窓の無いその部屋に、朝の陽の光が差し込むことは無かった。
 高原医師に渡された薬の影響なのか、目覚めた後も頭が重たい感触が抜け切らず、僕は何度か首を振ってそれを振り払おうとした。
 頭の中には昨夜の夢の残滓、その断片的なイメージが、うっすらと漂い続けている。
 LeMU中央制御室。口元に当てた手、その指の隙間から真っ赤な血を噴きこぼし、服の胸元を赤く染めて崩れ落ちるココ。
 泣いているつぐみ。僕達を人に非ざる存在に変えることを、心の底から怯えていたその表情。
 IBF。床の上に広がる赤黒い染み。干からびた吐瀉物。そして――かつてはヒトと呼ばれていたもの。


代償
                              長峰 晶


2019年1月 春香奈 十九歳  桑古木 十七歳

- 3 -


 大きく息を吐いて、僕は床の上に立ち上がった。
 オーバーサイズの服の丈を合わせるために、シャツの袖先と、ズボンの裾を折り返す。
 それから何度か手や足を動かし、脳裏に浮かび上がった不吉なイメージを、無理矢理追い払おうとした。
 その一方で、手や足が問題なく動き、体のどこにも変調が無いことを、感染の兆候が無いことを確かめる。少なからぬ安堵感と共にそれを完了し、僕はようやく周囲の状況に目をやる余裕を得ることができた。
 ベッドサイドの小さなテーブルには、封の切られていないサンドイッチと紙パックの野菜ジュース、それに「院内専用」とのシールが貼られたPHS。そしてそのPHSの下には一枚のメモがある。
 他には何も見当たらない。
 血に汚れていたシャツ、昨日履いていたズボン、その中に入っていた財布や家の鍵や携帯電話、そして優と田中先生からのクリスマスプレゼントのダイバーズ・ウォッチ。それらの僕の私物、その何もかもが見当たらない。
 僕は改めて部屋の全体をくまなく見渡したが、それらを隠せるようなものは、部屋のどこにも見つからなかった。
 私物の捜索を断念して、僕はサンドイッチとメモを掴んで、ベッドの端に腰掛ける。メモに書かれていたのは、『朝食を取り次第、短縮ダイヤルの二番に電話すること』という簡潔な一言。
 僕は黙々とサンドイッチを平らげ、野菜ジュースに手を伸ばした。一人で食べる食事がこんなにもわびしく感じられたのは、果たしていつ以来だっただろうか。
 野菜ジュースを飲み干すと、目を閉じて、ベッドの上に仰向けになった。
 これから、自分はどうすれば良いのか。
 さまざまな思いが入り乱れ、結論が見出せない。
 田中先生は未知のウイルスに冒されている。確定事項ではないにしろ、その可能性は極めて高い。そして、その治療法は全く定まっていない。
 いや、治療法……そこまで言えなくても、その糸口となるものならある。
 感染してまだ一年半程度の不完全な存在とはいえ、僕はキュレイキャリアだ。
 僕自身に何ら体調の変化が見出せないということは、何らかの形でキュレイウイルスが、より正確にはキュレイウイルスにより活性化された免疫系が、その未知の病原性ウイルスを撃退したのではないだろうか。それならば、僕の体にはそのウイルスに対する抗体ができている可能性が高い――かつての、つぐみのように。
 さらに、僕はもう一つの可能性を考えている。
 僕がかつて、このウイルスに感染したことがあるのなら。
 そのとき、ウイルスに対する免疫を獲得したのなら、こうして発病しないことも納得できる。
 かつて僕が感染したウイルス、ティーフブラウ。症状は発熱・悪寒・頭痛・筋肉痛・食欲不振などに始まり、進行後は口腔・歯肉・皮膚・消化器官など全身に出血が見られる。
 発症後の死亡率は……85%以上。
 田中先生がティーフブラウウイルスに感染している――自分の頭を駆け巡ったその考えに、思わず身震いした。
 もしこの予感が当たっているのなら、自分はどうしたら良いのだろう。
 つぐみと同じように、抗体を分け与えるべきなのだろうか。
 そのときは、僕が人ではないことを……人ではないものに変わろうとしていることを、田中先生に知られてしまう。
 そして、田中先生にも同じ道を辿らせることになる。
 田中先生が感染しているのがティーフブラウではなかったら?
 一時的に症状は悪化するが、自然治癒する病気であった場合は、どうなる?
 間違いでした、では済まされない。
 その罪は、どれだけの時を費やしても、償うことはできないだろう。
「優……」
 力の無い呻きが、口から零れ落ちる。
 ここに優がいたならば。
 総ての判断を、優に委ねることができたなら。
 僕の心は、こうも千々に乱れることは無かった筈だ。
 だけど、優を呼び出すことはできない。
 僕の携帯電話は取り上げられていたし、それに、僕にしろ優にしろ、絶対に発病しないという保証はどこにもないのだ。
 僕はまだ良い。
 でも、もし優が発病してしまったら、秋香奈はどうなる?
 その思いが、今すぐに何もかもを投げ出して、総てのことを優に押し付けたいという衝動を抑え込んでいた。
 僕が、何とかしなければならない。
 心の中でそう呟いて、僕はPHSを手に取り、短縮ダイヤルの二番をプッシュした。
 単調な呼び出し音が鳴り続ける間にも、胸を刺すような痛みを伴う思いが、僕の心に広がる。
――田中先生に万が一のことがあれば、優は一生、僕を赦さないだろう。


 予想通り、電話に出たのは高原医師だった。
 医師というと普通、『先生』と呼ぶものだろうが、僕はどうしてもそう呼ぶ気にはなれなかった。僕にとって、『先生』と言えばほぼイコールで田中先生を指すものだというイメージが、どうにも抜けなかったためだ。
 高原医師は昨日初めて顔を合わせた部屋、すなわち今僕がいる部屋の二つ隣の部屋で待っているように告げ、そこで十分以上僕を待たせてから部屋に入ってきた。
「君が一番知りたがっていることから伝えよう。田中さんは今朝、意識を取り戻した。だが、依然として症状は重く、絶対安静が必要だ」
 僕は、泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
 高原医師は壁に据え付けられた棚に手を伸ばすと、厚手のガーゼを僕に渡してくれた。
「本来ならばもちろん面会謝絶だが、君が希望するなら、私の同席の元でという条件付きで面会を許可しても良いと考えている。だがおそらく、君にとっては辛いことになると思うよ」
「構いません。面会させて下さい」
「今すぐかい?」
 僕は黙って頷いた。顔を俯かせた拍子に、涙がこぼれそうになるのを、必死に堪えた。
「分かった。じゃあ、行こうか」
「お願いします。それはそうと、僕はその……『ラカル』でしたっけ。それは着なくても良いんでしょうか」
 僕は控えめに、そのオレンジ色の宇宙服じみた服を指差す。
 高原医師は苦笑して、肩を竦めて見せた。
「これは着用者を外界から遮断して、感染を防ぐためのものだよ。君は、ここに来た当初から感染者の血を浴びている……申し訳ないが、今さらこれを着ても何か効果があるとは思えないね」
 彼は他にもまだ何か言いたそうだったが、結局、この件についてはそれ以上の言葉を引き出すことはできなかった。
「言い忘れていたが、君の私物については、当面、こちらで預からせてもらうよ。退院の際に返すから、何か抜けているものがあったら、そのとき申し出て欲しい」
 そのような行為が事後承諾で認められるとは到底思えなかったが、僕は曖昧に頷いてみせた。ここで下手にごねようものなら、田中先生との面会を拒否されるに決まっている。おそらく、それを見越した上で、彼は田中先生との面会というカードを先に切ってきたのだ。
 私物を没収したのは、外部への連絡を遮断することと、僕がここから外へ出ることを妨げるためだろう。実際、携帯電話も財布も定期入れも取り上げられた状態では、移動できる距離などたかが知れている。
 高原医師に導かれるまま、僕は階段を降りて一つ下のフロアに移り、病棟の奥へと進んで行った。
 彼は廊下の途中で立ち止まると、ドアに向かって儀礼的な、まるで返事を期待していないようなノックを二回繰り返して、きっかり二秒待ってから中に入った。
 後を追って入ろうとした僕を、扉越しに手を軽く振ってやんわりと押し戻す。僕は少し躊躇った後、黙って扉を閉めて、外で待つことにした。
 元々、待つことは苦手じゃない筈だった。
 2017年のあの事故が起こった日、僕が記憶を喪ったその日も、僕は何かを待っていたような気がする。
 それが何かは分からないし、そもそも、本当に何かを待っていたかどうかすらも疑わしいのだけれども。
 そんなことをぼんやりと考えながら、じりじりと、扉が再び開くのを待ち続ける。
 高原医師が部屋から出てきたときには、握り締められた手の中に、じっとりと汗が浮かんでいた。
「田中さんは今、眠っているよ。一時的にかもしれないが、今は何とか容態は安定しているようだし、一旦出直す方が良いかもしれない」
「いえ、ほんの少しで良いですから、中に入れて下さい」
 僕の言葉に、高原医師は小さく眉をひそめる。
「お願いします。起こしたりはしません……ただ、少しでも良いから、田中先生に会いたいんです」
 僕は深々と頭を下げる。
 高原医師はずっと黙っていた。僕が恐る恐る顔を起こしたときも、黙ったまま、じっと僕の瞳を覗き込んでいた。
「そう長い時間は、許可できないよ」
 そう言って、僕を部屋の中へ招き入れる。
 病室は、四人部屋だった。入ってすぐ右の廊下側のベッドに、田中先生が眠っていた。
 僕は小さく息を呑んだ。
 いつも綺麗に手入れがされていた髪は乱れ、汗を吸って顔にへばりついている。
 頬は驚くほど削げ落ちていて、涙の跡が残っている。
 毛布からはみ出た二の腕のあちこちに、赤黒い斑が見える。それは、皮下での出血が、全身の至るところで発生していることを示していた。
 点滴は腕にではなく、肩に刺さっている。
 食事がある程度取れる場合は、腕からの点滴で栄養を補うことができる。
 食事が取れなくても、消化器官がある程度の機能を保っている場合は、鼻からチューブを通して、腸に直接、経腸栄養剤を投与することができる。
 だけど、幾つかのウイルス性出血熱におけるウイルスは、主に血管内皮細胞……血管の内側の細胞を標的とし、消化管出血を引き起こす。機能不全に陥った消化器からは栄養を吸収することができないため、結果、肩口にある太い血管から栄養を供給しなければならない。
 震える肩を、高原医師に軽く叩かれた。
 彼は部屋の奥の方の壁の天井近くに掛けられた時計を指差し、部屋を出るように身振りで促す。
 部屋を出て、廊下の壁に寄りかかるようにしてどうにか体を支えた。
 体中から嫌な汗が噴き出し、心臓は早鐘を打っていた。
 僕が、何とかしなければならない。
 ほんの二十分ほど前に、自ら立てた誓いを思い出す。
 だけど、どうやって?
 答えは、出ない。

 

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