――― Date: Mon 3 June 2019 01:17 (EST)     Place: Colombia
      Offshore area of Bahia Buenaventura at a depth of 85 meters


 大き過ぎることも小さ過ぎることもない、涼権、と自分の名前を呼ぶ囁き声が、作業の手を止めさせた。
 声を掛けてきた男――ジャックは、左手に青白く灯されたライトを掲げたまま、軽く握られた拳の、右手の甲の部分をこちらに向けて、二、三度振ってみせた。
 その仕種を見て、自分の左手首に視線を落とす。
 零時から三時、分数表示にすればゼロ分から十五分までを示す部分に塗られた蛍光塗料が、ライトの光を受けて静かな輝きを放っている。同じく蛍光塗料で彩られた時計の長針は、分数表示で十分をいくらか過ぎた辺りを指していた。
 小さく息を吐いて、手にしていた工具をジャックに渡す。
 手足をゆっくりと動かして、今まで体を張り付かせていた無骨な鉄の塊から、自分の体をそっと引き剥がす。
 無骨な鉄の塊……一トン級係維機雷は、ライトが照らし出す青白い光の中で、冷たく不気味なまでの存在感を湛えていた。

海をきれいに
                              長峰 晶


2019年6月 春香奈 二十歳  桑古木 十七歳

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 機雷から充分に離れたところで、大きく息を付く。
 目の前の機雷は係維機雷というタイプだ。機雷本体を海中に沈めるためのアンカーが海底に据え付けられていて、その錘と機雷本体が係維索という一種のケーブルのようなもので繋ぎ留められることで、海中の目的の深度に静止させられている。
 機雷の標的――大型船などが通りかかった場合、その金属反応や、金属の船底とスクリューの回転が生み出す磁力線などを感知することで機雷は作動し、このケーブルが外される。機雷は海面まで急浮上し、そこで爆発する。
 このタイプの機雷は、一般的には掃海艇などを用いて係維索を切断し、海面に浮上して来たところを爆破することによって除去するのだが、全部が全部そうやって処理できる訳ではない。
 例えば、海中の流れが不安定なところでは掃海艇を動かしづらく、かつ、係維索自体の動きが大きくなるために、カッターで切断することが難しくなる。
 この他、海底の地形が凸凹で、谷間のようなところに機雷が落ち込んでしまっているときも、やはりカッターを上手く係維索まで届かせることができないため、掃海艇による機雷の除去が困難になる。
 掃海艇や掃海ロボットで除去できない機雷はどうするか。
 放置しておいて良いものなら、放置しておく。大概の機雷は時限装置が組み込まれていて、五十年から百年も経てば、その機能を喪失する。
 放置してもおけず、五十年も待てないときはどうするか。
 その機雷の起爆装置を止め、自分の好きなときに爆発させることができるように信管をセットしてから、係維索を切断して機雷を海面まで浮上させる。それから爆破の影響が及ばない安全な場所に退避し、信管を作動させることによって機雷を爆破、除去する。
……どこかの馬鹿なダイバーが、それをやるのだ。
 そのために俺は、ここにいる。
 コロンビア。ブエナベントゥラ湾の沖合、深度八十五メートルの海中に。
 目を閉じたまま、手をゆっくり開いたり閉じたりして、体の強張りをほぐす。
 機雷を照らすライトの光は弱く、作業は極めて目にこたえる。
 照明を強くすれば良さそうに思えるが、地上とは違い、海中にはどんな綺麗な海であっても微小な塵が舞っており、それが光を散乱させる。このため、不必要に強い光は却って作業の妨げになる。
 青白い光に照らされた機雷の禍々しい姿は、脳裏にはっきりと焼き付いて、なかなか消えてくれなかった。
 目の前の機雷はいわゆる一トン級機雷と呼ばれるタイプだが、機雷の場合、その重量の半分以上、この場合なら五百キログラム以上は爆薬が占めることになる。その爆発力はもちろん爆薬の種類によって異なるのだが、五百キログラムの爆薬の破壊力を示す一つのデータがある。
 二〇〇一年九月十一日の同時多発テロにより歴史にその名を刻んだ世界貿易センタービルだが、テロリストの蹂躙を受けたのはそれが初めてのことではない。その八年前の一九九三年二月二十六日に、イスラム原理主義を掲げるテロリスト達はワンボックスカーに約五百四十キログラムの爆薬を積んで、世界貿易センタービルがそびえ立つビル街の地下駐車場にそれを駐車した。
 テロリスト達は世界貿易センタービルの二棟と、近接する他の高層ビルを将棋倒しにしようと計画していた。彼等の目論見は達成されなかったが、それでも、午後零時十八分に爆発したその爆弾は、百十階建てのビルの基礎部分を揺さぶり、地下に長さ六十メートル、幅三十メートルのクレーターを穿ったという。以上、ジャックからの受け売りだ。
 キュレイキャリアはウイルスに細胞の遺伝情報を書き換えられることで、免疫機能および代謝効率が著しく上昇し、テロメアは回復し続けるようになる。平たく言えば、怪我は驚くべきスピードで完治し、老いることはなくなる。
 だが、いかにキュレイキャリアの回復力が尋常ならざるものだとはいえ、五百キロの爆薬による爆発に巻き込まれて生きていられるほど、でたらめなものではないだろう。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、休憩時間は終わった。
 十分作業をして、五分休憩を取る。これが、チーム内での暗黙の了解事項となっている。
 本来は五分の作業に十分の休憩を割り当てるべきなのだそうだが、俺達が作業をしているのは海中だ。
 呼吸のためのエアボンベは只ではないし、それに滞底時間が長くなればなるほど減圧に要する時間も長くなって、全体の作業効率が落ちる。
 蛍光表示されたエリアを越えた位置に進んだ分針を見て、大きく息を吐いた。
 文字盤ベゼルを正位置に戻し、現在の時刻を表示させる。
 午前一時二十三分。コロンビアは東部標準時――Eastern Standard Time(EST)が採用されているため、日本との時差は十四時間。日本では、今はだいたい午後三時半頃ということになる。
 優と秋香奈は、今頃どうしているだろうか。
 今年の四月から秋香奈は保育園に通うようになった筈なので、ちょうど秋香奈を迎えに行った頃かもしれない。
 そんなことを思いながら、今となっては形見となってしまったダイバーズ・ウォッチ、田中先生と優からのクリスマスプレゼントに視線を落とす。
 作業再開だ。
 俺は再び時計の文字盤を回転させ、現在の長針の位置に文字盤の零時の表示を重ね合わせた。
 俺がどうしてここへ来て、こんな仕事をするようになったのか。
 それを説明するには、いささか時を遡った方が理解しやすいだろう。

 田中先生の葬儀を済ませた後、俺は田中先生と暮らしたマンションの一室から自分の荷物を引き払った。
 あの時の気持ちは、上手く表現できない。ただ、今でも、思い出すと胸が痛い。
 荷物を引き払うためには、行先が必要だった。
 正直、選択の余地は全くといって良いほどなかった。
 ココのお父さんである八神博士が引き取り手として名乗りを挙げてくれたが、俺は恐縮しつつも、それを固辞した。
 そして俺は高原医師の家に、田中先生の死を共に看取った男の家に、居候をすることになった。
 彼は幸いにして独身で、地方都市の病院長の息子だけあって、新築のマンションの一室に居を構えていた。そのマンションは一家族がまるまる住める程度のスペースがあったため、同居人が一人くらい増えても何ら居住上の問題は無かった。
 高原医師と俺はいわゆる一つの共犯関係にある。認めたくはないが、それは事実だ。
 彼としても事件後、少なくとも俺がある程度落ち着くまでは、俺を自分の目の届くところに置いておきたかったようだった。このため、同居の件に関しては、むしろ歓迎されたと言っても良い。
 加えて、今の俺は彼の研究材料サンプルだ。彼は食費、光熱費、家賃等の一切の費用を請求しなかったが、替わりに、頻繁に採血をすることを要求し、夜中には彼の勤務する病院に連れられ、さまざまな機器で検査をされた。それらの行為は、検査と言うよりはむしろ調査と言った方が適切だったかもしれない。
 一介の医師がそれらの高価な機器を自由に使える筈も無いのだが、そこは彼がライプリヒ製薬から受けた「見返り」が有効に活用されていたらしい。彼の行為を咎める人には一人も会わなかったし、そればかりか、何度か専門の技師の手助けを受けていたことすらあった。
 もちろん、いつまでもそのような環境に甘んじているつもりはなかった。
 俺は過去のバイト先で出会った人々に連絡を取り、仕事を探し始めた。
 条件は幾つかある。
 食事付きで、住み込みで働けること。
 年齢にはこだわらないこと。
 そして何より、収入が良いこと。
 田中先生の最後の願い……優と秋香奈の生活を護るためには、それ相応の収入が必要だったからだ。
 もちろん、そんな仕事は簡単には見つからなかった。
 悶々と日々を過ごしていたときに、話を持ってきてくれたのは、再建当時のLeMU、それもドリットシュトックで現場作業を取り仕切っていた笠宮さんだ。
 正直、余り良い噂は聞かない。どちらかといえば、ヤバい話が聞こえてくることの方が多い。
 だが、こと金払いに関してだけはかなり良いらしい。
――四ヶ月振りに顔を合わせた笠宮さんは、喫茶店のコーヒーを苦い表情で啜りながら、そう切り出した。
 ラプラシアン・エージェンシー。
 元々は新興の保険会社の下部組織で、調査部門を子会社化したものだったという。
 調査部門だけに、優秀な調査員を登用・育成することに重きを置いていたのだが、そのうちに調査員のマンパワーが過剰になり、一種の人材派遣業のようなことをやるようになった、らしい。
 何分、余り世間の表には出てこない企業らしいので、情報を集めるのも一筋縄ではいかない。
 ちなみに、笠宮さんとラプラシアン・エージェンシーとの縁は、LeMU再建の数年前にとある海外企業と行った合同プロジェクトが始まりで、その合同プロジェクトの推進支援のために、ラプラシアン・エージェンシーから何人かの人材が派遣されていたのだそうだ。
「連中、数年前から南米で新規プロジェクトに携わっていてな。その関係で、優秀なダイバーを常時募集中なんだそうだ」
「常時、ですか?」
「ああ。俺も仕事の詳細は聞いてないんだがな。どうも、余り定着率が良くないらしい」
 肩を竦めてそう呟いた笠宮さんの前で、俺はややぬるくなりかけたホットココアを飲み干した。
 南米というと、地球のちょうど裏側に当たる。
 遠く離れた日本にまで人材の募集を掛けているとなると、相当に人材が払底しているのだろう。
 もっとも、この話は別件で笠宮さんとコンタクトを取っていた向こうの担当者がぽろりと口に出した話らしいので、どこまで積極的に募集しているのかは微妙なところだ。
 なお、「別件」については企業秘密ということで、教えてもらえなかった。まあ、こちらとしても別に是が非でも聞きたい話ではないのでそれは構わない。
「どうする? やる気があるなら、向こうの担当者に連絡を付けてやるぞ」
 笠宮さんはそう言って、近くのウェイターを呼び止めて二杯目のコーヒーを注文した。
 黙って答えを待っている笠宮さんの前で、しばし思考を巡らせる。
 今はもう捨ててしまったが、叔父達の住む家に保管されていた俺の私物、その中にあったスコアカードによれば、記憶を失う以前に最後に受けたTOEICの点数は六百三十点だった。
 海外で勤務するにはもう百点ばかり足りないような気もするが、中学三年生当時のスコアにしては、悪くない数字だと思う。
 桑古木涼権の両親は、一人息子の英語教育にはそれなりに考慮を払っていたらしい――今現在に至るまで、何一つ思い出せていないが。
 しばらく迷ったものの、まずは話を聞いてみないことには結論は下せないと考え、笠宮さんに仲介をお願いすることにした。
 笠宮さんは大きく頷いてから追加注文したコーヒーを一息に飲み干し、伝票を手に取った。たかだかコーヒー代とはいえ、ここは自分が払おうと思っていたのだが、彼ははっきりとそれを拒絶した。
「こういうのは年長者が出すもんだ。……それに、LeMUでの仕事のときは、お前には色々助けられたからな」
 そう言って太い笑みを浮かべた彼に、俺は深々と頭を下げることしかできなかった。
 その後の笠宮さんの対応は素早かった。
 彼と会った二日後には、ラプラシアン・エージェンシーの担当者の面接を受けることになった。
 もちろん、直接顔を合わせる訳ではなく、いわゆるテレビ電話のようなシステムを使ってだ。
 昨今、余程の田舎でなければ、大概のビジネスホテルにこの手のシステムが用意されている。そこを利用するまでの段取りは、笠宮さんが総て行ってくれた。
 笠宮さんに事前に知らされていたので驚きはなかったが、面接の担当者は、若い女性だった。
 彼女はポートマンという名前で、ファーストネームは笠宮さんも知らなかったので、彼に倣って、無難にミズ・ポートマンと呼ぶことにした。
 通信システムの画面には、ミズ・ポートマンの上半身が映っていた。
 ミズ・ポートマンはくすんだ金髪と、色の薄い青い瞳の持ち主で、かなり整った顔立ちをしていた。ただ、俺は田中先生や優と暮らしていたために、少々の美人では動じないようになってしまっていた。何となく、今後の人生を考えるとマイナス要因の大きそうな慣れだと自分でも思う。
 彼女はグレーのヘリンボーン・スーツに、ボタンダウンのコットンシャツを着ていた。
 胸元には、シックな黒のニットタイ。
 何かの本で読んだのだが、男がネクタイを締めるのは、平坦な胸部にデザイン上のアクセントを加えるためなのだという。その見解には概ね納得がいく。おそらくつぐみは余りネクタイ姿が似合わないだろうし、空もそうだろう……優は、多分似合うと思う。ココの場合は、そもそもスーツ姿というのが想像が付かない。
 ミズ・ポートマンは、スーツにネクタイというファッションが実に板に付いていた。
 ただし、男のビジネスマンと同じような服装を身に付けながらも、その姿からは女性らしい優雅さや柔らかさは少しもそこなわれていなかった。
「ミスタ・カブラキ。ミスタ・カサミヤからは、十九歳だと聞いていましたが?」
 最初の挨拶を済ませた後で、上品な微笑を浮かべながら、ミズ・ポートマンはそう問い質してきた。
 後から知るようになったことだが、彼女の口調はとても歯切れが良く、長音、すなわち「ミスター」のような単語の、伸ばす音がしばしば省略される。
 問い掛けてきた彼女の手には、俺のパスポートのコピーがある。
 南米での仕事とあって、事前にパスポートのスキャンデータをメール送付するよう要求されていたのだが、パスポートには当然のことながら生年月日の記載欄があった。
「……前の仕事のときは、二歳ほど年齢を水増しして申請してたんでね。それに、そっちの仕事は年齢不問だと聞いてる。だとしたら、大した問題じゃない」
 多少つっかえつつも、どうにか言葉を返すことができた。
 なお、英語で敬語表現を使えるほどには、俺の英会話能力は豊かではない。
「それは、その通りです。では、現在は十七歳で、あと数ヶ月で十八歳ということですね。……正直、もっと若く見えますが」
「日本人は、若く見られやすいんだよ」
「確かにそういう傾向はあるようですね。それにしても、十七歳というのは例外的な若さです。少なくともこのプロジェクトに関しては、これまで、ティーンエイジャーのダイバーとは契約したことがありませんから」
「それは、雇うつもりがないってことか?」
 だとしたら完全な無駄足だ。
 多少の苛立ちを含んだ、探るような視線を彼女に向ける。
「いえ、先ほどあなたが言われたように、年齢に関しては不問です。私達が要求する業務を処理するだけの力量と意志力があるかどうか――採用基準はほとんどそれに尽きます」
 ミズ・ポートマンは穏やかな声でそう告げると、じっとこちらを見つめてきた。
 そのまま、しばらく無言のまま時が過ぎた。
「あなたの力量については、ミスタ・カサミヤの太鼓判があります。もちろん、現地でテストは受けて頂きますが、あの辛口な人からあれだけの評価を勝ち得ているのですから、そこについては余り心配していません」
 僅かに頬が熱くなった。
 笠宮さんは確かに自分にも他人にも厳しく、誰に対しても辛辣な評価をすることが多い人だったのだが、俺に関しては予想外に高い評価をしていてくれたようだ。
「意志力については……これは何とも量りようがありませんが、期待できそうな気がします。あなたはそういう瞳をしています」
「子供らしい、純真そうな瞳をしているとでも?」
 その言葉に、彼女はくすりと笑った。
 ただし、今度の笑みには柔らかさの奥に、どこか冷やりとしたものを含んでいた。
「逆ですね。年齢にそぐわない、それはそれは昏い瞳をしています。まるで、地獄の淵でも覗き込んできたかのように」
 言葉に、頭の芯が瞬間的に熱くなるのを感じた。
 小さく息を吐きながら、その熱さが過ぎ去るのを待つ。そんな俺の姿を、彼女は静かに観察し続けていた。
「……本題に入ろう。仕事の内容と報酬、それと契約について説明してくれ」
 これ以上、変に話が横道に逸れるのはどうにも上手くなかった。
 俺は単刀直入に自分が一番聞きたかった内容を問い質すことで、先の話を強引に打ち切ることにした。
 ミズ・ポートマンが小さく頷くのと同時に、彼女の姿を映していた画面が縮小された。その画面の右側に新たなウィンドウが開き、南米大陸の地図が表示される。
 その北部、コロンビアの太平洋側の沿岸部で、赤い×印が点滅を繰り返していた。
「あなたの職場は、ここになります。業務内容は……一言で言えば、海を綺麗にする仕事です」
 そう告げたミズ・ポートマンは、聖母マリアのような笑みを浮かべていた。

 

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