目を閉じて、甲板の上にだらしなく足を伸ばして座り込みながら、ヘッドホンから流れる音楽をぼんやりと聴いていた。
 これから行う作業の手順を、もう一度頭の中で繰り返そうとする。余りに回数を重ねているので、それが何度目になるのかすら分からない。だけど、何度繰り返しても心の中の不安は消えなかった。
 何度目かの溜息と共に、束の間、緊張が解ける。
 そのとき、ふと、耳元に流れていた曲が意識の中に飛び込んできた。
 『真夜中、星と君と共にMidnight with the stars and you』――半年前に職場を去った同僚が、好きだった曲だ。
 僕は目を開けて、空を見上げる。
 この周囲半径数キロに、星以外に光るものは存在しない。真夜中、きらめく星の只中に、僕はいる。
 何となく感傷的な気分になりながら、僕は船の操舵室に視線を移した。
 そこには、早くも一年以上の付き合いになる僕のパートナー……優こと、田中優美清春香奈の姿があった。


扉の向こう
                              長峰 晶


2018年8月 春香奈 十九歳  桑古木 十七歳

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 曲が切り替わったところで、僕は耳からヘッドホンを外し、操舵室に向かって歩いていった。
 船の上は本当に最小限の明かりしか点けていなかったので、甲板上はとても暗かったけれど、僕はさしたる困難も無く操舵室に辿りつくことができた。
 普段、陽の光の差さない場所で仕事をする機会が多いせいなのか、最近では随分と夜目が利くようになったように思う。
「どう、少しは落ち着いた?」
 部屋の中に入ってきた僕に、優が気遣わしげな視線を向けてくる。
 僕は曖昧な笑みを浮かべながら、軽く頷いてみせた。
「優も休憩してくる? しばらくはここの計器を見張ってれば良いだけだから、僕が交替しても別に問題ないよ」
 一応、こちらも気を遣ったつもりだったのだけれど、優はあからさまにがっかりした表情を見せて、大げさに頭を振ってみせた。それだけで、次に出てくる台詞が大体想像が付く。
「そうじゃないでしょ、少年。 ……倉成は、そんな言い方しないんだからね?」
「あのさ、優。僕としては、『少年』はそろそろ勘弁してくれると嬉しいんだけど」
 2017年5月1日以前から残っている、たった二つの僕の記憶。
 生年月日と、桑古木涼権という自分の名前。
 ある意味、拠って立つところがそれしかない僕は、自分の名前にはそれ相応のこだわりがあった。
「『少年』が嫌なら、せめて一人称だけでも何とかして欲しいわね、全く」
 優が苛々と、手に握ったサインペンで自分の髪をかき回す。
 優の主張によれば、言葉遣いは一人称によってかなり左右されるらしい。一応、女の子であるところの優は、誰と話すときでも一人称は『私』であり、このため、言葉遣いはそれほどのバリエーションを持たない。
 ところが、男は『俺』『僕』『私』などの一人称のバリエーションがあり、どれを使うかによって言葉遣いは大きく変わってくるという(「まあ、三種類以上使い分ける人はそう多くないけどね」と優は付け加えていたけれども)。
 一人称を『僕』で統一している身としては、正直、その主張には余り実感が湧かないのだけれども、とにかく、武になりきるためにはまず一人称を『俺』に変えるところが第一歩なのだそうだ。
「変えなきゃいけないってことは、分かってはいるんだけどね」
「分かってるなら、実行しなさいよ。さすがに、今までずっと『僕』で通してきてる今の職場で変えるのはいまさら難しいとは思うけど、今日は私と二人っきりな訳じゃない」
「まあ、それはそうなんだけど」
 そう言って、小さく肩を竦めてみせる。
 それを境に、しばらく会話が途切れた。
 僕は頭の中で会話の種を探しながら、ぼんやりと優の顔を見つめた。
 栗色の髪の間から覗いている優の耳が、仄かに赤みを帯びている。自分は何か失言をしただろうか、と操舵室に入ってからの会話をもう一度頭の中で繰り返す。
「それはそうと、桑古木。結局、お母さんの提案には応じることにしたの?」
「ああ、あれね。どうしたものかとは思ってるんだけど」
 今からちょうど一月半くらい前のことだ。
 十月には、LeMUの建設工事も終わる予定になっている。その後は、どうする予定なのかと田中先生に尋ねられた。
 余り深く考えていなかった僕は、またどこかの建設現場を巡るつもりだと答えた。LeMUの再建当初から、僕はずっとその建設現場で働き続けている。LeMUの建設現場での作業は極めてハードなものだったけれど、余所では得られないような貴重な経験を幾つも得ることができた。
 こと海中の作業現場であれば、多少年齢を偽れば、僕は大抵のところで雇ってもらえる自信がある。
 そう答えた僕に、田中先生は次のような提案を投げかけた。
 今までは娘である優の体のこともあって、離れて住むことなど思いもよらなかったが、優はほとんど奇跡とも呼べるような回復を遂げて、今では日常生活を送るのにいささかの支障も無い状態になっている。
 一方自分は、ライプリヒ製薬まで片道二時間以上掛けて通勤をしているが、それだけの時間、通勤ラッシュに揉まれて通うのがそろそろ体力的に厳しくなってきたこともあり、思い切って会社の近くに引っ越そうかと思っている。
 ただし、優の学校は今の家の近くなので、引っ越すのは自分だけ。それほど大きくない、ほどほどの広さのアパートかマンションを借りることを考えている。
 ついては、涼権君も一緒にそこに住むことにしてはどうだろうか――これが、田中先生の提案のあらましだ。
「……正直、なんでそんな提案をしてくれたのか、未だに良く分からなくって」
「お母さん、あなたには随分恩義を感じてるみたいなのよ。少しでもそれを返したい、って思ってるんじゃないかな」
「恩義って? それを言うなら、こっちの方だと思うけど。実際、田中先生にはお世話になりっぱなしだし」
 首を傾げる僕に、分かってないわね、と優は苦笑いを浮かべてみせる。
「私の病気のことは、以前に話したわよね。それが回復するっていうことが、世間的に見てどういうことだか分かる?」
「タネを知ってなければ、僕も素直に感心できたんだけどね」
 苦笑交じりの溜息が漏れる。
 田中先生にはとても言えないけれど、優の身に今起きているのは、断じて奇跡などではない。むしろ、呪いの領域に属するものだ。同じ境遇に身を置く者として、そのことに思いを馳せずにはいられなかった。
「まあ、お母さんは奇跡だと思った訳なの。それも……その、あ、愛の奇跡って奴?」
……お願いだから、そこまで恥ずかしそうな表情で言わないで欲しい。
 聞いているこっちまで、恥ずかしくなってくる。
「愛って、武との?」
「今までの文脈で察しなさいよ! 私とあなたとの、に決まってるでしょうが!!」
 顔を真っ赤にして優が叫ぶ。
 怒りと羞恥の、どちらの成分が多いのだろうか。
 これだけリアクションが良いとからかう甲斐もあるなあ、と考える辺り、僕もこの一年間の勤労生活でそれなりに性格が悪くなってしまったらしい。
「何でまた、そんな誤解をしたんだろうね」
「色々な不幸な偶然の積み重ねよ。私が家に異性を連れてくるなんて初めてのことだったし、その上、泊めてあげてとまで言っちゃったし」
 昂ぶった気持ちを抑えるためか、優は何度か大きく呼吸を繰り返した。
「それに、あなたにも責任の一端はあるんだからね?」
「え? ちっとも心当たりがないけど」
「ここ半年ばかり、仕事に行くたびに、毎日のように私にメールをくれてたじゃない。まあ、内容は色気の欠片もなかったけど」
「あのね、優。優にしか送ってない筈のメールの内容や頻度を、なんで田中先生が把握してるの?」
 僕の冷静な指摘に、優は小さく呻いて黙り込んだ。
 我ながら、少しばかり意地の悪い言い方だったかもしれない。
 優と田中先生が、僕の書いたメールを肴に盛り上がっていることは、以前に田中先生から聞かされていたので、そのことについてはいまさら何も気にしていない。
 むしろ、僕の書いたメールがきっかけとなって、優と田中先生との会話の機会が増えたことが……そのことを、田中先生がすごく喜んでいたことが、僕には嬉しかったくらいだ。
 ちなみに、優からの返信は大体五回に一回くらいだったけど、返事をくれるときはいつも長いメールを送ってくれる。
 そのメールが、娯楽の少ない海の中――海面下51mのLeMU・ドリットシュトックの建設現場で働く僕には、何よりの楽しみとなっていた。ただ、いささか気恥ずかしいので、本人にはそのことを告げる気はない。
「それはさておいて、優。話を元に戻そう。ここは僕が見てるから、しばらく休んできなよ」
 僕は意識してきっぱりそう言い切ると、優の背中を操舵室の出口に向かってそっと押しやった。
 多少強引な気がしないでもなかったが、まずは優に休憩を取らせることが先決だった。これから数時間後に控えた作業を始める前に、万全とは言わないまでも、優には少しでも良いコンディションでいて欲しかった。
「そんな追っ払うようなことしなくても、休むわよ。それはそうと……お母さんの提案、前向きに考えておいてね」
 僕の気持ちを、知ってか知らずか。
 優はそう言って、操舵室を出て行った。

 頭の中で、去り際の優の言葉を反芻する。
 田中先生の提案は、もしかして優の入れ智恵なのだろうか。
 あの事故からLeMUの建設工事が始まるまでの間、僕は田中家に居候をしていた。
 その間に僕は、自分が両親や祖父母、いわゆる家族と呼べる人を失っていたことを知った。そのときの感情は、うまく言い表せない。両親と祖父母の写真も見たが、それによっていかなる記憶を呼び起こすこともできなかった。
 悲しみというには、余りにもあやふやな感情だった、と思う。
 その後、僕の叔父や叔母、それに従兄弟と名乗る人が現れ、僕に自分達の家で暮らすように勧めてくれたが――僕はそのいずれも、丁重にお断りした。
 何しろ、僕にとっては皆、初対面の人々なのだ。相手が一方的に僕のことを知っているだけに、余計に状況がややこしい。
 初対面の人の家に押し掛けるのに比べれば、たかだか一週間程度の付き合いとはいえ、面識のある優の家に御世話になる方が余程気が楽だった。
 とはいえ、いつまでも田中家に居座るつもりは無かった。
 僕としては早く自立したかったし、それに優の娘、秋香奈のこともある。
 秋香奈はまもなく三歳だ。
 今まではまだ小さかったから良かったけど、そろそろ、現在の記憶が大人になっても残る可能性がある年頃だという。記憶喪失の僕には全く見当がつかないのだけれども、優の自己申告によれば、大体三歳か四歳の記憶くらいまで遡れるものらしい。
 優が立てた計画を実行するためには、今、僕の存在を秋香奈に覚えられる訳にはいかないのだ。
「計画、か」
 思わず、自嘲混じりの独り言が洩れる。
 正確に言えば優が立てた訳ではないらしいが……ブリック・ヴィンケルとやらの声を実際に聞いた訳ではない僕にしてみれば、そこの区別は曖昧だ。
 十七年の時を掛けて、ココと武を救い出す計画。
 その狂気じみた計画に、優も僕も、自らの持つ数少ないチップの総てを張っている。
 そのことに、僕は時々怖さを感じる。
 ココと武を救うためなら、何を失っても惜しくはない。その覚悟ならできている。
 だけど……この計画を実行すれば、本当に二人を救うことができるんだろうか?
 もっと他の方法が、十七年も掛けずとも、今すぐにでも二人を救う方法があるんじゃないのか?
 自分達はその点について、充分に考え抜いただろうか?
 そんな疑問が、疑念が、頭を離れない。
「……こんなに近くまで来ているのに」
 僕と優を乗せた船は、今、LeMUに向かっている。
 より正確にはその目的地はLeMUではなく、その海底にある施設、IBFだ。
 ココと武は、そこで眠っている。IBFの医療用ポッドの機能、ハイバネーションにより人工冬眠状態になっている。
 優の計画では、二人はその状態で十七年間を過ごさなければならない。
 だけど、十七年間メンテナンス・フリーで安定に稼動する設備なんて、そうそうあるものじゃない。
 世の中のどこかにはあるのかもしれないけど、少なくともIBFはそうじゃなかった。
 そのことに気付いた優の行動は素早かった。
 まず、僕を速やかに再建当初のLeMUに送り込んだ。LeMUの構造を把握して将来の計画に備えるためであるのはもちろんだが、僕を海中作業や各種機器の取扱いに習熟させて、IBFのメンテナンスをさせるためだ。
 その一方で、自分自身は、あの事件の際に文字通り九死に一生を得た八神博士……ココのお父さんに会い、その協力を取り付けた。僕らが乗っているこの船も、八神博士がライプリヒ製薬から得た退職金を元手に立ち上げたベンチャー企業、八神特建こと八神特殊建設の保有財産だ。
 八神博士はティーフ・ブラウを自らの力で退けたものの、その体には大きな痕が残った。
 かつてはスポーツマンでならしたというその姿は見る影もなく、歩くときには丈夫なステッキが手放せない。
 その左目は、ほとんど視力を失ってしまったとも聞く。
 一方で、僕らには全く体の障害は残っていない。優に至っては、長年の持病が治癒してしまったほどだ。
 だけど……僕らの体は、少しずつ作り替えられている。
 人ではないものに、変わろうとしている。
 どちらがより不幸だったのか、僕には分からない。

「桑古木、ベルを降ろすわよ。良いわね?」
「いつでも良いよ、優。落ち着いていこう」
 通信機から聞こえるノイズ混じりの優の声に、僕はなるべく自信たっぷりに聞こえるように言葉を返した。
 ベルは、ダイバーがその中に入って海中に潜っていくための球状のカプセルだ。普通は最低でも三人一組で使われるそのスペースを、今日は僕が一人で独占している。
 船は今、LeMUの近傍、ちょうどレーダーやサーチライトの死角となる位置に付けている。
 今日は新月だったし、お盆休みを目前に控えてインゼル・ヌルの人口は激減している。この距離まで近付いても、気付かれる可能性はほとんど無い筈だ。事前調査を自分自身でやったこともあり、その点に関して不安はなかった。
 不安があるとすれば、これからの作業だ。
 優の前では自信満々なふりをしているけれど、深度120mの海中に出るのは初めてだ。
 ベルが海中に沈み、優から僕の姿が完全に見えなくなったところで、とうとう足の震えが抑えられなくなった。
 何度も深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせようとする。
 だけど、気持ちは焦る一方で、足の小刻みな震えはちっとも止まってくれなかった。
 重力に引かれて、ベルは海底に向かってどんどん落ちていく。
 高速で動くエレベーターに乗ったときのような微妙な浮遊感を伴ったまま、数分間の時が過ぎた。
「桑古木、聞こえる?」
「……大丈夫、聞こえてるよ。どうしたの、優?」
 おんぼろな通信機も、少しは役に立つものだ。
 水中に入って一段と音声が劣化した通信機のお陰で、僕の声が多少震えていたとしても、優には気取られそうにない。
「もうすぐ、降下終了よ。ライトを点けてみて」
 僕は言われるがままにパネルを操作して、ベルに装備された強力なライトを点灯させる。
 言葉もなく、ただ、それを見つめた。
 ライトが映し出すその先には、八神博士に渡されたデータに記載されていた通りの建造物が――IBFの姿が、そこにあった。


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