僕の血からは、結局十人分の抗体が精製された。
 ライプリヒ製薬の研究者から調達した検出試薬で、患者達が感染しているのがティーフブラウウイルスであることは確認できた。しかし、ティーフブラウウイルスは、治療法の確立していない未知の病原性ウイルスだ。このため、抗体の投与量についても明確な基準がある訳ではなく、得られた抗体の量と、抗体とウイルスとの親和性を勘案して、高原医師が十人分と判断した。
 高原医師はその十人分の抗体のうち九人分を、田中先生の病室の四人を含む九人に投与することにした。
 田中先生は当然のこととして、田中先生の病室の残り三人を投与対象に含めたのは、僕の希望によるものだ。どうせなら、多少なりとも関わりのあった人に助かってもらいたい、という極めて個人的な事情によるものだったが、高原医師はそれを咎めなかった。
 いざというときの保険として、残った一人分の抗体を高原医師は自分用に確保している。
 彼の分の抗体を投与すれば、もう一人助けることができるかもしれないが、僕はその行為を責める気にはなれなかった。
 誰だって、命は惜しいに決まっているのだから。


代償
                              長峰 晶


2019年1月 春香奈 十九歳  桑古木 十七歳

- 7 -


 軽く頭を振って、ベッドから半身を起こす。
 輸血が終わったのは、早朝と呼ぶのが相応しい時間だった。
 高原医師は僕に速やかに食事を取り、眠るようにと指示を出した。
 彼自身はまだ当分、眠るつもりは無いらしい。ひょっとしたら、徹夜の構えかもしれなかった。
 僕はそのことに幾らか後ろめたさを感じたが、特に反論もせず、その指示に従うことにした。
 全身に漂う疲労感は耐え難いまでになっており、一刻も早くベッドに潜り込みたい気持ちで一杯だったからだ。
 僕は与えられたサンドイッチと野菜ジュース――ここでは、これしか口にしていないような気がする――を手早く平らげると、その欲求に素直に従った。
 ベッドに入ってしばらく、僕は悪寒に震え続けていたが、やがて疲労がそれを上回り、深い眠りに落ちていった。


 お昼過ぎに僕を起こした看護師の長崎さんは、僕に食事を与え、食事後に高原医師の待つ第一処置室に行くように伝えた。高原医師もさることながら、この人もいつ休憩しているのか良く分からない。そのタフさには、頭が下がるばかりだ。
 さすがにそんな人の前で、白い御飯が食べたいと愚痴をこぼす訳にもいかない。
 半ば悟りを開いたような心境で、いつものメニューに手を伸ばす。
 食事を三分で済ませて、僕は第一処置室へと向かった。
「おはよう。良く眠れたかい?」
「お陰様で。でも、そんなことはさておいて、田中先生……田中ゆきえさんの状態が知りたいんですが」
 正直、ここに来る前に田中先生の病室に立ち寄ろうかとも思ったのだが、結局それは断念していた。素人の僕がぱっと見ただけで、容態の変化が分かる筈も無いからだ。
「ついさっき、抗体を投与した九人の血液検査の結果が出たよ。かなり簡略型の試験だから精度は余り高くないが、それでも全員に血中ウイルス濃度の低下が見られる一方、ティーフブラウウイルスの急激な増殖により機能不全に陥り掛けていた免疫機能の、回復傾向が認められている」
 僕は深い安堵の息を付いた。
 さまざまな感情が一斉に頭の中を渦巻き、しばらく言葉が出なかった。
「……良かった」
 結局、僕の口から出てきた言葉はこれだけだった。
 溢れそうになる涙を、慌てて手の甲で拭う。
「良かった、か。まあそうだね、多分」
「多分って、どういうことです?」
 僕の言葉に、高原医師は僅かに目を逸らした。
 思わず彼の方に向かって一歩を踏み出そうとする僕を、彼は手を軽く振って抑えた。
「いや、単なる言葉のあやだよ。とにかく、ウイルスの血中濃度は抗体を投与した全員とも、間違いなく下がっているし、君の体内にある抗体が極めて有効なのも実証された訳だ。絶対にとは言えないが、おそらく感染初期なら、君の抗体があればかなり高い確率で発症を抑えられるだろうね。毎日採血を行えば、一日当たり十人の患者が救える訳だ」
「毎日って……そんなに頻繁に血を抜いても良いものなんですか?」
 僕は小さく身じろぎする。
 失血死寸前まで血を抜かれるという体験は、できればそう何度も味わいたくはない。
「抜いた分は輸血してるから、問題無いよ。いや、並の人間なら問題かもしれないが、君の生命力は人間の域を超えてるしね」
 これでAB型でなければなお良かったのに、と高原医師は肩を竦めて見せる。
 日本人の中ではAB型は最も少なく、全体の一割に僅かに満たない。自然、献血等により貯蔵されている血液も少なく、入手が難しい。
 だが、そんなことを言われても、僕にはどうしようもない。
「まあそういう訳で、今日の夜には、また採血を始めさせてもらうよ。採血とその後の輸血には昨日と同じくらいの時間が掛かるから、何か欲しいものがあったら、後でも良いから言って欲しい。文庫本とか携帯型のミュージックプレイヤーくらいなら、多分、簡単に取り寄せられると思う」
 高原医師は、そう言って大きくあくびをした。
 万が一感染したとしても治療の手立てがあるという安心感によるものか、昨日よりも余程晴れ晴れとした表情だった。


 採血は一日に一回、所要時間は採血の後の輸血を含めると約六時間になる。
 昨日と同じ時間、ほとんど真夜中というくらいの時間に、二回目の採血は始まった。
 夕方頃、僕は高原医師の同行の下、田中先生の病室を訪れていた。田中先生はそのときたまたま眠っていたけれども、昨日見たときよりも顔色が良くなっているように、僕には見えた。
 そのことを思い出すと、胸の中が暖かな安堵感で満たされる。
 僕は今、二回目の採血を完了し、引き続き輸血を行っていた。輸血が始まってからまだ一時間も経っていないので、僕の失血量は依然一リットルを超えている。
 手足の痺れるような冷たさも、体の芯からくる寒さによる震えも、慣れることはできなかったが、二回目ともなれば、そういうものだと理解することができた。
 高原医師が持ってきてくれた携帯型のミュージックプレイヤーで音楽を聴きながら、薄く目を閉じる。
 前回、何のトラブルもなかったせいか、採血二回目となる今回は医療スタッフの見張りはなく、この処置室には僕しかいない。抗体を精製している機械、または僕自身にトラブルが発生した場合は、ナースコールで連絡する手筈になっていた。
 音楽を聴きながら、ただ時が過ぎるのを待つという状態で緊張感が長時間持続する筈もなく、僕はいつの間にかうとうととし始めていた。
 この数日間の間に、余りにも色々なことが起こり過ぎた。そんな言い訳を自分にしながら、僕は睡魔に身を委ねる。
 浅い眠りに入り掛けていた僕は、長崎さんが処置室に入ってきたことに気付かなかったし、彼女が車椅子を運んでいたことにも気付かなかった。
「桑古木君、急いでこの車椅子に乗って」
「……どうしたんですか?」
 耳に付けていたヘッドホンを外す。上体を起こそうとして、そのまま前のめりに倒れそうになるのを、ベッドに手を付いて何とか支えた。
「田中さんが危篤状態なの。急がないと、間に合わないわ」
 意識が、真っ白になった。
 長崎さんが言っている言葉の意味が、理解できなかった――理解したくなかった。
 半ば無意識のうちに、崩れ落ちるように自分の体を車椅子に預ける。
 長崎さんは輸血のパックを車椅子の背から突き出た金属の柱に移し、車椅子を動かし始めた。
 車椅子なので階段が使えず、随分遠回りをしてエレベーターに乗り込む。
 体中が震え、全身から冷たい汗が滴り、その一方で喉はからからに渇いていた。
 病室に入ると、すぐにラカルを着た高原医師の姿が目に飛び込んできた。
 敢えて彼を無視して、車椅子から立ち上がる。
 ベッドの横に立とうとして一歩を踏み出そうとした瞬間、ふらつく体が床の上に崩れ落ちた。
 体の至るところに力が入らず、まっすぐ立つことすらできない。僕は必死の思いでベッドの端に手を掛けて体を引き起こし、上体をベッドの端に預ける格好で膝立ちになった。
「田中先生……」
  輸血用の針の刺さっていない右手で、田中先生の手を握る。
 その手が、びっくりするほど熱かった。
 人間の手がこんなにも熱くなるということが、信じられなかった。
 僕の手の感触を感じたのか、田中先生が薄く目を開いた。
 その口元がかすかに動いたことに気付き、僕は田中先生の口元に耳を寄せた。
 聞こえるか聞こえないかというほどの。
 小さな、小さな声が、言葉が、その口から紡がれる。
「田中先生……田中先生!!」
 泣きながら、何度も何度も繰り返し田中先生の名前を叫んだ。
 その手を、強く握り締めた。
 だけど、田中先生は二度とその目を開いてくれなかった。
 田中先生の呼吸が止まったのは、それから十分後のことだった。


 僕は車椅子に乗せられて、いつもの高原医師の居室に運ばれていた。
 あの後、田中先生に蘇生処置を施そうとした僕は、立ち上がろうとして、そのまま床に倒れ込んでしまった。
 やっとの思いでベッドに這い上がろうとしたところを、高原医師に肩を掴まれて引き止められた。
 普段の僕ならば、それに抵抗することはさして難しいことではなかっただろう。
 だけど、そのときの僕は一リットル以上の失血をしている状態で、心は半ば以上パニック状態に陥っていた。
 ほとんど押し込まれるようにして車椅子に乗せられ、長崎さんに運ばれるまま、ここに辿り着いた。数分後、高原医師が部屋に入ってくるまで、僕はただ呆然と車椅子に座り込んで、クリーム色の壁を見つめ続けていた。
「……どうして、こんなことに」
「ウイルスの減少に伴い免疫機能が回復している、と昼頃に説明したね。ウイルスに感染された細胞は、免疫系の回復と共に、キラーT細胞の攻撃を受ける。ウイルスが全身の細胞に拡散していた場合、全身の細胞が攻撃の対象となる……本来は体を守る筈の免疫機構が、逆に体を傷つけてしまうんだ。場合によっては、死に至るほどに」
 おそらくは、この結果も予測の範囲内だったのだろう。
 彼の言葉には少しも迷いがなく、声は充分に抑制の効いた、穏やかなものだった。
「この症状は、B型肝炎ウイルスのキャリアなどで典型的に見られるものでね。ウイルス自体にはほとんど細胞障害性が無いのにも関わらず、感染者は肝障害を患っていることが多い」
 そこまで言って、高原医師は予想もしなかった行動を起こした。
 彼は何の前置きもなくラカルのヘルメットの部分に手を掛けると、幾つかの動作をした後、それを取り外した。
 僕が呆然とそれを見つめる中、彼は机の引出しに手を伸ばし、その中から煙草とライターを取り出す。そして、それを一本咥えると、躊躇なく火を点けた。
「ウイルスの正体も分かった。空気感染しないことも確証が得られている。もう、ラカルを着る必要もない」
 そう呟いた後、彼は黙然と煙草をふかし続けた。
 確かなところは、何一つ分からなかったけれど。
 僕の推測に反して、彼にも平然とやり過ごすことのできない何かがあるのだということは、充分に伝わった。
「これからのことだが……」
 煙草をゆっくりと時間を掛けて吸い尽くした彼は、机の上の灰皿で吸い終わった煙草の火を揉み消し、僕の方に向き直った。
「まず、輸血が終わるまで、第一処置室に戻ってもらいたい。そして、それが終わったら、田中さんの遺体を処置して欲しい」
 胸の中に、黒い何かが湧き上がってくるのを感じた。
 僕ははっきりと、首を横に振ってみせた。
「もう沢山です。僕は、田中先生と一緒にここを出ます」
 震える拳を、固く握り締める。
「……僕達の家に、帰るんです」
「残念だがそれを認めることはできない。一つには、田中さんの遺体は外部に出すには極めて危険な状態だし、二つ目として、君の持つ抗体で一日に十人の患者が救える」
「どっちも、そちらの事情です。僕にはそんなこと、もうどうだって良いんです」
 自分の声が、ヒステリックな響きを伴っているのが分かる。
 だからといって、自分の発言を撤回しようとは到底思えなかった。
「どうあっても、協力はできないと?」
「その通りです」
「それなら他を当たるしかないかな。例えば、君と共にLeMUでの事故に巻き込まれた、田中ゆきえさんの一人娘とかね」
 短い沈黙の間に、僕と高原医師の視線がぶつかり合った。
 確証こそ無いだろうが、彼は、気付いている。
 優が、僕と同じキュレイキャリアであることに。
 僕は震える体を車椅子で支えるようにして、無理矢理に立ち上がった。
「優には、手を出すな」
 その昏い声が自分の声帯から出てきたことを、誰よりも自分自身が信じられなかった。
「嫌だ、と言ったら?」
「あなたを感染させる」
 また、沈黙が訪れる。
 今度の沈黙は先ほどのものよりもさらに重苦しく、冷たいものだった。
「ティーフブラウウイルスなら、私は既に抗体を持っているよ。感染初期のうちに抗体を投与すれば、まず発病することは無いだろうね」
「知ってる。だけど、僕が言っているのはティーフブラウのことじゃない」
「じゃあ、何だい?」
「キュレイウイルスさ」
 高原医師は、まじまじと僕の顔を覗き込んだ。
 どこか疲れたような溜息を付いて、大仰に肩を竦めてみせる。
「キュレイウイルスの発症例は全世界で数十例しかない。このウイルスは、それくらい感染、発症がしにくいものなんだ。君の脅しは、無意味だよ」
「かもね。でも、確率はゼロじゃない。あなたにとっては危険な賭けになるよ。そして、その賭けに負けたとき……」
 僕は言葉を一旦切った。
 彼を斬りつける言葉は自分自身をも切り裂くものであることを、そのとき、はっきりと自覚していた。
「……あなたは、人間じゃなくなるんだ」
 高原医師は、静かに僕の言葉を受け止めていた。
 何も語らず、指先一つ動かさず、ただ静かに立ち尽くしている。
 それからしばらくして、彼は二本目の煙草に火を点けた。
 ゆっくりとそれをくゆらせ、何かを考え込むような表情で漂う紫煙に視線を向ける。
「君が協力してくれるというなら、田中さんの娘には一切手出しをしないことを約束しよう。ただし、私はここの患者達を見捨てるつもりはない。君の協力が得られないなら、私はその賭けとやらに乗ってでも、彼女をここに連れてくるつもりだ」
 ぶつかり合う視線。
 先に視線を逸らしたのは、僕の方だった。
 僕には、もう一枚たりとも切り札カードは残っていなかった。

 

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