「白日の幻」
青木 悠也



 倉敷要はいつものように町内のパトロールを行っていた。二十年近く愛着しているボロボロの警官服も様になっており、とても動きやすい。
 彼の道取りは交番の周りをゆっくりと見回ることだ。無論、車や自転車は使用していない。散歩にもってこいのコースでもある。
 日は燦々と輝いており、セミの鳴き声も心地よく、初夏の訪れを教えてくれる。
  きょうは日曜日。それに朝である。この時間帯に大きな事件を起こすような酔狂なヤツはそう滅多にいない。いて欲しくもない。
 今年で五十近くのベテラン警官であり、この地域内では顔が利く。
 すれ違う民間人に軽く会釈をしながら、ブラブラと無意味なパトロールを続ける。この時間帯に事件に出くわしたことはない。交通事故ですら昼の、それも大通りを、通報を受けてから駆けつけている。至って平和な街の頼りない警官だ。
 夜勤も多々あるが、それでも指折りで数えるぐらいしか事件を扱っていない。
 呑気なことを考えながら暫くすると、微かな異臭が彼の鼻を刺激した。年は老いても嗅覚には自信があった。
 子供達が遊んでいる公園……そこで足が止まった。
 そして、奥の方のベンチを凝視をすると、奇怪な物が見えてきた。
 所々赤い斑点のある白い物体……いや、物体ではなく人だった。
 倉敷はその人に近寄っていった。そしてハッキリと確認した。
 高校生ぐらいの学生服を着た青年……所々に白い部分が見えるワイシャツ、身体全身から鉄のきつい匂いを漂わせて、魂の抜けきった表情を空の方に向けている。
 そんな奇妙な青年だった。
 制服から判断して、近くの私立高校の夏服だろう。顔の頬などにもしっかりと血が付着しており、虚ろな目で茫然とベンチに座っていた。
 倉敷は黙ったまま、彼の隣に座り、真っ直ぐ子供達の遊ぶ様子を眺めていた。
 風のせせらぎが聞こえると、更に血の臭いは降りかかってくる。
「……どうした……?」
 太い声で、訊ねてみた。
 返答はなかった。彼がここに腰をかけてから暫く経ったが、彼は微動だにしていない。また、動こうとする気配もない。ただ座って、空よりももっと遠くを見つめている。
 ちらりと彼の左腕を見てみると、注射痕がいくつも見えた。相当古傷のようで、今ではもう消えかかっているが、確認はできる。
 子供達はそんなこと気にせずに、はしゃぎまわっている。妙な野次馬もいないので、話を聞きやすい。
 水道の蛇口から水滴が落ちていき、涼しい風が吹いた。
 葉と葉が擦れ合い、心地よい音を出し、影が揺らめく。
「僕は……」
 風にながされていきそうな声で、ゆっくりと、話し始めた。
「僕は……人を殺しました」
 音量は変えずに、そう呟いた。
 倉敷はぞっとしたが、顔には出ていない。そして、こう訊ねた。
「で、どうだった?」
「……」
 警官が殺しの感想を聞いた。青年の顔は全く変わっていない。
 また暫くしてから、
「……自分自身が怖くて……血を出しながら倒れている人が……恐ろしくて、……罪悪感と……強烈な後悔が襲いかかってきました……、けど……」
 続けて、気味の悪い返答が返ってきた。
「……快感を覚えてしまいました」
 一言、一言を噛み締める様に言い放つ。ウットリと何かに取り憑かれたような瞳のままで。
 倉敷は敢えて黙ったまま、彼の言うことに耳を傾けた。
「父と母を……気づいていたら殺していました」
 青年は自分の罪を止めることなく話し続けた。
「最初に見たのは母親の死体でした……そしてその瞬間に、繋がれた鎖が切れたような……そんな感じがしました」
「……」
「父は……長くて細いドライバーで首を突き刺し……母は、文化包丁を奪い取り……それを胸に刺しました。そして、抜き取ってから三カ所ぐらい、無意味に斬りつけていました」
「……そうか」
 話が一段落付いたところで、倉敷は一言呟いた。この青年の恐ろしい供述を一言も漏らしてはいなかった。
 また暫く経ってから、青年がようやく動いた。
 虚ろな瞳は、真っ赤に染まった掌を見つめる。
 彼の腕は振るえていた。激しく、止まることを知らないぐらい震えていた。
「警官さん……」
「どうした?」
 死んだ目を倉敷の方に向けて、青年はこう言った。
「僕を逮捕しないのですか?」
 この青年がグロテスクな瞳を向けて訊ねた。
 虚ろだが、ギョロッとした眼……血走っているその瞳は視点が定まっていない。
「僕は、本当に人を殺してしまったのですよ」
「……その話が本当なら……殺人罪と薬物取締法違反ぐらいは付くだろうな」
 青年が驚いたような顔をしてから、再び、震えの止まらない腕を見つめた。
 痙攣ではない。この歳でアルコール中毒は有り得る話ではないし、パーキンソン病やリウマチでも、なんの病気でもない。でも、震えが止まらない。身体が特殊なクスリを欲しがっているのだ。
 更に腕を上げて、左腕の注射痕を見た。
「流石に、わかってしまいますか……ここ二年、全く手を出していなかったのに……」
 彼の目尻が赤くなっていき、涙が堪り始めてきた。
「どうして、ぶり返して来るんだろう……」
 ついに涙が頬を通って、地面に落ちた。それでも頬の血は落ちなかった。
「いやだなぁ……」
 血で血を拭い、顔は更に赤くなった。
 柘榴の異臭が倉敷にも染みついてきている。が、彼は座ったまま、ここから動こうとはしなかった。
「……フラッシュ・バックってヤツだ」
 大きな溜め息を吐いてから、
「君の名前は?」
「……苗木政親……です」
 良く彼の顔を見ると、額や身体の至る所に傷があった。でも、なにかに襲われたような感じはしない。
 先程からの言い方から察知すると、両親の死体をハッキリ頭で認識したとき、発狂したのだろう。そして、多数の傷を付けて、ここで放心状態になったと予測できる。
「どう言う……ことなんですか?」
 苗木が隣からのそっとした、不気味な口調で訊ねてきた。倉敷は間を置いてから、
「君は最近……全く、覚醒剤に手を出していなかった。しかし、今日、何もしていないのに、幻覚を見てしまった……違うか?」
 倉敷が苗木の方に目を向けると、彼は恐ろしい笑顔を見せて答えた。
「……はい。でも、今日の朝……二年ぶりに……狂気を見てしまいました……」
 彼の身体から放たれる強烈な臭いで、倉敷は高校生の頃から愛飲している煙草を吸う気になれない。
「どうしたんだ?」
 背筋を伸ばして、背を持たれた。
「話を聞こう。逮捕も補導もそれからだ」
「……」
 俯き、腕を膝の上に置いて……でも、彼の左手は動いている。
 セミが鳴き始め……やがて一段落が着いた頃、
「……わかりました」
 苗木はゆっくりとした口調で、こう話し始めた。

 今日は夢から……地獄だった。
 真っ暗な空間……そんな中で苗木は斬られていた。
 背中や腕、顔を何回も何回も斬られていた……。
 しかし、いわゆる死んだような感覚はしないのだ。どんな感じかは知らないが……。
 でも、斬られる度に、焼き鏝を押し付けられたように熱くなり、肌が裂けて、血が大量に溢れ出る……最悪な感覚が彼の身体全身で感じられた。
 血は流れ、呼吸は荒く、何よりも激痛を通り越した感をハッキリとした意識の中で味わうのである。
 腕がちぎれたらしく、目の前に転がっている。
 ただ切れて転がっているだけならまだましなのだが、その指、一本一本が微かに動いているのである。それも、斬られた者の方に向かって、なにかを求めるように……迫ってくる。
 これを悪夢と言わずに何という。
 獏も食い尽くせぬ位、酷い悪夢である。
 そして、また背中を浅く斬られた。
 苦しみにおもわず振り返ってみると、血だらけの刀を振りかざした男がいた。
 羽織と袴……無精髭をはやした汚らしい顔の男……江戸時代の死刑執行人……と言うのだろうか。気味の悪いにやついた顔で胸を斬りつけた。
 右胸から左腹部へとまた浅く斬られた。
 ―苦痛だ! 不愉快だ! 最悪だ!
 ―だのになぜあいつは楽しそうなのだ!
 涙は出てこない。声も出せない。意識は明確に自分が斬られる瞬間を見せつける。
 ―気にくわない……全くもって気にくわない!
 大きく開いた目……でも、溢れる物は血ばかり……。
 ついに喉を突き刺された。
 ブシュゥ! と、不快極まりない音と、ヒューヒューと空気が通り抜ける音が混ざって……でも、混濁とする感覚とは逆に、意識も視界もハッキリとしている。
 首から血が滴ること、二分近く。それでも死なない。呼吸ができないはずなのに……胸がこれだけ苦しいのに……。
 これがもし予知夢なら……これほど恐ろしい事はあるまい。
 夢の中でさえ苦しいのに、現実でこれだけ斬られて……しかも死ねないのである。
 ―もう嫌だ! もう沢山だ! 頼む! 誰でも良い!
 ―俺を殺してくれ!
 ―俺を助けてくれ!
 心の中でそう絶叫したが、実際問題、救いにはならない。身体は柱に縛られたように動けない。ただぐるぐる回ることや、反動で蹌踉めく事はできる。でも、倒れることはできない。余りにも理不尽すぎる空間。
 男が剣先を苗木の顔の方に向けた。
 苗木は動けなかった。見えない紐で縛られているのだ、致し方がない。
 そして、突進してきた。
 ―ついに、俺は殺される!
 苗木は瞬きをしよう思ったが、できなかった。
 完全に見開いたまま、男の剣先が……鋭い剣先が、目に……。
 苗木の眼球を突き刺そうとした。

 剣先が目に入り込む瞬間に、苗木は起きあがった。
 身体全身は汗だらけで、寝巻きがビタリと張りつき、気持ちが悪かった。
 これだけの夢魔を見た後である。寝た気がしない。だからと言って、これから二度寝しようという気にもなれない。
 肩は激しく上下に動き、布団を握り締めた。
 しかし、これで夢魔から覚めたのだ。あの見苦しい光景を見なくて済むのだ。これから暫くの間、不眠症で悩まされそうだが、学校にいるカウンセラーに話を聞いて貰って、対抗策を考えれば、なんとかはなるだろう。
 ささやかな至福と共に立ち上がり、苗木は制服に着替えた。これから学校で部活である。
 大きく背中を伸ばして、ドアのノブに手をかける。
 その刹那に、強烈な悪寒と、いかがわしいほどの殺気を感じた。今生この様な恐ろしい雰囲気を味わったことがない。背筋が震え上がった。
 冷めきった血が狂ったように走り出し、苗木の顔はすぐに青白くなっていた。
 ノブから手を遠ざけると、それは直った。
 ドアノブに手をかけることが怖くなってきた。でも、そうしなければ外には出られない。
 彼の家は一軒家の二階建て、奥行きが広く、幅は極端に狭い家である。彼の部屋はそんな家の二階にあり、このドアの向こうには急な階段が待ちかまえている。馬鹿馬鹿しいことだが、彼はよくこの階段に転ぶ。
 しかし、この恐怖感はそんな単純なことからのモノではない。もっと嫌な……今朝見た夢のようなことが起こりそうな気がした。
 兎にも角にも、彼は昨日の晩、時計を直すために借りたドライバーを手に取った。かなりの大型モノで、グリップの部分もしっかりとしている。
 そしてまた、ドアノブに手をかけようとしたが……左手がそれを拒んだ。
 ―怖い……なにか嫌な予感がする……途轍もなく嫌な予感がする。
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
 こんな事で遅刻とは、安いプライドが許せない。
 意を決して、勢い良く扉を開くと……そこは別次元に変わっていた。
 得体の知れない奇物が周りがぐるぐると回っていて、木造の家が緑や青や黄色の混じったわけのわからない……それでいて、基本的には家中、そのままである。
 目の前には階段があり、手すりも、床もしっかりとある。
 いったいなんだってこんな事になるのだろうか。
 ―こんな幻覚を見るのは二年ぶりだ。
 そして、背中から再び汗が噴き出てきた。

 彼は中学生の頃、友達に勧められて、覚醒剤を左腕に投与した。
 興味本意で使用したのかもしれないが、彼の主な理由は挑発されたのだ。
 彼の友達に、
 『安くて幸せを買える方法、知っているぞ。』
と、言われた事が原因だ。丁度この頃、密やかで広大な至福を感じていた彼にとって、これは挑発だった。
 覚醒剤を打ってから暫くすると、目の前が急に白くなっていき、徐々に昔にあった嫌なことから楽しかったこと、苦しかったことなどの映像が切れ切れ、見え始めていった。
 痛く、苦しいことがなぜか無性に心地よく、耳元から、人の悲鳴や得体の知れない断末魔の叫び声、およそこの世のモノと思えない雄叫びまでも聞こえ始めた。
 でも、なぜか気持ちよい……不思議なことである。
 苗木は三ヶ月ほど、彼から覚醒剤を買い、それを打ってきた。その回数は十を超えている。
 回数が増える度に値上げする彼の性格が厭らしく思えたが、増えれば増えるほど、薬が無くてはならなくなってきた。
 その友達ももちろん、覚醒剤を打った。苗木には、彼にとってこの注射針を入れた瞬間が、最大の至福を得たときに見えた。
 そして、中学三年の時、彼は発狂した。急に家から走り出て、訳の解らない奇声をあげながら、走ってくるトラックの目の前に、不気味な笑顔を浮かべて飛び出し、轢かれて死んだ。
 彼は道路の標識よりも高く飛び上がり、トマトを地面に投げつけた様に血を描かせて、それでも微かに指先辺りが動いていた。笑い声も聞こえた。
 もっとも、これは幻聴かもしれないが……。
 すぐに現場検証が行われ、苗木は目撃者の一人として、彼の死体を身近に見ることになった。二次元の笑顔を見せる彼の顔が不気味だった。
 その時の記憶は忘れられない。
 道路で血を吹き出しながらも笑っていた彼の死に顔を見てから、苗木は覚醒剤を手にしなくなった。この事で、薬の酔いから覚めたのだ。
 なぜかこの時、警察は覚醒剤のことについて、自分には聞いてこなかった。それが少し気のこりだった。自分にも、この男の様になることが有り得るのだから……。
 でも、そんな恐ろしいこと、自ら聞けるわけもなかった。

 彼はそれ以後、本当に薬を手にしていなかった。
 それが急に戻ってきたのだ。早朝そのような感じだった。幻覚の方はしっかりと戻ってきている。
 幻聴の方も調子よく、呻き声や叫び声などが頭を刺激する。
 でも、気持ちよいとは感じられなかった。
 逆だった、気分は悪くなり、殺気による悪寒で汗は止まらない。
 身体全体が震え初めて、まるで薬が切れたときのように震え始めた。
 ―最悪だ!
 苗木は臆病な足をゆっくりと動かして、階段を降りていった。

 彼は話をいったん打ち切った。
 一時間近くこの事を話し続けたのである。流石に疲れたのであろう。
 倉敷は一部始終を黙って聞いていた。それが彼の優しさなのかもしれない。
「……」
 唇は動いているが、肝心の言葉が出てきていない。
 倉敷は暫く彼の目を見つめてから、
「喉が……渇いたのか?」
「……はい」
 ズボンのポケットを漁ってみるが差し当たって手応えはない。胸ポケットには警察手帳しか入れないようにしている。どうやら、交番か家に忘れてきたしまったようだ。
 ふぅっと、溜め息を吐いて、
「済まない……今、持ち合わせの金も、飲み物もないんだ……済まない……」
「……」
 彼も溜め息を吐いてから、
「謝るなんて……警官さんらしくありませんね。でも……少し嬉しいです」
 表情は相変わらず、放心したときから変わりはない。
 顔付きから表情に乏しいような性格には見えないのだが……なるほど、この話が真実なら、疑いはない。
 二人とも黙ったまま、ベンチに腰をかけている。
 近くに立っている木からセミが飛び出し、遠くに飛んでいった。鉄の匂いはいつの間にか気にならなくなっていた。慣れというモノは時に恐ろしく思える。
 夏の雲にしては早く進んでいき、影に入ったかと思えば、すぐに強い日差しを浴びることにもなる。
 日は西に傾き始めている。
 昼食時のため、この公園には苗木と倉敷しかいない。黒猫が一匹ほど、彼らの目の前で毛繕いをしている。
 風のせせらぎはやはり美しく、揺れ動く木の葉の影を見ていると飽きることを感じさせない。
 その時、一人の婦警が彼らの目の前まで走ってきた。
「どうした? 久留間?」
 倉敷が問いかけると、彼女は、
「ど、どうしたんですか! 帰りが遅いから心配したんですよ!」
 若い女性だった。おそらく新米の婦警であろう。
「で、なにか事件でも有ったのか?」
「そうなんですよ! 珍しい大事件なんですよ!」
 慌てるようにメモ帳を取り出してから、彼女は続けた。 
「今朝ほど、この公園の近くの家で男女それぞれ二人……」
 しかし、彼女の言葉を倉敷は途中で遮った。
「どうしたんですか? 歳ですか? まさか、怖いとか言わないで下さいよ!」
 若い婦警が失礼極まりないことを聞いてくる。が、倉敷は冷静に、
「君もそちらの方に向かってくれ、私もこの青年の話を聞いてからすぐに向かう」
「……」
 ちらりと久留間は苗木の顔を見た。血にまみれた彼の顔を……。
「……解りました」
 そして彼女は再び駆け足でこの場から去っていった。
 そしてまた沈黙が戻り、暫くした頃、苗木が口を開いた。
「……賑やかな……人でしたね」
「あぁ、そうだな」
「……」
 そして、またセミが鳴き出したとき、続きを話し始めた。

 階段を降りて、廊下を歩く……歩けば歩くほど、足取りが重くなり、頭痛がした。
 悪寒や幻覚、幻聴はますます好調で不快極まりなく続いている。今日ほど最悪な日も初めてである。
 木造の床がゆがんで見えて、時々膝の力が抜けて倒れそうになるときも多々あった。でも、負けるわけにはいかなかった。
 ―きっとこれも夢魔に違いない。
 彼はそう言い聞かせて立ち上がり、自由と開放感があるだけ、まだ良いと考えた。
 が、苦しいことに大差はない。ただ肉体的に苦しいか精神的に苦しいかの違いであり、どちらも桁にできない程辛いことに相違ない。
 そこでドライバーの先を握っていることが、途轍もなく安心できる気がした。
 ―いざとなったら、これを振り回せばいい。
 単純だが、その途中で夢から覚めてくれれば、それは有り難いことだ。
 ガクガクと震える足を進めて、ついにリビングへのドアを開いた。
 地獄だった。
 あの男が……刀を持っていた男が……自分を斬り、笑っていたあの男がいるのだ。
 苗木は戦慄を覚えた。足の震えはいよいよ止まらなくなり、氷嚢庫に閉じこめられたような肌寒さが襲った。が、ぐずぐずしていると……斬られてしまう。
 あの男は人を斬ることを興じ、苦しむ表情を見て喜ぶ獣である。茫然と立っているだけでは殺される……いや、また、死にたくても、死ねない苦しみが襲いかかるに違いない。
 ―絶対に嫌だ! 
 苗木はきつくドライバーの鉄の部分を握った。
 そして、あの男……刀を持ったあの男が立ち上がった瞬間―苗木は勢い良く走り出し、ドライバーのグリップで彼の左頭部を殴った。
 流石に男が蹌踉めく。
 すぐにグリップに握り返して―その時微かに水っぽい感覚を覚えたが―ドライバーを鎖骨の喉の間に突き刺した。
 有る程度深く刺し込むと、変に堅い所に当たったが、構わず左手を振りかざし、叩きつけた。
 引き抜くと、彼の新しくできた穴から血が噴き出し始める。
 ―攻撃の暇を与えるモノか!
 口から血を吹き出して、前屈みに倒れていく男に、後ろから突き刺して貫通させた。
 喉仏のすぐ左から、血の滴るプラスのドライバーが現れて、彼はついに動かなくなり、木造の床に倒れ込んだ。
 勝負は決まった。
 苗木の額は汗で一杯となっており、肩を忙しく上下に動いている。
 突然に、後ろから絹を裂いたような悲鳴が響いた。
 ―幻聴だ。
 そう思いながらも、苗木は素早く振り返った。
 そして、きらりと光るモノに目が止まった。
 ―包丁。
 苗木は叫びながら包丁を持っている人の方に近寄り、体当たりを見回せた。
 勢い良く倒れ込むと同時に、包丁が飛んだ。
 苗木は倒した人に構わず、包丁の方に飛びついていった。
 握ると同時に、何も確認せずにその人の胸を包丁で刺し込んだ。
 景気良く血は飛び出して、彼の顔を染め上げていく。身体全身が真っ赤に染まり上がっていた。
 彼は酷く興奮していた。目の前の者が見えず、幻覚に惑わされ、ここで何をしているのか全く気づかなかった。
 包丁を引き抜き、振り回し、人を傷つける行為がさも当然のように思えた。
 いったん手を止めて、荒い呼吸を落ち着かせて、倒れている人を見た。
 エプロン姿の胸から血を吹き出しているとは、些かシュールな絵のように思えた。
 ―エプロン!
 苗木は思い立った。その瞬間に包丁をするりと手から落ちていき、パシャンと赤い水を跳ねた。
 そう、エプロン姿の倒れいている人物は彼の母親であった。頬がはげ落ちそうになっており、口から血を涎のように垂らして横たわっているが、紛れもない、彼の母親である。
 すっと今まで見えていた幻覚が消えていき、とうとう現実のモノとして、この死体を見た。
 まじまじと、噴火口のような胸の穴を見ると気持ち悪くなってきた。
 目を逸らすために後ろを振り向くと、今度は父親が……首からドライバーを突き出して倒れていた。不思議なことに、左頭部がへこんでいるような感じもした。苦しもがいたためか、床に生々しく赤い傷跡を付けていた。無論、今はもうその指は止まっているが……。
 苗木は驚愕した。
 あそこにいたのは、夢の中で自分を斬りつけていた武士ではなく、自分の父親だったのだ。
 ―何なんだ!
 掌を向けて、見つめると……赤かった。握ると、妙なもちっぽさと生暖かさが浸みるように感じた。
 ―これも夢魔か!
 疑い、両端を見比べる。
 とても夢とは思えない。いや、貯まっていく血を見ているとそんな愉快な妄想は考えられなくなってきた。
 ―僕が殺した……。
 血だらけの手、制服にも点々と染み付いている。この場にいる自分以外、この二人を誰が惨殺したのだろう。いるはずない。
 ―僕が殺した。
 刺したときの感覚も、体当たりをしたときの感触も、血が自分の顔に浴びるときの生暖かさも覚えがある。
 ―僕が殺したんだ!
 乾いた笑い声をあげながら、フラフラと歩き始め壁にぶつかった。
 苗木は、今、何が、どうなっているのか、皆目見当も付かない状況にある。自分の行った行為が、余りにも愉快に見てきた。己の今までの人生が馬鹿馬鹿しくなってきた。夏に柘榴とは、季節情緒に溢れて小気味良いではないか。
 ―俺は狂った……。
 ―人を殺したんだ。それも親を殺したんだ!
 狂った笑いが止まらない。どこもおかしくないのに、でもなぜか快感だ。
 爽快である。
 母の血は生まれた所、父の血はその原因。微温湯は社会の悪で、最高の快楽。
 考えてみれば、可笑しくて、愉快でたまらない。
 声をあげて、高らかに笑っていた。
 ―もう……どうでもいい……。
 ―親不孝者のレッテルを貼られ、後ろ指さされて生きるんだ。
 ―幾ら偽善を働かしても、このレッテルははがれないんだ!
 ―最……高……だ……。
 壁を抉り、強く握り拳をつくる。一瞬の開放感が、苗木の身体に重くのし掛かり、頭の中が混乱し始める。
 混沌に陥った脳が奇怪な命令を下し、壁に勢い良く額を打ち付けた。
 鈍い音が大きく響きわたり、脳が揺れるような感覚を受けたが、構わず連打した。
 十発目ぐらいで、意識がもろうと仕出し、髑髏が重くなりだして、壁に赤い線を描いた。
 壁から頭を遠ざけると、妙な糸のようなモノがベタリと額に着いている。
 蹌踉めきながら後退すると、今度は父親の足を躓き、血だまりに飛び込んだ。
 狂ってもいないのに、視界か真っ赤に染まっている。
 この瞬間に、苗木の記憶は消えた。
 気づいたら、公園のベンチで座っていたのだ。

 日が西に傾いている。
 子供達が戻ってきて、この公園も随分賑やかになっている。
 倉敷は短くなった煙草を携帯の灰皿に入れて、大きく溜め息を吐いた。
 いつの間にか、彼らの周りには警察官が取り囲んでいた。
 倉敷はいったん彼らを見回してから、
「どうした?」
 そこに、久留間が出てきて、一枚の紙を見せた。
 倉敷はその紙を黙って受け取り、軽く目を通した。
 書いてあることの見当は大体付いていた。
「苗木……何で挑発に負けたんだ?」
 静かに訊ねた。青年はこう答えた。
「……解りません。ムキになって、怒声を飛ばしている内に、彼の話術にはまっていたのかもしれません」
 淡々と答えた。しかし、倉敷は、その言葉を信じなかった。変わりにこう返した。
「俺は……君が、本当は覚醒剤に興味があり、そして、今の辛い状況から逃げ出したかったんだと思うぞ。でなければ、三ヶ月間も、金を払って自分を傷つけるようなことはしない」
 ちらりと、苗木の方に目を向ける。彼は茫然とした表情をしていた。
「違うか?」
「……」
 答えられなかった。心に引っかかるところがあったからだ。確かに、その頃、受験受験と親から言われて、イライラしていたことは認める。でも至福を感じていたのも嘘ではない。
「それに、君の友達は……他人に迷惑をかけると言うことに、全く気づいていなかったようだ。君もそうなのだが……」
 苗木は茫然とした顔のまま、聞いていた。顔を見れば、死人と同じように白くなっている。ただ、所々べっとりと血が塗られている。
「禍福糾える縄の如しって事だ」
「……僕は……」
 青年が呟いた。
「罪を負っているのですよね?」
「……まぁな」
「罪は……死ねば滅ぼせますか?」
「いや」
 倉敷は即答した。これだけは自信があった。彼は冤罪者ではないことは明らかだ。故に死んだとしても、なにかが変わるわけではない。
 罪は罪であり、その他の何事でもない。滅ぼすためには、それなりの罰として苦痛を被るしかないのだ。
「断頭台には立てないのですか?」
「まぁな……、少年院で苦しみながら反省しな。それだけしかないんだ。償うためには…生きて血反吐を吐くしかないんだ」
「……」
 青年は肩を落とした。
「それに、レッテルは貼られた方が良い。そのレッテルを気にしないヤツと付き合えば、これからだってなんとかはなる。まぁ、君の反省の次第だがな」
 倉敷はゆっくりと立ち上がり、茫然としている苗木の方を向いて、
「それじゃぁ、行こうか……」
 苗木は言われるまま、すっと震える両手を差し出した。倉敷は黙ってその手首に手錠を填めた。
 カシャン。
 なぜかは知らないが、その瞬間、また苗木が何よりも遠くを見始めた。

 彼は廊下に立っていた。
 通っている高校の廊下だった。
 ひたすら続いている、殺風景な廊下……他の生徒は誰もいない。
 夕暮れらしく、橙色の日差しが射し込んでくる。
 あちらこちらを見回していると、三年十組と書かれたプレートが、転がっていた。
 拾い上げてみてみると、所々に傷やかけている部分があった。
 何が何だかわからないが、取り敢えず、このプレートのあった場所から最寄りの教室にはいる。自分のクラスだとは気が付かなかった。
 入って恐ろしくなった。
 制服ではなく、教員が着ていそうな、シックな背広に替わっていたのだ。
 ―どうなっているんだ!
 教室の中には誰もいない。手にはいつの間にか教科書が握られていた。倫理の教科書らしいが、苗木にとってそれは肝心なことではない。
 今、一番大切なのは、この場はどうなっているのかだ。それ以外に興味などはない。
 訳も解らず教壇の上に立ち、教卓に持っていた一式を置いた。
 この殺伐とした教室をぐるりと見回した。
 誰もいない。
 美しいぐらい、綺麗に並んでいる三十九の机と椅子……。
 不思議なくらい静かな教室……。
 茜色の空に長い影……時計の針は止まっており、苗木の足音が響くばかりだ。
 何故にここに立っているのか、全く理解できない自分……。
 俯き加減に溜め息を吐く。
 ―何で俺はここにいるんだ?
 途方に暮れていると、急に人の気配を感じた。
「どうしました?」
 手前から声が聞こえる。
 ……苗木がいた。
 紛れもなく苗木自身が椅子に座り、教科書を開いているのだ。黒い制服が初々しく見える……中学校の頃であろう。目の輝きような、薬をまだ手にしていない。
 ―だから何なんだ?
 目を疑いたくなった。
 ハッキリと認識できる……あれは自分なんだと……。
 掌を見ると、少し衰えたような感覚がした。服装も替わっていた。
 ―ここはどこなんだ!
 焦りながらも、苗木は見回した。……高校の教室、そのままである。自分の身体が弱冠重いように感じるのだが、基本的な体型は変わっていない。華奢で平均的な身長は、高校生の時と同じである。
 ―どう言うことだ!
「先生! どうしたんですか!」
 また声がする。
 中学生の自分の奥に、私服の……おそらく小学生辺りの自分が座っていた。
 懐かしがっている場合ではない。
 いよいよ頭が錯乱してきた。
 ―もう、どうでもいい! 悪い夢なら覚めてくれ! 今朝ので懲り懲りしているんだ!
 心の中で叫んだ所で、何の効力も生まなかった。
 黒板に拳を叩きつけた。が、妙に柔らかく……変に暖かかった。
 夢魔の中だ十分に有り得る。
 その温かみは、苦しみと似ているが、くすぐったくも有り、ウットリと浸ってしまう。下半身も妙な興奮を覚え、腰の力が徐々に抜けて行き、ヌトっとした温かみによる快楽の渦に優しく抱かれて行く。さながら初めて夢精した夜のようで、その時の快感を思い出させてくれる。
 その時……。

 バシィ!

 鋭い音と共に、頬を叩かれた。
 蹌踉めきながら、体のバランスを取り、勢いが治まってから、真っ直ぐ前を見る。一つ一つが噛み締める様に緩慢で、壊れた玩具の様だった。
「苗木……どうした……」
 どうやら、自分がまた幻覚を見ていたようなので、叩いて元に戻したようだ。
 いつの間にか日は暮れ始めており、公園には警察官達と、この青年しかいなく、閑古鳥が鳴いている。
「倉敷さん……」
「なんだ?」
 ギョロっと赤々と血で染まったグロテスクな眼を向けて、彼はこう呟くように言った。
「走馬燈のようなモノを見ました」
「……そうか」
 全員が無視するような明後日を見ていたが、倉敷だけはしっかりと、このわけの解らない彼の言葉に耳を傾けた。
 倉敷は振り返り、先導する警官の足を止めさせた。苗木は直立と言うよりも、猫背で顔を下に向けて、悲しそうな……悔しそうな顔付きで……、
「……でも……死ねないんですね……。死んだら、失礼なんですね……」
「そうだな」
 倉敷は静かに返すと、彼は続けてこういった。
「でも……死んでいるのですよね……」
 返答ができなかった。




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