――― Date: Tue 24 June 2019 17:50 (EST)     Place: Colombia

 六月の下旬になった。
 俺は減圧室の中で誕生日を迎え、一つ歳を取っていた。
 ジャックとロジータは何やらパーティーめいたものを画策していたようだが、数多くのスタッフが緊密な関わりを持って動くプロジェクトの中では、ダイバー達の都合だけでスケジュールを動かすことができず、パーティーは次の仕事明けまで延期となった。
 ロジータはそれをしきりに残念がっていたが、男の誕生日なんてものは、この歳にもなると特に祝うほどのものではないように俺には思えた。ジャックにそうこっそり打ち明けたところ、十代まではまだ楽しいだろう、という返事が返ってきた。
 ジャックによれば、誕生日は十代まではほぼ無条件に楽しく、二十代辺りから嬉しさ半分、それ以外の成分が半分位になり、三十代になると段々忸怩たる思いを抱くようになるのだそうだ。

海をきれいに
                              長峰 晶


2019年6月 春香奈 二十歳  桑古木 十八歳

- 7 -


「三十代でそれなら四十を越したら大変だな」
「どうかな。四十にもなれば、そんなことにも戸惑わなくなるかもしれないぞ。確かそんな諺が、日本にあっただろ?」
「それは日本じゃなくて中国だ」
 不惑。四十にして惑わず、だったと思う。孔子だったか孟子だったか、明確には覚えていないがそこら辺で出てきた言葉だった筈だ。
 それにしても、ジャックの知識ベースの広さには感心する。偏りもあるし、今回のように間違いも含まれているが、伊達に日本びいきを自称してはいないというところだろうか。
 そんなジャックとのやりとりをぼんやり思い出しながら、俺は大きくゆっくりと自分の首を回して、強張った首から肩に掛けての筋肉をほぐした。
 普段なら港に着くまでの帰路はずっと減圧室で減圧時間を過ごしている筈なのだが、今回は陸に戻り次第すぐに延期していたパーティーを開催したいというロジータの意向により、仕事の後半は深度の浅いところにのみ作業を限定していた。どうやらその辺が、プロジェクトの進捗とダイバー達の都合の妥協点だったようだ。
 減圧時間は二日と掛からず、俺は珍しく船内の自室で陸地への到着までの時間を過ごすことになった。もっとも、自室といってもロジータとの相部屋だ。夜になれば頭のすぐ上、二段ベッドの上段で、寝返りを打つロジータの気配が時々感じられる。
 普通、二段ベッドは下段の方が寝心地はましだと思うのだが、ロジータは好んで上段を使用した。高いところが好きなのかもしれないし、一応は若い女性であるからして、多少なりとも外界とのハードルがあるところで就寝したいという思いがあったのかもしれない。四十五口径の銃をコック&ロックの状態で肌身離さず携帯している彼女に、邪な行為を働こうとする命知らずな輩がいるとはちょっと考えにくいのだが。
 俺はロジータと相部屋だが、ジャックは一人で部屋を使っている。
 ただし、その部屋は、ジャックの個人持ちの手榴弾を含む小型爆発物や、機雷処理に使う各種爆薬類の倉庫にもなっていたので、ジャックの環境が羨ましいとは到底思えなかった。
 腕時計に視線を落とし、自ら定めた休憩時間の終了を確認する。
 力を抜いてだらりと体の脇に垂らしていた腕を持ち上げ、両手を自分の胸の高さよりもやや下に持ってくる。カーテンを引いた二段ベッドの下段で胡座をかきながら、俺は再び機雷処理のイメージトレーニングを始めた。
 爆発物処理に必要なのは、奇跡や、その場でのとっさの天才的な閃きではない、とジャックは明言する。
 強いて喩えるならば、それは外科手術に近いのだという。
 外科医が先人達の培った知恵と経験に基づき最適な術式を選択してそれを実行するように、爆発物処理も行われるべきなのだとジャックは主張する。
 慎重に、それでいて大胆に。
 開頭した脳にメスを入れる脳外科医のように、切断された四肢の神経を繋ぎ合わせる整形外科医のように、動いたままオン・ザ・ビートの心臓に繋がる血管を縫合する心臓外科医のように。
 精密かつ正確な、それこそミクロン単位の操作を、滑らかにスピーディに行わなければならない。
 指先で原子を掴め。
 ジャックは俺にそう指導した。もちろん、実際にはそんなことは不可能であるのはジャックも俺も承知の上だが、要はそれ位の気持ちで、指先の感覚を研ぎ澄ませ、ということだ。
 高度に専門化された職人は、研磨された平板上の原子数個分の厚み斑を指先で感じ取るという。
 その域を目指しているものの、まだまだそこには到達できていない。
 ただ、指先をノギス替わりに使える位にはなった。
 今なら、誰かの指を少し触らせてもらえば、その指にぴったり合う指輪のサイズを正確に答える自信がある。
 まあ、そんなスキルを役立てる機会が今後俺に訪れるとは、まるで思えないのだが。
 目を閉じて、頭の中で処理し掛けていた機雷の形状をゆっくりとイメージしていく。
 その表面の僅かな凹凸の感触を、本来ならば手の中にある筈の工具の感触を、指先が感じ取るようになるほどに、何度も何度もイメージを重ね合わせる。
 外科医とサムライの力量は、人を斬った数で決まるとジャックは言う。
 剣道なら刀の代わりに竹刀が持てるが、外科医はそうはいかない。
 だから、彼等はシミュレーターや、そして何よりイメージトレーニングで自らを鍛え上げる。
 実際に斬った症例の、何倍ものイメージトレーニングを頭で繰り返し、彼等は成長していく。
 機雷処理も同じだ。
 この地道な積み重ねが自らの技量を向上させ、生存率を僅かずつ高めていくのだ。
 イメージトレーニングに没入していた俺は、周囲の状況がまるで気にならなくなっていた。
 体は船室にあったが、意識は自らが造り上げた水深五十メートル以深の海中にあった。
 だから二段ベッドのカーテンから引き開けられそこからロジータが顔を出したとき、俺は完全に不意を突かれて、声もなく固まっていた。
「…………、……!」
「何だって?」
 興奮していたのか、ロジータは随分と早口で、おまけに言葉にはスペイン語が多々混じっていた。
 おそらくは間の抜けた顔で問い返した俺に、ロジータは小さく息を吐いた。
 自分の髪を乱暴に掻き回し、言葉を繋ぐ。
「厄介な事態になったわ」
「だから、何が?」
「不審船が近付いてるの。何度呼び掛けても、応答しない。さっき、船内に第一級戦闘体制が敷かれたわ」
 不審船。第一級戦闘体制。
 それは最悪の事態の発生を意味していた。
 冷たい感触が胃の辺りからせり上がってきて、舌打ちすることさえできない。
 テロリスト達の、襲撃だった。


 ロジータには、救命胴衣を着て船室に引っ込んでいるように言われた。
 だが、船室の壁の厚みなどたかが知れている。
 ライフル弾の衝撃を何発受け止めてくれるかは分かったものじゃなかったし、船ごと沈められてしまえば船室にいようが甲板にいようが、大した差があるとも思えない。
 それに、幾ら救命胴衣を着ていたとしても、ここから陸までの距離は余りに遠い。
 救援部隊が来てくれるならともかく、自力で陸地まで辿り着ける見込みは相当に低いと自覚せざるを得なかった。
 足の震えを止めようと、太股を両手で叩く。
 それでも、震えは止まらない。
 船室と廊下を繋ぐ箇所の、ほんの僅かな段差に足をもつれさせそうになりながらも、俺は甲板に向かって歩き出した。
 俺は、死なない。そう思っていたし、それを言葉に出してすらいた。
 だけど、実際に死の危険が迫ってみれば、こんなものだ。
 自分と武との間にある、その隔たりのあまりの大きさに、苛立ちを通り越して怒りさえ覚えた。
 恐怖の一部が、怒りに塗り替えられる。
 自分自身への怒りに灼かれるのはとてもとても辛かったけれど、ここで震えて動けなくなるよりは、数百倍も数千倍もましだった。
 甲板に上がった。
 船員の何人かは船べりに位置し、船体で体を隠すようにしてライフルを構えている。その中には、ロジータの姿もあった。
 船の後部には、一門だけ重機関銃が据え付けられている。
 その銃座に一人が立ち、その側に弾帯を構えた一人がしゃがみ込んでいる。
 空気は緊張でぴりぴりと張り詰め、誰も無駄口を叩こうとはしなかった。
「ジャーック!! そこから奴等は狙えるか? 狙えるだろう?!」
 船員達に矢継ぎ早に指示を出していた船長が、ひび割れた怒鳴り声を上げる。
「船を止めてくれたらな。これだけ全開で飛ばされたんじゃ、この距離じゃ絶対に当たらないぞ」
 こんな時でさえ、どこか飄々とした口調でジャックが答える。
 ジャックは、操船室の屋上部分に当たる狭いスペースの上で、腹這いになってライフルを構えていた。
 無骨な大型のスコープと、弾の排莢と装填を行うためのボルトハンドル。
 射撃場なら百メートル先の直径十八ミリの円に三発の弾を叩き込む、ジャックの狙撃銃スナイパーライフルだった。
 だが、長距離射撃ではほんの僅かな手許の揺れが、着弾点での驚くほどの誤差につながる。
 揺れる船の上では、どれだけ体を静止させようとも正確な射撃は望むべくもなかった。
「向こうもライフルを構えてるな。やる気満々だぞ、連中」
 スコープを覗き込みながら、淡々とジャックが呟く。
 船長は開いた左手に右拳を叩き付け、再び船員達に指示を出し始めた。
 だが、俺には何も指示がない。
 銃器類は拳銃しか使えず、マンターゲットに狙いを付けることすらできない俺は、ここでは全くの戦力外だった。
 船室に引っ込んでいろ、と言われた理由がはっきりと分かった。
 俺は全くの無力だった。
 LeMUでのあの時のように。田中先生の最期を看取った、あの時のように。
 うなだれて、甲板に視線を落とす。
 その瞬間、耳元で何かが弾けるような鋭い音が聞こえた。
 一拍の間をおいて、遠くで打ち上げられた花火のような、弱々しい破裂音がそれに続く。
 初速が音速の二倍を越えるライフル弾は、近距離では銃声より先に、弾と衝撃波が到着する。
 それが、銃撃戦の始まりだった。


 甲板上に置かれていたドラム缶の陰に、咄嗟に身を隠す。
 そこにしゃがみ込んだまま、ただ状況を見つめることしかできなかった。
 状況が俺達にとって不利なことは、すぐに思い知らされた。
 テロリスト達の駆る船は、俺達のそれよりも小型で軽量で、速度においても操作性においても、明らかに上回っていた。
 火力も、明らかに違う。
 あくまで民間人の集まりである俺達は、基本的にはセミオートのライフルしか持っていない。対して奴等は、非合法であるフルオートのライフルを手に、惜しげもなく弾を撃ってくる。
 こちらにも例外的に船尾に重機関銃が一門だけ据え付けられているが、これだけでは状況を覆すほどの火力にはならない。
 圧倒的な火力差に、ライフルを構えていた船員達もたちまち物陰に身を隠してしまい、それは火力差の拡大にさらに拍車を掛けた。
 ロジータは果敢にも、身を乗り出して弾を撃ち続けている。
 だが、銃撃戦の興奮からかそれとも恐怖からか、彼女には周囲の状況が見えなくなってきていた。
 こちらの射撃手が、物陰に一人減り二人減りしていくうちに、次第にロジータへ攻撃が集中し始めていた。
 すぐに身を隠すか、最低でも位置を変えなければならない状況だった。
 そんな時、彼女の持つライフルの、最後の一発が発射された。
 ロジータは弾が出なくなったライフルに一瞬呆然とし、棒立ちになったままマガジンを交換しようとする。
 考えるより先に、体が動いていた。
 ドラム缶の陰から全速力で飛び出し、ライフルを構えなおそうとしていたロジータの腕を掴んで甲板上に押し倒す。
 背中と脇腹を、何かが掠めるような感触。
 それとほぼ間を置かずに、焼けた鉄の棒を押し付けられたような痛みが襲い掛かった。
 声を押し殺せたかどうかは、自信が無い。
 腕が体を支えられなくなってロジータを押し潰しそうになるのを、必死になって堪える。
 船長が何かを叫んでいた。
 その叫び声は、RPGと聞こえた。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送