人は様々な経験をして成長していく。
 だが、時にはその経験が成長の歯止めとなる時もある。
 トラウマ。
 これがその正体である。
 その他にも数々の後悔、嫉妬、憎悪これら全てがそれに成りうるのである。
 それに直面した後、人は大抵の場合こう思うだろう。
 あの時に戻れたら……
 俺もそんな人間の一人だ。
 もしもあの時に戻れたなら。
 その時俺は……



ANOTER TIME,ANOTER WORLD
ミストフェンリル






 喫茶店で1人本を読みながらコーヒーを飲む。
 昔はそんなことに憧れていたものだ。
 しかし大学に入って1人暮らしをするようになった俺が実際やってみると、意外とたいしたことではないということに気づいた。
 確かに一種の自己満足のようなものは感じられるがそれだけだ。
 今思えばそういうことをしている人たちはそんな自分に酔っていたのかもしれない。
 ともかく今日も俺は先人達と同様コーヒーを飲みながら1冊の小説を読む。
 ここに来るにあたって本を探したのだが、俺の家に友人が置いていった「黒子魔道士」とかいう本で代用させてもらった。
 まあ、一応小説みたいだし問題はないだろう。
 そう開き直りページをめくっていると、ふと俺の目が何かを捉えた。
 本を置き、その方を向くとそこには俺の見知った友人が立っていた。
「ごめん、待った?」
「いや、大丈夫だ」
 俺がそう言うと、その友人‐浮島千尋‐はいつも通りののほほんとした笑顔になった。
「そっか、ならよかったよ」
 千尋は席に着くと、俺の読んでいた本に目が行った。
 ちなみに俺の家にこの本を置いていったのはこいつだ。
「あ、この本…」
「ああ、お前に返そうと思ってな」 
「そうなんだ。良かったぁ、これでどやされなくて済むよ」
 千尋はそう言うと、ふぅとため息をついていた。
 俺には本当にほっとしているように見えた。
「誰にどやされるんだ?」
「僕の…その……彼女」
 かなり恥ずかしそうにしながらそう答える千尋。
 俺は一瞬千尋を上から下まで見て、あぁと頷いた。
 千尋は確かに顔はいい。
 カッコイイとは程遠いが、年上の女性に好かれるような所謂可愛い系だ。
 だが、千尋に彼女がいるとは…
 何だか負けてる気がしてむかついてくる。
「お前彼女いたんだな、てっきりフリーかと思ってた」
「だって誰にも言ってないんだもん」
 千尋はそう言うと少し頬が赤くなった。
 どうやらかなり照れているようだ。
 そんな様子を見ていると先ほどのむかつきも徐々に収まっていった。
 千尋を見ていると割とこういうことはある。
 それは恐らく彼の纏っているオーラによるものなのだろう。
 こいつと本気で喧嘩できるやつなんてこの世界にはいないように思えた。
 そこまで思考を働かせた俺はすぐに本題を思い出し、それを千尋に尋ねた。
「それより一体何のようだ?」
 そもそも、俺にここに来るよう指示してきたのは千尋だ。
 今日は1日中家にいるつもりだったのだが千尋の誘いを断ってしまうと、何故かものすごい罪悪感を感じてしまうのでついつい受けてしまったのだ。
「うん、実は椿くんに会ってもらいたい人がいるんだ」
 紫藤椿。
 それが俺の名前である。
「俺に会ってもらいたい人? 誰だよ?」
「そろそろ来ると思うよ、ほら」
 千尋はそう言って首で入り口の方を向けと合図をした。
 千尋の合図を見て、俺は入り口を見る。
 そこで俺は長い髪の女性を見た。
 服装は至ってシンプル。
 着れればそれでいい、といった感じだがそれはそれで彼女に良く似合っていた。
 彼女は千尋を見つけたのかまっすぐとこちらに向かってくる。
 それにつれて彼女の顔立ちも見えるようになってきた。
 彼女は……何か研究職にでもついてるような人に見えた。
 少なくとも俺よりも年上だ。
 だがその人物が誰なのか、俺にはよく分からなかった。
 少なくとも俺の周辺にいる人物ではない。
「なあ千尋? あれ誰だ?」
「すぐに分かるよ」
 千尋は一旦俺の方を振り向き、そう言ってから再び彼女の方を向いた。
 彼女はようやく千尋の側に着き、彼に話しかける。
「お待たせ、待った?」
「いや、そうでもないですよ。それより早く自己紹介した方がいいですよ」
 そう言って千尋は俺の方を向く。
「ああ、そうね。わたしは橘美月。あなたは紫藤椿くんよね」
 そう言って俺の方を見る彼女。
 俺には彼女の瞳がやけに冷たいように感じた。
 まるで科学者がモルモットでも見るかのような、そんな目だ。
 そこでようやくこの人物が誰なのかが分かった。
「橘美月って、確かうちの大学で屁理屈みたいな理論で研究室を作らせたっていうあの?」
 千尋はその言葉に笑いをかみ殺していた。
 肝心の彼女はかなり不快そうな顔をしている。
「そうよ。その橘美月。まったく、失礼ね。けど……」
 彼女はまた先ほどの目で俺を見つめる。
 だが今回は先ほどとは違いやけに嬉しそうな笑顔もセットでついてきた。
 それにつられてつい俺の頬も緩んでしまったのだが、その直後の言葉で俺は硬直することとなる。
「君、いいトラウマ持ってるわね」




「最近ね、私誰かにあとを付けられてるような気がするの」
 そんなことを冬が言ったのは俺達が高3で秋が終わり雪が降り始めた頃だったと思う。
 軽い冗談か何かだろうとしか思えなかった俺はそんな彼女を笑い飛ばした。
「そんなのある訳ないだろうが。被害妄想が激しすぎるぞ」
 すると冬は、本当なのに、と言って悲しそうな表情に変わった。
 そんな彼女を見て、俺は罪悪感のようなものを感じてしまった。
 もしかしたら彼女の言っていたことは冗談ではなく、本当のことなのかもしれない。
 そう思わせる力がその表情にはあったのだ。
 だとすると俺は先ほどかなり酷いことを言ってしまったのではないだろうか?
 罪悪感のようなものは次第に本物の罪悪感へと変わり俺は胸に痛みを覚えた。
 何か…何か言わないと。
 無理矢理口を開き俺は声を出そうとした。
「まあ、本当にやばいと思ったらさ……その……俺が守ってやるよ」
 結局俺の口から出てきたのはそんな安直な言葉だった。


 冬が俺に不安をぶつけてから2日ほどたったある日、俺はいつも通り冬と一緒に学校の帰り道を一緒に歩んでいた。
「あぁ、お腹空いちゃったなぁ。ねえ椿、何か食べようよぉ」
 彼女は俺の腕をぶんぶんと振り、そう言った。
 冬にしてみれば別に何かを買う必要などはないということは俺にはよく分かっていた。
 彼女はただ俺と離れたくないだけだ。
 また明日会えるとしても彼女は今現在俺と離れたくはないのだ。
 そして、それは俺も同じだった。
「わかったよ。近くのコンビニでいいよな?」
「うん!」
 そう言って満面の笑みを浮かべる彼女。
 俺はそんな彼女を素直に愛おしいと感じた。
 俺は彼女のことが好きなのだということを今なら存分に感じることが出来る。
 だがそれをストレートに彼女に伝えるのは恥ずかしい。
 だからこそ俺は彼女の手を強く握るのだ。
 そんな不器用な表現で俺は俺なりの気持ちを彼女にぶつける。
 冬も冬で細い手で俺の手を握り返す。
 そんな瞬間が当時の俺の最も幸せな瞬間だったのかもしれない。
 そんな幸せはこれからも続く、そう信じられた瞬間だったのだ。
「何笑ってるの? 椿らしくないなぁ」
「…悪かったな、普段愛想悪くて」
「アハハ、冗談冗談。真に受けない」
 そう言って冬は自動ドアをくぐる。
 彼女がほしいものを探す間に俺は財布の中身を見て今後のことについて考える。
 今現在財布にある現金は1060円。
 冬が見ている周辺の品物の値段は大体は1個100から130円ほどだ。
 あいつはコンビニで必ず三つ食べ物を買うから、俺が払わなければならない金は300から390の間だ。
 そこまで考えて俺は冬の生活パターンが頭の中に入り込んでいることに気づいた。
 もしかしたら冬はもう俺の一部となっているのかもしれない、そんな考えも生まれてくる。
 冬はおにぎりなどをやはり3つ取り、レジに向かっていた。
 俺はレジと彼女の間に立ち、冬に手を出す。
「ん? 何椿?」
「……俺がおごるよ」
 そんな俺の言葉が意外だったのか彼女を目を丸くしていた。
 そして信じらんないと呟き手に持っていたおにぎりを俺に渡した。
 俺はそのままレジの方を向き店員におにぎりを渡す。
「えっと、340円になります」
 俺は1050円を出し、釣りを待つ。
 そんな俺の腕を冬が掴みこう言った。
「ねえねえ椿?」
「何だ?」
 冬はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「賭けしない? 店員さんが椿に渡す10円玉が表か裏か」
「…その賭けに勝ったら何があるんだ?」
「う〜んそうだねぇ、負けた方は買ったほうのことを1つだけ聞くっていうのは?」
 冬の提案に俺は頷く。
「本当だな? なら、俺は表だ」
「そんなに簡単に決めちゃっていいの? あたしは裏だと思うけど」
「うるさい。俺は真っ直ぐ正直を人生の目標にしてるんだ。裏なんて姑息な手段誰が使うか」
「裏は別に姑息でも卑怯でもないと思うけど…」
 そんな彼女のツッコミにも動じず俺は自分の意思を貫き通した。
「いいや、裏はだめだ。とにかく俺は表だ。俺はそれを信じるんだ」
 俺が見事に言い切るのを見て冬はじゃあいいや、と言いレジの方に注目した。
「えっと、10円のお釣りになります」
 先ほどまでの会話は迅速に、そして静かに行っていたので店員には気づかれてはいない。
 店員は何も知らず俺の右手に10円玉を渡す。
 金属の感触が俺の右手に伝わる。
 俺はまず10円玉を握り締めてから、右手を冬の方に向ける。
「それじゃあ行くぞ」
 そう言って指を開く。
 そこには10円玉がポツンとおいてあり、それは裏向きだった。
 何度も確認したが10円玉はその度裏だった。
「はい、わたしの勝ち」
 耳元からそんな冬の声が聞こえた。
「…馬鹿な、俺が負けるだと? ……ありえない」
「けど実際負けてるじゃない。それよりもわたしの注文を聞いてよ」
 さすがにここだと店員の迷惑になってしまうので、俺と冬は外に出ることにした。
 その時、俺は店員に呼び止められた。
「お客さん、お客さん」
「……何ですか?」
「ファイト、ですよ」
「……はい」
 店を出ると冬に店員は何と言ったのかについて聞かれたが適当にはぐらかした。
「で? 俺は何をすればいいんだ?」
 俺がそう聞くと、冬はしばらくの間う〜ん、だのえっとぉ、だのを口に出しながら思考を働かせていた。
 そして、ある時冬はこう言った。
「何か買って」
「はい」
 俺は先ほどの袋を渡す。
「それじゃない! 違うやつ、そうだなぁ食べるものではないほうがいいかな」
「具体的に言え。何を買ってほしいんだ?」
「それは自分で考えてよ。この罰ゲームはそこまでが範囲だよ」
 今度は俺が思考を働かせる番だった。
 俺がこいつにプレゼント?
 正直な話俺は女性が好むものなど知らない。
 一応彼女の好むようなタイプのものは頭に入ってはいるのだが、そういうものは既に誕生日などにプレゼント済みだ。
 必死に考える俺に冬は笑いながらこう言った。
「そんなに高いものを頼んでなんかいないよ? 椿がくれる物なら100円ショップの指輪でだって受け取っちゃうもん」
「じゃあ、それでいいか」
「え? ちょっと、いや、今のは少し…」
 慌てた彼女に俺はニッと笑う。
「冗談だよ冗談。いくら俺でもそんなのは渡さない」
「そ、そうだよね? アハハ」
 彼女は妙に引きつった笑みを浮かべる。
 そんな仕草も俺にとっては、かなり可愛いと思えるのであった。


 まだ別れるには早すぎる時間だったので俺達は商店街を見て回ることになった。
 本、CD、電化製品。
 それらを見て、最後にアクセサリーを見に行こうという話になった。
「今日もいつものとこに行くんだろ?」
「え? ああ、今日は違う店に行こうと思うんだ」
 俺にとっては別にどこでも構わなかったので、俺は彼女のリードするまま歩くことにした。
 冬の足は次第に普段は行かないような場所に向かっていき、ある時その足は止まった。
「ここだよ、椿」
 彼女の指し示した店は普通では気づかないような、そんな場所にあった。
「よくこんな店知ってたな」
「うん、この前たまたま通りかかったんだ。まだ入ったことはないんだけど、いい機会かな、と思って」
「そうか。まあ、とにかく入ろうか」
 俺達はその店のドアを開ける。
 暗い店。
 明かりはあまりなく、人気もない。
 どちらかというとアクセサリーショップというよりは闇市場といった感じがした。
「なあ? 本当にここアクセサリー売ってんのかよ? 死体があってもおかしくなさそうな場所だぜ」
「悪かったわねえ、暗くて」
 びくっとして後ろを向くと、そこには1人の女性が立っていた。
 先ほどまではそこにはいなかったはずだ。
「ま、こんな所じゃ仕方ないかもしれないわね。それでも本当に売ってるのよ? アクセサリー」
 女性は俺の方を見てそう言ったが、その直後冬の顔を凝視した。
「アクセサリーが欲しいのはあなた…よねぇ? こんな男が欲しがるものはうちにはないはずだから」
 悪かったなぁ、こんな男で。
 そう思ったものの、先ほど失言をしてしまったのでこれでチャラということにしておく。
「そ、その…今日は買うというよりは見に…」
「ああ、そういうこと。おかしいと思ったわよ、こんな店にあなたみたいな可愛い高校生が来るなんて」
 変な男もいるけど、と付け加えられたのは言うまでもない。
 それでも耐える、というのがやはり男が漢に変わるための道なのだろう。
「へえ、冬ちゃんね。それで向こうのいけ好かない男が椿くん」
 どうやらいつのまにか冬が自己紹介していたらしい。
 その後も2人は様々な話題で盛り上がっていた。
「冬ちゃんはこんなアクセサリーが似合うと思うわよ」
 そう言って彼女はすっと消え、そしてまたすっと現れる。
 あんたは、忍か? とでも言いたいような敏捷性だ。
 彼女の手にはペンダントが握られていた。
 彼女はそれを冬の首にかける。
 それは彼女に良く似合っていた。
 俺が探したとして、恐らく彼女が今渡したペンダントを選ぶことは出来ないだろう。
 そこは、さすがプロとでもいうことなのだろうか。
 冬もそれに満足しているようだった。
「うわぁ! すごいすごいすごい! 凄く似合ってますよ!」
「ええ、わたしもプロですからね。ただ……」
 彼女は少しの間黙り込む。
「どうかしましたか?」
「うん。いえね、値段が……」
 どこからか電卓を持ってきた彼女は俺達に値段の入った電卓を見せた。
「……え? 桁が1個多いんじゃないですか?」
「いいえ、これで合ってるの。さすがにこれは無理よねぇ」
「そうですねぇ。帰ろっか、椿」
「……ああ」
「それじゃ、お騒がせしました」
 そう言って冬は店の外に出る。
 それを見てから、俺は振り返りこう言った。
「あの?」
「ん、何?」
「明日、また来てもいいですか?」
 彼女は待ってるわ、と答え俺も店を出た。


「どうしたの椿?」
「何でもないよ。それよりもう時間じゃないか。そろそろ帰ろうか」
 冬は携帯で時間を確かめると、顔に焦りの色が現れた。
「そ、そうね。確かにそろそろな時間よね」
「それじゃあ、帰るか」
 こうして俺達は帰路に着く。
 俺達の家は学校からの方向は同じなので俺達は世間話をし、手を繋ぎながら歩く。
 その間は、とても短い。
 帰り道がこんなに短いと思えるのは、正直言って冬と付き合うまでは決してなかったことだ。
 どれもこれも冬のおかげだ。
 昔の俺はよく嫌味っぽいとかそういう風に言われていた。
 いや、今でも十分シニカルな人間だとは思っているが、冬と出会って俺は少し変わったとか、そういう風に言われるようになった。
 冬という人間が俺を変えた。
 それは変えようのない事実であり、それを俺は否定しようとは思わない。
 言い切ってもいい。
 俺は冬のおかげで変われたのだ、と。



 高校生活にも慣れ、ようやく2年生になった俺は、それまでと変わらない生活を送っていた。
 とにかくいつも通り。
 俺は自分に興味もなかったし、それをまた変えようとも思っていなかった。
 いつのまにか時は過ぎていき、季節は夏となった。
 無性に長く、そして何故か宿題も多い夏休みを終えた直後、俺は出席番号の関係で週番会に出なければならなくなった。
 俺はその次の出席番号のやつとどちらが行くかを決めることにした。
「なあ、明日の週番会どっちが行く?」
「ん? 椿は用事でもあるのか?」
「いや…特にないけど……」
 俺はとことん嫌そうな顔をしてそう言った。
 その様子で俺の心情を察したのか友人は少し苦笑した。
「面倒なのね、じゃあ俺が行くよ」
「……マジか?」
 さすが持つべきものは友人だ。
「別にいいよ、明日なんて暇で暇でしょうがなくてさ。アハハ」
 笑いながらそう言うこいつが何だか天使みたいに思えてきた。
「お前っていい奴だったんだな」
「今頃気づいたの? まったくさあ、いい加減気づけよ」
 そう笑いながら言ったこいつの言葉を信じた俺が馬鹿であったと気づいたのは次の日の朝のことだ。
「あれ? あいついないの?」
「…今日さぼりらしいよ」
 そんな訳で俺は仕方がなく週番会に出ることとなった。
 俺はいつにも増して不機嫌な顔で会議室の一番奥の席に座る。
「さっさと終われぇ、さっさと終われぇ」
 小声でそう言ってみても、実際未だ週番会は始まっていない。
 というよりも、まだあまり人が来ていなかった。
「世の中は5分前行動じゃないのか?」
 ……アホか俺は。
 しばらく待っているとぽつぽつと会議室に人が現れ始めた。
 人は皆それぞれで固まりそれぞれがそれぞれの場所に座る。
 いちいちうるさい女子どものかたまり、やはりうるさそうな男子のかたまり、俺と同じように一人でぽつんと座っているやつら。
 席はほとんど埋め尽くされ、そろそろ教師が来て週番会が始まるといった時に、一人の女子が会議室に入ってきた。
 彼女は辺りを見渡し、席がほとんどないと気づき、ふと俺の方を見た。
 俺はふと隣の席を見る。
 ……誰もいなかった。
 彼女はそのまま俺の隣の席に来て、座った。
「隣いいですか?」
 いや、もう座ってるだろ。
 とは言えずに、そのまま首を縦に振った。
「どうも」
 そう彼女が言った時、ちょうど会議室に教師が入ってきた。
「はい、週番会を始めるぞ」
 その声で皆起立し、教師の合図の後また座る。
 俺は来週の目標やら何やらをメモしようと筆箱からシャーペンを取り出す。
 ふと隣を見ると、何やら彼女はポケットを探っていた。
「筆箱、忘れたのか?」
 そんな俺の言葉に少し驚いたのかびくっ、と体を揺らした。
「う、うん」
 俺は筆箱からもう一本予備のシャーペンを取り出して、彼女に渡した。
「ほら」
「あ、ありがとう」
 そう言って彼女はそれを受け取る。
「本当にありがとう、椿君」
「いや……あれ?」
 俺名前言ったっけ?
 そう思ってまじまじと見つめるとその訳がようやく分かった。
「もしかして…」
「そう、去年一緒のクラスだったでしょ。もしかして…今の今まで忘れてた?」
「う、いや…だってあまり話したことなかったし」
 そうなのだ。
 彼女はいろいろな人と仲良くなるような人だった。
 そして俺は友達を数人に選ぶようなタイプの人間だった。
 そんな俺達がかみ合うはずもなく、あまり話すようなことはなく一年が過ぎ、クラス替えで離れ離れとなった。
 だからこそ俺が彼女のことを忘れていても不自然ではない……はずだ。
 俺の弁解の後何だか妙な空気になり俺も彼女も話を途中で切り、先生の方を向いた。
 俺は彼女とはあまり反りが合わないのだろう。
 そう諦めてシャーペンを持つ。
 そんな時、俺のポケットの携帯が震えていることに気づいた。
 教師に見つからないよう、机でうまく携帯を隠しメールを確認する。
「メール?」
 彼女もそれに気づいたのかそう尋ねてきた。
「ああ」
「友達?」
「いや……母さんだ。モクバーガーのハンバーガーが食べたいって」
 俺は苦笑しながらそう答えた。
「モクバーガーってここから歩いて15分くらいにあるところ?」
「そう、そこだよ。俺の家があそこらへんだから」
 彼女は意外そうな顔をしていた。
「どうかした?」
「…うん、わたしもそこの近くに住んでるの」
「……マジ? けど、中学は違った気がするけど」
「うん、わたし中学を卒業してからこっちに引っ越してきたの」
 そんな彼女の言葉を聞いて、そういえば去年クラスでの自己紹介でそんなことを言っていたということを思い出した。
「ああ、そんなこと言ってたな」
「そういうところは覚えていてくれたんだね」
「いや、だから決して忘れていたわけじゃ…」
 苦しい言い訳だ。
 そう思ったが、まあ実際そうなんだし仕方がない。
「まあいいって……あ」
「どうかしたか?」
 そう言った直後俺も同様にぽかんと口を開けていた。
 黒板の方を見ると週番の教師が黒板に書かれていた来週の目標やら何やらを消していた。
 どうやらもう週番会は終わっていたようだった。
「まずいなあ、来週の目標が分からない」
「そうだね。あ、ちょっと待ってて」
 そう言って彼女は椅子から立ち上がり会議室にいた彼女の友人に話しかけていた。
 しばらく話し込んだ彼女はそれから俺のところにやってきた。
「遅刻をしない、だって」
「ああ、ありがとう……なんかさ、友達…多いよな」
 いきなり何言ってんだ俺は!?
 そう思ったものの言ってしまった以上撤回は出来ない。
 結局俺に出来たのは彼女が何かを言ってくることを待つことのみだった。
「ううん、たまたま知ってる人がいただけだよ。別に多いわけじゃないって」
「それでも……俺なんかよりは多いだろ。俺去年なんか友達2,3人位しかいなかったぜ」
「けどその人たちって椿君が心を本当に許せるような人だったんでしょ? わたしにはそこまでの友達はあのクラスにいなかったから」
 彼女は少し俯いてそう言った。
 ……とても悲しそうに見えた。
「そっか」
「あ、ごめんね。変な話しちゃって。あ、シャーペンありがとう。はい」
 そう言って彼女は俺にシャーペンを渡す。
 俺はそれを受け取ると筆箱に入れる。
「それじゃあね、椿君」
 そのまま離れていく彼女を見て、俺は胸に何か馬鹿でかい釘を打ち込まれたような、そんな痛みに襲われた。
 もう少し。
 もう少し彼女と一緒にいたい。
 俺の脳がそう信号を送る。
 信号はそのまま口に向かい、そして俺の口は開いた。
「なあ?」
 彼女は立ち止まり、そして振り返る。
 少し驚いているようだった。
「一緒に行かないか?」
「……どこに?」
 俺は彼女には気づかれないよう静かに小さく深呼吸をし、こう言った。
「モクバーガー」



 冬なしの生活など考えられないし、考えたくもない。
 そう思えるからこそ、俺は彼女にあのペンダントを贈りたいと思った。
 あのペンダントを冬以外の人が付けるのを想像するだけで腹が立った。
 値段は確かにあれだがこの際仕方がないのだ。
「それじゃあね、椿」
 気づくともう冬の家の前に来ていた。
「あ、ああ。また明日な」
「うん、また明日。いつもの時間ね」
 そう言って彼女は彼女の家へと入っていった。
「さて……」
 俺は自分の家に向かい一人歩く。
 明日の放課後、またあの店に行こう。
 全てはそれからだ。
 俺は家目指してのんびりと歩いた。


 次の日の昼休み俺は、去年俺を裏切って学校をサボった友人と昼飯を食べていた。
 確かあの時の弁解は、マッチョなお兄さんが俺を引きとめた、とかそういう感じのことだったと思う。
「……なあ椿? お前の弁当って…」
「違う。これは親が作った弁当だ」
「何だつまんねえの」
 彼は非常に残念だ、とでも言いたそうな表情でそう言った。
「何がつまんねえだ。大体手作りの弁当を作ってくれる彼女なんてそんなにいるもんじゃねえよ」
「何それ? 経験者は語るってやつ?」
「違う、俺にとっては冬が始めての彼女だよ」
 俺はあきれた声でそう言った。
「のろけっていいよな。俺もそんなこと言ってみたいよ」
 そんな馬鹿な会話を楽しんでいると不意に彼はこう言った。
「なあ、椿? 今日商店街の方のゲーセンに行かないか?」
「今日か? う〜ん」
 俺はどうすればいいかを考えていた。
 こいつと商店街に行っていいものなのか?
「やっぱ駄目か?」
「ん……いや、いいよ」
 無意識のうちに俺はそう答えてしまっていた。
「本当か! ありがとよ椿。てっきり来てくれないかと思ってたよ」
「何でだよ」
 俺がそう言うと、彼は少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「最近お前って冬ちゃんとずっと一緒にいるからさ、今日もそうなのかな? って思ったんだよ」
 俺は彼に対して罪悪感を抱いた。
 確かに最近の俺は暇あれば冬と一緒にいた。
 そのためこいつと遊びに行くのはずいぶん久しぶりだった。
 遊びにいくだけでこれほどまで喜んでくれているのを見て、俺はOKして良かったと思えた。
「……悪かったな」
「別に誤ることじゃないさ。俺冬ちゃん好きだしさ」
 あ、一応likeだぜ、と彼は付け加える。
「分かってるよ、それじゃあ放課後な」
 こうして俺達は放課後ゲーセンに行くことになった。


「だからさ、今日は一緒に帰れないんだ」
「うん、分かったよ」
 冬は少し残念そうにそう答えた。
「本当にごめんな」
「ううん、気にしないで。それじゃあわたし帰るから」
 冬はそのまま昇降口の方に歩いていく。
「また明日な」
「うん、また明日」
 永遠を信じる俺達はその言葉でわかれた。
「なんかさ、本当に悪いな」
 その経緯を見ていたのか彼はすまなそうな顔をしてそう言った。
「別にいいさ。俺だってたまにはお前と遊びに行きたいしな」
 その言葉には少しだけ強がりがあったのかもしれない。
「そっか、それじゃあそろそろ行こうぜ。確かもうそろそろ新しいゲームが入る頃だしな」
「それが狙いかよ」
 こうして俺達は昨日やっていたテレビの話やらをしながら商店街へと向かうこととなった。



 モクバーガーはさほど混んではいなかったので、俺たちは何を食べるかについて話し合うことにした。
「椿くんは何買うの?」
「う〜ん、親にも頼まれてるからモクバーガー2つかな、あとアイスコーヒーも欲しいな」
「コーヒー好きなの?」
 少し興味があるのか彼女はそんなことを俺に聞いた。
 俺も紅茶よりコーヒー派なので少し饒舌になる。
「まあな。こういう所のコーヒーだとガムシロップをかけるけどさ、普通のコーヒーならブラックで飲むよ」
「あ、それ分かる。こういうところだと何となく甘いのが飲みたくなるんだよね」
 彼女の同意に俺は更に饒舌になる。
 学校ではあまり笑わない俺もいつのまにか普通に笑っていた。
「俺の気持ちが分かるやつなんて今までいなかったよ。やっぱり分かる人は分かるんだよなぁ」
 店は割とがらがらで何だか店員の視線が痛いので俺は彼女の頼むものを聞いておくことにした。
「ところで……何頼む?」
「わたしもモクバーガーとアイスコーヒーでいいよ。あとね、ここはわたしがおごるよ」
 彼女の提案に俺は少し意表をつかれた。
「え? いやいいって。誘ったのは俺なんだからさ、俺が頼むよ」
「ううん。お礼もしてないからわたしに任せてよ」
「お礼って?」
「ん……シャーペン貸してくれたじゃない」
 彼女はそう言ったものの、俺には何か他にも理由があるように感じられた。
 ……俺何かやったか?
「なあ? 別に無理なんかしなくていいんだぞ」
「無理じゃないよ。…あの時は本当に嬉しかったんだから、そのお礼くらいいいでしょ」
「……」
 どうしたもんかな?
 こういう時って一体どういう対応をすればいいんだ?
 へたに断ったら何だか傷つけそうだし、喜んで受けるのもなんだか男として馬鹿みたいに思える。
 そもそもシャーペンがモクバーガーと釣り合うのかよ?
 様々な疑問と葛藤が俺の脳をぐるぐると回る。
 こういう時はあれに限る。
 そうだ、こんな時こそあれ……即ちその場のノリ作戦に限る。
「それじゃあ…お言葉に甘えてもいいかな」
「うん!」
 よし!
 やはりその場のノリ作戦は有効だった。
 俺は彼女に見えないようニヤリと笑うと彼女が注文するのをただ見ていた。
「モクバーガー3つとアイスコーヒー2つ、お持ち帰りで」
 ん? お持ち帰り?
 ここで食べるんじゃないんだ。
 もしかしたら自分のは自分で持って家に帰るつもりなのかもしれない。
 ……何だかその可能性がかなり高いように思えてきた。
 会計を済ませた彼女は俺の方に来てこう言った。
「ここで食べるのも何だかあれだからさ、近くに公園あるでしょ? そこで食べようよ」
 何だ、そういうことか。
 俺は首を縦に動かし、彼女の持っているモクバーガーのマークが描かれた袋を持つ。
「あ」
「…このくらいはいいだろ?」
「うん…ありがと」
「……どういたしまして」
 こうして俺たちはモクバーガーを後にしたのだった。



時刻は6時を指していた。
俺はそろそろだな、と思い彼に声をかける。
「なあ?」
「何?」
「そろそろ寄るところがあるんだが…」
「ん、そうなのか? じゃあさ、もう少しで終わるから待っててくれよ。まあ俺がいるのがまずいところに行くんだったら無理強いはしないけどさ」
 彼はいやらしい笑みを浮かべながら俺にそう言った。
「そんなとこ行かねえよ。…さっさと終われよ」
 分かったよ、彼はそう言って再び画面に集中した。
 最終ステージ間際だったので彼はすぐにそのゲームを終わらせた。
「ふぅ、待った?」
「いや、あんまり。それじゃあ行こうぜ」
 俺は彼を促し昨日のあの店へと歩き始める。
 彼はきょろきょろと辺りを見渡しながらこう言った。
「なあ、一体どこに行くつもりなんだ? あまり来ないようなとこだけど」
 まあ、こいつに話しても支障はないだろう。
 そう判断した俺は昨日の出来事と俺がペンダントを贈ろうと思った経緯について説明した。
 彼はふ〜んと呟き、妙に納得していた。
「冬ちゃんがうらやましいな。お前にそれほどまで尽くしてもらえるなんて彼女は幸せだと思うよ」
「そうかぁ? 俺は出来の悪い彼氏を持ったあいつに同情しちまうけどな」
「本気かよ? 冬ちゃんと付き合い始めてからお前は本当にいいやつになったと思うぜ」
 まあ昔もそこそこいいやつだったけどな、と彼はその後に付け加えた。
「……ありがとよ」
 そうこうしているうちに俺達は昨日の店へとたどり着いた。
「ここか?」
「ああ、1つ言っておくがなここでは変なことは絶対に言うなよ」
 俺の目が真剣だったことに驚いたのか彼は神妙な顔になり頷いた。
「よし、入ろう」
 そう言って俺はドアを開ける。
「椿、何か暗くないか?」
「…だって趣味だもの」
 横目で彼が一瞬びくっとなったのが見えた。
 何とか笑いをこらえながら俺は彼女の方を向く。
 彼女は俺と彼を見比べてこう言った。
「椿くん、高校生で浮気はお姉さんちょっと…」
「どこをどうみたらそう見えるんですか!」
「え? だって最近の流行なんでしょ? こういうの」
 ああ、きっと彼女は少し一般人の感覚からずれた人なのだ。
 そう思い俺は彼女に哀れみの視線を送る。
「椿くん、君はどうしてそんな悲しそうな目をしているのかな?」
「いえ、きっと気のせいです」
 昨日初めて会ったのに2日目にしてこの人の扱い方が分かってきた。
 俺はある意味で天才かもしれない。
「まあいいわ。それよりも椿くんが来た目的ってこれでしょ?」
 そう言って彼女は右手を上げた。
 その手には昨日のペンダントが握られていた。
 やっぱりプロなんだなぁ。
 性格に問題アリという欠点がなければ社会に出てもかなり通用するんだろうと思えた。
「はい。その…必ず払いますから……」
「ローンってこと? 別にいいわよ、1ヶ月くらい手伝ってくれればね」
「え? けどそれじゃあ…」
「普通の客なら確かにこんなことしないわよ。けどね、わたしは冬ちゃんも椿くんも気に入ってるの。だから多少えこひいきしてもいいでしょ?」
 既に多少じゃない気がするが、それは俺にとってかなり魅力的なアイデアだった。
 そんな俺に彼がこう言った。
「なあ椿? 一応言っておくけど、そろそろ受験シーズンだぜ」
 あ。
 ついつい忘れてた。
 俺が口をぽかんと開けているのを見て彼女は笑いをこらえながらこう言った。
「別に今お願いしてるわけじゃないわよ。受験でも何でも終わってから1ヶ月手伝って頂戴。ペンダントはその時渡すからその時まで冬ちゃんと別れちゃ駄目よ」
 もし別れたらペンダント代は通常通りよ、という悪魔のような囁きもついてきた。
「分かりました。それでいいです」
「それじゃあ商談成立ね。君が来る日を楽しみにしてるわ」
「はい、それじゃあ」
 俺はお辞儀をして、店を出た。
「お前って、計算してるように見えて実はノープランだろ?」
 店を出て帰路に着くとき、彼は俺にそう言った。
 携帯で時間を確認すると既に7時になっていたので空は赤みを失い、闇が生じてきている。
「そうか?」
「さっきの店でだってお前俺がいなかったら明日から行く気だったろ? 何ていうのかな、衝動的に動いてるよな」
 そうまで言われるとなんとなくそんな気がしてきた。
 俺は自然と頬が緩むのがばれないように平静を装う。
「そうかな? 俺にはよく分からないな」
「やっぱり本人には分からないんだろうな。…ん?」
 彼は足を止めずっと先の方を見た。
「どうした?」
「ああ、あっちの方に何か煙でてないか?」
 彼が指差す方向を俺は凝視した。
 すると確かにその方向に煙らしきものが出ていた。
「ああ、確かに見えるな。……ん?」
 俺はその方向に違和感を覚えた。
 あの方向って……
「どうかしたのか?」
「あそこ……冬の家の方向じゃねえかよ!」
「はぁ!?」
 俺はその方向目指して走った。
 今日は俺と一緒に帰っていないから彼女はすぐに家に着いたはずだ。
 もしかしたら…。
 そんな仮説が俺の脳から出て行こうとしない。
 俺はスピードを更に上げる。
「おい! ちょっと待てよ!」
 そんな時俺は背後から声がすることに気が付いた。
 俺は走るのを止めずに後ろを向く。
 するとそこには彼が付いてきていた。
 そういえばこいつのこと忘れてたな。
 どうも俺は冬が絡むと全てを忘れてしまうようになってしまったようだ。
 俺は少しだけスピードを落とした。
 彼もそれでようやく俺に追いつき、少し息を整えていた。
「悪いな」
「別にいいさ。それに言ったろ? 俺も冬ちゃんのこと好きだってさ」
 そう言って彼はスピードを上げた。
 去年のあの日以来、彼のことを良い奴だと思えた。



「やっと着いたねぇ、それじゃあそこのベンチにでも座ろうか」
 彼女はベンチに座ると俺から袋を受け取ろうと手を出した。
 俺は彼女に袋を渡し、少し辺りを見渡した。
 この公園は俺がまだ幼い頃に出来て、俺も当時はよく遊びに来ていた。
 そんな当時の俺と同じくらいの年代の男の子が彼の母親らしき人と一緒に砂場で遊んでいる。
 また別の女の子は集団を作りママゴトらしきことをやっていた。
「椿君って子供とか好きなの?」
 俺が周辺の子供達を見ていたためだろうか。
 彼女はそんなことを尋ねてきた。
「ん…どうなんだろう? よく分からないな」
「そっか。私は好きだよ」
「そうなんだ。なんとなく思ったとおりだった」
 その時彼女は少し驚いたような表情を浮かべた。
 俺は彼女を不快に思わせたのではないか、と思い必死に弁解した。
「い、いや…なんとなく世話好きっていうか、子供が好きそうに見えたからさ」
 彼女はそれを聞いて不意に笑った。
「名前を忘れてた割には意外によく見てたんだね」
「……まだ根に持ってるのか? 悪かったよ、頼むから忘れてくれ」
 彼女は袋に入っているアイスコーヒーを俺に渡し、微笑んだ。
「アハハ、椿君って意外にいじりやすいんだねぇ」
 割と図星だよな、それ。
 そう思ったものの、俺は彼女の笑顔に釣られてつい笑ってしまった。
 今日の俺は何だか変だ。
 いつもはこんなことじゃ笑わない。
 それでも、ただ彼女が笑ったというだけで俺は笑ってしまったのだ。
(…待てよ)
 考えてみればもっと変なことがあった。
 どうして俺は彼女をモクバーガーに誘ったんだ?
 確かあの時は、もう少し一緒にいたかった、とかいう理由だったと思う。
 まともに話すのが初めてだった女性ともう少し一緒にいたいなんて、どうして思ったんだ?
 疑問は徐々に大きくなりついには顔に出てしまったようだった。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
「え?」
「何だか苦しそうな顔してるよ」
「俺、そんなにやばそうな顔してた?」
「…うん」
 彼女は不安気な表情でそう言った。
 どうして君が不安になる必要があるんだ?
 そう思ったものの、口には出せなかった。
 しばらくの間二人とも黙っていると彼女は不意にこう言った。
 その時の彼女は何ともいえない、儚げな表情だった。
「もしかして……私のせいかな?」
「…どうして?」
「私に少し遠慮とかして、それで嫌になったんじゃ…」
 彼女のそんな言葉に俺はついぷっと笑ってしまった。
 彼女は何が何だか分からないといった様子で俺のことを見ている。
「自意識過剰。そんな訳ないだろ? どうして俺が遠慮しなきゃいけないんだよ」
「そ、そっか。そうだよね」
 彼女の表情に少し笑顔が戻った。
 それに俺も安心しアイスコーヒーを飲んでいたその時、
「ねえ椿君?」
「何?」
「私ね、椿君のこと好きだよ」
 俺の口に含まれていたアイスコーヒーが男の子がいる砂場まで飛んだ。
 ……多分ギネスに載る距離だったと思う。



 火事の場所まではもうあと少し。
 そういった所で俺はそこは冬の家ではないのではないか? といった考えが頭を過ぎり始めた。
 冬の家はもう少し離れた場所にあったと思う。
 そしてそんな予感は見事に的中した。
「あれ? ここって冬ちゃんの家じゃないよな?」
「ああ」
「何だよ、心配させやがって。けど、良かったよ」
 そう言って彼はその燃えている家を見た。
 それにつられて俺も見る。
 野次馬は多く、その中には俺たちのクラスのやつらもいた。
「あ、あいつ俺らのクラスのやつだよな。ちょっと聞いてくるよ」
 そう言って彼は野次馬の中に消えていった。
 俺はその火事を見上げながら冬のことを考えていた。
 火事は冬の家ではなかった。
 だとすれば冬に危害はまったくないはずだ。
 それなのに……何故だろう?
 俺の心の中にある不安は先ほどよりも強くなっている気がした。
 何かがある。
 俺は何かを見落としているのではないか?
 そんな疑問が浮かぶ。
 だが、結局その疑問を解決するための術は見つからなかった。
「おい? どうかしたのか椿?」
「ん? いや、何でもない」
「そうか? まあいいか。それよりもさ、今大変らしいぞあの家の中」
「何かあったのか?」
 彼に話を聞こうと俺もさきほどまでの疑問を断ち切る。
 彼も興奮しているのか少し落ち着こうと深呼吸をした。
「ああ、何でもあの家の人はもう脱出したんだけどな、あと1人中にいるらしいんだよ」
「あと1人ってことはそいつは客か?」
「ああ、男らしい。それでな、そいつを助けるために脱出した人の友人らしき人が中に入っちゃったらしいんだ」
「はあ!?」
 そんな馬鹿がいるのか?
 そう思ったが、ここでそんなことを言ってはその人たちに申し訳が立たないためあえて言わないでおいた。
「けどどうしてその人を止めなかったんだ?」
「まだ消防隊も到着してなかったんだってさ。だからこそ野次馬が異常に多いんだって」
「なるほどねぇ。けど、無事だといいな。2人とも」
「そうだなぁ」
 結局話を聞いてしまった以上、気になるので俺たちはそこで事の結末を待つことにした。
 しばらくそうしていると、その家の中から2人の男が出てきた。
 1人は気絶しているようで、もう片方の男がおんぶしている形になっている。
 どうやらその彼が無謀なことを見事に成し遂げた英雄らしい。
 野次馬が良くやった! などと言葉をかけるに従い、男もVサインをしていた。
 その男を彼の友人らしき女性がパンとたたき、野次馬もついには消防隊の人たちも笑っていた。
「ハッピーエンドか。良かったな椿」
「……ああ」
 結末を知ったせいか、俺は先ほどの不安が再びぶり返してきたことに気づいた。
 だが、何をどうすればいいのかが分からない以上、俺には何も出来なかった。
 その後しばらくその場にいた俺たちだったが、時間も時間なので帰ることにし、解散となった。
 俺は家までの妙に長い帰り道を不安に押しつぶされそうになれながらも歩くこととなった。
 一体この不安の正体は何者なんだろう?
 結局その日は何も分からなかった。



「私ね、椿君のこと好きだよ」
 その言葉を聞いた時、驚いたのは何故俺なのか? ということが分からなかったからだ。
 俺なんかをどうして彼女が好きになるのだろうか?
 自分自身に自信を持てなかった俺にはそれが信じられなかった。
 もしかしたら俺は今長い夢を見ているのかもしれない。
 そんな風に思えてしまうほどだった。
「どうして、俺なんだ?」
「私ね、高校生になった時ここに引っ越してきたの」
「ああ」
「友達も作り直さなきゃいけない。けどね、私は本当は友達なんて作れるような性格の持ち主じゃないの」
 彼女の言葉に俺は疑問に思ったことがあった。
 それを俺はそのまま口にだす。
「けど、君は確かに友達がいた。それも俺なんかよりずっとな」
「無理したからだよ。私は性格を偽ってたくさん友達を作ろうとしてた。けどね、椿君は違かった」
「え?」
「椿君は自分の性格をよく知ってたんだと思う。自分自身のペースでゆっくりと友達を作っていってその友達は今でも親友と呼べる。違う?」
 それは確かに事実だ。
 俺は今でも去年の友人を親友だと呼べるし、中学のころのやつらだって同じだ。
「違わない。確かにあいつらは親友だよ。けど…」
 それでも自分を偽って成果を出せた君の方が俺には羨ましい。
 そう言うと彼女は笑みを浮かべた。
 その笑みは恐らく彼女が無理矢理作り出したものであろう。
 だとすれば、それは去年ずっと使っていたものだったのではないか?
「私は自分自身を貫いていった椿君が羨ましかった。去年のクラスで椿君とはあまり話さなかった人達は何も言ってなかったと思うけど、椿君のこと嫌いなんて思ってはいないはずだよ。けれどね、きっと私のことは腹の底では嫌いだって思ってた人がいたと思う」
 結局のところ、俺達は互いに惹かれあっていた。
 そういうことなのだろうか?
 俺は友達の多い彼女を羨ましいと思っていたし、彼女も自分自身を貫いた俺を羨ましいと思っていた。
 去年の彼女の印象は明るく、誰とでも話せるといった感じだった。
 そもそもそれが違うのだろう。
 本当の彼女はとても儚い。
 それはゆっくりと、そして優しく触らなければすぐに壊れてしまうであろうガラス細工のように。
 もし彼女と一緒にいるのであれば、彼女を守らなければならない。
 それこそが彼女と一緒にいるための資格なのだと思えた。
 けれども……俺は思う。
 俺は……彼女を守れるほど強くなんかない。



 俺はいつも朝、冬と一緒に学校に行く。
 家は同じ方向だが、若干俺の方が離れているので、俺達はあの想い出の公園で待ち合わせをすることになっていた。
 だからこそ俺は今日も公園へ向かい歩く。
 時間的にはいつも通りで、このペースで行けば間違いなく冬がもう来ているであろうといつもの習慣で思っていた。
 時間が経つにつれて昨日の不安は消えていった。
 今ではペンダントのことで顔がにやけてしまうくらいだ。
 冬にあれを渡す時のことを考えると俺の顔は普段のぶっきらぼうな表情とは似ても似つかないほどににやけてしまう。
 早く受験なんて片付けなきゃな。
 そして早く冬にペンダントを渡したい。
 今の俺はその一心であった。
「ん……冬はまだ来てないのか?」
 公園が見えてきたくらいになり、俺はいつも冬が立っている場所を見てみたが誰もいなかった。
 俺は公園まで走り、そして中に入って辺りを見渡した。
 時間が時間なのでまだ子供達はいなく、公園内はひっそりとしている。
 だからそこに冬がいるはずはなかった。
「…まあ、冬でもたまには寝坊くらいするよな」
 俺はそう思い、しばらくの間待ってみることにした。
 10秒、30秒、1分、5分、10分。
 どれだけ待っても冬が来る気配はない。
 学校を休むのかとも思ったが、そういう時は事前に携帯にメールが来るはずだ。
 何かあったのか?
 そんな思いが脳裏をよぎった。
 それにつれて昨日の不安が再びぶり返してきたのだ。
 俺は居ても立っても居られなくなり、冬の家に向かった。
 自然と俺の足はスピードを上げ、最終的には全力疾走に近い状態になっていた。
 携帯で時間を確認するともう俺は遅刻確定のようだったが、そんな些細なことには構っていられなかった。
(冬…どうしたんだよ?)
 走っても走っても不安は俺にまとわり続ける。
 俺はこの不安と一生付き合っていかなければならないような、そんな気がした。
 冬の家は、ひっそりとしていた。
 いつもなら、もう少し明るい感じがしたのだが今日はそんな感じが微塵もない。
 とりあえず俺はインターフォンを鳴らしてみることにした。
 ピンポーン
 間の抜けた音が俺の不安を刺激する。
 このままだと俺自身がどうにかなってしまいそうだった。
(ちくしょう……一体何だっていうんだよ!)
「……はい?」
 ドアを開けたのは冬の母親だった。
 いつもは気さくで明るい人だったが今日は様子がおかしい。
「あら…椿君」
「おはようございます。あの…冬は?」
 俺の言葉に冬の母親は言葉に詰まったような、そんな表情を浮かべた。
「…冬は……」
「冬がどうかしたんですか?」
 俺のそんな言葉の後、彼女はゆっくりと深呼吸をしていた。
 そして一言。
「冬は、昨日死んだの」
 そんな彼女の言葉が俺の耳に、そして心に突き刺さり、それはいつまでも残り続けた。



 彼女は、いつまでも言葉を返さない俺をただただ心配そうな目で見つめていた。
 無理もないだろう。
 告白してみたのに、当の俺は何も言わないのだから。
 沈黙は続く。
「あの…椿君?」
 沈黙を破ったのは彼女だった。
「…何?」
 ようやく出た俺の言葉はそんなたいした意味を持たない言葉。
 彼女は俯きながらこう言った。
「迷惑…なんだよね。椿君は。さっきの言葉だって…やっぱり嘘なんでしょ?」
 彼女の目には涙が溜まっていた。
 そんな彼女をとても美しいと思った俺は馬鹿なのだろうか?
 けれども、彼女の儚さ、そして美しさは俺の心を刺激し俺にこう思わせる。
 彼女を守れ。
 それがお前の役目なのだ、と。
 俺は彼女を好きなのか? と聞かれたら俺はうまく答えられないだろう。
 だがどうして彼女と一緒にいるのか? と聞かれたら俺は間違いなくこう答える。
 彼女のことを守りたいからだ、と。
 俺には彼女を守り抜く強さはない。
 自分自身を守るだけの強さしか持ち合わせていないのだ。
 それでも、俺は彼女のことを守りたい。
 そう思わせる何かが彼女にはあった。
「…それは違うよ。さっきの言葉は間違いなく俺の本心だ。俺は君の告白を迷惑だなんて思ってなんかいない」
 その言葉の直後彼女の目に溜まっていた涙は崩壊した。
 その涙は一向に止まる気配がなく、彼女の足元に水溜りでも出来るのではないか、と思えるくらいの勢いだった。
 俺は何かを言わなければならない。
 だが、何を言えばいいのだろうか?
 そんな問いに俺自身は簡単に答えを見出すことが出来た。
 本心を言えばいい。
 嘘なんかついても彼女が傷つくだけだ。
 だったらはじめから俺の心を彼女に見せればいいのだ。
「俺は……君のことが好きなのかよく分からない。けど…」
 彼女は俺の目を見つめ続けた。
 その後の言葉が気になるのであろう。
「けど……俺は君を守りたい。何からなんてことは分からない。けれども、俺は君を守りたいんだ。いや、守らなければならないんだよ」
「それって……どういう意味?」
「そ、その……あの……」
 本心を言った割に彼女の言葉で俺はあたふたしてしまった。
 そんな俺を見て彼女は久しぶりに笑みを浮かべた。
「これからもどうか末永くよろしくお願いしますってこと?」
 彼女のいたずらっぽい笑みは俺にとっては天使の微笑みのようであった。
 だからこそ俺は…
「そ、そんなとこかな。よろしく…その……」
「冬でいいよ。苗字なんかで呼ばれたくないもん」
「ああ、よろしく……冬」
 こうして俺は彼女を守ることを心に誓った。
 これから俺はどんなことがあっても彼女を守り続ける。
 そう決意したのだ。
 それなのに……



 俺は一体何をやっていたのだろうか?
 結局冬を守ることが出来なかった。
 俺には彼女を守れる強さがなかったのだ。
 つまるところ、俺はドラマの主人公ではなく、単なる一般人だったということだ。
 でも、俺の冬に対する悲しみは並大抵のものではなかった。
 少なくとも冬の母親から冬が死んだことを聞いた時、俺は世の中の全てがいやになり、そのまま冬の家を飛び出してしまったのだ。
 あのまま誰にも会わず全てのことから逃げていたら俺は今この世界にはいなかったと思う。
 きっと冬のいる世界に向かっていたはずだ。
 けれども、俺は生きている。
 冬のいない世界を生きているのだ。


 俺はどうしていいか分からなかった。
 冬の家を飛び出し、家にも学校にも行かず冬との想い出のある公園や商店街を走り回っていた。
 けれども、俺の心に刻まれた傷も疲労には勝てなかったらしい。
 しばらくの間走り続けたこの足も、そろそろ限界にきているようだった。
 足を止め、辺りを見渡す。
 そこは昨日ペンダントの約束をしたあの店だった。
 彼女には知らせなければならない。
 そこで理性を取り戻した俺はそう思い店の中に入った。
「…あら、椿君どうしたの? まだ学校じゃないの?」
 突然の客が俺だったせいか彼女は珍しく驚いていた。
 恐らく俺がかなりばてていたのも影響していたのだと思う。
「……どうも」
「あ! さてはペンダントのことで相談しに来たのね。駄目よあの条件以下では渡せないからね」
 彼女は笑いながらそう言った。
 その笑みが俺の心の傷を少し開かせる。
 俺は実際にはないはずの痛みに耐えながら、口を開いた。
「いえ…違うんです」
「ん? じゃあ何なの?」
 俺の様子がおかしいことに気づいたのか彼女は笑うのを止める。
「ペンダント…あいつに渡せなくなったんです」
「……どういうこと?」
「冬は……死にました」
 そんな俺の言葉で彼女は動かなくなった。
 恐らく思考が停止してしまったのだろう。
 その気持ちはよく分かるつもりだ。
 ついさっきまでの俺がそうだったのだから。
「けど……どうして?」
「それは聞いてないんです。冬の母親に死んだことを聞いた後、何が何だか分からなくなっちゃって…」
「そう…仕方ないわね。それで、冬ちゃんが死んじゃったから椿君はもうペンダントはいらない…ってこと?」
「はい。けれど……」
 ようやく現実を受け止め始めたのだろうか?
 そこまで言ったところで俺は少しずつ冷静さを取り戻していった。
 そして彼女を、冬という人間を感じることが出来るものを必要とするようになったのだ。
「あのペンダントには冬の記憶が入っている。そんな気がするんです。だから……いつになるかは分かりませんけど、1ヶ月働いてペンダントを貰いたいと思います」
 これでいい。
 これでいいはずなんだ。
 冬は俺が死ぬことなんて望んではいない。
 冬は俺の中にいる。
 いや、俺だけでなく彼女の母親にも、俺の友人の中にも、そして今俺の目の前にいる彼女の中にも。
「そう。よかったわ、あなたが強くて」
「え?」
「椿君がもし冬ちゃんのところへ行くなんて言ったら、わたしはひっぱたいてでもあなたを止めたわ」
 彼女は右手をぽきぽきと鳴らしながらそう言った。
 ……正直言ってかなり怖い。
 だが、その直後彼女の表情は優しいものになった。
「でも椿君はそんなこと言わなかった。冬ちゃんのことをきちんと受け止めて、これからを生きていこうとしてるわ。お姉さんは嬉しいわよ」
「そんな…俺…強くなんかないです。もし強かったなら俺は冬のことを…」
 俺の言葉を彼女が遮る。
「その先は言っちゃだめよ。この世にもしなんてものは存在しないわ。あるのは過去と現実、それだけなのよ」
「分かってます、でも俺は決して強くなんかない。俺は…弱いんです」
 だんだん視界がぼやけていくのが分かった。
 俺の目に涙が溜まっているのだろう。
 俺はそれをこぼさないよう、必死にこらえる。
 彼女はどこかからティッシュの箱を取り出し俺に手渡した。
「人間ってね、自分で自分のことを強者だと思ってる人が本当は弱者なんだと思うの。その逆も然りよ、分かる?」
「…はい」
「本当に強い人間っていうのはね、何も物語の主人公みたいなスーパーマンのことを指しているわけではないのよ。自分のことを分かっていて、自分に出来ることをしようとする。それが出来る人のことを強いっていえるの」
 だがもしそうだとしたら俺はやはり弱いことになる。
 俺はあの時何かしらの不安を覚えていた。
 今思えばあれは冬のことを指していたのだということが分かる。
 分かろうと思えば分かることが出来たのに、俺はそれをしなかったのだ。
「確かにあなたは大きな間違いを犯してしまったのかもしれないわ。でもね、人間誰にだって間違いはあるの。問題はその間違いを犯した後どうするかなのよ。あなたはそれが出来た。だからこそあなたは強いの」
 彼女は…俺を慰めようと必死に頑張っている。
 本当は自分も辛いはずなのに、俺のために我慢している。
 俺なんかより彼女の方が数倍強い。
 だからこそ、せめて今だけは彼女に寄りかかっていたい。
 そんな思いが俺の脳裏をよぎった。
「椿君、もう一回だけ聞いていいかな? あなたはこれからどうするの?」
 そんな彼女の質問。
 俺は一度ゆっくりと深呼吸し、それからゆっくりと口を開いた。
「冬は俺の、いや…俺達の中にいる。だからこそ俺は冬の分まで生きます。そしていつか彼女の思い出を掘り返しても笑えるようになりたい」
「…そうね、その通りよ椿君。そうだ、ちょっと待っててね」
 そう言って彼女は始めてあったときのようにふっと姿を消した。
 何度見てもそれは神業としか言いようがないと思う。
 でも……
 彼女の目は確かに赤くなっていた。
 しばらくして、彼女の声が聞こえた。
「おまたせ椿君。これはお姉さんからの差し入れよ」
 そう言って彼女は俺の首にペンダントをかけた。
「え? こ、これって…」
 そのペンダントは、冬に買ってやろうとしたあのペンダントだった。
「いいのよ。椿君は頑張ったわ。だからこれはそのお祝い。私の気持ちよ」
 そんな彼女の言葉に、俺はそれを無下に断ってはいけないと思えた。
 ペンダントを俺に託すことが、彼女にとって冬を受け入れることのように思えたからだ。
「…ありがとうございます」
「ええ、それじゃあ今日は家に帰りなさい。それからのことはあなたが決めるのよ。明日から学校に行くもよし。家でもう少し考えるもよし。それ以外だって誰も咎められはしないわ」
「はい」
「元気でね、椿君」
 そんな彼女の見送りのもと、俺は家に帰ることになった。



 恐らく今の俺がいるのは彼女のおかげだと思う。
 彼女とあの時話をしなかったら、俺はずっと塞ぎこんでいたはずだ。
 そして、それからは冬と出会う前と同様に、平凡に時は進んでいった。
 俺は彼女と別れた次の日からきちんと学校に行くようになり、成績も交友関係もあまり変わらず高校を卒業し、大学に入った。
 高校の時は週末に必ず冬の墓に言ってはそこで彼女との想い出を振り返っていたのだが、大学に入ってからはそれも1ヶ月、2ヶ月と伸びていき少しずつ傷が癒えているような、そんな気がした。
 大学でも千尋という友人に出会い、またいつも通りの平凡な毎日が始まると思っていた。
 だがそんな時……俺は立花美月という女性と出会ったのだ。




「君、いいトラウマ持ってるわね」
 彼女の言葉には俺に過去の出来事を思い出させるのに十分すぎるほどの力があった。
 俺は首にかかっているペンダントを触る。
 それは鈍い光を放っているように思えた。
「み、美月さん!? いきなりそんなこと言っても…」
 千尋が彼女を咎めようとする。
 だが彼女には悪気がなさそうだった。
「千尋君、ゆっくりと話をしても時間の無駄なのよ。聞く時はストレートに聞く。それが最終的には最も傷の少なくなる方法なの」
 時と場合にもよるけどね、とその後に彼女は付け加えた。
 それにしてもだ。
 何故彼女は俺に辛い過去があることを知っているのだろうか?
 千尋から聞いた?
 そう考えてから俺はその説を打ち消した。
 千尋が彼女に教えるわけがない。
 なぜなら俺は彼に過去のことを教えていないのだから。
 とにかくこれは聞いてみた方が良さそうだ。
 俺はそう判断した。
「…どうしてそれを?」
 彼女は笑みを浮かべる。
「分かるのよ、私には辛い過去がある人がね。まあ一種の勘よ」
 そんな能力があるのか?
 ある意味でうらやましい気がする。
 その時、ふいに千尋がびくっと動いた。
「どうしたの、千尋君?」
 美月さんの問いに千尋は焦りながらこう答えた。
「…電話ですね、えっと……」
 その瞬間千尋が固まったのは俺の脳内にいつまでも残り続けている。
「あの、その…君島さんです」
「……出てあげなさい、まったく」
 そう言って美月さんは呆れ顔になった。
 千尋は申し訳なさそうな顔で電話にでる。
「…はい、もしもし…ええ…ええ」
 そう言いながら席を立ち千尋はどこかに行ってしまった。
 とりあえず疑問に思ったことが一つ。
 ……君島って誰だ?
「あの、美月さん?」
「どうしたの椿君?」
「君島さんって誰ですか?」
 そんな俺の問いに彼女は知らないの? とでも言いたげな目で俺を見た。
 いや、だって知らないし。
 そう思いながら俺はコーヒーを飲む。
「君島っていうのは私の友達。ちなみにその彼女と千尋君は付き合ってるの」
 とりあえずコーヒーを吐き出すということだけは何とか防いだ。
 ……その結果むせるという症状だけは避けられなかったのだが。
「あらあら、相当驚いてるみたいね。ああ、それと私とは別に敬語で話さなくてもいいのよ」
「けど千尋は…」
「彼はあれが地でしょ」
「ああ」
 俺は妙に納得してしまった。
「そ、それじゃあ…千尋と付き合ってるのはその君島さんっていう人なんです…なの?」
 ぎこちないタメ口に美月さんは苦笑しながらもそれを肯定した。
「すみません、二人とも」
 そんな時に千尋が戻ってきた。
 どうやら電話はもう終わったようだ。
「終わったの? それで美樹はなんて言ってた?」
 ああ、どうやら君島さんという人の名前は美樹というらしい。
「えっと、その…実は今日は君島さんが今日の晩御飯を作る日なんです。それで、玉ねぎとにんじんがなくて…」
 何となく先が読めてきた。
「この近くのスーパーでそれらが安売りしてるから…」
「買って来いって?」
「ええ」
 千尋は困り果てた様子でそう答えた。
「そんなの美樹が自分で買いに行けばいいじゃない」
「…そんなこと言えると思いますか?」
 美月さんはしばらくの間う〜んと考え始め、
「言えないわね」
 と答えた。
「じゃあ仕方ないわね、行って来なさい」
「はい……椿君ごめんね」
「いや、別に…」
「それじゃあまた明日」
 そう言って千尋は喫茶店を出て行った。
 その直後俺達の間に不自然な空気が流れる。
 まあ無理もないと思う。
 間を取り持つ共通の友人が今いなくなってしまったのだから。
 美月さんは咳払いをして話に持っていった。
「今からする話はあまり人には聞かれたくないの。だから場所を移しましょう」
 その時にあなたのことはじっくりと聞かせてもらうわ。
 そんな彼女の言葉が俺の耳から離れない。
 彼女は…冬とは反対の女性だと思う。
 女でありながらきちんと自立し1人でいても守ってやりたいとまでは思えない。
 彼女からは儚さというものがまったく感じられなかった。
 もし彼女が男で、去年の俺の立場であったならきっと冬のことを守れただろうと思えるほど彼女は頼りがいのある人物だ。
 ふとそう感じた。
 俺は彼女の提案に従い、店を出る。
 その時俺は店員に呼び止められた。
「お客さん、お客さん」
「…何ですか?」
「ここからが勝負どころですよ」
「……はい」
 喫茶店から出ると俺は美月さんに、何を言われたのか尋ねられたが適当にごまかした。
「これからどうするんだ?」
「とりあえず私の部屋に来てもらうわ」
「…は?」
 彼女の部屋?
 トラウマがどうのこうのとかいう話をしていたのに俺を誘うのか?
 彼女もそれに気づいたのか慌てて話を打ち消した。
「あ、違う違う。私の部屋っていうのは大学の研究室のことよ」
 なんだ、そっちかよ。
 俺は落胆とも安心ともいえない妙な気分になった。
 彼女はそんな俺に気づいたかそうでないのか、どちらにせよ興味がなかったのか何も言及してこなかった。
「大学に着くまでにあなたの過去について聞いておきたいんだけど?」
「どうしてそんなことに興味があるんだ? 他人の過去なんてどうでもいいだろ?」
 そもそも俺は過去のことを話したくなかったのだ。
 思い出すだけで俺は胸が痛くなるというのに、どうして親友でも恋人でもない人にそんなことを話さなければならない?
 そんな疑問がずっと頭を離れなかった。
 彼女もそんな反応を予想していたのか即座に切り返しをはかった。
「そう、それなら質問を変えるわ。あなたはその過去の出来事は自分の中で既に解決していると思ってる?」
「当たり前だろ? そうでなかったら俺は今大学なんかに行ってない。違うか?」
「そうかしら? それではあなたは人は宇宙では宇宙服がなければまず生きられないというのは知ってるかしら?」
 俺は一瞬考えた後、それは常識であることに気づいた。
「それは常識だろうが。だから何だっていうんだよ?」
「分からない? あなたは多分何らかの道具がなければ外に出歩けないのではないかしら?」
 道具、という言葉に俺の心臓がドクンと動く。
 彼女の言葉は非常に的を射たものであった。
 そう、確かに俺はあのペンダントを付けていないと外に出れない人間なのだ。
 ペンダントをポケットに入れても駄目だ。
 きちんと身に着けることによって俺は外に出るという行為を行うことが出来る。
 彼女はしばらく俺の顔を眺めていたが、それで先ほどの自分の考えに確信を得たようだった。
 もうそのことをしらばっくれる事は出来ない。
「…ああそうだよ。確かに俺はこのペンダントがなければ外に出れないさ。けどそれがどうしたっていうんだよ!」
「どうもしないわ。でもね、もしかしたら宇宙服がなくても宇宙に出ることが出来るかもしれない、と言ったらどう?」
 俺は彼女が何を言っているのかがよく分からなかった。
 宇宙に出れる?
 だから何だ?
 そう考えて俺はようやくそれはこのペンダントを指しているのだということに気づいた。
「そんなこと…そんなことが他人のあんたに出来るわけないだろ」
「出来るかもしれないわ。けどその為にはあなたの過去を聞かなければならないの」
 彼女の顔は今日見た中で一番真剣な顔だったと思う。
 俺はそんな彼女を……信じることにした。
「分かったよ。話せばいいんだろ?」
 どうせ話したって俺が少しの間傷つくだけだ。
 これも冬を守れなかったことに対する償いだろう。
「…ありがとう。そしてごめんなさい」
「……いいよ、別に」
 こうして俺は彼女に過去の出来事を話すこととなった。


 大学に着く頃には俺の話は終わりに近づいていた。
 週番会での彼女との会話に始まり、そしてあの日彼女が死んだと聞かされたことまで。
 それらが終わる頃には俺達は大学内の既に彼女の研究室近くまで来ていた。
「そんなことが…あなたも大変だったのね」
 彼女の目は同情とかそういったものではなく慈愛に満ちていた。
 彼女にはそういった目が出来ないと思っていた俺は少し驚いたがそのことについてはばれてなさそうだった。
「一つ聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
 彼女は自分の気になることをズバズバと聞いてくる。
 その方法にはじめは戸惑ったのだが、ここまで来るまでの間でいい加減慣れてしまった。
 それに……、
(下手に言葉を選ばれるよりもそっちの方がいいのかもしれないな)
 と思わせる力を彼女は持っていた。
「あなたの話では彼女の死因についてはまったく出てこないの。それはどうして?」
「ああ、そういえばそのことについて言ってなかったな」
 俺はふと過去の出来事を思い返し、過去の思い出を丁寧にすくいあげた。
「冬は…別に事故でも病気でもなんでもなかった。あいつは……」
 俺は深呼吸をした。
 なぜなら次の言葉があまり言いたくないものだったからだ。
 俺は意を決して言葉を放つ。
「殺されたんだよ」
 冬は殺された。
 そのことを後に彼女の母親に聞いた俺は一つ思い当たることがあったことに気づいた。
 あれは彼女が死ぬ何日か前だっただろう。
 確かに彼女はこう言ったのだ。
「最近ね、わたし誰かに後をつけられてるような気がするの」と。
 俺はそのことを聞いていたのに……その後守ってやると言ったのにもかかわらず結局出来なかったのだ。
「つけられてる? それって…」
 美月さんが言ってしまう前に俺は答えた。
「そう、あいつはストーカーに殺されたんだよ」
 あの日俺が友人とペンダントの商談をしている時、あいつは1人下校していた。
 あの日だけ俺は彼女から目を離していたのだ。
 ストーカーは彼女が1人で帰っていることに気が付いた。
 そして誰もいないのを確認した後彼女に言い寄ったらしい。
 らしいというのはその後捕まったストーカー本人が自白したことだからである。
 そして彼女にいろいろと迫ったのだが彼女は全てを拒否した。
 その時ストーカーにはこういった心理が働いたらしい。
 自分の思い通りにならないのであれば……こわしてしまえばいい、と。
「これが…あの日起こったことだ。本当に真実はこうだったのかまでは分からないけどな」
「そう」
 そう言った彼女は少し顔が俯いていた。
 やはり人が死ぬということ、そして人のトラウマを聞くということはなかなか辛いらしい。
 だが彼女はすぐに顔をあげた。
「とりあえず私の部屋に入りましょうか」
「ああ、そうだな。そこで聞かせてくれるんだろう? 俺がどうすれば宇宙服無しで宇宙に出れるのかを」
 彼女は自身あり気な様子でこう言った。
「ええ、もちろんよ」


 研究室には俺が見たこともないような機材が多数あり、俺はそれらを見てただただ驚くことしか出来なかった。
「おいおい、なんだよこれ? どっかの映画のセットか?」
「違うわよ、これらは本物。私がネットで買ったり作ったりしたのよ」
 彼女のそんな言葉で俺はどうして大学側が彼女に研究室を与えたのかがよく分かった。
 この女は……天才だ。
「こんなものを作れるのか?」
「ええ、まあその話は後にしてちょっと座ってくれる?」
 そう言って彼女はテーブルを指差した。
 俺はそこに行き椅子に座る。
「まずあなたに私が何をしようとしているかを教えなければならないわね」
「ああ、頼むよ」
 そう言って俺は彼女の言葉を待つ。
 すると彼女の口は意外な言葉を紡いだ。
「あなたはタイムスリップっていう現象が実際出来ると思う?」
 何言ってんだよこいつは?
 そう思ったものの俺はそれを口に出すことが出来なかった。
 彼女の顔が妙に真顔だったからだ。
「う〜ん、頑張れば出来るんじゃないか?」
 彼女はふっと口元が緩む。
 何だか馬鹿にされたような感じだった。
「まあ、素人はそう考えるわよね」
「何だそれ? じゃあどうなんだよ?」
「まあまあ、少しは私の話を聞きなさい」
 その言葉は恐らくこれから話すから黙っていろという意味だったのだろう。
 仕方なく俺はそれからずっと黙っていることにした。
「私はね人の過去を救いたい、そんな考えを持っていたの。そのためにはタイムスリップという現象が必要だった」
 俺はうんうんと頷く。
 彼女はそれを横目で見ながらそのまま言葉を続けた。
「けどね、それは無理なのよ。人がそんな現象を行うことは不可能に近い」
「どうして?」
「素粒子って知ってる?」
 素粒子?
 いきなり専門的な単語が来た為俺は一瞬固まる。
 素粒子、素粒子…
 ああ、あれか。
「ま、まあ一応は」
「そう、じゃあ話を続けるわね。例えば私が今から去年にタイムスリップすると仮定するわね。その時にただ私が過去にいくだけじゃいけないっていうのは分かる?」
「さっぱり分からない」
 俺の言葉に少し落ち込みながらも彼女は懸命に説明を続ける。
「そう、まあいいわ。まず現在、過去の質量を5、素粒子を1、私を1とするわね。そして私が過去に飛ぶとすると過去の質量が6、現在の質量が4になる。世界の質量はいかなる時であっても一定でなければならないのは感覚で理解できるでしょ?」
 と言ったものの彼女はとても心配そうな様子になり俺を見た。
 俺が理解できているかどうかかなり心配らしい。
「…一応理解できた」
「そう? それは良かったわ。じゃあ話を戻すけど、私が過去に行くとして過去と未来の質量との均衡を図るために一番いいことは私と同質量の素粒子を過去から未来に送ることよ」
「つまり、質量が1の美月さんが過去に行くなら、過去の質量1の素粒子を現在に送らなければならないってことか?」
「そう。けどね、それが無理なのよ」
「……どうして?」
「人間って言うのはね、食べ物を食べたり、汗をかいたりするだけで質量が常に変化し続けるのよ。絶えず変化し続けるのだからいちいち素粒子で調整なんて出来るわけがない」
 ギリギリのところで理解できた。
 多分あともう一つ何か単語が出てきたら俺の頭では理解できないだろう。
「まあ、だからタイムスリップは不可能ってことか」
「そう、無理にでもやろうとするならば均衡が崩れる。そうなったらどうなるかは…言わなくても分かるわね?」
「なんとなくだけどな。けど、だとしたらどうするんだ?」
「ええ、こういうことがあったから私はタイムスリップについては諦めていたの。けど、最近また新たなことが分かってね」
 彼女は心底楽しそうにそう言った。
 彼女は自分の専門のことになるとかなり快活になるようだ。
 なんとなくだが、昔冬にコーヒーの話をした時の俺が思い出された。
「それは?」
 俺の問いに対し、彼女は真剣な様子でこう答えた。
「時空間ではない、これは世界についての発見だったの」
 彼女の次の言葉は俺を驚愕させることになる。
「私たちがいるこの世界とは別にもう一つの世界、アナザーワールドが存在している」
「…マジ?」
「マジよ。そしてその世界はね、私たちの世界とあわせて1つなの」
 ああ、なるほどな。
 何となくだが彼女の言いたいことが分かってきた。
「つまり、二つの世界は1つであるから向こうの世界に干渉したとしても均衡が崩れるようなことはないってことか?」
 彼女は少し驚いたのか、俺の顔をまじまじと見つめた。
「ええ、まあそういうことだけど……あなたって結構頭いいのね」
「何だそれ? もしかして馬鹿だと思ってたのか?」
 彼女は笑みを浮かべながらこう答えた。
「もしかしなくても馬鹿だと思ってたわよ」
「…最低だなあんた」
「悪かったわよ。まあ一応説明するわね。こちらの世界、あちらの世界の質量をそれぞれ5だとして、私があちらの世界に行くとする。するとこちらの世界が4、あちらの世界が6になる。けれども世界の質量はどちらにせよ10であるから……」
「均衡云々の話はその場合関係がない」
「そうよ。まあ2つほど問題があるんだけどね」
 そう言って彼女は俺の目を見た。
「何だ、問題って?」
「あちらの世界に干渉するわけだからこちらの世界に影響があるという可能性があるわ。だけどこれは問題はないと思う、一応ねずみとかで実験はしたから」
「均衡が関係あったとしたらねずみでもやばかったんだろ? それって結構命がけなんじゃ……」
「結果オーライ、世界に影響はなかったのだから問題はないわ、そしてもう1つの問題というのはね、これはあなたの意思よ」
 突然話のレベルが世界から俺自身に移ったため俺は彼女が何を言っているのかよく分からなかった。
「つまり、あちらの世界の過去で彼女を救うというのが私の考えなんだけど、それって結局こちら側では関係がないということなのよ。つまりあなた自身の自己満足に限りなく近い状態なの」
 俺の……自己満足。
 俺はそんな彼女の言葉に戸惑いを隠せなかった。
「彼女を助けるという行為はあるけれども、あなたの今後はまったくと言っていいほど変わらない。こちらの世界では彼女は死んだままなのだから」
 俺はしばらく考えたいと言って一人思考にふけることにした。
 確かに彼女を助けることは出来るが結局のところそれは自己満足だ。
 でも…だとしてもあちらの世界の冬が危険に直面していることは事実なのだ。
 俺は彼女を助けたかった。
 それが例えこの世界とは違う世界だとしても、俺は…彼女を救いたい。
 これは紛れもない俺の本心だった。
 俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
 そして言った。
「例え俺とは関わりのない世界だとしても、俺は彼女を助けたい。どんな場所だって冬は俺の好きな女性なんだから」
 美月さんはそんな俺を見てどう思ったのだろう?
 彼女は特に反応を見せず、そう…と言った後席を立った。
「なら…そろそろやりましょうか」
「…今か?」
「怖い?」
 そんな彼女の言葉に俺は、
「馬鹿言うなよ」
 そう言い返してやった。
「ウフフ、そうこなくちゃ。じゃあ準備するから楽にしてなさい」
 そう言うと彼女は部屋の隅からノートパソコンらしきものを持ってきた。
「それから、これを頭にくっ付けて」
 彼女は俺に仮想現実の世界にいく時に必要な道具にそっくりなやつ(先端はさすがに尖ってはいない)を渡した。
 恐らくこれをつけることにより向こう側に行くことが出来るのだろう。
 そう納得して俺はすぐにそれをつける。
 それを見届けた彼女はキーボードを常人ではありえない速度で押しながらぶつぶつと意味の分からない言葉を話している。
 恐らく彼女は何かに没頭する時に無意識のうちに声に出してしまうタイプの人間なのだろう。
 しばらくそうしていると不意に彼女は顔をこちら側に向けた。
「1つ聞いてもいいかしら?」
「何?」
「波乱万丈な人生を送った人はよく顔が変わるっていうのは本当?」
「……どうだろう? けど、たまに高校の時の知り合いには変わったとか言われる時があるな」
「そう、じゃあ変装はなし…と」
 そう言って彼女は再び目をノートパソコンに向けた。
「ん? 待て、何だ変装って?」
「だって、顔が変わってないんだったら向こうに行ったとき彼女にあなたの正体がばれちゃうでしょ?」
「ああ、そういうことか」
「そうよ、…と。終わったわ」
 そう言って彼女は俺の方を向いた。
 そして一言。
「準備は?」
「OKだ」
 俺がそういうと彼女はふっと笑みを浮かべ、それからエンターキーを押した。
 視界が一気に暗くなる。
 この感覚……なんだろう?
 普段経験しないとても珍しい感覚だった。
 浮遊感、そして妙な圧迫感。
 そんな感覚を味わっているとふと頭の奥の方から彼女の声が聞こえてきた。
「目を閉じて。私がいいって言うまで絶対あけちゃ駄目よ」
 ああ、きっと目を開けたら俺が死ぬか、世界が滅亡するか…どちらにせよ俺にとって不都合な現象が起こるのだろう。
 俺は破滅願望も破壊願望も人並みであったため、さすがにそれをしようとは思わなかった。
 しばらく目を閉じていると、やはり頭の奥の方から彼女の声が聞こえてきた。
「もういいわよ」
 何故頭の奥の方からなのかはよく分からないが、まあそういうものなのだろう。
 そう勝手に納得し、俺は目を開けた。



 目を開けるとそこは商店街の路地裏だった。
「ここが……向こう側の世界なのか?」
 向こう側、そう言っても俺達の世界とは何も変わらないように思えた。
 それはそうだ。
 まだこの世界は干渉されていない。
 つまりこの世界の根本を変えてしまうのはこの俺だということだ。
「自分の私利私欲のため…世界を変えちまうのか俺は」
 そう考えると、結構空しくなる。
 と、その時彼女の声が響いてきた。
「あ!」
「どうした?」
「ごめんなさい、年代間違ってたわ。間違って5年前の世界にしてた」
「はぁ!?」
「悪いわね、それじゃあもう一回目をつぶってくれる?」
「……りょ〜かい」
 俺は再び目を閉じた。
「なあ?」
「ん? どうしたの?」
「これってやっぱり一旦研究室に戻ってから去年のあの時に戻るって事だろ?」
「ええ、そうよ。なかなか分かってるじゃない」
 そんな彼女の言葉で素直に照れる俺。
 まだまだ経験不足なのかもしれない。
「それじゃあ目を閉じっぱなしにしておいてね。一旦戻ってすぐに去年に送るから」
 そう言ってまた例の感覚を味わう。
(やばい、何だか気持ち悪くなってきた…)
 多分あと10秒でもその感覚を味わおうものならば俺は吐いてしまっただろう。
 そんな時、ふと例の感覚が消えた。
「もういいわよ」
 そんな彼女の言葉の後俺はゆっくりと目を開けた。
 懐かしい空気。
 そんなものを感じつつ、俺は過去の時代の地面を踏んだ。



 いつもの帰り道。
 それでもわたしにとってはとても長いものに思えた。
 ただ1人で帰っているというだけ。
 椿がいないというだけなのにどうしてこんなに家に帰ることを億劫に感じてしまうのだろう?
 彼は今いない。
 今日は友人と一緒に遊びに行くのだそうだ。
 わたしも最近放課後は毎日椿と一緒に過ごしていたし、友人のことも好きだったのですんなりとOKしてしまった。
 どちらにせよ明日また彼とは会えるのだから。
 そんな気持ちが今はもう見事に消えうせているのだからお笑いものだ。
 わたしは見事に彼に惚れ込んでいる。
 恐らく彼が誰かに殺されてしまったとするならば、わたしはその犯人を殺してしまいそうだ。
 その様子をリアルに想像してしまったわたしは、自分自身に苦笑した。
 もう考えるのはよそう。
 これ以上彼のことを考えるのならわたしは汚くなってしまいそうだ。
 そう思い、ふと前を向くとそこには誰かが立っていた。
 それ自体はたいしたことではない。
 ただ問題なのはその人がわたしを見つめていて、更にその人のことをわたしはまったく知らないということだ。
 男、ということは分かった。
 だが、それだけだ。
 それ以外はまったく分からなかった。
 わたしは即座に危険を察知し、早々とその場を立ち去ろうとした。
 が、その時だった。
「ちょっと待ってくれ」
 わたしはその男に手を掴まれていた。
「キャッ! な、なんですか?」
 わたしは何とか手をほどこうとするものの、彼の手が離れる様子はない。
 辺りを見渡しても人気は全くといっていいほどなく、助けを呼ぶことは出来ない。
「今日は男はいないようだけど、別々に帰ってるのかい?」
「ど、どうしてそんなことを?」
 と、そこまで言ってわたしはようやく気が付いた。
 彼は今、今日はと言った。
 つまりほぼ毎日わたしのことを見ているということだ。
 つまり彼は……、
「毎日君のことを見てた。名前すら知らないけど僕は君を見てたんだ」
 やっぱり。
 彼は恐らく最近わたしが感じていた視線の張本人なのだろう。
 そう考えるとわたしは悪寒に襲われた。
「い、いや…」
 叫ぼうとしたが出た声はまるで瀕死の動物のように小さかった。
 恐怖。
 そんな感情がわたしに芽生える。
「いやってどういうことだい? 僕は、ずっと見てたんだよ。ずっと…ずっと見てたんだ!」
 彼の語気が次第に上がっていくのが分かった。
 彼は今のわたしの言葉で拒絶されたことを知ったのだろう。
 そしてそれに対して彼は怒っている。
 それがわたしに対してなのか、それとも自分自身に対してなのか?
 わたしには分からなかった。
 もしかしたら椿に対しての怒りなのかもしれない。
「君は僕を拒絶するんだね。なら……」
 彼はそう言ってポケットからタオルを取り出した。
 わたしはそれを眺めていたのだが、次の瞬間わたしは凍りついた。
 タオルの中にはナイフが包まれていたのだ。
「僕のものにならないなら……消えてしまえば良い」
「い、いや……止めて!」
 わたしは恐怖のあまり目を瞑ってしまった。
 これによりわたしはいつ、どこを、どのようにあのナイフで刺されるのかまったく分からない状態になってしまった。
 もう駄目だ。
 わたしは多分もう生きられない。
 全てを諦めたわたしはただずっと待っていた。
 ……そしてしばしの沈黙が流れた。
 どうしてわたしは生きているのだろうか?
 それともわたしは既に死んでしまったのだろうか?
 指を動かしてみた。
 ……服のところにわたしの指がもぞもぞと動く。
 つまり、わたしは生きているのだ。
 何が起こっているのだろうか?
 意を決してわたしはゆっくりと目を開けた。
 目の前には彼がいる。
 だが肝心のナイフは空中で止まっていた。
 否、止まっているのではない。
 第3者によって抑えられているのだ。
 彼の後ろにはまた1人男が立っていた。
 その彼がナイフの柄の部分を掴んでいる。
 そして彼は一言。
「まったく。こんな危ないもんは街中で振り回すもんじゃないぜ。なあ、お壌ちゃん?」



 俺はストーカーのナイフを奪い道路に放り投げた。
 ストーカーは何やらパニック状態になっているようで俺の方を見るなり口をぱくぱくと動かしていた。
「な、な、な…何だよあんたは!?」
「はぁ? そんなことも分からないのか?」
 そう言い放つと俺は一旦冬の方を見た。
 彼女も俺が気になるのかまじまじと見つめていた。
 ちなみにこの場に来るまでの間にペンダントはうまく隠してある。
 恐らく外側からはまったく見えないはずだ。
「俺はな……ただの通りすがりAだよ。まあ…お前はただのストーカーAなんだろうがな」
 少し挑発してみると案の定やつは舞い上がり始めた。
「な、何だと? 僕はストーカーなんかじゃないぞ」
「自分で自分をストーカーなんていうやつがどこにいるんだよ? お前バカじゃねえのか?」
 そこまで言ったところで頭の中で美月さんの声が響く。
「遊んでないで、さっさとけりをつけなさい。言ってなかったけどタイムリミットは10分間だからね。此処に来るまででもう5分は経ってるわよ」
「……それ先に言ってくれないと困るなぁ」
「さっきから何をグダグダ言ってるんだ!」
 ふと視線をもとに戻すとストーカーはその場にいなかった。
 あわてて辺りを見渡そうとする。
「後ろ!」
 冬の声が聞こえた。
 瞬時に後ろを向くと、ストーカーはナイフを拾っていて俺に向かって振り下ろそうとしていた。
 さすがに焦ったものの、それから何をするかが分かればそう怖いものではない。
 俺は後ろに下がるとストーカーは見事に先ほどまで俺がいたところにナイフを振り下ろしていた。
「お前……運動神経ないだろ?」
 そう言い放ち、さっさとストーカーの後ろに回る。
 ストーカーが後ろを向き目が合った瞬間、俺はやつの腹部に左手でストレートをあびせた。
「ガハッ!」
 それでひるんだやつに俺は容赦なく右のストレートを顔面にぶつける。
 たったそれだけのことでストーカーは地面に倒れ伏した。
 俺はストーカーの持っているナイフを奪うとやつが持っていたタオルでくるみそれを冬に渡した。
「大丈夫か? 一応持っとけ」
「……あ、ありがとうございます」
 冬はそう言って、うつむき加減になった。
 あまり笑ってはいなかったがそれでも久しぶりに見れた彼女の顔は綺麗だと思えた。
「ん? どうした?」
「い、いえ……その…」
「冬っ!」
 その時、遠くの方から声が聞こえてきた。
 俺はその方向を向き…驚いた。
「あ、あれ…俺じゃねえか」
「え?」
「い、いや…なんでもないよ」
 その時美月さんの声が聞こえてきた。
「まずいわよ、早く逃げなさい!」
「ああ、やっぱりまずいんだ」
「え?」
「な、何でもないよ。ハハハ……じゃあそろそろ俺は行くよ」
「けど、わたしお礼も言っていませんし…」
「いいんだ、お礼ならもうもらった」
 彼女は不思議そうな顔で俺を見る。
 俺はそんな彼女に苦笑し、そして…
「じゃあな!」
 そう言って走り去った。



「冬、大丈夫か?」
 椿はそう言ってわたしの所にやってきた。
「うん、大丈夫。けど、どうして椿が?」
 そう言った瞬間、わたしは彼によって抱きしめられていた。
「さっき火事に遭遇したんだ。それで、何か不安になって……夢中になって走ってたら冬がいた」
 よく意味は分からなかったが、彼なりに心配してくれたのだろう。
 わたしは彼のぬくもりからそう感じていた。
 もはや二度と触れることは出来ないと思っていた。
 それでも今わたしは彼のぬくもりを感じている。
 これも全て彼のおかげだ。
 最後の彼の台詞。
 お礼ならもうもらった。
 どんな意味なのかは分からない。
 だけど、彼は彼なりに満足した。
 きっとそういうことなのだと思う。
 そして今わたしも椿と一緒にいることでとても満足しているのだ。
「つ、椿……ちょっと苦しいよ」
「ん…悪い」
 そう言いながらもなかなか離れようとしない彼を見ながら、わたしは彼への恩返しを思いついた。
 生きよう。
 彼に助けられたこの命。
 大切にしていこう。
 願わくば今わたしを抱いている彼と共に。
「ねえ、椿?」
「何だ?」
 わたしは椿にとびっきりの笑みを見せてあげた。
 彼は途端に顔を赤くして目をそらす。
 冷静に見えながらも実は照れ屋な椿。
 そんな彼の耳元にわたしはこう呟いた。
「これからも……よろしくね」



「お疲れ様」
 心身ともに疲れ果てた俺を出迎えてくれたのはそんな美月さんの声だった。
「気分はどう?」
 そう言った彼女がどこか暗いと感じられたのは俺の気のせいだろうか?
「何だか……すっきりした」
「そう、そう言ってくれるなら私も嬉しいわ」
 それもまた真実なのだろう。
 だが、俺にはそれ以上にまた別の感情があるように思えた。
 彼女は何かを隠している。
 それは俺でも容易に悟ることが出来た。
「なあ、何かあったのか?」
「え?」
「いや、何だか雰囲気が少し違うから」
 俺の言葉に少し驚いたのだろう。
 彼女はしばらく固まっていた。
「…そう、気づいちゃったか。それじゃあ、これを見てほしいの」
 そう言って彼女は俺にパソコンの画面を見せた。
 インターネットに繋いであったそれにはとあるニュースサイトが映っていた。
 彼女はその中からとあるコラムを指差した。
 俺はそのコラムを読む。
「…ストーカー被害本日過去最高?」
「そう」
 これが一体どういう意味を持っているのか?
 しばらく考えた俺は、ふと向こう側に行く前の彼女の言葉を思い出した。

あちらの世界に干渉するわけだからこちらの世界に影響があるという可能性があるわ

「まさか、これが冬を助けた代償だなんて言うんじゃないだろうな?」
「全てがそうとは言わない。けれどもこのうちの何件かはきっとそうだと思うわ」
「けど実験では大丈夫だったって…」
「私の考えが浅はかだったのよ。そもそもねずみを送ったところで人間に影響を及ぼす影響なんて観測できるわけがない。それこそねずみの専門家でもない限りは向こう側の世界が与えるこちら側の世界の影響なんて区別できるはずがなかったのよ」
 彼女はうつむき加減にそう言った。
 その時、俺は悟ったのだ。
 彼女もまた俺と同様弱い人間なのだ、と。
 喫茶店で彼女と話をした時、俺は彼女がとても頼りがいのある人物であると思った。
 だが本当の彼女は今そうであるようにとても弱い人間なのではないだろうか?
 それを彼女自身が知っているからこそ彼女は強い女性を演じているのだ。
そう気づいてしまったからこそ、俺はただ黙って彼女を見ることなんて出来なかった。
「何でそう決めちまうんだよ? 誰がそうだって言った? 自分で勝手に決めちまっただけだろうが」
「けど…」
「可能性? そんなもの考えなきゃいい。だけど…」
 無理もない、そう思った。
 冬を守った瞬間、ストーカーの被害が急増した。
 これを関連付けして考えない人がいるならばそいつは研究職を辞めたほうがいいと思う。
 だが俺が判断しなければ彼女は少なくとも今日のところは向こう側に干渉しようとはしなかったはずなのだ。
 だからこそ……
「もし…本当にそれが冬と関係があるのだったら、自分1人で抱え込まないでくれ。傷を1人で受け止める必要なんてない。その時は俺も一緒に傷つくよ
 こんな気分になったのは多分冬に告白されて返事を返した時以来なのではないか?
 そして最後の台詞を言った直後俺は自分で照れていることに気が付いた。
 もしかしたら俺って今かなりキザ野郎なのではないだろうか?
 だが彼女はそうは思わなかったようだった。
「椿君、少し見直したわよ。今日始めて会った時のあの暴言は今のでチャラになったわ」
 まだ根に持ってたんだ。
 その根の持ちようが少し1年前俺にペンダントをくれたあの女性と被っているのが少し気になる。
 まさかあの人と従姉妹…とかはないよな、やっぱり。
 第一顔が全然似てないし。
 それにあの人忍びだもんな。
「何だか今妙に失礼なこと考えてない?」
「いや、気のせいだと思う。それより少し休んでいっていいか? さすがに今は帰れそうにない」
 俺がそう言うと彼女はふっと笑みを浮かべた。
 どうやら、少しは元気を取り戻してくれたようだ。
「分かったわ。それじゃあ今コーヒー淹れるから」
 彼女はそう言って席を外した。
 俺は頭に付いていた例のあれを外すとその場でため息をついた。
 今日はいろいろなことがあった。
 出来ることなら今この場で寝てしまいたい。
 一度そんなことを考えてしまうと眠気はもの凄い勢いで脳内での勢力を伸ばし続ける。
 駄目だ駄目だ。
 そんな風になんとか眠気を断ち切ろうとするものの、なかなかそれは去ってくれなかった。
「お待たせ。…って、どうしたの?」
 彼女がコーヒーを持ってやって来た時、俺はもう言葉では言い表せないくらい酷い状態だった。
 右手で頬っぺたをつねりながら、左手ではまたビンタしている人を見て不思議に思わない人など居るわけがない。
「いや…とてつもなく眠くて」
「そう……とりあえずこのコーヒーでも飲んで目を覚ましなさい」
 彼女は俺にコーヒーを手渡す。
 俺はそれを受け取ると、まず一口味わった。
「……うまい」
「あら、本当?」
「ああ、かなりうまいよこれ」
 そのコーヒーはお世辞抜きにうまかった。
 今日入ったあの喫茶店で飲んだコーヒーなどでは比較すら出来ない味だったのだ。
「実は友達にコーヒーをインスタントでもかなりおいしく作れる人がいてね、その人に教わったのよ。まあ、その人が千尋の彼女なんだけどね」
「ブッ!」
 この場合勢いよくコーヒーを出してしまうのはお約束ながら的確な行動だと思う。
 あの君島さんとかいう人のことだろう。
 美月さんのその言葉で俺は再び君島さんという人がどんな人なのか分からなくなっていった。
 千尋が逆らえなくてコーヒーを作るのが異様にうまい。
 さらには千尋がベタ惚れするような人間なんて俺に想像出来る訳がなかった。
「椿君って千尋君のこととなるとオーバーよね」
「いや、いきなり出てきたから。けどその君島さんっていう人は美月さんとどんな関係なの?」
「彼女もここの出なのよ。つまり私と同い年っていう訳ね」
「じゃあえっと……千尋とは4,5歳くらい離れてるんだ」
 そう言った後美月さんは信じられないとでも言うかのような顔で俺を見ていた。
 ……2,3歳って言えば良かったか?
 そう思ったが彼女の口から出てきたのはそれとは別のことだった。
「椿君知らないの? 千尋君って今22よ」
「え?」
 千尋って俺と同い年じゃないのか?
 てっきりそうだと思ってたから尋ねたことはなかった。
「だから二人の年の差は1つ。お似合いカップルって訳……だけどその様子だと本当に知らなかったみたいね」
「ああ、けどだとしたら千尋って精神的にかなり幼いじゃないか」
「そうね…けどまあ彼もいろいろあったのよ。丁度あなたと同じようにね」
 彼女は千尋の過去について知っているようだった。
 けれども俺は千尋のことをまったく知らない。
 それが妙に悔しくて……
 俺はただ唇を噛み締めていた。
 美月さんは今俺が何を考えているか分かったようで、そのまま慰めの言葉をかけてきた。
「あなたも知らないかもしれないけど、千尋君もあなたの過去を知らないのよ。それにあなた達の関係はまだ始まったばかりでしょ。これから作っていけばいいじゃない」
 それは今の俺には最高のフォローだったのではないかと思う。
 彼女は俺の心中を完璧に把握していたようだ。
「……美月さん」
「まあ、頑張りなさい。あなたは過去を乗り越えることが出来た。もう怖いものなんてないでしょ? あなたは自分の力でそれをやったんだから」
「……そうだな。何だか今日は感謝しっ放しだ」
「私のほうこそ。……あなたに正直慰められるとは思ってもいなかったから、感謝してるのよ」
「感謝しつつされつつか。……ん?」
 その時俺の目に部屋に飾ってあった時計が映った。
「なあ、あの時計って動いてるよな?」
「ええ、もちろん動いてるわよ」
「…まずい。もうすぐ日が変わる」
 時計の針は確かに11時30分をさしていた。
 ここから家までは歩いて2,30分。
 今の疲れ具合から見ても我が家に着く頃には確実に1日が終わる。
「あら、もうこんな時間だったのね」
「いいのか、帰らなくて?」
「あら、私はここに泊まることの方が多いのよ」
 どうやら彼女は今日ここに泊まる気のようだった。
「そっか。じゃあ俺はもう帰るよ」
「眠気は?」
「ああ、コーヒーと千尋の話で目が覚めたから」
「そう」
 俺は先ほどこぼしたコーヒーを自分のハンカチで拭いた後、まだコップに入っていたそれを飲み干した。
 そして研究室を出ようとしたとき、美月さんは俺にこう言った。
「気が向いたらまた来なさい。明日でも、明後日でも…大学のある日なら大抵ここにいるから。それと……」
 あの装置のことは他言無用。でもあれはもうなるべく使わないようにするわね。
 そんな言葉が俺の耳に届いた。
「分かった。それじゃ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」


 家への帰り道、俺は携帯に千尋から電話がかかっていたことに気が付いた。
 あっちの過去に行ったりなんだりしていたから気づかなかったのだろう。
 千尋がまだ起きているか不安はあったがとりあえず電話をかけてみることにした。
「……もしもし?」
「起きてるか?」
「うん、だってまだ12時少し前じゃない。いくら僕でもまだ寝ないよ」
「アハハ、そっか。そうだよな」
「…椿君、ひょっとしてバカにしてる?」
「別に。それよりさ、電話してきたろ? 用件は?」
「うん。実はね、明日僕の家で一緒に晩御飯でも食べないかなって思ったんだよ」
 その誘いに俺は少し驚いた。
「え? お前の家に行くのか、俺が?」
「うん……嫌、かな?」
「そんなことはないけどさ、けどどうしていきなり?」
「実はね、今日君島さんが……」
 彼の話を要約するとこうだ。
 今日の千尋宅での食事で噂の君島さんが彼にこう言ったらしい。
「ねえ、千尋君? この前話してた大学での友達っていたでしょ?」
 千尋は即座に俺のことだと考え、頷いた。
「わたしね、その人の顔が見てみたいのよ。ね、いいでしょ?」
 以上、説明終了。
 つまりは君島さんが俺を見たいから、だそうだ。
「お前って本当にいいように使われてないか?」
「うん、まあね」
 千尋は苦笑しながらもその後にこう続けた。
「けど、結構しっかりした所もあるんだよ。僕も前それを見たから…」
 ああ、きっとそんな所にこいつは惹かれたんだろうなあ。
 話を聞いていてそんな風に思った。
 そんな時俺はとあることを思いついた。
「なあ、千尋?」
「ん、何?」
「美月さんってお前の彼女さんと友達なんだろ?」
「うん、そうだよ」
「じゃあさ、明日美月さんも呼んでみていいかな? 大学で話してみるからさ」
 どうしてそんなことを思いついたのかは分からない。
 けれども、千尋の話を聞いていて不意に彼女の顔がみたくなってしまったのは紛れもない俺の本心だと思う。
 千尋は少しの間黙り込み、そして…
「分かった。じゃあ君島さんには僕から言っておくから」
 そう言った。
「ありがとよ、千尋。じゃあまた明日な」
「うん、それじゃあまた明日」
 そう言って俺は電話を切った。
「さて……」
 俺は一旦深呼吸をしてから、明日のことについて考えた。
 明日は忙しい。
 まずはいつも通り、大学に行かなければならない。
 そして美月さんにご飯を誘いに行って、それから千尋ともに晩飯。
 俺が自分のために使う時間などはあまりないだろう。
 だからこそ俺は今から寝るまでの間に、俺自身のことにけりをつけなければならないのだ。
 所々にある外灯は適度な明るさを持っており、それはこの街を暗闇から守っている。
 そしてそれは、俺の首にかかっているペンダントに当たり、またペンダントは光を放つ。
 俺は右手で外灯の光とペンダントの接触を遮ろうとした。
 だが右手だけでそれを遮られるはずがなく、光はやはりペンダントに当たる。
 次に俺は左手でペンダントに触れた。
 ひんやりとしたそれは妙に心地よく、ペンダントをはずそうとする気力を削ろうとする。
 それは例えるならば天使の歌声を持つマーメイドのようだ。
 その歌声に魅せられたものはマーメイドに近寄ってしまう。
 そしてマーメイドはその者の生気を奪い、ミイラのようになるまで歌を歌い続けるのだ。
 それを防ぐために俺達人間が出来ることといえば、それは1つしかない。
 それも極めてシンプルでいて、それで最も難しいことだ。
 その方法とは、生気がなくなる前にマーメイドから離れること。
 俺は今までペンダントを触れていた左手でそれを持ち上げようとした。
 少しずつペンダントを上げていく。
 だが俺にはそこまでしか出来なかった。
 どうやらまだ俺はマーメイドから完全に逃れることは出来ないらしい。
「まだ……はずせないか」
 進歩はした。
 以前なら外でペンダントを持ち上げることすら出来なかった。
 だからこそ、これは俺にしてみればものすごい進歩であるとは思う。
 恐らく何かきっかけがあれば。
 そうすれば俺はこれをはずせるような気がする。
「まあ、そんなものがそこらへんに散らばってるわけないけどな」
 俺は1人苦笑しながら道を歩いていた。
 今日は止めだ。
 そう考えた時、俺はとあることに気づいた。
「腹……減ったな」
 考えてみれば当たり前のことだ。
 俺は今日晩飯を食べていない。
「仕方ない、コンビニでも行くか」
 そう考え、俺はコンビニに向かうことにした。
 途中、携帯で時間を確認した。
 ……既に0時を過ぎていた。


「いらっしゃいませ〜」
 眠そうな店員の声を聞きながら俺はコンビニに入り適当に弁当を探した。
「これと…ああ、これもか」
 それらをカゴに入れ俺はレジに向かう。
「えっと、540円になります」
 そんな店員の言葉の後、俺は小銭入れの中を見てみた。
 ちょうど500円玉があった。
 更に探してみると50円玉も見つかった。
 俺は店員にそれらを渡す。

「ねえねえ、椿? 賭けしない? 店員さんが椿に渡す10円玉が表か裏か」

 え?
 今のは……何だ?
 俺は辺りを見渡す。
 だが、辺りには誰もいない。
「気のせい…か?」
 だが、あの台詞には聞き覚えがあった。
 あれは一体何の台詞だったろうか? 
 しばらく考えて俺はようやく思い出すことができた。
 あれは確か冬の台詞だ。
 あの時も俺は50円玉を出し、お釣の10円を賭けようと言われた。

「もしわたしが買ったら、わたしのいうことを何でも聞く。そしてもし椿が買ったなら……そのペンダントをはずすことが出来るようになる」

 また…聞こえた。
 一体、俺はどうしてしまったのだろう?
 再び辺りを見渡してみるもやはりそこには誰も居ない。
「あの、どうかしましたか?」
「え? いや、なんでもないです」
 店員の声で現実に戻された俺は先ほどの声について考えた。
 去年までは毎日聞くことの出来た冬の声。
 だが内容は今の俺に合わせるかのように変化していた。
(賭け…か)
 悪くない。
 なんとなく、本当になんとなくだがそう思った。
 第一先ほど何かきっかけが欲しいと思ったのは誰だ?
 これこそが俺の待ち望んでいたきっかけではないか?
 そう思ったからだ。

「それで、どっちにする?」

 俺は……、

「わたしは裏だと思うけど」

 あの時俺は表だと言った。
 そしてその結果俺は見事に負けたのだ。
 もしあの時賭けに勝っていたならば、冬は死ななかったのかもしれない。
 そう考え、俺は自分の考えに苦笑した。
 考えたところで別に現実が変わるわけではないのだ。
 その考えを断ち切り、俺は今表と裏どちらにするべきか考える。
 表と答えて負けた俺。
 だからこそ今回は裏を、冬の力を借りるべきではないか?
 そんな考えがふと閃いた。
 確かにそうすればいいのかもしれない。
 だが、今俺の頭に残っているのはそんな冬ではなく今日初めて出会った立花美月という女性だった。

「あなたは自分の力でやったんだから」

 彼女のそんな言葉こそが今の俺の答えを出した。
(表だ)
 俺は今回も自分の意思を貫き通す。
 今ここで冬の力を借りては今後も何かあるにつれて彼女に頼ってしまうだろう。
 自分の力を信じる。
 それこそが今俺が前に進むために必要なことに思えた。
「10円のお釣になります」
 店員はそう言って俺に10円玉を渡す。
 俺はそれを受け取ると、一旦握り締めた。
 そのまま店を出て、俺はのんびりと帰路につく。
 その途中で俺はゆっくりと手を開いた。
 表か、裏か?
 俺の目はその答えを捉える。
 10円玉は……表向きだった。


人は様々な経験をして成長していく。
 だが、時にはその経験が成長の歯止めとなる時もある。
 トラウマ。
 これがその正体である。
 その他にも数々の後悔、嫉妬、憎悪これら全てがそれに成りうるのである。
 それに直面した後、人は大抵の場合こう思うだろう。
 あの時に戻れたら……
 俺もそんな人間の一人だ。
 もしもあの時に戻れたなら。
 その時俺は……過去を変えようとするだろう。
 だがたとえそれで未来が変わったとしても俺という存在の心の傷は癒えないのだ。
 ならば、現実を変えずに傷を負った今という世界を生きるべきではないだろうか?
 俺は今まで傷はいかにも癒えたかのように人生を歩んできた。
 だが実際は無理矢理カサブタを貼っただけに過ぎない。
 それではいけないのだ。
 俺は今カサブタをはがした。
 そしてゆっくりと傷を癒していこうと思った。
 俺は決して強い人間ではない。
 だからこそ他人に頼って生きてきた。
 無論それは悪いことではない。
 だが、俺が本当にしなければならないことは他人に頼りきることではない。
 本当に必要なことは他人と共存していくことなのである。
 そして今俺の足は新たな道を歩み始めた。
 ……まだ見ぬ明日には一体何が待っているのだろうか?




                        あとがき
 俺の一言ネタはふかわ以下。
 どうも、楽屋芸人ことミストフェンリルです。
 今回は「黒子魔道士」とはまた違う話になりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
 題名は中途半端に長いので適当に略してやって下されば幸いですw
 今回はやけに名前のない人達が出てきましたね。
 高校時代の椿の同級生、薄暗いアクセサリーショップの女店長、変態ストーカー、そしてコンビニ、喫茶店の店員と役に立った人だけでこれほどいます。
 同級生と女店長に限っては名前を決めてもよかったかな、と思いはしましたが、名前をあえてつけないことで引き立つ魅力のあるのではないか?
 という、言い訳チックな考えが浮かびそれに習いましたw
 第一冬も苗字がないですしねw
 回想シーンで冬のことをずっと彼女呼ばわりしているのはそういう理由もあるわけですw
 それもやはり苗字を決めないことによって引き立つ……(以下省略)
 あと何であんなに千尋の設定が濃いんだ? とか、そういう質問はいつか明らかに出来るようにしたいと思います。
 タイムスリップ云々の話に関しては突っ込みはナシの方向で。
 俺自身ほとんどちんぷんかんぷんですからw
 そんなこんなで次回は黒子です。
 その時にまたお会いしましょう!
 それでは!



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