どのくらいの時間、そうして震え続けていたのか、今となってははっきりとは分からない。 僕は右手で田中先生を抱きしめたまま、床の上に座り込んでいた。 いつまでこうしていても事態は全く好転しない。一刻も早く誰かに、田中先生を助けてくれる誰かに、連絡を取らなければならない。そんなごく当たり前の考えを思いつくのに、そしてそれを実行するのに、驚くほどの意志力が必要だった。 震える声で田中先生の病状を説明し、救急車を呼びつける。電話を取った職員の人は、焦る僕の心などまるで意に介さないように、田中先生の病状を微に入り細に入り、それも何度も問い詰めた。 それなのに、今ではそのとき何を話したのか、ほとんど思い出せずにいる。 誰かに、助けて欲しかった。 これは悪い夢の続きなんだと、誰かにそう言って欲しかった。 |
代償 長峰 晶 |
気が付けば、僕は担架に横たわる田中先生の傍らで、膝を抱えて床の上にうずくまっていた。 救急車に乗るのは初めてのことだったけれど、その中は随分狭苦しく感じられた。 元々がそう広い空間ではない。その中に、オレンジ色の服を着た三人の人達が、どこか不安そうな顔をして立っている。 そのオレンジ色の服は爪先から頭までを完全に覆い、顔に相当する部分はプラスチックの半球形のバイザーが設けられている。一番イメージに近いのは、宇宙服だろう。 そのオレンジ色の宇宙服を、僕は見たことがある。 その服を着た人々に、数週間もの期間に渡って看病されていたことがある。 今から一年半以上前。 僕が、ティーフブラウウイルスに冒されていたときの話だ。 「……まだ、病院には着かないんですか」 声が不安に掠れているのが自分でも分かる。不安に胸が押し潰されそうになっているのに、自分には、どうすることもできない。その事実が、さらに不安を掻き立てる。 「こちらの患者さんは症状が特殊なので……普通の病院には搬送できないんです。感染症指定医療機関に連れて行くように、との指示を受けています」 僕の一番側に立っていた救急隊員の人が、穏やかな口調でそう答えてくれた。 感染症指定医療機関。 国が指定する「特定」、都道府県が指定する「第一種」「第二種」があり、特定と一種は空気感染に備えて高度な管理をする。特定は未知の危険な新感染症と一・二類感染症を、第一種は一・二類感染症を担当する。 一類感染症とは「感染力、罹患した場合の重篤性等に基づく総合的な視点からみた危険性が極めて高い感染症」であり、具体的にはエボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱の五つが挙げられている。このうち、ペスト以外はウイルスを病原とするものであり、いずれのウイルスもバイオセーフティレベルは『4』、即ち、最も危険度の高いウイルスと認定されている。 君がいるここは「特定」だよ――僕の主治医だった医師は、そう言って肩を竦めてみせた。一年半以上も前に見たその仕草が、今、生々しく脳裏に蘇ってくる。 それから隊員の人達は一言も口を利かず、田中先生も意識を取り戻すことは無かった。車内は呼吸すら躊躇われるような重い空気で満たされ、掛け値なしに窒息しそうだった。 救急車が病院に着いたときの大きな溜息は、一体誰のものだっただろうか。 隊員の人達は互いに幾つかの言葉を交わし合いながら、担架に横たわる田中先生をストレッチャーに手早く載せ替え、病院の奥へと早足で進んでいく。そのうちの一人に手招きされ、僕もその後を追い掛けた。 救急隊員の人達が、病院のスタッフを相手に早口に話し掛けている。おそらくはこうしている今にもどこかで出動要請が掛けられ、彼等の到着を待っているのだろう。 それは理解していたつもりだったけれど。 なぜか、彼等はここを一刻も早く離れようとしているように、僕の目には映った。 僕は彼等と目を合わさないようにして、ボールペンを手に、目の前の記入用紙に意識を集中した。 お礼を言うべきなのは、分かっている。 だけど、今、口を開けば正反対な言葉が溢れそうな気がした。僕はそれを恐れて、口を引き結んだまま机に向かって顔を俯かせていた。 記入用紙の途中の箇所で、はたと手が止まる。 『患者との関係』。 普通なら夫とか母とか長男とかいうような単語が記載されるべき欄を埋める適切な言葉が、見つけられなかった。 僕はしばらく考え込んでから、結局、『被保護者』と書き込んだ。少なくとも、真実の一端は捉えていると思う。 僕は用紙を一通り書き終わると、ぼんやりと自分が立っているフロアの中を見渡した。 ストレッチャーに載せられた田中先生は、フロアの奥の扉に消えていった。 家族の方は、ここで待っていて下さい――事務的な口調でそう告げられてからどのくらいの時間が経ったのだろう。 その間、人の往来はほとんど無い。 行き来していた人は総てオレンジの宇宙服を身に着けた人か、そうでなければストレッチャーに載せられた人、その二者択一だった。 ここは病院というには、余りに人の気配に乏しい。 僕がかつて入院していた病院も、こんな雰囲気だった。 隔離病棟、という単語が頭の隅を掠める。 自分が今いるフロアの、四方のどこを見渡しても窓一つなく、壁は無機質なクリーム色で塗装されている。クリーム色の壁のところどころに見える金属性の扉は、大きく、重苦しく、威圧感に満ちていた。 その扉の一つが開き、オレンジの宇宙服を着た人が僕の側に近寄ってきた。 バイザーの中を覗き込んで、初めて若い女性だということが分かる。彼女が医師なのか看護師なのかは、その外見からでは判断できなかった。 彼女は書き込みが終わった記入用紙にちらりと目を走らせると、それを手に取った。そして、自分に付いてくるようにとだけ告げて、足早に歩き始めた。 階段で一つ上のフロアに上がり、彼女は扉の前で立ち止まった。インターホンを鳴らし、短いやり取りの後、扉を開けて僕をその中に招き入れる。 部屋の奥には、一人の男の人が立っていた。予想はしていたことだが、やはりオレンジの宇宙服を着ている。 その男の人が小さく頷くのを見て、僕をここまで連れてきてくれた女の人は、するりと部屋から出て行ってしまった。 「医師の高原です。初めまして」 男の人は、そう言って小さく会釈する。 「桑古木涼権です」 行き掛かり上、僕も自分の名前を名乗った。 高原と名乗ったその医師は、僕に向けて小さく微笑んだ後、僕が書き込んだ記入用紙に目を落とす。 何となく時間を持て余して、僕は目の前の高原医師をしげしげと見つめた。 バイザー越しに見えるその顔は、おそらくは三十代の前半くらいで、医師としてはまだ若い方だろう。身長は僕と余り変わらない程度で、体型は細身。全身から漂う疲労感も相まって、どこかか細い印象を受けるが、案外、人は見掛けによらないということを、僕はこれまでの勤労経験から学び取っている。 「十七歳か……学校は?」 「中退しました。今は、アルバイトをしながら生活をしています」 「ごく最近も、アルバイトを?」 「年末年始はしていました。三が日が明けてからは、田中先生が……田中ゆきえさんが、手に怪我をしていたので、家事を手伝うために、仕事はしていません」 僕の答えに、高原医師はしばらく無言のまま、じっと僕を見つめた。 奇妙な居心地の悪さを感じて、僕は思わず目を逸らす。 「じゃあ、一月四日以降はずっと田中さんと一緒に過ごしていた、ということで良いのかな?」 「ええ。もっとも、田中先生は会社員ですから、一緒にいたのは田中先生が帰宅していたときだけです」 「でも、食事なんかは一緒に食べたりしていた訳だ」 「それは、そうですけど……」 心がざわめいていた。 正直、僕の過去の行動なんてどうでも良い。 僕が知りたいのは今の田中先生の状態と、その治療方法だ。 それなのに、この人はそのことについては何も説明してくれない。 そんな僕の苛立ちに構うことなく、彼はじっと、僕が書き込んだ記入用紙に視線を注ぎ続けた。 「田中さんの発熱が始まったのは一月の十一日。間違い無いね?」 「はい。三連休の前の日に、体調が悪くなって会社を早退していた筈ですから、間違い無いです。その日に、既に三十八度台の熱が出ていました」 ようやく田中先生の症状についての話になったので、答える僕の口調にも思わず熱が入る。 高原医師はそんな僕を静かに見つめ、大きく息を付いた。 「現在、検査中だから断定はできないが……L−MRI等の検査結果を見る限り、田中さんは病原性ウイルスに感染している可能性が高い。ウイルス自体の特定は、まだできていない」 僕は言葉を失う。 そんな馬鹿な、と思う心の一方で。 その可能性を肯定している自分が、確かに存在していた。 「だが、そうするとおかしなことがある。現在、私が感染を疑っているウイルスは、空気感染はおそらくしないが、飛沫感染や経口感染で感染するという知見が得られている」 「空気感染と飛沫感染は、どこか違うんですか?」 「全然違うね。空気感染は五ミクロン以下の飛沫核が長時間空中を浮遊し、空気の流れによって、広範囲に伝播される感染様式だよ。一方、飛沫感染の飛沫核は五ミクロンより大きく、飛散する範囲は一メートル以下だ。そして通常、床下に落下すると感染性は失われる」 高原医師は、どこか忌々しそうに自分が着ている宇宙服を見下ろした。 「……空気感染しないことが確実に断定できるなら、ここまで物々しい格好をする必要はないんだがね。ラカルは、正直、暑苦しくていけない」 その言葉で、オレンジ色の宇宙服が『ラカル』と呼ばれていることが分かった。 だからと言って、何がどうなるというものでもなかったけれど。 「空気感染の有無はとりあえず置いておこう。田中さんが感染しているウイルスが私が予想しているものだった場合、その感染力はかなり強いという臨床データがある。田中さんと同居していた君が、同じウイルスに感染している可能性は否定できない」 否定できない、という表現は一種の言葉のレトリックだ。 実際のところは、『可能性は極めて高い』と言いたかったのだということが、その表情から読み取ることができた。 「だが、君には今のところ感染の兆候は見当たらない。もちろん、潜伏期間だということも考えられるが、田中さんが感染しているウイルスが私が思っている通りのものならば、過去の臨床データが示す潜伏期間は極めて短い。最短で二日、最長でも七日間だ」 「……何が言いたいんです?」 「田中さんは一月十一日に発症している。仮に田中さんの潜伏期間が最短の二日間だったとしても、感染したのは一月九日またはそれより前。そして今日は一月十六日……後もう何時間かすれば、十七日だね」 その言葉の意味を確かめる時間を与えようとしたのか、高原医師はそこで言葉を切った。 僕は何も言葉を返さずに、ただ彼の瞳を見つめ返した。 「田中さんと君の感染時期がずれていた可能性ももちろんある。だが、ウイルスの感染力の高さを考えれば、そんなに大きなずれがあったとは考えにくい。そうなると考えられるのは、君が例外的に潜伏期間の長いケースなのか、何らかの偶然でたまたま感染していないのか……正直、良く分からない」 高原医師は、ややわざとらしく溜息をついてみせた。 「いずれにせよ、田中さんだけでなく、君の経過も観察する必要がある。君自身のためにも、この病院に留まることについて、同意して欲しい」 おもねるような口調で告げられた言葉に、僕は無造作に頷いた。 田中先生が回復するまでは、ここから出る訳には行かない。僕自身もが危険なウイルスに感染している虞があるなら、なおさらだ。 「回復まで、どのくらい掛かるんですか?」 「さっき言った通り、ウイルスの特定はまだできていない。最善は尽くすつもりだが、現状では、対症療法に頼るしか無いというのが実際のところだよ」 「どうして、ウイルスの特定ができないんですか」 声に、隠し切れない苛立ちが混じる。 さっきから不安材料ばかり与えられて、何一つ心を落ち着かせる情報が得られていない。思わず彼の方に手を伸ばし掛けたとき、逆に彼の方から僕に手を差し出してきた。 「飲むと良い。少しは、気分が落ち着く筈だよ」 高原医師の掌の上には、白い錠剤が二つ入ったピルケースが載っている。僕は一瞬躊躇ったが、それを受け取り、薬を飲み込んだ。水も何もなしで飲み込んだので、一瞬、喉につかえそうになったが、どうにか飲み干すことができた。 「このウイルスは感染力が強く、発症時の症状も激烈な、極めて危険なウイルスだ。日本では、ここまで危険性の高いウイルス、いわゆるレベル4ウイルスを取扱うことができる施設はない……だから、アメリカのCDCやユーサムリッドにサンプルを送って、そっちで調べてもらうしかないんだ」 「CDC? ユーサムリッド?」 「CDCはCenters for Disease Control and Prevention、米国疾病予防センター。ちなみにユーサムリッドは US Army Medical Research Institute of Infectious Diseasesの頭文字を取ったもので、米国陸軍感染症研究所のことだよ」 サンプルを送るにも一苦労だし、結果がいつ返ってくるかは完全に相手次第だから、まあ余り当てにはならないんだがね、と高原医師は苦い笑みを浮かべる。 その表情を見ているうちに、僕の全身に重い疲労感がのしかかってきた。 何もかも、どうでも良いと思えてしまうような、そんな絶望的な疲労感だった。 床にへたり込みそうになるのをどうにか堪えて、近くのパイプ椅子に体を沈める。 高原医師はそんな僕を見下ろしながら、二つ隣の部屋に簡易ベッドがあることと、サイズが合うかどうか分からないが着替えが用意してある旨を告げて、ゆっくりと部屋を出て行った。 僕はしばらくそこにへたり込んでいたが、やがてのろのろと立ち上がった。高原医師に教えられた部屋に入り、服を手早く着替えて、ベッドに倒れ込む。 服のサイズは完全に一回り大きく、立って歩くには袖も裾も折り返す必要があったが、その手間も惜しいほどに、身も心も疲れ切っていた。 それなのに、なかなか眠りに付くことができない。 ベッドの上で枕を抱えながら、高原医師の言葉を思い出す。 可能性は幾つかある。 例外的に潜伏期間の長いケースなのか、何らかの偶然でたまたま感染していないのか。 他にも可能性がある、と心の中で何かが囁く。 ウイルスが感染できないほどに、僕の体がヒトという種から離れてしまっているのか。 キュレイウイルスによって活性化された免疫系がウイルスを駆逐したのか。 あるいは。 過去にそのウイルスに感染していて、既に免疫ができているのか。
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