――― Date: Mon 3 June 2019 15:17 (JST) Place: Japan 朝からどんよりとした表情を見せていた空が、大きく機嫌を損ねたのは、三時をいくらか過ぎてからのことだった。 もちろん、こうなることは予測済みだった。朝の天気予報が示す午後の降水確率は八十三パーセントだったし、その予報は昼過ぎから天気が大きく崩れていくことも、きちんと伝えてくれていた。 だから本来ならば、今頃は家でゆっくりとくつろぎながら、窓ガラスを叩く雨をぼんやりと眺めていた筈だった。 どこか不満そうに口を尖らせて、私の手を握る可愛らしい手をぶんぶん振り回して歩く、この小さな天使がいなければ。 僅かに漏れた溜息を聞き咎めたのか、小さな天使――ユウは、振り回していた手を止めて、こちらを見上げてくる。 どこまでもまっすぐな視線に見つめられ、束の間、言葉が出てこなかった。 |
海をきれいに 長峰 晶 |
「お母さん、どうかしたの?」 「……別に、何でもないわよ」 まあ、しとしとからざあざあに変わりつつある雨の中を歩くことが憂鬱の原因なんだけれど、それを言うと公園で遊んでいくことを頑なに主張したユウを責めているようで、それはちょっと大人のやることとは思えなかった。 言葉を続ける代わりに、ユウの手を握る手にそっと力を込める。 頭を撫でてあげようかとも思ったものの、雨が降り始めてもなお、砂場ではしゃぎまわっていたユウは全身泥だらけになっていて、髪に触れればこちらの手も砂まみれになるのは間違いなかった。 「牛乳、家にあったよね?」 「ええと……昨日オムレツ作るときに使ったけど、確か、もう一本空けてないのが冷蔵庫にあった筈よ。でも、何で?」 分かってないなあ、というようにユウは立てた指を小さく振ってみせる。 人差し指と中指をくっつけて立てているのは、テレビか何かでそんな仕種を見たのだろうか。普通、人差し指だけだと思うんだけど……。 「ホットケーキには、あったかい牛乳がセットでなくちゃ」 「ユウ、私は『まっすぐ家に帰るなら、ホットケーキを作ってあげる』って言ったのよ。あなた、公園で遊んでいったじゃない」 微妙に恨みがましい口調になってしまう辺り、私もまだまだ修行が足りない。 雨が降るのが分かっていたので、ユウをまっすぐ帰宅させるための餌としてホットケーキをちらつかせてみたのだけれど、その時のユウは遊ぶことで頭が一杯で、ほとんど興味を示さなかった。 目の前のことだけに頭が集中してしまい、後先を考えなくなるところは、本当に私にそっくりだ。 人間、誰しも自分自身のことをじっくりと見つめる機会を持つことは少ないのではないかと思うけど、子育てというのは、ある意味、鏡を見つめる以上に自分のことが良く分かる。 特に、私の場合には。 ユウが受け継いでいるのは、私の遺伝子だけ。 彼女は娘であり、双子の妹であり、私自身でもあるのだ。 「公園に行ったらすぐに雨が降ってきたもん。あんなの、まっすぐ帰ってきたのと一緒だよ」 「だめよ。ホットケーキは、また今度ね」 なにせ好物なだけに良く食べる。今の時間に食べてしまうと晩御飯に差し障る可能性が高く、栄養バランスから考えると、それは望ましくない。 それに、余り甘いものを食べさせると、虫歯の問題もある。 幸いにしてまだ一度も歯医者さんのお世話になったことは無いけれど、こと歯に関しては、日頃の摂生が物を言うのだ。 「やだっ! ホットケーキ、食べるの!!」 「ユウ、」 「やーだっ!!」 とうとう立ち止まってしまったユウは、私の手を離して目の前でぶんぶんと手を振り回し始めた。 ……こうなると厄介なのよね。 自らの写し身であるがゆえに、そのことが痛いほど良く分かる。 私はさんざん悩んだものの、結局、妥協することにした。 「……仕方ないわね。だけど今日だけよ、こんなこと」 「うん!」 一瞬で御機嫌になったユウから、元気の良い答えが返ってくる。 私の手を掴んで、ほとんど引っ張るようにして家へ向かって歩き始めたその姿を、私は苦笑混じりに見つめる。勢いのついたユウの足は全く速度を緩まることがなく、大人が歩くのと同じ程度の時間で家まで辿り着くことができた。 ユウを玄関で待たせて、駆け足でバスタオルを取りに行く。 泥だらけのユウの体を、大人用のバスタオルですっぽり包み込んで胸元に抱き上げた。 間近に見える、ユウの笑顔。 自分が愛されているということを微塵も疑っていない、その混じりけのない笑顔が、私の心を暖める。 私に、自信を与えてくれる。 お母さんを喪ってから四ヶ月が経つ。 私はまだ、心からの笑顔を浮かべることができない。 だけど、こうやって笑顔を見せてくれるユウに、私は微笑み返すことができる。 空元気でも元気、という言葉がある。 ユウがここにいてくれて、笑顔を見せてくれて、それに対して笑顔を返す。 そのことが、私の心をどれだけ慰めてくれたことだろう。 もしユウがいなければ、私は自らを灼く負の感情の赴くまま、取り返しの付かないことをしてしまっていたかもしれない。そうすれば「計画」は総て御破算になり、倉成とココを救い出す機会は、永遠に失われてしまっていた筈だ。 私はタオル越しにユウの体をぎゅっと抱きしめ、そのままお風呂場へ連れて行った。 風呂場の前の足拭きマットの上に、そっとユウの体を降ろす。 近頃のユウは自分のことはなんでも自分でやりたがるので、私の出番はここまでだ。自立心が旺盛なのは喜ぶべきことなのだろうけど、少し寂しい気がするのも否めない。 私は小さく吐息を付いて、ゆっくりと玄関の方に戻っていった。 ユウの小さな赤い靴を揃えて並べ、雨に濡れた傘を広げて乾きやすくする。 その時、ふと、今日はまだ郵便受けを見ていないことに気付いた。 手紙もダイレクトメールも電子化が進む一方のこの御時世だから、郵便受けがその本来の機能を果たすのは年賀状のシーズンくらいなのだけれど、気になったものは仕方がない。 私は傘を手に外へ出て、郵便受けの中を覗き込んだ。 珍しく一通の手紙、それもエアメールが入っていることに驚きつつも、それを摘み上げる。 Ms. Yukie Tanaka――宛名を見た瞬間、胸の奥にじわりとした痛みが広がった。 封筒を裏返すと、そこには住所は何も書かれておらず、ただ、差出人の署名だけがあった。 R. Kaburaki。筆記体で綴られたその名前を見て、心臓が激しく脈打つのが分かった。 すぐさま居間に戻ると、ペーパーナイフを震える手に握り、それを開封する。 中には2L版の大きさの写真が二枚と、横書きの便箋に几帳面な字で書き込まれた、短い手紙が入っていた。 『優へ 元気でやっているだろうか。 充分な説明もなしに日本を飛び出してしまったことは、済まないと思っている。 だけど前にも話した通り、無資格かつ未成年の俺が働くなら、日本を出た方がずっと仕事の数は多く、割の良い仕事も見つけやすい。そのことは、分かって欲しい。 俺は今、海を綺麗にするための仕事をしている。 写真を見てもらえば分かるが、本当に綺麗な海だ。こんなにも綺麗な海を汚そうとする連中がいることは信じ難いんだが、目下のところ、俺はいつも多忙な日々を送っている。 もっとも、仕事は量こそ多いが割と単調かつ単純なもので、危ないことは何も無いので、心配しないで欲しい。 もう一枚の写真に、俺と一緒に写っているのは同僚のロジータだ。もう一人の同僚はその写真を撮っているので映っていないが、ジャックという三十代後半の気の良いおじさんだ。写真を撮られるのは嫌いだというので、彼の写真は撮っていない。 二人とも面倒見の良い性格で、何かとお世話になっている。 半年間の契約を結んだので、まだ当分、日本には帰れそうにない。 この仕事が終わった後も、来年の春までは、おそらく国外で仕事を続けることになると思う。 計画のことは、もちろん忘れていない。 日本に帰る頃には、俺も少しは武に近付いている筈だ。 日本では、そろそろ梅雨入りした頃だろうか。 季節の変わり目は体調を崩しやすいので、無理をしないように。特に、秋香奈はまだ小さいし、ちょっとしたことで熱を出すだろうから、充分注意して欲しい。 それでは、また。 桑古木 涼権』 読み終わってしばらく、私は手紙を手にしたまま、声もなく座っていた椅子に深く体を沈みこませた。 さまざまな感情が浮かんでは消えていく。その感情のうねりがひとしきり収まるまで、私は目を閉じてじっと待ち続けた。 目を閉じれば、思い出す。 白いワイシャツに、黒いネクタイ。その胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくっていた自分。 触れるか触れないかという位置に置かれた腕。大切なたいせつな、儚い壊れ物を扱うように、そっと抱きしめられた。 その腕の感触を、優しく髪を撫でる指先を、今でも思い出すことができる。 自らも悲しみに震えながら、声を押し殺して涙を流しながらも、それでも私を慰めようとしてくれたその姿を――私は、忘れることができない。 お母さんを喪ってから、私は幾つもの現実に打ちのめされていた。 その最たるものの一つが、経済的な事情だ。 その現実を目の前に突きつけられて初めて、私は自分が養われている身であるということに、今までいかに無自覚であったかを思い知らされた。 LeMUでの運命のあの日まで、私は病に冒され、いつ果てるとも分からない体だった。 だから当時のお母さんは、自分が死んだときのことよりも、今この瞬間に、娘である私のためにできることを優先していた。 たとえどれほど望みが薄くても、その費用が莫大なものであっても、私の病を治す可能性があるなら、最新の治療を受けさせることを厭いはしなかった。 そして今。 遺された貯金と、支払われた保険金――そして、ライプリヒ製薬からの見舞金。 それら総てを掻き集めても、私が学業を修めて就職するまでの間、現在住んでいるこの家を維持し、ユウに必要な教育を受けさせるには、必ずしも充分なものとは言えなかった。 私は大学を中退し、生活費を得るために就職することを考えていた。 それに真っ向から反対したのが桑古木だ。 そんなことで計画は果たせるのか、と。 責めも咎めもせずに。 ただ、静かな口調で、その事実だけを突き付けられた。 思わず激発しかけた私の心を冷やすように、桑古木は言葉を続けた。 金のことなら何とかする。だから優は計画と秋香奈のことだけ考えろ、と。 その日からいくらも日を経ることなく、桑古木は私の前から姿を消した。 しばらく日本を離れる、という内容が記された簡素なメールは、桑古木が日本を発つ直前に発信されていた。 以降、彼に連絡を取る手段は全く無くなっていた。 毎月二十五日に振り込まれる、桑古木の年齢を考えれば充分過ぎるほどの金額の銀行振り込みだけが、彼の安否を知らせるものだった。 かつてLeMUで働いていたときには三日と空けずに届いたメールは、出国の日から一通も届かなくなった。 何故そうなったのか。 届いた手紙に、桑古木の連絡先が全く記されていないのは、何故なのか。 「一体どこで、何をしてるっていうのよ……」 力の無い呟きを漏らしながら、私は目を開いた。 封筒の中から、残っていた写真を抜き出す。 一枚目の写真に写っていたのは、どこまでも広がる蒼い空と青い海。雲の姿すらないその簡素な風景は、美しくはあったけれど、一抹の寂しさを感じさせるものだった。 もう一枚の写真は、ガレージのようなところで撮られたものだった。 写真の中央には、一人の男が、床に足を投げ出すように座っている。 その体の横には、プルトップが空けられた缶ビールが二本。 およそ三ヶ月半もの間、顔を合わせていなかった男の顔。その左頬には、泥とオイルがべったりと張り付いている。 男の――桑古木の側には、小さな木箱の上に腰掛けた女性の姿があった。 年はおそらく二十代後半。左手には、桑古木の側に置かれたものと同じ銘柄の缶ビール。 その缶ビールを握った左手を桑古木の背中から首に絡めるように回し、右手では彼の髪をくしゃくしゃに掻き回して、柔らかな微笑を浮かべている。 写真の中の桑古木は、どこか煩わしそうな表情を浮かべつつも、後頭部と背中に押し当てられているであろう豊かな胸の感触に、耳の先を仄かに赤くしているように見えた。 ちくり、と胸の奥に小さな痛みが走る。 思わず自分の胸元に目を落とし、もう一度写真を見て、何故だか無性に舌打ちしたくなるような衝動に駆られた。 「おかーさん! 頭洗って! 頭!」 風呂場から響いてきたその声に、はっと意識が切り替わった。 自分のことは何でも自分でやりたがるユウだけれど、シャンプーが目に入るのが怖いのか、頭だけは自分で洗うことができない。シャンプーハットを買ってあげるべきかとも思ったものの、その柔らかな髪に指を通す楽しみを失う気にもなれず、結局、頭だけは私が洗ってあげることにしていた。 「すぐに行くわ。ちょっと待ってなさい」 手紙と写真を封筒に戻し、引出しの奥にそれをしまい込む。 そして、シャツの袖を捲り上げながら、風呂場へと向かっていった。 胸の奥を、漠然とした不安が掠める。 桑古木は今、どこにいるのだろうか。 今、どのようにして、時を過ごしているのだろうか。 |
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