待ち合わせの場所、宿舎の二階のロビーに入ると、そこには鉛筆を片手に本を覗き込むジャックの姿があった。 大方、いつもと同じくクロスワード・パズルに取り組んでいるのだろう。 ジャックはこの手の遊びが好きで、減圧室にもクロスワード・パズルを始めとするさまざまなパズルの本や雑誌を持ち込む。確かに、省スペースの割には長く楽しめ、効率的と言えなくもない。 俺とジャックはまず待ち合わせの時間に遅れることはない。だから、大体はこうしてロジータを待つことになる。俺もジャックも、自分が遅刻するのは御免だが、他人の遅刻には鷹揚なタイプなので喧嘩にはならない。 それに、外出前の女には色々準備が必要であることを、田中家で過ごした日々で俺は学んでいた。 ちらりとこちらを見たジャックに軽く手を上げて応え、手近な椅子に腰を下ろす。携帯型のミュージック・プレイヤーのヘッドホンを耳に差し込み、ランダムに曲を演奏させ始めた。 |
海をきれいに 長峰 晶 |
耳元に優しく響くアルトの歌声に、目を閉じて耳を傾ける。 何曲かが過ぎた後、ひどく聞き覚えのある曲が流れてきた。 Your arms held a message tender. Saying I surrender all my love to you. ――君は手に優しいメッセージを携える。私の愛、総てはあなたに捧げると。 Midnight brought us sweet romance. ――真夜中は私達にもたらす、甘美なロマンスを。 その曲に耳を澄ませようとしていた矢先に、ばたばたとした忙しない足音がノイズとして割り込んだ。 小さく溜息を付いて、プレイヤーのスイッチを止める。 「お待たせ、涼権、ジャック」 「まだ待ち合わせの時間から五分しか経ってない。ロジータにしては、早い方だな」 「……もうちょっと、他に言うことはないの?」 ロジータはわざとらしく首を振ってみせる。 多少偏見が入っているかもしれないが、コロンビア人の男というのは女と見たら声を掛けずにはいられない人種だ。そんな環境で育った彼女としては、多少なりとも着飾った自分を見て最初に掛けられた言葉が遅刻に関するものだというのは、余り面白くないことなのだろう。 適当な褒め言葉を探して、ロジータの立ち姿にざっと目を走らせる。 落ち着いた色合いのベージュのタイトスカートに、飾り気の無い白のノースリーブのカットソー。 アウターには、適度にウェストがシェイプされた細身の黒のサマージャケット。やや丈が短く、コンパクトな印象を与える。スリットの入った袖口を折り返しているので、余計にその印象が強い。 おそらくはボタンを留めた方がスタイリッシュに見えるであろうワンボタンジャケットだが、ボタンは留めていない。 銃が抜きにくくなるからだ。 同じ理由で、俺もジャケットのボタンを留めていない。 全体的に装飾が控え目の装いにワンポイントを加えるためか、首元にはシックなペンダントが掛けられている。良く見れば、右手の薬指には指輪も嵌められている。 デザイン的には割とシンプルな服装だが、彼女の収入と買い物のたびに投入される資金から判断するに、身に付けている一つ一つが素材からかなり厳選されたものだろう。ただ、残念ながら素人の俺が見てもその辺は見分けが付かなかった。 「……良いセンスだな」 上から下まで眺め渡して、出てきた台詞がこれだ。 自分でもちょっとどうかと思ったが、ロジータは満足げな笑顔を返してくれた。 こういうことは気持ちが大事だというのが彼女の持論で、多少の表現の不器用さは許容範囲に収まるらしい。 ほっと息を付いた俺の視界の端に、パズルの本を閉じて大きな体を椅子から浮かせたジャックの姿が映った。 今の俺は武とほとんど変わらないくらいにまで身長が伸びているが、ジャックはさらに大きい。並んで歩くと、明らかに見上げる形になる。身長相応に大きなジャックの手が、どうしてあれだけ繊細かつ精密な動きができるのか。世界には謎が尽きない。 ジャックを先頭に、宿舎の外に出た。 俺達が陸の上で住む宿舎は、ブエナベントゥラに建てられている。この都市は、コロンビア西部の太平洋岸の港湾都市であり、ブエナベントゥラ湾のカスカハル島にある。鉄道、高速道路、航路を有するコロンビアの貿易の拠点であり、周辺地域から産出されるプラチナ・金・銅の加工センターでもある。 このような立地環境から元々それなりに栄えていた街なのだが、ここ数年の海底油田開発で、街全体の活気がさらに増している。お陰で、飲食店などもかなり充実しており、生活に不自由はしない。ただし、さすがに日本料理を求めるのは相当に困難だ。 「涼権、何を聴いていたの?」 横を歩くロジータが、俺の耳に差し込まれたままのヘッドホンのコードを軽く引っ張る。 「プレイヤーの中に入ってる曲を、ランダム再生。ロジータが来たときは、『真夜中、星と君と共に』が掛かってた」 「……随分と、渋い選曲ね」 「昔の同僚が、この曲を気に入ってたんだよ。その影響さ」 建設中のLeMU、ドリットシュトックで働いていたかつての日々。 ほんの一年半前のことの筈なのに、何故だか随分と遠い過去の話のように思えた。 意識の一部が、過去に引きずられる。 聴きかけていた曲の歌詞の続きが、過去の記憶と共に頭の中に浮かび上がってきた。 I know all my whole life through, I'll be remebering you. ――わかるんだ、これからの一生、君の事を覚えているよ。 Whatever else I do. ――たとえ何が起ころうと。 そう、この先何が起ころうと、忘れることなどありはしない。 ココ。 武。 二人を助けるためならば、何を失っても惜しくはないと、そう誓った。 この契約にクーリングオフはきかない。後戻りできるチャンスは、既に無くしてしまった。 俺と優は、これからの十五年間も、この契約の代価を支払い続けなければならない。 たとえそれが、どれほど高価なものであろうとも。 ふと、左脇に吊り下げた銃の重みに、意識が吸い寄せられた。 生き残りたければ撃て。可能な限り近くから、可能な限り多くの弾を。 ここへ来て数日も経たないうちに、ジャックから言われた言葉だ。 幸い、まだ一度も銃撃戦に遭遇したことは無い。 だが、もしもそんな事態に巻き込まれたら……? 俺は歯を噛み締めて、胸の中に湧いた苦いもやもやとした思いが溢れ出しそうになるのを堪えた。 何を今さら、だ。 契約の代価は、支払い続けられなければならない。 クーリングオフは、もうきかないのだから。 今日の夕食は、リブとチョリソーをメインに、ジャガイモとトマトを中心としたたっぷりとしたサラダが付いていた。チョリソーは日本で売られているフランクフルトの二倍以上の大きさで、数年前ならとても食べ切れなかった筈の量だが、今の俺にはどうということもない。 体格が大きくなったせいもあるが、キュレイウイルスにより作り変えられた肉体が、より多くのカロリーを消費するようになったということもあるのだろう。人並み外れたパワーとスピードを維持するためには、それ相応のエネルギーの供給が必要だということだ。 もっとも、無茶な体の動かし方をしていなければエネルギーの浪費は抑えられるので、自然、食べる量も控え目にすることができる。まあ、それでようやく人並みと言うところなのだが。 幸いにしてコロンビアは物価が安いので、これだけ食べてもさほど経済的な負担にはならない。 俺は目の前の皿をすっかり空にすると、ウェイトレスに声を掛けて、食後のコーヒーを頼んだ。 コロンビアは世界有数のコーヒーの産地だが、不思議なことに、普通の店に入ってもさしてうまいコーヒーには巡りあえないのだそうだ。この店のコーヒーは、ジャックとロジータが共に絶賛している数少ない例外の一つだ。 正直、コーヒーの味はいまだに良く分からないのだが、ここへ来てようやく俺はコーヒーをブラックで飲むようになった。 ここのコーヒーにミルクと砂糖を入れるのは冒涜だ、とジャックが珍しく強硬に主張したこともあるし、ロジータにさんざん子供扱いされたのも一因だ。 最初は苦いだけとしか思えなかったが、このところ、ようやく味や香りを楽しむ余裕が出始めている。 何事も、経験ということだろうか。 「涼権、駄目じゃない、ぼうっとしてちゃ」 「……何のことだ?」 「今コーヒーを持ってきたウェイトレス。彼女、絶対、あなたに気があるわよ。あの視線、感じなかった?」 「確率九対一でロジータの勝手な思い込みだ」 「そんなことないわよ。試しに、声を掛けてみなさいよ。私が正しかったってことが分かるから」 「俺に何のメリットもない提案だと思うが」 「陸の上にいられるのも後、ほんの数日よ? 楽しい一夜が過ごせる貴重なチャンスじゃない」 その露骨な物言いに何も言う気になれず、黙然とコーヒーを啜った。 楽しい一夜か、と心の中で苦い呟きを漏らす。 日本を離れるにあたって、当然のことながら家主の高原医師とひと悶着があった。なにせ向こうにしてみれば、貴重な研究サンプルが海外逃亡してしまうのだから、無理からぬことだ。 とはいうものの、まさか鎖で繋いで監禁する訳にもいかない。 不承不承ではあったが、高原医師は俺がコロンビアへ出稼ぎへ行くことを受け入れ、多少の嫌味混じりの忠告を与えてくれた。 「コロンビアか。南米美人達と遊んでくるのは結構だが、予防措置は忘れないようにした方が良い。年長者としておよび医師としての忠告だよ」 「俺は仕事で行くんだ。大体何だ、予防措置ってのは」 うんざりとした口調で言い放った俺の返事に、高原医師は無言で肩を竦めてみせた。 彼の困惑は理解できる。 ほんの数日会わなかっただけの人間が、いきなり一人称も言葉遣いもまるで一変してしまっていたのだから、戸惑わない方がおかしい。 だが、今さら元に戻すつもりも無い。 「避妊具とかね。性交渉は、互いの病原菌の交換にはとても効率の良い行為だよ。君だって、別に感染者を増やしたい訳じゃないんだろう?」 「……キュレイウィルスは感染、発症がしにくいって、誰かが言っていたように記憶してるんだが」 「『かもね、でも、確率はゼロじゃない。あなたにとっては危険な賭けになるよ』……と、誰かが言っていたね」 ぐうの音も出なかった。 改めて、自分の体がどれほどのリスクを抱え込んだのかを思い知らされた気分だった。 こんな有様の人間に、楽しい一夜などが訪れる筈も無い。 「涼権、ちゃんと人の話聞いてる?」 「え?」 「え、じゃないわよ。やっぱり聞いてなかったのね」 「明日の予定の話だよ。午前中、暇ならホバーの整備を手伝って欲しいんだが、って話をしてたんだが」 呆れ顔のロジータをとりなすように、ジャックが口を挟む。 この場での最年長でありチームのリーダーだけあって、場を取り持つのが上手い。ちなみにこの三人の年齢差は、俺とロジータが大体十歳差で、ロジータとジャックが同じく大体十歳差だ。これだけ年齢差があると、俺などは掌で転がされているような感があるが、ジャックの人柄か、不快な感じはしない。 「分かった。特に予定は無いから、手伝うさ」 話を聞き流していた後ろめたさもあって、俺は即答した。 普段さんざん世話になっていることを考えれば、その程度のことは何ほどでも無い。 それに、ホバーことホバークラフトは、掃海作業の際には非常に重要な役割を果たす機材だ。機雷は通常、金属反応や、金属の船底とスクリューの回転が生み出す磁力線などを感知することで作動するので、大型船では機雷のある地点まで近付くことができない。 このため、長期戦が予定される現場での作業の際は、ホバーで予備のボンベ等の各種機材を運搬し、下で待ち構えているダイバーに荷降ろしをすることになる。俺達は三人一組のチームなので、通常、二人が先に海中に潜り、ホバーでの荷降ろしを済ませた上で残った一人が後から追い掛けて潜ってくるパターンが多い。そして、ホバーが運ぶ予備のボンベは、俺達にとってはまさに生命線そのものなのだ。 「折角の休み、それも陸の上だっていうのに、二人とも枯れてるわね。ジャックは中年だから仕方ないにしても、涼権なんてまだ若いのに」 「あのな、ロジータ。まだ四十前の男を中年と呼ぶな」 そう呟いたジャックは、おそらくはかなり不本意そうな表情だったのだろうが、髭とサングラスに隠されたジャックの表情は読み取りにくかった。その髭の量は、トランプの絵札で言うならば、間違いなく「ジャック」ではなく「キング」だ。 その髭も、サングラスも、全身を覆う火傷を隠すためだ。 三ヶ月も同じチームで働いていればさすがに見慣れるが、初対面のときにはぎょっとしたし、着替えの際にシャツを脱いだジャックの上半身を初めて見たときには、思わず目を逸らしてしまった。 それはもう、体にガソリンをかぶって焼身自殺でも図ったのではないかと思わせるほどの凄惨な有様なのだ。正直、これだけの火傷を負って良く生きていたものだと思う。 さらに利き手である左手の甲、薬指と小指の間には、火傷とは異なる醜い傷跡が残っている。 それだけの傷を残す怪我だけあって、本人は何も語らないが、どうやら多少の障害があるらしい。それでもなお、ここに集まった数多くのダイバー達の中でもトップクラスの力量を誇っているのが、ジャックの凄いところだ。 「何だ涼権? じろじろこっちを見て」 「何でもない。気にしないでくれ」 軽く肩を竦めて、ジャックから視線を外す。 ジャックの発音は的確だ。日本人はLとRの発音が下手だと言われるが、俺に言わせれば少なくとも英語圏とスペイン語圏の人間は、日本語のラリルレロが上手く発音できない。だから、俺の名前はリオとかライオとか、とにかく「涼権」とは普通には聞こえない発音で呼ばれる。 唯一、ジャックだけが俺のことを正しく「涼権」と呼んでいた。 本人の言によれば、昔、日本人と一緒に働いていたことがあるらしく、その関係で多少日本語をかじったらしい。その日本人が男か女かは知らないが、きっと、彼にとって大事な人間だったのだろう。今のジャックは、かなりの日本びいきだ。顔も名前も知らないが、そのジャックのかつての同僚に、俺はひそかに感謝をしていた。 |
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