Lilac
N・O



The border











夢。
夢を見ている。

小さな少年と、そしてとても綺麗な女の子。
幼い日の事、それはもう忘れていた事だった。
確かあの頃自分は良くいじめられて、泣きながら家に帰った。
いつもどおり、叩かれて、鞄を取上げられて。
泣いていた。
一人、小学校の小さな裏庭で。
「何故泣いているの?」
彼女の事はまったく知らなかった。
後で知った事だが結構な有名人だったらしい。
そんな彼女に、まともな言葉にもならないが、泣きながら説明した。
叩かれて、鞄を取られたことを。
「取りあえず泣き止みなさい、私の言う事、聞けない?」
今思えば至極真っ当な言葉だった、と思い出す。
一旦泣き止みはしたものの、またぐずりだす。
憎く、悔しかったからだ、自分や自分をいじめるものが。
彼女は溜息をついた。
「貴方は本当にすぐ泣くのね、泣き虫なの?」
すぐに彼女に自分は弱くは無いと言い返したかったが、何もいう事はできなかった。
自分でも弱虫だと感じていたからだった。
何より彼女から感じる強い存在感に圧倒されていたのだろう。
まるで自分より幾つも年上の人間のような感じのする、同い年の彼女に。
「私が手伝ってあげる」
次の日彼女は奪われた鞄を取り消す方法を伝授してくれた、それが数少ない思い出のひとつ。
程なくして、小学校を卒業、中学校に彼女の姿はなく、お礼の一言も言えなかった。
ただそれだけの事。

真夜中に。
目が覚めて、なんだかとても泣きたくなってしまった。
ただ、それだけだった。




俺は中学に入ってからも相変わらずで。
手首を切りかけた事が一度だけあった。
その頃俺は頭が混乱していたので、正確な時期がよくわからない。
季節は確か秋のはじめごろで、夜の河原を歩いていた。
自分はこの世界に必要とされない人間であると、ずっと考えていた。
事実それはある程度当たっていた。
その日俺は出席したパーティーで粗相をして叩き出されたところだったからだ。
パーティーの記念品として配られた、小さな鏡を手に持っていた。
「これを割って破片で手首を切れば死ねる」
唐突に、そう思いついた。
その考えは脅迫的で、しかも恐ろしく魅惑的。
河岸に背の高い草が群生していて、かきわけてその中に入ると、空以外何も見えなくなった。
逆に言えば、ここならば死ぬ前に発見される可能性はまずない。
鏡を割り手首に突き立てようと、手を振りかざす。

鏡に、月が映っていた。

満月が真円を描いて、ほんの小さなその鏡にぴったりと収まっていた。
真新しい鏡の中で月は一点の陰りもなく、あまりにも鮮烈な輝きを放っている。
それが余りに美しくて、
一瞬か、あるいは数十分か。
俺は魂を抜かれたように、鏡の中の月に見入っていた。
気がつくと、先ほどまで頭の中に渦巻いていた否定的な感情が、消え失せていた。
かといって高揚しているでもなく気が晴れたわけでもなかったが、冷静さを取り戻していた。
かえって不安を覚えるほど、心が静けさに満たされている。
頭上に目を移す。
鏡に落ちた影の本体が、そしらぬ顔で美しかった。
そこには決して手が届かないそんな存在。
けれど俺はここにいて、確かにその存在を感じられる。魂すら奪われるほどに。
この世界にいる意味など、それで充分ではないか。
いつのまにか、そんなふうに思っていた。
だから鏡を捨て家に帰った。口笛を吹きながら。
そして俺は前より少し明るくなったのだ。




春、新しい高校に入学した。
「おはよう」
友人達に、そして変わらず綺麗な彼女に、声をかける。

最初彼女に再会したときは驚いたと同時に、5年前の礼を言おうとしたが気の利いた台詞を思いつかなかった。
そして結局言えないまま今に至る。
「お久しぶりね」
戸惑うだけの自分に対し、彼女は相変わらずの、いや、さらに増した存在感を見せ付けてきたのだった。
それだけで気圧されてしまった。

「おはよう、吉野君」
「雅臣、遅いぞ」
挨拶を交わす彼らに対し、彼女はちらりとこちらを見て、すぐに手元の本へと目をやる。
そう、彼女はクラスメイトと話をしない。
そんな彼女を良く思わず、見下している。
仲間外れ、村八分、そんな状況。
しかし彼女は誰よりも勉強が出来たしスポーツも出来る、誰も彼女を蔑めない。
畏れという物だろうか。
最初は自分もそんな彼女を快く思えない人間の一人だった。

でも、…俺はほかのクラスメイトよりほんの少しだけ多く彼女の事を知っている。




あれは入学して一月目の話だった、中学で出来た彼女に振られたのだ。
「他に好きな人が出来た」
「学校も変わってしまったし、吉野君は明るくて誰とでも仲がいいから平気でしょう?」
そんな事を言って。
でも、そんな俺も、
彼女の言葉を正しく聞く事ができなかった。
彼女の手を暖かいと感じる事ができなかった。
彼女の涙を拭う事ができなかった。
そして俺の言葉も、さびしさも、彼女の心にまでは届かせることができなかった。
最後に手を離したのが彼女だっただけだ。
それを引き止める力は、俺には無かった。
そして、
不覚にも少し泣いてしまい、呆然と立ち尽くしていた、そこを「彼女」に見られたのだ。
「相変わらず泣き虫なのね」
面白くもなさそうに、でもはっきりとそう言った。
俺はといえば長い黒髪が真っ白なダッフルコートに映えてとても綺麗だ、と場違いな事を考えていたのだ。
「はは…は、フラれて泣いてる所を見られるなんてさ…、格好悪いなぁ」
その言葉尻を引き継ぐように彼女は言うのだ。
「格好悪いついでで良いから、少し私に付き合ってもらえないかしら?」
その後荷物持ちにあちこち引き回されて、
えらく疲れた。
最後に彼女が自宅でご馳走してくれた紅茶は美味しかったのが救いだった。

次の日、いつも通り本を読んでいる彼女に、昨日の事を出来れば黙っていてほしい旨頼んだ。
「…別に、良いわ、言いふらしたりしないよ?それに……」
そこで本を抱えて席を立ち上がる。
「…あの娘と別れて正解だと思うわ、価値観が貴方とは違うんでしょう?」
少し、笑って。
「それでも寂しいのなら、…私で良ければまた慰めてあげる」
気紛れだろうが何だろうが、有難かった。

それ以来、特別好きあっているとか、付き合っている訳でもないのに、時折彼女と過ごす。
必ず彼女はお茶を入れてくれる。
そんな、不思議な関係が続いている。




最初、彼女はただ暗いだけかと思っていたのだが、その認識は改めざるを得なかった。
学校に住み着いている野良猫や、野良犬。
それらを触っている時、とても優しい、そして少し悲しそうな表情を見せる。
ある時落書きされた(眉毛とか額に肉とか)犬や猫を僅かに苦笑しながら保健室から貰って来たお湯で洗い清めているのを見た。
公園で泣いている子供を困り顔であやしているのを見たり、楽しそうに鳩に餌を撒いているのも見た。
もしかすると下手な人間より動物の方が好きなのかも知れない。
明らかに学校とは違う彼女。
そんな少し意外な一面が俺を惹きつけて止まない。

本当の彼女は、とても大人で、クールで、強く、そして優しい。
そう感じた。
多分この頃に、俺、吉野雅臣は彼女を好きになった。
出会いからして格好悪いが、それで良い。
それで良いのだ。
隠したって仕方が無いのだ。
これが本当の事。
俺は彼女が好き、それでいいのだ。
俺はいつも彼女を通じて自分を見てきた。
好きになり、憎み、結局は好きなのだ。
そしていつかは、そうやってわかり難い自分自身を受け入れられるだろう。
そうすればもっと胸を張って、素直に「好きだ」と言えるかもしれない。
只一つはっきりしているのは俺がどうしようもなく格好悪いという事だけだ。
すこし落ち込む事ではある。
でもそれでいいのだ。



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