自転車のかご一杯に荷物を詰めて、勾配は緩やかだけど長い坂道を、真っ白な息を吐きながら上っていく。 その坂道のだいたい真ん中辺りで、ちょっと左の脇道に入ってすぐのところにあるのが、今、僕が住んでいるマンションだ。引っ越してちょうど二ヶ月くらいで、まだ開けてないダンボールも幾つか残っている。それなのに、あたかももう何年も住んでいるかのような不思議な居心地良さがある。 坂道から左の脇道に入ろうとしたところで、空から降ってくる、目の前をちらつく白いものに気付いた。 「……まったく、寒い筈だよ」 口ではそんな風にぼやきながらも、どこか心が弾む気持ちを抑えられない。 昨年の年末年始を海の中で過ごしていた僕は、本物の雪を見るのは今年の冬が初めてだった。 |
冬の思い出 長峰 晶 |
しばらく雪の舞う空を見上げ続けた後、僕は再び自転車のペダルを力強く漕ぎ出した。 ここからマンションまでは、自転車ならほんの数分の距離だ。駐輪場に自転車を止め、ずっしりと中身の詰まったスーパーの袋を両手に提げて、エレベーターに飛び込む。 部屋の前に着いたところで、僕ははたと思い悩んだ。ポケットから合鍵を出そうにも、両手は荷物で塞がっている。袋を床に置けば良さそうなものだけど、どちらかの袋には卵が入っているから、コンクリートの床の上に置くには相当の慎重さが要求される。そして、僕は右と左、どちらの袋に卵を入れたのかをうっかり失念してしまっていた。 少し考えてから、部屋のインターホンを押す。 しばらく待つが、返事はない。袋をやはり下ろすか、それとももう一度インターホンを押すかを考え始めた頃、唐突に目の前のドアが開いた。 「お帰りなさい、涼権君。寒かったでしょう? お疲れ様」 「田中先生……ドアを開ける前には、ちゃんと相手を確認して下さいよ。年の瀬って、なにかと物騒なんですから」 「もちろん、そこのカメラで涼権君だっていうのは確認してるわよ。それはそうと、帰ってきたときの挨拶はそうじゃないでしょう?」 エプロンをした腰に手を当て、ちらりとこちらを見上げるような視線を送る。その何気ない仕種に、優との血のつながりがはっきりと感じられた。すっと伸びた背筋や、首を傾けるときの微妙な角度などが、この二人は驚くほど良く似ている。 「えっと……ただいま、です。田中先生」 部屋の中に入ると、真っ先に洗面所で手を洗って、うがいをした。 昨年の冬と同様、今年もインフルエンザが流行している。そればかりではなく、初期症状はインフルエンザと似ているが、発病後、激烈な症状に進行する感染症までもが散発している。 『発生源不明、未知の悪性ウイルス』――マスコミはそう報じている。多くの専門機関がその究明に全力を挙げているが、依然、成果は挙がっていないらしい。この一年というもの、ほとんどの時間を海の中で過ごしていた僕は世事にかなり疎くなっていたのだけれども、このニュースだけはいつも心の底に、棘のように引っ掛かっていた。 世界中で数多くの犠牲者をもたらしているこの感染症の、適切な治療法および予防法は未だに見出されていない。 そんなことを心の片隅で考えながら、買ってきた荷物――ほとんどが食料品――を、次々と冷蔵庫の中へ収めていく。 冷蔵庫は、二人住まいの割にはかなり大きなサイズだ。 あれから僕の身長は順調に伸びて、今では優や田中先生は僕のことを見上げるようになっている。今の成長ペースが維持されるならば、いずれは、武と同じくらいの身長になる筈だ。 そのこと自体はとても喜ばしかったのだけれども、体が大きくなった分、僕は食べる量が随分増えてしまった。田中先生は食事の作り甲斐があると笑って済ませてくれているけど、食費のことを考えると、頭が痛い。 「ところで涼権君、なんでスーパーの袋が三種類もあるのかしら?」 背中から降ろしたデイパックから出てきた三つ目の袋を見た田中先生が、なぜか不思議そうな顔をして僕に問い掛ける。 「これですか? それぞれのスーパーで、特売品が違うんですよ。新聞のチラシに書いてあったじゃないですか」 僕はテーブルの上に電子ペーパーを広げると、手早く操作をして目的のチラシを表示させる。うっかりすると、店によって牛乳一本で十円以上の差があったりするから、本当に油断がならない。 「……涼権君、きっと良い旦那様になるわよ。少なくとも、主夫の素質は完璧だわ」 「これくらいは、誰でもやってると思いますけど」 少なくとも、LeMUの購買物流部はこんなものではなかった筈だ。僕は現場作業者だったので、彼等と接触する機会は数えるほどしかなかったのだが、納期と予算の板挟みに苦しみながら現場に都会に駆けずり回る彼等の姿は、今でも忘れがたいほどのインパクトを僕の心に残している。 田中先生は僕の答えにどこか釈然としないような表情をしつつも、特にそれ以上のコメントもなく台所の流しへと引き返した。 冷蔵庫へ食料品を詰め込むと、居間のテーブルの側の椅子に掛けてあったエプロンを掴んで、台所に立つ田中先生の横に並ぶ。念のために申し添えておくと、僕と田中先生がペアルックのエプロンをしているのは、単にそのセットが安かったからで、それ以上の他意はない。 「量が多いから大変だけど、頑張ってね」 普段より数割がた増量した笑顔を浮かべて、田中先生が僕の方に大きなボールを押しやる。 チーズケーキをふっくらを焼き上げる最大のポイントは、卵白をしっかり泡立てて良質のメレンゲを作るところなのだそうだ。 田中先生は普段は電動ミキサーを使っているのだが、引越しの際にうっかり持ってくるのを忘れてしまったらしい。まあ、肉体労働は得意とするところだから、別に構わないけれど……。 ちなみに、田中先生はかなり料理が得意だ。 優にはちっとも遺伝していないようなので、秋香奈に隔世遺伝されていることを僕は密かに願っているが、それはおそらく叶わぬ願いだろう。 秋香奈は優の娘であり、優自身でもあるのだから。 「涼権君、今日は何時頃帰ってこれるの?」 「今日は一番忙しい日ですからね……正直、十時前に上がれるとはちょっと思えないです」 「それじゃ、帰って来る頃には秋香奈は寝ちゃってるわよ。折角の、クリスマス・パーティなのに」 「すみません」 それが狙いなんです、という呟きはもちろん心の中に留めた。 今日はクリスマス・イブだ。久しぶりに田中先生は実家……というのも変だけど、優と秋香奈の住む家を訪れ、クリスマス・パーティを開くことになっている。月曜日だというのに有給休暇まで申請してしっかり朝からケーキ作りに勤しんでいる辺りに、田中先生の気合のほどが伺える。 それにしても、クリスマスは二十五日なのに、なぜ世間では二十四日にお祝いをするんだろう。 誰かに一度聞いてみたい気もするのだけど、ついに今まで果たせずにいる。 「……年末年始も、アルバイトだって言ってたわよね。確か、年賀状の配達だったかしら?」 田中先生が、小さく溜息を付く。 僕を家族の一員として扱ってくれていることは、とても嬉しかった。その思いに応えたい、という気持ちももちろんあった。 だけど、世の中、なかなかままならないものなのだ。 「優、遅くなってごめん。今、家の前に着いたよ」 「ほんとに遅かったわね……すぐに開けるから、そーっと入ってね」 「分かってるって」 僕は携帯電話をジーンズの後ろのポケットにしまうと、道路に置いていた大きな鞄の肩紐を掴み、肩の上に担ぎ上げる。それから程無くして、優が玄関を開けて、僕を出迎えてくれた。 「お疲れ様。すぐにあったかいコーヒーを淹れてあげるわ」 「あ、できれば甘くしてくれると嬉しいな。それとミルクも」 「……チーズケーキも一緒に出すのよ?」 「でも、苦いと飲めないし」 「あなたって、体は大きくなってもそういうところは変わらないわね」 呆れたように顔をしかめる優に、僕は肩を竦めてみせる。 優の後ろでは、田中先生が笑いを堪えるような表情を浮かべて、僕達のことを見つめていた。 まだ何やらぶつぶつと呟きつつも、優は僕のコーヒーを準備してくれた。ミルクをたっぷり、角砂糖は二つ……僕のすがりつくような視線に負けたのか、大きく息を吐きながらも三つ目も入れてくれた。 「コーヒーはブラックに限る、と私は思うんだけど」 「まあ、そう言わないで。人生には甘みも必要なんだよ」 眠っている秋香奈を起こさないように、僕達は小声で囁きあう。 その合間に、大きく切り分けてもらった僕と田中先生の合作のチーズケーキを、口の中に放り込んだ。 「それ、とても美味しかったわよ。ユウもとっても喜んでたわ」 「そう言ってもらえると作った甲斐があるなあ。ありがとう、優」 「莫迦ね、お礼を言うのはこっちの方よ」 優の『莫迦』は、ときどき、とても優しい響きを帯びる。 僕は、自分の頬が自然と緩んでいくのを感じた。 「桑古木、まだメインイベントが残ってるのを忘れないでね。それが終わるまで、気を抜いちゃだめよ」 「任せといて。今なら、何でもできる気がするよ」 僕はケーキを食べ終わると、優に断って、隣の和室に移った。 持ってきた鞄を開けて、中身をおもむろに引っ張り出す。 そして、素早く身に付けている服を着替え始めた。 赤い服に、赤い帽子。要所要所にあしらった白いボアの縁取り。 バイト先のケーキ屋さんに無理を言って借りてきたサンタクロースのコスチュームは、なかなか本格的だった。正直、これだけでも充分だと思ったのだが、優の見解は異なっていた。 「ちょっと桑古木、動かないでよ」 「だって、くすぐったいんだよ。ねえ優、何も髭とか眉毛まで付ける必要はないんじゃない?」 「甘いわね。こういうのは、ディティールが大切なのよ。細かいところといえども、手を抜いちゃだめなの!」 「ディティールも何も、秋香奈は眠ってるんだけど……」 僕の反論は、あっさり聞き流された。まあ、充分に予想はできていたことだけど。 それからしばらく、優の入念なチェックを受け、ようやくゴーサインを出してもらった僕は、綿で膨らませた大きな麻袋を担いで、そろそろと歩き始めた。 秋香奈の部屋の前に立ち、慎重の上にも慎重を重ねて、扉を開く。 そのまま音を立てないようにして部屋の中に体を滑り込ませると、僕はベッドに眠る秋香奈の枕元に立った。 秋香奈は、三ヶ月前に三歳になったばかりだ。 ベッドの中で安らかに眠るその姿は、まさに天使の寝顔という表現がぴったりだった。優にも、こんなに可愛いときがかつてはあったのかと思うと、何やら感慨深いものがある。 背中に背負った麻袋から、優からのプレゼントと、僕と田中先生が選んだプレゼントをそれぞれ取り出し、ベッドの側の小さな机に置かれた大きな靴下の中にそれらをそっとしまい込む。 部屋の中は暗く、天井の小さな電球が一つ付いているきりだったけれど、なぜか、僕は秋香奈の姿をはっきりと捉えることができた。 こうして秋香奈の姿を間近に見るのは、随分と久しぶりのことだった。あの事件が起こった直後、まだ秋香奈が今よりうんと小さかったときは、抱っこもしたし、優や田中先生と一緒に記念写真まで撮ったりしていたんだけど……。 そんなことをぼんやりと考えながら秋香奈を見つめているうちに、ふと、秋香奈が寝返りを打った。 僕はびくりと身を固くする。 部屋の中の人の気配を感じたのか、はたまた他の理由か。 秋香奈はゆっくりと薄目を開いた。 僕はほとんど反射的に身を屈めると、自分の唇に人差し指を当ててみせた。 秋香奈は一瞬、とても可愛らしい笑みを浮かべると、そのまま再びすやすやと眠り込んだ。 ……どうやら、単に寝ぼけていたらしい。 僕は心の中で大きな安堵の息を付くと、そうっとそうっとベッドから離れ、部屋を出て行った。 「桑古木、上手くいった?」 「うん、大丈夫、上手くいったよ……多分」 僕は最後に薄く目を開いた秋香奈を思い出しながら、ちょっと弱気にそう付け足した。 「多分って、あなた、何か失敗したの?」 「別に、失敗ってほどじゃないよ。最後にちょっと、寝ぼけた秋香奈と目が合ったくらいで」 「か・ぶ・ら・き〜!」 右手が掴まれたと思ったその瞬間、すかさず関節を極められた。いわゆる脇固めの形でテーブルに組み伏せられた僕は、喉元から溢れそうになる声を抑えながら、左手で優の体を叩いてタップする。優はそれを全く意に介さずに、僕の手の甲を掴んで無造作にそれを捻り上げた。 「あんたって奴は、もう!」 「その辺にしておきなさい、優。このどたばたで秋香奈が目を覚ましたら、それこそ総てが水の泡よ」 冷静な田中先生の仲裁に、優はしぶしぶ手を放す。 「もうこんな時間だもの。秋香奈は、まず間違いなく寝ぼけていただけよ。それなら、夢の中にサンタさんが出てきた、って思う筈だわ。私達にとって、もっとも好都合な展開じゃないかしら?」 「そっか……そうよね!」 満面の笑みを浮かべる優。 僕の右腕を締め上げていたことは、すっかり忘却の彼方らしい。 僕は優に気付かれないように、右腕をそっとさすりながら小さく溜息を付いた。 それから僕達は、居間のソファに腰掛けて、秋香奈を起こさないように気を遣いながらも楽しくしゃべり続けた。僕にとって一番驚きだった話題は、優が十一歳のときまでサンタクロースを信じていたことだった。「お母さんが、策士だったのよ」と半ばぼやくように呟いたときの優のなんとも無念そうな表情は、ちょっと忘れられそうにない。 楽しい時は、あっという間に過ぎていった。 優に見送られて、僕と田中先生は玄関に向かう。車の暖気をする必要があるため、田中先生は一足先に車の中に乗り込んだ。僕はそれを横目で見ながら、優の方を振り返った。 振り返ったそのとき、優も僕のことを見つめていた。優は数度大きく瞬きすると、僕に向かって体を一歩前に踏み出した。 優は背中から、僕はジャンパーのポケットから、リボンに包まれた小さな箱をそれぞれ取り出す。そのタイミングが、余りにぴったり揃っていたので、僕達は思わず顔を見合わせて笑いあった。 田中先生の運転する車の助手席で、僕は手の中のリボンに包まれた箱をそっと握り締めていた。去年はクリスマスも正月も海の中だったので、これが僕の初めてのクリスマスプレゼントだった。 「これ、優と田中先生からなんですよね……ありがとうございます。田中先生へのプレゼントもあるんですけど、運転中ですし、家に帰ってからの方が良いですよね?」 「あら、私の分も用意していてくれたの?」 「もちろんです。だけど、クリスマスプレゼントを選ぶなんて初めてのことでしたから、良いものを選べたかどうか、ちょっと自信は無いんですけど」 正直、田中先生のような大人の女性へのプレゼントというのは、僕にはかなりハードルが高かった。優へのプレゼントもそれなりに悩んだけれど、ある店で、ほとんど直感的に気に入った一品が見つかってくれたお陰で、そちらは余り苦労しなかった。 「それはこっちも一緒よ。優なんて、あなたへのプレゼントを選ぶときに、頭から湯気が出そうなほど考え込んでたんだから」 田中先生はそう言って、思わせぶりに微笑んだ。 「引っ越したのは、正解だったみたいね」 「え?」 「あなた達くらいの年頃だと、ちょっと距離を置いた方が……多少、障害があるくらいの方がむしろ燃え上がるものなのよ」 「あの……」 優が好きなのは武なんですけど、と続く筈だった言葉を、僕は胸の中に呑みこんだ。 田中先生の誤解は思った以上に根深い。何となく、この状況では何を言っても逆効果なような気がする。 小さく溜息を付いて、窓の外を見つめる。 僕と優との間に愛情なんてものがあるとしたら、百歩譲って姉弟愛というところだろう。それはきっと、不燃物だと思う。 「ふふっ、そんなに照れなくても良いのに。それはそうと、涼権君、プレゼントの中身は気にならない?」 運転をしているから、こちらに視線は向けてこないけれど、その意図は充分に伝わった。僕は田中先生の期待に応えるべく、箱を包むリボンを丁寧にほどいた。 上質の包装紙を、破かないようにそっと剥がす。 シンプルなデザインの箱の中から取り出したそれを掌の上に載せて、僕はしばし言葉を失った。 「田中先生……」 「気に入ってもらえたかしら?」 「あの、品物は素晴らしいと思うんですけど……ちょっと、高価過ぎるような気がするんですが」 掌の上で鈍く輝く、ダイバーズ・ウォッチにちらりと目を落とす。直径四センチを超えるその時計は、圧倒的な存在感を持って僕に迫っていた。 「涼権君は、プロのダイバーになるんでしょう? プロは、道具に妥協しないものよ」 田中先生はきっぱりと言い切る。 二十年間、田中家の大黒柱として一家を支えてきたその言葉には、生半可な反駁を許さない重みがあった。 「それを選んだのは優よ。どうしてもそれが嫌なら、優と直接交渉しなさい」 穏やかながら芯の通った田中先生の声に押されるように、僕は再び自分の掌に視線を落とした。 職業ダイバー、特に飽和潜水に従事するダイバーが使う腕時計は、一般的なそれと大きく異なる。飽和潜水では通常、ヘリウム混合ガスを加圧に使用する。例えばIBFの深度、水面下119mでの作業を行う場合は、十三気圧まで加圧する必要があるのだが、その際、ヘリウムは水分子よりも小さいために防水加工した時計の中にまで入り込んでしまう。 その状態で潜水作業後の減圧を行うと、減圧室内の気圧はどんどん下がっていくのに、時計の中は十三気圧のヘリウムが充填されたままになってしまう。その結果、この内外の圧力差で時計が壊れることがある。最悪、風防ガラスが割れることすらある……というかこの前、実際に割ってしまった。 これを防ぐ方法は大きく分けて三つ。ヘリウム・エスケープ・バルブという減圧時に積極的にヘリウムを排出するためのバルブを設けるか、特殊なパッキンを使ってヘリウムすら中に入り込まないような構造にするか、あるいは加圧ヘリウムによる圧力差程度では壊れない程に強靭な時計を作るか、だ。 優が選んでくれたこの時計は、三番目の解決策を採用している。 クリスマスプレゼントとしては、余りにも高価な一品だという気持ちは、今も消えない。 だけど……優がどんな想いを込めてこれを選んでくれたのかは、分かったような気がする。 「田中先生」 「何かしら?」 「ありがとうございます。この時計、ずっと大切に使わせてもらいます」 田中先生の横顔に、とても柔らかな笑顔が浮かぶ。秋香奈のことを話すときの優は、いつもこんな表情をしている。 見る者の心を暖めるような、包み込むような。 そんな、笑顔だった。 「今の言葉、優にも言ってあげてね」 「もちろんです」 「それと……涼権君」 「何ですか?」 「優には、何をプレゼントしてあげたの?」 運転中だというのに、ちらりとこちらに視線を走らせる。 いつの間にか、表情は普段のクールなそれに戻っていたけれど、一瞬見えたその瞳は、好奇心に強く輝いている。 血は争えない――そんな言葉が、ふと、僕の頭をよぎる。 「……優が気に入ってくれたら、すぐに分かりますよ」 なんとなく素直に答える気分になれず、そんな答えを返してみせる。 「あら、アクセサリーなの? 素敵ね」 ……田中先生は、時々、魔女みたいに勘が良い。 僕と優の関係についてだけ激しく誤解しているが、その誤解はかなり恣意的なような気がする。 踏み切りの少し手前で、警報機が鳴り始め、遮断機がゆっくりと降りてきた。優みたいにせっかちな人ならそのまま進みかねないタイミングだったけれども、田中先生は滑らかに車を停止させた。 そういえば、優は車の免許を持っているんだろうか。 年齢的には持っていてもおかしくないけれど、優が運転しているのはついぞ見たことがない。 「涼権君、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「何ですか?」 サイドブレーキを引いて、改めて僕の方へ向き直った田中先生に、何となく僕も背筋を伸ばす。 「春になったら、また海に行くって言ってたわよね」 「ええ。陸の上でバイトも良いんですけど、やっぱりそれが一番稼げますし」 「優の誕生日までは、こっちにいられる?」 言葉と共に、田中先生は僕の瞳をまっすぐに覗き込んでくる。その視線に捉えられ、僕は眼を逸らすことができなかった。 優――田中優美清春香奈は、かつて重度の心臓病だった。 発病したのは今から五年前。余命数年と言われ、高校を卒業することすら危ぶまれていたという。 優はあと数ヶ月で、二十歳の誕生日を迎える。田中先生がどんな想いでその事実を受け止めているのか、その総てを推し量ることは、僕には到底できそうにもない。 踏み切りの警報機が、鳴り続けている。 線路を照らす電車のヘッドライトが、こちらに向かって電車が近付いてくることを知らせていた。 記憶が遡れるのは三歳か四歳くらいまで、という優の言葉を思い出す。 それならば……今度の優の誕生日までなら、何とかごまかせるんじゃないだろうか。 優は、怒るかもしれないけれど。 田中先生のために。僕の、大事な家族のために。できることがあるのなら、それをしたかった。 「また、ケーキを焼きましょうか」 その言葉は、自分でも驚くほどに、自然に僕の口をついて出た。 「秋香奈にも好評だったみたいですし。僕と、優と、田中先生と、秋香奈と……家族みんなで、お祝いしましょう」 踏み切りを、音を立てて電車が通過していく。 電車の灯りに照らされた車内の中で。 田中先生の手が、かすかに、本当にかすかに震えているのが見えた。 電車が通り過ぎ、遮断機が上に上がっていく。 田中先生はゆっくりと、車を動かし始めた。 「……約束よ、涼権君。破ったりしたら、承知しないから」 「大丈夫です。必ず守ってみせますよ」 そのためには優を説得しなければならず、それは到底容易なこととは思えなかったけれども、なぜだか、不思議なほどに気分は軽かった。 僕はこれから幾つもの嘘を重ねることになる。 何人もの人を偽り、騙さなければならない。 だからこそ、この約束は僕にとって特別なものだった。 僕達の住むマンションに辿り着き、僕は車の外に出た。 町の中心から幾らか離れたこの地区では、夜になると本当に辺りは暗くなる。静かに降り続ける雪の中、僕は白い息を吐きながら、ほんの少しだけ欠けた月を見上げた。 星の無い空の中、ただ一人きりの月は冷たく、どこか哀しく、そしてとても綺麗だった。 ふと気が付くと、田中先生が隣に立ち、同じように空を見上げていた。 同じ場所に立ち、同じものを見つめている。ただそれだけのことが、不思議な程に僕の心を暖める。 記憶と共に、僕はさまざまなものを失くした。 そのうち幾つかは、取り返しの付かないものだったかもしれない。 だけど、今はその辛さも大分薄れている。 今の僕は一人ではなく……この寒い冬の日にも、僕を迎えてくれる暖かな家があるからだ。 |
あとがき 四話完結→三話完結→二話完結と続いてきましたので、何とか次は一話完結にしようと色々考えて出てきたのが、本作です。 (ファイル数でちょうど十個目になります) 「通過点」、「扉の向こう」の続きに当たりますが、そろそろ、前作を読んでいないと話の展開を理解するのが難しいかもしれません。 当初はほのぼのとした話にしようと思っていたのですが……人間、やはり向き不向きというものがあることを痛感させられました(泣)。ほのぼのした話、読むのはとても好きなんですが、書くのはやはり別物なようです。 |
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