智也は言った。 「健は多分、近いうちに目を覚ます」と。 そして、こうも言った。 「まあ、信じる信じないは、お前の自由だ」と。 しかし、俺に選択の余地はない。 「お前を信用せずして、俺はいったい誰を信用すれば良いんだ?」 そう、智也に言ってやりたかった。 全く、俺がこういう結論に至るのを前々から見越していやがったんだな… くそったれ、と内心で歯噛みする。 ずるいじゃないか、智也。 どうせお前のことだ。 一番大事なことは隠して、自分で決着をつける気なんだろ? 再び、くそったれ、と歯噛みする。 後はもう、開き直るしかなかった。 …あいつの話を聞いたときから、既にこうなる運命だったんだ。 俺が、イナケンを救う… 他の誰でもない、俺のこの手で… |
Memories Off 2nd Append Scenario (The end of “Hope”) 『Pandora’s box』 ChapterX “Awakening” |
作:NK |
雲の隙間から差し込む柔らかな朝日が、俺を覚醒へと導いていく。 燦々と輝く太陽、さえずる小鳥たち… まだ涼しく爽やかな朝の空気が、夜通し開けていた窓から入り込み、部屋を充たしていく。 この上なく爽やかな目覚め、と言えるだろう。 しかし、それとは対照的に、俺の胸中は深い闇に閉ざされていた。 一人、あてもなく闇の中を彷徨い… いつ明けるともしれない闇に、ただ怯えていた… そこに差し込んだ、一条の光… しかし、その光は同時に大きな不安をももたらした。 なあ、智也… 俺はどうすればいいんだ? お前は俺に何を求めているんだ? 「こんなときに、南さんがいてくれたらなあ…」 思わず、そんな言葉が口から漏れる。 いくら愚痴を言っても、いない人間に救いを求めても仕方ないのだが… しかし、誰かその愚痴を聞いてくれる人がいるだけで、随分と楽になるものだ。 もっとも、彼女―南つばめ―なら、おそらくこういうのだろう… 『…これは、私の問題でなく、貴方の問題…結局は、貴方が決めるしかないのではないの?』 そう、これは俺の問題。 そして、あいつの問題。 それ以下でもそれ以上でもありえない。 分かってるんだ、そんなことは… でも、底知れない不安を抱くのは…何故なんだ? 俺はのそのそと布団から匍匐前進をするように這い出すと、洗面台にしがみつくようにして立ち上がる。 … そして、蛇口を捻り、勢い良く出てくる水にざばざばと顔を洗う。 これが気休めに過ぎないことは重々承知している。 それでも、こみ上げる不快感とわだかまる不安感をごまかすためには、このぐらいしか方法が無かったのだった… 十分、二十分… いくら続けても、不快感も不安感も拭えない。 それでも、俺はこんなにも馬鹿らしい『儀式』を続けていた。 夏の大気に暖められた水道水は、生温さを感じさせ… どこかぬるぬるとした不快感を助長しているようにしているようにすら思える。 こんな無駄な行いをしながらも、俺の頭は一昔前のことを思い出していた… あれは…去年の春のことだった。 見慣れない一人の男が、此処…朝凪荘を訪ねてきた。 どこか、憔悴したような表情で… こう、言ってきたのだった… 「この度新しく越してきた、伊波と言います…どうぞ、よろしくお願いします」と… ―伊波 健― それが、その男の名前だった。 聞けば、俺と同い年らしい。 親が九州に異動になり、一人暮らしすることになったという。 少し弱気で優柔不断だが…それを補って余りあるほど優しく、気さくな良い奴で… 俺はすっかりこいつのことを気に入ってしまった。 彼女とも、本当に仲むつまじくて… 羨ましい思いをしたのを、良く覚えている。 自覚していないようだが、本当に幸せな奴だった。 あの、夏が来るまでは… 夏。人を狂わせる季節。 それは形容でなく、実際に『狂わされた』としか思えなかった。 あれだけ仲むつまじかった二人が、いつの間にか疎遠になり… 次第にイナケンは別の女性に惹かれていった… それまでは、唯の夏の色恋沙汰。 雑誌の三面記事にも似た、安っぽいと言われるかもしれないような他愛無い物語。 しかし、それだけでは終わらなかった。 ―すでに回りだした歯車は止まらない― それは音も立てずに回る歯車。 誰にも気づかれず、粛々と回り続ける。 彼等は音もなく迫る「悪夢」に気づくこともなく… そして、その歯車はゆっくりと彼等を呑みこんだ… ゆっくりと、しかし確実に… その歯車は巨大だった。 呑まれたものは、すべてを破壊された… 愛も、恋も、夢も、希望も… 蛇口をひねり、流れでる水を止めると、顔から滴る水をタオルでふき取る。 何故彼だったのだろう? 彼が、どうして選ばれたのだろう? 答えはない。 もしかすると、「神」さえも答えを用意できていないのかもしれない。 何も知らない奴は、これを「運命」だというのだろう。 しかし、これは不可避なものだったろうか? 否。 否だ。 きっと、何か理由があったんだ。 もちろん、一つではない。 いろいろなことが、複雑に絡み合って予想だにしないことが起こるのが現実だ。 …そして…その中でもとりわけ俺が、大きな役割を演じたのだ… 俺の脳裏に、ある場面が不意に蘇る。 一人の男が、呆然と雨降りしきる道路に立ちすくみ… 俺は、じっとその様子を見ていた。 男の視線の先…うつろな、焦点の合わない視線の先には、真っ白な…穢れを知らない純白の傘があった。 先程は、返り血に染まり、赤い傘かと見紛うほどだったのに… 雨は、全てを洗い流すのか… …いや……俺の罪は…ずっとずっと… 消えることは…無いんだろう… 俺が…俺が……彼女を………コロシタ……… そして、彼女によって救えたはずの命さえも… この手が…俺には…真っ赤に染まって見える… …全く、こんな物思いに耽ってるから、いつまでたっても智也に馬鹿にされるんだ。 あいつに言えば、きっと「自虐が過ぎる」とでも言うのだろう。 それとも、「精神的マゾヒニスト」か? それでも…それでもだ。 俺は自分を責めなくちゃならない。 責め続けなくちゃならないんだ。 そうしなければ…怖い。 俺がいつか全てを忘れてしまうんじゃないかと。 彼女たちのことを忘れて、自分のやったことも忘れて… それは、許されない。 誰よりも、自分自身がそれを許さないんだ。 …さあ、今日もバイトだ… 夏場のルサックは修羅場だ。 忙しい。 でも、この達成感が、疲労感が、俺を解放してくれる。 特に厨房は暑い。 汗が止まらない。 この汗とともに、何かが流れていくような気がして… 突如、バイトの女の子の声が店内にこだまする。 「お待ちのお客様三組!!ラッシュ入ります!」 今日も、ここは戦場となりそうだった。 「お疲れ、稲穂君」 店長が、ぽん、と俺の頭に手を載せる。 閉店後。 ぽつんと残された俺と店長。 俺がカウンター席に座り、店長が後ろに立つ。 自然と、俺の頭が店長の手が置きやすい位置に来るのだ。 店長は、俺に話しかける。 いつも笑顔を絶やさぬ顔は、その裏に隠された彼の傷を隠すための仮面のような気が、俺にはする。 きっと、似たもの同志なのだろう。 だから、良く馬が合う。 「…ところで、稲穂君。君に、いい話が来てるんだよ…どうだい、うちの正社員になってみる気はないかな?」 「すいません…ありがたいお話ですが…」 そういうと、店長はどこかほっとしたような表情をする。 「そうか…いや、嬉しかったわけではないんだよ。君が心配でね…本当に良くやってくれているよ。そういう意味では感謝してもしきれないくらいだ。でもね、君は根を詰めすぎなんだよ。何かにとりつかれてるようで…」 彼の言うとおりなのだろう。 俺はそうでもしないとやっていけない。 「…眠れないんです。徹底的に疲れて、深く深く眠らないと…」 店長は笑顔から一転し、物悲しい表情でまた俺の頭の上にぽん、と手を置いた。 何も聞かないでくれる店長の気配りが嬉しかった。 帰宅したのは、既に午前が近づいた頃だった。 本当に疲れた。 今日はこのまま眠ってしまおう。 着ている服もそのまま、ベットに飛び込もうとしたが… 部屋の隅で、ちかちかと点滅する光が妙に気になった。 それは、据え置きの電話。 留守番電話を知らせる光。 珍しいことだと思った。 何故なら、俺はいつも携帯しか使わないから。 知っている奴なら、携帯にかけてくるのが常だった。 いったい誰が… 俺は眠いのを堪えつつ、電話へと手を伸ばした。 「ピー、用件、ハ、一件、デス」 電話から流れる無機質な声。 俺は欠伸をしながら、BGMのようにそれを聞き流そうとした。 「…稲穂さんのお宅でしょうか。伊波健君の主治医、斉藤です」 留守電の無機質な音声に負けないほどに感情のない声だった。 それとも、押し殺しているのだろうか? それは分からない。 「…彼が、目を覚ましました。明日にでも…病院にきていただけないでしょうか?それでは…」 体から血の気が引くのがありありと分かった。 すっと落ちていくような、そんな感覚。 まさか、あいつは全部分かっていたのか? いや…それは今はどうでもいいことだ。 それよりも、知らせねばならない人がいる。 俺は思わず、電話を手に取っていた。 |
後書き:
久々の新章です。 三ヶ月以上のブランクについては、全て俺の怠慢です。 謝るものでもないとは思うのですが、ごめんなさい。 期待して待ってくれていた方、申し訳ないです。 そして誰よりも、明さん、連載をとめるような真似をしてすいませんでした。 これからはもう少し順調に書けると思いますので… さて、ついに健が目覚めました。 おそらく、皆さんの予想よりは早いのではないか、と踏んでいます。 これからどう展開していくのか? 信はやっぱり救われないのか? 健はどうなるのか? 皆さんが少しでも楽しんでいただければ幸いです。 それでは。 |
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