――――ある日の放課後。
長い長い六時間の悪夢を乗り越え、ようやく家に帰れるという具合で足早に昇降口へと向かった。
いつもどおり教室を出ると、すぐそこに校舎の中央に位置する階段がある。
昇降口へ行くためには、そこが一番の近道だ。
口笛を吹きながら階段を一番飛ばしで下っていく。オレの一歩が階段の踊り場へ辿りついた……そのとき。
「危ねっ!!」
オレが一歩踏み入れた、とまったく同じタイミングで、目の前に少女が現れる。
危うく正面から激突するところだった。いきなり正面からコンニチワ、というよくありそうでないパターンだ。
「ス、スミマセン!!」
衝突しかけた少女が慌てて頭を下げる。しかしこの顔……どこかで見覚えがあるな。
「もしや……木之本さん?」
「え?あ……吉原クン」
誰かと思えば木之本さんか。まさか同じクラスの人だとはな。
ってちょっと待った。オレはクラスの中で一番か二番くらいのスピードで教室を出たんだぞ?
――――なぜここに彼女がいる?
「ね、ねぇ、吉原クン」
「ん……何?」
後ろからやって来た他のクラスの連中や、ときどき先生がオレ達の脇を通り抜ける。
こんなところで二人向かい合って黙っている時点で変に映っているだろう。
妙な沈黙。彼女は俯いたまま話そうとしない。うぅ、周りからの視線が痛い。
「え〜っと……何もないなら、オレもう行くよ?」
やや遠慮がちに聞いてみる。すると、彼女は急に慌てだし
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って!!」
と言いながら、オレがどこも行かないように行く手を塞いでいる。う〜む、前に出れん。
再び訪れる沈黙。慌ててオレのことを止めた割に、まだ何も言い出そうとしなかった。
まぁ、特にこの後用事があるわけでもないから別にいいんだけど……
視線が痛いんだよな。
「ここじゃなんだし、場所変えようか?」
「え?」
「だから、場所変えようって言ってるの。なんか話があるんじゃないの?」
話があるなんて彼女は言っていない。ただ、場の流れからそうじゃないかって思った。
あるいは、それは予感だった。
「う、うん……じゃ、じゃぁ屋上に……」
「了解」
この中央階段の一番上まで昇ると、屋上がある。生徒にも開放していて、出入りは自由だ。
何分くらいこうして止まってたんだろうか?どうでもいいけど。
オレ達の教室がある階は三階。屋上はその上にある。お互いに無言のまま階段を昇っていく。
屋上への扉を開くと、少しサビついた蝶番が音を立てた。
そこは、まだ日の高い夏の屋上。急に襲ってきた熱気に、汗が噴出すのを感じる。
「暑ぃぃぃ……」
「もう夏ですねぇ〜……」
さっきまで静かだった木之本さんが、急に口を開いた。
「で、話って何?」
自分で屋上に誘っておいてなんだが、暑い。早くこの空間から抜け出したいがために、早速話を切り出した。
「え、え、え〜〜〜っと……え〜っとですねぇ」
……さっきまでの彼女の様子と違うな。これが素か?
「え〜っと、何?」
「た、単刀直入に言わせていただきますっ」
ズイッとこっちに身を乗り出す彼女。――――顔がドアップだ。近づきすぎだろ。
思わず後ろに一歩後ずさる。そんなふうに見つめないでくれ、恥ずかしいっつ〜の……
「私ね……」

――――鳥が鳴いた。翼を広げ、空高く羽ばたいていく。

その羽音とともに、彼女が口を開いた。

頬を、赤らめたままで。

「吉原クンが、好きです……」


――――風が吹いた。



message
written by daiki






後編






§




……どうして今、あの日のことを思い出すんだろう?
彩音から告白を受けた、あの夏の日。
あのときから、オレ達の関係は始まったんだ。

――――あの日見た夢は、現実だった。

遠ざかっていく足音。
どれだけ手を伸ばしても、届かない位置にいる彼女。
そこには、二つの音があった。
でも……
一つが、今オレの中から、そして彼女の中から失われようとしていた。




おばさんと別れた後、オレはそのまま彩音の病室へと向かった。
今の気持ちを伝えるために。
彩音を失いたくは無い。だが、このままでいればオレは彼女の荷物にしかならない。
だからこそ、彼女には自由になってほしい。
扉のノブに手をかける。その手は、自分でも分かるほど震えていた。
そんな震えを払いのけるかのように一気に扉を開く。
扉の向こうには、彩音がいた。




§




「アレ、正輝?」
彩音は、すでに目を覚ましていたようだ。しかし、あのときと同じイメージは拭えない。
少しやせ細ってしまった顔。そして、眼の下に出来たクマ。どうして今まで気付かなかったのだろう?
彼女がここまで衰弱しきっていたことに。
「ゴメンね、いきなり倒れちゃって……ちょっと貧血気味でね〜」
オレが心配していることに気付いて、サラリと平気にウソをついてしまう彼女。
その様子が、とても痛々しかった。
だからこそ、言わなければならないんだ。
「……どしたの、正輝?なんか暗いよ?」
首をかしげたままで尋ねる彼女。オレの手は、宙を漂っていた。

言わなきゃ。

言わなきゃいけない。

言いたくない。

言わなきゃいけないんだ。

言うんだ。

言いたくない。

たくさんの感情がオレの中で渦巻く。決めたはずだろ?別れるって……決めたはずだろ!?
思うどおりに動けない。頭では分かっていても、体がそれを拒否している。
そうだよ。オレは彼女のお荷物なんだ。それ以外の何者でもないんだ。
オレの手が宙に文字を描く。手話と呼ばれる、声無き者が言葉を伝える手段。
声がある者にはふさわしくない言葉なんだ。彩音には、声があるだろ……?
そのせいで彼女が苦しむなんて、思いたくない。思いたくないけど、事実なんだ。
だから、オレは一言だけ、文字を刻んだ。
オレがゆっくりとその文字を刻むと、彼女の表情がみるみる変わっていく。
「どうして……?」
オレは今、どんな表情をしているのだろう?
泣いている?
笑っている?
怒っている?
いや、そうじゃない。
ただ、ひどく無表情なんだろう。涙も、喜びも、怒りも感じない、ただの人形のように。
「どうしてよ……?」
そんなオレにも、分かることが一つだけあった。

――――彩音の頬に、伝う涙。

「ねぇ、どうしてよぉ!?応えてよ正輝!!」
オレは歯を食いしばった。彼女の目は見たくない。握る拳に力が入る。
ゆっくりと扉のほうへ向きを変えた。彩音に背を向け、ゆっくりと一歩を踏み出す。

――――ゴメンな、彩音。

――――ありがとう。

あのときと同じ言葉を胸で呟きながら、オレは部屋を出た。
あのときとは、似ても似つかない気持ちの言葉だけど。
後ろには、泣き崩れる彩音がいた。
でも、どうしてだろう……?
どうして、こんなに心が寂しく感じるんだろう?


『別れよう』


ただ一言。それだけのことなのに。


これで、よかったんだ。

これで、よかったんだよ……




§




ガチャン。
部屋の扉を閉めてから、ふぅっと一息つく。
オレが自分の病室に帰ろうとしたとき、不意に声をかけられた。
「正輝……?」
――――隼人だ。
おそらく、補習とやらが終わったのだろう。
「やっちまったよ、まさか補習なんかやらされるとは思わなかったぜ」
それは、隼人だからしょうがないだろう。うん、きっとそうだ。
勝手にうなずくオレを見て、隼人は肩をすくめた。
「で、なんでそんな部屋から出てきたんだよ?知り合いでもいたのか?」
ぶっきらぼうな口調で尋ねる隼人。そんないつもどおりの口調が、なんだかとても心にズシンとくる。
そうか、まだ隼人は彩音が倒れたことを知らないのか……
この部屋に誰がいるのか。それは愚問だ。そう、ただオレとは無関係な人物がいるだけ。
「まさか女じゃねぇだろうな?ちょっと覗いてやろっと……」
そのセリフには少し焦った。急いで部屋と隼人のあいだに割って入る。
珍しく、隼人がすぐに動きを止めた。
隼人にしては珍しいことだった。いつもならば無理矢理にでも入ろうとするのに。
「悪いな、正輝……」
ポツリと、隼人が呟く。それはあまりにも聞き取りにくい、小さな小さな声だった。
一瞬、病院内の喧騒が消える。そうじゃなければ聞き取れないような、本当に小さな声だった。
「全部、聞いちまったよ」
病院内の喧騒が、再び耳に入る。
それでも、その声ははっきりと聞き取れた。




「お前が何を言ったかは知らない。でも、彩音ちゃんのあんな声が聞こえたら誰だって分かるさ」
オレ達はあの場所を離れて、屋上に上がっていた。
そこには、オレ達以外誰もいなかった。
もうすぐ、日が暮れる。
割れた雲の隙間から、一番星が覗いていた。
オレ達は向かい合っていた。ただ、お互いに目だけを見つめて。
「彩音ちゃん、倒れたんだってな。医者から聞いたよ」
知ってたのか……
これぐらいの短い単語なら、彼でも分かるだろう。
オレのその簡単な手話に、隼人が短く頷く。
「あぁ、そんなに気を配らなくてもいいぞ。オレだってそれなりに勉強してたからな」
その言葉に少し吹き出してしまう。
あの勉強嫌いの隼人が……だ。失礼だとは分かっていても、思わず笑ってしまう。
なんなら難しい手話ばかりやってやろうか。さすがにそれはやめておく。
一瞬の沈黙。オレが笑っていても隼人は眉一つ動かそうとしない。
本当に――――コイツは、あの隼人なのか?
いつもの彼の姿は微塵にも感じられない。まるで、別人のようだ。
「で、それで責任感じたお前は別れようなんてバカなこと思ったのか」
不意に、隼人が口を開いた。
あえて『バカ』というところに力を込めている。
なんだか、それに少し腹が立った。
――――お前に何が分かるって言うんだよ?
隼人を睨みつける。そんなオレの行動に、隼人は肩をすくめた。
「手話はいい。お前の言いたいことは分かるから」
もう、太陽の光はなんの役割も果たしていなかった。
フェンスの向こうに見える風景。少しずつ、人工的な明かりが灯り始めていた。
空が――――黒い。
「お前に何が分かるんだ……だろ?長い付き合いだし、それぐらい分かるさ。でも、あえて言わせてもらう」
いつも『お調子者』のフレーズがお似合いな彼の目に、光る何かが見えた気がした。
そんな隼人の目に思わず引き込まれる。コイツのこんな目は初めて見た。

「………馬鹿野郎」

それと同時に、左頬に激しい痛みを感じた。
頬を打つ拳の音が、静かな屋上に響き渡る。その勢いで後ろに倒れそうになった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
それが殴られたのだと理解する。
――――何すんだよっ!?!?
声が出ないことも忘れて、思い切り叫んだ。
口パクだけで叫んだオレのその『声』を、彼はどうやら聞き取れたらしい。
「お前こそ何やってんだよ!?所詮、お前ってヤツはその程度だったのか!?その程度の男だったのか!?」
打たれた頬を押さえながら、再び隼人を睨みつける。
だからお前に何が分かるんだって言ってるんだよ!!!
手話をすることさえもどかしい。どうせ、彼にはオレが何を言いたいのか分かっているんだ。
「なんにも分かんねぇよ!!オレはお前じゃないし、声だってある。でもな……彩音ちゃんがどれだけお前のために尽くしてきたかは知ってるさ。最近、彼女授業中よく寝てるんだよ。起きていても上の空なことが多くてな……手はいつも動いてる。よっぽどお前のことが好きなんだな、って思ったよ。だからこそ……」
そこでいったん言葉を切る。すでに彼の瞳はオレを見ていない。無機質な白い地面をずっと見つめている。
その肩は、小刻みに震えていた。
「オレは、お前が許せねぇんだよっ!!何を勘違いしてるんだ?正輝!!お前は自分が彼女のお荷物だとか思ってるんじゃねぇのか?ならそれは大きな間違いだ。泣いている彼女を見てお前は何も思わなかったのか!?」
隼人の訴えは続く。ただ、その様子を黙って見つめているだけのオレに向かって。
「何も思わなかった、って言うならそれまでだよ。けど……オレは違うと思ってる。告白してきたのは彼女のほうだけど、オレは知ってるからな。お前が……本当に彼女を好きだったこと」
あのとき彩音は――――泣いていた。
あの涙も。あの悲哀に満ちた泣き声も。全て、この目に焼き付いている。
そのとき、オレはどう思っただろう?

『――――どうして、こんなに心が寂しく感じるんだろう?』

それが、真実だったのかもしれない。
オレは彼女を愛していた。
いや――――今も、愛している。
しかし……その想いが、その気持ちが、オレのことを縛り付けている。
「……悪かったな、殴ったりして。今日は軽く彩音ちゃんのとこに寄って帰るよ」
ふうっ、と軽く息を吐き出すと、彼は背を向けて屋上を出て行った。
ヒラヒラと、軽く右手を振りながら。
爽やかな夜の風が吹く屋上に、オレはただ一人で立ち尽くしていた。
もう、完全に日は暮れている。夜空にはオリオン座が輝いていた。
オレは、本当にこれでよかったんだろうか?
やりきれない想い。どうしても胸に残る微かなしこり。
洗っても洗っても落ちない染みのように、この想いはオレの中にはっきりと根付いていた。
ふと、冬の夜空を見上げながら、もう一度過去の世界を逡巡してみる。
正直、告白された当時はあまり彩音と付き合う気なんてなかった。
彼女のことなんてよく知らなかったし、あまり実感が湧かなかったからだ。
でも、あのときの彼女の紅く染まった顔は今でもしっかりと覚えている。
そして……その表情に、少しドキッとしてしまったことも。
だから「OK」してしまったんだろう。その結果、今みたいな状況になっている。
付き合ってもう四ヶ月……あるいは五ヶ月だろうか。
何度もデートをした。
何度も手を繋いだ。
何度も――――二人して、笑った。
あのときのままの感情なら、とっくに別れを告げていただろう。
やはり、オレは――――

いつの間にか、彼女に恋してしまったんだ。

だからこそ、これでよかったんだと思う。
彼女が好きだからこそ、彼女に笑っていて欲しいと思ったからこそ、オレと一緒にいちゃいけないと思ったんだ。
しかし――――オレは彼女をまだ愛している。それは紛れも無い事実だ。
なら、オレはどうすればいいんだよ?


オレは――――どうしたらいい?




ただ、流されるようにオレは歩いていた。自分の病室まで辿りつくと、倒れこむようにベッドに潜り込む。
もうそのまま寝てしまおうかと言う衝動に駆られたが、思わぬところからそれは阻止された。
――――携帯電話。メール着信を告げる着信音が部屋内に鳴り響いている。
入院した最初の頃なんかはクラスメイトから励ましのメールなんかが何通か届いたが、最近はめっきり鳴らなくなっていた。久々に鳴ったそれを凝視する。
起き上がって携帯電話を手にとると、サブディスプレイに表示された名前を見た。

――――ドクン。

心臓が高鳴るのを感じる。


木之本 彩音。


メールは、彼女からだった。
震える指で携帯を開く。着信音が鳴り止むと、そこにはメールボックスが表示されていた。

『明日、四時に学校の屋上で待ってます』

ただ、無機質な文章でそれだけ表示されていた。
胸は依然高鳴ったままだ。別れを告げたはずなのに、なんなのだろう?この感情は。
まだはっきりしない胸の中。問い掛けても出てこない答え。
ただ、全ては明日分かる。それだけは、はっきりと分かっていた。
明日になれば、きっと答えは出る。
この想いも、この気持ちも。明日になれば……全てに、終わりが来る。
それが今までの『日常』を失うことになっても。
あるいは、それが今までの『日常』を取り戻すことになっても。
全ては、明日になれば分かるのだ。
――――返事は、あえて送らない。
それが、オレなりの肯定……答えだった。




§




「へ?」
「だから、好きだって言ってるのっ!!」
「……マジっすか?」
「マジもマジ、大マジだよぉ……私は、ずっと前から吉原クンが好きでした」
「………」
「だから、私と付き合ってください!!」
「…………まだ、木之本さんのこととかよく知らないけど……オレなんかでよかったら……」
「え、い、いいの!?」
「……うん」
「や、やったぁ!!!……あ、ありがとう……」




目覚めは、いつもどおりだった。
ただ、ひどく懐かしい気持ちになる。
十二月……二十三日。ようやくオレは長かった入院生活を終える。
荷物は、すでにまとめ終えていた。もう少しすれば親が迎えに来るだろう。
そして、今日は彩音との約束の日だ。
――――何故か、一番最初に気になったのは服装だった。
どんな格好をしていこうか?なんてことを考えてみる。
だが、よくよく考えてみれば学校の屋上なんだから制服じゃないと行けないじゃないか。
そんなどうでもいいことに気付いてため息をついた。
どうやら、柄にもなく緊張しているみたいだ。
いつもステージに登る前の心地よい緊張ではない。
これから何が起こるのか分からない……言いようのない不安。
そろそろ迎えが来る頃なので、着替えるために立ち上がる。
そのとき、コンコンとドアがノックされる音がした。迎えが来たのだろうか。
「お〜い、正輝〜♪退院おめでとう!!」
オレの返事を待たず扉が開かれる。その扉の向こうには、笑顔の祐司がいた。
――――自分でも無意識のうちに、焦った。
彼も、彩音とオレのあいだに何があったのか知っていそうな気がして。
でも、彼の表情からはそんなのは微塵にも読み取ることは出来ない。
……それは、祐司だからなんだろうか?
「どした?なんか暗いぞ」
訝しげな表情でオレのことを覗き込む祐司。何故だか分からないが、彼が妙に明るいような気がする。
「せっかくいいニュースを持ってきたのにな」
どうせ目の前に立っているのは男なんだし、そんなこと気にせずに着替えを進める。
視線だけで彼に『なんだよ?』と問いかけた。
「明日、ライブハウス予約してたじゃない?」
その言葉に、体が微かに反応するのを感じる。まだ、完全に忘れたわけじゃないから。
開けておいた宝の箱から、何かが溢れ出すのを感じる。
「正輝は中止だろうなって思ってただろうけど、やるよ」
……はい?
ちょ、ちょっと待った。ボーカルが歌えないのにどうやってやるんだよ?
手話で『どうやって?』とだけ伝える。三人のなかで一番勤勉だった祐司のことだ、これぐらい容易に理解できるだろう。
その手話を見て、祐司がニッコリと微笑む。
「誰にだって、伝えたい想いがある。誰にだって、胸に秘めた気持ちがある」
祐司が呟く。だが、オレには彼が何を言っているのか理解できなかった。
「これが今回のライブのテーマ。何も……お前だけが、オレたちの『声』じゃないだろ?」
微笑み絶やさず、祐司がゆっくりと諭すように言う。

『私が、あなたの声になるから……声なんかなくたって、あなたの声を聞いてあげるから……』

不意に、あのときの彼女の言葉が蘇る。
まさか……
「お?その表情は分かったって顔だな?そのとおり、明日は彩音ちゃんが歌うから」
その言葉は、オレが想像していたこととまったく同じだった。
自分でも少し焦りの感情が浮かんでくるのを感じる。
――――どうして?
「彩音ちゃんが、自分から希望したんだよ」
どうして彼女は……ここまでオレのために……
どうして彼女は、ここまでオレを迷わせるのだろう?
波のように揺れる恋心。諦めきれない想い、早く諦めてしまいたい想い。
この二つが、幾度となくオレの中で交差している。
「どした?正輝……」
祐司が訝しげにオレの顔を見つめる。
彩音は、オレのことを思ってそんなことを言い出してくれたんだろう。
そんな彼女の想いに、少し心が痛んだ。
「後悔はしたくないからね……ボーカルの声がなくなったからって、『音楽』を諦めたくはないから」
そんなオレの様子を見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ祐司。
「オレたちは自分の後悔しないほうを選んだんだ。別に中止にしてもいいけど、それじゃ一生後悔してしまう」
きっとそうだろう。オレはとにかく、隼人なんかはまだ不完全燃焼だっただろう。
オレは今……どうなんだ?
「正輝もそう思わない?一度の決断で過ちを起こしてしまったら、もうそれは取り返しのつかないこと」
音楽はとにかく、彩音のことに関してもそうだ。
オレはまだ彼女が好きだ。その気持ちには、自分でも気付いている。
だからこそ、これでよかったんだろうか?と思ってしまう。
「だけど……まだ、自分の中にその『気持ち』があれば、それだけでいつかチャンスはやってくる」
まだ、オレは彩音が好きなんだ。
この気持ちがあれば……彼の言う通り、やり直しがきくんだろうか?
「だから、やるんだ。イブのライブは、オレ達に残された最後のチャンスなんだよ。オレ達にはまだ音楽をやりたいって気持ちがある。例えボーカルの声がなくなっても、その気持ちは変わらない……でしょ?」
――――あぁ、変わらない。
祐司の言葉に相づちをうつ。
それはオレの決めたことだった。別れるということも、音楽を諦めてしまおうという気持ちも。
だけど、それは過ちだった。
だけど、オレにはまだ『気持ち』がある。
だから、オレは祐司に聞いた。
『もう一度、やり直せるかな?』
「あぁ、きっと出来るよ」
オレはお礼の意味合いもかねて、笑った。




「よく頑張ったね。でも、もっと大変なのはこれからだ」
とうとう退院の時が来た。いつの間にかある意味オレの家と化した病院。少し名残惜しくも感じる。
でも、あの不味い入院食から逃れれると思えば少し嬉しい。
今、病院のロビーにはオレと両親、そして医者と看護婦、祐司の姿があった。
当然のことながら、彩音の姿はない。
「とりあえず御苦労様。学校も終わってるだろうから、ゆっくり家で休むといいよ」
そう言ってニッコリと微笑む医師。そういえば、この人にはだいぶお世話になった。
手話を覚えることを勧めてくれたのも彼だった。
元々この医師は手話が使えたので、手話の先生もやってくれた。
オレは頭を下げると、手話で一言『ありがとうございました』とだけ告げた。
その言葉にもう一度ニッコリと微笑む。すると突然医師はオレの耳元に口を寄せると、小さい声でこう言った。
「彩音ちゃん……いい娘じゃないか。大事にしなきゃダメだよ」
思わず後ずさる。まさかこんな初老のじいちゃんにそんなことを言われるとは思わなかった。
だけど、その言葉に頷くことは出来なかった。
そんなオレを見て、医師は言葉を続けた。もちろん、その顔には笑顔を忘れずに。
「自分の後悔しないやり方を選びなさい。それが全てを失うことになっても、それが自分で悩みぬいた末に得られた答えならば、それが正しい『答え』なんだから」
今度はさっきみたいな小さな声じゃなく、はっきりとした口調で、オレの目を見ながらこう言った。
何故だか分からないけど、その言葉には激しく心を打たれた。
――――それも、そうだな。
自分に……正直になれ。
いつもどこかで聞くような言葉だけど、今のオレにとってとても大切な言葉だと思う。
「さぁ、正輝。そろそろ行くぞ。先生、本当にお世話になりました」
隣から父さんが言う。医師が何を言っていたのか、両親にはチンプンカンプンだったようだ。
だけど、祐司は分かっていたようだ。うんうんと頷いている。
コイツも――――知ってたのか。
もう一度頭を下げる。……今度は、さっきとは違う意味で。
決断。
それだけが今、オレに必要なものなんだ。
医師も、祐司も、なかなかの曲者だ。オレに自分の気持ちを気付かせるために……
『気持ちは変わらない……でしょ?』
『それが正しい『答え』なんだから』
二人の言葉を胸に秘め、オレは車に乗り込んだ。




§




ここに来るのは、随分と久しぶりだな。
目の前に聳え立つ白い校舎。空は、いつの間にか雲で覆われていた。
今にも泣き出しそうな空の下、校門の前にオレは一人佇んでいる。
正直、オレはまだ悩んでいた。彼女に何を言おうか。何を伝えようか。
ゆっくりと学校の敷地内に入る。踏みしめる学校の土に、少し懐かしさを感じる。
入院していたのはたった二週間なのに……その間に、いろんなことが有り過ぎたのだろうか。
校舎の中に入ると、静寂だけがオレの周りを包んでいる。
――――誰もいない。
今日は祝日だから、仕方のないことかもしれない。
屋上への階段を一段ずつ、ゆっくりと昇っていく。
二階と三階のあいだの踊り場にまでやってくると、あの日の光景が不意にフラッシュバックした。
頬を染めた彼女の笑顔。
慌てふためく彼女の表情。
――――今そんなことを思い出してる場合じゃないか……首を大きく横に振って、再び階段を昇り始めた。
あの日とまったく変わらない、屋上の扉。
あの日はまったくためらわず、あの扉を開いた。
しかし、今日は違う。
震える指をそのままに、ゆっくりとオレはその扉を開く。
キーッと蝶番のきしむ音がする。扉の向こうには、あの日と違う冬の風景が広がっていた。
それでもただ、空だけが黒い。
「……待ってたよ」
屋上のフェンス越し、景色を眺めながら佇む一人の少女。
「懐かしいね……でも、もう、すっかり冬なんだ……」
制服の上からコートを着て、首にはマフラーが巻かれている。あのコートは……
「あ、気付いた?へへ、あのとき正輝が貸してくれたコートだよ♪」
自分よりはるかに大きなサイズのコートを羽織った少女は、頬を紅く染めて微笑んだ。
それは、オレが好きな笑みだった。
――――オレの、好きだった笑みだ。
「あの仔犬たちも元気だよ。里親も見つかって、今は幸せそうに暮らしてる……」
不意に彼女は向きを変え、屋上の上をゆっくりと歩き回り始めた。
その歩調は、とてもゆっくりだった。それでも、目だけはずっと空を見つめている。
オレは、ただその場所で立ち尽くしていた。
「もう、二週間経つんだ……時が流れるのって、早いんだね」
ゆっくりと噛み締めるように言葉を紡ぐ彼女。でも、心なしかその表情は少し陰っているような気がした。
「正輝は……今、幸せ?」
オレに背を向けていた彼女が振り返る。やっと、オレの顔を見た。
――――その目には、涙が浮かんでいる。
幸せだった。
声を……失うまでは。
オレは宙を見上げた。
――――空も、泣きそうだ。
「私は幸せだよ。祐ちゃんがいて、隼人クンがいて……正輝がいて。それは、正輝が声を無くしたとしても変わらない。私は幸せなんだって……世界一の幸せ者なんだって、ずっとそう思ってる」
そこでいったん彼女が言葉を切った。
冬の風が、オレ達のあいだを吹き抜ける。
風が、落ち葉を運んでいた。枯れ葉が舞い、ヒラヒラと一枚オレの足元に落ちていく。
「だからね、正輝にも幸せになって欲しいの。私だけ幸せになったって、それじゃダメなの」
ゆっくりと諭すような、そんな温かい言葉。だけど、どこか冷たくて。
そんな微かな冷たさに、彼女の悲しさが詰まっているような気がした。
彩音は……気付いていたんだ。
自惚れかもしれない。本当に嫌われてしまったのかもしれない。
そんなことを思ったハズだ。
だけど、本当はそうじゃないから……そうじゃないことに、気付いたんだ。
オレという重荷を背負ったままで生きて欲しくなんかないから。
そんなオレの気持ちを、彼女は知ってしまっていたんだ。
それこそ、オレの自惚れかもしれない。
心の奥深くで、『気付いてほしい』という気持ちが、想いがあったのかもしれない。
彩音が体をオレのほうに向けた。手を後ろに組んで、その目は空を見つめている。
「正輝の中にはもう、本当に私はいなくなっちゃったのかもしれない」
コツ。
「だけどね……自己満足かもしれない。ううん、きっと私の自己満足だけど」
コツ。
「一言だけ、言わせて」
……コツ。
「私は、正輝のことが好き。声がなくたって、歌えなくたって、私は正輝が好きだから」

『吉原クンが、好きです……』

あの日の言葉が蘇る。あの日の、赤らめた顔で微笑む彼女の姿が蘇る。
いつの間にかゼロになったオレ達の距離。
彼女は――――笑っていた。
「あ〜〜〜スッキリしたっ!!」
急に彼女は振り返り、思いっきり叫んだ。
振り返ったときに……瞳に光る物が見えたような気がした。
もう何回も見た彼女の涙。もう、そんな顔は見たくない。見たくないんだ……
「もう、正輝は幸せ者だねっ。こんな可愛い娘に二回も好きって言われてサ」
自嘲気味に話す彼女。こんな状況でも忘れない、彼女の些細な気配り。
だけど……涙声は、隠せない。
そんな彼女が、とても愛しかった。

――――愛おしさから、抱きしめた。

「きゃっ」
ただ、抱きしめる腕に力を込める。
伝えたい。オレの、この気持ちを。
溢れんばかりの、この想いを。
後ろから抱きしめたから、彼女の表情は分からない。
――――そんなの、どうだっていい。

『好きだから』

この一言で、十分だと思う。
「正輝……」
オレの手を、強く、強く握り返してくる彩音。
手のひらに、冷たい感触がした。ひんやりと冷えてしまった彼女の指先。
オレは、勘違いしていた。
オレと一緒にいることが、彩音の苦痛になり、彩音の重荷になってしまうのだと。
――――それは違うんだ。
彩音にとって、オレといること、オレと一緒だということが幸せなんだ。
オレは……大馬鹿者だ。
彩音のそんな気持ちに気付いてあげられなかった。
オレがやったことは、ただ彼女を傷つけただけだったんだ……
これも、自惚れかもしれないけど。
彩音がまだオレのことを『好き』だと言ってくれたことが、何よりの証拠なんだ。
彼女を抱きしめたままで、オレは手だけを動かした。
――――泣かせて、ゴメン。
そして……もう一つ。

オレは声で言葉を伝えることはできないけれど。

気持ちは、気持ちを込めた言葉は、『声』なんかなくても伝わるんだ。

それはとても単純で、とても簡単な言葉だけど。

それはとても複雑で、とても難しい言葉なんだ。

いつも側にいてくれた君に、この気持ちを伝えたい。

だから君へと……


伝えたい、言葉がある。


「ありがとう……」
彩音が振り返ってオレの胸に顔を押し付ける。
オレは、小さく微笑んだ。仔猫のように泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。
優しく、とても優しく。オレが馬鹿者だった間に、与えることが出来なかった優しさを込めて。
少しの間、お互いの温もりを共用するようにずっと抱き合っていた。
「実はね……私が正輝を呼び出したのって、隼人クンの陰謀なんだよ」
抱き合ったままで、ふと彩音が呟く。
陰謀っていう言い方が少し腑に落ちなかったが、あえてオレは続きを待った。
「あの後隼人クンが病室に来てね、こう言ったんだ。『アイツは、自分に嘘ついてる』って」
隼人のヤツ……なかなか憎いことをするじゃないか。
「それで『彩音ちゃんも、気付いてあげなよ。アイツの気持ち』だって。それでピーンときたんだよ。正輝が私のこと……嫌いになったなんて、思いたくなかったから」
優しい口調で話す彼女。オレは軽く頷いた。
「あ、雪……」
彩音が空を見上げる。オレも、それに合わせて空を見上げた。
この空を、季節外れの白い桜が彩っていた。
――――空は、泣かなかった。
笑っているように見えた。
真っ白な雪が、ゆっくりと地面へ舞っている。屋上から見えるその景色は、とても幻想的だった。
「キレイ……」
彩音が呟く。オレは、そんな彩音の顔に見とれていた。
「ね、キレイだね正……!!」
オレは、そっと彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。
最初は驚いていた彩音も、ゆっくりと目を閉じる。
彩音とオレが、一つになった瞬間だった。
彼女の鼓動を感じる。彼女の息遣いを感じる。
オレの音と、彼女の音が交じり合って、新たなメロディが生まれていく。
音楽だって――――きっと初めは、そんな些細なことだったんだ。
オレ達は、少しの間ずっと唇を重ね合わせていた。
これからもずっと一緒にいよう。その気持ちを、いつまでも確かめ合うように。




§




「ぐぁぁぁぁ、緊張するぜ」
うぅ、と隼人が唸っている。頼むから、あの日みたいにコケないでくれよ。
「今日もなかなかお客さんの入りいいみたいだね」
舞台袖から、祐司が外の様子を眺めていた。少し満足げだ。
「隼人クンはいつもどおりだからいいじゃない……私は歌うんだよ?歌詞間違えたらどうしよぉ〜〜」
彩音が嘆いている。オレはそんな彼女の頭にポンと手を置いた。
――――オレの『声』だろ?お前ならできるさ。
その『言葉』に、彩音は微笑んだ。
「うん!!よぉし、やれるだけやってみるぞぉ!!」
開幕まで、あと十秒。ギターを握る手に思わず力が入る。
「あ、そうそう、正輝」
七秒前。オレは彩音のほうへ向き返った。
目だけで『何?』と合図する。彩音がニィーと意地の悪い笑みを浮かべる。
「今日、弁当作ってきたんだ。これ終わったら、一緒に食べよ」
五秒前。オレは固まった。
――――食えるのか?
もう一度目だけで訴える。だが、彼女は見もしない。
「ヒューヒュー。仲イイね、お二人さん。オレも分けて……ごふぅ」
三秒前。隼人が祐司から鉄拳制裁を受ける。隼人が涙を流して散っていった。
……まぁ、いいや。せっかく彩音が作ってくれたんだから、有り難く頂くとしよう。
そして……
「さぁ、時間だ。行こう!!!」
祐司が。
「今日はミスらねぇぞぉぉぉ!!!」
隼人が。
「よっし。行こ、正輝♪」
そして、彩音が。彼女がオレの手を取る。
――――いっちょ、やってやるか。
オレは駆け出した。祐司と隼人の後を追って。彩音に手を引かれて。

――――あの日見た夢は、現実なんかじゃない。

彼女はオレの側にいてくれる。遠ざかったりはしない。
歌えなくても、彼女はきっとオレの声になってくれるだろうから。
ありがとう。
ずっと近くにいてくれた君に、この言葉を伝えたい。
いや……もう、伝わっているだろう。
『声』がなくたって、気持ちは伝わるんだ。



伝えたい、言葉があった。



『オレは、君が好きだ。これからも、ずっと一緒にいてほしい』






<fin>








あとがき
終わった……書き終えたぞ、ママン!!(ぉぃ
クリスマスの昼、後ろのテレビでは笑っていいとも!が流れています。
いかがでしたでしょうか?message、ここに完結です。
もうこれほどいろんなストーリーが浮かんだ話は初めてだ(笑)
隼人は彩音が好きだった、とかいう話。彩音が屋上で自殺未遂、とかいう話。
ゴメンね彩音。最初僕は君に最悪な仕打ちをしようとしていたようだ(マテ
オレが書いた作品のヒロインは今のところ三人いますが(望月優、沢村葵、そして今回の木之本彩音)彩音が一番気に入っちゃってます。逆に一番気に入らない主人公は正輝です(ぉぃ
まぁちなみに言っちゃうと好きな脇役は過去の雄太(核爆)←Shooting Star参照の上
優柔不断で、周りの助けがないと自分の気持ちにも気付けなくて。
だけど……それでもいいんじゃないかな、って思います。人は一人では生きられないんですから。
まぁ最初のテーマはそれですね。正輝を中心にして三人が(メインは彩音ですけど)彼を立ち直らせようとする。今回はそれに一貫しました。
正輝、彩音、隼人、祐司、そして医師(笑)それぞれのメッセージが伝わってくれたらな、と思います。
なんかあとがきが長くなってしまいましたが、この辺で失礼します。
喋らない主人公なんて二度と書かないと心に決めたクリスマスでした。
ではでは!!



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