日が沈んでいく。
 夕暮れがその気配を見せてから、世界を覆いつくすまではあっという間だった。
 俺はTシャツを着た上半身に紫外線避けのジャケットを頭から被り、船べりにもたれて海を見つめていた。
 咥えていた煙草の灰が、今にも落ちそうなほどに長くなっている。
 それをひどく煩わしく感じながら、コーヒーの空き缶の中に灰を落とした。
 この海の彼方、約千キロを隔てた先に、コスタリカ領のココ島という名の島がある。
 その名前を知ってから、甲板にいるときは自然にその方向に視線が引き寄せられるようになった。
 そこを見つめていれば、ココの存在が感じられるような気がした。
 水平線の向こうに、微笑むココの姿を思い出すことができた。
 だけど今は。
 何も、見えない。


海をきれいに
                              長峰 晶


2019年6月 春香奈 二十歳  桑古木 十八歳

- 9 -


 咥えていた煙草を口から外して指に挟み、浅く目を閉じる。
 瞼の裏に浮かぶのは、泣き顔ばかりだった。
 悲しそうに俯きながら、涙を流しているココの姿。
 そして――肩を震わせながら泣いている優の姿。
 もう、二度と。
 そんな姿を見たくはなかったのに。
 船のへりの手摺に預けた腕の中に、顔を埋める。
 しばらくそうしているうちに、人が近付いてくる気配を感じた。
 ヤンキー・スピリットの臭いと、その臭いでも完全には打ち消すことができない仄かな甘い香り。
 それで、近付いてきているのがロジータであることが分かった。
「涼権。これから夜に掛けて雨が降るらしいわ。風も冷たくなってきてるし、そろそろ中に入らない?」
 充分な気遣いが込められた、優しい声。
 なのに俺はそれに応える気にどうしてもなれず、そのまま顔を腕の中に埋め続けた。
 ロジータは小さく吐息を付くと、俺のすぐ横にまで近寄り、手摺に背を預けるようにもたれかかった。
 そのまま、沈黙が続く。
 先に音を上げたのは俺の方だった。
 けれど自分から話し掛ける気にはなれず、顔を起こすと、新たな煙草を懐から取り出し、ライターで火を点けた。
 何の前触れもなく、ロジータの顔が近付いてくる。
 驚きの声を上げようにも煙草を咥えた状態ではそれもままならず、そのまま、一つのライターの火を二人で分け合うようにして互いの煙草に火を点けた。
 煙草二本分、それにも満たない距離に、ロジータの顔がある。
「あなたは本当に良くやったわ」
 煙草に火を点けた後、煙を吸い込むのもそこそこに、ロジータはそう切り出した。
「皆、あなたに感謝してる。敵を撃退できたのは……私達が今こうして生きていられるのは、あなたとジャックのお陰だもの。そうでしょう?」
 俺は答えない。
 ロジータは何かを言い掛けたがそれを取りやめ、自分を落ち着かせるかのように、ゆっくりと煙草の紫煙を吸い込んだ。
「敵味方ともに被害は最小限で済んだわ。それは、フラッシュクラッシュの衝撃で怪我をしたのもいるけど、命に関わるようなものではなかったし」
 フラッシュクラッシュは俺がジャックの部屋から持ち出し、敵船で使った音響閃光手榴弾の名前だ。それはマグネシウムなどの化学物質を発火させることで強烈な閃光と衝撃を発生させ、敵の抵抗力を奪う。フラッシュクラッシュの名前の通り破壊能力もあり、人に対して使用した場合、相手は殺傷しない程度の衝撃を受けることになる。
 甲板上ならまだしも、操船室のような閉鎖空間の中では、ひとたまりもなかっただろう。
「あなたは知らなかったでしょうけど……ジャックが撃ったあの男、あなたに銃を向けていたあの男も助かったのよ? さっき、救護ヘリの方から連絡があったわ」
 びくり、と自分の体が小さく震えるのを感じた。
 ロジータの言葉を、その優しい嘘を信じたかった。
 だけどそれを信じるには、俺は余りにも人の死に親しみ過ぎていた。
 死の臭いを、敏感に嗅ぎ取れるようになってしまっていた。
 目を閉じて、あの瞬間を思い出す。
 結局、俺は撃つことができなかった。
 トリガーに掛けた指に、それ以上力を込めることができなかった。
 撃たれる、と思ったそのときに、何かが弾けるような鋭い音が聞こえた。
 男の右の太股で何かが炸裂し、それとほぼ同時に男が倒れていく。
 その衝撃で男が持つ銃のトリガーが引き絞られ、轟音と共に銃弾を見当違いの方向へ吹き飛ばした。
 悲鳴も無く、最期に残す言葉も無く。
 まるで下半身が無くなってしまったかのように、男は頭から、前のめりに倒れ込んだ。
 そして、驚くほど短時間に、周囲が赤く染められていった。
 顔を上げ、周囲を見渡し、ライフルを構えたジャックに気付くまでどれだけ時間が掛かったのか、自分では分からない。
 胸の中を、黒いもやもやとしたものがせり上がってくる。
 掴んでいた手摺が、手の中で小さく軋んでいた。
「涼権?」
「――俺は、撃つべきだったんだ」
 俺が撃っていたならば。俺に、男の手の中の銃を打ち抜く技量と強さがあれば。
 状況は、まるで違っていた筈だ。
 俺にその技量が無かったとしても、ライフル弾が当たった箇所、足に向けて撃つぐらいはできた筈だ。
 拳銃弾とライフル弾では威力がまるで違う。四十五口径の銃から発射される弾は重く、ジャックの使うライフルの弾よりも五割方増しの重さだが、射出速度はライフルの方が三倍以上速い。そして、運動エネルギーは質量に比例し、かつ速度の二乗に比例するのだ。単純にエネルギーの大きさだけ比較すれば、ライフル弾は拳銃弾の約六倍の威力を持つことになる。
 これは、拳銃弾なら助かるような部位の銃創でも、ライフル弾なら致命傷になるということを示している。
 そう、今回のケースのように。
「……かもしれないわね」
 ロジータの指の中で、ヤンキー・スピリットが細い煙をたなびかせている。
 彼女はさっき一度煙を吸い込んだきり、煙草に口を付けようとはしなかった。
 灰はじりじりと長さを伸ばし、やがてぽとりと甲板上に落ちた。
「でもね、涼権。あんなことを言っておいて何を今さら、と思うかもしれないけど」
 ロジータの言葉が途切れる。
 俺は煙草を咥えたまま、視線でその言葉の続きを促した。
「あなたが撃たなくて良かった、という気持ちがある。あなたがその手で人を殺すことがなくて良かったと思う。……あなたが、私達と同じ場所に立たずに済んで、本当に良かったと思うわ」
 囁きにも似たその静かな言葉が、自分の心の奥深くに沈んでいくのを感じた。
 何か言葉を返さなければならなかった。
 その思いが胸の中をひりつくように焦がしたが、どうしても、返すべき言葉を見つけることができなかった。
 ロジータはどこか苦笑めいた、それでいてごく僅かの寂しさを交えた微笑を浮かべ、踵を返した。
 船室に帰っていくその後姿を、息を詰めたまま見つめ続ける。
 結局、何も言うことができないまま、俺は再び手摺に向かい、ぼんやりと海を見つめ続けた。
 夜が近付いてくる。
 自分の足元に、視線を落とした。
 昼でも夜でもない、陽の当たる場所でも闇の中でもない、そんな曖昧な場所に俺は立っている。
 ここが境界線なのかもしれない。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 ここを一歩踏み越えれば、闇の中へと引き込まれていく。引き返すことはできない。
 あるいは自分が気が付いていないだけで――とっくのとうに、俺は境界線を踏み越えているのかもしれなかった。
 手の中の煙草から、灰が甲板上に落ちた。
 手が火傷しそうなほどに、煙草は短くなっている。
 空き缶の中に吸殻を放り込んだ直後、半ば無意識に煙草が入った懐に手が伸びた。
 その手が、止まる。
 首筋の辺りに、冷たい滴りの感触があった。
 ぽつりぽつりと始まった雨は、やがてしとしとと雨足を強め、ありとあらゆるものを等しく濡らしていった。
 深く長く息を吐き出し、船室に向かおうとして、もう一度、後ろを振り返った。
 海の彼方、水平線の向こうに視線を凝らす。
 そこには、何も、見つけられなかった。

 

<了>

 

あとがき
 ここまでお読み下さった皆様、誠に有り難うございました。
 機雷処理は、桑古木をダイバーに据えてから一度は書いてみたいと思っていたネタです。吉岡平氏「二等海士物語」、ダグラス・リーマン氏「掃海艇の戦争」、谷甲州氏「<航宙宇宙軍史> 最後の戦闘航海」……等々を読んでいる内に、ふと書きたくなりました。その割には肝心の機雷処理のシーンが少ないのが、困ったものです。
 しかし、勢いに任せて書き上がったものを読み返してみると、随分と殺伐とした話になってしまい、しばらく封印していました(他にも、拙作『冬の思い出』辺りと比較していると、桑古木が本当に同一人物なのかという辺りも……(汗))。
 そんな悩み多き一品だったのですが、幾つか加筆修正を行い、今回、投稿させて頂くに至りました。このような系統の話でもさほど問題が無いようでしたら、また、こういった話も書いていこうかと思います。
 余談ですが、本作を書いていた時のBGMは「RADIANT SILVERGUN SOUNDTRACK+」「Parhelia Original Sound Tracks」「Cradle - 東方幻樂祀典 -」がメインでした。深夜枠アクションは、シューティングゲームと相性が良いようです(笑)。

 

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