田中先生の病室から出た僕は、再び一つ上のフロアの、高原医師の居室に戻っていた。 高原医師はこれから一度病棟を出て、食事を取って眠る予定である旨を僕に告げた。 空腹と疲労に、彼の心身が共に限界に近づいていることが、はっきりと見て取れる。 オレンジ色の宇宙服、ラカルを着た状態では食事も睡眠もできない。それどころか、椅子に座ることさえ容易ではないだろう。膝を曲げ腰を屈めることで、服は引っ張られ、裂け目を生じやすくなる。椅子やその周囲に僅かな突起でもあれば――その後の結果は言うまでもない。 宇宙服内は常に陽圧に保たれているし、ウイルスが空気感染しないものであれば、服に穴が開いただけでは感染する可能性は低い。だが、服の下、皮膚にまでごく僅かにでも裂け目ができれば、それで終わりなのだ。 |
代償 長峰 晶 |
ここで医療活動に従事している人々は、常にその恐怖に晒されている。 恐怖は体を縛り、外界と遮断されたラカルの中には常に熱気が籠もり、閉塞感を与え続ける。このような環境での勤務を想定した訓練を受けた人間は極めて限られており、普段の何倍もの緊張と疲労を強いられるにも関わらず、医療スタッフは明らかに過重な労働を強いられている。 このような状況下で、ミスが発生しない方がおかしい。 医療スタッフの二次感染者の数は徐々にではあるが、確実にその数を増しているという。 それは、残されたスタッフにさらなる労苦が積み重ねられることを意味していた。 「君が寝ている間に、また新たな感染者が搬送されてきたよ」 途方も無い疲労が溶け込んだ高原医師の声は、かすかにひび割れていた。 「よりによって、オールナイトで上映中の映画館の中で発症したらしい……場内はパニックになってかなりの被害が出たらしいが、むしろ、本当の問題はこれからだ」 映画館という閉鎖空間での、レベル4ウイルス感染者の発症。 その意味するところを知り、自分の背筋が冷たくなるのを感じた。 僕は立ち去ろうとする高原医師を呼び止めて、何か協力できることは無いか尋ねた。 彼はやや驚いたような顔をして、その場でしばらく考え込み始めた。 僕の安全、医療倫理、絶望的なまでに深刻な人手不足……それらの幾つもの要素が、彼の心の天秤を幾度も揺さぶっているように見えた。 だが、おそらくは朝一番に届いたニュース、映画館での発症事件が、天秤の片側を大きく押し下げた。ここはこれから、今まで以上の厳しい戦いを強いられることになるのだ。 彼は柔らかな笑みを浮かべると、僕の顔をしっかりと見つめた。 「仕事は幾らでもある。だが正直、きついし辛い仕事だよ」 最後の確認の言葉に、無言で頷いてみせる。 「君がなぜ発症しないのか……それは正直、私にも分からないんだが、ラカルを着ずに動き回れる労働力はとても貴重だ。看護師の長崎さんに君のことを話してくるから、以降、彼女の指示にしたがって欲しい。しばらく、ここで待っていてくれ」 ほんの一瞬ではあったが、高原医師の顔から疲労の色が薄まったように見えた。 彼がしっかりとした足取りで部屋から立ち去るのを見届けて、僕は溜息混じりに側にあった机の上に腰を下ろした。 この状況下で、何もせずに時が過ぎ去るのを待つことは、僕にはとてもできなかった。 それは高邁な使命感などではなく、多くの人々が苦しんでいる最中、自分一人がのうのうと健康体でいることに対する罪悪感に基づくものだった。 かつてのIBFで、表情を消したまま静かに腕を組み、唇を引き結んでいたつぐみ。その下に隠されていた心のさざめきが、今なら理解できる。 今さら気付いても、仕方の無いことだけれども。 僕のやることはいつだって、何もかもが遅過ぎるのだ。 僕の昼食は、随分遅いものとなった。 高原医師の言葉は、掛け値なしの真実だった。仕事は幾らでもあり、その多くはきつく、辛い仕事だった。 医療業務に関して何の資格も無い僕は、直接治療に携わることは無かったけれども、その他にも仕事は山ほどあった。 病室中の掃除や、シーツやタオルケット、寝巻きなどの洗濯および消毒などもその一つだ。 発症した患者の分泌物や排泄物には無数のウイルスが存在しており、掃除や洗濯という単純作業ですらも非常に危険を伴うものとなる。 患者の人の体を拭いたり、服を着替えさせる作業も同様に危険だ。 むしろこちらの方が、感染源である患者の体に近く、また患者が動いたり暴れたりすることで傷を負う可能性を考えると、さらに危険性が高い。 男も女も、老いも若きも関係なかった。 僕はできるだけ心を冷たく平静に保ちながら、それらの作業をこなしていった。 圧倒的な人手不足の今、後に回せる作業はひたすら後回しにされており、その結果、病室の壁や床のあちこちに赤黒い血痕が染みこみ、患者の人々は血と汗が染みこんだ服を着替えることもできていなかったからだ。 これらの作業が後回しにされていたその最たる理由は、もちろん人手不足によるものだったが、もう一つの理由があった。はっきりと口に出して言われて訳では無いが、非常に遠回しに、その理由を僕は教えられた。 ここに運ばれた人々は信じられないほど高い確率で、それも数日以内に死亡してしまうのだ。 だから、手を尽くしても仕方が無い――手を尽くしたくても、明確な治療法は無く、自分達にできることはどうしようもなく限られている。 ここで行われているのは『治療』ではなく『隔離』なのだと。 オレンジ色の宇宙服の背中が、そう語っていた。 このウイルスは潜伏期間が短く、極めて高い致死率を示す。逆に言えば、感染者を早期に隔離してしまえば、空気感染をしないこのウイルスは、周囲に被害を拡散する前に宿主を灼き尽くしてしまう。そして、医療スタッフ達は、心のどこかでその瞬間を心待ちにしている。 さらなる被害の拡大を防ぐために、自分達は取り得る最善の手段を取っている……医療スタッフ達は、皆、自分にそう言い聞かせている。 そんな思いを確たるものにするまでに。 彼等がどれほどのものを見続けてきたのか、考えたくもなかった。 「桑古木君」 ぱさついたサンドイッチを無理矢理呑み下している僕の背中に、聞き覚えのある声が投げ掛けられた。 「さっき、14号室の橋本さんが亡くなられたわ。食事が終わったら、処置をしておいてもらえるかしら」 「……もうこれで、三人目ですよ」 淡々と告げる看護師の長崎さんの言葉に、食欲が急速に失われていくのが自分でも分かったが、僕は食べかけのサンドイッチを無理矢理に喉に押し込んだ。 食べなければ、動けない。 この一年半近くの勤労経験の中で、僕が得るのことのできた数少ない教訓だ。 長崎さんはそんな僕の様子をじっと見ていたが、それ以上何も言うことなく、部屋を立ち去って行った。 このウイルスは極めて短期間に宿主を灼き尽くす。 宿主が死んだ後も、ウイルスはしばらくの間その感染能力を維持したまま、その体内に留まり続ける。このため、遺体を放置することはとても危険だし、一方でそれを処理することも同様に危険だ。 『処置』とは言うが、遺体保存処置などという悠長なことをやっている余裕は全く無い。 遺体は結局、可及的速やかに焼かざるを得ない。 霊柩車に火葬場まで運ばれて――などということがあろう筈もなく、この病院内の地下焼却炉で、灰になるまで焼き尽くされるのだ。 倫理的な問題や、遺族の想いなど、一欠片も省みられることはなかった。 僕は遺体を運び、それを焼き、彼または彼女がいたベッドとその周囲を消毒する。その痕跡の一切合切を消し去る。 僕は遺体を運ぶ。 魂は、別の誰かが運んで欲しい。 仕事がある程度一段落したところで、僕は高原医師の諒承を得て、田中先生の病室を見舞った。 田中先生はベッドに横たわり、静かに目を閉じている。 僕は小さく安堵の息を吐いて、ベッドの側の丸椅子に腰掛けた。 田中先生のいる病室は四人部屋で、総てのベッドが塞がっている。 看護の手間を極力省くためか、ベッドサイドには小さなホワイトボードが据え付けられ、そこに患者の氏名や年齢、血液型や発症日などのデータが記載されている。 田中先生の隣、部屋の奥の方のベッドにいるのは、二十八歳の八重樫さんという女性だ。僕の記憶違いでなければ、高校の歴史の先生だった筈だ。 部屋の中央の通路を挟んで向かい側のベッドにいるのは、風凪さん親子。かざなぎ、という珍しい名字だったので、すぐに覚えることができた。まあ珍しい名前と言う点では、僕も余り人のことを言えた義理では無いのだけれど。 母親の美佳さんはいわゆるシングルマザーで、年齢は三十一歳。隣に眠る娘の瑞穂ちゃんが十四歳であることを考えると、かなり若いお母さんだ。 この二人は、医学知識を全く持たない僕が見てもそれと分かるほどに、病状が進行してしまっている。 おそらくは母娘二人、身を寄せ合って暮らしてきたのだろう。体はすっかり衰弱してしまっているのに、二人は今なお、互いのことを心配しあっている。 その姿に田中先生と優、優と秋香奈を重ね合わせ、僕は胸苦しさに顔を俯かせた。 「……涼権君」 不意に掛けられたそのか細い声を、僕はもう少しで聞き逃すところだった。 慌てて顔を起こし、ベッドの上の田中先生と視線を合わせる。田中先生はしばらく無言のまま僕を見つめていたが、小さく息を吐いて、再び目を閉じた。 「こんなことをさせてしまって、ごめんなさい……我ながら、保護者失格にも程があるわ」 閉じた瞼の下から、涙が溢れていた。 優に初めて田中先生を紹介されてから、一年半。 泣いている田中先生を見るのは、初めてのことだった。 「……何でも無いことですよ。そんなことは気にしないで、今は体を治すことだけを考えて下さい」 つとめて明るい声と口調を作ろうとしたが、上手くいかなかった。 ひび割れた自分のその声が、疎ましくてたまらない。 ベッドの上の田中先生の手に、そっと自分の手を重ねる。 続く言葉を見つけられずに、当てもなく宙をさまよっていた視線が、それを捉えたのは全くの偶然だったと思う。 田中先生の向かいのベッドの、風凪母娘。 その娘の方が、ベッドの上で苦しげに悶えていた。 慌てて立ち上がった僕の下で、丸椅子が騒々しい音を立てて倒れる。 ナースコールに手を伸ばし、握り潰すような勢いで三回鳴らす。 ほとんど力が残っていない筈の体の、その命の灯を灼き尽くすように、小さく細い体が、ベッドの上でびくびくと震えている。 ――このままじゃ、舌を噛む。 半ば何かに衝き動かされるようにして、僕は彼女のベッドに駆け寄った。 タオルケットを跳ね除け、びっくりするほど細い彼女の手首を掴み、ベッドの上に押さえつける。薄く開いた口元、それが閉ざされる寸前に左手の小指と薬指を突っ込み、指を舌の上に載せる。 その状態で彼女はなおも痙攣を起こしたように体を震わせていたが、唐突にそれは収まった。 恐る恐る、口元から指を引き抜く。 噛み破られた皮膚の下からおびただしい血が流れ出しているその手を、自分から見えないようにズボンの後ろに隠した。 異変を感じ取ったのは、その直後だった。 ベッドの上の少女は、呼吸をしていなかった。 背中に冷たい汗をかきながら、彼女の気道を確保し、その顔の側に自分の顔を寄せ、五つ数える。 呼吸はなおも感じ取れない。だけど、握り締めていた彼女の左手首には、まだ脈がある。 まだ、生きている。 僕は覚悟を決めると、血を流し続けている自分の左手を彼女の額に当て、鼻を摘んだ。 そして、ゆっくりと二秒を掛けて二回、その胸が軽く膨らむ程度に息を吹き込んだ。 彼女の体が、再び小さく跳ねる。 その口元から呼吸音が漏れ出し始めたのを聞き取って、僕は大きく息を吐いた。 床に放り捨てたタオルケットを拾い上げ、横たわる彼女の体にそれを掛け直す。 そのとき、部屋の入口に立っていた高原医師と目が合った。 当惑しきった顔をした彼は、なおも血を溢れさせ続けている僕の左手に視線を落とし、深い溜息を付いた。 彼は手を振って、自分の後についてくるようにと合図を送ってきた。
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