The angel of darkness
蒼樺

The angel of darkness 05



 剣を振り始めてもうどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
 もう何回空を切ったのか、つまりは何回攻撃をかわされたのかは、とっくにわからなくなっている。
 SSが持つ二振りの短剣は、彼が攻撃を始めてからというもの、まだ一度も当たっていない。フェイントを混ぜていても、まったく通じない。
 このころになってようやくSSの心にある事実が浮かんだ。いや――実際は最初に向き合った時からわかっていたことだ。
 今戦っている相手は、とんでもなく強い。
 自分たちもそれなりに強いという自負はもちろんあった。相手の方が強くとも、戦い方によっては勝つことが出来る。だからこそ、彼は攻撃を仕掛けたのだ。
 相手が強いことぐらい経験で――いや、子供の時から当たり前の知識としてわかりきっていた。何せ、自分が今まで戦い殺してきた相手は獣の力を併せ持った連中だったからだ。それでも彼は勝ち続けてきた。表情を完全にコントロールする術と、短剣で。
 先に仕掛け、相手に反撃させる暇を与えることなく仕留める。今までの経験から導かれた答えは至極単純なものだった。
 今回もそれに従って先に攻撃をし、倒すはず――そう、はずだったのだ。
 だが、最初の一振りをかわされた時にSSは気づいた。
 気づいてしまった。
 何の予測もつかなかった体の動き。ただ、わずかに体を横に傾けたのだと気づくのに、時間がかかった。それだけに、驚愕した。
 強い――そんな言葉ではくくることの出来ない力を秘めた存在が目の前にいる。勝てない。そう確信した。そして、自分の愚かさを呪った。自分は、なんてバケモノを相手にしているんだと。
 しかし、彼はプライドと自分の腕を信じてその事実を無理矢理抑え込んだ。だが、そうして抑え込み続けるのにも限度というものがある。最初は小さな綻びでしかなかったそれは、徐々に大きくなってゆき、今では完全に溢れ出している。
『……殺さないの?』
 クレアがこういった瞬間、全身に鳥肌が立った。それまでそこにいたことにすら気がつかなかったというのに、言葉を発した途端に回りにいる三人の存在が消え失せてしまうほど圧倒的な存在感があった。
『戦いになるのかしら』
 彼女の言う通りだ。これではまったく戦いになっていない。軽くあしらわれている。これでは大人と子供の――いや、それ以下の戦いではないか。小さなアリが象に戦いを挑んでいるようなものだ。
 こちらがどんなに必死になって攻撃を仕掛けても、相手は傷を負うどころか攻撃されていることにも気がついていない。そして、ほんの気まぐれで足を踏み出された時、こちらは抗う術なく踏み潰されるのだ。
『……戦いの場に身を置いた者同士、その長さと経験は絶対の差として現れる』
 クレアの言葉が綻びを作っていった。彼女の声は憎たらしいほど透明で、心の奥底にまで響いてきた。
 そして、彼女の言う通り経験の差は僅かな希望さえ奪い去ってしまう。
『……私は、400年以上という年月を生き続けている。あなたに、その意味がわかるかしら?』
 400年。人がそんなに長い年月を生きていられるはずがない。《悪魔の落とし子(ハーフ・デーモン)》でさえ150年が限度だ。しかし、その言葉はSSの脳裏にある単語を思い浮かばせた。
 400年ちょっと前に起きた大惨事。1000年も昔に起きた人間と魔族との戦いの再来だと騒がれた人外との戦争。悪魔聖戦と呼ばれているそれを引き起こしたとされている張本人たちの噂。彼等はその後もどこかで生き続けているという噂。
 それを聞いた時は笑い飛ばしたのだが、今、彼の目の前にいるこの悪魔はまさか……
「……《恐怖の欠片(ピース・オブ・テラー)》」
 その単語を発するだけでもかなりの勇気を必要とした。彼等と共存している人々にとっては聞くだけで死に至る呪いや、見ただけで狂い死にするのと同等の意味を持つ忌み名である。
「……正解」
 応えたクレアの顔からは何も感じ取ることが出来ない。ただ淡々と事実を認めただけである。
「……私は――私たちはそれを与えるためだけに生かされている」
 クレアはSSの顔から恐怖を感じ取ったらしかった。掠れた声でそれを指摘する。
「……そして、それと同時に子供たちを守る役目もある。だからこそ壁を作ってここに閉じこもった。私たちはあなたたちと同じように生きることに必死になっている。でも、それを壊そうとしたのはあなたたち」
 攻撃をかわしながらいつになく――といっても、SSが知っているはずもなかったが――饒舌になって語るクレア。SSは短剣を振るいながらもそれを聞いていた。
「……でも、それは正しいこと」
「正しい?」
「……そう。あなたたち人間は私たち化け物を怖がる。だから、それに打ち勝とうと足掻いて殺す。そうやって目の前の恐怖を拭い去って満足感を得る。でも、私たちも殺されるのが嫌だから変態して抵抗する。その結果人が死に、人間はますます怖がる。そして、殺す。その繰り返し。でも、その連鎖は私たちの存在意義を確立させ、正しい方向へ向かわせる」
「それは……一体何だというのですか」
「……戦争の少なくなった世界での人工的に作られた“目に見える恐怖”への迫害や憂さ晴らし及び“目に見えない恐怖”を覆い隠す身代わり。いわば永遠に救われることのない生贄の儀」
 それが、《悪魔の落とし子》が造りだされた理由だというのか。
「まさか、五つのスラムの長は……!」
 噂では《恐怖の欠片》は五人いたはずだ。始まりの五人と呼ばれる総ての元凶。そして、プルート・スラムがある場所も五カ所である。
「…………………………」
 クレアは答えなかった。しかし、変わりに笑みを浮かべている。
 変化が起きた。
 風がほとんど吹いていないというのに、緑の髪が波立つ。そして、それぞれが独立して動き始めたのだ。蛇のようにうねりだした髪は次第に伸びていき、腰のあたりまで届く。
 次の瞬間、SSは――いや、その場にいたクルディアナたちも自分の目を疑った。クレアの全身から、光が放たれたのだ。その光は強く、まともに見ることが出来ない。しかし、それでいてクレアの全身を優しく包んでいる。
 光が収まった時、クレアの変態は終わっていた。
 驚いたことに、さっきまで鮮やかな緑色をしていた髪は、今は美しいプラチナブロンドになっている。
 全身は淡い光に包まれ、クレアの肌と服の色を白みさせているが、彼女の両腕に現れたものだけは、薄れさせることが出来ていない。
 深紅のそれは遠くから見ればただの紋様にしか見えなかっただろう。しかし、間近にいたSSにははっきりと見えていた。
 まずもっとも眼を引き寄せさせるものは両手の甲にある丸い紋様だ。正確には何らかの文字らしきものが細かく、びっしりと書かれている。そして、そこから中指の先まで一本の線が延びている。見方によれば、それは剣のようにも見える。しかし、これは大したことではない。
 問題はそこから腕の方に伸びている紋様だった。
 彼女の腕には大きく分けて二本の筋が肩のあたりまで伸び、途中枝分けれしている。しかし、どう見てもただの紋様だと言えない理由があった。
 動いているのだ。腕の紋様が、まるで自分で意志を持っているかの如く動いている。その光景はまさに地獄の魔物が渇きを癒すために餌を求めて手を伸ばしているかのよう。そして、SSは“それ”がクレアの手の甲から“外に飛び出て”腕に絡みついたのを見ている。
(今のは……目の錯覚でしょうか?)
 あまりもの事で攻撃の手を止めている。しかし、そのことにも気がついていないようだ。
 もう一つ――これがもっとも大きな変化だ――目立つものがあった。
 クレアの背中に一対の翼が生えている。それ形状は神殿で見かける壁画に描かれた、時の女神マリシアに仕える天使のそれに酷似していた。しかし、クレアのそれは黒い。それもどの黒よりも鮮やかで、すべてのモノを吸い込んでしまいそうな印象を与える純粋な闇色だ。
「……あなたは、闇は好き?」
 呟き程度の音量で問われた質問は、不思議とその場にいた全員の耳に届いていた。
『……闇は、好き?』
 それは、一日前にクルディアナとジャクスがされた質問だった。
「闇は、恐れるものでしょう」
 SSは震える声で答えた。
「……違うわ」
 しかし、クレアはすぐに否定する。
「何が、違うというのです。闇はすべてを覆ってしまう。何も見えない時、人は不安を覚えるものです。それは不安となり、恐れとなる」
 反論しているSSの口調は平静そのものだった。話をし続けることで自分の中の恐怖を再び抑え込んでいるのだろう。
「……それは、表面でしかない」
「表面?」
 そう、と一拍おいてから、クレアは答えを言った。
「……闇は、何もない」
 クレアの口調には何の感情もなかった。さっきまで確かにあった鋭い刃のような意志が完全に消え失せている。瞳には再び虚無が満ち、感情を読みとることが出来なくなる。
 変わりに、ジャクスが感じたような“それが何なのかわからない”という不明瞭さが生み出す恐怖が顔を覗かせている。
「……闇は、あるものすべてを飲み込み、消し去ってしまう。真なる闇は光をも覆い隠し、存在することを許さない。絶対にして絶大。そして、その中で唯一存在を許されているものは“無”のみ。
 闇を知らない人はいない。でも、真なる闇を知っている者は少ない。それを知っているのは絶望の果てに到達した者だけ。真なる闇に包まれた者は何も感じず、ただ在るだけ。それは“無”に等しい」
 クレアの語ることは果たして真実なのだろうか。SSは必死に見極めようとする。しかし、何も読みとることが出来ない。感情も、表情もない。瞳からも何も読みとれない。ないづくしだ。
 ふと、ある考えが浮かんだ。
(まさか、既に“そう”なのか!!)
 途端にSSは震えた。目の前にいるクレアが、彼女の言った絶望の果てに到達した者であるなら、彼女は何も感じていないことになる。自分が感じた恐怖も、戦う事への勇気も、誰かを殺した時も感覚も、何もかもが。
 楽しいことも、悲しいことも、物を食べておいしいと思うことも、理不尽さに怒ることも、それらすべてを感じることなく生き続けると言うことは、一体どれほどのものであろうか。
 想像など決して出来ない。いや、想像している時点で既に間違っている。
 では、さっきまであった意志は何だったというのだ?
 あの触れればたちどころに切り裂かれてしまいそうな刃のような闘争心も、笑みを浮かべていたことも、彼女は感じていないのか。アレは、彼女の確かな感情であったはずなのに。
 もしそうだとしたら、クレアというニンゲンは自分や彼女の仲間とはまったく別の次元に存在することになる。
「……あなたは闇が恐ろしいと言った。ジャクスは嫌いと言った。クルディアナは淋しいと言った。でも、それは事実であると同時に戯れ言でしかない。あなたは、闇を知りたい?」
 声が出せなかった。
 クレアに比べたらクルディアナたちなどちょっと体質の変わった人間でしかない。そう思わせるほど、恐ろしい。

《恐怖の欠片》。
 聞くだけで死に至る呪い。
 見ただけで狂い死にするバケモノ。

 アレは決して誇張したものではなかったのだ。
 SSは真っ青になった顔をぎこちなく左右に動かす。今すぐこの場から離れたい。たとえどんなに罵られようとも、今まで培ってきたすべてのものを棄ててでもこんなバケモノに殺されるぐらいなら、逃げ出してしまった方がよっぽどマシだ。
 だが、身体が動かなかった。それどころか、意に反してクレアに近づいていく。
(何でだ! どうして勝手に……!!)
 思考は頬にあてられた冷たい感触によって中断された。氷が触れたような冷たさ。それが一瞬で全身を駆け回る。見たくない。しかし、瞳は自分の頬に触れているクレアの手を映している。
「……安心して。何も感じないわ」
 その言葉を聞いた瞬間、SSの意識は深い闇に飲み込まれていった。
 その光景はおぞましいの一言に尽きる。
 クレアの腕に巻き付いていた深紅の“何か”がはがれてSSに食いついたのだ。そして、数回何かを咀嚼するような音が響き、僅か数秒でSSの身体は深紅に包まれ、次の瞬間にはすべてが消滅していた。
 深紅の紋様は、すぐにクレアの腕に戻った。夢のような光景。だが、消えたSSと蠢く紋様、二の腕から手の甲に向かって移動する赤黒い何か。それらが今見たものが事実だと言っている。
「……闇の世界へようこそ」
 クレアは微笑むと――これも自覚していないのかもしれない――変態を解いた。
 それを見ていた三人に言葉はない。
 彼等もまた、SSが感じたのと同じ恐怖で動けないのだ。唇が乾き、無意識に舐めるものの、それ以外に出来ることがなかった。
 変態を解いたクレアは髪の色も長さも、元に戻っている。腕の模様も、背中にあった翼も、当然消えている。しかし、今までに見てきたクレアと同じ人物には見えなかった。

 クレアの変態した姿を初めて見るジャクス。その姿は彼が見てきたものの中でもっとも美しかった。しかし、同時に“死”が薄皮一枚挟んだ場所にあることを思い知った。

 長い間虚ろなクレアを見てきたクルディアナ。クレアの力が自分など比べものにならないほど強大であることを、彼女は改めて確認させられた。恐ろしさと、それに勝る魅力を見た。

 周りにあるものすべてが敵だと思い込み、クレアとも戦ったことのあるユウ。あの時も圧倒的な力を前に死にかけた。しかし、本当の姿を知ってしまった今、次は確実に死ぬと確信した。

 自分の中にあったクレアという人物像が、すべて崩れてしまった。クレアの顔がこちらを向く。その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。三人は感情のないその笑みを見て、また震えた。
「……あなたたちは、闇は好き?」


「まったく、いきなり何処かに消えたと思ったらハンターと戦っただと?」
 マルコフ・ゲイラーはコーヒーをカップに注ぎながら呆れきった声を出した。視線の先にはついさっき帰ってきたユウ・ミランダがいる。
「大変だったんだよ? 内蔵グチャグチャになっちゃったんだから」
「……………」
 その言葉を聞いたマルコフは手に取ったカップを投げつけようか本気で考えた。ついさっき食事を摂ったばかりだ。言葉だけとはいえ、気分のいいものではない。
「それで? 嬢ちゃんも《悪魔の落とし子》だと言うことだが?」
 視線を横にずらす。輪になって座っている“客人”たちを見ながら言葉を続ける。
「そう踏み込んだことまで聞くつもりはないが、きちんと説明をしてくれないか」
「わかったよ。えっとね、私は元々カンランの出身でね、両親がちょっと常識外の人たちでさ、変な言い方だけど私ってハーフなのよ」
「ハーフ? まさか、人と《悪魔の落とし子》のか!」
「そうだよ」
 確かにそんなことは考えられなかった。お互いに憎しみ合っている種族の間に子供が生まれるなど。もっとも、完全にないとは言い切れないだろうが、それでも常識では考えられないことだ。
「それで、中途半端な私は棄てられて、何とか生き延びたんだけど、人間も《進化した人間(ニークシェア)》も信じられなくなってたわけ。で、たまたま出会ったクレア様に戦いを挑んで、ボロボロのグチャグチャにされて負けたのでした」
 ニヒヒ、と笑いながらユウは自分の生い立ちを説明した。
「それからはクレア様にべったりくっついて、その後ほとんど動かなくなっちゃったクレア様の変わりに各街を渡って、その後たまたま誘われた対魔監査官の試験に合格しちゃって、その後ここに配属されたのでした。ちゃんちゃん」
「なるほど、つまり簡単に言えば嬢ちゃんが監査官になったのもここに配属されたのも偶然で、別に隠すつもりはなかったと」
「簡単に言ってないような気がするんだけど」
「……気のせいだろう」
 わかりきったツッコミにそっぽ向いて反応する。
「ところで、今更だが二人ほど増えているようだな」
 マルコフの視線はクルディアナ・リホーク、ジャクス・ウィルガーと流れていき、止まった。
「紹介するねん。被害者の妹さんのアニスちゃん。で、長のクレア様。この人は私がお世話になってるマルコフ・ゲイラーさん」
 紹介されてアニスはおどおどしながらお辞儀をした。一方クレアはまったく反応を示さない。
「ほう……」
 マルコフは二人をまじまじと見、
「長だとっ!!」
 少し間を空けてから驚きの声をあげた。まあ、プルート・スラムの長がこんな所にいるのだから驚いて当然だろう。
 初めて見る長の顔は整ってはいるが、どこか疲れ切ったような、そんな雰囲気を漂わせている。存在感は人一倍あるというのに、ちょっと目を離した瞬間にいなくなってしまいそうな儚さも。だが、マルコフは彼女が長であると聞いてすぐに納得もしていた。
「これはようこそ」
 コーヒーを入れる手を止め、客室に入り、クレアに向けて手を伸ばすが、やはりクレアに反応はない。逆に、アニスのほうが彼の手を握る。
 マルコフは笑みを浮かべてアニスと握手を交わすと、改めてコーヒーを入れにキッチンに向かった。
「それで? これからどうするんだ?」
「どうするって?」
「嬢ちゃんはスラムに戻るのかと聞いているのだ」
「ん……続けるよ、監査官」
「そうか」
 正直安心した。面倒くさがり屋で、ずぼらで、なかなか動かないのが欠点だが、マルコフにとってユウは仕事の大事なパートナーであるし、何よりも小生意気な妹が出来たようで嬉しかったのだ。たとえそれが自分とは違う存在であったとしても。
 彼女――マルコフはユウが男だとは知らない――が《悪魔の落とし子》であろうとなかろうと、マルコフはユウというニンゲンを認め、一緒にやっているのだ。その事実は変わらない。
「ということで、これからも宜しくねん。マルちゃん」
 ピキ……
「ていっ」
 マルコフは反射的に近くにあった物を握り、ユウ目掛けて投げつけた。
「うわっ」
 しかし、間一髪でユウはそれを受け止める。
「ちょっとぉ、包丁は危ないよぉ。マルちゃん」
 ヒュン
 パシ
 続けてコーヒーの入ったカップが飛んでくるが、これも中の液体をこぼさないようにうまくキャッチされてしまう。
「ふむ……なかなか面白い芸だな」
 それを見ていたジャクスは間の抜けたコメントをする。
「……芸、なの……?」
 遠慮がちにだが、アニスも口を開いた。
「アニス、こんなものを芸だと思ってしまってはダメよ。これはただの夫婦喧嘩よ」
 クルディアナが横から口を挟む。
「いや……それも違うと思うが」
「あら、人間の間ではこう言うのではなかったかしら?」
「そうなのか? それは知らなかったな」
「ユウ様、結婚したの?」
「そう言えばしていないわね。というより出来ないわね。となればやはり夫婦喧嘩という言葉は当て嵌まらないわね」
「そう言えば夫婦漫才という言葉をどこかで聞いたことがあるぞ」
「それも違うと思います」
「むぅ……そうか」
 ユウとマルコフが物を投げあっている間、クルディアナたちも論点のはずれた会話をしていた。


「何だか久しぶりね」
 クルディアナはグラスを傾けると甘い息と共に呟いた。
「何がだ?」
「あなたと食事をする事よ」
「ふむ……確かにそうだな」
 ジャクスも遠い過去に思いを馳せる。
 あの頃は何もかもが一緒だったような気がする。寝るのも、遊ぶのも、ご飯を食べるのも。年上のジャクスが一方的にクルディアナを引っ張り回していただけのような気もするが、それでも楽しかったことには間違いない。
「あの頃のことはいい想い出だけど、同時に思い出したくないものでもあるわね」
 何かと苛められていたことを思い出したのだろう、恨めしい視線をジャクスに送る。
「だいたい、子供とは言えどうして兎が鷲をいたぶれたのよ」
「さぁな」
 その疑問にジャクスは答えなかった。
(お前のことが好きだったからだよ)
 ええい、こんな事言えるか!
「何よそれ」
「ひとつ言えるとしたら、あの頃はまだ怖いと思わなかったのだろうな」
 それは草食動物が肉食動物に対してもつ本能的な恐怖。いつ自分が餌として殺されるのだろう。そう言った強迫観念が少なからず生まれてくる。もちろん、彼等は同じニンゲンなのだから仲間を襲って喰らうことなどしないが、遺伝的に植え付けられた感情を抑えることは出来ない。
「今は怖いんだ」
 クスリと笑い、クルディアナはジャクスを見つめた。
「怖い? ああ、そうだな」
 ジャクスもクルディアナの視線をまっすぐ受け止めて答える。それを聞いたクルディアナは悲しげに微笑む。が、続いてはき出された言葉は、彼女の目を丸くさせた。
「だが――それもなくなった」
「え?」
「お前の戦いを見ていてな、怖さがなくなってしまったよ」
 先の戦いで始めてみたクルディアナの姿。とても猛々しく、そして、美しかった。クレアが見せた美しさとはまったく別物の、その瞬間を全力で生きているものがもつ命の輝きだ。
 あの時、ジャクスは確かにクルディアナに見惚れていた。
 戦う姿を――彼女の本来の姿を二度と忘れまい。ただの鳥ではない。捕食者として、空の制する覇者として戦うあの姿は生涯何度も見れるものではない。もしかしたら、アレが最初で最後なのかもしれない。ハンターがスラム内に侵入することなど、それこそ数十年に一度あるかないかだ。もし――非常に不謹慎な考えだが――次にそのようなことが起きたとしても、その時に戦うのは彼等ではない。その次の世代だ。
「俺は何も出来ないが、それでもお前が戦っている姿を見た時に共に戦っているような錯覚を覚えた。そして、お前の成長を喜べた。お前はもう俺が面倒を見なくてもしっかりとやっていけるのだと確信した時は、本当に嬉しく感じた」
 兄として、父として、一人の友人として、共に暮らしてきた日々。
 互いに身寄りがなかった。孤児院に似た場所で出会った二人は、兄妹のように遊び尽くした。
 年齢でも、立場的にも兄として立ち回ったジャクス。泣き虫だったクルディアナをあやすのに四苦八苦の毎日だった。
 年齢でも、立場的にも妹として立ち回ったクルディアナ。強引で悪戯好きだったジャクスを心の底から慕っていた。
「……兄さん」
 思わず呟き出た単語にクルディアナは驚いた。
 ――兄さん。
 ジャクスと別々に暮らすようになってからはまったく使わなくなった単語。
「ねえ」
「何だ?」
「また、さ。兄さんって呼んでいいかな?」
 ジャクスの顔が驚きで満たされる。しかし、次の瞬間には笑みに変わっていた。昔と同じ、それを見ただけで安心出来たあの笑顔に。


「……過去を隠すことを止めた者は新たな心の拠り所を手に入れた」
 暗い部屋の中で、クレアは誰に聞かせるわけでもなく言った。
「……過去を思い出すことが出来た者は昔築いた絆を取り戻した」
 部屋にただひとつある窓からは月明かりが差し込んでいる。灯りの点いていないこの部屋では、青白い光がただの陰気な部屋を不可思議な空間へと変質させていた。
 その中で、クレアは一糸まとわぬ姿で照らされている。ただでさえ白い肌が、今は月の光と相見えて幻想的な輝きを放っている。
「……では、過去を好きになれない者は?」
 そう言って、クレアは唇を歪めた。彼女自身は気がついていない笑み。しかし、何となく自分が笑っているのだと感じてはいた。そう感じたのは一体何十年ぶりだろうか。いや、何百年か?
 もしかして、自分は闇の中から抜け出し始めている?
 それは先の戦いを行っているときから感じていたことだった。何となくだが、感情を取り戻しつつあるような気がする。しかし……
 あり得ない。
 闇から抜け出すことなど、何者にも出来はしない。たとえそれが“最強に匹敵する”力を与えられた自分でも、出来るはずが……
 そう思った途端に自分が笑ったという感覚は失われた。同じように表情も消える。虚ろな瞳は窓の外に見える月に向けられてはいるが、だからといって月を見ているわけでもなかった。
「……私の亜麻色の髪。私の人間としての記憶」
 記憶? そんなもの、まだ残っていたのだろうか。400年という長い年月を生きている内に、自分が人間だった頃の記憶は失われていった。自分が昔どんなところに住んでいて、どんな人たちと暮らしてきたのか。
 あの狂科学者から受けた仕打ちの怒りを発散させた後、クレアは真っ先にそれを忘れた。何故なら、彼女は見てしまったからだ。あれほど大好きだった人たちの血にまみれた自分自身の姿を。それから、クレアは涙が涸れるまで――涸れた後も泣き続け、泣き終えた頃には闇に取り込まれていた。
 後は忘れるだけだった。
 辛い記憶から大事な記憶まで、区別なく。
 最後まで残った記憶といえば、自分の髪の色というどうでもいいようなものだった。ああ、髪の色なんていつまでも覚えている必要なんてないのに。いまさら悔いたところで、何ともならないというのに。私はまだ未練を残している。
「……私の……………髪?」
 半ば器械的に腕が髪に伸び、目に見える位置までもってくる。緑色の髪が映る。

 髪……緑色の髪。
 髪……
 私の……○○色の髪……
 あれ?
 私の髪の色は……………

 次の瞬間、クレアの中に残っていた最後の“感情”と“記憶”が消滅した。クレア自身が語った真の闇の中に埋もれていった。
「……私、は」
 ――――――――――何?
 クレアというニンゲンをそうたらしめていた記憶が総て消えてなくなった。それは、クレアが生きてきたという実感を根こそぎ剥ぎ取っていく。
 ―――――では……今ここにいて、立っているモノは何。この人の形をした入れ物は、何。
「限界を超えてしまったのね」
 突然割り込んできた声。その声にもクレアは反応を示さない。ただ、月の明かりを浴びながら立ち尽くしている。
「誰よりも優しくて、誰よりも繊細だった私の妹――」
 闇の中から姿を現したのは、背中に蝙蝠のような巨大な羽根を生やした少女だった。片側だけ長い前髪のせいで左目しか見ることは出来ない。そして、その瞳は金色だった。
 少女はクレアの正面に回ると、その身体を優しく抱擁した。金属質の巨大な腕がクレアの背中を撫でる。
「ご苦労様。もう休んでいいわよ。死ぬことはないけれど、あなたが感じてきた苦しみからは解放された」
「僕らの中で、もっとも傷つくことを恐れていた」
「だが、誰よりも多く人を殺し、誰よりも激しく傷ついた」
「でも、それはすべてを愛したいという君の想いだったね」
 クレアの囲むように、更に三人の姿が浮かび上がる。クレアの虚ろな視線がそれらを捉える。クレアは暫く彼等の姿を見続けていた。



 ど  こ  か  で     み  た  ?



「……あ……………ああ、ああああぁああ……あああぁぁぁぁぅああぁぁぁぁぁ!!」
 それまで何も言わなかったクレアが、突然引きつけを起こしたように泣き始めた。
「……に、ぃす……かお、す……ける、おね……ざんだあ……………」
 昔の仲間の――長い間“家族”で居てくれた4人の名前を言葉にする。そして、一頻り泣き続けると、糸の切れた操り人形の如く崩れた。
 腕の中でまったく動かなくなったクレアをニークシェア・ル・ルースは愛おしげに抱きしめた。静かに座り込むと、足下に落ちていた単を着せる。
 続いてケルオネ・フェンラー、カオス・リューシャルト、ザンダー・ミルディスの三人がクレアの身体を丁寧に持ち上げて寝台まで運び、寝かせる。
「クレア、ニンゲン誰だって闇は持っているのよ。私達も、子供たちも、そして人間たちも。でもね、闇は単独では存在できないのよ。どんなに深い闇でも、光がなければ存在できないのよ。もちろん、あなたにも。クレア、どんなに暗く、深い闇の中にも光が差す時がある。例え微かな存在だったとしても、その光をどうか見つけて。そして、あなたが無くしてしまったものをもう一度掴み取って」
 ニークシェアたちは――4人の《恐怖の欠片》たちはクレアを暫く見つめ続けた後、現れた時と同じように唐突に消え失せた。


 翌朝、クレアを起こしに来たクルディアナがクレアの変貌に気がつく。
 誰の声にも応えず、指一本動かすことなく、虚ろな瞳だけを天井に向けている姿を。それでも死ぬことのない、生きた屍を。



 彼女は闇の中にいた。
 闇の中には何もない。
 目に映るものも、肌に感じるものも、その他のすべての感覚もない。
 自分の姿さえ、いや、自分という存在さえも不明瞭な世界だ。
 ――クレア。
 そんな中、クレアを呼ぶ声が聞こえた。無くなってしまったはずの記憶の隅に僅かに引っかかるものがある。この声は……
 ――クレア。
 暖かい。感覚を通り越して、直接クレアという存在を温めてくれる。私は、この感覚を知っている。知っていたはずだ。
 それが何か、どうしても思い出せない。
 もどかしい。
 こうして、懐かしさを感じているのだから、知っているはずなのに。
 ――クレア、お休みなさい。
 ああ、そうだ。これは確か温もりというものだ。優しく抱きしめてくれたときに感じたもの。お休みと言ってくれたときにどこか安心できたもの。間違いない。これは、温もりだ。
 でも、何処から?
 ――クレア、お誕生日おめでとう。
 ああ、どうして忘れてしまったのだろう。
 こんなにも大事な記憶を、感情を、想いを。
 いつも私を見守ってくれていた人達のことを、私は真っ先に忘れてしまったんだ。辛いから、悔しいから。理不尽な生を授かるぐらいだったら、いっそのこと死にたかった。それでも、死にたくなかった。その矛盾が生み出した自我の崩壊。何千何万にも分解した自我が、少しずつ形を取り戻していく。
 ――クレア、愛しているよ。
 私も愛しています。誰よりも、貴方達のことを愛しています。今、その事を思い出しました。
「……お父さん、お母さん」
 そして、闇の中に一点の光が生まれ、クレアの意識を包み込んだ。


 
   あとがき

「The angel of darkness」はいかがだったでしょうか。
 何だか、中途半端な知識と正しいか微妙に謎なうんちくで行を稼いでしまって……その辺は力不足を感じておりますが、自分なりに精一杯書いたのでそのあたりは御慈悲を。

 それはそうと、この作品は世界観に関することをほとんど排除してひたすら“闇”とやらにこだわってましたが、果たしてうまく書けていたでしょうか。まあ、これが僕の持つ闇のイメージの一つなんですけどね。
 クレアは主人公だというのに、不幸な終わり方をしてしまいました。でも、どうしても「闇の中にも光は差す」という言葉を入れたかったので。最後で少しは救われたでしょうか?

 最後に、掲載して下さった明様。ご多忙にもかかわらずどうもありがとうございました。
 蒼樺
                                                                      



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