幸せ列車
 刀華





1、プロローグ

7月17日 幸せ列車はもうすぐ終着駅に着くらしい。
短かったようで、長かった一週間だった。
今、この幸せ列車には私一人しか乗っていない。
今まで、いろいろな人が自分の幸せの終着駅に到着した。
他の乗客の幸せは、どんなものだったんだろうか。
私の幸せは、いったい何なんだろうか。
「次は、7番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
荷物は、小さなバックと私自身の体ひとつ。
私の幸せは、どんな形だろうか。

2、切符

7月10日 一枚の封筒が私の元に届けられた。
差出人は『幸せ鉄道会社』
新手のサギだろうか。
とりあえず封筒を開封してみる。
中には一枚の切符と、一枚に紙切れが入っていた。
笑ってしまった。
『おめでとうございます。あなたは幸せ列車の切符を手に入れることができました。これであなたの幸せは保証されます。日時、場所は……』
何かのいたずらだと思って、ゴミ箱に封筒に戻した紙切れと切符を捨てた。
こんなミエミエのサギのようなものに引っかかる人がいるのだろうか?
別に今の日常が退屈、と言うわけではなかった。
充実しているわけでもないけれど。
こんなものに頼らないで、幸せは自分の手で掴みとるものだ!
そう決めたのだ。
それが私の信条だし。
ああ、まずいなぁ。
こんなこと考えてたら、ちょっとだけ幸せ列車の切符に興味がでてきてしまった。
まあ、明日は仕事もあるし、こんなものに行っているヒマはないか。
今日も会社に行って帰ってきて、平凡な一日だったけど、疲れた。
もう寝ることにしよう。

3、幸せ列車

7月11日 結局列車の発車する駅に立っていた。
会社には、有給届けを出した。
急だったから受理されるか心配だったが、会社が忙しい時期ではなかったのであっさり受理された。
幸せが何か、気になって仕方がなくなってしまった。
好奇心は猫をも殺す、とはよく言ったものだ。
駅、とはいっても、ただの何もない海岸線。
レールもなければ、ホームもない。
これはやっぱりいっぱい食わされた、と思い苦笑した。
他に同じように騙されたカモがいないか探してみたが、どうやら私だけのようだった。
こんな馬鹿みたいな手に引っかかるなんて。
どこからかドッキリカメラが現れてくれたほうが、まだ惨めじゃないな、と思った。
このまま帰るのも勿体無いし、久しぶりの海だ。
少し一人寂しく砂遊びでもして行こう。
そう思い、波打ち際に歩を進めようとしたとき、どこからともなく列車の警笛のような音が聞こえてきた。
うそ!?
海のほうから列車(?)が走ってくるのが見えたのだ。
さすがに驚いた。
ぼーっ!っと煙と警笛を撒き散らしながら列車が私の前に止まる。
『お待たせいたしました。七番の乗車券をお持ちのお客様は、足元の段差に気をつけて、列車にお乗り込みください。』
機械的なのか、本当に人の声なのかわからないアナウンスが流れてくる。
七番?
切符を確認すると『No7』と確かに書いてあった。
それを確認すると、恐る恐るドキドキしながら列車に数万歩よりも大きい一歩を踏み出した。

「本日はご利用いただき、ありがとうございます。恐れ入りますが、乗車券を拝見させていただきます。」
初老の紳士的な男性が席に着いたばかりの私に、声をかけてきた。
おそらく車掌さんだろう。
切符を手渡すと、ありがとうございます、と言い切符にパンチで穴を開けた。
あまりに古風なので、少し笑ってしまった。
電車は一両編成。
私のほかに乗客は6人ほど乗っているようだった。
清楚な感じ若いの女性。
どこかの本で読んだことのあるような顔をした中年の男性。
言い方は悪いが、人生に疲れた感じの男性。
黒人の少年。
品が良いが、どこかやつれた感じの老婆。
どこかで見たことのある犬。
正確には5人と1匹だった。
犬にも乗車権があるのか、と思い少し可笑しくなった。
乗客全員が同じ場所から乗ったわけではないのかもしれない。
座る位置もてんでバラバラ。
誰も話し合っていたり、仲良くしているような雰囲気はなかった。
そんなことを考えているうちに『列車が発車します。席に腰掛けてお待ちください』とアナウンスが流れ、ガクン、という振動とともに列車は発進した。

ガタンガタン、と線路もないのに線路上を走っているような音を立てて走る列車。
風景はよくわからなかった。
森林だったり、海だったり、街中のようだったり。
この列車は、どこに行くのだろうか?
発車してすでに数時間。
車内は沈黙に包まれていた。
一両編成だったが、仕切りが付いていたので他の乗客の様子はよくわからなかったが、旅の楽しみの一つといえば出会いだろう。
そう思って、誰かに話しかけようと思った。
一番奥の部屋だったので、どこにどういう人が乗っているかはわかっている。
こういうときはやはり年の近い女性のほうが話しやすいだろう。
確か三番目の部屋の人が年の近そうな女性だったはず。
よし、いつ到着するかわからない列車だ。
少しでも旅を楽しくしたかった。
意を決して自分の席を立ち上がり、女性の元に行ってみることにした。

4、出会い

「こんにちは。」
時間がよくわからなかったので、とりあえずこんにちは、とにこやかに声をかける。
女性もこちらのほうを振り返り、にこり、と微笑んで挨拶してくれた。
ただ、少し引っかかるものがあった。
「あ、こんにちは。女性の方ですよね?」
自慢ではないが、どこからどう見ても私は女性だ。
「ごめんなさいね。私、生まれたときから目が見えなくてね。」
微笑んで言っていたが、聞いている私がなんだか心が痛くなった。
「そうなんですか…大変ですね…」
ありきたりな言葉しか出てこない自分が少しだけイヤだった。
「気にしないでください。大体、声や話し方で雰囲気とかわかりますから。私もちょうど一人は退屈だなぁ、と思っていたところなんです。でも、どんな人が乗っているかよくわからなかったので。」
苦笑を浮かべる。
「まさかわんちゃんに話しかけるわけには行かないですもんね。」
苦笑が微笑みに変わった。
「そうですよね。」
人の良さそうな女性でよかった、と内心ほっとした。
「あ、よろしければ向かいの席にどうぞ。」
あ、はい、ありがとうございます、と答えて、盲目の女性の前に腰掛けた。

驚いた。
窓際のテーブルにはティーカップが2つ。
好きなんですよね、私、と言いながら、彼女が用意してくれたハーブティー。
あまりの手際の良さに、一瞬彼女が盲目なのを忘れてしまうほどに。
「すごい…ですね…」
思わず言葉が出てしまう。
「いえいえ。なれてますから。」
本当に微笑を絶やさない女性だと感じた。
目が見えないのに、そこら辺にいる同年代の女性よりも輝いて見えた。
「どうぞ。味にはちょっとだけ自信があったりします。」
えへん、と胸を張ってみせる女性。
なんとなく可愛さも持ち合わせている。
大人の女性とは、まさにこういう人のことを言うのかもしれない。
「では、いただきます。」
彼女特製のハーブティーを口に入れる。
ふわっとした酸味と苦味、後から来る甘味がとても心地良い。
「正直に、おいしいです。すごいですね〜。今度私も作ってみようかなぁ。」
そんな些細なきっかけから、話が弾む。
それが女同士の会話だった。

「へぇ〜、そうなんですか〜。」
下らないが、有意義な時間が過ぎてゆく。
彼女の名前は樹(いつき)さん。
大木のように、大きな心を持った人間に育ってほしいと両親が思いを込めてつけたらしい。
24歳、私と同い年にはとても見えない落ち着きがあった。
いろいろ話が食い違ったり、噛み合ったりしなかったことがあったが、気にしないことにした。
ふと、話題がまじめな方向に転がる。
「幸せって、なんでしょうね。」
難しい質問だった。
「何でしょうねぇ。」
自分にとっての幸せが何か、簡単なようで難しい質問だった。
樹さんが、ふとまじめな表情になる。
「あ、すみません。別に茶化したつもりじゃないんですよ?あんまり難しい質問だったので即答できなくて。」
はっ、とした表情を浮かべて、樹さんはさっきまでの笑顔に戻った。
「いえいえ、茶化したなんて思っていませんよ。ちょっと幸せってなんだろうか、考えていたところです。」
私はてっきり、樹さんにとっての幸せは『目が見えるようになること』だと思っていた。
聞こうか、聞かないほうが良いのか迷ったが、好奇心が先走ってしまい、結局聞いてみることにした。
「樹さんにとっての幸せって、目が見えること、なんじゃないんですか?」
私の予想していたのとは違う答えが返ってきて、少々驚いた。
「そうですね…それも幸せなのかもしれません。でも、目が見えなくても、自分が不幸だと思ったことは無いんですよね。こんなことをいうのは変かもしれませんが、目が見えないほうがしあわせかな、って思ったりすることもあるんですよ?」
私には理解できなかった。
もし、朝起きて突然世界が闇に閉ざされたら、幸福どころか絶望しか感じないだろう。
でも樹さんは、それでも自分は幸せだと言った。
わからなかった。
「ほら、だって、見なくても良いことまで見えちゃうじゃないですか。こうやって目が見えないほうが、その人の『本質』を知ることができるとおもいますし。あ、でも綺麗な風景ってどんなものか、見てみたいですね。」
樹さんはくすくすと笑った。
「なんとなくですが、雰囲気とかでその人がわかっちゃうんですよね。あのわんちゃんの幸せはきっと、ご主人様に会うことかな、とか。まあ、これはなんとなくそんな鳴き声しているなぁ、と思っただけですけどね。それと、今話している女性には、何か暗い過去があったんじゃないか、とか。」
ドキッ、っとした。
見えないはずの目に、すべて見透かされているような気がしたから。
「当たりです。暗い過去…は、確かにあります。でも、過去は過去です。吹っ切って前に進まないといけませんよね。」
ハーブティーを一口すすると、樹さんは言葉を紡いだ。
「そういうところ、好きですよ。」
恥ずかしかったが、うれしかった。

「次は、1番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
不意にアナウンスが流れる。
一番の席に座っていたのは確か、人生に疲れた感じの男性だった。
景色が徐々に変わってゆく。
ガタンガタン、と音を立てて、列車はスピードを落とし始める。
到着したのは、高層ビルの屋上のようなところだった。
車掌さんとなにやら会話をして、切符を手渡した後に、男性はとぼとぼと電車を降りた。
あの男性の幸せは、いったいなんだろうか?
まさか…
そんなことを考えているうちに『列車が発車します。席に腰掛けてお待ちください』とアナウンスが流れ、ガクン、という振動とともに再び列車は発進した。

「今降りた方の幸せ、どんな形でしたか?」
興味深そうに、樹さんが私に尋ねてきた。
戸惑った。
あの状況から考えられることは、そう多くなかったからだ。
自殺。
それぐらいしか思いつかなかったから。
「え〜と、どうかしましたか?」
樹さんには嘘は通用しないだろう。
それになぜだかわからないが、樹さんには嘘をつきたくなかった。
「今降りて行ったのは、男性でした。終着駅は…ビルの屋上…」
驚いたことに、樹さんの反応は以外にあっさりしたものだった。
「そうなんですか。きっと、その男の人にとっての幸せが、そこにあるんでしょうね。」
微笑んでいた。
どんな形であれ、幸せは幸せ、そう言いたげな表情にも見えた。
「幸せになれると良いですね、降りて行った男の人。」
純真なのか冷徹なのか、樹さんがわからなくなってしまった。
ビルの屋上…そこから連想できることはそう多くは無いはずだからだ。
話をしていて、そこまで頭の回らない人だとは思っていない。
だからなおさらだった。
「幸せって、なんでしょうねぇ…」
私の一言のあとに、沈黙が支配した。

「では、またお話しましょうね。おやすみなさい。」
いつの間にか外の風景は暗くなっている時間だった。
あれから、また他愛も無い話に花を咲かせた。
女同士の雑談は、時間を忘れさせる。
「はい、おやすみなさい。また明日〜。」
挨拶すると、私は自分の座席に戻り、睡眠をとることにした。
不思議なことに、お腹は空かなかった。

5、わんちゃん

7月12日 どうやら朝が来たらしい。
着替えとか持って来れば良かったかな、と思った。
さすがに女の子が何日も同じ服を着ていたりするのは自分自身いやなものがある。
でも、不思議とお腹が空いたり、体が汚れている、というような感じはしなかった。
これも幸せの一環なのだろうか?
不思議だった。

「おはようございます、樹さん。」
ハーブの香りが香る。
樹さんはハーブティーを飲んでいた。
おはようございます、と言いながら私のほうを向き、なにやらゴソゴソしだした。
ハーブティーを用意してくれているのだ。
昨日と変わらない手際の良さでハーブティーをテーブルに並べてくれた。
「ありがとうございます。昨日は良く眠れましたか?」
はい、と微笑んでくれる。
「大体、時間はわかるんですよね。時計もありますし。今は…9時過ぎ、くらいですね。」
そういって樹さんは腕時計を見せてくれた。
見たことの無い時計だった。
デシタル…なのだろうか?
表示板が点字で表示されていた。
「ちょっと旧式のですが、気に入っているんです。中学校のころから愛用していて手放せなくて。」
ふふふ、と微笑む樹さん。
細かいことは気にしない主義だったので、深く追求しないことにした。
「1日、一人のペースで駅に着くんでしょうかねぇ?」
昨日降りたのは、男性一人だけだった。
今日も一人、そう考えると私はあと5日も待たなければいけない。
まあ、旅は気長に楽しむものだ。
幸い10日ほど有給を取ってきておいていた。
「どうでしょうね。幸せって、遠いんですかねぇ。」
哲学なことを言われた気がした。
こういう言葉がサラリと出てくる樹さんが、すこしだけうらやましかった。
「遠いようで近いのかもしれませんね。」
こんな言葉しか返せない自分が恥ずかしかった。
「そういえば…」
また昨日と同じように、女同士の姦しい話が始まった。

「へえ、樹さんも好きなんですか。私も好きなんですよね。デビューアルバムから持ってますよ。」
「次は、2番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
話を遮るように、昨日と同じように車内アナウンスが流れる。
二番の席に乗っていたのは、確か犬だったような気がする。
犬の幸せってなんだろう?
好物の生肉をお腹いっぱい食べる、とかだろうか?
「確か、二番目のお客さんはわんちゃん、って言ってましたよね?どんな幸せなのか楽しみですね。」
昨日は少しブルーな気分になったので、今度は本当に幸せな場所に連れて行ってあげてほしかった。
それにしても、犬に言葉がわかるのか気になった。
細かいことは気にしない主義だったが、気になってしまう。
景色が徐々に変わってゆく。
ガタンガタン、と音を立てて、列車はスピードを落とし始める。
どうやら日本の風景らしかったが、今時の日本にこんな場所があるのだろうか、と思うような場所だった。
例えるなら、戦後の日本。
列車が衝撃とともに停車する。
言葉がわかったのか、座席で時おり、くぅ〜ん、と鳴いていた犬が座席を立ち上がり、車掌さんのところへ歩いて行った。
車掌さんが、犬のくわえていった切符を受けとると、犬は全力疾走で列車を駆け下りた。
なにやら、待ちぼうけをしているような男性の元へ。
嬉しくなった。
きっと、樹さんが言ったとおり、ご主人様に会えたのだろう。
幸せになって良かった。
少しだけ、ほっ、としている『列車が発車します。席に腰掛けてお待ちください』とアナウンスが流れ、ガクン、という振動とともに再び列車は発進した。

「どうでした?わんちゃん。」
樹さんがまたもや興味深そうに尋ねてきた。
昨日とは違い、幸せにめぐり合えたようだったので躊躇なく答えることができた。
「樹さんの予想通りです。幸せそうでしたよ。一目散にご主人様らしき人のもとへ駆けていきました。」
ハーブティーを一口飲み、よかったですね、と笑顔を私に向ける樹さん。
「ええ。さすが樹さんですね。鳴き声を聞いただけでわかっちゃうなんて。」
いえいえ、と少し照れたような表情を浮かべて、樹さんは続ける。
「目が見えない分、他のところが鋭いんですよ。実は、目の前の女性の幸せもなんとなくわかってたりしますよ?」
驚いたような、驚かないような、不思議な気分になった。
樹さんならわかるかもしれないし、わかるわけがないという思いの交錯。
「いえ、幸せは自分の目で確認します。自分でもなんとな〜くわかっているかもしれないですけどね。期待して外れてたらがっかりしますし。あんまり考えないでおきます。」
そう、希望はいくら小さいものを持っていても、絶望はそれに関係なく大きかったりするからだ。
それに、言葉にしたら消えてしまうような気がした。
「そうですね。それが良いと思います。私も自分のことになると全然予想もつきませんしね。」
自嘲気味に微笑むと、樹さんはハーブティーを飲み干した。
「順番通りに降車するみたいなので、明日でお別れですね。せっかく仲良くなったのに、なんか悲しいです。幸せ列車なのに、おかしいですよね。」
本当に悲しそうな表情をする樹さん。
そういえばそうだ。
樹さんとこうやって話していられるのも、今日と明日だけかもしれない。
樹さんの言うように、幸せ列車なのに、そう思った。

「では、今日も楽しかったです。おやすみなさい。また明日もお話しましょうね。」
もう少し話していたかったが、さすがに樹さんも疲れていると思い、切り上げることにした。
「はい。おやすみなさい。また明日お話できるのを楽しみにしてますよ。」
樹さんの微笑みに、微笑で返して席を立ち、自分の席に戻り睡眠をとることにした。

6、別れ

7月13日 悲しい朝が来た。
今日で樹さんとお別れだろう。
そう考えると、憂鬱だった。
せっかく出会ったのに、こんなにすぐに別れが来るなんて。
そう思うと、一分一秒が惜しくなった。
もう起きてるかな、昨日より少し早い時間だったが、樹さんのところに行ってみようと決意した。

「おはようございます。今日はお早いんですね。」
近づいて、挨拶をしようと思ったとき、樹さんに先を越されてしまった。
「はい、おはようございます。いよいよ今日ですね、樹さんの幸せ。少し寂しいです。」
いつものように(とは言ってもまだ三回目だが)、慣れた手つきで樹さんは特製のハーブティーを準備し始めた。
「今日で樹さんのハーブティー飲めるのも、最後になっちゃいますねぇ…」
そういうと、樹さんはいつものように微笑んで、なにやらバックの中からラッピングされた袋を取り出した。
「はい、これ、プレゼントです。ティーポットを温めてから、もう一度お湯を注いで少し蒸らしてから飲むと更においしいですよ。」
樹さんが渡してくれたリボンつきの袋の中には、お茶の葉が入っていた。
「これを飲んで、時々は私のこと、思い出してくださいね。」
いつもの笑顔だった。
お茶の葉をもらったことより、樹さんの気持ちがとても嬉しかった。
「ありがとうございます。大切に飲みますね。
「はい、大切に飲んでください。」
樹さんはクスクス笑った。
私もつられて、クスクス笑った。

「旅って…いいですよね。」
ハーブティーを口に入れていると、樹さんが急にそんなことを言い出した。
「なんか、人生の縮図、みたいな感じがしません?出会いがあって、別れがある。ただ何も関係を持たないで乗り合わせるだけの人、少しだけ声をかけて親しくなる人、すごい仲良くなる人、でも、均等に別れはやってくる。ちょっと哲学ですよね。」
樹さんは笑いながら、そう言った。
「私、いろいろ旅とかしたりしますけど、今回ほど良い出会いはありませんでした。年が近い所為もあるかもしれませんが、とっても楽しかったです。まだ列車を降りる前ですが、私は今、幸せですよ。」
ニコニコと微笑みながら話をしてくれる樹さん。
それとは対照的に、私の顔は笑顔なのに、涙が込み上げて来ていた。
「はい、私も樹さんに出会えて幸せです。本当に、もっとお話したかったです。」
そうですね、というと、樹さんは何も言わずにポケットからハンカチを取り出して、私に差し出してくれた。
樹さんの行動に、なぜか感動して、また涙が出た。

一通り泣き終えた後、またいつものように雑談が始まった。
でも、もうすぐお別れか、と思うとだんだん寂しさが込み上げてくる。
それを抑えるために、いつもより明るく、たくさんしゃべった。
タイムリミットがわからないのは、苦痛だった。
いつだろう、いつだろう、と思いながら樹さんとの話を続けていた。
寂しさを紛らわせるために。

「私の幸せって、何でしょうね?」
唐突に、樹さんがそんなことを言い出した。
私は、樹さんの幸せは目が見えるようになること、だと最初は思った。
でも、話しているうちに、違うんだな、と思うようになってきた。
だからなおさら、幸せとはなんだろう、と考えてしまう。
「実は、私自身、自分の幸せがなにか、大体わかっているんですよね。誰にも言っていませんが、実は私…」
「次は、3番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
樹さんが何か言いかけたと同時に、別れを告げるアナウンスが流れ始めた。
「あらあら、ついに着ちゃいましたか…お別れするの、寂しいですね…」
そう言うと樹さんはいそいそと荷物の片付けを始めた。
「本当に寂しいですね…またどこかで、お会いできたら嬉しいです。」
正直な言葉を並べる。
本当に、寂しかった。
「そうですね、もし、私のことを覚えていたら、会いましょう。住所は…」
樹さんは目も見えないのにさらさら、と紙に住所を書いて渡してくれた。
それと一緒に、バックからティーカップをひとつ取り出して、私に手渡した。
「お気に入りなんです。差し上げます。大事に使ってくださいね。」
今まで見たこともないような、綺麗な陶器とも、硝子ともつかないティーカップを受け取る。
「あと、ハンカチ、それも大事に使ってくださいね。」
目から雫が落ちているのを察したのか、樹さんはハンカチまで私にくれた。
景色が徐々に変わってゆく。
ガタンガタン、と音を立てて、列車はスピードを落とし始める。
樹さんの幸せの駅がある場所は、見たこともない綺麗な住宅が立ち並ぶ住宅街だった。
「樹さんの幸せって…」
「はい、自分で確認しますね。」
言葉を遮られた。
樹さんの幸せは、なんだろうか?
ここにあるのだろうか?
列車が衝撃とともに停車する。
「では、また会いましょう。さよならは言いません。ごきげんよう。楽しい時間でした。」
荷物をまとめて、一礼して樹さんは席を立った。
見えないだろうけれども、私も心から一礼した。
「本当に楽しかったです。私もさよならはいいません。お元気で。」
最後も樹さんはニコリ、と微笑んでくれた。
私の顔は、笑顔と涙でおかしなものになっていただろう。
大きな一歩を踏み出して、樹さんは車掌さんと一言二言話した後、もう一度こちらを振り返り微笑んでくれた。
そして、何万歩より距離のある一歩を踏み出した。
「ありがとう。」
声は聞こえなかったが、樹さんの口元はそう動いていたような気がした。
列車を降りた樹さんは振り返ってくれなかった。
前に進む。
それが彼女の意思であるかのように。

樹さんが言いかけたことはなんだったんだろうか。
今更になって気になった。
今あるのは、樹さんが残してくれたお茶の葉と、ティーカップとハンカチと、住所を書いた紙切れだけ。
樹さんが本当にここにいた証拠は、冷たいカップに残った温もりだけだった。

7、幸せのカタチ

7月14日 退屈だ。
幸せ列車なのに、なぜこんなに退屈なのだろうか?
窓際に置いたティーカップに目をやる。
樹さんと一緒にいた日々が、遠い昔のように感じられた。
冷たいティーカップに残った、樹さんの温もりが恋しかった。
「退屈だなぁ…」
無意味に呟いてみた。
言葉もむなしく、退屈は私の前にどっかりと腰を下ろして動こうとはしなかった。

また誰かに話しかけてみよう、そう思ったが、客層から見て話が合いそうな人はいなさそうだった。
一人は近寄りがたい雰囲気の男性。
もう一人は黒人の少年。
品が良いが、どこかやつれた感じの老婆。
実は、さっき少しだけ黒人の少年と話しをしてみた。
あいにく、英語が苦手だったので、ほとんど会話にならなかったが、自分の家族が戦争で死んだこと、僕の幸せは戦争の無い、平和な世界だよ、くらいはわかった。
少し話したが、やはり間が持たなくなり逃げてきてしまったような結果になってしまった。
今は国際化社会、英語は重要だ、と思った。
残るは、おばあさんだけだったが、なんとなく敬遠してしまう。
だいぶ前に亡くなったが、自分のおばあちゃんに対するイメージは『怖い』『お説教好き』ぐらいだった。
だから、無意識に、というより意識的に敬遠してしまう。
でも退屈だ。
ここはやっぱり退屈しのぎに付き合ってもらおう。
よっこいしょ、っと席を立とうとしたときだった。
「次は、4番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
もう次の人の降車駅に着くのか。
今日はやけに早い気がする
ここは…なんだか群集がたくさん集まっている壇上のようなところ。
どうやら外国のようだった。
群集は旗を掲げている。
口々に名前のようなものを叫ぶ群衆。
「…ル……ラー!!!」
目を凝らしてよ〜く見てみる。
なんとなくみたことのあるような文様がはためいていた。
白の円形に卍の旗…
なんだったっけなぁ、と首をかしげる。
どこかの国だっただろうか?
列車が衝撃とともに停車する。
中年の男性は、きびきびとした足取りで車掌の元へ向かい、きびきびと列車を降りる。
列車のドアが開いた瞬間、その男性が誰なのか、やっとわかった。
少し気付くのが遅かったのかもしれない。
でも、話しかけなくて良かったと思った。
「ハイル・ヒットラー!!!」
一瞬開いたドアから聞こえてきたのは、群集の大歓声だった。
テレビや何かで見たことがあったので、ヒトラーがどんな人なのか知っていた。
彼の望む、幸せの世界。
想像しただけで吐き気がした。
窓の外では、得意気に手を振り何かを叫ぶヒトラーの姿があった。
これも幸せか。
なんだか複雑な気分になった。
自分の幸せのために、多くの犠牲を払う。
そんな幸せに意味があるのかと。

少し気分が重くなった。
せっかく立ち上がって、おばあさんに話しかけようと思ったところに、さっきのヒトラーの幸せ。
いや、大勢の人の『不幸』か。
大体想像がついたから、無性に腹が立ったし、やるせない気分になった。
樹さんが知ったらどう思うんだろうか?
やっぱり『それぞれの幸せがありますから。』と言うのだろうか?
樹さんだったら、そんなことを言うはずが無いか。
樹さんなら『幸せってなんでしょうね…』と悲しい微笑を浮かべるに違いない。
樹さんがいてくれたらなぁ、心からそう思った。
一人でいるのがなぜかいやだった。
なんだか幸せが怖くなった。
幸せって、なんだろう。
そんなことばかり考えてしまいそうだから。
自然と席を立った。
一人でいたくなかったから。

「こんにちは。」
樹さんの時と同じように、声をかけてみる。
すぐ隣の席のおばあちゃん。
どんな反応が返ってくるかちょっとドキドキだった。
「あら、お嬢さん。こんにちは。」
少しかすれた感じの優しい声のおばあさんだった。
優しそうな人だったので、少しだけほっとした。
「こんにちは。前…よろしいですか?」
あらあら、こんな年寄りとお話してくれるなんて嬉しいわねぇ、と言いながら、おばあちゃんは目の前の埃のないシートの埃を払って、席を勧めてくれた。
ありがとうございます、と言いながらおばあさんの正面に腰掛けた。
「こんなかわいいお嬢ちゃんとお話できるなんて、うれしいわねぇ。」
そう言いながら、セカンドバックから、おばあさんご用達の黒糖キャンディーを私に3つほどくれた。
ありがとうございます、と言いながらふたつをポケットにしまい込み、ひとつは包みを開けて口の中にほおばる。
懐かしい甘さが、口の中いっぱいに広がった
「あひがほうほはいまふ。おいひいですね。」
ありがとうございます、おいしいですね、そう言ったつもりだったんだけど…

ふふふ、と笑って、おばあちゃんはどういたしまして、と言った。
物を食べながら話すのは良くないのでやめましょう。
飴玉を頬の端に寄せて、話しやすいようにする。
「すみません。少し行儀が悪かったですよね。」
自分でもそう思ったので、おばあちゃんに謝った。
いいのよ、気にしない気にしない、おばあちゃんはそう言ってくれた。
怒られるかなぁ、と思っていたのでちょっぴり嬉しかった。
「ありがとうございます。うちのおばあちゃんとは大違いですね。」
うちのおばあちゃんは口の中に物を入れて喋ったりしたら、雷を落としていただろう。
その点、このおばあちゃんは見た目通り上品だった。
口調も笑顔もすべて。
「お嬢ちゃん達がお喋りしていたの、私ももう50歳若かったらまざったのにねぇ。」
ふふふ、と上品な笑みを浮かべるおばあちゃん。
ここまで話し声が聞こえていた、と言うことは私と樹さんは相当盛り上がっていたらしい。
少しだけ恥ずかしくなった。
「すみません。うるさかったですよね。」
女集まれば姦しい、とはよく言ったものだ。
「いいのいいの。若いエキスたくさんもらってなんだか若い気分になったから。」
両手を挙げて、元気ポーズをとるおばあちゃん。
上品なだけじゃなく、意外とおちゃめなのかもしれない。
なんだかこういうおばあちゃんは好きだな、と思った。
「いえいえ、おばあちゃんもまだまだ十分若いですよ。」
少し照れたようにはにかみ笑いを浮かべるおばあちゃん。
樹さんとは違ったかわいさがあった。
「お嬢ちゃんはどこから来たのかしら?」
やはり、そんな他愛も無い会話から、樹さんのときとは違った盛り上がりで姦しい話は始まった。

「そうなの。残念だったわねぇ。その樹さんって子と楽しそうに話していたもんねぇ。」
いつの間にやら、樹さんの話しになっていた。
一応、話して良さそうなことダメそうなことはわきまえて話した。
誰でも他人にべらべらと自分のことを話されたらいやだろうと思ったから。
「そうですねぇ。でも、出会いがあるから別れもあるんですよね。別れの無い出会いなんて無いですし。」
なんだか樹さんっぽいな、と自分で感じて少しだけ苦笑してしまった。
「そうよね。私も最近、長年連れ添った夫とお別れしちゃってねぇ。」
なんだか踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったような気がした。
このおばあちゃんの年での別れ、と言ったら死別か熟年離婚くらいだろう。
でも、今の口調からはなんとなく前者のような気がした。
後悔した。
空気が悪くなるのが怖かった。
「いい人だったわよ。世界で一番の夫だったわ。最期は安らかに眠るように死んでいったの。でもね、悲しくないって言ったらウソになるけど、そんなに悲しんでるわけじゃないの。想い出と、私の心の中で、夫は生きているからね。」
大人の意見だ。
樹さんとはまた違った、年季を重ねた大人の意見。
感心した。
「もしかして、おばあちゃんの幸せって、また旦那さんと一緒に暮らすことですか?」
初めておばあちゃんと幸せについて話してみることにした。
多分当たっているだろう。
それ以外考えられなかったから。
「私の幸せはね…」
おばあちゃんの口から紡ぎ出された幸せは、私の予想を裏切るものだった。
樹さんの時と同じように。
「夫が天国に行けますように、かな。」
本当に大人の幸せだと思った。
「また悲しい思いをするのはイヤだしね。ふふふ、なんだか私、子供みたいだわ。」
自嘲的な笑みを浮かべながら、おばあさんは言った。
子供みたい、自分がそう言われているような気がした。
「幸せって、なんでしょうね…」
思わず口から言葉がこぼれた。

「ありがとうございました。本当に楽しいひと時でしたよ。よろしかったらまた明日もお付き合いいただけませんか?」
私が席を立って言おうとしたことを、そのままおばあちゃんが先取りした。
「いえ、こちらこそ楽しかったです。明日もぜひご一緒させてください。飴玉、おいしくいただきますね。」
にこ、っとお互いに微笑を交わして、おばあちゃんの席から、自分の席に戻った。

話かけて良かった。
いやな気分も吹き飛んだ。
ポケットから取り出した飴玉を口の中で転がしながらそう思った。
明日も楽しい一日になりそうだ。
口の中には、懐かしい甘さが広がっていた。

8、望んだ世界

7月15日 心地よい列車の振動に揺られながら目が覚めた。
今日もおばあちゃんのところに行こう。
そう思うと、今日一日がなんとなく楽しみになった。
今日は悲しい別れもないから。
ポケットにしまってある飴玉を取り出して、口に含みながらおばあちゃんのところへ向かうことにした。

「おはようございます。飴玉、いただいてますよ。」
なんだか卑しい感じの挨拶をしてしまった
飴玉を催促しているような。
「あら、おはよう。気に入ってくれてうれしいわ。」
そういうと、昨日と同じようにおばあちゃんはバックから飴玉を取り出して、みっつ私にくれた。
さすが年の功、私の欲望をわかってくれている。
飴玉を受けとり、思わずにんまりしてしまった。
「ありがとうございます。この飴玉、本当においしいですよね〜。」
「この飴はね…」
また姦しいお喋りの扉が開いた瞬間だった。

「次は、5番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
よくあるお喋りの合間の沈黙を埋めるかのように、不意に車内アナウンスが流れた。
「あら、たしか5番は外人のお坊ちゃんだったわよねぇ。」
そうおばあちゃんが言うと、なぜか黒人の少年が上品に思えた。
「彼の幸せは、戦争の無い、平和な世界らしいですよ。」
拙い英語で話しかけて、少年が言っていたことをおばあちゃんになんとなく教えてみた。
「平和な世界ねぇ。私たちが住んでいる国は平和だから、私たちは幸せね。」
そういうとおばあさんは、にこりと微笑んだ。
言われてみればそうだな、と私は妙に納得してしまった。
景色が徐々に変わってゆく。
ガタンガタン、と音を立てて、列車はスピードを落とし始める。
少年の幸せがある場所は、サバンナのような荒涼とした大地に、家が数件まばらに建っているような場所だった。
幸せがある場所にしては、少々物悲しい感じを受けてしまった。
でも、ビルの屋上や人々の幸せを食い物にして自分の幸せを手に入れるような場所に行き着くよりは断然気分的には楽だった。
「おばあちゃん、ちょっと失礼します。」
はい、と返事をしてくれたおばあちゃんを背に立ち上がり、降車の準備をしている少年の元へ向かった。

列車はまた、線路も無いのにガタン、ガタン、と音を立てて走り始めた。
「すみません、お待たせしました。」
そう言いながら、おばあちゃんの前の席に腰掛ける。
「いえいえ、お坊ちゃんとお別れはできたの?」
おばあちゃんの質問に、はい、と短く答えた。
「いいわねぇ。私なんて、英語はさっぱりだから話しかけられないわ。」
照れ笑いを浮かべて、おばあちゃんは言った。
「いえ、私もほとんど話せないのと一緒です。ただちょっと一言二言話しておきたかったので。英語にするのに苦労しましたよ。」
思わず苦笑がこぼれた。
なぜだろうか。
なぜかあの少年には、言っておきたいことがあった。
「どんなお話をしてきたのかしら?あ、言えないようなことだったら無理にはいわなくていいのよ?」
やはりおばあちゃんも女だ。
もし同じ状況だったら、私も同じように聞き返していただろう。
女は好奇心旺盛な生き物なのだ。
「You will be happy.これだけです。なんとなくそれが言いたかったので。小学生レベルですけどね。」
本当に小学生レベルだった。
ただ『君に幸あれ』。
それだけを言った。
少年はにっこり微笑んで「You too.」と言ってくれた。
本当にたたそれだけだった。
「あらあら、どういう意味でしょうか?私、横文字に弱くて。」
少しおばあちゃんに困ったような表情をさせてしまった。
「あ、すみません。『君に幸あれ』って意味です。なんとなく、それが言いたくて。」
おばあちゃんは、あ〜なるほど、という表情を浮かべた後に続けた。
「そうね、幸せになれるといいわね、あのおぼっちゃんも、そして貴方のお友だちの樹さんも。そしてお嬢ちゃんも。」
おばあちゃんの言葉にギクリときた。
You will be happy.
誰に言った言葉なのだろうか?
誰に言いたかった言葉だったのだろうか?
誰に言ってほしかった言葉だったのだろうか?

「では、また明日、ですね。今日も楽しかったですよ。」
しばらく歓談した後、あまり長居をしては迷惑だろうと思い、席を立つことにした。
おばあちゃんが、私が席を立とうとすると、バックからまた飴玉を取り出して、私の手の中に渡してくれた。
「ありがとうございます。明日も楽しみにしてますね。」
なんだか飴玉を楽しみにしているような挨拶をして、おばあちゃんの席を離れた。
おばあちゃんが別れ際に、ありがとう、本当に楽しかったわ、と言ってくれた。

9、終着駅

7月16日 今日も悲しい別れの朝だ。
樹さんのときほどではないにしろ、やはり別れは寂しい。
こんな思いをするなら、いっそ出会いなんて無いほうが良いのかもしれない。
でも、人間はふれあいを求めてしまう。
やっぱり出会いは大切だ。
自分の矛盾した思考に、苦笑いがこぼれた。

「おはよう…ござ……」
おばあちゃんがいない。
昨日と同じようにお喋りしようと思い、いつものように挨拶をしようとして気が付いた。
おばあちゃんの座っていたはずの席には、小さな紙切れとビニール袋に入った飴玉がおいてあった。
トイレだろうか?
そう思ったが、置いてあった紙切れを見て、おばあちゃんが何処に行ったのか分かった。
『ありがとう。とても楽しかったわ。飴玉、良かったら食べてください。お嬢ちゃんは幸せになれますよ。それでは、行ってきます。さようなら。   みさき   』
かなり驚いた。
別れもできずに別れがくる。
酷だと思った。
突然の別れは嫌いだった。
ただ、みさきおばあちゃんが置手紙を残してくれたのが、すごいうれしかった
何度も何度も、読み返した。
そのたびに嬉しさがこみ上げてきた。
みさきおばあちゃんが幸せになれますように。
切に願った。

おばあちゃんが自分の幸せの駅で降りてしまっていたので、自分の席に戻り飴玉をほおばった。
幸せ列車には、今自分ひとり。
次は自分の幸せ終着駅。
屋上で降りた男性は幸せになれたのだろうか?
樹さんは幸せになれたのだろうか?
わんちゃんは幸せになれたのだろうか?
ヒトラーは幸せになれたのだろうか?
あの少年は幸せになれたのだろうか?
おばあちゃんは幸せになれたのだろうか?
幸せにもいろいろな形がある、初めて痛感した旅だった。
そのなかでも、一番樹さんのことが気にかかった。
樹さんの幸せは、いったいどんなものだったのだろう?
樹さんならどんなことでも幸せとして享受するような気もする。
でも、今思うと樹さんには確固たる自分を持っていたような気もした。
『私の幸せは、ひとつしかありませんよ。』
そう言われても納得してしまうほどに。
樹さんにまた会いたいな。
会っていろいろ話してみたいな。
なんでもいい。
どんな些細な話でも良い。
短時間だったけど、樹さんには私を惹きつける魅力があった。
よし、列車を降りたら樹さんに会いに行ってみよう。
自分の幸せはなんだかどうでも良くなっていた。
幸せになっていると良いな、樹さん。

7月17日 幸せ列車はもうすぐ終着駅に着くらしい。
短かったようで、長かった一週間だった。
今、この幸せ列車には私一人しか乗っていない。
今まで、いろいろな人が自分の幸せの終着駅に到着した。
他の乗客の幸せは、どんなものだったんだろうか。
私の幸せは、いったい何なんだろうか。
「次は、7番のお客様の幸せ終着駅です。お忘れ物の無いよう、ご準備をしてお待ちください。」
荷物は、小さなバックと私自身の体ひとつ。
私の幸せは、どんな形だろうか。
景色が徐々に変わってゆく。
ガタンガタン、と音を立てて、列車はスピードを落とし始める。
私の幸せのある場所は…見覚えのある砂浜だった。
出発したときと同じ海岸。
ただひとつ違ったことは、海岸線に佇む、ひとつの人影。
ガタン、という音とともに列車はスピードを殺し、停車した。
小さなバックと、自分の身体ひとつを持って、車掌さんのところへ行き、切符を手渡した。
「良い旅を。」
車掌さんがくれた、幸せ列車での最後の言葉だった。

白い砂浜。
遠くに見える海岸線。
夜と昼が交じり合った景色。
そして佇むひとつの人影。
恐る恐る、見覚えのある、懐かしい人影に近づいていく。
「よう、美咲。遅かったじゃないか。」
「た、ただいま、浩一。」
失ったはずの私の幸せが、そこにはあった。
これが私の、幸せのカタチ。
かけがえのない、幸せのカタチ。   Fin










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