俺は告げる。
「俺が、君と一緒になるってことだよ」
「どうして!?」
「一緒になってどうなる?
それで、君の寂しさが消えてなくなるのかい?」
「なくな……」
「なくなるわけがない!!」
 女の子の答えを、俺が一言で切って捨てて断言する。
「俺と一緒になれれば寂しくなくなる!?
違うだろ、そんなはずがない!
君は、君達であって、君じゃない。
俺が心の底から絶望したら、君達は俺を呑み込んで、俺の絶望をも君達自身の一部に変えて、もっともっと世界に絶望して、そして次の悪夢を創りにいくだけだろう?
俺がここへ来る前に通過した、光も希望も何もない世界。
あの虚しくて哀しいだけの世界こそお前達自身、絶望そのもの!
そうやって新たな絶望を生み育てて、自分の内に取り込んで、ただ悪夢を世界に振り撒き続けてきたんだろう!!」
 捻じれた笑顔の張り付けられた凍りついた女の子の頬が、一瞬だけひくりと痙攣する。
 女の子の中で何かの一本の線が、ぶつりと音を立てて切れるのが聞こえてくる気がした。
「だったら……何?だったら何なの!?
私が誰かを求めちゃいけないの?
ずっと、ずっと私だけが、ただ一人で絶望し続けていなきゃいけないの?
誰かに傍にいて欲しいと思ったりしちゃいけないの!?
そんなことすら、私は望んじゃいけないの!!?」
「ふざけるな!いいわけないだろうが!!
『私だけが』なんて理由で、何の落ち度もない人間に悪夢を振り撒くのか、君は!?
そんな身勝手な話が、まかり通っていいはずがないだろう!」
「私の時はそうだった!!
私は何も悪いことなんてしてなかった。
少なくとも、あんな目に遭わなきゃならないようなことはしてない。してなかったもの!
なのに、それなのに……悪夢は私の所にやってきた。
私の何もかもを無茶苦茶にして、私から何もかもを奪い去って、私の所には絶望しか残されはしなかった。
だから、だから……今度は、私がッ!!」
 刹那、頭が真っ白になる。
 そして、微かな風切り音に続いて、俺の平手が女の子の小さな頬を叩き乾いた音を響かせる。
 女の子の長い前髪が、風に逆らい背中の側へとまわされてゆく。
 目を剥いた女の子と頭に血を上らせた俺とが、真っ向から睨み合った状態で互いに固まっていた。
 前髪のベール越しでなく、俺を睨みつけるように直接見つめてくる女の子のその両の眼には、光る物がいっぱいに湛えられてはいたけれど、彼女は決してそれをこぼそうとはしない。
 歯を食いしばって身じろぎ一つもすることなく、必死で泣き崩れてしまうのを堪えようとする。
 双方共に、ひたすら沈黙して睨み合う。
 睨み合う内に、女の子の頬がじわじわと、紅をさしたかのように赤みを帯びていく。
 逆に俺の右手からは微かな痺れが引いてゆく。
 それでも、俺達は射抜くかのように相手をねめつけ合っていた。
 ゆっくりと漂う柔らかな風が、女の子の頬と俺の手の平を完全に癒しきった頃、ようやく俺が口を開く。
「……結局、散々大騒ぎした挙句、そんなことが本当の理由か?」
 静かで小さな吐き捨てるかのような俺の言葉が、染み込む様に大気に溶けていく。
 返答が返ってくるまでには随分と間があった。
 長い長い間があった。
 そして……
「……そうだよ」
「……………………」
「そんなことが本当の理由。でも、お兄ちゃんになんか、本当の悪夢に、絶望に呑み込まれた私の気持ちなんてわからないよ……」
「そんなことはない」
 俺は迷うことなく即答する。
「俺にはわかる。俺にならわかる。違うか?」
 女の子からの答えはない。
「それにさ、ようやくわかったよ」
「……?」
「この馬鹿げたくだらない悪夢を終わらせる方法、君の絶望を終わらせる方法」
 わずかに零れ落ちる息を呑む音。
 女の子の目が大きく見開かれる。
「呑み込んでしまえばいい」
 期待と不安と怯えと不信と、様々な感情の入り混じった表情が俺を見つめる。
 その中で、俺はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
 誰もが望み、決して誰も辿りつくことができなかった答えへと……
「君が俺を、ではなくて、俺が君を……
君の、君達の抱く悪夢の想い出から生まれた絶望を、俺が全て受け止め抱き留めればいい。
これまで、俺が俺自身の悪夢と絶望に対してそうしてきたように!!」
 女の子の瞳が見開かれたまま、かすかに、だがゆっくりと左右に振られてゆく。
「……そ、そんなの…無理だよ……」
 擦れ気味な声がゆっくりと続いてゆく。
「そんなの……無茶苦茶だよ……」
「そんなことないさ」
「そんなことあるよ……」
「……………………」
「お兄ちゃんだってさっきから自分で言ってるじゃない?『君達』って、私は一人じゃないんだよ!?」
 そう、あくまで彼女は彼女達。
 どうしようもない理不尽な悪夢に、己の一番大切な何かを、何よりも一番ひどい方法で台無しにされてしまい、未来を夢見る気力さえ根こそぎ奪われ尽くしてしまった、例えようもなくどこまでも哀れな想い達。
 苦痛と悔恨と怨嗟に満ち溢れ、だがそれですら燃え尽きて、最後に悲哀だけが残され蓄積され続けてきた想い、即ち絶望。
 悪夢に打ちのめされた想いが虚空を無限に彷徨い、同じ絶望に染まりきった魂達との邂逅を果たす。
 惹かれあい同調しあい共鳴した想い達、幾つも幾十もの絶望が寄り添いあった想いの結晶。
 それこそが、今俺の目の前に立つ女の子の真実。
 だから……
「呑みこまれるよ?そんなことしたら、お兄ちゃんの方が私達に呑み込まれちゃうだけなんだよ?」
「俺は……呑みこまれたりはしないよ」
「だから!何度も言ってるじゃない!!そんなの無理なんだよ!!」
 根拠のみえない俺の自信に、女の子が激しく警鐘を鳴らす。
 そんな女の子に、俺は思わず小さく苦笑いしてしまう。
「いいじゃないか。君は元々俺を呑み込もうとしてたんだろう?」
「……………………」
 答えに詰まる女の子に、俺の口元が無意識に綻ぶ。
「やっぱり君も、こんなことは続けたくないんだろう?
自分の悪夢に絶望して、自分が悲惨だったからってそれを周りにも撒き散らす。
そんな自分を、本当は誰かに止めて欲しかったんだろう?
悪夢に見舞われても絶望しない、そんな情景を夢見続けてきたんだろう?
……違うかい?」
「でも……でも…………」
 女の子の泣き出しそうな瞳が、すがるような瞳が、何よりも雄弁に彼女の本当の想いを語りかけてくる。
 だが同時に、その瞳は別のことをも語っていた。
 これまでの誰もが、悪夢に魅入られ呑み込まれてしまった全員が、ただの一人も残さずに絶望してきたんだよ、と。
 そんなことすれば、お兄ちゃんまで結局は私に呑み込まれて終わってしまうんだよ、と。
 ひょっとすると、過去にも俺と同じ解答に辿りついた誰かがいるのかもしれない、そしてその誰かまでもが、結局はこの子の中に呑み込まれてしまったのかもしれない。
 きっと、俺を信じたい彼女と信じられない彼女とが、その小さな胸の奥で激しくせめぎあっているのだと思う。
 でも、できることなら信じて欲しい。
 それはとてつもなく残酷で難しい願い。
 きっとこの女の子には無理なのだと思う。
 ずっとずっと絶望し続け、哀しい夢を見せられ続けてきた彼女達には。
「そんなことないよ……」
 不意に、そんな声が横合いから聞こえてくる。
 思わず彼女をまじまじと見詰めてしまう俺達。
「信じられるよ?」
 彼女の発するゆっくりとした言葉には、なぜか力強さが感じられた。
 不思議な確信の篭もったその言葉には、何か言いようのない説得力が感じられ、その紡ぎ出される音には、言葉というよりは言霊といった方がいいかのような迫力があった。
 一言だけ言って、後は何も語らず俺達を見回す彼女に、いつしか俺達の視線は吸い込まれるかのように釘付けにされていた。
 そんな俺達を満足そうに見つめながら、唯だ微笑んでもう一度同じ言葉を繰り返す。
「信じられるよ……」
 いつだって唯だ笑っている少女。
「信君は!!」
 唯笑ちゃんが。
「お姉ちゃん……」
 呻くように女の子が声を漏らし、一歩後退る。
 だが、その間にすでに唯笑ちゃんは、俺の裾から手を離して三歩も前に進んでいた。
 瞬きする間の出来事。
 女の子が次の言葉を発するよりも早く、女の子は唯笑ちゃんの胸に抱かれていた。
 そして、そっと俺の耳にまで小さく届く、いつか聞いたことのあるフレーズ。
 忘れられない、愛しい人のかつての囁き。
「大丈夫……」
 俺の親友もまた、かつて聞いたことがあるという。
 心までも抱き締めてくれる優しい言霊。
「大丈夫だから……泣かないで?」
 言葉の表面的な意味合いとは裏腹に、それまで堪えに堪えてきた女の子の涙が、ようやくにして溢れ出しその小さな頬を流れ落ちてゆく。
 幼い少女の見掛けに良く似合った、幼い哀しみの姿。
 その女の子を抱き締める唯笑ちゃんは、笑っていた。
 唯だ、どこまでも優しげに、唯だ、どこまでも愛しげに……
「あのね……?」
 唯笑ちゃんは自らの体験した物語をゆっくりと語り始める。
 その物語は、女の子にとっては今更な物語ではあったと思う。
 なぜなら、唯笑ちゃんにその悪夢を見せていたのが他ならぬ女の子自身なのだから。
 そのことは唯笑ちゃんももう分かっているのだと思う。
 でも、それでも唯笑ちゃんは全てを語っていく。
 夢見た者自身の言葉で、一つ一つ丁寧にその時の想いを綴り上げていく。
 そして訪れる物語のエンディング。
 かつて唯笑ちゃん自身が迎えた、目覚めの時。
「その時、信君が……ううん、智ちゃんが怒ってくれたの。
あの言葉はなんだったんだって、唯笑の中にはもう智ちゃんはいないのかって。
そう、いたんだよ。唯笑の中にも、智ちゃんの中にも彩ちゃんがいたみたいに、唯笑の中には智ちゃんが今でもいてくれるんだよ。
そのことを智ちゃんと信君の二人が教えてくれた、気づかせてくれた、思い出させてくれた!
それで、唯笑はまたこうして笑えるようになった。
作られたお芝居の、偽物の笑顔なんかじゃなくて、心の底からの笑顔で、唯だ笑っていられるようになったの!!
だから、大丈夫。信君なら大丈夫。きっとあなたを受けとめるくれる!
唯笑が、受けとめてもらえたように!信君が、音羽さんのことも受けとめきったように!!
他の誰でも無理かもしれないけれど、信君なら、信君だけは大丈夫。
絶対に!だから、あなたも!!」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭おうともせず、女の子は『でも…でも……』と嗚咽を漏らしながら首を振る。
 すがりつくかのようにしっかりと唯笑ちゃんに抱きつく女の子は、唯笑ちゃんの言葉を信じたいのに、そうであって欲しいと願っているのに、なのに、最後の一歩が踏み出せずにいる。
「そんなの、怖いよ……」
 零れ落ち、虚空を彷徨う弱々しい言霊。
 唯だ、無限の檻の中で絶望し続けた者達にとって、あまりに恐ろしいであろう信じるという行為。
「そんなの、今更、無理だよ……」
 それでも、彼女達は踏み出さなければならない。
「信じるなんて、もうできないよ……」
「大丈夫、怖くてもいいから。泣きたければ泣いてもいいから。
いくら怖がっても、いくら涙を流しても、最後に心から笑って、あなたの大切な人から、よくがんばったねって言って貰えられれば、それでいいんだよ。
だから、大丈夫だから……」
 えぐえぐと大泣きしながらも、優しく諭し続ける唯笑ちゃんから俺へと女の子の視線がゆっくりと転じられてくる。
 そして、最後の呪縛を取り払う儀式へと、その一歩をついに踏み出す。
 天空の彼方、遥かなる高みに、途切れ途切れに詩が歌われる。
「絶望と、還ろう……」
「希望と共に歩めばいい」
「悪夢へと、還ろう」
「未来へと歩めばいい」
「悪夢が絶望を生み」
「未来が希望を育み……」
「絶望はまた、悪夢へと還る……」
「希望はまた、未来へと繋がってゆく!」
 かつて俺自身が歌った絶望の詩。
 今、俺は、それを断じた。
 絶望の詩と希望の詩の輪唱。
 絶望の詩しか知らない彼女へと捧げる、道標の詩。
 俺は、もう一度声を大にして叫ぶ。
「そうだ!
希望はまた、未来へと繋がってゆくんだ!!
俺は信じる。
俺自身を、唯笑ちゃんを、俺の大切な全ての人を。
希望と未来を信じる。
唯笑ちゃんが唯だ笑うように、俺は唯だ信じる!」
 そこまで一気に言い切り、俺はふっと頬を緩ませ微笑んでみせる。
「……どこかで俺、間違えたりしてるかい?」
 女の子は、またも泣きながら首を左右に振っていた。
 笑いながら、泣き笑いながら……間違えてなんかいないよと、盛大に首を振ってくれていた。
 だから、俺は彼女に向かって両手を広げてこう言った。
「さぁ、おいで……」
 俺と女の子の間から、女の子の背後へと廻った唯笑ちゃんが、彼女の涙を拭いながら小さく囁くのが聞こえる。
「信君の『信』は、『信じる』の『信』。
さぁ、いってらっしゃい……」
 色々な感情がない交ぜになっていた彼女の感情が、一息に集束してゆく。
 残った感情は唯だ一つ、そう、歓喜!!
「お兄ちゃんッ!!」
 女の子が弾けるような声と共に俺の胸へと飛び込んで来る。
 女の子をしっかりと抱き締めてやり、更にその上から二人まとめて唯笑ちゃんに抱き締められて川の字状態になっているのを温かく感じながら、俺は彼女の世界へと吸い込まれ旅立っていく。
 女の子の中に集いに集った、悪夢の世界の奥深くへと。
 最後に聞こえてきたのは、どちらの声なのだろうか?
『必ず……還って来てね。信じてるから。必ず……ね?』
 きっと二人の声、なんだろうな……




「うわぁ〜〜〜〜〜ん。うわぁ〜〜〜〜〜〜〜ん……」
 小さな子供の泣き声が聞こえてきました。
「うわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜ん、いじめられたよぉ〜〜〜〜〜」
 小さな男の子がお父さんに走り寄り抱きついて、でも逆に男ならやられたらやりかえさんか、と怒られてしまってますますわんわんと大泣きを始めていました。
 そんな二人の間で、お母さんがちょっと困ったような顔をして男の子を優しく抱き締め頭を撫でてあげていました。
 夕暮れの片隅の公園。
 どこにでもあるような家族連れの微笑ましい一コマ。
「帰ろっか……」
 その場面にくるりと背を向け、一人の幼い少女はそう足元に向けて呟くと歩き始めました。
 女の子の足元で丸くなっていた毛むくじゃらの親友が、小さく鳴いて女の子の後に続きます。
 小学校低学年くらいのその女の子は、さっきの場面を見ても何も感じませんでした。
 お父さんとお母さんの愛情ですっぽりと包まれきったその男の子のことを羨ましいなんてこれっぽっちも思いませんでした。
 それが当たり前だったから。
 それがいつからのことだったかは覚えていないけれど、女の子はそれが当たり前なことだと納得していたから。
 周りの皆には何でもあって、自分には何もないというのが当たり前だと納得していたから。
 大好きなお母さんと、いつでもどこでも一緒の大好きな親友さえいてくれれば、それでいいんだと納得していたから。
 だから、羨ましくなんてちっとも感じませんでした。
 きっとあの男の子には、これから温かくて美味しい晩御飯と、温かくて心地いいおうちが待っているんだろうな、という思いが心をよぎっても、そのことが女の子の心を波立たせるようなことはありませんでした。
 それが当たり前の日常だから、それが極々自然な日常だから、女の子はいつもどおりに心を凍らせればいいだけです。
 何を見ても見えるだけ、何を聞いても聞こえるだけ、何を考えても頭の中をすり抜けてゆくだけ。
 だから何も感じない。哀しいことなんて何もない。
 唯だ、胸の奥に何かがちくりと突き刺さるだけで……
「ただいま……」
 ボロボロに古びた二階建てのアパート。
 女の子とお母さんが二人だけで暮らすこの部屋に、遠慮がちな小さな声が響きました。
 いつものことながら、がらんとした部屋に人の気配や温もりは一切ありません。
 開いた扉から差し込んだオレンジ色の西日が、部屋の中をわびしく照らし出します。
 六畳一間だけの、風呂どころかトイレも何もない、ただ寝る為だけの住処。
 良いことと言えば、犬を飼っても文句を言われないということぐらいでしょうか。
 そもそも女の子親子以外の住人が、動物好きの大家のお婆さんぐらいしかいないという、どうして取り壊されないのかが不思議なくらいのアパートでした。
 そのわびしい部屋の真ん中には、これまたわびしい小さなちゃぶ台。
 そのちゃぶ台の上には、その小さなちゃぶ台ですら大きめのそれに感じられるような小ぶりなパンが一つだけ。
 女の子は一つだけ溜め息をついてから、部屋の中へと入っていきます。
 女の子は、水道の蛇口を申し訳ない位にそっと捻りました。
 きゅっという軽い金属音と一緒に、細い糸のような水の筋が流れ出します。
 それをお椀に半分位まで注ぐと、パンを小脇に女の子は階下へと降りていきました。
 アパートの階段の手擦りに繋がれた親友の前にしゃがみこみながら、女の子はお椀を置きます。
「ごめんね?今日もこのパン一個だけなんだ……」
 言いながら、袋の口を開けて親友に差し出します。
 親友は文句の一つを言うでもなく、嬉しそうに女の子から貰ったパンをあっという間に平らげてから、ぴちゃぴちゃと音をさせながら水を飲みます。
「今日は、給食で残り物が貰えなかったんだ。お腹減ったね……」
 そう言いながら、女の子はそっと親友の毛並みを撫で始めました。
 その手に触れる感触は、ぱさついた毛並みと薄皮の下のごつごつとした骨の感触。
「ひょっとしたら……野良君になった方が、よっぽど美味しいものをいっぱい食べられるのかもしれないけど……
でも、ごめんね?お願いだから私の傍にいて?私を見捨てないでね?」
 おんと一声鳴いて、親友が女の子の頬をぺろりと舐めます。
 女の子の言葉を理解して励まそうとしているのでしょうか?
 それともただ単に、多少なりともお腹が膨れて、次は遊びたくなっただけなのでしょうか……
「あはははははは……」
 いずれにしても言えるのは、この親友が女の子にとって、かけがえのない大切な存在だということでしょう。
 こうして、女の子の一日は今日もまた過ぎてゆくのでした……
 翌朝、新聞屋さんが街中を駆け回っているその頃。
 ガチャリ。
「んっ……」
 扉がそっと閉まる小さな音。
 それに敏感に反応して目を覚ます女の子。
 ガバリと跳ね起き、パジャマのまま玄関の戸に駆け寄って、階段へと続く吹きさらしの廊下部分へと飛び出ます。
「お母さん、おはよ〜〜!!」
 廊下の手擦りに身を乗り出すようにしながらアパート前のスペースを見下ろせば、女の子の親友の頭を撫でてやりながら、お母さんは自転車の鍵を外しちょうど今から出かけようとしていました。
 起き出して来てしまった女の子を眩しそうに見つめながら、お母さんは嬉しいような困ったような、どうにも複雑な表情で微笑んでくれました。
「おはよう。今日も遅くまで帰れないけど、学校で頑張って勉強してきてね」
「うん!私は大丈夫だから。お母さんこそ、あんまり無理しないでね!!」
「わかってるわよ。それじゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃ〜〜〜い!」
 元気な女の子の声に見送られながら、お母さんの自転車は滑らかに動き出し、二つ目の角を曲がってすぐに見えなくなってしまいました。
 それを見送った女の子は自分も階下に降り、ゆっくりと親友と朝の挨拶を交わします。
 これが女の子の朝の日課。
 女の子のお母さんは、女の子が目覚める前の早朝から仕事に出掛け、眠りに就いたずっと後の深夜になってようやく帰ってきます。
 そして、女の子を起こさないようにひっそりと自分も眠りに就き、せめて睡眠だけでもしっかり取らせたいと、そっと何も言わずに家を出て行ってしまうのです。
 この朝の挨拶だけが、女の子がお母さんと言葉を交わせる唯一のチャンスなのです。
 寝過ごしてしまえばそれでおしまい。
 だから、女の子は毎日頑張って早起きをします。
 お母さんと一言話せるだけで、その日は朝から幸せになれるから。
 お母さんと一言話せるだけで、その日も一日頑張ろうという元気が沸いてくるから。
 女の子にとって、学校は好きな場所であり、嫌いな場所でもあり、よく分からないな〜、というのが正直な感想の場所です。
 学校の間、大好きな親友とは一緒にいられませんし、勉強はけっこう難しいです。
 それに、学校に行くといじめられたりもします。
 でも、学校に行けば給食があります。
 平日は、毎日お昼だけはお腹いっぱいになれて、しかも余った物をよく持って帰らせてくれたりもします。
 それに、仲の良いクラスメートとのお喋りは楽しいし、勉強だって科目によってはとっても面白いです。
 だから、女の子は自分が学校を好きなのか嫌いなのかが分かりません。
 ただ、女の子に分かっているのは、お母さんが女の子を学校に行かせてくれるのに、すごい色々な苦労をしてくれているということ。
 女の子が毎日きちんと学校に行かないと、お母さんが安心できないということ。
 だから、女の子は学校を休んだことは一日もありません。
 これからだって、一日も休むつもりはありません。
 きっと、お母さんもそうして欲しいと思っている筈だから……
 それから、女の子のお母さんは、休日も仕事に行くことが多かったです。
 でも、たまには家にいてくれることもあります。
 そんな時、二人はずっと一緒にいました。
 二人と一匹でお散歩に行ったり、近くのスーパーに買い物に行ったりしました。
 そんな時、お母さんはよく女の子に小さなお菓子を買ってくれました。
 その飴玉は、とっても甘くてとっても美味しくて、女の子はお母さんの買ってくれる飴玉が大好きでした。
 お母さんと手を繋いで、親友と一緒に公園まで歩いていくのが何よりも嬉しくてなりませんでした。
 それだけのことで、もう、二人と一匹、心から笑い合うことができていました。
 本当に、幸せだったのです。
 傍から見たら、女の子は不幸な子供なのかもしれません。
 でも、女の子自身はそうでもないと、思うことができていました。
 だから、日々頑張って過ごすことができていました。
 つらいことはいっぱいあっても、それでも前を向いて生きていくことができていたのです。
 この女の子の年齢から考えると、きっとこの女の子はとてつもなく心の強い子だったのでしょう。
 でも……
 ある日、学校で女の子は先生に言われました。
 お母さんが倒れた、と。
 雪球が転がり始めたのです。
 坂道を、ころころ、ころころと……
 お母さんが倒れてからしばらくして、いつしかお母さんは前よりもっと痩せ細ってしまっていました。
 気づけば、女の子も女の子の親友も、もっと痩せてしまっていました。
 休日の日の楽しいお出掛けもなくなってしまいました。
 お母さんの手を握ると、前と同じで温かいのに、前みたいにぎゅっと握り返してはくれなくなってしまいました。
 早朝の微かな物音に飛び起きて外に飛び出しても、階下にお母さんの笑顔はなくって、青ざめて妙に生白い顔色のお母さんが、狭い部屋の中で苦しげな寝息を立てるばかりとなっていました。
 学校から帰るとお母さんがいてくれる。
 女の子があれ程願っていたことなのに、その願いが叶ったというのに、女の子はあまり嬉しくないどころか、胸の奥の痛みがだんだん大きくなってきているようにさえ思えて、とても不思議で仕方がありませんでした。
 分からない振りをして不思議がる以外に、女の子に逃げ道は残されてはいなかったのです。
 前から凍らせがちだった心を、女の子はもっともっと凍てつかせていきました。
 そうでなければ、もう心が壊れてどうにかなってしまいそうだったから……
 この時、女の子は知りませんでした。
 女の子の心と、お母さんの身体、先に壊れるのはどちらなんだろうか?
 そんな陰鬱とした思いで、大家のお婆さんや担任の先生が頭を悩ませていたことを。
 でも、実の所、そんな心配は杞憂だったのです。
 全くする必要のない、無駄なことだったのです。
 なぜなら……
 その日は、今年初めての大雪が降った、とてもとても寒い日でした。
 学校の外で待っていてくれた親友と一緒に、女の子はいつものようには帰宅の途に着きませんでした。
 そうです。
 その日はいつもとは違って、女の子は寄り道をしていたのでした。
「最近は、一緒に買い物の一つも行ってあげられてないからね。
これで好きな物を買ってきていいからね」
 朝、女の子が学校に行く前にお母さんはそう言って、女の子に一枚の千円札を渡してくれたからです。
 だから、女の子はその朝大喜びでした。
 いってきますと、満面の笑みで元気良くそう言って、白い息を弾ませながら登校して行きました。
「いってらっしゃい」
 お母さんの温かい声に背中を押されながら……
 一日中そのお小遣いの使い道ばかりを考えていた女の子は、授業が終わると親友と一緒になって、雪を踏み抜きまっしぐらに目的地へと駆けていきました。
 午後からの授業が臨時でお休みとなったその日、女の子は掃除とホームルームの時間とが終わるとすぐに、まずは時々クラスメート達が美味しそうに食べている肉まんを買いに走りました。
 割とそのお店の傍にある、いつも親友と散歩に来る公園で、女の子と親友は肉まんを一つずつ頬張りました。
 まだ湯気の立つほくほくとした肉まんは、歯に染みるぐらいに温っかくて、肉汁もたっぷりと入っていて、女の子は本当に美味しいなと思いました。
 後から後から降ってくる大きな雪粒が、白くて温かい肉まんに当たった途端にお湯になってしまうのが、なんだか女の子には妙に可笑しく思えてなりませんでした。
 できればお母さんも居てくれて、三人一緒に雪を見ながら食べられたらなぁと、ちょっとだけ残念に思いました。
 でもそんな思いすら、肉まんのあまりの美味しさにすぐどこかにいってしまいました。
 お母さんの分の肉まんを手に提げ、一人と一匹は次に薬局へ向かいました。
 女の子は知っていたのです。
 病気の時には、病院に行くかお薬を飲めばいいということを。
 なのにお母さんは、そのどちらもせずに布団で寝ているだけだということを。
 お薬がいっぱいあり過ぎてどれを買っていいのかわからなかったので、お店のお姉さんに選んで貰ってそれを買いました。
 学校で考えていた買い物が終わり、じゃあ家へ帰ろうかという時になって、女の子は最後にもう一つだけ、お母さんをすごく喜ばせてあげられる素晴らしいアイデアを思いついてしまいました。
 だから、女の子は迷わずそれを実行することにしました。
 少しでもいっぱいお母さんに喜んでもらって、少しでも早くお母さんに元気になって欲しいなと願って……
 その準備が終わった後、お母さんへのお土産を入れたビニール袋を腕に誇らしげに提げ、女の子はうきうきしながら家路へとつくのでした。
 女の子の家へと続く、長く緩やかな下り坂で、女の子はふと立ち止まって空を見上げてみました。
「綺麗だね……」
 鈍く重い鉛色の空からは、真っ白な大粒の雪がどんどんと降りてきて、辺りの何もかもを真っ白に染め上げていきます。
「雪球、つくろっか?」
 そう呟いた女の子は、帰る道すがらその下り坂で雪球を作り始めました。
 ころころ、ころころ……
 一台の車も通らない、通行人の一人もいない、そんな女の子と親友二人だけの静かで真っ白な路地の真ん中。
 白い絨毯の上に、白い道筋がゆっくりとできていきます。
 最初は糸より細く、最後はランドセルくらいの幅にまで。
 なんだかその日はこれまでにないほど雪球が上手く転がってゆきました。
 あんまり面白かったので、女の子はなかなか気が付くことができませんでした。
 びっくりするほど綺麗な形の雪球が、ちょうどランドセルくらいの大きさになった頃、ようやく女の子は気が付いたのです。
 何かが、いつもと違うことに……
「…………?」
 最初、雪景色のせいかと思われたその違和感ですが、どうやらそうではないようです。
 相変わらず、でも上の空で雪球を転がしながら、女の子は親友と一緒に少しずつ家へと近づいていきます。
 どうしてでしょう?違和感は女の子の家に近づけば近づくほど大きくなり、安心できる筈の場所に戻れば戻るほど女の子の中に不安感が募ってゆきます。
 そして、雪の日独特の静けさをを切り裂く、後方から突如湧き出てきたヒステリックなサイレン音。
 慌てて女の子と親友が道の端によるのとほぼ同時、一人と一匹の前を赤い大きな車が、ぐしゃりと雪球を轢き潰しながら通過していきます。
 見覚えのある曲がり角で曲がってゆく、赤い車。
 姿が塀の影にすぐ消えても、けたたましいサイレンが嫌でもその場所を分からせてくれます。
 赤い車が止まったのはすぐそこ。
 音はそこで動くのを止め、その音を止めました。
 湧き上がる不安が確信的な予感へと入れ変わっていくのを感じながら、女の子と親友もまた路地の角を曲がりその先を目にしました。
 いつもは静かで、人気のあまりない筈の女の子の家の周辺。 
 そこにあったのは、両手の指でなければ数えられないくらいの大人達と、到着したばかりの赤い一台の大きな車。
 そして……
 何よりも決定的に違うこと。
 女の子の家が、女の子のアパートのが、完全に変わってしまっていました。
 全てを塗りつぶす雪の純白に覆われたのではなく、全てを汚そうとするどす黒い煙に包まれ、その合間からは時折ちらりと赤い蛇が姿を覗かせています。
 火元は女の子の部屋のようでした。
 女の子が呆然としたのはほんの一瞬。
「お母さん!!」
 一声叫んだ女の子は、大人達が止める間もなく階段へと取り付くと、そのまま二階へと駆け上がっていきます。
 状況を完全に理解しているかのように、彼女の親友も炎を怖れようともせずその後へと続いて行きます。
 慣れ親しんできた階段を駆け上り、廊下を駆け抜け一気にいつもの扉に手を掛けます。
「熱ッ!」
 手に触れたドアノブは信じられない程熱くなっていましたが、それでも女の子はすぐに意を決すると、火傷にも構わず扉を開け放ちます。
 たちまち室内から熱くたぎった煙の塊が飛び出して来て、一人と一匹に猛然と襲いかかってきます。
 階下からは『戻ってきなさい』という消防士さんの怒鳴り声が、他人事のように女の子の耳にまで聞こえてきます。
 勿論、女の子がそんな声に耳を傾けることはなく、一度大きく息を吸うと、炎と煙が充満した部屋へと飛び込んでゆきます。
 彼女の親友もまた、当然のようにその後に続きます。
「お母さん!」
 部屋の中はもうほとんど火の海でした。
 台所の辺りはもう壁全体が炎に包まれ、天井と台所側に接する両方の壁にも炎の舌が勢い良く伸ばされていました。
 火の粉の舞い踊る変わり果てた部屋の中央で、一人の女性が一冊の本をぼんやりと虚ろな瞳で眺めていました。
「お母さんッ!!」
 振り返った女性の瞳が見開かれ、その手から本が滑り落ち、同時にバラバラと何枚かの写真が畳の上に散乱しました。
 どうやらお母さんは、アルバムを見ていたようでした。
「どうして!!?」
 驚きと焦りとが入り混じったお母さんの悲鳴が室内に響きました。
「お母さん、危ないよ!早く!!」
 女の子は叫び返すと、お母さんに駆け寄ろうと一歩を踏み出そうとして……
「来ちゃダメぇえええ!」
 お母さんの制止の叫び、倒れ来る炎を纏った柱。
 女の子の瞳が恐怖で見開かれ……身体は石のように凍り付いて……
 その瞬間、女の子の視界の隅で動く一つの影。
 女の子の親友でした。
 直後、女の子のお腹に突き上げるような衝撃。
 二人と一匹が揉みくちゃになって床に転がります。
 その背後で轟音と共に火柱が倒れ落ち、そこから二人と一匹の逃げ道を塞ぐかのように炎の壁が一文字に伸びていきます。
「お母さん!」
 だが、女の子にそんなことは関係ありませんでした。
 唯だ、大好きで大好きで堪らないお母さんの胸にしっかりと飛び込んでゆきます。
 お母さんも女の子をしっかりと抱き留めてあげました。
 その頬には微かに涙が流れてはいましたが、お母さんはもう何も言おうとはしませんでした。
 この世界中の誰よりも愛しい愛娘を、もうたった一人しかいない大切な家族を、唯だ、抱き締めて頭を撫でてあげるばかりでした。
 床に散らばっていた写真。
 お母さんの大切だった人と、女の子と、お母さん。
 女の子が親友と出会う前の、どこにでもある普通な幸せが、確かに女の子にも存在していた頃の想い出の欠片。
 それらが一枚、また一枚と燃えていきます。
 お母さんはどうして、こんな火の海の中でこんな写真をただじっと眺めていたのでしょうか?
 お母さんはどうして、こんな日に限って女の子にお小遣いをくれていたのでしょうか?
 お母さんはどうして、女の子がこの部屋に入ってくるのを見て、そんなことがあるはずがないのにどうして、という顔をしなければならなかったのでしょうか?
 女の子は、これらのことが意味する所を理解するべきなのでしょうか?
 それとも、あえて何も知らないままでいられることに、むしろ感謝するべきなのでしょうか?
 今となっては、もう誰にもその答えはわかりません。
 ただ一つ、言えること。
 それは、今が別れの時だということ。
 今が終わりの時だということ。
 苦しいばかりだったけれど、それでも、多少なりとも幸せだったと自覚もできた、ささやか過ぎた女の子の哀しい生。
 それが今、まさに燃え尽きようとしていました。
 急速に室内の酸素が消耗されてゆく中、女の子は朦朧とし始める意識をなんとか振り絞って、大好きなお母さんに、最初で最後のプレゼントを渡そうとします。
「お母さん、これ、お土産……」
 何の変哲もない、素っ気ないどこにでもあるビニール袋から出てきたのは、それぞれ肉まんと風邪薬の入った紙袋。
 お母さんは、それを見て、何も答えを返してあげることができませんでした。
「肉まん、すごく美味しかったから、これ食べて……お薬飲めば、もう大丈夫だから……」
 熱いもので胸がいっぱいで、言葉を紡ぐことなんて出来なかったから。
「きっと、すぐに元気になれるから……」
 溢れる涙と嗚咽で、まともに話すことなんて出来なかったから……
「あり……がとう……ありがとう……」
 きれぎれにお礼を言いながら、お母さんは女の子を固く抱き締め、そのちょっとぱさついた髪を撫でてあげます。
 お母さんの服の裾に小さな小さな炎が飛火し、そっとお母さんの身体が、女の子から離されます。
「それから……これ……」
 女の子はそう言って、ポケットから小さな包み紙を出します。
 炎は服を伝って、お母さんの身体へと這い上がり始めます。
 女の子の手から、最後の、もう一つのプレゼントの入った包み紙が差し出されます。
 それを受け取ろうと、お母さんの手がゆっくりと伸ばされて……
 お母さんの手の平にその包み紙がそっと手渡されたその瞬間、唐突に響いた木のはぜる音。
 砕けた壁板に押し倒されるような形で、お母さんが横倒しになったタンスの下敷きになってしまいました。
 服の炎がタンスや床へと燃え移り、お母さんの腰、足首に掛けてが一気に炎に包まれてゆきます。
 女の子は、もう自分が何を見ているのかが理解できませんでした。
 ほんの数分の差でしかなくとも、それでも今、この瞬間を僅かに生き長らえる為の生物としての本能なのか、それとも、それ以前の問題なのか、もう、女の子はお母さんにすがりつくことすら出来ませんでした。
 女の子の泣き出しそうな瞳に注がれる、お母さんの優しい瞳。
 炎の熱に全身を灼かれ焦がされながら、それでも変わらぬ笑みを湛えたまま、お母さんはゆっくりと、包み紙を開きます。
 お母さんが生きながらに火葬されていく様を眼前で見せ付けられ、女の子はもう、どうしていいのか全くわかりません。
 ただお母さんの一挙手一投足を見つめるばかりで、逃げることも、助けることも、どうすることも出来ずにいました。
 そんな中、開いた袋の紙さえすぐに燃え出す生き地獄の中で、全身の感覚が完全に麻痺しきったかのようなお母さんの前に姿を現したのは、たった一個の安っぽい飴玉。
「……ぁあぁ…………」
 零れた呟きはお母さんの歓喜のそれか、女の子の嘆きのそれか。
 お母さんがよくお休みの日に買ってあげた、あの女の子が大好きだった飴玉。
 それを、今こうして、逆に女の子がお母さんへとプレゼントしようとしている。
 そこまでのことを理解して、お母さんはふっと口許を緩め、そして、そこまででした……
「…ぁ…………ぁぁぁあぁ……」
 女の子の見守る中、お母さんは全く動かなくなり、肉の焼け焦げていく匂いだけが鼻につき始め、気づいた時には、女の子の親友までもが炎で全身の体毛を焼かれながら、半狂乱で辺りを転げ回っていました。
 もはや、そこは地獄以外の何物でもありませんでした。
 家具の、壁の、天井の木材が、時折音を立てては崩れてゆきます。
 その中心に立って、なぜか女の子だけは一つの怪我もなく、全ての光景を余すことなく、そのつぶらな二つの瞳に映し出していました。
「………ぁあぁ……………ぁぁあぁ…………ぁ……ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
 お母さんの衣服が焼け、髪が焼け、皮膚が焼け、肉が焼け落ち、だんだんとその身体から水分さえも奪いつくされ、ミイラのように小さくなってゆく光景さえ女の子は見つめていました。
 その隣では、もう、暴れ転がる力さえなくなった親友が、ぴくりともすることなく横たわり、ただ燃焼という名の化学反応の通りに消し炭へと変化し始めていました。
 女の子は、瞳にうつっていることが現実なのかどうか、それすら理解できないくらいに混濁しきった意識の中で、それでも一つのことだけは理解せざるを得ませんでした。
 もう、なにもかもが終わりなのだと。
 奇跡なんて、起こりはしないのだと。
 自分達親子は、元から呪われた運命に、どうしようもない悪夢の中に囚われていたのだと。
 だから、女の子は考えるともなしに思っていました。
 せめて、家族三人、全員一緒に消えて終わろうと。
 自分の身体さえ、もう燃え始めていることに気づきもせずに、たった一つのことを願って、親友を抱き上げお母さんの所に行こうと、そう一歩踏み上げたその瞬間でした。
 悪夢は、最後の最後まで女の子に微笑み続けたのでした。
 この上なく嬉しそうに、にっこりと微笑みかけたのでした。
 崩れ落ちてきた天井が、今度こそ女の子を直撃し、身動きすらとれなくしてしまったのです。
 だから、女の子は強いられたのです。
 死に魅入られ、どこまでも冴え渡った女の子の意識は、その意識が途絶えるその最期の刹那の瞬間まで、大切な家族達が無残に、ばらばらに、孤独に、唯だ燃え滓になっていく様子を見せつけられ続けたのです。
 やがて、あの飴玉も完全に溶けきりその跡すら消え去った頃、誰も何も言わず、乱舞する炎の哄笑だけが響き続く中、女の子はゆっくりと意識を失っていったのです。
 全てを理解し、全てを諦め、全てを悔やみ、全てを嘆き、全てを憎み、全てを呪い、そして……
 絶望に、なったのでした。




 赤……紅……朱……アカ……
 赤……紅……朱……アカ……赤……紅……朱……アカ……
 辺りは一面の濃い赤一色だった。
 炎のような赤。
 目に焼きつくように鮮烈な、それでいてねっとりと絡みつくように重々しい赤。
 指で触れたら糸を引いてきそうで、吐き気を催すような気色の悪い黒みさえ帯びた深すぎる赤。
 俺は、赤い池の中にいた。
 同心円状に波打つ浅く赤い池。
 その中心に幼い俺が佇み、足元を見下ろしていた。
 そこには、当時俺が父と呼んで怖れていた男の躯。
 噴水のように赤い水を噴き上げる、俺と母を虐げ弄び続けた男の成れの果て。
 池の岸には、若々しく美しい女性が尻餅をついて座り込んでいた。
 呆然とその光景を瞳に映し出した、当時俺が母と呼んで慕いすがっていた大切な女性。
 俺を庇って男に殴られ、男の気分で蹴りつけられ、いつだって泣いていた。
 それでも、俺にはいつだってただ優しかったその女性。
 ただ微笑み、頭を撫でてくれ、子守唄で寝かしつけてくれたその女性。
 その女性の、いつも子守唄を歌ってくれた口が動いてこう言った。
「ひ、人殺し……人殺しの……化け物…………」
 そして、赤い池は、双子の池となった。
 施設の暮らしは、お世辞にも楽しいものではなかった。
 服は着たきり雀、食事は味・量共に、空腹を凌げることだけが唯一の救いであったし、部屋もとりあえず押し込めるだけ押し込んだという窮屈さだった。
 学校では施設の人間というだけで後ろ指を指されたし、実際、施設在住者の自分から見てもどこか歪んでしまっている人間が多かった。
 施設のあり方による結果なのか、集められる人間自体による結果なのか、それは誰にも分からないが、現実、俺の育った施設とはそういう場所であった。
 だからこそ、なのかはこれまたわからないが、俺達はとても仲間意識が強かった。
 施設には帰れば喧嘩なんて日常茶飯事でも、一端外部の人間におかしないじめでもされようものなら徹底的な報復を行った。
 そして、余計に一般家庭の子供達と対立を深めていった。
 一般家庭の子供と仲良くした施設の子供は、施設に帰ってから殴り倒され、施設の子供と仲良くした一般家庭の子供はクラスメートから無視された。
 俺が施設で暮らし始めてから丸五年が経ち、俺は中学校へと入学していた。
 その頃からだった。
 あいつの笑顔が硬くなり始めていったのは……
 一口に施設の子供達と言った所で、それもまた多数の子供達の集合体である以上、そのメンバー間にも相性というものが存在する。
 俺にも、一人だけとても相性の合う奴がいた。
 正確には、一方的に懐きつかれて気がついたら俺の隣のポジションがそいつのものになっていた、といった所だが。
「お兄ちゃ〜〜〜ん」
 駆け寄ってきたのは、身長が俺の胸の下くらいまでしかない、少女というよりは幼女といった感じの小柄な女の子。
 これで俺と二歳しか違わないというのが未だに信じられない。
「よぉ、どうした?」
 こいつが自称、俺の妹。勿論、血縁関係は一切ない。
「今日、ボクの嫌いなにんじんが出るみたいなの〜」
 台詞が示すとおり、どこまでもお子様で甘えん坊な奴である。
「はぁ?また、それか……わかったわかった、俺が食ってやるから飯の時は俺の隣に座っとけ?」
 これまで俺が散々甘やかしてきたせいなのかもしれないが……
「やったぁ、お兄ちゃん、ありがと〜〜!!」
 とにかく、いつだってこいつはこんな感じで俺の後をついて回ってきていた。
 施設に入った経緯が経緯だけに、この施設の中ですら若干浮いた感のあった俺にとって、正直こいつの存在はありがたいものだった。
 確かに要領は悪いし、すぐ泣くし、色々と面倒ばかりで手間が掛かってしょうがないが、それでも俺はこいつを嫌いにはなれなかった。
 むしろ、そんな危なっかしさにこそ俺は保護欲のようなものを感じ、なんだかんだ言いつつも面倒を見てきたのかもしれない。
 勿論、こいつが一方的に俺に頼りきりだったということも、それ自体は動かしようのない事実なわけで、結局俺達はお互いが必要とし合っていたのだと思う。
 こいつは、自分を守り導いてくれる存在を。
 俺は、自分を必要とし頼ってくれる存在を。
 そうやって、俺達はお互い心の空白を埋めあっていたのだと思う。
 今にして思えば、ではあるが……
 だが、俺が中学に入ってから、俺達の間の均衡が微妙に崩れ始めていた。
 あいつはあいつなりに俺に頼りきりではなく、なんとか自立しようと努力して失敗していたような印象があったし、俺も中学に入ってからは、空間的な壁もあり、あいつへのフォローがおざなりになっていた。
 だから、俺はすぐには気づいてやることができなかった。
 あいつが陰湿ないじめにあっていたことに。
 あいつはドジでそそっかしい上に気弱で小柄と、いじめの対象としてはこれ以上ないくらいの条件を兼ね備えていた。
 それでも、これまでは自動報復機能を備えた施設の子供というレッテルに加えて、俺がいた。
 二年も上級生の俺という保護者の存在。 
 しかも、俺の施設へ送られてきた経緯はあまりに有名だった。
 だから、誰もこれまであいつには手出しを出来はしなかった。
 だが、俺が小学校を卒業して状況は一変した。
 あいつは、俺という保護者の傘の下にいたことにより、いじめの類への対応力が施設の子供としては極端に低かった。
 しかも、施設の中でも浮いていた俺と常に一緒だったこと、あいつ自身も俺に変わる何かに頼るのを望まなかったこと、それらがあいつを自動報復機能の対象外にしてしまっていたのだ。
 子供は無邪気で残酷であからさまな生き物だ
 俺が状況を把握した時には、相当ひどい有様になっていた。
 勿論、把握した後、俺も俺なりにできることをしようとした。
 主犯格グループを殴り倒して脅したり、あいつの担任に相談したりもした。
 だが、全てが空回りし、逆効果にしかなりはしなかった。
 前者はいじめグループの逆恨みの標的として、あいつの価値を更に高めただけに終わり、後者はあいつのクラスメートに手出しをしてしまっていたことから逆に俺の方が責められ、最後には暴力で何でも解決するなんて思わない方がいい、と説教まで受ける始末だった。
 暴力一つでは何も解決できないからこそ、こうやって頭を下げに来ているというのに……
 挙句の果てにはそのことがあいつの耳にまで届き、あいつは俺にまで迷惑を掛け続けていると更に落ち込んでいった。
 何も変わらず時だけが流れた。
 あいつはいじめられ続け、俺はそれを見守ることしか出来ないままだった。
 俺は思っていた、まるで悪夢のような日々だと。
 その時の俺はまだ知らなかったから。
 本当の悪夢というものが、こんな生易しい物ではないということを。
 そして、悪夢はある日突然にやってきた。
 その日、俺はせめて気晴らしにでもならないかと、あいつと一緒に商店街まで遊びに行った。
 少ないなりにも、本当にわずかだが俺達も小遣いを貰うことが出来ていたので、それを握り締めて俺達は手を繋いで町へと出て行った。
 何かのついでに二人でこうやって歩くことはあっても、改めて二人ででかけるのは随分久しぶりだった。
 特に最近あいつは施設の中に引きこもりがちだったから、本当に久しぶりだった。
 あいつは、なんだかお兄ちゃんとデートしてるみたいだねと、そう言ってにっこり微笑んでくれた。
 いつも飽きるくらいに見ているようで、その笑顔が随分懐かしいものであったことに今更にして気がつき、嬉しくもなり苦しくもなった。
 そんな一時だった。
 別段、何を買うわけでも遊ぶという程のことでもなかったが、それでも俺達は十分に楽しむことができた。
 駅前のロータリーで、俺達はソフトクリームを買って一緒にベンチで食べることにした。
 甘くて冷たいソフトクリームが、微かに舌を痺れさせてくれるのがなんとも心地良かった。
 気づけば、あいつの顔にも満面の笑みが零れるように溢れていた。
 俺はくしゃりと、ちょっとだけくせ毛のその柔らかな髪を撫でてやる。
 あいつはちょっとだけ驚いてから、うっとりとしたように、気持ち良さそうに目を細めてされるがままになっていた。
 ソフトクリームを食べる手すら止め、二人で二人だけのその時を堪能していた。
 不意に、賑やかな歓声が聞こえた。
 どうやら今日は、ちょっとしたお祭りの日でもあったようだった。
 とてもささやかな規模ではあったけれど、ちょっとしたパレードが駅前の通りを進んでいく。
 着ぐるみのうさぎが、小さな子供達に風船を配りながら歩き去ってゆく。
 ふと横を見れば、物欲しさ全開の横顔がそこにあった。
「欲しいのか?」
「そ、そそ、そんなこと、ボク、欲しくなんかないよ!?」
 慌てて顔を紅潮させて否定してくるその姿がなんとも可愛らしくって、俺の頬までが思わず緩んでしまう。
「わかったよ。貰ってきてやるから、ここで待ってろよ?」
 そう言って、俺はソフトクリームを預けると小走りにうさぎを追いかける。
 正直、かなり恥ずかしかったが、なんとか俺は風船を手に入れると意気揚々と先程のベンチへと戻り、愕然とした。
 そこにはうさぎがいた。
 頭にソフトクリームを逆さに二本生やした、一匹の憐れなうさぎが。
「ははは、お前なんかが、何ソフトクリームなんか食ってるんだよ?そっちの方がずっとお前にはお似合いだよ!」
 あいつの前にいたのは、以前に俺が殴り倒したいじめグループのリーダー格。
「ん〜〜?なに泣きそうになってるんだよ?よ〜し、そうだ、泣き顔じゃ可哀想だからな、俺がお前を美人にしてやろう」
 そう言って、そいつは両手にソフトクリームを持つと、やおらそれをあいつの両頬に押し付けぐりぐりと円を描くように動かす。
「ほ〜〜ら、女はちゃんと化粧しないとな〜たぶんお肌にもいいぞ。すべすべだぞ〜〜」
 泣きそうな顔であいつはただ突っ立っていた。
 それでも、泣くことだけはせずに立っていた。
 やがて、そいつの背後で俺が立ち尽くしているのにあいつがようやく気がつく。
 刹那、堪えに堪えていただろう大粒の涙が、ぼろりとあいつの瞳から溢れる。
 一筋の線が、白いどろりとしたソフトクリームを洗い流していく。
 その瞳が、心の折れた瞳が、確かにこう語っていた。
『お兄ちゃん、助けて……』と。
 俺の手の平に糸が滑る感触が伝わり、直後ゆっくりと、貰ってきたばかりの風船が俺の手から抜け出ていく。
 俺と俺の大切な妹の笑顔を彩る筈だった風船。
 その風船が、どんどんと雲を目指して昇ってゆく。
 空へと還ってゆく風船が、小さくなっていく風船が、どこまでも俺達兄妹を象徴しているように思えてならなくて……
 俺は、その時どんな表情をしていたのだろう?
 俺にはそれすら認識することができないでいた。
 ただ一つだけ言えたこと。
 あいつの視線につられて振り返ったそいつの表情は、驚きでも焦りでもなく、ただ、純粋な恐怖。
 そして、その恐怖を彩るのは……
 赤……紅……朱……アカ……
 赤……紅……朱……アカ……赤……紅……朱……アカ……
 辺りは一面の濃い赤一色だった。
 炎のような赤。
 目に焼きつくように鮮烈な、それでいてねっとりと絡みつくように重々しい赤。
 指で触れたら糸を引いてきそうで、吐き気を催すような気色の悪い黒みを帯びた深すぎる赤。
 俺は、赤い池の中にいる。
 同心円状に波打つ浅く赤い池。
 その中心には俺が佇み、足元を見下ろしている。
 そこには、俺を怖れ、顔を見る度にこそこそと逃げていった男の躯。
 噴水のように赤い水を噴き上げる、俺の大切な存在を虐げ弄び続けた男の成れの果て。
 池の岸には、愛らしくあどけない少女が尻餅をついて座り込んでいる。
 呆然とその光景を瞳に映し出し、俺を兄と呼んで慕いすがっていた、俺にとっても誰よりも大切な存在。
 俺の手の届かない場所でいじめられ、男の気分で様々な嫌がらせを受け、せめて俺には心配掛けないようにと、いつだってこっそりひっそりと泣いていた。
 それでも、俺の前では幸せそうに振舞おうとしてきたこの少女。
 ただ微笑み、頭を撫でてやり、時に背中に隠してやり、時にそっと見守ってやったこの大切な少女。
 俺の妹。
 そのたった一人の家族が、いつも俺をお兄ちゃんと呼び慕ってくれていた口が短く動く。
 かつて耳にしたことのある台詞。
 かつて耳にし、その結果訪れてしまった悪夢。
 俺が創り出してしまった悪夢。
 こんなことはもう二度とあって欲しくないと、あってはならないと思った。
 だから、あの時俺は誓った。
 もう二度と、何があっても、例え相手がどんな奴でも殺しはしないと。
 だがその誓いは、今日この刻に破られ、今日この刻にその酬いが訪れる。
 もう二度と耳にしたくなかったあの言葉を、誰からよりも言われたくなかった、あいつの口から聞かされるという酬いが。
「ひ、人殺し……人殺しの……化け物…………」
 そして、赤い池は、双子の池となった。
 俺は、唯だ、絶望した……




 ある者は恨み、ある者は哀しみ、ある者は抗い、ある者は嘆き、ある者は翻弄され、ある者は疲れ、そして全員が……
 絶望した。
 様々な悪夢があった。
 一つとして同じ悪夢はなく、全てが異なる夢でありながら、全ての夢見し者達が心折られ絶望していった。
 抗おうとする心が哀しみを彩り、信じる心が恨みを募らせ、強き心こそが更なる悪夢を誘い、彼等の嘆きを木霊させた。
 悪夢が絶望を生み、生まれ出でた新たな絶望は、その誕生を待ち望んでいた絶望達に迎えられ、また悪夢の奥底へと還っていく。
 次なる絶望を迎えにいく為に……
 俺はいったい何度の絶望を味わったのだろう?
 俺の心の中に流れ込んでは消えてゆく、哀し過ぎる物語達。
 あまりに哀しく、あまりにやるせなく、あまりに理不尽すぎて、俺は泣き、叫び、頭を掻き毟り、地団太を踏み、慟哭していた。
 でも、一つ目の絶望が訪れ、二つ目の悪夢が紡がれ、二つ目の絶望が微笑み、三つ目の悪夢が瞬き始め、三つ目の絶望が俺をそっと抱き締めて……
 そんな悪夢と絶望を繰り返す内に、もう、これが幾つ目の悪夢で幾つ目の絶望なのか、そんなことを考えようという心すらも朽ち果てていった。
 ふと気がつけば、俺の頬は完全に乾ききっていた。
 涙なんて、一滴だって搾り出せそうになくなっていた。
 代わりに、心の中に訪れていたのは穏やかなる凪の刻。
 哀しみ疲れ、泣き飽きて、俺の心は何よりも穏やかに、何よりも静謐になっていた。
 もういい。
 もういいじゃないか。
 俺達はこんなに頑張ったんだ。
 俺達は何も悪くはない、ただ、運命が残酷すぎるだけで……
 いつしか、俺もまた絶望へと染まり、悪夢へと還ろうとしていた。
 でも、それもいい。
 そう、思えた。
 そう思わざるを得ないものを、あまりに多く見せられ過ぎた。
 俺は、超人でもなければ、神の生まれ変わりでもなんでもない。
 仕方がない。
 そう、これは決められてしまっていたことなのだから……
 色々な死の場面が次々と流れてゆく、中には生死が絡まない悪夢もあった。
 死だけが哀しみの全てではなく、心が手折られるまでに掛かる時間も人それぞれに違った。
 信じがたい程に心の強い人もいれば、元から心弱い臆病者もいた。
 だが、過程はどうであれ、結局行き着く先は例外なく同じだった。
 途中で、どれだけ多くの不幸をばら撒いてきたのかが違うだけで……
 そんなことを、もはや特に何かを感じるでもなく、俺は見るとはなしに見守り続けていく。
 そして、これが最後なのであろう、見覚えのある悪夢が幕を開けようとしていた。
 雨に煙る街並みを、一人の少年が歩いていく。
 つい先刻降り始めた雨が、急速に空気を変質させていく。
 空気は湿り気を帯び、重く、哀しくなっていく。
 俺は、哀れな少年にそっと囁く。
――始まるよ……もうすぐ、始まるよ……――
『何が……始まるんだ?』
 これから、悪夢という名の過酷な物語を紡ぐことを定められた少年が、どこか遠くを夢見るような瞳で、そう胸中に尋ね返してくる。
 だから、俺は答えた。
――悪夢、だよ……――
 俺が辿った過去を。
『あく……む?』
 結局、何も変えられはしなかった過去を。
――そう、悪夢が、始まるんだよ……――
 この刻から、もう全てが始まっていた。
――とっても、とっても、哀しい夢をみるんだよ……――
 朝の来ない、目覚めのない悪夢が……
『……そんな夢は見ないよ、俺は』
 見たんだよ。
――どうして? もうこれは、決まっているんだよ?――
 そんな夢を、見てしまったんだよ、俺は。
『決まっている?』
 抗っても、抗っても、もっと哀しくなってしまうだけの底なしの悪夢を。
――そう、貴方達は彼の目に止まっちゃったんだよ――
 悪夢の語り部として、選ばれてしまったから。
――だから、もう、どうしようもないんだよ……――
 絶望するまで、悪夢は続いてゆくんだよ。
『……………………』
 いつまでも。
――ほら、始まるよ……――
 永遠に……
 空は暗く、昼というのが嘘のようだったあの日。
 そんな中、俺は胸いっぱいに湿った空気を吸い込んだったんだ。
 吸い込んだ空気は、とても重くて、とても哀しくて……
 俺の胸は、押し潰されてしまいそうだった。
 俺は歩みを止めて、前方に目を向けた。
 俺の視線の先には一人の少女、桧月さん。
 白い、眩しいほどに白い傘を差した少女が一人、そこに佇んでいたっけ。
 桧月さんがこちらに向かって、ゆっくりゆっくりと、歩きだした。
 今の俺には、何もかもが手に取るようにわかってしまうのに、それなのにどうすることもできなくて、どうしようもなく哀しかった。
――ほら、始まった……――
 呟いたのは、俺なのか、他の誰かなのか。
 ただ、間違いなく言える事。
 悪夢の物語が、始まってはいけない新たな物語が……
 他でもない、この俺を語り部に選んで始まってしまったのだ。
 俺には、それが分かった。
 分かりたくもないのに、どうしようもなく何もかもが分かってしまって、気が狂って頭がどうにかなってしまいそうな想いに囚われてしまう。
 眼下には、何も知らない、何も理解できていない憐れな一人の少年。
 ただ、呆然と降りしきる雨の中に立ち尽くす少年。
 その横を嬉しげに通り過ぎてゆく白い傘。
 だから、行ったら駄目なんだよ……
 微かにそう心の中で呟いた瞬間、白い傘が虚空へと舞い上がる。
 立ち尽くす少年の背後で、徐々に少女の命が尽きてゆく。
 その短い筈の時間が、少年を責めたてるようにゆっくりと進んでゆく。
 しばらくして少女は救急車に運ばれてゆき、その場には雨音のレクイエムだけが奏でられていく。
 更に時は流れ、雨音のレクイエムが微かな雑音に掻き乱され、不協和音が混じり始める。
 連続して起こる、強く水溜まりを踏み抜いていく音と、荒く激しい息づかい。
 その音は次第に大きくなり、ある一定音量に到達したその瞬間、ぴたりと止まる。
 再び奏でられ始めたレクイエムの中に、小さな囁きが零れ落ちる。
「あ、あや…か……?」
 小さな小さな囁き。
 俺は思う。
 もう、駄目なんだよ。
「彩花……彩花…………」
 だから、もう駄目なんだよ、何もかもが、手遅れなんだよ、智也……
「彩花ぁあああああ!!!」
 そして、世界は暗転し、次に俺の存在したその場所は……
 年に一度あるかないかの大雪の日、だろ?
 俺が心中でそう呟き終える前に世界の変容は完了し、俺の眼前には降りしきる大雪の景色が広がっていた。
 その中央には、胸の前で右手を握り締めて立ち尽くす一人の少年。
 身じろぎ一つもせずに、一心に、祈るように少年が見つめるその先には、一人の少年の背中。
 後から後から降りしきる、雪のカーテンのその向こう。
 誰かに大声で呼びかけながら、その少年の姿は白の世界へと溶けてゆく。
 やがて、少年の下に一人の白き天使が舞い降りる。
 眩しいほどに真っ白な翼を持った存在が。
 人と天使が二言三言、言葉を交わす。
 その小さな声は、俺の耳にまでは届かなかったけれど、俺には何の問題もなかった。
 あの時の会話は、忘れようにも忘れられはしないから……
 気づけば、俺の一部が、嬉々として二人と会話を始めていた。
――今度は、お友達だね……――
 少年と天使が一声叫んで走り始める。
 でも、全然間に合わなかったんだよな……
 そう、心の中で呟き終えると同時に、何か大きなモノが、呆れるくらいに綺麗な放物線を描く。
 やがて、いつかどこかで見たセレモニーが、少年と少女と天使を観客に迎え粛々と進められてゆく。
 唯だ、笑っていなければならない筈の少女から微笑みが消え、少年は眼前の光景と己の右手を見比べながら己の罪を噛み締め、白き天使は赤き天使の誕生を涙と共に見守った。
 もういい。
 もう十分だった。
 もう、これ以上の悪夢は見たくなかった。
 この次に何が来るのかが分かっていたから、もう、これ以上は何も見たくはなかった。
 悪夢が続こうが構わない。
 新たな絶望が生み出され続けようが、そんなことはもはや俺の知ったことではなかった。
 もう、何もかもがどうでも良かった。
 何でもいいから、もう、これ以上この悪夢を見せないで欲しかった。
 次の悪夢を、次の絶望を、俺に見せ付けないで欲しかった。
 かおるが死ぬ姿なんて、もう二度と見たくなんてなかったから。
 それでも、決して世界の変容は止まろうとはしなかった。
 あくまで俺に全てを見せつけようと、俺の苦悩をほくそ笑むかのように、淀むことなく流れ続けていく。
 果てしなく優しく、果てしなく残酷な時の流れのように……
 いつしか、真っ白だった雪の世界は、オレンジ色の夕暮れ時に移っていた。
 薄暗くなっていくひと気のない校舎に、男の怒声が響く。
「当たり前だろうが!?あんなデリカシーのない野次馬根性の塊みたいな胸くそ悪い女、どうやったら好きになれるんだよ!!?」
 その言葉の直後、壁に預けた全身をくずおれさせてゆく少女が一人。
 その青ざめた顔を見た瞬間、俺の瞳に、もう枯れきった筈の涙が込み上げてくる。
 太陽を背にした愚かな俺が、見当違いな努力を、滑稽な程真剣に続けていた。
 傍から見ると滑稽だが当人達にはとっては悲劇、それを喜劇の定義とするならば、これ以上の喜劇が他にあるのだろうか?
 たちまちの内に俺の愛した少女の心は、面白いほど、嗤えるほどに、嬲られ抉られ傷ついてゆく。
 少女の砂の城が、またも無残に、観客が白けてしまうのではないかと心配になるほど徹底的に踏み躙られてゆく。
 それでも、誰よりも愚鈍で間抜けでどうしようもないこの俺は、ここまで来て、この時になってもまだ気がつきはしないのだ。
 自らが彼女を、かおるをただ死地へと追い立てているだけだということを。
 刹那、空気が陽炎のように揺らぎ、少女の姿が長い髪のそれへと変じる。
 その少女に背を向け立ち去ろうとする少年に、少女は微かに銀の輝きを内に秘めたその髪を揺らして責め句を投げつける。
「稲穂さんッ!」
 少年の背中が、一度だけ小さく震える。
 それでも、少女の言葉に少年が立ち止まることはなく……
「こんな!!こんな結末が許されると思うんですか!!?」
 少女の叫びだけが虚しく木霊して……
 木霊して……
 俺は、思わず呻かずにはいられなかった。
 これだけかおるを傷つけて、これだけかおるのことをおざなりにしていて……
――許されるわけ、ないよね……――
 そして、初めてこちらを振り向いた少年の、ピエロの俺の顔に浮かんでいた表情は……
 不意に、またも空気が陽炎のように揺らぐ。
 次の舞台は駅前の大通り。
 その大通りの車道と歩道の境界線上に立つのは、この悪夢の主の少年。
 その少年の鼻先わずか数メートル、車道の真ん中へとその身を滑らせていく少女。
 その少女を凝視する少年に浮かぶ表情は、憤怒。
 少年は思った。
 どうしてこんなことになってしまったのか?
 答えはすぐ目の前にあったというのに。
 もう自分の中で答えは導き出されていたのに。
 なのに、俺は自分を欺いてしまった。
 自分の都合のいいように、敢えて答えからは目を逸らしていたんだ。
 そう考えて、その時の少年は怒りに打ち震え、自らも車道へと少女の後を追って飛び出していくのだった。
 ごく日常的な夕刻の雑踏に、非日常的な覚悟の叫び、少女のささやか過ぎる願いを叶える叫びが響く。
 直後、少女の応える叫びと、タイヤと道路が擦れ合う甲高い音が鳴り響き、街角の雑踏からあらゆる音という音が消失する。
 息を呑む音すらしない中、横転したトラックのタイヤだけがクルクルと空転しているが、それもまたすぐに止まる。
 やがて、目を覚ました少年の瞳に飛び込んでくる黄金色の海。
 その煌めきの中心に横たわる少女の身体。
 瞬きを二度三度するほどの間、少年はぼんやりとその状況を眺め、その後よろめきながら少女の元へと歩んでいく。
 少年の虚ろな瞳が、眼下の惨状を無感動に映し出し、そしてそこで何をするでもなく固まりかけたその時、少女の睫毛がほんの一瞬だけぴくりと動く。
 その瞬間、まるでスイッチが入ったかのように少年の瞳が生き返る。
「かおる!かおる!かおるッ!!」
 少年の涙ながらの必死の呼びかけが、うっすらと少女の瞳を開かせる。
『泣かないで?』
 そう答えようとした少女の口から溢れ出たのは、少年を気づかう言葉ではなく赤黒い血。
『私は大丈夫、だからそんなに哀しまないで?』
 誰がどう見ても大丈夫ではない量の血をとめどなく流しながら、その視線に想いを込めて、少女は自らの意思を少年へと伝える。
「かお……る……?」
 わずかな間の後、少年は少女の視線の意を汲み取り始める。
 ゆっくりと、少年と少女の別れの儀式が進められてゆく。
 やがて、のろのろと少女の右手が少年の頬へと差し伸べられてゆく。
 折れ曲がり指を伸ばすことすら叶わなくなった右手の甲が、少年の頬にそっと触れる。
「し……ん……」
 そして、少女は最後の想いを少年へと託す。
「……わかったよ、かおる」
 少年は、今まさに、その物語を終えようとしている少女へ向けて、そっと上半身をかがめる。
 視界いっぱいに広がる、少年の、俺の最愛の人、かおる。
 その顔は赤黒く染まり、憐れなほどに酷い顔だった。
 二人の距離が、ゆっくり、ゆっくりと近づいてゆく。
 赤黒い別人のような顔に、いつものかおるの笑顔が浮かんで視える。
 …………かおる……
 そう呟いたのは、少年なのか、俺なのか。
 そして、二人の唇が重なってゆく。
 俺の口中に、込み上げるようにあの時のキスの味が蘇ってくる。
 ジュースのような甘さと、鉄のような苦さを混ぜ合わせた、忘れられないあの味。
 血の味が……
 やがて、ゆっくりと二人の唇が離され、少女の手の甲が少年の頬を滑り落ち、軽やかで小さな水音が木霊していく。
 黄金色の海のその上で、少女が黄金色の翼を広げ遥かなる高みへと旅立つのを、ただ少年の慟哭の声だけが見送っていた。
 そして、少年は絶望に呑み込まれていく。
 そう、もうこれでいい。
 そうして、俺は、もう二度と目覚めない、
 絶望になって、悪夢へと還って、そうしてまた新たな絶望を迎えにいくんだ。
 そう、それでいい。
 それでいい……のに。
 なのに、なのになぜ!?
 なぜ、俺はまだ呑み込まれていないんだ!?
 なぜ、かおるの死をなかったことにして、唯笑ちゃんの存在を抹消して、そんなすぐに収拾がつかなくなるに決まってる歪みきった世界を構築してまで、俺はどうしてそこまで抗っているんだ!!
 どうして素直に楽な道を選ぼうとしないんだ!! 
 そう、少年は未だ悪夢に呑み込まれてはいなかった。
 当然だ。呑み込まれていれば、今、俺がこうして悪夢の全ての物語を紡ぎ返していることの説明がつかない。
 少年は、俺は、未だ悪夢には呑み込まれずに、絶望せずに抗い続け、己の物語を紡ぎ続け、未来への海を漂流し続けているのだ。
 どうして!?
 いったいどうして!?
 こんな苦しいだけの道を!救いなんてあるはずのない道を!!
『それが俺の、「償い」なのだから』
 ……『償い』
 刹那、脳裏を掠めるかつての己の想い。
 俺が生きていく上で、何よりも最優先させねばならなかったこと。
 俺が果たさねばならなかった使命。
 為す術もなく、ただ俺の物語に巻き込まれて散っていった桧月さん。
 彼女の想い、彼女の遺志を果たすこと。
 彼女の大切な人への贖罪。
 彼女の持ちし、二枚の翼を幸福へと導くこと。
 それこそが、俺の生き続けねばならない、いや、俺が生き続けることへのせめてもの対価の筈だった。
 だが、実際はそうはならなかった。
 一瞬の幸せ。
 短すぎた平穏の時は確かに訪れた。
 俺は確かに智也を、友を過去の呪縛から解き放つことに成功した。
 だが……
『俺は軽く智也の背中を後押ししてやる。』
 そう。
 俺は、その智也の背中を、『押してしまった』のだ。
 送り出してしまったのだ。
 あの場所へと……
 そして、智也は……唯笑ちゃんは……
 だから、俺はせめて唯笑ちゃんだけでもと思っていた。
 そう、だからなのか?
 まだ贖罪が完了していない。
 だから俺は、未だこうやって絶望に呑み込まれもせずに、俺として存在し続けているのか?
 そうだろうか?
 本当に、そうなのだろうか?
 本当に、それだけなのだろうか?
 それだけでしかないのだろうか?
 なら、なぜ俺はかおるのことを……?
『俺の親友の彼女を助けるためには、仕方がなかったんだよ!』
 唯笑ちゃんを助ける為に、かおるの助けが必要だったから?
『さっきのは……仕方がなかったんだ!ああするしか、ないと思ったんだよ!』
 そう、本当の所、唯笑ちゃんのことは口実に過ぎなかった。
 かつて、俺は自分にこう問い掛けた。
『俺は、俺の幸せを求めていいのだろうか?』
 俺のあるべき姿はそうでなかった筈だ。
『唯だ、償うために。彼女に、唯だ、笑ってもらうために。
そのためにこそ、俺は生きなければならない』
 それこそが、俺に許された唯一の贖罪の道の筈だった。
『だが、その行為を間違いだと言う人がいる。
その人の言葉を信じようとする俺が、信じたいと思う俺がいる』
 だから、俺は……
『想いは、止まらなかった。
俺の想いは、もう踏みとどまろうとはしなかった……』
 そして、俺は、告げたんだ。
 俺の想いを、かおるに、俺の大切な人に!
 そうだ!そうだったんだ!!
 確かに、かつて俺は智也を助けたいと思った。
 贖罪をしなければならないと思ったし、するべきことでもあるとは思う。
 でも、俺の生きる為の理由は、そんなことじゃない。
 俺が、俺として生きる為に、理由なんて必要なかった。
 理由なんて要らなかったんだ!
 だけど俺は弱かったから、俺の心が弱かったから。
 だから、俺は贖罪だなんて御大層な理由を作って、自分で自分を縛りつけてきたんだ。
 でも、それは違う!
 俺は、俺が生きているからこそ生きているんだ!
 たったそれだけのことでしかなかったんだ。
 生きている俺の前で、桧月さんの死が起こり、俺はその桧月さんの大切だった存在、三上智也に偶然再会した。
 だから、俺は智也を助けたいと思い、そして知った。
 智也と桧月さんにはもう一人の幼馴染、今坂唯笑ちゃんがいるということ。
 その唯笑ちゃんと智也が想い合っていながら、桧月さんの死という事情に縛られ二人が前に進めずにいたことを。
 だから、俺は二人を結びつけてやりたいと思った。
 それだけ、本当にたったそれだけのことでしかなかったんだ。
 だからその後、智也が逝ってしまえば唯笑ちゃんの支えになりたいと思ったし、その過程でただのクラスメートが大切な存在へと変わることだってあった。
 何もややこしいことなんてなかったんだ。
 何も難しいことなんてなかったんだ。
『あなたは、あの頃の三上さんと同じです。
過去の想いと罪悪感に縛られて、今坂さんを拒まれ続けた三上さんと……』
『今坂さんだけじゃなくて、稲穂さんも、音羽さんも、私も……
みんなで、みんなが笑えなければ意味がないんですよ!!』
 いつか、双海さんに言われた言葉。
 その言葉の真意。
 俺はようやくその答えに辿り着いた。
 長かった。
 本当に長い道のりだった。
 悪夢なんて、関係はなかったんだ。
 絶望と、還る必要なんてなかった。
「希望と共に歩めばいい」
 悪夢へと、還る必要なんてなかった。
「未来へと歩めばいい」
 悪夢が絶望を生むことも確かにある。でも……
「未来が希望を育み……」
 絶望はもう、悪夢へと還らない!
「希望がまた、未来へと繋がってゆくんだッ!!」
 希望を信じるかぎり、未来が閉ざされることはないんだ!!
 咆哮。
 絶叫をも通り越した、俺の雄叫び。
 それが響いた瞬間、世界に光が溢れる!
 刹那、視界が光に灼かれ、何も見えなくなる。
 そして、視力が回復した時、俺は、光の前にいた。
 俺が抱き締めた女の子が、色すらない、純粋なる光を溢れかえらせていた。
 見つめることすら辛いほどの光に包まれて、女の子は俺を見上げて唯だ微笑む。
 今はもう、哀しくもない、辛くもない、嘆きもない、苦しくもない、そして、絶望をしていない少女、彼女が微笑んで言った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
 そして、女の子が、俺の中へと、俺の身体の中へと溶け込むように入り込んでいく。
 女の子を抱き締めていた俺の両腕が、段々と抱き締めるべきものを失っていく。
 最後には、俺は、ただ俺自身を抱き締めていた。
 俺は受けとめたのだ。
 女の子を、全ての哀し過ぎた物語達を、一つ残らず受けとめきったのだ!
 両頬を、一筋だけ涙の線が走り、顎の先端で合わさると、大粒の涙が一滴だけ遥か下方の地上へと雨になって降ってゆく。
「ありがとう……」
 誰に言うともなく、俺の呟きが風に流されてゆく。
 そんな俺を抱き締めていた唯笑ちゃんが、そっと、俺に囁きかけてくる。
「雨はいつ上がる?」
 だから、にやりと笑って俺はこう答えた。
「雨は、今、上がった。今、この刻に!!」
 唯笑ちゃんは、唯だ微笑んだ。満面の笑顔で!
 そして、俺の中へと移った光が、徐々にその輝きを増し始めていく。
 その優しく温かな光が全てを包み込んだ時、俺と唯笑ちゃんの意識は、この世界から消滅し還っていった、俺達自身の、あるべき世界へと……




「……ッ!!」
 限界まで溜め込んでいた二酸化炭素を一気に吐き出し、新鮮な空気を胸いっぱいに貪る。
 隣を見れば、同じ様に川面からなんとか頭を突き出させて唯笑ちゃんが荒い息を継いでいる。
 その頭越しに、俺達を直撃したはずのあの大木が下流へと流れてゆくのが見える。
「し、信君!」
 なんとか水面に顔を出している唯笑ちゃんに手を差し伸べようとするが、その途端鋭い痛みが俺の全身を駆け巡っていく。
 思わず小さな呻きを漏らしながら、ようやく俺は自分達の置かれた大雑把な状況を把握することができた。
 どうやら俺と唯笑ちゃんは、奇跡的にあの巨木との衝突に耐え切り、なんとか水面にまで顔を出すことに成功した、というのが現状らしい。
 とはいえ、荒れ狂う濁流の真っ只中だわ、俺の身体はずたぼろだわと、相も変わらず状況は最悪だった。
 何一つ変わっていないどころか、ますます悪化の一途で文字通り絶体絶命の状況になっている。
 もういい加減勘弁してくれよ、と内心で毒づきながらも俺は次の算段を考え始める。
 そうこうする内にも、唯笑ちゃんが俺の身体に手を届かせてつかまってくる。
 だから俺は、とりあえず唯笑ちゃんに声を掛けようと息を吸って口を開く。
「…………ッ!?」
 ぐらりと視界が揺れ、唯笑ちゃんの身体が瞬間的にぶれる。
 言葉の代わりに、ごぼりと溢れたのは大量の血。
 くらくらと眩暈が全身に疾しる。
 俺の身体が、俺の意識の制御から切り離されて動かなくなってゆく。
 ことここに至って、俺はようやくにして正確な状況を把握する。
 つまりは、自分の肉体がもう既に軽く限界を超えてしまっているということを、さっきの巨木との衝突のダメージが、俺の想像を遥かに上回り、殆ど致命傷クラスのものだったということを。
 今更ながら、両足の感覚が全くないことにも気がつく。
 どうしてそんなことにすら気がつかなかったのか、意識が気がつくのを拒否していたのか、感覚器官自体が既にいかれてしまっているのか、いずれにしても、足が潰れているのか折れているのか、それすらも判別はつかなかった。
 急速に視界にもやが掛かっていく。
 三人に分裂した唯笑ちゃんが、何かを必死で叫んでいる。
 ひょっとすると泣いているのかもしれない。
 だが、それすらもう定かではない。
 俺は死ぬのだろうか?
 こんな形で、こんなあっさりと俺は死ぬのだろうか?
 あの女の子を助けた瞬間、何から何まで全てが上手い方向に転がって、何もかもが在るべき場所に収まってくれる。
 俺はそんな風に思い込んでいた。
 だから、もう、俺も唯笑ちゃんも助かるものだとばかり……
 なのに、俺は今、こうやって死んでいく。
 やっとあの子達も俺という居場所を見つけたのに、もう、俺は死んでしまう。
 もう、俺は智也達の所に逝こうとしている。
 これが、俺の物語だったのだろうか?
 こうなることこそ、稲穂信という悲劇の物語の幕引きなのだろうか?
 あの子達を受けとめ救い出すこと、それが俺の物語の全てなのだったのだろうか?
 ……………………そうなのだろうか。
『もうお前の償いは終わったんだ』
 それのどこが、希望とともに歩んでいると言えるのだろうか?
『だから、お前も前を向け!!』
 未来へ向かって歩んでいると言えるのだろうか?
『幸せになろう?ずっとずっと一緒に過ごして、一緒に幸せになろう?』
 そう、未来を夢見ること、それこそが希望を育むんだ。
『二人で生きるの。二人でそろって、一緒に幸せになるの。いい?』
 希望を信じ続けること、想い続けることこそ、未来へと繋がる奇跡を導くんだ!
『ああ、約束だ……』
 そうだ、約束だ!!
 智也!桧月さん!!かおる!!!
 俺は、終わらせた。
 全ての悪夢を終わらせ断ち切った!
 今度こそ、信じ抜いて断ち切ってみせた!
 だから……
 助けてくれ!俺に約束を守らせてくれ!!
 俺は唯笑ちゃんを残して死んでなんかいられないんだ。俺は、生きたいんだッ!!
 奇跡を俺に!俺を、俺達を、助けてみせやがれぇえええ!!
――……任せろよ――
 脳裏に力強い言葉が閃き、何色かの光の煌めきを感じたその瞬間。
 突如、何の前触れもなく世界が真紅の輝きに包まれる。
 ……夢?
――お疲れ様――
 我が目を疑い瞬きした後には、今度は俺を純白の光が包み込み、一気に朦朧としていた意識が回復する。
「……信君!信君ッ!!」
 いつの間にか、俺は唯笑ちゃんに抱き締められていた。
 ……え?
 慌てて周囲を見回せば、俺達は真紅の光の球体の中にいた。
 球体の周りには変わらぬ荒れ狂う濁流。
――よぉ、なに間抜け面してるんだよ?――
 そう言ったのは、濁流と正対するようにこちらに背を向けている、真紅の翼を持った俺の悪友であり親友である男だった。
 自分の身体に目をやれば、ゆっくりと傷が治っていっていた。
 内臓への突き刺さるような痛みが小さくなってゆき、ぐちゃぐちゃに折し潰された両足が徐々にだが再生されてゆく。
 癒しの光の主へと目をやれば……
――唯笑ちゃんを、これからもよろしくね?――
 そこには、にっこりと微笑む白き翼の見知った天使。
 そして、また目線を元の正面に戻せば、そこには嬉し涙で顔面をぐしゃぐしゃにした唯笑ちゃんが。
 俺は言葉もなく唯笑ちゃんを力の限り抱き締める。
「……信君」
 抱き締められた唯笑ちゃんがどんな顔をしているか、そんなことは考える必要もなかった。
 唯だ、最高の微笑みを浮かべているに決まっているのだから!!
――はぁ……――
 全くの死角の場所から、絶対に忘れることのできない人物の溜め息が漏れてくる。
――これで万事解決ハッピーエンド、それは分かるけど、目の前で見せつけられると嬉しいんだか悲しいんだか……――
 慌てて振り返ったその先には……
「かおるッ!!」
 そこに佇んでいたのは、安心したような、でも少しだけ寂しそうな微笑みを湛えた黄金色の翼を持った天使。
――唯笑ちゃん、そのバカをよろしくね……――
 うん、と力強く、そして神妙に唯笑ちゃんが頷く。
――そろそろ限界だ。そっちは大丈夫か?――
――後は、病院でも大丈夫だと思う――
 智也が確認の声をあげ、それに桧月さんが真剣な瞳で頷き返す。
 その様子を眺めていたかおるが、寂しさに哀しさの色を加えて、ぽつりと短く呟く。
――信、お別れだよ……――
「と、智ちゃん!?どうして、どういうこ……!?」
 唯笑ちゃんが智也に言い募ろうとして、抱き締められる。
 俺はなんとなく彼ら三人の天使の状況に思い至って呟く。
「想いが……尽きるのか?」
 三人が同時に頷く。
――私達の存在はあの女の子と同じ。生前の世界に対しての強烈な想い、それが具現化し形となった……――
――平たく言えば、一種の自縛霊みたいなもんだな――
「あの子で言うなら、絶望の具現化、か?」
――そう、そして私達で言うなら、残された信達を想う気持ちが……――
――でも、あくまで俺達は生前の人間の想いの欠片、大きな奇跡を起こせば、力を使い切れば……それで消える――
――それに、心配の種が解決されれば、どちらにしても消えるしかないの――
――だから、これで本当にお別れ……――
 そこまで聞いて、智也の胸にすがる唯笑ちゃんが声を上げる。
「ま、待ってよ!!どうして?どうしてお別れなの!?
唯笑、やだよ!そんなの嫌だよ!!彩ちゃん達と、お別れなんてしたくないよ!!」
 本当の所、唯笑ちゃんもどうにもならないのは分かってはいるのだろう。
 いるのだろうが……
「お願い、お願いだから逝かないでよ!唯笑を置いて逝っちゃわないでよ!!
唯笑、また笑えなくなっちゃうよ!また泣いちゃうよぉ!!だから、逝かないでよぉ!!」
 三人の顔が苦しげに歪む。
 だが、唯笑ちゃんに声を掛ける者はいない。
「なんで!?」
 声と同時に智也の胸を叩こうとして、その腕が空を切る。
 唯笑ちゃんの手は、明らかに智也の身体を突き抜けていた。
 智也の身体が、うっすらと透けて見え始める。
――時間、みたいだね――
 今度は、そう囁いた桧月さんに、泣き出しそうな表情で唯笑ちゃんが駆け寄ろうとする。
「これで、最後なんだぞ!本当に最後なんだぞ!!」
 気づけば俺は無意識の内に叫んでいた。
 その声に、唯笑ちゃんの背中が一瞬だけ、ぴたりと止まる。
「それでいいのか!もう、次はないんだぞ、唯笑ちゃん!!」
 でも、結局、唯笑ちゃんは止まらなかった。
 大きく息を吸って、こう叫んだのだ。
「唯笑、絶対、幸せになるから!!」
 肩を震わせ、小さなこぶしを握り締めたまま、それでも精一杯の言葉を贈る。
「唯笑、泣いちゃうけど、いっぱい泣いちゃうけど、それでも、ちゃんと最後には笑うから!心から笑って、信君と幸せになって、唯だ、笑うから!!だから、唯笑は大丈夫、大丈夫だよ!!大丈夫だから……智ちゃん!彩ちゃん!音羽さん!!
……いってらっしゃい!!」
 唯笑ちゃん……
 俺は言葉もなく、背後から唯笑ちゃんを抱き締める。
 最後の最後に、大切な幼馴染達に、自らの自立を、自らの成長を示してみせて、唯笑ちゃんは彼らを送る道を選んでくれた。
 俺と同様、言葉もなく瞳いっぱいに涙を浮かべた桧月さんがにっこりと、本当に、心の底から嬉しそうに微笑む。
 俺は一歩後退りながら、唯笑ちゃんの背をそっと押してやる。
――唯笑ちゃん?唯笑ちゃんは本当に強く、大人になってくれたんだね……――
「彩ちゃん……」
――私の中ではね?唯笑ちゃんがこんなに大きくなっても、それでも唯笑ちゃんは、ずっと私と智也の後を追っかけてきてた頃の、ちっちゃかったあの頃の唯笑ちゃんのままだったの。
でも、でも……もう、そんなこと……なかった……――
 必死で涙を堪えようとして、堪えきることなどできる筈もなく、涙声でそう語る心優しき少女。
「……彩ちゃん!」
 やはり桧月さんは、唯笑ちゃんにとって最高の幼馴染であり、同時に実の姉のような存在だったのだなと、今更ながらに実感する。
 そうでなければ……
――私がいなくても、こんなに……こんなに……!
私、安心できたから。本当に嬉しかったから。唯笑ちゃん、ありがとう、さようなら!!――
 最後に、桧月さんは俺にちらりと視線だけ走らせて、泣き笑いのまま微笑み、一気にその背の翼の輝きを、残された全ての力を解き放つかのように爆発的に強めていく。
 これまでに見たこともないような、歓喜に溢れかえる完全なる白。
 見つめることなど叶う筈もない、圧倒的な汚れ無き純白の光。
 思えば、彼女こそ一番つらい立場だったのかもしれない。
 俺のように足掻くことさえ許されず、大切な幼馴染達が苦しむのをただ見守ることしかできなくて……
 でも、その苦しみも今、ようやくにして終わる。
 彩りの花と書いて彩花。
 その名に十二分に相応しい、眩しいくらいに真っ白な光、その輝きに包み込まれるように桧月さんの輪郭が消えてゆく!
 そして……最期、生まれ出でた光が天を穿つ!!
 遥かなる高みへと向けて、光の白柱が真っ直ぐに伸びてゆき打ち立てられる。
 荒れ狂う濁流に垂直に、分厚く垂れ込める暗雲を薙ぎ払うかのように雲間を切り裂き光の柱が生まれ出でたのだ。
――じゃ、次は俺だな――
 直後、そう言って唯笑ちゃんの前に進み出たのは、その存在を更に希薄にさせた俺の友、三上智也だった。
 智也は、今は唯笑ちゃんに触れることもできないその身体で、そっと唯笑ちゃんを抱き締める。
 きっと、唯笑ちゃんにだけはあいつの体温が感じられているに違いない。
 そう思いながら二人を見つめる俺の視界が、不意にぐりゃりと歪む。
――何を、泣いてやがるんだよ。お前は……気色、悪い奴…だな……――
 それはお互い様だった。
 なぜなら、唯笑ちゃんの肩越しにこちらを見つめているであろう智也の目にも、涙が溢れかえりそうなほど溜まっている筈なのだから。
 何かを振り切るかのように微かにかぶりを振った後、今度ははっきりとした力強い声が聞こえてくる。
――信、俺はお前の友達になれて良かった。お前は、俺の誇りだ。お前は、俺の最高の親友だったぞ!!――
 だから、俺も泣きたいのを堪えてなんとか言い返してやる。
「馬鹿野郎!何寝ぼけたこと言ってやがる。
『だった』じゃないだろ、俺とお前は親友だ!過去も、現在(いま)も……」
――未来(これから)も!!――
 俺の言葉を途中で奪い取り、親友がにやりと笑ってみせてくる。
「ずっと……だぜ?」
――ああ、ずっと……だ。信、唯笑のこと、頼んだぜ?――
 俺は何も言わずに智也の瞳を強く見つめ返す。
 陳腐な言葉よりも何よりも、俺の決意が伝わると確信して。
 親友の笑みが穏やかな満足したそれに変わり、その視線が改めて愛する少女へと向けられる。
――唯笑、俺も彩花もいつだってお前の中にいる――
「三人は、いつだって一緒……なんだよね?」
――ああ、その通りだ。まぁ、もう一緒なのは、三人位じゃ済みそうもない気もするけどな――
「そうかもしれないね」
 そこで二人は顔を見合わせ、子供のように無邪気な笑みを浮かべる。
――さ、もう、これでお別れだ。何か、言い残したことはないか?――
「あ、そうだ、一個だけ智ちゃんにお願い!」
――なんだ?――
「今度生まれてくる時は、唯笑の赤ちゃんになって生まれてきてね!!」
 智也の肩がこけ、唯笑ちゃんがしてやったりという表情で微笑む。
 唯だ、笑っていなければならなかった少女。
 だが、彼女に、そんな呪縛は必要なかった。
 なぜなら、彼女が、今坂唯笑だったから。
 いつでも誰に言われなくとも、唯だ幸せな微笑みを浮かべられる強い少女だったから。
 だから、俺の親友もまた微笑んで答える。
――断られたってそうしてやるよ――
 そうして、唯笑ちゃんとキスをし、その二枚の翼が紅蓮の炎と化していく。
 その立ち昇る焔の中に吸い込まれるように親友の姿が完全に消えた直後、新たにそれは生まれた。
 残された二枚の炎の翼が、それぞれに白光の柱に対抗するかのように奔流となって柱の壁面を駆け登り始めたのだ。
 白光の柱に纏わりつきながら、二匹の火炎の龍が螺旋を描きながら、遥かな高みへ向けて駆け登っていく。
――で、最後が私、と――
 一歩引いた場所で俺達の別れの挨拶を見守っていた少女が、俺が愛していながら、俺が結局は守りきれなかった少女が、そっと気軽な様子で歩み寄ってくる。
 その少女、音羽かおるはまず唯笑ちゃんへと歩を進める。
 今は亡き俺が愛した少女が、今もあり、これからもずっと俺と共に歩み続けてくれる少女の肩に両手を置き、その瞳を覗き込む。
 今更ながら、かおるだけはまだ完全な実体を保っていたことに気がつく。
――信を……お願い……――
 唯笑ちゃんの肩を握り締めるかおるの両手が震える。
 今、彼女はどんな想いでこの一言を紡いだのだろうか?
 今、彼女はどんな想いでこの一言を受けとめたのだろう?
 それは、それだけは当人達のみにしかわからない、わかってはならない想いだった。
 見詰め合う瞳には、双方に光る雫が滲んでいた。
 けれども、それを零してしまうことは決して共にしなかった。
 そして、固く、固く、抱擁する。
 言葉でなく、接した身体から直接想いを染み込ませていくかのように……
 やがて、二人の身体がどちらからともなく離され、唯笑ちゃんがすっと一歩体を引く。
「かおる……」
――信……――
「俺、あの時、あの時、自分を信じ切れてなかった。だから……」
 ふっと口許を綻ばせ、かおるが俺の唇を人差し指で塞ぐ。
――信?確かにその通りだけど……私は、そんな頼りなげで、哀し過ぎるぐらいに自分を貫き続けていた信を好きになったの。
愛してしまったの。
だから、何も言わなくてもいい。全部分かってるから。信の想いは、全部……――
「かおる……」
 俺の体が柔らかなかおるの体に包み込まれる。
 俺もかおるを抱き締め返す。
 二人見詰め合い、やがてどちらからともなく目を瞑り、その唇が近づいてゆき重ねあわされる。
 今度のキスは、唯だ、甘く切なく……血の味はしなかった。
 ただ、かおるの味がした……
 不意に、背中に廻されていたかおるの腕の感触が消える。
――私も、もう時間みたい……――
 感触の消失は連鎖的に続いていった。
 腕の感触に続いて、俺が廻していた腕の中の体のそれも消失し、頬に触れた髪の先端のそれも消え、最後に唇の感触が……
 消えた。
 そっと目を開いた俺の前に、一羽の金翔鳥がいた。
 その実体のない黄金色の翼を持ちし鳥は、かおるは、ゆっくりと翼を動かし始める。
 頭上の天空へと視線を送り、最後にこちらをちらりと見て微笑む。
――信、ありがとう……さようなら!!――
 高らかに打ち鳴らされる優雅な羽音。金翔鳥は羽ばたき、一直線に炎に包まれた白光の中を昇っていく。
 黄金色の彗星となって、煌めきの尾を引きながら、瞬きする間にその姿を天空の彼方へと消す。
 それと同時に、俺達を包んでいた球体もまた黄金色の輝きを放ちながら光柱を昇り始める。
 遥かなる高みを目指すかの如く。
 七色の光の鼓動に包まれながら……




「し、詩音ちゃん、ちょっと待って……」
「急いでください、小夜美さん!」
 一匹の猫を先頭に、二人と一匹の持久走大会は今まさに、佳境を迎えようとしていた。
 息を切らせながら、情けない声をあげる小夜美に、年上の威厳などという物は微塵も無く、完全に詩音から遅れ出していた。
 あれから二人は随分と長い距離を走ってきたわけだが、未だ猫が導こうとする場所には辿り着いてはいない。
 当初はしばらく先を走っては振り返って悠然とこちらを見守っていた猫の様子からも、そこはかとなく余裕が失われつつあるように見える。
 やがて、二人からだいぶ離れた先で、猫の動きがピタリと止まる。
 変化を察し、小夜美を置いて詩音がいち早く猫の場所にまで駆け寄る。
 そこはちょっとした上り坂を登りきった場所。
 遮るもののないその場所からは、おそらくこの猫が目指してきたのであろう場所が良く見える。
 素人目にも異変は明らかだった。
 荒れ狂い、轟音と共にうねりを上げて流れる濁流。
 その上には、一部が崩落を起こしている鉄橋。
 そして……
「伊吹さん!!?」
 詩音と猫は、最後のラストスパートへと移行する。
 残り三百メートルを一気に駆け抜けて、詩音が鉄橋上のみなもを抱き起こす。
「伊吹さん!伊吹さん!!」
 さすがに詩音の息も上がってはいたが、詩音は構わず呼びかけを続ける。
 それからしばらくして、小夜美の姿がようやく鉄橋上に現れた頃、小さくみなもが呻き声を上げる。
「伊吹さん、しっかりして下さい!」
 それまでじっと二人を見つめるだけだった猫が、すっとみなもに近づくとその顔を舐め始める。
「……………ぅ………」
 呻き声と共に、みなもの口からきれぎれに信の名が漏れる。
 みなもの呻きとほぼ同時に、ようやく小夜美も到着する。
「…………み、なも…ちゃん?……なん、で…?」
 ぜぇぜぇと肩で息をしながら、小夜美がなんとか疑問を口にする。
「わかりません」
 詩音の答えはにべもない。
 そして、ただ徐々に覚醒に近づきつつあるみなもの寝顔を注視していた。
 やがて……
 猫がくるりと振り向き、鉄橋の破損部に近づき、その視線を未だ荒れ狂う川面の遥か下流へと向ける。
 刹那、みなもの瞳が開かれる。
 詩音と小夜美が何かを言うよりも早く、すっとみなもの右手人差し指が一方を指差す。
 猫の視線と全く一致する方向を……
「……来ます」
 短い宣言。
 同時に、何の前触れもなく川面から滲み始める紅の輝き。
「……なっ!?」
 詩音と小夜美が驚きの声を上げ見守る中、明滅しながらもその輝きは徐々に膨らみを増していく。
 やがて、シャボン玉が割れるかのように、臨界に達した紅き輝きが弾け飛び、純白の光の奔流が溢れ出してくる。
 目を貫く白光が世界を白く焦がし、天を穿つ巨大な光柱と化す。
 数瞬の間を置いて、光柱の根元から今度は双頭の龍が解き放たれる。
 その焔の化身、真紅の火炎龍は荒れ狂う川面を睥睨するかのように不規則にその身をうねらせる、その胴体が水面についた時は言うに及ばず、一定距離に近づいただけでも猛烈な勢いで水が蒸発していく。
 どんどんと火炎龍はその身を伸ばし続け、辺りが軽い霧に包み込まれる中、断続的に水の蒸発音が聞こえてくる。
 そして、次の瞬間、突如として火炎龍もまた空を目指し始める。
 締め上げるかのようにその身の紅蓮の炎で純白の光柱に螺旋状に絡みつきながら遥かなる高みへと昇って往く。
 そして、最後に……
 紅き火柱と化した光のその中心に黄金色の光点が生まれ出でる。
 白光を突き抜け、炎も潜り抜け、黄金色の光はその光量を明らかに増していく。
 その明るさは留まることを知らず、地上に太陽がもう一つ生まれたかと思える程だった。
 光柱の周辺部の雲が裂かれたといっても、見上げた空の九割九分までは変わらず垂れ込める厚い雲に覆われていた。
 しかし、そうでありながら、今、空は黄金色に輝いていた。
 地上の太陽の煌めきを照り返し、雲全体が黄金色に輝いていた。
 空とは黄金色だったろうか?
 太陽とは、地上に輝くものだったろうか?
 あまりの出来事に、詩音がついにこれは夢ではないかと疑いを持ったその時、世界に閃光が疾しり抜ける!
 地上の太陽の輝きが刹那、爆発的膨れ上がり、どこかへと旅立つかのように、火炎龍の後を追うかのように光柱の中を一直線に、黄金色の彗星と化して遥かなる高みへと、天へと昇っていったのだ!!
 その太陽が、金翔鳥が飛び去った後には、ただ、光柱だけが残されていた。
 純白と真紅と黄金色、三色が混じりあった光柱は不可思議な彩りを残し、その根元には、その彩りと同じ輝きを宿した光球があった。
 その光球は、唐突に浮かび上がり、誰かの意志でそうなっているかのような滑らかさでたちまち雲間と同じ高さまで昇り詰める。
 その光景を、言葉もなく一匹と三人が見送る。
 そして、詩音が瞬きをすることも出来ないでいる内に、その全てが音も無く弾けた!
 彩りを湛えた光球が、光柱が!!
 弾け、彩りの粉と化したそれが、切り裂かれた雲間からわずかに差し込む陽光を浴びて、キラキラと輝く。
 その七色の彩りのままに……
 澄空の街に、藍空の街に、みなもに、詩音に、小夜美に、辺り一帯の全てに、ただゆっくりと降り注ぐ七色の雨。
 触れた瞬間、なぜだか温かな気持ちが込み上げてきて、なぜだか泣きたくなってくるようなそんな不可思議な七色の雨。
 七色に煌めきながら大気に広がってゆくそれは、どうやら最後に光球が弾けた地点を中心に、二筋の流れとなって大気に広がっているようだった。
 その光景は、まるで長く大きな虹ができていくようで、その中心にいる少女を抱いた少年の翼のようで……
「それが、それこそが……あなたの翼なのですね……」
 とある少年の物語、その証人となりし少女の一人が呟き、別の誰かが後を繋ぐ。
「虹の…翼……」






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