扉の向こう
                              長峰 晶

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 どのくらいの間、それを見続けていたのかは分からない。
 ただ、船上の優からは何も言ってこなかったことから察するに、そう長い時間ではなかったのだろうと思う。
 僕は意識して息を大きく一つ吐くと、通信機に向かって声を掛けた。
「狙い通りだよ、優。ここからはIBFが良く見える。ポジションとしては完璧だね」
 海中でのポジション取りは地上でのX軸とY軸の動きに加えて高さのZ軸の動きの制御が必要だが、僕を乗せたベルは、これ以上はないほど完璧に、計画通りの位置に配置されていた。
 テクノロジーの進歩という奴だ。それがなければ、今こうして、優と僕の二人だけでここまで来ることはできなかった。この船は、飽和潜水設備を備えた船の中では小さい方だと思うけど、それにしたって、一昔前ではとても二人だけで動かせるものではなかった筈だ。
「第一段階はクリアしたわね。それじゃ、加圧を開始するわよ」
「ちょっと待って。僕はまだ呼吸装置を付けてないよ。準備ができたら、連絡するから」
「……そうだったわね。ごめんなさい」
 通信機からの声はかなりノイズが混じっていたので、はっきりとは分からなかったけれど、優は相当に緊張しているようだった。海中作業のサポートなんて初めてだろうから無理もないことなのだけれども、正直、これから水中にエントリーする身としては、もう少しどっしり構えていて欲しかった。
 胸に湧いたやりきれない思いを溜息と共に吐き出し、僕は潜水前の準備の最終ステップに取り掛かった。
 水深120m、十三気圧の世界での作業。
 おそらく一番妥当な手段は、飽和潜水だ。一分間に一メートルずつ、約二時間掛けて加圧を行い、その状態で約一日減圧室に滞在し、体を十三気圧の加圧ガスで飽和させる。加圧が完了した後は、同じく十三気圧に加圧されたベルに移乗して実際にベルを海中に降下させていき、目標深度でダイバーは海中にエントリーする。
 そして海中で作業を行い、作業を終えた後はベルに戻る。それからベルを引き上げて減圧室に移り、ゆっくりと減圧を行う。
 ゆっくりと減圧――飽和潜水の最大のネックが、ここだ。
 飽和潜水からの減圧時間は、用いる減圧表によっても異なるが、非常に大雑把には以下のように求められる。すなわち、深度をフィートに換算し、百で割った値に一日を足すのだ。IBFの場合は深度119mだからフィートで換算すると約400フィート。百で割って一日を足すと、約五日間掛かる計算になる。
 さっき説明した通り、加圧にも丸々一日掛かるから、全工程を合わせるとほとんど一週間掛かりの大作業だ。
 そして、それを実行するだけの経済力が、僕と優にはない。
 この船は八神博士の設立したベンチャー企業、八神特建の保有財産だけれど、さすがに一週間も借り受けるのは不可能だ。それに、加圧にも減圧にも、高価なヘリウムガスを使用する。一週間ともなれば、その費用は並大抵ではない。
 だから僕達は、別の手段を採ることにした。
 バウンス潜水と呼ばれるその潜水方法では、体は潜水深度まで加圧するが、ガスで飽和はさせない。そして、可能な限り早く海中での作業を済ませて減圧室に戻り、減圧を行う。
 深度119m、滞底時間51分、減圧時間19時間。
 これが、今回僕達の立てた作業スケジュールだ。
 減圧時間を大幅に短縮できるバウンス潜水だが、もちろん長所ばかりではない。
 滞底時間と減圧時間が密接にリンクするので、作業時間の管理が実にシビアになる。また、加圧時間も滞底時間に含まれるので、飽和潜水と比較して遙かに高速で加圧しなければならない。
 加圧の際に呼吸装置を装着するのも、そのためだ。加圧ガスは目標深度を考慮した混合比のヘリウム―酸素の混合ガスだが、加圧が余りに高速なため、時としてベル内に局所的な低酸素状態が生じることがある。その場合、呼吸装置を装着しないでいるとダイバーが失神する羽目になる。
 加圧時間の設定の鉄則は一つ――ダイバーが耐え得る限り、短く。
 これまで地上で二度、深度120mまでの高速加圧試験を実施したが、二度とも深度100mを超えたところで加圧神経痛に悩まされた。症状としては肘や指先の辺りに軽い痛みを覚える程度で、作業に深刻な影響を与えるものではなかったけれども、不快であるのは間違いない。
「優、準備ができたよ。加圧を始めて」
 マスクに装着されたマイクに向かって、僕はやや大きめの声を出す。
 LeMUで使用しているものは高級品なので、囁くような声でも船上のオペレーターが聞き取ることは可能だった。
 全く、何から何まで勝手が違う。
「加圧を始めたわ。体にちょっとでも不調を感じたら、すぐに言ってね」
「心配しなくて良いよ。僕にとっては、公園の散歩みたいなものだから」
 深度51mまでだったらね、という呟きは心の中に留めた。
 未だに小刻みな震えを止めない足先を見つめながら、小さな溜息をつく。
 ココならともかく、優の前でまで見栄を張ってみせる自分が、我ながら不思議だった。
 男の本能のようなものなのだろうか。武に聞いてみたいような気もするけど、記憶に残る武はいつも自然体で、少しも格好を付けているようには見えなかった。それを思い出し、僕はほんの少し自己嫌悪に陥った。
 ベルの側壁近くの段差に腰掛け、目を軽く瞑り、組み合わせた手を膝の上に置く。
 今までの経験によれば、加圧時はこの姿勢が一番過ごしやすい。
 脈拍が次第に緩やかになっていくのを感じる。きちんと数えてはいないけど、今は一分間に二十回を僅かに越す程度だろう。そんなことをぼんやりと考えている内に、指先にぴりぴりとした痛みを感じ始めた。
「加圧深度、100m」
 ざりざりとしたノイズ混じりの優の声が、なぜかとても気障りに感じた。
 落ち着いていこう――その台詞を言ったのは、自分だった筈なのに。
 指先が、小刻みに震えだす。足も震えているが、これは加圧前からなので、果たして加圧の影響なのかどうか分からない。三度、大きく息を付いたところで、無機質な電子音が数回、ベルの中に響き渡った。
「加圧深度、120m……加圧は完了したわ、桑古木。そっちでも確認して」
 優の声に促されて、僕はゆっくりと目を開き、ベルに据え付けられたアナログ式の計器に目を落とした。静止状態から大きく振れた針が、現在の加圧状態、十三気圧を示している。
「こっちでも確認したよ、優。加圧は予定通り終了してる」
 そう答えてしばらく待ったが、優からの答えはなかなか返ってこなかった。
「優?」
「ごめん、もう少し大きな声で喋って。……ヘリウム音声の補正を掛けてるから、一段と聞き取りにくくなってるの」
 うわあ、と僕は心の中でぼやいた。
 正直、ここまでおんぼろな通信機を使ったのは初めてだ。
 その通信機がここと海上を結ぶ細い細い糸なのだと思うと、どんどん気分が滅入ってくる。
「加圧は無事完了。時間がもったいないから、もう行くよ」
 優の指定通り、意識して大きな声で返答をした。
 口調がどこかぶっきらぼうになっているのが、自分でも分かる。声を大きくしながら気遣うような声音を使うのは、正直、かなり難しい。
 ハンドルを回し、ベルの底のハッチのロックを解除する。ベルはIBFよりも上の位置で静止しており、外部の水圧は現在のベル内部の圧力よりも小さい。ハッチを開いたとしても、ベルの中に水が入ってくることはない。
 息を一つ吸い込むと、素早くハッチを開き、海中にエントリーする。
 やや荒っぽい動作でハッチを閉ざすと、僕はまっすぐIBFに向かって降りていった。
 初めて体験する深度120mの海中は、いつも潜り慣れている深度51mの海と大して変わらないように感じた。
 そのことに、いささか拍子抜けする。
「IBFに着いたよ。予定通り、これからしばらくは通信ができなくなるけど、気長に待っててね」
 僕と優との通信は有線で行っている。無線だと通信を傍受される危険性があったためだが、その危険を冒してでも無線を選択すべきだったのではないかといまさらながらに思う。通信ケーブルを付けたままでは、IBF内での補修作業を行うことはできない。仮にケーブルを付けたまま中に入っても、各区画を仕切る気密扉が自動的に閉鎖するときに切断されてしまう。覚悟はしていた筈だが、いざその場に来てみると、不安で胸が一杯になった。
 なにしろ、何かトラブルがあっても誰にも助けを求めることができない。最悪、インゼル・ヌルの管制室に連絡を付けることは不可能ではないだろうが、それは本当に最後の手段だ。
「桑古木」
 その声に、IBFの外壁に掛けていた手が止まる。僕は息を潜めて、優の次の言葉を待った。
「……気を付けて」
 言葉と言葉の間の沈黙の長さが、優の持つ不安、迷い、そして躊躇いの大きさをそのまま示していた。
 僕は返す言葉を思い付けずに、結局、そのまま通信ケーブルを引き抜いた。
 IBFの外壁に、器具を使って通信ケーブルを固定する。ケーブルを数度引っ張って、しっかりと固定できたことを確かめてから、僕はIBFの中へと入っていった。

 海水が満たされた潜水艇用の通路の中を泳いで進んでいき、プールに辿りつく。
 水面から顔を突き出すと、そこには見覚えのある光景が広がっていた。
 一年数ヶ月ぶりに見るその光景だったが、感じたものは懐かしさではなかった。
 ここ、第三IBFで――僕達の運命は、大きく捻じ曲げられたのだから。
 水面から這い上がり、最寄の端末を目指す。その端末と、腰に装着していたセンサーの双方で、僕はIBF内部の大気組成を確認した。深度に応じて適切に混合されたヘリウム―酸素ガスで、IBFは満たされている。ほっと息を付いて、僕は呼吸マスクを口元から引き剥がした。
 八神博士から教えられたパスワードを端末に打ち込み、あの事件の時には開かなかった扉を次々と開いていく。
 管制室に辿りつくと同時に、何度も繰り返したシミュレーション通りに、館内のチェックプログラムを起動した。テラバイトディスクを端末に差し込み、データの保存の準備をする。端末を次々に操作して、館内の生命維持に関する主要な情報をいくつものホログラムウィンドウに表示させた。
 一年以上メンテナンス無しで放置していたにも関わらず、少なくとも現在表示されている範囲では、館内のどこにも異常は見当たらなかった。僕はそのことに、深い安堵の息を付いた。
 緊張が解け、近くの椅子に座り込みそうになる。椅子の背に手を掛けて体を支えたその瞬間、ウィンドウの隅に表示された文字列に僕の体は凍りついた。
 『生体反応:1』――ホログラムウィンドウには、確かにそう表示されていた。
 体中にどっと汗が噴き出す。
 震える手で端末を操作し、救護室の状態をもう一度チェックする。
 救護室内のシステムには全く異常は見当たらず、二台の治療ポッドが正常に稼動していることが見てとれた。
 一見矛盾するこの結果に、僕は頭を抱えた。
「そうか……」
 思わず、独り言が口をつく。
 生体反応感知システムは、人間の動きや体温による発熱を感知する仕組みになっていた筈だ。
 ハイバーネーションによって冬眠状態にあるココと武は、動きもしないし、体温も極めて低い状態まで下げられている。
 生体反応感知システムが反応しないのも当然だ。その事実に思い至り、僕は今度こそ椅子の上にへたり込みそうになった。
 だけど、作業時間は余りに限られている。
 僕は半ば無理矢理に足に力を入れて立ち上がると、次の作業に取り掛かった。
 館内に残された補修部品の在庫のチェック。館内の状態の把握、写真の撮影、可能な範囲での部品の交換。荒い息を吐きながら、僕はIBFの中をあちこち駆けずり回った。
 そして僕は、ティーフ・ブラウがもたらした惨禍の残骸を見せつけられた。
 床の上に広がる赤黒い染み。干からびた吐瀉物。そして――かつてはヒトと呼ばれていたもの。
 それを弔う時間はもちろん、悼む時間すらも僕には与えられていなかった。
 だから僕は、その横をただ通り過ぎた。そのたびに、心の奥に何かが降り積もっていくのを感じた。
「これで一段落、か」
 予め定められていた作業が一通り完了し、僕は深々と溜息を付いた。
 作業中に何度も確認していた腕時計に、もう一度目を向ける。優と八神博士が立てたプランは、全く無駄が無かった。総ての作業が終わった今、IBFに留まっていられる時間はほんの数分程度しか残っていなかった。
 よろよろとした足取りで、プールに向かって進んでいく。一分でも早く戻れば、それだけ減圧時間が短くなるのだが、これ以上の速度ではとても歩けそうになかった。
 身も心も疲れきって俯き加減に歩いていた僕は、本日何度目かになる、床の上に広がる赤黒い染みを見つけた。
 心底げんなりしながら、顔を起こしてその染みから視線を外す。
 顔を上げた視線のその先にあるものに気付き、僕の体は瞬時に硬直した。
 そこに、扉があった。
 ココと武が眠る、救護室の扉が。
 気が付くと、僕は駆け出していた。
 その扉に向かって、手を伸ばす。手は扉に触れる寸前まで伸ばされ……そこで止まった。
 それは魔法の扉だから――優は、そう言っていた。
 だから、触れてはいけない。
 もしその扉を開けば、その魔法は解けてしまうから。奇跡を起こす力が、失われてしまうから。
「そんなこと、あるもんか……!」
 今、ココと武はこの中にいるのだ。
 この扉を開けて、ポッドを覚醒モードに切り替えればいい。
 IBFの外にあるのは、元々三人乗りで設計されたベルだ。ちょっと息を止めて水の中を泳いでいけば、ベルまでは簡単に辿りつくことができる。
 足ががくがくと震えた。
 押さえつけていた感情が堰を切って、溢れそうになっていた。
 だけど――僕はとうとう、その扉を開くことができなかった。
 喉の奥が、痛んだ。
 目の前の扉が、滲んで見えた。
 僕には、優を心から信じることも……裏切ることも、できなかった。
 なぜ、僕はここにいるのだろう。
 扉の向こうでココの隣にいるのは、どうして武なんだろう。
 僕と武の立場が逆だったなら……きっと、何もかもがうまくいっていた筈なのに。
 頬を伝うものを、手の甲で乱暴に拭い去る。もう、僕には時間が残されていなかった。歯を食いしばり、プールに向かって駆け出していく。そのまま床を蹴って、プールに飛び込んだ。
 IBFの外壁に貼り付けていた通信ケーブルを引き剥がし、ベルに向かって浮上していく。ハッチをくぐり抜けてベルの中に潜り込むと、僕は通信機に向かって怒鳴りつけた。
「ベルに戻ったよ、優。減圧を始めて!」
「時間ぎりぎりじゃない、一体……」
 その言葉を最後まで聞く気になれず、僕は通信機のスイッチを切った。
 ベルの隅に置いてあった蛇腹式のバスユニット、かつては宇宙船でも使われていたというそれを組み上げ、バルブをひねってその中に消毒液を満たす。八割ほど液体が満たされたところで、自分が身に着けていた潜水用具をその中に次々と放り込んでいった。
 バスユニットにポンプとホースとを接続し、ベルの中の隅々に至るまで消毒液を吹き付ける。
 ティーフ・ブラウはウィルスの中ではそれほど強靭な部類ではないため、この程度の処理でも滅菌できるというのが八神博士の見解だ。
 一通り吹き付け作業が終わると、僕はバスユニットの中に身を沈め、身に着けているものを総て脱いだ。そして、目を瞑って頭まで液に漬かるように、消毒液の中に身を沈めた。
 あとどれくらい、こんな思いをしなければならないのだろう。
 膝を抱えて水の中でうずくまりながら、僕は十六年という時間の長さに、気が遠くなりそうな絶望を感じていた。

 ベルが船上に引き上げられてしばらくしてから、僕は消毒液に浸されたタオルを腰に巻いて、バスユニットから外に出た。
 体中にしみついた薬品臭に顔をしかめつつ、ベルとドッキングした減圧室に入り、そこに置かれていた服を身に着け始める。インターホンを手に、分厚い減圧室の扉の向こうに立つ優の姿に気付いたのは、ちょうどジャージを履き終わった頃だった。
「桑古木!」
「あのさ、見ての通り僕は着替え中なんだけど。出て行ってくれないかな」
 裸の上半身の首に掛けたバスタオルで頭を拭きながら、僕は優を睨み付けた。減圧室に満たされたヘリウムガスのせいで甲高くなった自分の声が、無性に苛立たしかった。
「桑古木……」
 優の肩が、小さく震えているのが見えた。
 誰もいない船の中、一時間近くもの間、祈るような気持ちでただひたすらに連絡を待ち続ける。
 それがどれほど辛い作業か、頭では分かっていたつもりだった。そして、待ち続けていた通信が繋がるや否や、一方的にそれを断ち切られた優がどんな気持ちでいるのかも。
 だけど、今の僕には、それを気遣う余裕は一欠片も残っていなかった。
「仕事は全部やったよ。だから出て行って、優。今は、一人になりたいんだ」
 言い放たれたその言葉に、優は目を大きく見開いた。
 その瞳からは、涙が溢れだしそうになっている。
 僕の手はいつの間にか拳を作り、小さく震え出していた。
「分かったわ……私は操舵室にいるから。いつでも良いから、後で、通信機で呼び出して」
 優はがっくりと肩を落として、減圧室の前から立ち去っていった。
 僕は肺の中の空気を総て吐き出すように、大きく息を吐く。
 減圧室のベッドに、ごろりと横になった。
 減圧時間は19時間もある。それだけあれば、僕の頭も冷えるだろう。
 しばらくして、船がゆっくりと動き始めた。
 ベッドの上で丸くなって、吹き荒れる感情の嵐が収まるのをじっと待つ。長い長い時間が過ぎ、ある時を境に、すっと心が冷え込んでいった。
 もうタツタサンドは食べたくないと、駄々をこねたかつての自分。今の自分は、それと同じだ。あの時から、全く成長していない。そして、そんな自分を本気で叱ってくれた人は、もういない。
 こんな有様で、僕は武になりきることができるのだろうか。
 僕は……最後までやり遂げることができるんだろうか?

 いくら考えても答えの出ないその問いから、僕は目を逸らした。
 この部屋から出られるようになるには、まだまだ時間が掛かる。一眠りした後でも、考える時間は充分過ぎるほどある。
 目を閉じて、ベッドの上の枕に頭を載せた。懐かしいココと武の姿を、ぼんやりと思い返そうとする。
 だけど、瞼の裏に焼きついているのは……今にも泣き出しそうな、優の姿だった。





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