正月休みが明けた二日目の火曜日は、過去十年間の中でも記録的な大雪になった。 雪国に住んでいる者から見れば失笑ものだろうが、とにかくこの雪でさまざまな交通機関があちこちで遅滞し、ただでさえ休み明けの混乱しがちな状況を、一段と悪化させている。 朝から大小さまざまなトラブルの処理に追われた彼女――田中ゆきえは、バスの座席に座りながら、右手で左肩を押さえつつ、ゆっくりと首を回した。普段は徒歩または自転車で駅まで通っている彼女だが、今日の雪と寒さでは、バスを利用せざるを得なかった。 タクシーにせよバスにせよ、他人が運転する車に乗るのは今ひとつ好きになれないのだが、背に腹は代えられない。 早く家に帰って、涼権君に肩を揉んでもらおう……そんなことを考えながら、もう一度首を回す。優と秋香奈の住む家で過ごした正月休み、張り切って料理を作っているときに左手の指先を軽く切って以来、彼女の同居人は水仕事の一切を引き受けてくれている。その同居人の仕事を増やすのはいささか後ろめたかったが、彼のどこか気弱げな、人の良い笑顔を思い出しているうちに、その後ろめたさは消えていった。 こう言っては失礼な気もするが、彼女の同居人は何というかとても物事を頼みやすい、お人好しの性格をしているのだ。 |
代償 長峰 晶 |
そんなことをぼんやりと考えているとき、彼女の隣の窓側の席に座る若い女性の姿に、ふと、目が留まった。 無作法にならない程度に、ちらりと視線を横に走らせる。 年はおそらく自分の娘と大体同じ、二十歳くらいだろう。背中に伸ばした髪はかなり長く、縁無しの眼鏡を掛けている。その他にはこれといった特徴も無い、有体に言ってしまえば十人並みの顔立ちである。 ゆきえの目を引いたのは、顔立ちではなかった。 気になったのはその姿勢――より正確に表現すれば、ハンカチで鼻から口元を覆い、顔を僅かに仰向かせている姿だった。 乗り物酔いだろうか、とゆきえはかすかに眉をひそめる。製薬会社に勤めているということもあって、彼女の鞄の中には常人よりも多目の常備薬が入っている。確か、乗り物酔いの薬もあった筈だ。 もちろん、この手の薬に即効性は無いが、薬を飲んだという安心感は往々にして気分を楽にさせ、症状を軽減してくれることが多い。 ゆきえが鞄の中に手を伸ばし、薬を差し込んだとき、隣の女性が窓の方を向いて何度か咳き込んだ。 窓ガラスに、小さな赤黒い飛沫が飛び散る。それを見て、ゆきえは自分の勘違いを悟った。 この若い女性は、理由は良く分からないがおそらく鼻血を出していて、それが止まっていないのだろう。顔の下半分を覆うハンカチも、仰向かせた顔も、それで説明がつく。良く見れば顔を覆っているハンカチは、手で隠そうとはしているものの、隠し切れない赤い染みが滲んでいる。 ――鼻血であそこまで出血するものだろうか? そう訝りつつも、ゆきえは座席の上で小さく体を動かし、その女性の方へ向き直った。 「大丈夫ですか?」 そう囁いて、鞄の中から取り出したハンカチとポケットティッシュを差し出す。 声を掛けられた女性は、体をびくりとさせてゆきえの方に顔を向ける。その拍子に、再び数度、小さく咳き込んだ。 顔の下半分がハンカチで隠されているため、その女性の表情を読み取ることは難しかったが、ゆきえの目には戸惑っているように見えた。ゆきえは慌てず、差し出した左手をそのままに、じっと待ち続ける。 「……ありがとうございます」 消え入りそうな小さな声でお礼を言って、その女性はハンカチとポケットティッシュを受け取った。 ゆきえは小さく息を付いて、元の姿勢に戻った。次の次の停車駅が、彼女の降りる場所だった。 「ただいま、涼権君」 「お疲れ様です、田中先生」 エプロン姿で玄関に立った僕は、鞄とコートを受け取り、田中先生が靴を脱ぎ終わるのを待ってハンガーを差し出した。 今日の夕食のメインは、昼過ぎからことことと煮込んだロールキャベツだ。自分で言うのもなんだけど、味見した限りではかなり良い出来だと思う。 それを告げると、田中先生は小さく、しかし嬉しそうに微笑んだ。 田中先生の教えを受けて、僕の料理の腕前はかなり上がっている。田中先生から免許皆伝を受ける日も、おそらくそう遠くはないだろう。 これなら、いつでもうちの養子に来てくれて良いわよ――田中先生が一度、本気とも冗談とも付かぬ口調でそう囁いたことがある。より正確には、『養子』の前にもう一字入っていたような気もするが、僕の心のフィルターはその部分をノイズとして削ぎ落とした。 田中先生の心の中では、既に僕は単なる同居人ではなく、義理の息子扱いなのかもしれない。 残すところあと数ヶ月ではあるものの、優はまだ十代だし、僕は優より二歳も若い。だから、名実共にそう呼べるようになるには、あと数年は掛かるものと田中先生は思っている。 だけど、その数年を待つことは決して苦痛ではないだろう。彼女にとって、もはや未来は、娘の喪失という絶望をもたらすものではないのだから。 「田中先生、その左手……」 「え?」 もやもやと頭の中で浮かんでは消えた考えを外に追いやり、僕はそっと田中先生の左手を取り、掌を上に向かせる。 その人差し指に巻いた絆創膏の先に、うっすらと血が滲んでいた。 「少し傷口が開いちゃったみたいですね。消毒薬と替えの絆創膏を持ってきますから、ちょっと待ってて下さい」 僕の言葉に、田中先生は自分の左手に目を落とした。絆創膏には血が滲んでいるが、指先は全く痛みを感じていないようだ。 僕はそれを確認して、救急箱を取りに行った。 「あれ?」 救急箱から取り出した消毒薬を片手に、絆創膏をそっと剥がした僕の口から、思わず小さな呟きが洩れる。 絆創膏の下の傷口は至って綺麗なもので、とても傷口が開いて絆創膏の外に血が染みたようには見えなかった。それどころか、そもそも、絆創膏を剥がしたその指先に、出血の跡がまるで見られない。 「ええと……良く分かりませんけど、念のため消毒して、絆創膏を貼り直しておきますね」 僅かに首を傾げつつも、僕は手早く治療を行った。 絆創膏に付いた血について、田中先生はおおよその見当が付いていたようだった。特に言葉にも表情にも出さなかったけれど、何となくそのことが雰囲気で伝わってくる。 「どうです、きつくないですか?」 「大丈夫よ」 「良かった。それじゃ、晩御飯にしましょうか。すぐに準備しますから、しばらく待っていて下さい」 僕はそう言って、台所に戻った。 台所の方からは、さっきから美味しそうな匂いが漂ってきている。 ふと居間の方を振り返ると、田中先生は僅かに目を細めて、ソファにゆったりと身を沈めていた。 2019年の、最初の二週間は瞬く間に過ぎていった。 正直、余り幸先の良いスタートではなかった。正月休みが明けた次の週末は三連休で、休みボケした体がオーバーヒート気味になるのを癒すには、実に都合の良い配置だった。それに油断した訳でもないのだろうけど、珍しく田中先生が熱を出して寝込む羽目になった。 夫である陽一さんが行方不明となって以来、女手一つで優を育ててきたこともあり、これまで多少の風邪を引くようなことはあっても寝込むことは一度も無かったらしいのだが、ここへ来て緊張の糸が切れたのかもしれない。 間の悪いことに、秋香奈も性質の悪い風邪に罹ってしまい、この三連休の間、毎日のように三十九度台の熱を出していた。 子供が風邪を引いたときは発熱しやすいものだということは、知識では知っていても、現実にそれを受け入れるのは難しい。 結局、優は秋香奈の側から一時も離れることができず、僕は田中先生の看病をする傍ら、優の住む家に足繁く立ち寄ることになった。買出しに始まり、炊事、洗濯、掃除の家事一般。それらを電車で片道二時間の距離がある二軒の家でこなしていた僕は、さすがに疲労が溜まっていた。 優からの電話への受答えが散漫になっていたのは、あるいはそれが原因だったかもしれない。 「……桑古木、ちゃんと聞いてる?」 台所に持ち込んだ椅子の、その背の方に体を向けて前のめりに体重を預けたややだらしない格好で、僕は携帯電話を握り締めていた。途中まではちゃんと話を聞いていたのだが、自分でも気付かないうちに、うとうととしてしまっていたらしい。 「あ、ごめん、優。ちょっとぼうっとしてたよ。何だっけ?」 「たまにちょっと褒めてあげたら、これだものね。全くもう」 「悪かったよ。で、何の話をしてたんだっけ」 眠気でぼんやりとした頭では、会話の記憶を掘り起こすのも煩わしい。 僕は優からの罵声を覚悟で、ストレートにそう問い掛けた。 「えっと……」 そう呟いて、優は口ごもる。 何だ優も忘れてたのかそれなら謝る必要も無かったいやそんなことより何よりただただ眠い――頭の中で、そんな支離滅裂な思考が入り乱れる。 ここしばらく、まともに眠れていない。今日に関して言えば、行きも帰りも電車で座ることができず、一睡もできなかった。電車通勤のサラリーマンの中には立ちながら眠るスキルを獲得している人もいるが、僕はまだまだ、その域には達していない。 「今回のことじゃ、桑古木に随分迷惑を掛けちゃったわね」 睡眠状態に滑落し掛けていた意識が、その一言でどうにか覚醒状態に踏みとどまった。優は別に会話の内容を忘れていた訳ではなく、今の一言を告げるのに時間が掛かっていただけなのだということを、頭の片隅のどこかが確実に理解していた。 「あなたがいてくれて、本当に助かったわ……ありがとう、桑古木」 耳元に響く優の囁きに、頬がかっと熱くなった。 電話で良かった、と心から思う。 正直、余り人には見られたくない姿だ。 「あ、えっと、その……どうもありがとう」 動揺が嵩じて、とんちんかんな答えを返してしまう。電話の向こうで、苦笑している優の姿が頭に浮かんだ。 いつも言ってるでしょう、お礼を言うのはこっちの方なんだから――苦笑のあとには、きっとそんな台詞が続く。 「本当に、莫迦なんだから」 小さく笑いながらそう告げる優の声は、とても優しかった。 しばらく他愛も無いことを話し終わった後、どちらからともなく電話を切った。 現金なもので、優との電話が終わった僕の体からは眠気がほとんど吹き飛んでいた。 意気揚々と、仕事の続きに取り掛かる。秋香奈と同様、一時は三十九度台の熱を出していた田中先生も、今朝には七度台の前半まで熱は下がり、自力で起き上がれる程度まで回復している。 食欲も多少とはいえ出てきたようなので、ほうれん草と白身魚をベースにしたお粥を作ることにした。これは僕のオリジナルなのだけれども、優の話によれば、少なくとも秋香奈には好評だったようだ。 僕はとろ火で粥を煮詰めながら、洗濯と掃除を始めた。 洗濯物も余り溜め込む訳には行かないし、テーブルクロスだってパリッと白い方が見ていて気持ちが良い。その方が、何となく食欲も湧きそうな気がする。 数時間の後、僕はしっかりと糊を効かせてアイロン掛けをしたテーブルクロスを手に、リビングに立っていた。 背後に田中先生の気配を感じたのは、ちょうどそのときだ。 僕はテーブルクロスを両手一杯に広げて、テーブルの上に載せようとしていた。 「田中先生、まだ横になっていた方が良いですよ。晩御飯まではもう少し時間がありますから」 テーブルの方を向いたまま、僕は田中先生にそう呼び掛ける。 「食欲も戻ってきたみたいですから、今日はほうれん草と白身魚のお粥にしてみました。優の話では、秋香奈には結構好評だったそうです」 左右に手を広げて、テーブルの上でぴんとテーブルクロスを伸ばす。 その僕の背中に、不意に田中先生が頭を押し付けてきた。 突然の出来事に、僕の体は瞬時に硬直した。僕がようやく振り返ることができたのは、背中に触れる感触が、急激に重みを増したその瞬間だった。 白いテーブルクロスに赤い染みが広がる。 良く見ればその赤い染みの中には、赤黒い小さな粒状の塊が浮かんでいる。 その赤い染みは、テーブルクロスだけではなく、僕の着ているシャツやエプロンにまで広がっていた。 この光景は、見たことがある。 この光景を、忘れることができない。 だというのに僕は、目の前の光景を現実として受け止めることができずに、倒れかかる田中先生を腕に抱き止めたまま、震え続けていた。 ただひたすらに、震えることしかできなかった。 |
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