高原医師はいつもの彼の居室ではなく、最寄の診療室に僕を引き込んだ。
 僕の左手を掴み、ピンセットに挟んだ消毒液に浸されたガーゼで、そっと僕の指の傷口を拭う。
「端から見ていると、かなり衝撃的な光景だったよ。母親の前で娘を押し倒すなんて、なかなかできることじゃない」
 傷口を仔細に覗き込みながらそんな軽口を叩く高原医師に、痛みを堪えつつも苦い笑みを浮かべてみせる。
 昔どこかで聞いた話によれば、『ユーモアとは、「にもかかわらず」笑うこと』なのだそうだ。こんな状況であっても、いや、こんな状況だからこそ、その感覚を失くしてはいけないのかもしれない。
 案外、最後に頼れるものはそれだけかもしれないのだ。


代償
                              長峰 晶


2019年1月 春香奈 十九歳  桑古木 十七歳

- 5 -


「しかし実際、君がやった行為は無茶としか言いようがないな。ちなみに、感染症の予防のために、最近ではマウス・トゥ・マウスでの人工呼吸のための補助器具は幾つも販売されているんだが」
「知ってますよ。僕だって、訓練で習ったときは、それを使って練習してました」
「訓練?」
「一時期、ダイバーとしても働いていましたから。CPRを始めとするファーストエイドの修得は必須でした」
 CPRは Cardio-Pulmonary Resuscitationの略語で、心肺蘇生法のことだ。さまざまな要因から生命の危険に晒される機会の多い職業ダイバーにとっては、必要不可欠なスキルの一つになっている。
 高原医師は僕の言葉に曖昧に頷きながら、僕に真新しいガーゼを差し出す。僕はそれで自分の口元を何度も拭った。
 ガーゼは瞬時に赤黒く染められる。僕は自分の顔がしかめられるのを抑えられなかった。
 こうして考えるのも馬鹿馬鹿しい話だが、記憶を失う前のことはどうあれ、記憶を失って以降について考えるなら、さっきの顛末が僕のファーストキスということになる。
 その行為には甘やかさなど一欠片も無く、ただ鉄の味がするばかりだった。
「君の行為が献身的なものだったことは万人が認めるところだと思うが……彼女と君は、それによって一体何を得たのだろうね」
 穏やかな問い掛けの裏に隠された言葉が、透けて見えるような気がした。
 彼女は、より長く苦しむための時間を。僕は、発症のリスクを。
 誰のためにもならない行為をしたのだと、その疲れた表情が語っている。
 ぶつかり合った視線を、先に逸らしたのは僕の方だった。
「僕が発症することはありません」
 声が、震えている。
 僕に抗体を分け与えたつぐみ。
 同じ境遇である優と、ココの父親である八神博士。今はIBFに眠る、武。
 僕の体の秘密はこの四人の他には誰も――田中先生ですら、知らない。
 それを今、僕は明かそうとしているのだ。
「僕は、キュレイウイルスのキャリアです。だから、僕の免疫機能は普通の人間より、遙かに強力なんです」
「キュレイ……?」
 その短い一言に、どれだけの思いが込められていたのだろう。
 僕の方に向き直った高原医師の体は、小さく震えていた。
 そのときの彼の姿を、僕はきっと、忘れることはできないだろう。
 人に非ざるものに対する本能的な畏れと忌避。
 未知なる物に対する、飽くなき好奇心。
 求めてやまぬものに触れたときの、抑えざる歓喜。
 それらが渾然一体となった、その姿。
「僕がキュレイに感染したのは、今から一年半以上前のことです。海洋テーマパーク、LeMUで起こった事故のことは知っていますか?」
 高原医師と視線を合わせないようにしながら、僕は意識として淡々と語り続ける。
 ほんの一瞬の沈黙の後、質問への回答を待たずに、畳み掛けるように言葉を継いだ。
「その事故のときに、僕はティーフブラウウイルスという極めて凶悪な、病原性ウイルスに感染しました。本当なら僕はそこで死んでいたんでしょうけど……ある人が、僕にウイルスの抗体を与えてくれたんです」
 僕は視線を床に落とす。
 左手から滴った血が、床を赤く染めていた。
 だが、並の人間なら確実に縫合を必要としていた筈の傷の深さであったにもかかわらず、その傷からの出血は完全に止まっていた。
 それを見せ付けるように、高原医師の方に向かって左手を突き出す。
「もっとも……抗体と一緒に、キュレイウイルスまで受け取ってしまった訳ですけど……」
 しばらく、重い沈黙が続いた。
 どちらかが口を開こうとしては再び口を閉ざす、そんな気まずい沈黙だった。
「……私は、ウイルス関連の研究を基に博士論文を書いた口だけどね。キュレイウイルスに関する論文は読んだことがあるが、ティーフブラフなどというウイルスは聞いたことがないよ」
「でしょうね。ティーフブラウはライプリヒ製薬が開発した細菌兵器ですから、一般に知られていないのも当然です。ウイルスですから、厳密には細菌と言うのは正確ではないですが」
「自分が何を言っているのか、分かっているのかい?」
 嗜めるような口調で呟いた高原医師に、僕は自分の知る事実を淡々と告げていった。
 LeMUに取り残された自分達が発病したこと。
 LeMUの救護室に設置されたL−MRIにはティーフブラウウイルスに関するデータベースがあり、ウイルスを特定することができたこと。少量とはいえ、LeMU内にはウイルスの症状を抑制できるオレンジ・アンプルが残っていたこと。
 医療機械にはティーフブラウウイルスの抗体を標識する機能があり、抗体を単離することができたこと……ただし、キュレイウイルスを完全に除去することはできなかったこと。
 その一方で、僕はLeMUにいた仲間達、特にキュレイキャリアだったつぐみについての話はぼかした。同様に、IBFのことについても沈黙を保つ。
 嘘は何もついていない。
 幾つか、黙っていたことがあるだけだ。
「今、ここで猛威をふるっているウイルスの症状は、ティーフブラウのそれと極めて良く似ています。それに、僕が発症していない理由も、このウイルスがティーフブラウであるなら、簡単に説明が付きます。ティーフブラウには一度感染して克服していますから、僕の体には既に免疫ができている訳です」
 僕は胸の中に抑え込んでいた仮説を総てぶちまけた。
 自分で言っておいて何だが、それほどの確信を持っていた訳ではない。
 ティーフブラウ以外にも類似の症状を呈する病原性ウイルスは存在するだろうし、さっき自分でも言ったように、僕の免疫機能は普通の人間より遙かに強化されている。キュレイウイルスによって強化された免疫系は、ティーフブラウイルスだけでなく、それらの病原性ウイルスをも等しく駆逐するだろう。
 だけど――この病原性ウイルスの発生時期と、現時点に至るまでその特定ができていないという点が、僕の心に棘のように引っ掛かっていた。
 未知の病原性ウイルス。
 それは何らかの圧力が、その未知のベールを剥ぐことを阻止しているのではないのか?
 そんな疑念が、心から離れない。
「推測だらけだし、幾つも穴がありそうな仮説だね。それに、肝心な点が抜けているよ。ここで発生しているのが、そのティーフブラウウイルスによる感染だとして、どうやって治療すれば良い? 君の話が正しければ、君の血から抗体を抽出して患者に投与することで治療はできるかもしれない。だが、そうすると、今度はキュレイウイルスに感染する危険性がある」
「だけど……死んでしまうよりは良いと思います」
「それは君の、本心かい?」
 大きくも鋭くもない、むしろ穏やかなその声が、僕の胸に突き刺さる。
 無条件で、頷くべきだった。
 武なら、迷わずそうする筈だった。
 だのに僕は、指先一つ動かすことができなかった。
「悪いが、少し時間をもらうよ。私自身も、色々と気持ちや情報の整理が必要だからね」
 黙り込んだ僕の前から、高原医師は静かに立ち去っていく。
 僕はただ、それを見つめることしかできなかった。


 結局、高原医師に再び会うことができたのは、夜もかなり更けてからのことだった。
 彼はそれまで外出しており、それを追おうとしても、僕には外出許可が与えられていなかった。隔離状態の病棟内で、ウイルス感染が疑われている僕が外に出れないのは已むを得ないことだし、第一、仮に外に出たとしても高原医師を探し出す手段は全くない。
 僕はじりじりと焦る気持ちを抑えながら、看護師の長崎さんの指示の元、黙々と雑務をこなし続けるしかなかった。
 だから、長崎さんから高原医師による呼び出しを告げられた僕は、ほとんど駆け出さんばかりの勢いで第一処置室に向かっていた。
「……今まで、どこに行ってたんですか」
「時間が惜しいから、そのことについては処置をしながら話すよ。まずは、そこのベッドに横になって欲しい」
 どこか恨みがましい口調になった僕の呟きを軽く流して、高原医師は傍らのベッドを指差した。僕は已む無く、黙ってその指示に従う。
 彼は僕に、今から採血を始める旨を告げ、体を動かさないようにと強く注意を促した。
 この状態で、何かの拍子に注射を自分の手に刺せば間違いなく彼も感染するだろうから、無理からぬことだ。実際、針を握る彼の手は、緊張に小さく震えていた。
 お陰で、その注射は今まで体験した中でも飛び抜けて痛みを伴うものになった。
「よし、これで準備完了だ。今から血を抜き始めるから、そこでなるべく楽にしているように。体調に異変が起こったら、その都度知らせて欲しい」
「どのくらい、抜くつもりなんですか?」
「人間の血液の量は体重の約8%。一般に全血液量の三分の一を失えば、生命に危険が生じる。その限界一杯まで、抜いてみようと思っているよ」
 穏やかな表情でさらりと告げられた言葉に、全身から嫌な汗が滲んだ。
「金の卵を産む鶏を殺すほど愚かじゃないつもりだから、心配しないでくれ。出血量が一リットルを超えた辺りで血圧低下、四肢冷感、意識障害などが徐々に始まっていくから、その辺りから採血するスピードも落とす予定だ」
 そう話す間にも、僕の腕からは着実に血液が吸い上げられている。
 側にある機械には、トータルの採血量と、採血速度が小さなディスプレイに示されていた。採血速度85mL/分という表示に眩暈に似た感触を覚えて、僕は思わず目を閉じた。
「どこへ行っていたのか、と聞いていたね」
 高原医師のその言葉にも、目を開ける気になれない。
 僕は目を瞑って横になったまま、彼の次の言葉を待った。
「結論から言うと、ライプリヒ製薬の研究者の知り合いに会っていた。君の話の、裏を取るために」
「……何ですって?」
 思わず目を開けて、上体を起こす。
 高原医師は穏やかな身振りで僕に横たわるように促し、僕はしぶしぶそれに従った。
「君の話を聞いたときは、正直、半信半疑と言うか、三信七疑くらいだったよ。だが、他に何の当てがある訳じゃない。駄目で元々、くらいの気持ちでティーフブラウの話をぶつけてみたんだが、いや、あの時の反応は見物だったね」
 高原医師の喉の奥から、小さな笑いが漏れる。
 僕はただ呆然として、それを見つめることしかできなかった。
「もっとも、そこから先はかなり手こずらされたよ。それでも結局、ティーフブラウウイルスの検出試薬と、抗ウイルス抗体を精製するためのアフィニティーカラム、それに精製した抗体の含有量を定量するためのキット一式、その他諸々を手に入れることができたから、その甲斐は充分にあったと思う」
「アフィニティーカラムって、何ですか?」
「素人に説明するのは難しいんだけどね。例えば、砂に鉄粉を混ぜた状態をイメージして欲しい。その混合物から、ピンセットなんかで鉄粉を分離するのはかなり難しいというのは想像がつくと思う。で、この混合物を、内側に磁石が貼り付けられた筒の中を通してやったらどうなると思う?」
「……筒の内側に、鉄粉が磁力で付着するでしょうね」
「その通り。同じような筒を何本も用意して、砂と鉄粉の混合物をその中へ次々と通していく。最終的には、筒から出てくるのは砂だけになるだろう。一方、筒の中には鉄が付着している。筒の内側に付いている磁石が電磁石だったとしたら、電気を流すのをやめたらどうなるかな?」
「磁力が消失して、付着していた鉄粉が筒の中から落ちると思います」
「そういうことだね。この場合は、抗体が鉄粉で、アフィニティーカラムというのが内側に電磁石が貼り付けられた筒だと思ってくれれば、まあ当たらずとも遠からずと言うところだよ」
 なるほど、と僕は心の中で呟く。
 抗体を吸着させる仕組みについては良く分からないが、とにかくその装置で、ティーブブラウウイルスの抗体が精製できるということは納得できた。
「それにしても、良くそんなものを提供してもらえましたね」
「人間、話し合えば分かり合えるものだよ。私が会った人はちょっとした知り合いなんだが、このウイルスによる被害について、本での知識は持っていたが、実体験は全く無いようだった。だから、発症後の症状について克明に説明をしてあげたんだ。ついでに、今年八歳と十三歳になる彼の娘達が感染する危険性について、多少の示唆を与えたのが良かったのかもしれない」
 ……それはいわゆる一つの脅迫という奴ではないだろうか。
 涼しい顔をしてそんなことを語る高原医師に、僕は言うべき言葉が見つからなかった。
「あとの時間は、もっぱらキュレイウイルスについての情報を集めるのに使ったかな。論文の数は少なかったし、その他の情報もほとんど無かったから、正直、書いてある情報を鵜呑みにして良いのかどうかは分からないけどね」
 世界でも数十例しか症例が見つかっていないというキュレイウイルスは、学会などでもその存在を疑問視されているそうだ。投稿された論文はごく少数に留まり、それとて記載されていたデータが常識の範囲を遙かに超えるものだったことを理由に、メジャーな学術誌では黙殺されてしまったらしい。
 結果、マイナーな学術誌の、それほど名の通っていない研究者による論文だけが僅かに公開されている。キュレイウイルスに関する世間的な認知は、その程度のものだということだ。
 だが、その少ない論文の中に、キュレイウイルスを不活性化させる処理について記載されたものがあったらしい。詳しくは僕には分からなかったが、特殊なSD処理――すなわち、特定の有機溶媒(Solvent)と界面活性剤(Detergent)を併用した処理により、ウイルスの脂質膜エンベローブを溶解させ、感染性を消失させることができるとのことだった。
 その説明を聞く頃には僕の出血量は既に一リットルを大幅に超えており、僕は声もなく、全身から冷たい汗をかいていた。
 全身から力が抜けていくのが分かる。手と足が、その末端から冷たくなっていく不吉な感触に、心と体が震える。
 だけど、僕は耐えなければいけなかった。
 これで、田中先生を助けることができるのだから。
 田中先生がキュレイウイルスに感染することもなく、僕がキュレイキャリアであることを明かす必要もない。
 時間は掛かるだろうが、田中先生はまた元気な姿を取り戻すだろう。
 今はまだ一月だから、きっと三月の末、優の誕生日までには、すっかり良くなっている筈だ。
 そうしたら、また一緒にケーキを焼こう。
 僕と、優と、田中先生と、秋香奈と……家族みんなで、お祝いをするのだ。
 そう、約束したのだから。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送