彼は私にとって非常に厄介な患者であった

このような症状の患者を受け持つこと自体、もう四半世紀近く医者を続けてきたが、初めてのことだ

原因は不明

ただ、彼は眠り続けるだけだった

そして、不意に目覚めた

しかし、それに伴う犠牲は計り知れなかった

彼にとって、どちらが良かったのだろう

安直な幸せに満ちた絶望と

行く先に苦痛しか見えない希望と




Memories Off 2nd  Append Scenario (The end of “Hope”)
『Pandora’s box』
ChapterZ “Uncommunicative Ward”
作:NK





 私のような職業についていると、人間というものが何なのか分からなくなることがままある。
我々の患者という存在は、世間一般に見れば異常なのかもしれないが、かれらこそがどこまでも人間的であるように私には思える
―閉鎖病棟―世間は我々の患者が入る病棟をそう呼ぶ。
世間から隔絶された場所。世間とは“違う”人間が入る場所。
しかし、果たしてそうであろうか?彼らのどこが、どれほど我々と、世間と違うというのだろう?
咥えていたタバコを灰皿で揉み消す。
そう、彼らはこのタバコと同じだ。私はそれをじっと見つめた。
我々医者は健康を叫ぶ。呼びかける。然るに喫煙をしている医者は多い。こと、私の分野の医者は多いだろう。他にも飲酒、ストレスetc…。医者の不養生、という矛盾。
矛盾だ。矛盾を誰しも抱えている。その矛盾のことを、自分を偽る、と言えばそうであろう。
そして、彼らはそれが他人に比べてほんの少し大きいだけなのだ。違いはそれだけに過ぎない。
人間らしい、ということを機械的でない、そういった矛盾に求めるとすれば彼らはどこまでも、人間的である。然し、彼らの人間性は世間では否定される。矛盾。
全ては矛盾か…新しいタバコに火をつける。


 彼が私を訪ねてきたのはそれから数分後だった。


 彼は変わらない。成長していないという意味でなく、変わらない。いつもその姿勢を崩さない。いつの日も、私にしっかりと視線を向け、疑問をぶつけ、そして私を信用してくれた。患者の両親以上に情熱を注いでいる。もしかしたら、私よりも正確に患者の状態を把握しているのかもしれない。
今日もそうであった。じっと私を見据えてくる。
然し、いつもと違うのは隣にいる少女であった。はじめて見る顔である。

「…白河、ほたる、です」

少女が告げる、初めて聞く名。
私はカルテから目を離し、彼らのほうへ向き直る。
どことなく儚い印象の少女である。
顔色もよくない。幾分痩せているようでもある。
こういう判断をすぐ下したがるのも医者の特性ゆえか。
私がふっと苦笑で頬を和らげると、彼女はそれを勘違いしたのだろう、にぱっと笑って見せた。
然し、一見明るいように見えるその顔もどこか暗いように思われる。
職業柄というのはどうしても抜けないものらしい。
我々精神科医は、患者の顔色をうかがう。
うかがう、とはなにも受身にまわるという意味ではない。
表情から患者を知るのである。
表情から半分ほど病状の予測をつけてしまうと言っても良い。
目は口ほどに、ではないが顔は口以上に物を言うのである。

「…つかぬ事を伺いますが…患者との関係は…」

私がそう云うと、彼女はぴく、と身をたじろがせた。

「彼女です。元、ですが」

そう云ったのは彼女ではなく信君であった。
そう云われた彼女は視線をふい、と下に向けてしまった。

「しかし――」

彼の彼女は既に一年前に事故で、とそう云おうとしたが、信君の射るような視線に遮られた。
始めて見る目であった。険があるのに、どこか哀しさを湛えた眼である。

――察しろ、というわけか

私の言葉は空しく宙を舞った。
彼らにどこまで現状を告げればいいのだろうか。
信君はともかく、彼女は始めてである上に精神の安定を欠いているように思われる。
真実を告げることが、果たしてどこまで彼らに影響を与えるか、分かったものではない。
しかし彼らを患者と面会させるためにはある程度の事実は告げねばならない。
再び、彼女――白河さんに目を向ける。
彼女は私を見てはいない。私の裏にある真実を見つめようとしている。
だが、真実でさえ、時と方法を選ばずに用いられて良いということはない。
精神科医は、いつも上手に嘘をつくものだ。

「…彼の現状について説明させて頂きましょう」

私は彼の現状を告げた。唯一つ、判明していることを除いて。

「…一年間寝ていただけに衰弱が激しいです。記憶も若干混乱していますし、背中や脹脛など床擦れのような状態になっている箇所もあるので、外科的な処置ももう少しかかりそうですし、体力が回復するのも時間がかかりそうですから…あと、どんなに短くても一ヶ月。それだけの時間はこちらに入院してもらうことになりますね」

信君の目は私を見据えている。

「もっと話すべき事があるはずだ」

そう語っている。無理もない、一年間という時間はあまりにも長い。
特に彼のような若い人間にとってはいわずもがなである。
しかし、「真実」を話せば彼といえども凍る。そして本人を「壊す」
だから語ることは出来ない。
本人に聞かせないようにするには近づく人間に告げなければいい、ただそれだけ。

「…以上です、これ以上のことはまだ分かっていないので、注意してください」

私は慎重に言葉を口にする。

「…過去に関してのことは、くれぐれも、患者に話さないように」

白衣が、彼らの前に舞った。



 薄闇の中を三つの靴音がはねる。
此処の病棟は窓の作りが小さい上にはめ殺しだ。患者が衝動的に投身自殺してしまわないようにという配慮による。
しかしそれは採光という観点を度外視しているし、嵌められた鉄格子は監獄を思わせる。
なるほど監獄とは使い古されているが言いえて妙かもしれない。
三食は保証されているし、生活はしっかり時間管理されている。
違う点は、入るのに医師の診断が必要なことと、看護師が世話してくれること、入院費が必要なことくらいだろうか。
廊下には我々のほかに人影はない。
無人の昏い静けさを三人で破っていくだけである。
私が歩みを止めると、廊下は再び無に包まれた。
病室に掲げた表札には彼の名前が記してある。

「此処です」

私はドアノブに手をかけるとそのまま前へと押し開く。
黒くくすんだ板張りのドアは、錆付いた蝶番の立てる耳障りな音を残して開いていった。
白く統一された室内、無機質の中に唯一浮かぶ有機体。
そんな彼も掛け布団から出た腕は素焼きの白磁のように布団の白と同化し、その腕に巻かれた血圧計のバンドが部屋の中に唯一の色を与えているように思えた。
相変わらず此処にも音はない。
いや、ないのではない。微かではあるが規則的な呼吸音が彼の白い唇から漏れている。
背後の二人が息を呑むのが分かる。無理もあるまい、彼からはおよそ生というものを実感させるものは通ってこない。
「生かされている」という言葉が重く胸に響いている。

「――彼のバイオリズムは些か不安定でしてね。まあ、今までのことを考えれば仕方ないことです。一日のうち、睡眠の方が長い状態がしばらく続くと思いますが、体力の回復とともに通常の概日リズムに戻るでしょう」

彼らの返事はない。もとより期待していなかった。予想していたとはいえ、現状に呑まれているのだろう。
私が彼に歩み寄ると、二人は熱に浮かされたようにふらふらと私の横に佇んだ。
彼らの目に私は映っていない。見えるのは彼だけ。彼という殻だけだった。
――この若さでは
私は苦みを噛み潰すような感情に覆われた。
その若さでこの現実は苦しすぎる。苦すぎる。
若いうちの苦しさは人間を成長させるだろう。しかし、これは少し残酷すぎた。
むしろ、彼がそのまま目を醒まさなかった方が彼らのためであったのではなかろうか――
そこまで考えて自分の馬鹿げた考えを振り払った。
――私は医師だ
生きるべきものを生かすべき手助けする、それだけのことに生涯を捧げると決めたはずではなかったのか。
私は何も死した人間を蘇生させたわけでも、死に行くものを叩き起こしたわけでもない。
――私は、死人を生き返らせたわけじゃない。当然生きるべき人間を、手を差し伸べて起たせるのが私の役目ではないか
とつぶやいた。これは彼自身のオリジナルでなく、古代中国の名医の言葉を借りたものである。
見ると、白河さんは必死に彼の白蝋のような手を両手で握っていた。
少女の二つの瞳から一片の羽が彼の掌に落ち、四散するのが見えた――


 彼らが居る間に彼が目を醒ますことはなかった。
彼ら――ことに白河さんは――名残惜しそうにしながら病室を後にし、帰路に就いた。
私は一人、斜陽に照らされる病室に残された。
白一色の病室は、今度は朱に染められ、燦として蜉蝣の様に儚い命を照らしている。
その風景は美しかった。欠けるもののない美しさであった。
私はどうしようもない安堵を覚えていた。
彼が目を醒ませば大きな問題が生じる。間違いなく、彼自身にとってよくない問題となることだろう。
彼は目を醒ました――確かに、「覚醒」した。
それは間違いない、間違いないのだが――
欠落している。何かが。
それが何なのかは私には知る術はない。
――覚醒した彼は静かに目を開いた。
予期しえない、突然の出来事。
今から20時間ほど前のことだ。
昨日の最終回診。いつもどおり、血圧と脳波の安定を確認しただけで去ろうとしたそのとき、それは起こった。
彼は私を見て、何ともいえない笑いを浮かべたのだ。
嬉しいような。哀しいような。
全てをひっくるめた慈愛と、全てを敵視する憎悪と。
受け入れるべき現実と、失ってしまった「現実」と。
全てを綯い交ぜにして、彼は怒っている様に見えた。
自分を置いて行ったものへの憤怒か、冷たい現実への帰還ゆえか。


そんなことを考え、長居したこの部屋を去ろうとしたその時――

「――先生」

私の名を呼ぶ声で、私は現実へと引き戻された。




後書き:長らくお待たせしてすいませんです(汗
んー、少しは定期的に出来ればいいんですが(汗
重ね重ね申し訳ないです…



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