遠く地球の裏側で、親日派の同僚を持てたことを心の中で誰にともなく感謝しつつ、俺は黙然と黒い液体を啜る。
 舌の上に広がる苦味の中に、かすかな酸味が感じ取れた。
 これはこれで悪くない、と心の中で呟きを漏らす。
「ロジータ。涼権とは、午前中は射撃訓練をやってたんだよな。少しは上達してるのか?」
「あ、それは心配しなくて大丈夫。前に言った通り、涼権はかなりセンスがあるから。先生が良いっていうのもポイントが高いわ」
「自分で言うか、普通?」
 目の前の二人のやりとりをぼんやりと聞きながら、幾つも絆創膏が貼られた自分の両手に視線を落とした。
 銃の撃ち方を習うのは初めてだったので比較のしようがないが、おそらくロジータの教え方は結構ハードな方だと思う。
 とにかく撃ちまくらせる。
 最初は両手で打たせてもらえるが、そのうちに片手ずつになる。銃を繰り返して撃つこと自体も相当に消耗するが、七連発のマガジンにその都度弾を込めるのも一苦労だ。お陰で毎回、訓練が終わると親指が真っ赤に腫れ上がることになる。

海をきれいに
                              長峰 晶


2019年6月 春香奈 二十歳  桑古木 十七歳

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「やっぱりバランス感覚って大事よね。涼権の場合、弾数増やしてもバランスが崩れてこないから、安心して撃たせ続けられるわ」
 こんなところで馬歩の効用が出てくるとは思わなかった。
 丸三ヶ月、延々とあればかり繰り返していれば、いやでもバランス感覚は身に付く。
 弾を込めてLoad your firearm……準備は良いAre you ready
 サー、イエス、サー。
 良しGood……撃ってFire
 何度も何度も繰り返したやりとりが、耳の奥にこびりついている。
 射撃場だけに、周囲の人間もバカスカ撃ちまくっているのだが、そんな中でも不思議とロジータの声は容易く耳に届いた。
 これも、ある種の才能なのかもしれない。
「そんなに撃たせてるのか?」
「それはもう。それなりの腕があるってことは認めてもらえたから、最近じゃ連射しても係員がすっ飛んでくるようなことはなくなったわ。バランスが良いから、片手撃ちでがんがん撃ちまくってもきちんと集弾グルーピングさせられるわよ」
「待て。反動リコイルを変に受け流す癖を付けさせると後で厄介だぞ。実戦でジャムったら目も当てられない」
 ガバメントはセルフローディング・ピストルというタイプの銃だ。火薬を爆発させたエネルギーで弾を射出する一方、火薬の燃焼ガスを利用してスライドのロックを解除すると同時にスライドを後退させて、排莢および次弾の装填を行う。
 この時、銃撃の反動を受け流そうとして銃口を跳ね上げたりすると、スライドを後退させるための運動エネルギーを消費してしまい、排莢しそこねたカートリッジがスライドに噛み込まれたりする。
 これがいわゆる「ジャム」と呼ばれる現象で、程度が軽ければスライドを強く引くだけでカートリッジを除去できるが、ひどいときには隙間にカートリッジががっちり噛み込んで銃が全く使えなくなる。いずれにせよ、実戦では致命的だ。
「誰が教えてると思ってるの? そんなぬるい撃ち方、させるもんですか。最初の頃はともかく、今の涼権は反動を総て腕でがっしり受け止めて、全くもってジャム知らずよ」
「.45ACPの反動を、片手でか? それも、連射で」
 やや呆れた表情で、ジャックは俺とロジータに等分に視線を向ける。
 その気持ちは分からないでもない。.45ACPの威力は多くの人が認めるところだが、その反動の強さはさらに広く知れ渡っており、米国および中南米以外の市場ではほとんど受け容れられていないのだから。
 キュレイウイルスの影響を受けていなければ、こんな撃ち方は到底できなかった筈だ。そう考えると、悪いことばかりでもない。
「タフだな。マイク・ハマーだ」
「誰だ、そいつは」
「二十一世紀生まれの涼権は、分からなくても仕方ないわね」
 楽しそうに笑った後、ロジータはその名前が二昔前のペーパーバックに出てくる私立探偵の名前だということを教えてくれた。チームをまとめるのはジャックだが、ジェネレーション・ギャップはいつもロジータが埋めてくれる。
「しかし、それだけ射撃のセンスが良いなら、ライフルも試してみるか? 陸の上ならともかく、海の上ならライフルじゃないと意味が無いしな」
「そうなのか?」
「テロリスト達の主兵装はアサルトライフルだぞ。揺れる海の上、ってことを考えたら拳銃は三十メートル離れたら当たらない。ライフルなら、腕にもよるが百メートル先からでも当てられる」
「なるほど」
「それに奴等は船を止めるにはRPGを使う。こいつの有効射程は三百メートルだ」
「RPG?」
 何故ここでロールプレイングゲームが出てくるのだろうか。
 俺はヒアリングをしそこなったのかと思って、思わず聞き返した。
「ロケットランチャーだよ。Rocket Propelled Grenadeの略さ。この前、『ランボー』のシリーズは一通り観せただろ?」
 俺は無言で頷く。
 深々度潜水を行った後の減圧時間は長く、減圧室に備え付けられた娯楽は少ない。お陰で、この数ヶ月の間に俺は数え切れないほどの映画を観ていた。ただし、日本語字幕が無かったので、内容を正確に把握できていたかと言われるといささか心許ない。
「あのシリーズ第二作のタイトル画面で、ランボーが持ってた奴がRPGだよ。オリジナルはロシア製なんだが、俺達はユダヤのバズーカと呼んでる」
「何でまた」
「そりゃあれだ、形が割礼した……」
「レディの前よ。礼節は守って欲しいわね」
 ジャックは最後まで台詞を言い終わることができなかった。
 南米のツッコミは肘を鳩尾に抉り込むように、が基本らしい。なかなかハードだ。
 こちらまで飛び火したら洒落にならないので、俺は何事もなかったようにコーヒーの残りを啜り、心の中で手を合わせた。
「涼権にライフルは向いてないわよ。やめておきなさい」
「何でだ? 別に是が非でも習いたいって訳でも無いが、ジャックはライフルに関しては名人級だって聞いてるぞ。教えるのも上手そうだし」
 これは間違いないと思う。
 少なくともここしばらく爆発物処理についてはみっちりしごかれているが、ジャックの教え方は実に上手い。根気があるし、教え方は論理的で明確だ。
 ライフルの腕の方も、相当なものだ。
 射撃術のことを英語ではマークスマンシップと言い、二級射手はマークスマン、一級射手はシャープ・シューター、特級射手はエキスパートと呼ばれる。
 ラプラシアン・エージェンシーの基準によれば、一級射手と認定される必要条件の一つは、百メートル先の標的に三発打ち込んだときの集弾グルーピングが、常に十セント硬貨ダイムの大きさ、すなわち直径十八ミリの円に収まることだ。ダイムグループができるかどうかが、一流の狙撃手とそうでない者を分ける一つのポイントなのだという。
 そしてジャックは、ラプラシアン・エージェンシーが認定する数少ない特級狙撃手エキスパート・オブ・スナイパーの一人だった。
……テーブルに突っ伏してげほげほ咳き込んでいる今の姿からは、想像も付かないのだが。
「肝心なことを忘れてるわよ、涼権。あなた、円形のターゲットなら正確に狙えるくせに、マンターゲットだとさっぱり当たらないじゃない。そんな人間が、スコープで人に狙いを付けて撃てると思う?」
「まあ、無理だろうな」
「そういうことよ」
 そう言って溜息を漏らすロジータに、ジャックが咎めるような視線を投げ掛けた。
 ロジータが知らん顔をしてあさっての方向を向いてしまったので、ジャックはこちらに顔を向ける。頬の辺りにちくちくとした視線を感じつつ、俺は三杯目のコーヒーを頼むかどうか思案しているような表情を顔に浮かべ、メニューのドリンク欄に目を落とした。
 円形のターゲットなら、かなり問題なく当てられるようになっていた。距離が十五ヤードを越えると怪しくなってくるが、これは銃そのものがオンボロだからだ。
 問題は、人の形をした標的マンターゲットだ。
 黒い人型の標的もさることながら、人の写真が標的になったら、もうまともに当たらない。
 実際的で、より効率の高い訓練が行える筈のマンターゲットだが、こと俺に関しては何の役にも立たない。
 なにせ、マンターゲットに狙いを付けた途端に銃口がまるで定まらなくなるのだから、どうにもならない。
 理由は自分でも分かっている。
 怖いのだ。
 自分の手の中にある銃が、人を殺すための武器であることを認めることが、たまらなく怖かった。
 銃を持つまでは、その恐怖を感じることができなかった。
 正直に言えば、実際に撃ち始めてしばらくの間は、ゲーム感覚で標的を狙っていた。
 だが、人型の標的をフロントサイトとリアサイトの先に捉えたその時――頭で考えるより先に、体が震えた。
 以来、マンターゲットにはろくに狙いが付けられていない。
 ロジータにはかなり根気良く指導してもらったのだが、射撃場の天井に穴を開けて係員がすっ飛んでくるに至り、さすがに匙を投げられたという次第だ。
「あのな。マンターゲットに当たらないんじゃ話にならないぞ。何が『心配しなくても大丈夫』だ」
「……円形のターゲットなら、かなり良い精度で当ててるわよ。それこそ銃そのものの精度の限界に近いくらいに。そこについての上達は大したものだと思うわ。マンターゲットが当たらないのは心理的な問題なんだから、それさえ解決すれば問題ない筈よ」
「素晴らしい。で、その心理的な問題が解決するのはいつなんだ?」
 ジャックの口調に、やや棘が混じる。
 ロジータは軽く両手を広げて、肩を竦めてみせた。
 数秒ほど沈黙が続いた後、申し合わせたようなタイミングで二人は俺の方に体ごと向き直った。
「涼権、俺達は伊達や酔狂でお前に射撃を仕込んでる訳じゃないぞ。そこのところは、分かってるのか?」
「まあ、それなりには」
 曖昧な頷きを返す俺に、質問をしたジャックではなく、ロジータの方がわざとらしい溜息を付いてみせた。
「分かっているなら何とかすることだな。いざというときに、お前が撃たなきゃいけないのは円形のターゲットじゃなくて、銃を持ったテロリスト達だ」
 ジャックの口調は、真剣そのものだった。
 プロジェクト黎明期からのメンバーで実力的にもトップクラスのジャックは、ダイバー仲間の間では一目も二目も置かれる存在であり、同時に、テロリスト達の標的リストのかなり上位の方にランクしていた。
 連中にしてみれば、折角撒いた筈の機雷のことごとくをジャックに撤去されているのだから、その気持ちも分からなくはない。
 ジャックと同じチームにいる以上、テロリスト達の襲撃を受ける可能性はぐんと跳ね上がる。実際、過去にジャックは何度も襲撃を受けたらしいが、その総てを排除してきたのだという。
 ジャックは護身用の武器として、銃だけではなく閃光手榴弾や対人用手榴弾まで持ち歩いている。後者は金属片を抜いたり火薬量を減らしたりして威力は減殺していると聞いたが、それにしても普通は個人が持ち歩くようなものとは思えない。
 考えてみれば、地上海上を問わず四六時中爆発物と密着した生活を送っている訳で、良く精神的に参らないものだと俺は常々感心していた。
「涼権、その時が来たらお前に迷っている時間はない。その瞬間に躊躇すれば、お前は格好の的になるだけだ」
 ジャックの言葉に、俺はまたも曖昧に頷いてみせる。
 余り考えたくないことではあるが。
 もしかしたらミズ・ポートマンは、ジャックの弾除けとして俺をこのチームに配属したのかもしれない。
「そうよ、涼権。あなたはまだ死ぬには若すぎる歳だわ。その時が来たら、撃たなきゃいけない。――後悔するかもしれないし、自分をひどく責めることになるかもしれない。でもそれも、生きていればこそよ」
 俺は即答を避けるために、懐から煙草を取り出して口に咥え、それに火を点けた。
 息と共に紫煙を大きく吸い込んで、長く深くそれを吐き出す。
 空になったコーヒーカップの端を、軽く指で弾いた。
「俺については、その辺の心配はしなくて良い」
「どうして?」
「俺は、死なない」
 俺の返事を聞いたロジータは、ああもう分かってないんだからと小声で呟いて首を振り、ジャックは処置なしというように肩を竦めてみせた。
 だが、分かっていないのはロジータ達の方だ。
 俺は死なない。より正確に言えば、死ねない。
 体を構成する細胞は少しずつキュレイウイルスに書き換えられ、人ではないものに変わろうとしている。
 正直、銃で少々撃たれたぐらいで死ねるものなのか、自分でも分からなかった。
 ティーフブラウウィルスの災禍を、二度までもやり過ごした。
 二〇一七年のLeMUでの事件も、再建途中でのLeMUでの事故も、俺が記憶を喪うきっかけになったと聞かされている事故も、俺の命を奪うことはできなかった。
 それらの出来事を経て、俺は今ここにいる。
 その間に、俺の周りでは何が起こっただろう。
 ココと武はIBFに取り残され、今なお、救い出すことができない。
 つぐみは武を喪い、現在もライプリヒに追われ続けている。
 空はテラバイトディスクに焼き付けられたデータだけの存在になった。そのデータを書き戻す機会が、空の意識を取り戻す機会がいつ得られるのかは、全く目処が立っていない。
 再建途中のLeMUでの事故に巻き込まれた湊は危うく死にそうな目に遭い、二度と職場に戻ることはなかった。
 ティーフブラウの災禍は田中先生の命を奪い、優は秋香奈と二人きりになった。
 俺の家族は、既にこの世にはいない。
 俺は思う。
 この世界は明らかにどこか間違っていて、そしてどうしようもなく不公平なのだと。

 

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