黒子魔道士
ミストフェンリル

絶望と幸福と


「ねえ、ミル?」
 サリアはミルに声をかけた。
 故郷‐ビニアス‐を出てから既に二日もの時間が過ぎている。
 その間、彼女は今までの生活では決して味わえないような経験を何度か体験した。
 それらはミルにとってはもうどうでもいいことだ。
 だが、旅が初めてのサリアにとって旅というものは全て驚きに満ち溢れていたのだった。
 そして、旅を続けていくにつれてサリアにはとある疑問が浮かび上がっていた。
「何?」
 ミルがサリアの方に顔だけを向ける。
 この日も何時間も歩き続けていた訳なのだがその様子でまだ休憩にする気はない、ということを知ったサリアは多少意気消沈しながらも本題を投げかけた。
「今あたしたちって村に向かってるんだよね?」
「そうだけど」
 だからどうしたの?といった感じで言葉を返すミル。
「そこってどういうところなの?」
 そんなサリアの質問に何をいまさらと思ったのかミルは笑って答える。
「さあ?」
「さあ? ってなによ。少しくらい教えてくれたっていいじゃない」
「う〜ん、教えてあげたいのはやまやまなんだけどね」
 ミルが答える。
「……まあ、説明しなかった僕が悪いんだろうね。少し休憩しようか」
 ミルが辺りを見渡す。
 太陽はもう沈み始めているが、まだ暑いことに変わりはない。
 彼は少し離れたところに木々を発見し、サリアにこう言った。
「とりあえず、あそこに行こう」
サリアもその提案に賛成する。
「うん、分かった」
 サリアはミルの休憩宣言のおかげで先ほど失った多少のやる気を取り戻し、ミルが指定した木の場所に向かう。
そこはサリアのお気に入りであったあの森に少しだけ似ている場所だった。
 その為、サリアは少しだけ故郷に恋しさを覚える。
「サリア。今もしかして村のこと考えてた?」
 そんなミルの言葉を聞いたサリアは恥ずかしそうに首を縦に振る。
「まあ、旅人も初めのころなら誰だってそうなると思うよ。僕自身もそうだったしね」
 ミルは笑いながらそう言った。
 そんな様子の彼にサリアは、
「皆そういうものなんだね」
 と言ってみた。
 サリアはもう一度辺りを見渡す。
 先ほどは懐かしさのあまり気づかなかったが、何本か木が倒れているのを発見した。
 ミルはサリアにつられて辺りを見渡し、それから彼女にこう言った。
「ちょっと待ってて」
 それからミルはサリアに離れるよう指示した。
 サリアは彼の命令に従い少し離れると、ミルは腰からナイフを一本取り出した。
そして先ほど彼女が発見した木に向かって歩き始める。
 何をするんだろう?
 サリアは疑問に思ったがそれを口に出したりはしなかった。
 別に今聞かなくてもいい。
 答えはすぐに分かるであろうから。
 ミルは倒れている木々を一通り見てから、一本の木に目をつけた。
 その様子からして、サリアはミルが無差別にその木に狙いをつけたのだと感じた。
 彼はその木の上にナイフを突き立てる。
 そして………、
「え?」
 サリアは思わず声を上げてしまう。
 ミルの手に光が現れた。
 光はミルの手から離れずに、徐々に大きくなっていく。
 それを確認したミルはその光をすべてナイフに注入し、ナイフをそのまま突き刺した。
 すさまじい轟音。
それとともに、木はまるで小枝のように折れる。
 鍛え上げられた国の兵士でさえ、切るのには数十分を要してしまうのではないか、と思えるような木をミルはたった数分で真っ二つにしてしまったのだ。
「すごい……」
 サリアはそう言う事しか出来なかった。
 これがミルの力。
 あのカリスを倒した彼の力の一部なのだ。
 そう思うと、彼女は凄い人間と旅をしているのだ、ということを実感せざるを得ないのであった。
「すごい、けど…」
 サリアは思った。
「何であんなことやってるんだろう?」
 木を真っ二つにして、一体何をやろうというのだろうか?
 そもそも、あたし達は休憩をするのではなかったのか?
 そして、先ほどのあたしの疑問に答えてくれるではなかったのか?
 サリアは一度ミルから目を離し、それらについて考え始めた。
 しかし答えなどでる筈がない。
 だからこそ彼女は、
「まあ、それも後で分かるか」
 そう結論付け、再びミルの方を向きなおした。
 ミルは切った片方を何度か同じ方法で切り、きりたぶ程の大きさにしてからそれらを持ってサリアのところにやってきた。
「はい」
 それを渡してきたミルにサリアは一応感謝の気持ちを表してから尋ねる。
「うん、ありがとう。けど、これ何?」
 サリアの質問にミルは分からないの? といった表情を浮かべる。
 そして、
「椅子だけど。気に入らなかった?」
 ポツリとそう答えた。



 普通恐ろしいほどの戦闘能力を持つ人物がその力で椅子なんて作るものなのだろうか?
 サリアはそう思う。
しかし、そう思っているのに関わらず彼女は彼の作った椅子には座っている。
(仕方ないわよね、だってミルだもん)
 そう思い込まないと、彼のギャップに戸惑いを隠すことなんて出来やしない。
 それが現時点での彼女の結論だった。
 だが、いくらなんでもそんな理由で納得したのではミルに失礼なのではないか? といった疑問が浮かんだ。
 だからサリアは一応ミルにそのことについて尋ねてみることにしたのだった。
「ミル? あのね、魔法って生活レベルで使っていいものなの?」
「どうして?」
「だって、あの魔法は戦闘用のものじゃないの? それをこんな危険も何もない場面で使うことないじゃない」
 サリアの質問にミルは少しの間だけ考える仕草をして、こう答えた。
「サリア、ビニアスに曲芸をする人がやってきたことはあるかい?」
 何をいきなり、と思ったサリアであったが、何か意図があるのだろうと思い、その質問に答えた。
「たまに来たわよ。お手玉をしたりする人たちでしょ?」
 その答えに満足のいくものがなかったのか、ミルは少し弱ったといった調子でこう言った。
「剣で空中に投げた野菜とかを斬ったりする人はいなかったの?」
「あぁ、一度だけ来たわ。すごいわよねぇ、ああいう人って」
 その答えにようやく満足したのか、彼は続けてこう言う。
「僕のあれもそれと同じようなものだよ。とはいっても、僕の場合お金は取らないけどね」
 そう言ってミルは笑う。
「ふ〜ん、そういうものなの」
「ああ。大体最近の魔道士は戦闘用の魔法のことしか考えない。そういうのは何だか違うと思うんだよね。戦いの前にまずは生活に役に立つものが必要だと思う」
 ミルの意見にサリアは同意する。
「まあ、確かにそうよね。そもそも民あってこその戦いだもの」
「そうそう。分かってるじゃないか」
 ミルの褒め言葉にサリアは少し照れた様子でこう答えた。
「た、たまたまよ。たまたま」
「それでも、そう思える人は少ないと思うよ。皆戦いに関しては黙認してる訳だしね」
「そうよねぇ。それに関してはあたしも同意するわよ。」
サリアはうんうん、と頷く。
「ま、結局ところ戦いなんてするものじゃないっていうのが結論なのかな」
「そうね。確かにそうすればミルの両親は……」
 言ってからしまったと思う。
「あ、ごめん。ミル」
 ミルの方をおずおずと向くサリア。
「……いや、大丈夫だよ。うん、僕は問題ない」
 そうは言うものの、彼の表情が硬くなったことに変わりはない。
 しばしの沈黙。
 その場の重い空気が彼女にまとわりつく。
 彼女はそれをなんとかしようと、思いつくままに口に出してみた。
「ラーメンセット」
「…………」
 駄目だ、失敗した。
 サリアは頭を抱えて、何かいいアイデアを考える。
 何か……そう、とてもナチュラルで素晴らしいアイデアは?
 考えれば考えるほど意味不明な単語が頭を過ぎっていく。
 もういい、こうなればやけだ!
 サリアはもう一度思いついたままの言葉を口に出した。
「お、おはこんばんちわ」
「………」
 ミルの表情は変わらない。
 そのプレッシャーに対してサリアは…、
「……が、がお」
 その瞬間、ミルの腕が動いた。
 ポカッ!
「いたい、なんで殴るかな?」
「……よく分からない」
 そんな彼の言葉にため息をつくサリア。
 しかし、重かった空気が少しずつ薄れていくのをサリアは感じていた。
 よかった。
 ビニアスでミルと喧嘩をした時の二の舞は御免だった。
「そういえば、質問に答えてもらってなかったわね」
「ん? 何のこと?」
 ミルは本当に分からないようだった。
「次の村のことを何故教えてくれないのか?」
 あ、と口にだすミル。
「…そういえば、そうだったね」
 ごめんごめん、と彼女に誤りながらも質問について答え始める。
「何故僕がサリアに村のことを教えないのか」
 答えを待つサリア。
 彼女の周りには既に重かった空気が元通りになっていた。
 彼は笑顔でこう答える。
「答えは僕も知らないから。つまり、行った事がないからだよ」
「え!」
 思いもよらぬ答えに、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべる彼女。
「でも、だったらどうしてそこに村があると分かるの?」
「それは、他の旅人に聞いたから。旅人っていうのは何も自分で適当に歩くだけの存在じゃない。他の人に南にはこんな村がある。北にはそんな村、というようにいろいろと尋ねて村を渡り歩くものなんだよ」
 ミルはその後に、まあ、例外もあるけどね。と付け加えた。
「ふ〜ん」
 それを聞いたサリアは今までビニアスに来たことのある旅人の様子を思い浮かべた。
 確かに彼らは村人に村のことを聞いたり、話したりしていたような気がする。
「そういうことなんだ」
「うん、だからこそ僕はそこがどんな村かは知らない。もちろん、聞いたわけだから、村の雰囲気などは一応聞いたことに違いはないのだけれど…」
「自分で行った訳じゃないから、その真偽は定かではない。ってこと?」
「そういうことだね。と、そろそろ行こうか。もう大分疲れも取れたでしょ?」
 そんな彼の言葉にサリアは首を縦に振る。
「それじゃあ行こうか」
 彼は椅子から立ち上がる。
「この椅子は置いていくの?」
 そんなサリアの質問に彼は、
「置いて行くよ。ここに休憩に来た人たちにもこれを使ってもらいたいしね」
 そう言って笑った。
 それを聞いたサリアは思った。
(これを椅子だと思える人は一体何人いるのかしら?)と。



「はぁ」
 サリアはため息をついた。
 昼はあんなに暑かったのに、今のこの寒さと言ったら何なのだろう?
「寒い?」
 ミルが尋ねる。
「言わなくても分かるでしょ」
「う、うん。まあね」
「じゃあ聞かないでよ……あ」
 呆れたサリアであったが、ふと空を見て思わず絶句した。
 日は完全に落ち、既に月が空にあった。
 暗闇が空を支配する中、月の光が彼らを照らす。
 それは太陽の力強さとはまた違う、とても神秘的な光。
「月、きれいね」
 そのサリアの言葉にミルは少し笑いながら答える。
「そう? 僕はもう飽きちゃったかな」
「でも、旅に出たての頃はきれいって思ったでしょ?」
「う〜ん、あの時は月なんて見る暇がなかったよ」
 ミルは頭を掻きながらそう言った。
 サリアもそれ以上はあまり関わるべきではないと思ったのか、それ以上は深く話を展開させなかった。
「そっか。ん? ねえ、ミル?」
 サリアが指を指す。
 その方向にあったのは火。
 たくさんの火がその辺りを明るく照らしていた。
「ああ、村だね」
「それじゃあ、あそこが?」
 サリアの問いにミルが答える。
「そう、あそこが目的地だね」
 サリアにとっての初めての村。
 今までの移動も旅という感じが出て良かったが、ついに他の村に辿り着くことが出来たのだ。
 そのことに、サリアは喜びを隠すことなんて出来なかった。
「やったねミル!」
「……うん、そうだね」
 喜びで周りが見えなくなっていたからだろう。
 サリアは気づかなかった。
 ミルの表情にほんの一瞬闇があったということに。
 村に入ると、まずミルは辺りを見渡した。
 そして一言。
「三日くらい置きっぱなしにした水っていう感じかな?」
「どういう意味?」
 サリアの質問にミルは笑うだけで答えはしなかった。
「さて、まずは宿を探そう。それで今日は寝る。村を見て回るのは明日から。分かった?」
「うん」
 二人は宿を探す。
 宿の看板を探すミル達。
 サリアも何故初めに宿に行くのか? などということは聞かなかった。
 サリアも一応宿屋の娘なのだ。
 だからこそ、宿の重要性については分かっているつもりだった。
 旅人という職の人間は村に入ったらまず宿を探す。
 それは早めにその村での拠点を作っておかなければならない、ということだ。
 これが少しでも遅れるとそれは人で溢れる、すなわち泊まれなくなってしまう可能性が否定できない。
 そうなるともう野宿しかないのだが、それは危険極まりない。
 無防備の状態で寝ているのでは盗賊に金を盗んでください、もしくは殺してくださいとでもいうようなものだ。
 それは旅人にとっては絶対にあってはならないことなのだ。
 実際、ビニアスにもたくさんの旅人が宿を訪れていたのだ。
 サリアもこの論理については自信があった。
「ここだね」
 宿は数分で見つかった。
「ああ、そうだね」
 サリアの言葉にミルも頷く。
「それじゃあ、入ろうか」
 こうして、彼らは初めての村での、初めての一日を過ごしたのだった。



 薄い霧で覆われた広場。
 ミルはその場で立ち尽くしていた。
 目の前には噴水があり、辺りには親子、カップル、子供たちなどが各々の時間を過ごしていた。
 そして彼の隣には小さなサリアがいる。
「ねえ、ミル? 何して遊ぶ?」
 その言葉にミルは笑顔で答える。
「今日はサリアが決めて良いよ」
 前日はミルが決めたかくれんぼをして遊んだという記憶があったのでこの日はあえて、サリアに決めさせることにしたのだ。
 そんなミルの返事にサリアは上機嫌になったようだった。
「本当? やったぁ! それじゃあね、それじゃあ……うんと…」
 サリアは必死に何をするべきかを考えている。
 その仕草はとても可愛らしく、ミルはそんな彼女を見ていて、少し見惚れてしまう。
 日はまだ昇りきっていない。
 まだ小さい彼らにとってはこれからが本番だ。
 空に赤みが増し、そして暗闇が全てを支配するまで二人はずっと遊び通す。
 だからこそミルの願いは一つ。
 いつまでも太陽が沈みませんように、だった。
 そうすればいつまでもサリアと遊べる。
 そうすればこの日常を維持することが出来るのだ。
「決めた! ミル、あたしとおままごとしようよ」
「分かった。それじゃあ今日はそれで遊ぼう」
「うん、えっとぉ。それじゃああたしはミルの奥さんね。それでミルは…」
 二人はずっと笑顔。
 それを崩すことはなかった。
 何故ならここは想い出の世界。
 想い出は美しいもの。
 つらかったことを消しさり、楽しかった日々だけが残ってしまうのだ。
 汚いものはその世界から排除され、想い出は永遠の楽園となる。
 しかし、ミルは知っているのだ。
 この楽園はもうすぐ終わりを迎えるということに。



「ん?」
 太陽の光で彼は目を覚ました。
 未だ意識がはっきりとしない為、風にでも当たって目を覚まそうと彼は窓を開ける。
 風がミルの髪をなびかせる。
 それにつれて、ようやくミルの意識は覚醒された。
「どうして今になってあの頃の夢を?」
 ミルは今朝の夢について考えた。
 あれは紛れもなく、過去実際に起こった出来事である。
 決して妄想などではない。
 夢で過去に起こったことを思い出すだなんてこれが初めてだった。
「う〜ん、サリアと旅に出たからかな?」
 サリア。
 その単語に何か引っかかった。
 ふとサリアの方を見る。
 ミルの寝ていたベッドとは別のそれにサリアは寝ていた。
 起きる気配はまったくない。
「はぁ」
 ミルはため息をつき、彼女を起こす。
「サリア? ねえ、サリア!」
「ん? お父さん、まだ寝ててもいいじゃない…」
「寝ぼけてる。まったく」
 ミルはため息をついた。
 窓がカタカタと風で震える。
 それはまるで風がミル達を見て、苦笑しているようであった。



 サリアは目の前の光景を見て、立ち尽くしていた。
 そこにいるのは、幼き頃のサリア。
 彼女はたった一人で外を歩いていた。
 その表情は終始笑顔で、サリアはこの後とても楽しいことでもあるのだろうということを察した。
 彼女はずっと歩き続ける。
 サリアもその後についていく。
 その途中で、サリアは何か音が聞こえることに気がついた。
 とても小さい音。
 これは……人の声。
 その声はどこから聞こえるのか?
 声の出所を探るサリア。
 その発信源は目の前の幼きサリアだった。
 彼女のとても小さく、か細い旋律がサリアの耳に響く。
「想い出は永遠…全ては夢の特権…夢は天の救い…救いは神の御加護…」
 そんな歌詞が彼女の耳に残る。
「永遠、夢、救い、神」
 サリアはそれにつられてついそう言ってしまう。
 その直後、目の前の少女が後ろを振り返り、
「傷は……神が塞ぐ…全ては…神の力」
 そんな言葉を放った。
 ここでサリアは疑問に思った。
 これは、一体何だ?
 こんな歌あたしは知らない。
 ここは夢ではないのか?
 夢は自分の知っていることしか出てこないのではないのか?
 しかし、だとしたらここは一体……
 そこで彼女はとある結論に辿り着いた。
(もしかして、覚えてない?)
 だとしたら、この歌は一体?
 彼女は先ほどの幼き彼女の歌を反復する。
「傷は……神は…」
「…リア? サリア!!」
 その時天からサリアを呼ぶ声が聞こえてきた。
 サリアは天を見る。
 そこから現れたのは光。
 光が徐々に世界を包み込む。
 サリアはその光に包まれていくのを感じた。
 だが、不快感はない。
(なんだろう、この光。まるで……)
 これこそが神の救いのように思えた。



「ん?」
 目を覚ました彼女が一番初めに見たのは、目の前にいたミルだった。
 彼はサリアを揺さぶっていた。
「サリア、起きたの? もう朝なんだけど」
「え?あ、うん。ごめん、少し寝坊しちゃったみたい」
 彼女がそう言うのを聞いてミルは心配そうに尋ねた。
「大丈夫? 何だかうなされているみたいだったけど」
「うなされる?」
「うん。嫌な夢でも見た?」
 サリアはよく分からない、といった表情で夢の内容をミルに話した。
 その内容を聞いたミルは、少し考える仕草をしてからゆっくりと口を開けた。
「魔族も含めて僕達は心に深く傷を負うことがある。その傷を癒すのにはどんな人だって時間がかかるんだ。分かるよね?」
「うん」
「その時、人は妄想…いや、夢の世界に逃げ込んでしまう。夢という名の幻想は人を癒してくれる」
 ミルの話した内容をサリアは感覚で理解した。
「心の逃避は決して、いけないことではない。むしろ、誰もがやることなんだよ。恐らく、夢は天の救いというのはこういうことを言っているんだと思うよ」
 夢の断片的な記憶を話しただけでこれだ。
 サリアはミルのことを素直に賢い人間なのだと思えた。
「ただ、“神”というのが分からないな。僕も覚えてないことから考えてそれはサリアの記憶から出てきた単語ではないはずだから」
「この言葉には何か意味があるってこと?」
「そうだろうね。けど今の状態じゃ多分何も分からないと思う。と、そろそろ出かけたいんだけどさ、大丈夫?」
 ミルはサリアの様子を伺いながらそう尋ねる。
 ミルに心配をかけてしまった。
 そう思った彼女はそれを打ち消すかのように、元気よく答える。
「大丈夫大丈夫。それじゃ、着替えるから少し待ってて」
 それを聞いたミルは少し安心し、分かった、と答えドアを開け、部屋の外に出て行った。



二人は宿の受付に向かっていた。
ミルは宿主の前に立つと鍵を見せる。
「出かけるので、鍵を預かって欲しいのですが」
「あぁ、はいはい。分かりました」
 そう言って、彼の鍵を手渡される宿主。
 サリアはそう言ったやり取りをミルがしている間、辺りを見渡していた。
 彼らがいた部屋以外は特に人のいる形跡は見当たらない。
 つまり、この村にあまり旅人はいないということなのだろうか?
 彼女はそう判断しようとした。
 だが、そんな彼女がふと宿主の横を見たとき、その結論は一度考え直さなければならなくなった。
「あの」
 サリアが宿主に話し掛ける。
「ん、なんだい?」
 愛想良く訪ねる宿主。
「そこの扉には誰かあたし達の他に旅人がいるんですか?」
 サリアは宿主の横を指差す。
「ああ、そこね」
 宿主は苦笑しながら質問に答えた。
「そこにはね、ぼくの姉が住んでいるんだよ。一応義理の姉なんだけどね」
「へぇ、そうなんですか」
 サリアが納得すると宿主は呆れたようにこう言った。
「人前に出るのがあまり好きじゃないみたいでね、ぼく以外の人には会いたがらないんだ。まったく、困った姉さんだ」
「でも、それだけ頼りにされてるってことじゃないですか」
「そういうものかな?」 
 と、笑いながら言う宿主。
 その笑顔はとても人懐っこくて、彼は悪い人間ではない、と彼女は判断した。
「サリア、もういい?」
 ミルが多少不機嫌気味に尋ねる。
「あ、ごめん。それじゃあ」
「はい、いってらっしゃい」
 宿主の優しげな言葉にサリアは笑顔で手を振った。



 外に出てみると、景色が広がる。
 昨日は夜だったのでよく分からなかったが、今だとここがどういう村なのかがサリアにもよく分かった。
(さびれてるわねぇ、ここ)
 ビニアスも確かに人通りは少ないが、ここはそれ以上だ。
 ビニアスをずっとほったらかしにしておいたらきっとこの村のような具合になるのだろう、と彼女は思った。
「ねえ、サリア?」
「何?」
「大したことじゃないけどさ、少しは用心したほうがいいと思うよ」
 そんなミルの言葉にサリアは先ほどの宿主との会話のことを指しているのだと理解した。
「けどあの人はあまり悪そうな人には見えなかったよ」
「そんな人はたくさんいるんだよ。優しげでもどこかに闇を持っている人はいる。まぁ、今回に限ってはそうではないみたいだけど……」
 ミルが言葉を続ける前にサリアは反論した。
「だったらいいじゃない。あの人は絶対に悪い人なんかじゃないわ」
「人間性はね。ただあの人は何かを隠している。そんな気がするよ」
 どうして彼が断言できるのか、サリアには理解が出来なかった。
 彼女が何を考えているか察したのかミルはサリアが質問をする前に理由を説明した。
「長い間旅をしていると嫌でも分かるものなのさ。とにかく用心はしておいた方がいい。分かったね?」
 ミルの強制に近い投げかけに、サリアはただ頷くことしか出来なかった。
「ごめんね、こんなこと言っちゃって」
「ううん、いいの。だってミルは一応心配してくれてるんでしょ?」
「一応じゃなくて、かなり心配してるんだけどね。」
 ミルのそんな台詞にサリアは顔が赤くなるのを感じた。
 しかし、それを悟られないよう明るく答える。
 こんなことをミルに気づかせるわけにはいかない。
「変なこと言わないでよ、まったく」
「ハハハ。それよりサリア、君は気づいたかい?」
 一瞬びくっとするサリア。
(まさか気づかれた?)
「何を?」
 少し声が上ずっているサリア。
 ミルはそんなサリアに気づかない様子でそのまま話を続けた。
「この村、少し変だ。ほら、あそこにいる人を見てごらん」
 ミルの指差す方向を向くサリア。
 そこには男が座っていた。
 恐らく中年であろう男はただ空を見ていた。
 サリアはそんな様子の彼を見て、不安を覚えた。
「どう?」
「うん、何だか……少しおかしい気がする。今の時間なら働くのが当たり前のはずなのに、どうしてあの人はただぼうっとしてるの?」
 サリアの言葉にミルは少し付け足しを加える。
「まるで何かに操られているような、そんな感じ。そうでしょ?」
「うん、けどどういうことなんだろう?」
「さあね。けど、聞いてみるに越したことはないんじゃないかな?」
 そんなミルの提案に同意するサリア。
「よし、それじゃあ行ってみようか」
 二人はその男に向かって歩き始める。
 男は二人にはまったく気づいた素振りを見せずにただ空を見ていた。
 否、それは空を見ていたのではない。
 彼はただ上を見ていたのだ。
「すみません?」
 ミルの言葉に男は下を見ずに答える。
「なんだい?」
 その口調は特に異常はなく先ほどの妙な不安を感じさせることはない。
「僕達は旅の者なのですが、あなたは何をしているんですか?」
「ああ、そうか。旅人さんなら知らなくても当然だね」
 男は一人で納得し、それからミル達の方を向いた。
「この村、他の村とはどこか違うだろう?」
「そうですね。一体この村は何なのですか?」
 ミルの質問に男は笑顔で答える。
「この村はね、“神”が降りてくる村なんだよ」
 突然言われたことがまったく理解できないサリア。
 ミルもそれは同様のようであった。
「神、ですか?」
「ああ、そうだよ。信じられない話だろ? けれども、私も実際会ってしまったのだから信じる以外どうしようもないのさ」
 男の言葉はミル達を更に驚かせた。
「神に会えるんですか?」
「ああ。けどここでは会えない。会えるのは……ほら、あそこだ」
 男が指を指した場所。
 そこには教会が建っていた。
 この村の中で唯一さびれていないと感じられる綺麗な建物。
 あそこに神が?
 サリアはもう何が何だか分からなくなっていた。
「ありがとうございます。それじゃあ僕達も行ってみますよ」
「ああ、是非行ってみると良いよ」
「それじゃあサリア、行こうか?」
「……うん」
 本当に神はいるのだろうか?
 サリアはただただ疑問に思うだけであった。



「ここに神様がいるの?」
 二人が教会に辿り着いた時、サリアはそうミルに尋ねた。
「そう…みたいだね」
 ミルも自信があまりないようだった。
 こんな調子のミルを見るということは珍しい。
「この村の人は、皆さっきの人みたいな感じなのかな?」
「多分ね。皆その“神”とかいうやつに操られてるんだよ」
「そんなことが出来るの?」
 サリアの疑問にミルは笑顔で答える。
「魔法は基本的には万能だよ。人を生き返らせること以外ならほとんどのことが出来る」
「宿主さんも…操られているのかな?」
 サリアの言葉にミルは一瞬黙り込む。
「…ミル?」
「彼も…多分神にあったことはあるんだろうね。操られているかどうかは分からないけど」
「けどこの村の人を操って何がしたいのかな?」
「さあね、支配者の考えることなんて僕には理解できないよ」
 ミルは吐き捨てるようにそう言った。
 その時、ふとサリアは昔ミルは権力を嫌っていたことを思い出した。
 ミルは束縛しないしされない。
 だからこそ彼は自由気ままな旅人になったのかもしれない、と彼女は思った。
「それじゃあ、入ろうか」
 彼の言葉で思考を中断された彼女はそれを断ち切ってそっと教会のドアを開けた。
 ギィという音をたて扉は開いていく。
 二人が完全に扉を開けたとき、目にしたのはとても大きな彫像だった。
 とてもよく出来た彫像。
これを作るには恐らくとてつもなく膨大な時間がかかったであろう。
「ミル、もしかしてこれが?」
 サリアの直感にミルは曖昧に返事をする。
「神、なのかな?」
 二人の疑問の答えは思わぬところから聞こえてきた。
「正確に言えばこれは神ではありませんよ」
 ギョッとして振り向く二人。
 そこには一人の男が立っていた。
 服装からして恐らく彼がこの教会の神父なのであろう。
「どういうことですか?」
 ミルの質問に何とも言いがたい笑みを浮かべる神父。
「言葉のままですよ。これは神ではない。媒体です」
 媒体。
 その言葉にはっとするミル。
「この魔力の波動。ただの彫刻ではありませんね」
「ええ、そうです。これはとある目的の為に開発されたもの」
 神父の言葉で何か浮かんだのか、ミルは半信半疑の様子でこう言った。
「まさかこれは……」
 幻覚装置。
「ほう、よく知っていますね」
 神父はミルを見て、感嘆する。
「幻覚装置って?」
「これは人に幻覚を見せる装置。以前魔族が魔法でこれをどこかの街に送り、その街の人間の士気を低下させたのちに制圧しようとしたことがあったんだ」
 ミルの説明に付け足しを加える神父。
「作戦は一部成功。我ら人に幻覚が映り士気は確かに低下しました。だが、それは魔族も同じでした」
 街に送られた装置は人間の目に幻覚を移す。
 そして魔族が街に侵入したときには幻覚装置は停止する予定だった。
 だが、それは止まらなかった。
 そして、そのことを知らなかった魔族たちはそのまま街に入り……街は地獄になった。
 人間同士、魔族同士、狂った人々はお互いを傷つけ、そして殺しあう。
 魔族達は自分たちは決して作ってはならないものを作ってしまったのだと思い知ったのだった。
「その事件でその街の住人と両軍の兵士は全滅し、その作戦以降これが姿を現すことはなかった。まさかそれがこんなところにあったとは」
 ミルが神父に対し敵意を剥き出しにする。
 サリアもその流れは当然だと思った。
 人々に幻覚を見せてしまう兵器をこんな村で使い村人を操っている人間をミルは許すことなど出来ないのだ。
 神父はその様子を見てそのまま笑みを浮かべた。
「これはその兵器を改良したものです。目的は……聞きたいですか?」
「ええ」
 ミルが首を縦に振るのを見て、神父は口を開いた。
「人を……救うためですよ」
「え?」
 ミルはその想定していなかった言葉に意表を突かれたようだった。
 サリアはその時、ふとこの村に到着する前のミルとの会話を思い出していた。
 あの時ミルは神父と同じようなことを確かに言ったのだ。
(兵器は人を殺すためではなく、まず人を生かすためにある)
「聞きたいことがあります」
 ミルは疑問の声をあげた。
「なんですか?」
「外にいた男も神という幻覚を見ていた、ということですか?」
「ええ、この村の人々は皆ここで神を見ています」
「それと人を救うことにどういう関連があるんですか?」
「それはここに住んでいる村人達のことを説明しなければなりませんね」
 神父は村人達のことを事細かに説明し始めた。
 この村に住んでいる人々は皆、身内のもの、もしくは恋人などを戦争によって失っていた。
 そのため、彼らは心に深い傷を負ってしまった。
 神父は彼らを救うためにはどうすればいいのか考えた。
 そんな時、彼はとある街を訪れることとなる。
 そこにあったのが例の幻覚装置。
 彼はそれを見て、とある名案が浮かんだ。
 これで人に夢を見せることが出来れば、夢は人を救ってくれる、と。
「夢?」
「ええ、夢です。人々が皆一様に救いを求めてしまうもの、それは……」
「神」
「そうです。神は人々を救ってくださる。そんな常識を逆手に使ったのですよ」
「神という幻覚を見た人々は、その夢の中で神に救われる。神は人々を救うという考えが彼らには常識として備わっているから」
 人々の妄想は心優しき神を作り出す。
 サリアはふと、とあるフレーズを思いだした。
 傷は……神が塞ぐ…全ては…神の力
 これは……今朝見た夢。
 あの夢ももしかしたら幻覚装置の魔力が見せたのかもしれない。
 彼女はふと、そう思った。
「一ついいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「この村の人々は皆神を見ているんですよね?」
「ええ、そうです」
「本当ですか?」
 ミルは何かを確信している様子でそう尋ねた。
「何が言いたいのですか?」
「ひょっとすると、宿主は神を見ていないのではないですか?」
 その言葉にはっとする神父。
「彼は確か義理の姉がいると言っていましたよね? あれは事実ではないはずです。彼が言っていた義理の姉が住んでいるという部屋。あそこには人の気配がまるでなかった」
「え!」
 ミルの言葉にサリアが驚く。
 彼はサリアにそんなことは一言も言っていなかった。
 だが、そう思ったところでサリアは宿を出たあとのミルの台詞を思い出した。
(あの人は何かを隠している)
 ミルはあの時点で宿主の秘密を知っていたのだ。
 そして彼がそれを彼女に言わなかったのは……、
(あたしを傷つけたくないから?)
 それは違う。そう思った。
 何故ならもし本当にミルが彼女を傷つけたくないのであれば、この場でそんなことを言うはずがないのだ。
 サリアはミルについて少し不信感が募り始めていた。
 神父は動揺を隠せないような様子で宿主の事を話し始めた。
「彼は例外なんです。彼のときも私はあの装置で夢の世界を見せたのです。しかし、彼が見たのは神などではなく義理の姉という存在でした」
「つまり、彼にとって義理の姉とは自分自身が作り出した幻影、そして自分自身を助け出してくれた神、ということですか?」
「そういうこと…でしょうね。彼のケースは例外なんです。本当に何が起こっているのか分かりません」
 そんな神父の言葉にやっとミルは笑顔になる。
「まあ、それでも彼は傷を克服できているんですからいいのではないでしょうか? まあ、それでも問題はありますが」
「はい、他の人々には神はいなくなったと言って元の生活に戻してあげれば大丈夫なのでしょうが、彼の場合義理の姉を否定すれば、彼自身を否定しかねませんから。私も、それが心配なんです」
 はぁ、とため息をつく神父。
 そんな彼を見て、サリアは父親を連想した。
 神父は宿主を親心のようなもので、心配しているのだ。
 だからこそ、彼は宿主を本気で心配しているのだろう。
 それが聖職者特有の偽善に近いものであるとしても、彼の姿はサリアに眩しく映っていた。
 彼もまた人々のことを真剣に考えているのだ。
「そうですね。それより僕達に幻覚は見えることはないのですか?」
「心に深い傷を負っていなければ大丈夫です。ですが、それでも予兆はありますから」
「予兆?」
「ええ、まず幻覚が見えるものの傾向として、夢に過去のこと、もしくは神に関することが出てくるんです」
「………」
 沈黙するミルとサリア。
「どうかしましたか?」
「いえ、それからどうなるんですか?」
「ええ、もう一度この村で寝るともう確実に幻覚が見えるようになります」
 二人は顔を見合わせる。
 そして、
「残念ですが僕達は幻覚とは無縁なので、失礼させていただきます」
「はぁ、そうですか。なら、唯一神イシュタルのご加護があらんことを」
「ありがとうございます。それでは!」
 そういい残して二人は宿めがけて全力疾走を始めた。
「……はて、何かまずいことを言いましたかな?」
 その場には神父のみが残された。



「準備は?」
「うん、大丈夫」
「よし、それじゃあ行くよ」
 二人は部屋を出て、それから宿主のいる受付へ向かった。
「すみません」
「はいはい、どうかしましたか?」
 今朝と同様に愛想のいい態度の宿主。
 そんな彼も幻覚を見ているのだ。
 そう考えると、サリアは少し悲しくなった。
「急なんですが今この村を旅立つことにしたんです」
 そう言って自分たちの荷物を見せるミル。
 それを見た宿主は意外そうな顔をした。
「はあ、本当に急でしたね」
「ええ、それじゃあ僕達はこれで行きますけど……」
「はい、何か?」
 宿主がミルに尋ねる。
 ミルは無表情になり、こう言った。
「全ての幸せを捨てて、絶望の世界を生きるというのも、捨てたものじゃないですよ」
「え?」
「いえ、こちらの話です。それでは」
 ミルはそう言って強引に話をきり、サリアをつれて外に出る。
 扉が閉まったとき、宿主は一人になった。
 否、一人ではない。
 ミルが去った後一人の女性が彼の近くにやってきた。
「ずいぶんと慌しいお帰りだったわね。ん? どうしたの?」
 女性の問いかけに宿主は答えずただただぼぉっとしている。
「ねえ、どうしたの?」
「……本当は、分かってたんだよ」
「え?」
「僕が、何をどうすればいいのか。僕は……知ってたんだ」
 この女性が外に出たがらなかった理由。
 客がいる時だけ、どこにも姿を現さなかった理由。
 それは彼が他人には見えない姉と話しているところを客に見られて変人とされるのを良しとしなかった姉の気遣い。
 そして、それは傷を乗り越えて彼女と別れ、元の生活に戻るためには絶対必要なものであった。
 彼の言葉に彼の姉の表情が暗くなる。
「そっか」
「ミルさんのおかげで、ようやく分かった気がするよ。僕がどうするべきだったのか」
 彼は晴れ晴れとした顔でいた。
「そう……もう、大丈夫みたいね。あたしがいなくなっても…あなたなら大丈夫なのよね?」
「…それは違うよ。僕には、ずっと姉さんが必要だ」
「え?」
 彼は更に続けた。
「僕は両親が生きている頃から姉が欲しかった。僕を支えてくれる姉がね。けれどもそれは絶対に叶わない。そう思ってた」
「………」
「そんな時、戦争が激化し始めた。父さんも母さんも死んで残ったのは僕だけだ。そんな時だったよね、僕の脳裏に姉さんが話し掛けてくれたのは」
 彼の語る思い出話に姉は涙を流す。
 そんな彼女を見て、尚彼は話を続ける。
「僕はついに自分の頭がおかしくなったのかって思った。けど、そうじゃなかった。姉さんは僕を助けるために生まれたんだ。僕も姉さんがどんな姿かは知らない。ただ、声だけは決して忘れなかった」
「そんな時よね、神父様があなたの元へやってきたのは」
「うん、彼は僕をこの村に連れてきた。そして、あの彫像を見せてくれた。神父さんには感謝してるよ。そのおかげで僕は姉さんの姿が見えるようになったんだから」
 彼は照れた様子でそう言った。
 その様子に彼女は優しげな笑みを浮かべる。
「僕は姉さんに命を救われたようなものなんだ。恩人を、そして…僕の大切な女性を、この世から消すなんて出来ないんだよ」
「けど、そうするとあなたはいつまでも昔の生活に戻れなくなるのよ」
「構わない。僕は、僕は……」
 そこで彼は一旦言葉を切る。
 そして直後に決意を固めたというような顔つきになる。
「実体を持たないけれど、いつも僕を励ましてくれた姉さんのことが好きなんだ」
「……」
「他人には変人に思われるかもしれないし、姉さんは僕の妄想から生まれたから僕好みの人になっているのかもしれない。だけど…いや、だとしても一度好きになってしまったら、もうどうしようもないよ」
 彼のそんな言葉に彼女の目から涙が零れ落ちる。
 それを拭こうともせずに、彼女はこう言った。
「あたし…存在してもいいのかな? あなたを好きになってもいいのかな?」
 彼は何も言わずそっと、彼女の手の位置に自分の手を合わせた。
 手触りは感じないが、彼は何故かそこにぬくもりを感じた。
「姉さんは、姉さんのしたいようにすればいいんだ。姉さんも僕にとっては…一人の人間だよ」
 笑顔で彼はそう言った。
「ミルさんは幸せを全部捨てて絶望に浸ると言った。だけどね、僕達はもうその次のステップにいると思うんだよ」
「次の…ステップ?」
「うん、僕は絶望を十分感じた。だからこそ、絶望の次のステップ、幸福へと進んでいくんだ」
 これが彼の本当に言いたかったことなのだろう、と思う。
 二人は幸福のために一歩一歩進んでいく。
 その為の一歩をようやく踏み出したのだ。
「だから姉さん。一緒に歩いていこう。僕達がこの世からいなくなるまで……ずっと一緒だよ」



「あんなこと言って良かったの?」
 村を出てからサリアはミルにそう言った。
「あんなことって?」
「幸福を全て捨てて……っていうやつ」
 その台詞を聞いたミルがああ、と頷く。
「あれって一体どういう意味なの?」
「彼ならきっと分かってくれたはずだと思うよ。僕は彼の背中を押しただけに過ぎないよ」
 彼のその自信のある発言に、サリアはただ黙ることしか出来なかった。
 幸福を全て捨てて絶望に生きる。
 それをミルは、こちらの話だと言った。
 あれは一体どういうことなのだろうか?
 ミルは今幸せを捨ててしまっているのだろうか?
 どうして?
 旅に出ているから?
 なら……どうして彼は旅に出る?
「サリア? どうかしたの」
「え? あぁ、何でもないの」
「そう? なら、別にいいけどさ」
 ミルはそれ以降何も言わなくなった。
 二人は淡々と歩き続ける。
 その沈黙に負けたのかサリアはミルに適当な話題をぶつけることにした。
「ねえ、ミル? 唯一神イシュタルってどこでも共通の神様なの?」
「どういう意味?」
「だから、違う神を信仰してるところはないの? っていうこと」
「ああ、なるほどね。僕が行った街ではどこだって信仰されているのは気まぐれと欲望の神であり、この世界の唯一神イシュタルだけだった」
 ミルのそんな話にサリアは頷く。
「そっかぁ」
「けどどうしてそんなことを聞きたくなったの?」
「ん? なんとなくよ」
 サリアはそう言ってから、また言葉を発した。
「ミル、今朝はごめんね」
「今朝?」
「うん、宿主さんのことでいろいろ揉めたでしょ?」
「別に気にしてないよ。サリアは旅を始めて間もないんだし、全部仕方がないことだよ」
 ミルの冷静な指摘。
 温かみもへったくれもないそんな態度でも、サリアにとっては嬉しいものだった。
「ねえ、ミル?」
「何?」
「これからも、よろしくね」
 サリアの言葉に一瞬間が抜けた顔をするミル。
 だがすぐに持ち直し、それから笑顔でこう言った。
「こちらこそ」
 二人は尚も歩き続ける。
 サリアはミルに向かってこう言った。
「さて、次の目的地はどこ?」



あとがき
「君が望む永遠」の平慎二って「ガンダムSEED」のディアッカに似てない?
どうも、ミストフェンリルですw
黒子魔道士もようやく本編が始まりました。
俺は元々旅に出る話が書きたかったんです。
ですが、旅に出るのには様々な事情というものがあります。
「キノの旅」のように後でそういった事情が明かされるのもいいのですが、それだと完璧なパクリになってしまうので初めにきっちりと書いていこうと思った次第であります。
今回の話は、黒子魔道士誕生以前から既に考えていたものです。
それをここで出してしまったのは黒子魔道士のネタがあまりないから……ではなく、黒子魔道士の雰囲気と合っていたと判断したからです。
最後のほうはいきなり宿主が主役っぽくなりましたが、新しい愛の形ってこんな感じかな? と思いまして。
まあ、ネタ自体は結構使い古されていますがねw
次回は新キャラ登場。
久しぶりに戦闘が出てきます。
果たして俺の戦闘描写は上達しているのか?
そして、完成はいつになるのか?
是非、お楽しみに。
それでは!



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