――― Date: Mon 10 June 2019 06:05 (EST)     Place: Colombia

 早朝、朝食前のトレーニングルーム。
 他に人は誰もおらず、部屋のどこでも使うことができたが、俺は敢えて部屋の隅の方でトレーニングを行っていた。
 俺のトレーニングは場所を取らない。騒がしくもならない。
 肩の高さに上げられた両腕。拳は柔らかく握る。
 その腕を軽く曲げて下に降ろしながら、肩幅の広さに足を開いて膝を曲げ、腰を落とす。
 足の裏がしっかりと地面を踏みしめ、どこも浮き上がらないようにする。足の裏とふくらはぎを繋げる足首が、ふくらはぎと太股を繋げる膝が、太股と腰を繋げる尻が、それぞれ直角になるように姿勢を維持する。慣れるまではなかなか難しい。バランスが崩れてくると、膝頭が爪先より前に出たり、足の裏のどこかの箇所が無様に浮き上がったりする。
 その姿勢をただただ、保ち続ける。
 馬に跨った姿勢に似ていることから、この姿勢は馬歩と呼ばれる。
 足腰の強化や、バランス感覚を鍛えるのに役立つ。持久力や耐久力を鍛えるのにも良い。反面、瞬発力の強化には不向きだ――そう言ったら、このトレーニング方法を教えてくれた男は、わざとらしい苦笑を浮かべてみせた。
 そして、言った。
 涼権、お前は何も分かっていない、と。

海をきれいに
                              長峰 晶


2019年6月 春香奈 二十歳  桑古木 十七歳

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 他にやることも無いので、たまたま思い出したその言葉、その真意に思いを巡らせる。もっとも、経験上、いくら考え続けても答えが出ないことは知っていた。
 そうして、静かに時が流れ続ける。
 トレーニング室のドアが開いたのは、体中にうっすらと汗をかき始めた頃だった。
 このトレーニングも、始めた頃はほんの数分で太股を震わせていたものだが、今はもうかなり余裕がある。揺れる船の中に比べれば、平地でのこの姿勢の維持は、いささか退屈を覚えるほどだ。
「やっぱりここだったのね、涼権」
「ああ。おはよう、ロジータ」
 挨拶を交わしつつも、少しも姿勢は崩さない。
 視線すら寄越そうとしない俺に焦れたのか、ロジータはわざわざこちらに歩み寄ってきて、俺の正面に立った。
「ふうん。何だか随分、さまになってきたわね」
「三ヶ月、こればっかりだからな。少しは慣れる」
「こればっかり? 何か、技とかは習ってないの?」
「二日前に、ようやく体当たりを習ったな」
 俺の言葉に、ロジータは腕を組んで怪訝そうな顔をした。別にからかったつもりはなく、純粋な真実なのだが。
 彼女は背が高い。
 身長だけじゃなくて、全体的にパーツの作りが大きい。
 そんな彼女が無造作に腕を組んだりすると、黒いタンクトップを押し上げる豊かな膨らみが一段と強調され、どうしても視線がそこに偏りがちになる。
「……体当たりって、技っていうのかしらね」
 言葉に慌てて視線を動かし、ロジータの顔を見上げる。
 彼女は俺の視線の行先を充分に把握していたようで、片目を瞑ってからかうような笑みを浮かべてみせた。約十歳違いだから仕方の無いことなのかもしれないが、完全に子供扱いされている。
「技だろ。現に俺は、それで吹っ飛ばされたんだからな」
「それはそうね。あれ、端から見てたらかなり凄かったわよ。ジョン・ウーもびっくりのワイヤー・アクション! って感じで」
「大きなお世話だ」
 ワイヤーなんか使ってないし、と心の中で言葉を補う。
 最初の面接のとき、ミズ・ポートマンは現地でテストがある、と言っていた。
 その言葉通り、潜水技能に関するかなりハードな試験があったのだが、俺はそれをどうにかパスすることができた。
 何せ、試験に落ちたら往復の飛行機代は自腹になってしまうし、そればかりか受験料まで巻き上げられてしまうという非道な条件だったため、必死にならざるを得なかった。
 その試験をパスした後、現在、俺が所属しているチームのリーダーであるジャックに連れられ、黄さんに引き合わされた。ちなみに黄さんは中国系の三十代半ばくらいの男で、名前はファンと読む。
 そこでジャックは、涼しい顔をして言ってのけた。
 最終試験は格闘能力の試験なんだ。あそこの男と、軽く手合わせしてみてくれ。
 この時には俺は既に正確な業務内容について聞き及んでいたので、機雷の除去と格闘能力との間にいかなる因果関係があるのか、一言文句を付けたい気持ちで一杯だった。
 だが、これも試験のうちだというのなら仕方がない。
 何より自分も予想外の展開に気が立っているし、一つ、ここでそれを晴らさせてもらおう。
 全く持って恥ずかしい話だが、事が始まる前の俺は、そんなことを考えていた。
 キュレイウイルスに感染して、二年。
 キュレイウイルスによる影響で、俺の身体能力は大幅に向上していた。
 スピード、パワー、反射速度。そのどれ一つ取っても、数年前とは比べ物にならない。
 だから俺は、やり過ぎて怪我をさせないように注意しよう、などと愚劣極まりないことを考えながら、手合わせに臨んだのだ。
 その結果は、ロジータが告げた通りだ。
 初めに、胸の真ん中への掌底の一撃。その一撃で俺の体は浮き上がり、仰向けに吹っ飛ばされた。
 体を貫いた衝撃に呼吸ができなくなって、床の上でもがき苦しむ。喘ぎ声すら出すこともできず、頭の奥で赤い光がちかちかと瞬くのを感じていた。
「あー、涼権? だめだと思ったら、ジャパニーズ・ドゲザでも何でもして、早いところギブアップしてくれ」
 のどかさすら感じるジャックの声に、瞬間、殺意に近い感情が湧いた。
 ギブアップなんて、できる筈がない。
 土下座なんかしようものなら、その瞬間に後頭部を踵で踏み抜かれる。目の前の男は、必ずそうする。確信がある。
 まだ呼吸ができない体を鞭打って、無理矢理に上体を起こす。
 怖かった。
 手の届くところにある死の恐怖に、体の芯から恐怖した。
 呼吸ができるようになった瞬間、口から飛沫が飛び出した。
 赤いものが混じっていたような気がしたが、それを些細なことと感じるほど、体は酸素を欲していた。
 目前に迫る死に、抗う力を欲していた。
 必死の思いで立ち上がった俺を見つめ、男は小さな笑みを浮かべた。
 動き出すその瞬間。
 自分は確かに、それを捉えていた筈だった。
 だが、速度ゼロの静止状態から、トップスピードで自分の懐に体が飛び込んでくるまでのその間が、中間のコマを切り落とされた映画のフィルムを見ているように、全く知覚できなかった。
 目はその動きを捉えていたと思う。
 しかし、自分の予想と実際の動きの余りに大きな乖離が、それを「認識」することを妨げた。
 床の砕ける音、自分の体の目の前で踏み抜かれる軸足。
 砕けた床の微小な破片が宙を舞うさまが、スローモーションのように目に映る。
 その緩やかに流れる時の中でさえ、男の体が静止したのは、刹那と呼ぶにも短すぎる時間でしかなかった。
 一瞬の静寂と空白。
 その時、何故、自分が体を後ろへ動かそうとすることができたのか、それは今でも分からない。
 後ろへ飛びすさろうとする体の何倍ものスピードで、肩から背中を使った渾身の体当たりの一撃を叩きつけられ、俺は再び宙を舞った。
 ロジータが言うところの、ワイヤー・アクションだ。
「それはそうと、涼権、今日の予定は?」
 煙草の箱の端を指で叩きながら、ロジータが尋ねる。
 往々にして大らかなイメージを他人に与える彼女だが、煙草に関してはこだわりがあるらしく、アメリカン・スピリット一辺倒だ。その名前を、いつもヤンキー・スピリットと呼び続けているのも、こだわりの一つらしい。もっとも、ジャックに言わせれば彼女のそれはこだわりではなくわだかまりなのだそうだが、その辺の細かい事情は、俺には分からない。
「知っているくせに聞くなよ。午前中はロジータと射撃訓練。午後はジャックの爆発物処理の講義だ」
 基本的に、陸の上に帰ったときは休暇ということになっている。
 その筈なのだが、俺の場合は色々と能力的に不足な点が多いため、休暇の時間も大体訓練が割り当てられている。もっとも、俺を訓練する側も休暇返上で付き合ってくれているので、そのことについて余りとやかく言うこともできない。
「それなんだけどね、今日、ちょっと買い物に行きたいのよ。それで、荷物持ちを絶賛募集中」
「訓練はどうするんだ?」
「もちろんやるわよ。今すぐ朝食を食べて、十時前には終わらせましょう」
 勤勉なことだ、と心の中で溜息を付く。
 スペイン語圏の人間は昼寝シェスタを日々の慣習とするのんびりした民族であるという漠然としたイメージがあったのだが、こと彼女に関しては、そのイメージが必ずしも当てはまらない。
 俺は息を吐くと、馬歩の姿勢を解き、固まっていた体をほぐすようにゆっくりと背筋を伸ばした。
 側に置いてあった小さな鞄を引き寄せ、中に入っていたショルダーホルスターを身に付ける。
 右脇には、予備弾倉スペアマグが二本。
 バッグの奥からマガジンを抜いた拳銃を抜き出し、スライド全体に掌を被せるように手を載せ、一息にスライドを後退させる。スライドを引き切ったところでスライドストップを掛け、チャンバーが開いた状態でスライドを固定した。
 チャンバーを覗き込み、さらに人差し指を突っ込んで、チャンバー内に弾が残っていないことを確認する。
 スライドストップを親指で解除すると同時に、乾いた金属音を立ててスライドが元の位置に戻った。
 銃口を床に向けて空撃ちし、ハンマーを下ろす。それからマガジンを銃に叩き込んで、銃をホルスターに収めた。
「まだ、チャンバーに弾は入れられない?」
 からかうような、ロジータの声。
 俺は即答を避けると、紫外線避けの紺色のジャケットを羽織り、同じく紫外線避けの度無しの眼鏡を掛けた。見た目は無色透明だがレンズに紫外線吸収剤が含まれており、紫外線遮蔽効果は高い。
「暴発したら、危ないだろうが」
「いざってときに弾が出ない方が、よっぽど危ないと思うけど? 敵は、スライドを引いて弾を込めるまで待ってくれないわよ」
 この辺が、感覚の違いという奴だろうか。
 ロジータはチャンバーに弾を装填した状態でハンマーをフルコックにして、サム・セーフティを掛けた状態で銃を持ち歩いている。いわゆるコンディション・ワンとかコック&ロックなどと呼ばれる携帯方法で、セーフティを外せばすぐに射撃態勢が整うというメリットがある一方、暴発の危険性も高い。
 このため、彼女はコック&ロックでの携帯を前提としたホルスター、スライド後端のハンマーとファイアリング・ピンとの間にストラップが掛かる構造のものを愛用している。携帯中、不意にハンマーがリリースされてもストラップがハンマーの前進を抑止する造りになっている訳だが、だからといって自分が真似しようとは思わない。正直、昨今では流行らない携帯方法だ。
 そもそも、使っている銃からして古臭い。俺に渡された銃は相当に使い込まれた中古品で、間違いなく前世紀から使用されていたものだと確信できる。
 コルト・ガバメント。正式名称をM1911A1というその銃は、その名が示す通り一九一一年に米国陸軍が制式採用した軍用拳銃だ。銭形警部ルテナント・ゼニガタが使っている銃だぞ、とジャックは説明してくれたが、あいにくその名前には聞き覚えがなかった。
 ロジータが語るところによれば、ガバメントはその誕生から幾つかの仕様変更が為されたものの、基本的な設計は現在に至るまで変わっていない。.45ACP(Automatic Colt Pistol)という当時としては破格的に強力な銃弾を使用するこの銃は、「ポケット砲兵」「スタンダード・マンストッピングパワー」などという通称と共に、市場に広く受け入れられた。
 米国陸軍は一九八五年に制式拳銃をベレッタに変更したが、ガバメントは各種特殊部隊や民間の市場、特に米国市場の一部で未だに根強い人気があり、その誕生から百年以上経った今でも使われ続けている。
 もっとも、とうの昔に特許が切れたこの銃は数多くのメーカーからコピーモデルやカスタムモデルが製造されている。元祖であるコルト社は一般市場から撤退して久しく、俺が使っているこの銃も、コルト社純正のものではなくアルゼンチン製のコピー銃だ。
 この銃を俺に渡したのはロジータだ。
 彼女の持論によれば、佳い女とタフな男は .45――四十五口径の銃が似合うのだそうだ。
 そんな彼女の愛銃も当然に .45であり、キンバー社のカスタムガバメントを使用している。『神様は私達を平等にお作りになったわ。私と奴等を対等にしてくれたのは、サミュエル・コルト様よ』などと普段からうそぶいているだけに、可能ならばコルト社の純正ガバメントが欲しかったのかもしれないが、売っていないものは仕方がない。
「前みたいに無闇に重たい物を運ばせるなよ。こっちは、午後もジャックの講義があるんだ」
「それは買い物に行ってみないことには何とも言えないわね。涼権は力持ちだから、ついつい当てにしちゃうんだけど」
 そう言って、くすりと小さな笑みを浮かべる。
 艶やかな蜂蜜色の肌、肩の上で切り揃えられた黒髪。彫りの深い、目鼻立ちのはっきりした整った顔立ち。
 この時ばかりは、美人に慣れていて良かったとつくづく思う。
 大概の男であれば、ロジータのこの笑顔を向けられれば、大概の頼みは無条件で引き受けてしまうだろう。
 いや、俺も結局は、従ってしまってはいるのだが。
「地球の裏側に来てまで、年上の女にこき使われるのか……」
 面白くもない話だが、何やら宿命というか運命というか、そういう星の下に生まれついてしまったかのようにすら思えてくる。
「何か言った、涼権?」
「いや、何でもない」
 日本語で呟いた俺の独白を聞き咎めたロジータの視線を、軽く手を振って振り払う。
「そう嫌そうな顔をしないの。昼食は、私が奢ってあげるから」
 ロジータはそう言って、吸い始めたばかりの二本目の煙草を俺の口元に咥えさせた。
 ほとんど反射的に、それを咥えて紫煙を肺の中に吸い込む。
 当たり前のことだが、潜水作業中はもちろん、その後の長い減圧時間中も煙草を吸うことはできない。
 だからこそ、仕事明けの一服は格別だった。
 それは平穏の象徴、自分が生きて還ってこれたことの、証だったからだ。

 

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