メモリーズオフLostMemory
ゲバチエル

第五章〜君がいるのに何処まで君か判らない〜


10/7(日) 『扉』

昨日は大変だった。あの後彩花の両親が飛び込んできて、医者もすごい真剣な顔をしていた。
やはり両親の事すら思い出せずにいた彩花にとって何がなんだか判らないといった感じだったが・・・。
そして俺にとってもよく知っている彩花の両親には「ありがとう」とお礼を言われていた。
まだ、彩花は親として認識していなかったのにだ。それに俺は何かしたのだろうか?
たまたまあの時彩花が目覚めて俺が居合わせただけかもしれないのに。おまけに記憶は無かったのに。
「くそっ」
自室の一角を蹴り飛ばす。両親は今帰ってきている。だが彩花の両親と共に何処かに行っている。
病院なのか何かの話をしているのか、俺には判らない。ただ家に誰もいない事はかえって都合がよかった。
一人になりたかった。逃げたいとかそういうのじゃなくて。考える時間だけが欲しくて?
ただ一人になりたかったから。彩花の目覚めに戸惑っている自分を落ち着かせたいから。どうなんだろう。
こんな気分になるのには他にも理由が・・・例えばそう、もう一人の幼馴染の事・・・唯笑だ。
彩花が目覚め、しかも記憶が無いって知ったらあいつはどう思うだろうか・・・。
毎週お見舞いに行っている翔は―
「今日は日曜日じゃねえか!」
今日、翔は彩花の所へお見舞いに行く。という事は彩花の状態を直に見てしまうという事になる・・・!
二人とも何を思うだろうか?そこにあるのはとても再会できて嬉しいなんて気持ちじゃないだろう。
意味が判らないままギスギスしたまま終わってしまうんじゃないか・・・?
「くそっ」
俺は無我夢中で家を駆け出し、急いで自転車にまたがる。
「頼む間に合ってくれ!」
翔より早く着いてくれ・・・頼む!俺は彩花の所へ行くので気持ちがいっぱいだった。
途中何度も何度も転びそうになりながらも病院までの道のりを必死に漕いでいく。
目的地につくと急いで自転車に鍵をかけて、院内へ急ぐ。
あわてていたために神坂さんに声をかけるのも忘れて、俺は彩花の病室へと急いだ。
さすがに病院で走るのはまずかったので、競歩の気分がするくらいの早足になる。
「はぁ・・・はぁ・・・」
彩花の病室の前で、あまりに飛ばしすぎていたために肩で息をしていた。
すぅ・・・はぁ・・・。軽く深呼吸をして呼吸を整える。
部屋からは声は聞こえない。彩花は寝ているのだろうか・・・?
よし。
静かにそう決意すると。俺は部屋の中へと踏み込んだ。
ガチャッ
真っ白な病室。真っ白なベッド。窓から差し込む真っ白な光。
何もかもが真っ白なこの場所で、彩花は外を見つめていた。窓辺にぽつんと立ちながら。
「彩花」
「あ・・・智也。来てたんだ?」
「今来たばっかりだ」
「そっか。ありがとね?」
俺に背を向けたまま彩花はそう言った。視線はやはり外に向けられたままだ。
何も言わずに彩花へ歩み寄る。
「隣いいか?」
「いいよ」
それでも視線は以前一点を、どこか遠くを見るような感じで見続けていた。
「昨日はごめんね?」
突然彩花が俺に対して謝ってきた。謝られるような事彩花がしたっけ・・・?
「急に色んな人達が来ちゃって、智也帰るしか無くなったじゃない」
なんだ、そんな事か。やっぱり彩花・・・記憶を無くしても・・・だな。
「彩花のほうが大変だろ?父さん母さんっても覚えてないんだしやりづらかったろ?」
「うん・・・私を育ててくれたお父さんの事もお母さんの事も何も判らなかった・・・」
言葉に詰まる。記憶の無い彩花になんて言ってやればいいか判らない。
覚えていたのは俺の存在だけ。誰かの名前も想い出も何も無いけど、俺の存在だけは覚えてくれた。名前を忘れても、だ。
だが何度考えてもそれが嬉しいとは思えず、むしろ哀しくなってくる。
「私ね、このまま智也の事も何も想い出せないかもしれない」
「そんなこと―」
言い出そうとした刹那彩花に言葉を続けられた。
「あるかもしれないよね・・・私このまま何にも想い出せないって。それがとっても怖いんだ・・・
 それにね・・・智也が大切な人じゃなかったらどうしようとか・・・色々考えちゃうんだよ。
 私酷いよね、信じてあげられないんだもん。でも想い出が無いから信じる物が無い・・・」
絶対間違ってない、とか言ってあげたかったけれど何を言ったって想い出が無いという恐怖をぬぐってやることはできない・・・
励ましや慰めの言葉もかえって刃と化すかもしれない。でかかった言葉を抑えて、俺は何も言えなかった。
少しの沈黙の後、口を開いたのは彩花だった
「私生まれたばかりの赤ん坊と同じだね。赤ん坊よりずっと賢くてちゃんと喋れるけど、それだけ。生まれてきたばっかり」
「そうかもな・・・。でも一つだけ違うだろ」
彩花はえ?という感じでちょっと間抜けな表情を見せている。
「生まれる前から俺を知ってたって事。名前は知らなくても、な。」
「だけど・・・」
「俺を知ってるんだからみんなも実は忘れてるだけって可能性あるだろ?そう悪い方ばっかに考えるなよ」
悪い方に考えるな・・・。せめて俺が言える言葉だった。
せめて・・・彩花が覚えていてくれた俺くらいは。彼女のほんのわずかでもいい、支えになってやりたい。
「うん。ごめんね、智也・・・その、今の私にとっては智也も会って一日目だから・・・」
コッコッコッ・・・
足音が聞こえてきていた。
コツコツコツ・・・
音は大きくなってきている。
コツリコツリコツリ・・・
その音はこの部屋に更に近づいている。
あの歩き方というか音の響きは翔だ・・・。
「彩花、今からお前に一人お見舞いに来るみたいだ」
「私の知ってた人?」
「あぁ。中学の時の親友って言ってもいいかもな。水無月翔って言うんだけど、毎週日曜日お前のお見舞いしてたんだぜ」
ずっとお見舞いをしにきてくれた。その事実がかえって記憶の無い彩花には痛いほどでもあるとは思う。
「知ってるふりとか、しなくていいから」
「でも」
「大丈夫だ。素直にしてりゃ」
少なくとも俺の知ってる翔はそんな事で彩花を強要したり責めたりする奴じゃない・・・
それに彩花のそばに俺もいる。いざこざがあったとしても何とか出来る。彩花の不安を少しでも取り除けるようにここへ来たんだから。
カツーンカツーンカツ・・・
やがて足音はこの部屋の前で止まった。
コンコンコン
三回のノック音が響く。直後
「彩花、入るぞ?」
いつもなら、返事など無い。ただの意思表示のために言っているんだと思う。
「いいよ・・・」
そう、彩花は返した。やや申し訳なさそうな顔を浮かべながらだったけど。
「あ、彩花!?」
一枚の扉を隔てて、翔があわてた声をだす。返って来るなんておもっちゃいないから。
そして・・・その様子のままに翔は飛び込んできた。再会が哀しみの再会となるっていうのに・・・
「何だ智也・・・来てたのか。知ってたなら連絡よこせばよかったのに。
 彩花、久しぶりだな」
俺は翔に返す言葉は見つからなかった。そして隣で彩花は・・・依然外に目を向けたまま黙っていた。
こっちとあっちじゃ空気が違うって感じだった。一方は記憶というものに複雑な想いを、一方はただ再会に喜ぶだけ。
「・・・何かあったのか」
さすがに俺たちに様子に気がついたらしくやや慎重な様子で尋ねてくる。
俺の口から言う事なんか出来なかった。ふと横目で彩花を見た。
泣いてた。外を見つめたまま泣いていた。ぼろぼろと涙を流してただ泣いていた。
哀しいのか申し訳ないのか、はたまたその両方なのか、それとも別の何かか判らない。
ただ、泣いていた。声も出さずに今にも壊れてしまいそうな顔で・・・。
翔には背を向けるような形になっているので、その様子は判っていないようではあったけれど。
「翔悪いな。彩花ほら、三年も眠ってたし色々整理ついてなんだよ。ちょっとしたら翔と喋れるって―」
俺がその場をなんとかしようと、彩花も翔も変にこじれたりしてほしくなかったから馬鹿みたいに明るく言い切った。いや言い切ろうとした。
そっと、彩花は静かに涙も拭かずに翔のほうへと向き直る。
長い長い髪の毛を右手でサッと払うと、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「君が・・・水無月翔君だよね・・・?」
彩花のその一言にまるで時が凍ったかのような感覚を覚えた。おそらく言われた本人はほんとに止まったかのように感じただろう。
「何いってんだ・・・?」
まだ把握しきれてない翔は無理やり笑いながら彩花に歩み寄っていた。
「判らない・・・判らないの・・・想い出せないの!」
そこまで言われてようやく翔も理解できたようだった。彩花も翔も、酷く哀しい顔のままお互い見合わせている。
「立ち話もあれだし、座ろうぜ」
俺は三人分の椅子をさっとセッティングすると、まずはじめに腰掛けた。
二人も無言でそれに従う。丁度三角形を描くような形で。
「じゃあ智也は?お前は・・・」
「智也の事は私覚えてた。ううん、覚えてたなんて言えないけど。名前も想い出も何も無いけど、あぁこの人が大切な人だって」
「そうか・・・やっぱり彩花は智也が大切なんだな。でもそれ以外何も覚えてないのか?」
彩花は静かに首を縦にふった。彩花の表情には何かに怯える物すら感じられる。
「・・・悪いな。今の彩花にとっちゃ俺は初対面の人と同じってわけだよな」
「ごめんなさい。でも、お見舞いに来てくれたのはすごく嬉しい」
俯きながらに言葉を振り絞る。俺はそんな二人のやりとりを見ているだけで何処か締め付けられる気分になった。
「まぁ、彩花混乱しちゃうだろうからさ。俺たち今日は帰らないか?翔」
やっと出てきた言葉がこれだった。せめて空っぽの想い出に大量の情報を流し込んで混乱させないでやる事。
それくらいの配慮ならしてやれるから。そう思った俺が言える精一杯の言葉だ。
「あ、待って・・・」
酷く頼りなさそうに声をだしたのは彩花であった。
「二人とももう少しだけ傍にいてください・・・駄目かな?」
俺と翔は一瞬目を見合わせた。そして頷きあう。
「もちろんだ」
俺と翔は、キッパリとそう言った。
一人が怖いのだろう。想い出も何も無いから孤独に耐えられないのだろう。
だから誰かと一緒にいてそれを少しでも沈めたいのだと思う。
「・・・水無月君とかじゃなくて翔って呼んでくれよ?そうじゃないと変な感じになりそうだ」
「うん。なんだか私にとっては初対面だから慣れるまで時間かかると思うけど・・・」
「無理はしなくていいから。そのうち鳴れる」
病室のベッドに、彩花を挟むように俺と翔は腰掛け、彩花を俺たちの間に誘導する。
両隣にいれば少しは安心できるかな、と俺たちは思ったからだ。
「そうそう。あれは中学の時なんだが・・・」
俺たちは実に他愛も無い想い出話をしていた。ほんとうに、ただの雑談を。
それさえも彩花にとっては新鮮な事の一つで、これがまた興味津々に聞いてくる。
まるで自分の過去を探ろうとしているかのようだった。
彩花が絡んでいたエピソードでは、自分がどうしていたのかかなり気になるようだったのか、
質問などもどんどんと投げかけてきていた。
混乱させないように、じゃなかったんだ。彩花はほんの少しでも想い出そうと努力して知ろうとしている。
「俺とは違うな・・・」
「ん?どうした、智也」
「いや、なんでもない。気にするなって」
思わず声に出してしまった。過去を知らないようにして遠ざける事ばかりしていた俺とは違うんだ・・・
コトッ
ふと何かが床に落ちる音が響いた。音のしたほうを見ると携帯電話が落ちていた。
これは翔の携帯だな。話に夢中で気付いてないし・・・俺が拾うか。
すばやく携帯を拾うと・・・ふとそのディスプレイに目がいった。
――――着信履歴あり。未読メッセージ一件。
「翔。携帯落としてるぞ。あと着信履歴と留守電か何か来てるみたいだったけど」
「ん、サンキュ。誰だろういったい―」
携帯を慣れた手つきで操作するが瞬間翔の表情が、体がこわばった。
「どうしたの・・・?」
彩花が心配そうに翔を見る。俺もどうしたのか、と翔の言葉を待つ。
『もしもし、翔君?唯笑智ちゃんのお母さんから聞いたんだけど、彩ちゃんが目を覚ましたんだよ!!
 留守電でちょっと残念だけどね。今から唯笑は彩ちゃんに会いに行く所でーす。
 翔君も来るといいよ!あ、智ちゃんはもう知ってるみたい。それじゃ!』
聞こえてきたのは唯笑の声だった。入っていた留守電を翔が流したのだろう。
それだけ聞かせると翔はすぐさまに電源を切り携帯をポケットに押し込んだ。
「今の声・・・なんだか知ってるような気がするの・・・。」
彩花がぽつり、とそう呟いた。唯笑の声になにかを感じ取ったようだ。
「・・・翔、唯笑に隠してもしょうがないだろう?普通にしてよう」
「あぁ、そうだな・・・」
「私はどうすればいいかな・・・」
「彩花も隠そうとしたりしないで。普通にな?」
カツーンカツーン・・・
それはすぐにやって来た。その足音はみるみるうちにここに近づいていた。
誰が来たか、など考えなくても判る。その音に反応するかのように、部屋には緊張が走る。
やがて足音は大きくなり・・・すぐそこで止まった。
コンコン
「はいるよー」
無邪気なまでな唯笑の声だった。今日になって二回目だろうか・・・?
こうまで彩花に誰も会わせたくない気持ちが生まれているのは・・・。
やがて、ゆっくりとそのドアは開かれていった。その様子を俺をただ見ているだけだった。
「なぁんだ、二人とも来てたんだね」
俺たちの姿を確認できたのが、かなり嬉しいようだった。
「まぁな」
翔が普通に振舞おうと声を返す。だがやはりいざ『真実』が判っているとそれもぎこちない。
と、唯笑は軽く俺たちと会話すると彩花のほうへ歩みよる。
「彩ちゃん・・・良かった。唯笑ずーっと彩ちゃんが眠ってるんじゃないかって心配してたんだよ」
「唯笑・・・ちゃん・・・」
彩花が自分を探るかのように唯笑の名前を言葉にする。
「ほえ?」
「唯笑ちゃん・・・うぅ・・・」
「彩花っ!あんまり無理するなっ!」
思わず俺は彩花を肩で抱き寄せていた。なんだか彩花がこうして俺たちの前にいるようになって、
ずいぶんと俺は弱い部分を露呈してきているような気がするが・・・感情は止まらない。
「智ちゃん・・・?どうしたの?」
事態を把握できてない唯笑だけが無邪気な顔のままこちらを見ていた。
彩花はどうやら唯笑の事も全て忘れたようではなかった。むしろ俺のように封印してしまっているとも言えた。
それ故、名前と姿、そして声という情報が記憶の何かを揺さぶったんだと思う。
それを必死に思い出そうとして、あの頭が痛くなるような恐怖に見舞われたのだと思う。
「彩花、ゆっくりでいいからな?無理するなよ?少しづつ判るようになればいいからな!」
「ありがとう。ふふ・・・でも少しだけ判った気がするんだ」
「判った?何がだ?」
「さっきまでと違うの・・・唯笑ちゃんも翔の事も・・・ずっと前から知ってたような気がするの」
状況を説明されてない唯笑はわからなそうな顔をこちらに向けた。説明しろと顔が訴えている。
「唯笑ちゃん・・・だよね?私ね、記憶が無いの・・・」
記憶が戻る事に希望を見出したのか、彩花はためらうこともなくそう告げた。無論、申し訳なさそうな表情をしてはいたが・・・
「そんな!智ちゃん、彩ちゃんがこうなったって知ってたの?」
知ってたからどうにかなるのか?俺だって知らなきゃ良かったのに・・・思考だけが巡り唯笑に言葉を返せない。
その沈黙が今の場には肯定と同じ物になっていたが・・・
「智ちゃん、平気だったんだね・・・」
「もう、逃げないって決めたからな」
嘘だ。あくまで建前はそうかもしれないが、出きるなら今すぐでも逃げてやりたい気持ちだ。
「唯笑ちゃん・・・って呼んでいいよね?」
「当たり前だよぉ彩ちゃん!あっえっと記憶が無いんだよね・・・今坂唯笑です。」
「ごめん・・・ごめんね・・・」
何度も何度も謝る彩花を見ていると、何ともいえない熱い想いが込み上げてくる。
「よせよ。それより・・・また少し喋るか?」
「そうしてほしいな。今の私は知らないことばかりだから。」
「わーい彩ちゃんとおしゃべりできるぅ〜」
状況が判っているのかいないのか、唯笑はただ楽しそうに、微笑んでいた。その名が示すように。
「でね、でね、智ちゃんがね、りあるこいのぼりぃ〜とか言ってね・・・」
そういえば神坂さんに顔出してないから面会時間とか大丈夫なのか少しだけ気になった。
普通何時間も居ていいものじゃない気がするし、病院に怒られたりしたら嫌だからな。
「ほんと智也は今も全然かわらねーよな」
会話は弾んでいた。彩花も以前と同じように打ち解けている。
会話の頃合を見計らうと俺は外へ出て面会時間の確認へ行く事にした。
気持ち悪いくらいに白い廊下を歩く。真っ白で、嫌と言うくらい清潔な病院の廊下を。
―まるで今の彩花の記憶のように真っ白な―
ふとそんな考えが頭を突いてくる。やがてその考えで俺の思考を埋め尽くさんとしていく。
記憶が真っ白だからといって、何だというんだ?彩花は、彩花だ。そうだ、そうなんだ!
俺はそう思う事で自分自身を落ち着かせた。と、すでに受付まで俺はたどり着いていた。
さっそく、神坂さんを呼ぶ。するとあっというまに神坂さんは姿を出した。
「あら、智也君。今日も来てくれたのね」
「すいません、あの、俺もう一時間くらい前から来てるんですけど顔出さなくて」
「ふふ、いいのよ。気にしないで。貴方たちにとってはごく親しい人との三年ぶりの再会ですものね。」
そう言ってもらえるとすごい助かる。やはり担当と言う事だけもあって大分面倒見もいいみたいだ。
「それで、面会時間なんですけど・・・」
「今日はずっと大丈夫よ。でもそうね、ずっとといっても夜八時までだけどね。これは規則だから・・・」
「あ、いえ、充分ですよ」
「ほんとはずっと一緒にいてあげられるといいのだけれどね・・・。」
『ずっと一緒だよ?』
彩花が俺と唯笑との三人で交わした約束をふと、思い出す。
でも今の彩花はその約束すらも覚えていないんだよな・・・。
「智也君、一つ大事な話があるのよ」
突然、何の前触れも無しに神坂さんの口調が変わった。何だか緊張感が走る。
「ちょっと、こっちの部屋まで来てくれるかしら」
俺は言われるままにその部屋へと案内される。
そこは丁度二人で話すような部屋で、椅子と机が向かい合うように置かれていた。
言われるがまま席につくと、しばらくの沈黙の後静かに口を開いた。
「彩花ちゃん・・・記憶が無いでしょ?」
「あ、はい。俺の事は微かに覚えてたんですけど。あと唯笑や翔の事もなんとなく判るようになったみたいです」
「そう・・・それは良かったわ。」
良かった、といいながらも神坂さんの目はどうにも哀しそうだった。いったい、何が話されるって言うのだろうか。
「彩花の記憶が、何か?」
意を決して、俺は尋ねてみた。
神坂さんは静かに首を縦にふった。そして右手を胸の所に置いて―まるで自分を落ち着かせるように―
深呼吸するとゆっくりと話を切り出した。
「彩花ちゃんの記憶はね、ある程度は戻るとは思う。」
ある・・・程度?
―彩花の記憶は今、真っ白だ―
彩花は今や記憶が無いいわば赤ん坊に近い状態かもしれない。
―もしもある程度の記憶、不完全な記憶しか取り戻せなかったら―
また、だ。先ほどと同じ思考が俺を飲み込み始めている。彩花は、彩花だ・・・そうだ・・・そうなんだ!
「智也君、大丈夫?」
「な、なんとかっ」
自分に未だ彩花は彩花だとよくわからないことを言い聞かせながらもなんとか冷静に話を聞く体制に戻った。
神坂さんが声をかけてくれなかったら思考と言い聞かせる事で精一杯だったかもしれない。
「続けるわね。ある程度、つまり完全には記憶は戻らないって事なの。」
カンゼンニハモドラナイ。
まだ彩花は思い出そうとしている段階だ。つまり完全に戻らない保障だって無いじゃないか!
「なんでそんな事が判るんですか?戻るかもしれないじゃないですか。神坂さんがそんな事言わないで―」
「判るのよ・・・私も認めたくないけど、判るのよ」
俺の言葉はその日悲痛な言葉によって遮られた。認めたくないけど、判る・・・と。
「彩花ちゃんが交通事故に遭ったのは判るわよね?」
「ええ。大丈夫です」
俺が記憶を封印していた事を察してか、あえて問いかけるように聞いてきてくれた。
「私たちが通報を受けて駆けつけたときにはもう意識は無かったの。
 いいえ、それだけじゃないわ。むしろこっちが重要かもしれない。
 それまでほとんど雨に打たれたままだったの。なんとかハンカチやタオルで止血を試みた後はあったけど、
 事故の衝撃には焼け石に水のようなものだった。いえ、もしもそれが無ければ彩花ちゃんは今ここにはいなかったのだけれど」
「え・・・?」
「雨の中あまりにも血を流しすぎていたのよ。血が足りないまま何分もそのままだった。
 ほんのわずかな止血も無かったら、眠り続けることも出来なかったから、ほんとギリギリの状態よ」
そのほんのわずかを試みたのは信だろうというのは考えるまでも無かった。
やはりあいつのおかげで彩花は死なずにすんだんだ。そう改めて確信した。
「血を流しすぎた事がどういうことかわかるかしら・・・?」
「それが彩花の記憶と・・・?」
また静かに首を縦に振った。
「そう、・・・体中に送り届ける血がもう無かった・・・って事」
血がない。血が届かなかった・・・?
「人間って言うのはすごいデリケートなの。数分も血が適度に行き届いて無いと、細胞は死んでしまうのよ」
「細胞・・・まさかっ!」
「ええ。手足とかに異常が残らなかったから良かったのかもなんて無責任な事しかいえないけど・・・
 脳にも適度な量の血は届かなかったの。それでも少量届いてはいいたけどね。
 少量じゃ足りなくてゆっくり、ゆっくりと細胞は消えていった。彩花ちゃんの記憶を持つ細胞も、ね」
「それじゃあ今記憶が無いのも」
答えが唐突に告げられていた。解決策など考えられない答えが・・・
「ええ、その時の後遺症みたいな物ね。・・・でも完全に行き届いてないわけじゃなかったから、
 あなたのこともなんとか覚えてはいたでしょ?」
「確かに名前すら覚えてくれてなかったけど・・・」
「ただ部分的な記憶が抜けてるだけのはずだから、ここまで想い出せないのは智也君と同じように封印してると思うわ。
 雨の日の事故とか、眠っている彩花ちゃんにも聞こえるくらいの智也君の叫びとか色々あったから」
俺は何も言わなかった。うすうすは思っていたかもしれない事を告げられて、ショックにも似たものを感じたのだ。
「ごめんなさい・・・智也君と同じなんて言っちゃ駄目ね・・・。でもあなたにはちゃんと真実を伝えようと思ったのよ。
 彩花ちゃんを本当に大事だと思うならもう逃げないで欲しいから。
 でも、彩花ちゃんをよろしくね?」
「はい・・・」
「もう戻っていいわよ。いきなりごめんなさいね」
そう言われて俺は部屋を出る。去り際にちらりと振り返ったが神坂さんは哀しい顔を浮かべたままだった。
完全に記憶が戻らないと言う事は、彩花の記憶が全ては戻らないと言う事は・・・
―あの時の彩花はもう戻ってこない―
全てが同じじゃないから、記憶が違うから・・・戻る事は出来ない。
あの彩花が戻ってこないと言う事は・・・
―もう、俺の中の彩花は帰ってこないんだ―
真実の雨は、俺の心をびしょびしょにぬらしたいった。
止んだと思った雨は、傘で一時しのぎをしていたに過ぎなかったのだから。
そんな、ずぶ濡れな気持ちのままに彩花達の元へと戻る。
「結構遅かったな何処行ってたんだ?」
「ちょっと話があったからな」
「話?」
翔が勘ぐるかのように聞いてきた。しかしこれは教える気にはさすがなれなかった。
「ああまぁ雑談だけど」
「そうか」
それ以上は特に追求してこなかった。今の俺には逆に都合が良かったが。
「ほぉら、智也も早くこっち来てよ」
「彩ちゃんね、智ちゃんの事早く来ないかなーなんて言ってたんだよ」
「や、やめてよ唯笑ちゃん」
言われるがままに彩花の元へと歩みより、隣に腰掛ける。
先ほどの話が思い返される。そしてそれが導く事実も見えている。
―彩花、お前は彩花なのか?―
俺の隣に座る少女は、楽しそうな笑みを浮かべている。俺たちとこうしているのが楽しいかのように。
あの笑顔も、誰の物なんだろうか?彩花が笑っているのだろうか。
―記憶が完全には戻る事が無いのなら、どこまでがあの彩花なんだ?―
問いかけても答え等は出るはずも無かった。
俺の心の中を遮るかのように、無邪気な声が耳を刺激していく。大きな笑い声。
いつも見てきたはずの何気ない仕草、忘れられないあの柑橘系の香り。
全て彩花のはずなのに、疑おうとすれば全てそうじゃなくなって見えてくる。
今の俺には、彩花そっくりの誰かにも思えるようになってきた・・・。
それから俺はそんな気持ちを抱いたままにこの部屋でみんなと時間を共有した。
くだらない事を喋り合った。三年間の月日を取り戻すかのように・・・。
俺にとっては全てのものがもやのかかったようなものにしか感じられなくなってきていたのだが。
やがて、疑いや不安の気持ちは欠片も消えずに俺たちは夕飯があることなので帰ることにした。
彩花は酷く寂しそうだったが、こればかりはどうしようもないだろう。
そんな寂しそうな表情の一つすら、もう誰なのかが判らなくなってきている。
「それじゃ、またね彩ちゃん」
「うん。次来てくれた時はもっと思い出せてるといいなぁ。そうすればみんなともっと楽しめるじゃない?」
「そうだな・・・」
「そうとも、限らないさ」
まるで自分に言い聞かせるように俺は一言、こう言った。
「思い出さないほうが幸せな場合だってある。完全に思い出せなかったらそれほど哀しい事もない」
一言言い残したまま、俺は足早に病室を飛び出した。
唯笑と翔が追ってくる足音が聞こえてくるが、構わない。何より思い出せば出すほど彩花が不安でしょうがないのは俺だから。
だったら、思い出さないでほとんど空っぽのまま―
空っぽのまま・・・?何も知らない、何も覚えてない彩花を俺は彩花として受け止められるか?
無理だろうな、すでに彩花が彩花なのか疑わしいって言うのに。
そのまま病院を出て、自分の自転車にまたがる。行き先は決めていはいないが帰る気分にもなれなかったので、
気分のまま、想いのままに俺はペダルを踏みしめた・・・。
やがて適当な場所を右往左往しながらも、ある公園にたどり着いた。
そこは俺にとっては忘れる事の出来ない、出来るはずなど無い場所だった。

―四年前―
俺は彩花と二人で遊園地に行っていた。そのころから俺は彩花の事を意識してたせいで、
楽しさと気恥ずかしさと・・・とにかく色々な感情が渦巻いていた。
だが帰りに藍ヶ丘駅につくなり彩花はどこかへ用事があるといって行ってしまったんだ。
家は隣同士だし、今日はお互い遊ぶという他予定など入れていなかったはずだった。
突然焦燥感が俺を襲う。いや、何かを失うような喪失感だったかもしれないが・・・。
心拍数が急激に上がっていく。このまま別れたら二度と彩花には会うことが出来ない。
そう思った俺は走って走って藍ヶ丘のいたるところを探した。
そして、この公園に彩花はいたんだ。
「はぁ・・・良かった・・・」
失わないで良かったという想いからとっさに彩花を抱きしめる。もう、恥ずかしいとかそういうのは何処かへ消えていた。
「ちょっと智也・・・?」
嫌がるそぶりは見せなかった。半ば強引に俺に抱かれるまま彩花は言った。
「でも、嬉しいよ」
ゆっくり彩花から離れる。といっても距離にして五十センチも無いのだが。
「まったく、変な話だぜ?今日このまま彩花と別れたらもう二度と会えないんじゃないかって不安になってな。
 ったく俺たちはずっと一緒だろ?約束したの彩花なんだからな」
「智也・・・うん。私も、ずっと一緒にいたいよ・・・?」
「ああそれじゃ帰ろ―」
俺が彩花の手を掴もうとした時だった。
「あのね・・・?私ね?」
その時は彩花の様子が変だなとしか思わなかった。いつもストレートに言うくせにやけにじれったくて。
「智也の事・・・好きだよ」
あまりにも突然の告白だった。言われた俺も頭が真っ白になりかける。
「私じゃ・・・駄目だよね・・・」
「馬鹿」
今更そんなの言われるまでも無く俺の答えは決まっていたから。
「お前じゃなきゃ駄目だ。俺も彩花の事・・好きだ」
幼馴染の関係が当たり前すぎてお互いに想っている事をなかなか切り出せなかった。
「ふふ・・・やっと言ってくれたね?私怖かった。智也が好きじゃなかったらどうしようって。
 私、ずーっと待ってたの。だんだん智也も私を好きだって気付いたから。
 でも私、言い出す勇気なくて・・・待ちくたびれちゃうところだったんだ」
―俺はここで告白された―

この公園は俺と彩花がお互いの想いを確認しあって、スタートラインに立った場所だった。
想い出に導かれたのだろうか?彩花の事を考えているうちにここに来ていたみたいだった。
公園のベンチに腰かけてぼんやりと想い出を懐かしんでみると・・・
「とーもちゃんっ。やっぱりここにいた」
「ゆ、唯笑!?」
「この公園は智ちゃんと彩ちゃんの想い出の場所でしょ?やっぱり正解だったね」
「何で・・・来たんだよ」
「智ちゃん面会時間を聞いてくるって言って戻ってきてからずっと浮かない顔だったから。
 彩ちゃんの記憶が無いからすごい寂しそうな顔してたけど、もっと酷い顔してたもん・・・」
彩花絡みとなると鋭いな。その事だけはどんな冗談すら通用しないからな。
俺は隣に唯笑を座らせると、考えてた想い出をどこかへ振り払った。何で来たか大体判るし。
コイツにだけは話すべきだろうか、彩花の記憶が完全に戻らない可能性があると言う事を。
「彩ちゃん、このままずっと記憶が戻らなかったら・・・あの日の彩ちゃんじゃないんだよね」
「唯笑も同じ事考えてたのか?」
「智ちゃんやっぱりそんな事考えてたんだぁ」
なっ。
「かまかけたのか?」
「そーいうこと。でも唯笑も少しはあの日の彩ちゃんじゃないって思う時はあるよ?
 でも記憶が無くても何でも彩ちゃんは彩ちゃんだから。唯笑はそうやって信じてるから」
「やっぱ唯笑は強いな」
俺なんかと違って、ずっと。記憶だって封印しなかったしさ。
「彩花は彩花なんて信じられないんだ。何を信じていいのかもう判らないんだよ!」
彩花を求める俺と疑う俺がせめぎ合ってそれはやがて声となってしまっていた。
「え・・・?」
「想い出が無いんだぞ。俺たちと一緒に何処か行った事も何にも無いんだぞ?
 もしかしたら唯笑達の事だって思い出せるか判らないんだぞ!?
 記憶だって完全に戻らないって言うのに・・・それなのに信じられるか?」
「記憶が完全に戻らない・・・?智ちゃんどうしてそんな事が判るの?」
しまった、勢いあまって言ってしまった。一番言っちゃいけ無い事を。
言ってしまったんだ、言うしかないだろう・・・真実を。
いずれ時間を重ねれば判る事を・・・
俺は言われた事をほぼそのままに唯笑に説明をした。
そして最後に、あの日の彩花はもう絶対に帰ってこないんだ、と付け足した。
「だから帰ってきた後ずっと浮かない顔してたんだね」
「まぁそういう事になるな・・・」
「でも、唯笑は信じられるよ?」
真実を知ってもなお彩花は彩花だって言うのか?お前はやっぱり強すぎる。
俺なんかとは違うから・・・そうだ違うんだ。
「彩ちゃんは帰ってこないかぁ。確かにそうかもしれないよ?
 でもね、あの彩ちゃんだって私たちとずっと一緒だよ?彩ちゃんが約束したじゃない。
 ずっと、一緒なんだって・・・。」
「約束・・・か」
「うん。でもそれだけじゃないの。」
「それだけじゃない?」
「そう。だって思い出せる事はあの日の彩ちゃんの物だし、
 記憶なんて無くっても声も姿も一緒だもん。性格だって唯笑今日話して思ったよ。
 あぁ、やっぱり彩ちゃんなんだなって。
 記憶が無いだけで、彩ちゃんはそこにいるって判ったの。だからね?唯笑もう不安じゃないよ。
 智ちゃんも、ううん。智ちゃんが彩ちゃんの事信じてあげないでどうするの?
 彩ちゃんは智ちゃんが大切だからこそ智ちゃんの事だけは覚えてくれたんでしょ?
 それじゃあそれに答えなくちゃいけないんじゃないのかな?って唯笑は思うの」
唯笑にこんな事を言われるなんて思わなかった。だが、確かにその通りなのだろう。
「すぐにはああ、そうしなきゃ。なんて割り切れる事なんて俺には出来ない」
それでも俺ははいそうですねと受け入れられる状態でもなかった。不安が強すぎる。
「ちょっとずつ、でいいじゃない。だってあいつは彩花じゃない!なんて智ちゃんが思ったら、
 今こうして彩ちゃんが目覚めてくれた事まで否定する事になっちゃうでしょ?」
俺自身があいつを否定する事になるかもしれない。
覚えてくれた人が疑ってしまって記憶がある程度戻っても俺は疑っていたら・・・
更に俺の中に色々な恐怖が走る。恐怖という名の雨は俺を濡らしていく。
「智ちゃん・・・ごめんね?唯笑余計な事いって逆効果だったよね」
「いや、違うんだ。俺自身何が何だか判らなくてだな」
「大丈夫、きっと大丈夫だから。だって智ちゃんは彩ちゃんが大切だもん。
 きっと悪い方へなんていかないよ。うん、唯笑は智ちゃんも彩ちゃんも信じてるよ」
人を疑わないで信じる。いつもはそれが裏目(?)に出て俺なんかの冗談にすぐ乗るのだが、
今日ばかりはそんな唯笑の気持ちに幾分助けられた気がした・・・。
「それじゃぁ、唯笑行くね?」
「あ、あぁ。ありがと、な」
「無理しちゃ駄目だよ?それじゃぁまた明日」
そう言って唯笑は走り去って言った。俺はその背中を静かに見送っていた。
何処か辛そうなその背中を。
多分、あいつは俺を一人にしてやろうと思ったのだろう。
けれど俺の中ではその事に感謝するよりも唯笑にも彩花にもどうにもできない自分を嘆く事しかできなかった。
そのまま俺は家へと帰る。
珍しく家族三人がそろったと言うのに食事中に会話は無かった。
確か明日また二人とも家を空けるはずだった。
彩花の記憶喪失とか俺の記憶復活とか色んな事があるから。
だから珍しく帰ったって誰が何を言っていいのか判らない状態なんだろう。
沈黙が気まずかったので俺はさっさと夕飯を食い終えて、布団の中へ入ることにした。
寝る。それが一番だ。どうせ明日の朝からはあんな嫌な沈黙を感じなくていいし。
・・・おやすみ。

10/8(月)
半ば強制的に、というか逃げるように寝た俺だった。
そして目覚めると学校に行くには大分早いが制服に身を包む。
朝はまだいるはずだ。そう思ったからだ。
下へ降りると両親がいたが、適当に挨拶を済ませ冷蔵庫から手ごろな物を取り出す。
そしてそのままの勢いで俺は玄関に出る。
「いってきます」
「智也、ちょっと待て!」
「父さん?」
不意に声がかけられて驚いた。本人の前でさすがに親父、とは言えない。
そのまま逃げればいいものも、怒っているのとは様子が違ったので俺は足を止めた。
「これを」
そう言って差し出したのは、一冊のちょっと分厚いノートだった。
「これは?」
「彩花ちゃんが書いた日記だ。三年前に書いた日記らしい。」
「彩花が・・・」
「三年前家を整理してたら見つけたらしい。内容は読めば判るだろう。」
ここに三年前の彩花の言葉が書かれているのか・・・
俺は無言でその日記を受け取るとそのまま家を出ようとした。
「無理はするなよ?俺たちはこんなお前に何もしてやれないが・・・無理だけはするな。
 せめて一人で色んな事を考える時間にあててくれ。それじゃぁ父さんと母さんは行ってくるな」
そう言って父さんは家に戻っていった。俺もそのまま家を出る。
仕事柄あちこちをまたにかけなくてはいけない父さんの精一杯の言葉だったと思う。
「ふぅ・・・」
一度ため息をつくと俺はためらいもなくその日記をあけた。

1月1日
あけましておめでとう。うーん日記ってどんな事書けばいいんだろ。
まぁ書きたい事かいてればいいのかな?うんきっとそうだよね。
私は今年からこうやって日記を書く事にしました。
智也や唯笑ちゃんとの大切な想い出をこうやって残していこうって。
ってこんなの智也に見られたら恥ずかしいよぉ。そりゃ恋人同士でも見せられない。
まぁ智也は人の日記読むほど無神経じゃないけどね。あぁー今日はこんなもんでいいや!

一ページ目にして俺は凍り付いていた。そこには大切な想い出を残そうとしている彩花がいたのだ。
日記の中の彩花はこんな事書かなくてもいいことまで書いててほんとにあの時の彩花だった。
続きをめくろうと思ったが、俺はそれをやめた。
これに書かれているのは彩花の想い出そのものだったと思ったからだ。
だからその蓋を開けようとは思わなかった。そして今これを最も必要としている人がいるとも思った。
他でもない、書いた本人彩花だ。記憶を必死に探してるんだからこれほどまで助かる物も無いだろう。
一刻でも早くあの時の彩花を取り戻して欲しい、そう思ったからだ。

10/11(木)『過去って・・・』

それでも俺の学校生活は何も問題なく続いていた。
いつものように隣の音羽さんと雑談したり、唯笑をからかったり。
信とあほな事したり。そんな日常を繰り返していた。
信には彩花の事は言っていない。下手に言えばあいつすら傷つけることになるから。
そう思って俺は目覚めた事は何も言ってない。目覚めたとだけ伝えれば見舞いにいって記憶が無い事を痛感するだけだし。
ちなみに彩花のお見舞いには行っていない。そう、誰に会いに行ってるか判らない気がしたからだ。
だからと行ってずっと行かないつもりでもない。適度に・・・土日くらいは行こうと思ってる。
彩花の事を忘れないためと、気持ちに応えるためだ。どうにも、自分の気持ちに矛盾を感じる・・・。
唯笑に言われても、信じる事が怖い。唯笑と別の言い方をすると彩花の姿をした別の存在だからだ。
そんな事を考えながら、俺はまた屋上に来ていた。
何かがあるといつもここで風に当たる。だが月曜からはそれが日課に変わっていたのだ。
だが、今日はそれも違ったのだ。
「三上君。」
声のほうを振り向くとそこには音羽さんが立っていた。風になびくその髪がどこか儚く感じさせる。
「最近、無理してるよね。私に話かける時も稲穂君にも今坂さんにも双海さんにも、何処か無理してる」
「そんなことないって。ほら、気のせいだろ。なんていうか―」
「ほら、また。」
そうか・・・覆い隠そうとしている事ばれてたんだな、みんなには。
「私ね、こっちに来る前に恋人がいたんだ」
突然音羽さんは話を始めた。フェンスの先の遠く・・・引っ越す前の自分の町を見つめながら・・・
「いたんだって・・・過去形なのか」
「そうなるのかなぁ?かなり年上だったんだけどね。笑っちゃうでしょ?」
「いや別に笑う理由なんかないだろ?」
何故音羽さんは前振りも無しにこんな話をしたか、その意味が気になってしょうがなかった。
いや、前振りはずっと前からあったのかもしれない。屋上から遠くを見つめる儚い表情。
笑顔の裏に潜む、わずかな陰り。それらは全て過去を意味していたとしたら・・・・・・
「彼は映画製作のスタッフだったの。自分自身の夢が叶ったのが嬉しそうな顔をしていたの」
「夢・・・か。俺には夢なんてあるのかどうか・・・判らない。」
「私もそう思ってたの。だから彼がすごくまぶしく見えてた。付き合ううちにも彼はどんどん仕事が増えていった。
 かなえた夢を大きくしようとずっと頑張っていたのね。それが認められたんだと思う」
良い事じゃないか、それは。だが話す音羽さんの顔はうれしそうでも何でもなかった。
やはり過去形、つまり別れたからそんな顔をしているのだろうか・・・?
「三上君って正直だね・・・思ってることが顔に出てる。まぁだからこそこうして喋れているのかもしれないけど・・・。」
「まぁな。それより話の続き」
「うん。仕事が増えるって事はプライベートの時間が減るって事だった。つまり私と会う時間は減っていったの。」
「だから・・・か?恋人がいたって言ったのは。実はあえないだけだから関係がはっきりしてないだけなのか?」
「違うの。それでも彼は必死に時間を作ろうとしてくれたよ。自分の休みの時間すら削ってね。
 会う度にちょっと疲れた顔をしながらも、仕事の事を嬉しそうに話してくれた。ひたすら夢を語り続けてた。」
一瞬、地面に目を落としたかと思うとまた再び遠く―引っ越す前―を見ながら、音羽さんは大きく息を吸い、更に続けた。
「私が彼に夢にひたすらに頑張って欲しいって思えた。それまで一緒にいたい気持ちが強かったけどね。
 一生懸命な所とか、ちょっと疲れた顔とか色んなの見て思ったの。夢を追っかけていって欲しいなって。
 それから私は彼の事を思って夢に専念してもらえるようにした。専念できるように休みもしっかり休んでもらった。
 電話はしたけど、あんまり会う事は無くなった。でも、夢をかなえてほしかったから寂しいとは思わなかった」
「それで・・・すれ違ったのか?」
「それもあると思う。でもそれだけなら良かった。けどね、それは突然だったの」
そう言って音羽さんは俺の方向へ向き直った。その様子から俺も少し身構えてしまう。
「お父さんの仕事先が変わるから引っ越すって告げられたの。それも明日引っ越すって。
 言われたのが夜で、出るのが朝早くって言われた。もちろん私は嫌だって言った。
 彼に何も言ってないから。このまま出て行ったらもう会えない気がしたから。
 だから一日だけ待ってって言った。それでも取り合ってくれるはずは無くて・・・」
「俺たちと夏休みに会った時はまだ引っ越すなんて言ってなかったよな?」
「うん。ほんとはあの日も自分を紛らわせるために散歩してたの。彼の事でね」
明るくてちょっと乱暴な所もあるけど、本当の音羽さんはこうも儚くもろい感じがした。
今にして思えば折れないように気丈に振舞っていたのだと思うけど・・・。
「そのまま私はこっちへやって来る事になった。何がなんだか判らないままに転入する事になって。
 でも、三上君や稲穂君がクラスメイトだったのがせめてもの救いだったかもしれない。
 会ってほんの数時間だったけど、それでも下手な友達なんかよりずっと信頼出来たから。」
「信頼って言われると恥ずかしいけどな。俺も同じだな。クラスメイトとかより音羽さんのほうがどこか心許せる気がしたから」
「ふふっおかしいよね。それでね、この間彼から電話が来たんだ。引っ越してから一回目の電話。」
「何て言ったんだ?」
「彼は電話越しにこう言ったの。
『俺がかおるに時間を割けなかった事がいけないのか?
 かおるの事もちゃんと考えていたつもりなんだ。でもやっぱり足りなかったのか?
 もう俺の事はいいんだろ?だから何も言わずに出ていったんだよな』
 って言ったの。よくなんか無いって言おうとしたけど彼は更に続けたわ。
『俺じゃ駄目だから会ってくれなくなったのか?仕事ばかりして何も考えてなかったから・・・。
 ごめん、いきなりこんな事言って。俺はかおるがいなくても仕事をやっていけるよ』
 そのまま、電話は切れたわ。今でもこの言葉は鮮明に呼び起こせる」
恋人に別れも何もいえないまま、しかも誤解されたまま終わるなんて・・・哀しすぎる。
「でも、無理も無かった。だって私が夢に向かって欲しいって思えば思うほど、彼にとっては逆効果だったみたいだし。
 男の人からすれば大切な人がそばにいないのが一番辛いんだよね。」
音羽さんの最後の言葉がまるで俺の心を射抜くかのようだった。彩花がいるのに彩花がいない。
いてくれるのに、いない。そんな矛盾した状態を感じていたからだ。
「三上君・・・?」
「・・・俺の話は後だ。続けて、くれないか?」
「でも―判った」
何か言いかけていたが、俺の様子で何かを感じ取ったのだろうか?
「引っ越す前日、引越しが言い渡された時ね。お父さんに彼に一言だけって言ったの。
 そしたらお父さんは『もうあの人とは会っていないのだろう?』って一言だけ返してきた。
 何にも言えなかった。何にも・・・言い返せなくてそのままだったの」
「音羽さんはどうしたいんだ?」
「えっ?」
「お父さんがとかはどうでもいい。音羽さんはどうしたいか聞きたい」
「どうでもいいってそんな言い方っ・・・!三上君にはこんな経験無いからどうでもいいって言えるんでしょ?」
「あぁ、経験も無い。だからってお父さん何もそんな事言わなくてもよかったのにな、とか言えばよかったか?
 過去の事をどんなに並べた所でそれは変わることは無いんだ。何か行動をしなきゃ過去の価値観だって変えられないんだよ」
「過去、過去って、三上君は傷になるくらいの過去が無いから!!別れも言えなくて、誤解も解けなくて・・・
 夢を応援しつづけただけのはずがすれ違って・・・ただ一言、お疲れ様とか頑張ったねって言いたいのにそれも叶わなくて。
 いったい今日までどんな気持ちですごしたと思ってるのよ!三上君なら話をしてもいいと思ったのが間違いだったよ!!」
―三上君は傷になるくらいの過去が無いから―
この言葉をきっかけに俺の中で何かが熱くなり、そして涙がこぼれ落ちた。
憎いからとかじゃ、ない。音羽さんは何も知らない。それこそ俺が今日までどんな気持ちですごしたかも知らないだろう。
俺は傷を傷じゃないように閉じ込めていた。それもついこの間まで、だ。
その時の自分を、弱すぎた自分を責められるように何だか涙が溢れてきたのだ。
「この間、三年ぶりに幼馴染であり恋人でもあったやつが目を覚ましたんだ」
「ぇ!? 」
「このまま眠り続けるんじゃないかって思えてたから、無償にうれしくて仕方が無かった。でも違った。
 あいつは記憶が無くなってたんだ。想い出も何もかもが、リセットボタンを押されたかのように無くなってた。」
「うそ・・・でしょ?そんなの酷すぎるよ」
「嘘だったらいいよな。でも世の中甘くないどころかもっと最悪だった。
 医者に言われたよ。あいつの記憶は絶対完全には戻らないってね。ある程度戻ってもその程度。
 下手すりゃほとんど戻らないかもしれないんだって言われたさ」
「ごめん、ごめんね・・・ごめん・・・。私こそ三上君がどんな気持ちですごしたかなんて考えてなかった」
「ああまったくその通りだ。無神経にもほどがある」
俺はあえてこう言ってやった。あえて、突き放すために。ほんの一時だけだけれど。
「そんな言い方・・・あなたが過去に何があったか知らないけど、それだけで知った気にならないで!
 何が判るって言うの?三年ぶりに目が覚めておめでたいじゃないの!」
「・・・記憶が戻らないって事はあの日のあいつは帰ってこない。
 隣にいるのはあいつの顔をした別の人物だ。あいつ自身に会う事は二度と、
 一生かかってもあの世で会う事もかなわないんだぞ?」
怒りの目はやがて哀しみに変わり、音羽さんはフェンスにしがみつくような形になっていた。
「何を言ってもあいつは知らないし、想い出したとしてもつじつまが合わないだろう。
 俺は誤解を説く事すらできないからな。だから、それが出来る音羽さんは何をやりたいか聞きたかっただけだ。
 悪いな、傷つけるような事言っちまって」
「大丈夫。それを言うならお互い様・・・でしょ?
 そっか、三上君はいるはずなのにいないその幼馴染の事で悩んでいたんだね。
 ほんとはね?三上君も何か過去に抱えてるかなって思ったからこの話聞いて欲しかった。
 三上君にちゃんと話したかった。こういうと変だけど彼と三上君が似てたのもあったから。
 私みたいに身近な人がなって欲しくなかったの。そう思ったはずなのに・・・」
なんだか音羽さんが信に見えてきた。罪だの償いだの言ってたころの信に・・・。
「はぁぁ。だから気にするなって。音羽さんはどうにかできるんだからさ?」
「うん・・・そうだね。どうしたいって言われても決まってる。ちゃんと頑張ったねって言ってあげる。
 今までありがとうって。私も私の道を生きるって・・・」
「私も私の道を生きる・・・か。」
「三上君の話聞いたらやっぱりそうしなきゃって。出来ないのとやらないのじゃ意味が違うからね。
 励ますつもりが勇気づけられたね。ありがとっ」
ふぅ。とりあえず音羽さんのほうは解決したみたいだ。いや、解決に向かったかな。
「でもじゃあ、三上君はどうしたいの?」
俺の問題は、何も解決されてはいない。いやそれどころか音羽さんに話して痛みを分かち合う程度なだけだ。
「判らない。あの時の彩花に帰ってきて欲しいけど、今のあの彩花がいなくなったらもう耐えられない。
 また記憶を封印するんじゃないかって思えてくるな。かといって過去・・・想い出を振り切って今の彩花と向き合うのは・・・」
「また記憶を封印って・・・この前みなもちゃんがどうとかでみんなで相談したけど、
 もしかしてその引っかかる事がその幼馴染の事だったの?」
何でこう、女って鋭いのかななんて思ったりもするが今更慣れてるのでコメントする気もなかった。
「そうなるな。お見舞いに行くと、あいつの気持ちに応えられないんじゃないかって逆に不安なんだ。
 あいつ俺の事だけは覚えていたんだ。でも俺は全てを共有したあの頃を求めてる。今と昔を求める気持ちですれ違ってんだよ」
「やっぱり桧月さんの事か。うすうす感づいていたんだけどな・・・立ち聞きするつもりはなかったがちょっと聞こえたんでな」
声のほうを振り返ると、今にも崩れてしまいそうな表情の信が立っていた。
話に夢中で二人ともドアが開いた事も気がつかなかったようだ。
「音羽さんが智也はどうしたいんだって所から聞いてる。俺も話に混ぜてもらうが構わないな?」
「あぁ。かおるもいいだろ?」
「え、ええ!?」
かおるが声をあげている。なんか俺変な事いったか?
「どうしたんだ?かおる」
「ま、また。三上君、いきなり名前で呼ばないでよね」
あっ。自分でも無意識で気がつかなかった。
ついさっきまで音羽さんって呼んでたはずがかおるって呼んでいる。
「あーえっと。今までどおりのほうがよかった?」
「え?う、ううん。別に迷惑じゃないし、名前で・・・いいよ」
みなもの時と同じ・・・か。気がつけば俺の中で何か共有や認めた意識が強くなったんだと思う。
「やれやれ。智也もなかなかやるねぇ」
と、そんな様子を茶化してくる奴が一名ほど。
「馬鹿言うなよ!ったく・・・」
「言ってろ。それより桧月さんの話は本当なんだな?」
信の表情が変わった。やはり、自分の過去の一部でもあるのかそれ相応の覚悟はした目だ。
「あぁ。嘘ついてもしょうがない。あいつは記憶が無いまま目覚めたよ」
「ならなんで教えてくれなかったんだ」
「お前、空っぽな彩花を見たいのか!?見たって傷つくほうが大きいだろ。
 ならせめて記憶がある程度戻ってからの方がいいと思ってな。」
「三上君、一人で何でも背負い込もうとしすぎなんじゃないの?」
「そんなつもりは・・・」
「無くとも事実してるだろ?俺たちが傷つかないようにっていって結果お前がかなり傷ついてる。
 お前の事もそうだったな。無理して自分だけで記憶を知ろうとしてたからよ。」
確かにそうだ。結果的には信の言うとおりで迷惑のほうがかかっている。
でもだからって彩花の事を信に言えたかどうかとなるとそれまた別の話だ。
「俺はな、お前の想い出を一時は破壊したとまで思って生きてきたよ」
「い、稲穂君?どういう意味―」
「そのまんまさ。桧月さんの事故現場に居合わせておきながら結果はこの通り。
 三年も眠ったままだったってわけだ」
「そんな・・・酷すぎるよ!」
信の事は何も知らないかおるだけがそういった。
「かおる、やめてくれ。信を責めるのはやめてくれないか」
「ううん。そうじゃない、目の前で事故が起こってしかも三年も眠り続けて二人は親友で・・・。
 酷すぎるって思わない?それに三年前っていうと中学生でしょ?そんなの見て平気なはずないよ」
「運命って言葉を借りるなら最悪だろうな」
信が一言だけそう呟いた。運命だとしたら、確かに最悪だ。
でも生きているだけ悪くても最悪じゃないかもしれない。
「それでも俺たちがこうしていられるのは最悪だとは思ってないぜ?
 それに智也には悪いが桧月さんは生きてるのも紛れもない事実だろ」
違う。彩花は生きてるとは言えないんだよ、信。
「彩花はあの日確かに死んでしまったんだよ。記憶が完全に戻らない。
 血が足りないせいで脳細胞も壊れたらしい。記憶を持つ細胞もな。」
「・・・」
事故現場で記憶が紅に染まるほどの思いだった信にとって、
自分のせいだとか思っているのだろうか。
それとも事実にただショックを隠せないのだろうか。信はただ何も言わずに佇んでいた。
「つまり、あの日の彩花は帰ってこない。部分的にいる彩花も、
 新しい彩花が持つ記憶の一部でしかないんだよ。
 あれは彩花の姿をした別人なんだ。」
「いるはずなのにいないなんて・・・そんなの辛すぎるよ」
かおるの言うとおりだった。これならいなくなって想い出に生きる方がまだマシかもしれない。
「けどよ」
口を開いたのは、信であった。
「その時のままの人なんていないんだ。人は毎日思い出を得るだろう?
 人は変化する。その過程で覚えたり忘れたりを繰り返すんだ。」
確かにそうだろう。けど彩花は変化したんです、なんて一言で済まないだろう。
「・・・俺の事ほとんど覚えてなかったんだぞ?あいつは」
「確かに大切な人に忘れられる事は辛いだろう。なんて他人事でしか言えないけどな。
 それでもお前の事、桧月さんは覚えていてくれたんだろう?」
「名前も何も覚えてなかったけどな、存在はちゃんと覚えていたさ」
「なら、それでいいじゃないかよ」
それでいいって・・・そう簡単に言うなよ・・・。
「私も稲穂君の言うとおりじゃないかなって思うよ。
 三上君の事を覚えていてくれた。それだけの事でしょ?
 つまり、完全には戻らなくてもゼロじゃないよ」
「ゼロじゃない・・・」
何故だかその言葉が俺をきつく攻撃していた。何か掘り起こすように。
「たとえ何にも覚えていないとしてもな、結局出来る事は限られてるんだ。
 過去にすがり続けるか、今を受け入れて生きるか。
 踏み込むならどこまでも踏み込めばいいさ。でもな、覚悟も何も無いならやめればいい。それだけだ。」
俺は唇を噛んだ。恐らく表情は複雑な顔つきになっていることだろう。
「桧月さんはお前の事を覚えてた。お前は過去の桧月さんを求めてる。
 でもな、お前だって判ってるんだろう?過去は過去でしかないって事くらい。
 お前はただ記憶が無い桧月さんに自分が本当に大切な人かどうか怖いだけなんだろ?
 何が何でも踏み込んでやれ!!やめるという事ほど哀しい事は無いんだからな。そうだろ?」
信の言葉は的確で、それでいて嫌味な所が無くて、純粋に俺の心に響いていた。
「三上君、私も彼に言わなきゃならないこともう迷わないよ。
 だから三上君も、その大切な幼馴染と悔いが残らないように頑張って!!」
「ああ、やってみる。」
まだ吹っ切れたわけではないけれど、どうにかなる気がしてきた。
この恐怖や不安を拭える気がしてきたからだ。
「それじゃぁさっそく彩花のところへ行ってくる」
「お見舞いか?」
「ああ」
「ふふふ、行ってらっしゃい」
俺はかおると信に見送られながらお見舞いへ急いだ。学校からなら電車を経由して歩いた方が早いな・・・。
やがて目的地へたどり着く。もはや慣れた足取りだった。
受付で神坂さんを呼び出して、後は彩花の部屋まで病室まで行くだけだ。
「あぁ、待って智也君」
ん、もうこの間みたいな話は勘弁してもらいたいところだけど・・・
「彩花ちゃん、明日退院なのよ。」
「本当ですか?」
「ええ。ちょっとばかり寂しい気もするんだけど、嬉しい限りね。
 確か家は智也君の隣って彩花ちゃんの両親に聞いたけど・・・。」
俺の隣に、彩花が来る?
あの時と変わらない日常が戻ってくるのか?記憶はなしとも。
「智也君、彩花ちゃんの事お願いね?」
「ええ、言われなくても大丈夫ですって」
「これで私も安心できるわ・・・ほら、早く行ってあげて」
俺は言われるがままに彩花の元へと向かった。
病室の前までたどり着くと俺は鞄から一冊のノートを取り出した。
彩花の日記だ。お見舞いになんて来てなかったから渡す機会が無かったんだ。
よし、はいろう。そう決意すると俺はドアノブに手をかけ・・・
ガチャッ
静かにその扉を開いた。
「よっ。彩花」
「智也?もー来てくれないかと思っちゃったよ」
―智也?このままずっと来ないのかって心配しちゃったよ―
彩花の言葉がだぶって聞こえた気がする。あの時と変わらない様子の彩花のその声のせいだろう。
「学校大変だからなぁ。ほら、これ。メロンの代わり・・・でもないけど」
「この本は・・・!?」
「お前が書いた日記だよ。手がかりになるんじゃないかって思ってさ。父さんから預かったんだけど」
「ありがとう。でも明日からは智也とまたお隣同士じゃない?」
ん?今『また』って言ったな。
「そうだな。朝目覚ましが必要じゃなくていいか」
「うんっ。毎朝窓からはいって起こしてあげちゃうんだからっ!・・・あれ?」
多分彩花が感じたものは俺と同じ事だと思う。
「なんか思い出せてるね、私」
「まぁ良いことだろ?」
「うん。ほんとに朝起こしに行くからね」
なんだか一瞬だけ昔に戻った気がした。でも思い出したのは朝の事だけで。
やはり俺は複雑な思いにかられたままだった。過去か今か。踏み込むならとことんか・・・。
彩花は真剣に自分自身の日誌を読んでいた。その光景が少しおかしかったりもしたけれど、
その様子はやっぱり彩花だなって思えた。
あまりにも真剣だから、俺は邪魔してる気持ちになってきた。なので俺は今日は帰ることにした。
「彩花、日記読みたいだろ?どうせ明日から隣同士だし今日は帰るぞ」
「あ、うん。ありがとねっ。ちゃんと勉強しなきゃ駄目だよぉ?」
「ん?あぁ大丈夫だっての。」
そのまま俺は病室を出る。自分の中でも複雑な物だった。
思い出している彩花は素直に嬉しかったし、彩花だって思えた。
でもちょっと時間がたてば、それさえも不安になってくる。
しかも明日からはお隣同士である。本当ならいつもと同じはずなんだけど。
俺は彩花を選んでいいのか。悩みの根っこはこれだった。
失ったはずの物を選んでいいのか。ただそれだけの恐怖。
逃げていた俺。そして以前過去の彩花を求める俺。
だからこそ、怖い。あの彩花の気持ちに応える事、求める事が。
けれど悩んでられる時間なんて本当はほとんどなかったんだ・・・

最終章へ続く!!



あとがき

いやぁ、ついにここまでたどり着いたかと思うと不思議な思いでです(笑)
いよいよ次章は最終章ですからね。
かおるの過去の告白ですが、何故あんな事を言い出したのか?
話す事で自分も智也と何かを共有したかったのです。
認めたい、認めてもらいたい。何かの救いになればと思い話をしたのです。
信も立ち聞きしちゃうタイミングが良すぎですね。悪すぎとも言いますが。
では最終章、色々な事が起こります!お楽しみに!



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