草と、空の下に
                              YTYT 

1話 「2035年1月21日 7:18」


《7:18:41》
――この日の朝は、とても冷え込んでいた。
 陽暦によれば、昨日から"大寒"に入っているのだという。事実、その名にふさわしい朝となった。 
 田中 優美清春香菜は、所長室のデスクで一人、作業に耽っていた。
 有機ELディスプレイの右下のシステム時刻は、ちょうど《7:19》に変わったところだ。
 日は少し前に上っていたが、気温の恩恵の方がまだ追いついていない。外はまだ、霜の降りるような寒さなのだろう。
 ニュースによれば、折からの寒気団が南下してきているのだという。"上空5500メートル付近では、摂氏マイナス30度の寒気が云々……"という気象情報が、確かネット上で流れていたような気がする。
 とはいえ、実際のところ、雪が降るかどうかは微妙なところであるらしい。
"今後のお天気情報に、ご注意ください"というお決まりの文言がモニタに躍っていたことも、春香菜は併せて思い出していた。
 窓には、冷気が纏わっていた。
 霧のような水滴が、そこから幾層にも浮き出ている。
 春香菜は、キーボードを打つ手を止め、外の景色に目を向けた。
 ガラス越しの敷地は、白い薄靄の世界だった。
 眼下の、敷地の草木の向こうに、海原が見えた。さらに、その上空には、曇天が一面に広がっている。
 絵にも描けそうな、冬の一景色だった。
 灰色の天空は、昨晩よりも更に濃くなっていた。確かに、雪がいつ降ってもおかしくない空模様ではあった。
 天窓の融雪装置でも確認しておこうかしら……。
 思案していたところに、所長室の空圧ドアが開いた。
「お早うさん、優」
 入ってきたのは、桑古木だった。
 桑古木――桑古木 涼権。
 かつて春香菜と共に、2034年にある計画を起こし、二人の人間を救うために奔走した男だった。
 齢は三十路半ばに差し掛かる。が、外見はそれよりも十歳は若い。
 その理由を、春香菜は知っていた。
 桑古木は、春香菜と同じウィルスのキャリア(感染者)なのだった。
 キュレイ・ウィルス。
 このウィルスのキャリアとなった者は、老いることも死ぬこともない。
 キャリアの細胞の遺伝情報を書き換え、"免疫力・身体再生能力の活性化"や"テロメアの回復"などの作用を肉体にもたらせるウィルス。
 そのウィルスの細胞変性効果により、キャリアは、不老にして不死の肉体となっているのだった。
 けれども、春香菜や桑古木が、2017年の事故で生き延びることが出来たのは、このキュレイ・ウィルスの作用のためでもあるとも言えた。致死性の高いティーフブラウ・ウィルス――これに感染した春香菜たちを、あの時死から救ったのは、まぎれもなくキュレイ・ウィルスだったのだから。
 フランス語において、キュレイという言葉は、"司祭"を意味していた。
 司祭とは、神に仕え、生命の誕生を祝福する聖職者のことだ。
 その名を由来とし、あたかもキャリアの"生命を祝福し、永続させていく"ように作用する、キュレイ・ウィルス。……それは、皮肉に満ちた結果を、この自分にもたらせもした。
 かつて、重い心臓の病を背負い、"生きたくても生きられなかった"肉体が、今は"死にたくても死ねない"肉体に置き換わってしまったのだから。
 おかげで、自分は現在、"第三視点の研究者"であるのと同時に、"キュレイ・ウィルスの研究者"でもあり、今日も実にその研究に忙殺されているのだ。"田中研究所"という、ウィルス・細菌の研究施設の所長として。
 そんな現実に、我を取り戻す。
「おはよ」と、簡素な挨拶を返しつつ、春香菜は、自分と同じ肉体を背負う桑古木を見た。
 その桑古木はしかし、呆れつつも感心しているような、ちょっと微妙な表情をしていた。
 生あくびをしながら、春香菜とデスクを交互に見つめ、こうも言ってくる。「しかし、日曜だってのに良く働くのな。お前は」と。
「そういう貴方は、なんで今ここにいるのかしら?」
 春香菜の皮肉に、桑古木は、
「来週の日曜を、遠慮なくエンジョイするためさ」
 と、応じてきた。
 来週の? 
 オウム返しに問おうとする口が止まった。……ああ、ココとの休日を過ごすつもりなのね。
 春香菜は、ココの笑顔を思い起こしていた。
 八神ココ。
 春香菜たちが2034年の計画で救おうとしていた、"二人"のうちの一人だった。太陽のように快活に弾ける笑顔を持つ少女。
 そして、そのココも、自分達と同じキュレイ・キャリアだった。それ故に、今は、自分の研究所に月次に検査を受けてもらっている。
 その検査日とは、来週の日曜日。すなわち、それが桑古木の言う"エンジョイする日"というわけだった。
 春香菜はそう得心するや、急にいやらしい目を向けた。
「それで、わざわざ寒風吹きすさぶ休日に、宿題を片付けに来たのね?」 
 この自分の問いに、桑古木は「おうともさ」などと返してきた。
 ココとの仲を詮索する言葉は、控えておく。
 桑古木は、自身がココを好きである事実を、誰にも悟られていないと思っているのだ。知らぬは本人ばかり、とも知らずに。
 内心は面白くて仕方がないのだが、本人に気取られる訳にもいかない。桑古木には気の毒だが、もうしばらくの間、手の平で泳いでいてもらいたかった。
 そ知らぬ顔で、口を開く。
「ああ、そうそう。貴方の休日出勤の件だけど、既に承認済みだから。……まあ、今日のところは好きなだけ職務に励んで頂戴」
 なんなら、遠心分離器のローターの修理もお願いしようかしら? と続け、春香菜は自分のノートPCに目を落とした。
 桑古木が、視界の端で咳き込んでいた。
 直後、「そりゃないぜ! あれは俺じゃなくて、武がやったんだ!」という抗議の声が上がった。
「ローターから異音がしているっつうのに、あいつが分離器の回転数を無理に上げたからだぞッ!」
 その叫びに、無言の笑みで答える。
 それから、春香菜は、ディスプレイの画像を見つめた。
 キュレイ・キャリアの細胞から採取した蛋白質群と、健常者の蛋白質群のデータ比較。血中リンパ球のヘルパーT細胞の細胞性免疫と液性免疫の比率(免疫の活性状態)の推移。等々……。
 それらのデータを確認しつつ、ウィンドウを次々と閉じていく。
 春香菜は次いで、もう一つのウィンドウに目を移した。
 それは、茜ヶ崎 空――空のシステム・プログラムだった。
 空は、春香菜の"アシスタント兼秘書"であり、そして……高性能AIを持つ、生体アンドロイドだった。
 2017年と2034年のLeMUの事故において、空は"RSD映像のAI"として、自分達と行動を共にしてきた存在だった。
 その空は、2034年の計画の中で、大切な物を持つことになったのだ。《思考システム》という"心"と。《生体ナノマシン》という"肉体"を――。
 この二つの技術と科学が、空に肉体を与えたのだった。空がいみじくも語る"ピュグマリオンの奇跡"とは、それら二つの暗喩に他ならなかった。
 そして、この奇跡により、空は今、自分達と共にあるのだった。
 春香菜が確認していたのは、その空の思考システムのプログラムだった。
「空のものか? それ」
 すぐ後ろから、桑古木の声があった。
 いつの間にやら、忍び寄って来ていたのだろう。春香菜は横目だけを送って、桑古木の言を肯定した。
 口に出しては、
「ふうん、判るんだ? 貴方にも」
 と、戯れの挑発をしてみる。
 先刻に後ろを取られたことが、ちょっとしゃくに障ってもいたのだ。
 お前な、と苦笑しかけるも、桑古木はすぐに真顔に戻った。
 それから、こう言葉を継いできた。
「いや、ファイルネームから察してみただけなんだけどな。
"Sora_m_system"なんていうファイルネームは、いかにもな名称だろ。あと、この"m"は、"mind"の頭文字なんじゃないか?」
「たしか、記憶や精神や思考という意味だよな? mindって」
 と、桑古木は続けた。
 それに、春香菜は「はいはい、その通りです。よく出来ました。涼権くん」と応じ、桑古木の頭を撫でてやった。
 恥じらって、それをよけようとする桑古木を見、春香菜は笑った。
 笑いながら、視線をディスプレイに戻す。
「いい加減、俺を"少年"扱いするのは止めろよな、優ッ!」
 桑古木の声が、背後から飛んできていた。
"少年"――。2017年のLeMUの事故での、桑古木の呼び名がこれだった。
 当時、桑古木は記憶喪失で、自分の名前すら思い出せなかったのだ。
 そうした過去の思い出が重なり、春香菜の笑いには、さらなる拍車が掛かった。
 桑古木の恨みがましい視線を受け、ようやく笑いを収める。
「いや、笑いすぎたわね。ごめんごめん」と、とりあえずの謝罪をした。
 そうしながらも、春香菜はここで、少し考える目をした。
 空の思考システムの話を思い出したのだ。
 このシステムについては、以前から疑問に思っている点があった。 
 システムのメモリの実効容量や実効速度が、少し低かったのだ。
 その値自体は、2034年のBW発現計画以来、それほど変わっていない。けれども、それらの値は、アーキテクチャ(システムなどの基本設計)上の理論値にしてはかなり低い水準に留まっていた。
 この原因が、未だ掴めずにいたのだった。コンピュータ・システムには通常、システム稼動の妨げとなるボトルネックが多少あるものだけれど……。
 キーボードに指を置きかけた時、再び桑古木の声がした。
「空のシステム、調子悪いのか?」
 桑古木の目は、気遣わしげに細められていた。
 きっと、この自分が表情を曇らせていたからだろう。春香菜は曖昧な返事で、桑古木に応じた。
「う〜ん。まあ、数値自体は以前と変わらないし……。さほど問題は無いと思うけれどね」
 桑古木の懸念を和らげるために出した、それは方便にすぎなかった。
 空の思考システムは、昨年の5月以降、まだ本格的なデバッグ(プログラムの修正作業)をしていない。もうそろそろ、デバッグをする頃合なのかもしれなかった。さらに、昨年の計画に使用されたプログラムについても、幾つか整理しておく必要を感じていたものがある。
 まあ折をみて少しずつ考えていこうかな、と思いかけた時、ふっと空の顔がよぎった。
 その後に何故か、空の"先生"の顔も、ちらりと浮かんだ。
 春香菜は、その"先生"に触発されるように、ついつい軽口を叩いていた。
「なんなら、この問題は、先生にでも相談してみようかしら? ……"倉成先生"に」
"倉成先生"――。
 先刻の、桑古木の言う"ローター壊しの犯人"にして、"空の先生"にして――2034年の計画で救おうとしていた"二人"のうちの、もう一人の人間。
――その本名が、倉成 武だった。

     *

 倉成家の朝は、馬鹿馬鹿しくもにぎやかな一幕から始まっていた。
 派手な音と共に、家のドアが開く。
 そこから現れたのは、この家の主――倉成 武だった。
「やばい、寝坊したぞいッ!」
 脇目もふらずに、白い息を散らしながら、駐車場を駆け抜けていく。
 そして、表通りに飛び出しては、こう叫ぶのだった。
「ホクたん! ホクたんッ! 弁当はどうするんだッ!?」
 ホクたん……ホクト……倉成 ホクト。
 それが、武の息子の名だった。
 ホクトは今日、春香菜の娘である秋香菜と、デートに行くと言っていたのだ。
 それならば、と、武が朝も早くに二人分の弁当を作ってやろうと張り切っていたところ、何故かこの日に限って朝寝坊をしてしまい、今この時に至るというわけだった。
 前方を見据えるも、そこに当のホクトの姿は無い。
 右手には海岸。左手には自分たちの家。そして目の前には、人が疎らにいるだけだ。
 武の大声に驚いたのか、その何人かが首を振り向け、当人を見る。
 はっと、武は我に返った。
 通行人らと、目と目が合う。
 なんとなく、……気まずい。
「はは、その、えっとぉ……」
 両手の人差し指をぐにぐにと弄びながら、誤魔化し笑いを浮かべる。
 それから、その両手を伸ばしては、
「皆さん! まあ、こう寒いと、弁当でも食って暖まりたくなりますよね? ええ、そりゃもう、"ホクホク、ト(と)"!」
 などと、のたまうのだった。
 が、こんな駄洒落が通じる筈も無い。早々に、武は頭を下げることになった。
 すいません、朝っぱらからお騒がせしました、と通行人に謝罪をする。
 何度目かの"すいません"のところで、背後から声が飛んできた。
「休日の朝に、"馬鹿みたい"な大声を立てているからよ、武」 
 振り返った先には、その武の妻――倉成 つぐみの姿があった。
 ちょうど軒先が日陰になっているため、着ぐるみは身につけていなかった。
 純キュレイ・キャリアのつぐみの肉体は、ウィルスの細胞変性効果のため、p53遺伝子が上手く機能しない。このため、つぐみは紫外線を避けるべく、日陰に居たのだった。
 そのつぐみは腕組みをしたまま、微笑とも冷笑とも取れるような笑みを浮かべていた。
 口に出しては、こんな台詞をこともなげに言う。
「まあでも、目覚まし時計の時間を遅らせておいて正解だったわ。これよりもさらに早い時間に騒がれたら、たまらないもの」
 それを聞き、目が点になる武だった。
 が、そんな目も一瞬のことで、たちまちそれは憤怒にとってかわった。
「なんてことすんだよ、つぐみッ! せっかく俺が二人分の弁当を作ってやろうと思ってたのにぃ!」 
 武は目を剥き、ぶーぶーと抗議し始めた。
 先程謝罪をする羽目になったことも忘れ、またぞろ大声を張り上げる。
「この"たけぴょんパパ"の楽しみを、根こそぎ奪いやがって! お前の良心は傷まんのか!?」
「みじんも。いささかも。これっぽっちも」
 容赦の無い、つぐみの即答だった。
 自らを"たけぴょんパパ"と称するこの恥知らずな夫を前に、つぐみはことさら肩をすくめてみせた。
 そして、呆れるような口調で、こう言ってくるのだった。
「……いい? 武、これは遠足ではないの。デートなのよ。デートというのは、"世界の中で恋人二人だけ"という心境で居たいものなの。そんな折に、親の弁当を見せられでもしたら、せっかくの雰囲気も台無しになるでしょう」
 むーと、それでもなお得心できずに、武は口を尖らせていた。
「それにしたって、なにも目覚まし時計の時間を遅らせなくてもいいじゃんか」
 せめて、あいつらの見送りくらいはさせろい、と言葉を継ぎ、ぷんぷんと頬を膨らませる。
"子離れできない父親"――。
 武の拗ねた態度から、つぐみはふと、そうした言葉を連想した。
 2034年で助けられた時には、自分が父親になっていたことも認知していなかったのに。
 そればかりか、なかなか認めたがらない素振りを、武は見せもしていたのだった。
"17年間自分が眠り続けた事"も信じられなければ、"その間に自分が父になっていた事"も信じられない。
「う〜む、浦島太郎ならぬ、浦島武の心境だな、こりゃ」
 そんな冗句を、武は繰り言のようにこぼしていたように思う。
 けれども、"慣れてしまえばなんとやら"とは、よく言ったものだ。
 家族の中に入ってからというもの、たちどころに大黒柱ぶりを発揮し始めたのも、この武だった。
 盆を待たずに、春香菜の研究所に職を決め、新居も決め、内から外から足場を固めていく。
 その中で、武は、学校への退学届もあっさり提出してしまっていた。
 自分の将来の決定において、葛藤も躊躇もあるには違いなかったはすだが、それをおくびにも出さず、武はすべての決断を密かに済ませていたのだ。
 退学するにあたり、実家とは少し揉めたと聞く。が、武のお母さんがいち早く理解を示したために、大した溝も作らずに済んだのだという。それなら、この件については、お母さんにはいつかお礼を言わなければと、つぐみは感じていた。生活が落ち着いたら、必ず……。
 いつの間にか、武は虚空を仰いでいた。
 そんな武を、つぐみは見つめた。
 遙か彼方を飛んでいく鳥を見ては、勝手気ままに手を振っている。そして、上空の鳥に"おはようでござる〜"などと、意味のない言葉をかけ始めもした武だった。
 その語調は、少し不機嫌っぽい。
 今し方の弁当の件とは、また違う種類の不機嫌だった。が、武のそれについては、心当たりがあった。
 それでも、その件に触れるのはひとまず置く。つぐみは、もう少しだけ自分の想念に耽ることにした。
……学校の件に限らず、武のその身の固め方には、いささか性急過ぎる向きがあり、色々と心配させられる面もあった。
 それでいながら、武の行動には中々どうして、手際の良さを感じさせるものもあったのだ。
 新居探しにしても、無理な値切りも高望みもせず、安易な譲歩もしない。それでいて、自身の所得の割りに良い条件を不動産から引き出させたのには、感心させられもした。
 窓からの見晴らしも良く、駅ともそう離れていないこの新居を、子供達はかなり気に入っていたのだ。
 時には頑迷、近視眼。直情的で、不器用なところも少なからずある。そんな武が、世の中をどうにか上手く渡っているのは、きっとこの夫に、何かしらの生活能力があるということなのだろう。それと、本質的に人に好かれる、"何か"も。
 そう、2017年の事故で、この私を惹き付けたように……。
 過去に想念を巡らす傍ら、つぐみは、"けれども"と思った。
 人を惹き付けやすいということは、それだけ人に纏わる困難も抱え込みやすいということが言えるのだ。
 それを、本人がどれだけ自覚しているかは判らない。
 が、この武という人間は、つぐみの見た限り、本質的に人を拒まない人間であり、人を突き放せない人間だった。
 それは、武の美点でもあり、欠点でもあり、つぐみが心配する点でもあった。
 その生来の人の良さや優しさは、時として人を惑わせ、苛ませることもある。そして、人に利用されることも、また然りだった。
"汝の隣人を愛せ"とは、キリスト教の教義だった。
 けれども、その教義があまねく受け入れられるほど、世界は崇高に出来ていない。残念ながら、人を拒み、欺き、突き放す人間は、それこそ星の数ほど居る。家を一度出れば、少なくともそこには、七人の敵がいるのだ。
 そのことを肝に銘じ、陰に陽に夫を見つめ守っていくことが伴侶のつとめだとも任じ、また実際にそうし続けてきていた、ここ半年でもあった。
 そうして倉成家を切り盛りする半年の中で、つぐみはまた、自らの職を決めてもいた。
 在宅勤務のデータベース処理――それが、自分の新しい仕事だった。
 これなら、日中は外に出ることもなく、キュレイ・ウィルスを他人に感染させてしまう恐れも無い。他人と接触するのは、せいぜいクライアントと打ち合わせをする時だけだ。
 この仕事に懸念があるとすれば、使用するパソコンのOSやアプリケーションソフトだった。
 2017年から2034年の間に、これらの主流は変わり、自分にはすっかり馴染みの無い物になってしまっていたのだ。まあ、倉成家には幸い、コンピューターに通暁した娘がいる。当面のところ、その助力は当てにさせてもらうことになるだろうが。
 ともあれ……。
 かくて、生活の基盤は徐々に固まり、家族の絆も固まり、倉成家はそれなりに一世帯としての体裁を整えつつあったのだった。
 そうした過程の中、夫の意外な側面を色々と見るにつけ、つぐみは密かに目をみはることも少なからずあった。とりわけ、ホクトと沙羅の世話については精力的だったことに。
 それが今朝の、この武の奔走ぶりだったというわけだった。
 本人はまだ、未練がましく「ホクトは俺の弁当を旨いと言ってくれてるんだぞ」とのたまい、先刻の不満を自分でぶり返していたりする。
 自らが父であることを、さんざ認めたがらなかったくせに、ひとたび認めてしまえばこれだ。
 二言目には、"ホクトは、沙羅は"と口にする。暇になれば、"ホクたん、沙羅殿"と子供達の後を追い回す。よく言って子煩悩。悪く言えば親馬鹿だった。
 そして、当の武は今、もう一つの理由で、面白くなさそうにしていたのだ。
 先刻考えることを控えていた、その理由についてを、つぐみは思い起こすことにした。――この武には、ちょっとした宿題があるのだった。
 駐車場へ目を向けていた武が、口を開いた。
「今日はちょっと、車を使わせてもらうぞい」
 つぐみは、「判ってるわ」と答えてから、もう一つ言葉を付け足した。
「宿題を片付けに行くんでしょう?」
 お仕事の宿題をね、と続ける口調に、少しばかりのからかいを込めてみる。
 すると、武は、振り向きざまのアッカンベで応じてきた。
「つぐみん夫人、そいつは要らん詮索ですばい」
 が、その冗句の後、武はついにこう認めたのだった。「……まあ、ちょっと、休日出勤でもしなきゃ間に合わん仕事が出て来やがったのさ」
 また更に、変てこな蛇足を付け加えてくる。
「なんたって、キュレイのキュは、『"休"日出勤のキュ』だもんな」と。
 そんな武の蛇足には、
「『過労で緊"急"入院のキュ』にならないよう、せいぜい祈っておくわ」
 と、これまた、妙な返答で応じるつぐみだった。
 応じつつも、条件反射のようにして出てきた自分の返事を反芻し、つぐみは少し可笑しい気分になった。
 こうした応じ方が出来るようになったのは、自分と武の夫婦仲が決して円熟してきたからではない。この自分の思考が、ある意味、武の色に染まりつつあったからだった。
 他愛の無い会話。他愛の無い日々。そうした中で積み重ねていく、最愛の者達とのささやかな交歓。
 それらが、一つの幸せのありようなのだと知ったのは、つい最近のことだったように思う。
"意味の無い質問には答えない"という論理。それを、かつての自分が振りかざしていた理由……。それは、自分が単に、こうした無意味な会話をする愉悦を知らなかっただけなのかもしれない。
 つぐみは、そんなことを考えている自分にふと気付いた。
 自分もつくづく変わったものだと驚き、呆れ、また何故か可笑しくなり、笑いをそっと抑え込む。
 以前には考えもしなかったことを、今の自分は次々と考えていた。
 また、そうした思考のいとなみを、自分自身愉しんでいるふしがあることを、つぐみは認めてもいた。
 そして、その思考の行く先は、おおむね武やホクトや沙羅に繋がっていた。それにも併せて気付く。
 なるほど、家庭を持つとはこういうことか……。
 そう改めて実感しては、つぐみは束の間の幸福感に浸ることになったのだった。

――そのつぐみから、武は視線を外したままだった。
 休日出勤の話をしたことで、平素の憤懣が蘇ってしまっていたのだ。
 武は知らず、独り言を続けていた。
「だいたい、この倉成先生が優秀すぎるから、優の奴が余計な仕事ばっかりよこしてくるんだよな」
 ま、人の"本質"や"存在"なんて哲学じみたことを考えにいくわけでもあるまいし、すぐに片付けてやるさ、と息巻いてみせる。
 しかし、これには逆に、つぐみが少し怪訝な表情を向けてきたものだった。
「驚いたわ……」
 腕組みを解き、しげしげとこちらの顔を覗き込んでくる。
「よもや貴方の口から、そんな言葉が出ようとはね」
 そのつぐみの表情に、今度は、武の方が当惑に陥る羽目になってしまった。
「なんだよ、おい。いくら俺だってだな、そういうソクラテスチックな言葉くらい、年に一つや二つは口にするって」
"ソクラテスチック"――。
 そんな武の怪しい造語を聞いてか聞かずか、つぐみは遠い目を、海原に向けていた。
 そして、こんなことを口にし始めたのだった。「……倉成 武という本質に、実体は無い」
「貴方の本質とは、概念や情報やソフトウェアなのだから。そして、貴方の肉体とは、それらを具現化させるための道具に過ぎない――」
 ここで、つぐみは武に視線を戻してきた。
「私はかつてLeMUの中で、貴方にそんな話をしたと思う」
 感情の読めない目だった。
 その目を見返すも、武は少し困惑していた。
 そうした話を、つぐみが何故この場に持ち出してきたのかが判らなかった。
 けれども、つぐみのこの発言に、何かしらの意図があってのことなのだろう。武はとりあえず黙って、その後の言葉を待つことになった。
 ややあって、つぐみは視線を和らげた後、
「これは、"哲学ついでの脱線"とでも思ってくれればいいわ」と、断りを入れてきた。
 それから、静かに言葉を続けたのだった。
「"人の本質に、実体は無い。概念や情報やソフトウェアこそが、人の本質である。人の肉体とは、それらを発現させるための道具や器でしかない"――。
 私のかつて言ったこの言葉は、正しくもあれば、間違ってもいるの。
 それは、この言葉自体に、矛盾が含まれているからなのよ。
 なぜなら、"実体"の無い概念や情報が存在するためには、必ずそれらを収め、機能させる"実体"が要るのだから。……人の"実体"――つまりは"生命"が必要だということなのだから」
 つぐみの言葉は、さらに続いた。
「……概念も情報も、ただそれだけでは、実体の無い空虚な"もや"に過ぎない。
 それらを捉え、考え、育んでいく人の生命があってこそ、はじめて概念や情報は"人の本質"たりえるのよ」
 鳥の羽ばたく音と、海原の波音が遠くに聞こえていた。
 つぐみは、武の頬にそっと手を触れてきた。
「私の前には今、貴方という大切な"生命"がある。そして、そこには、貴方の"想い"が宿っている」
 つぐみは、目を少しだけ優しく細めた。
 そして、ゆっくりと言葉を継いだ。
「人の本質とは……人の持つ"生命"と、そこに宿る"想い"なのだということ」
 たとえば、これもそうよ――と、つぐみは唇を寄せてきた。
 不意をついてくるようなキスだった。
 時が止まるような、感覚だった。
 反応に迷ったものの、武は、唇を通じて入り込んでくる伴侶の想いに、自らも遅れ馳せながら応じたのだった。
「倉成 つぐみ」という人間の本質を、武は、この重なり合う唇の中に感じていた。

 ほんのわずかに、唇を離しあうと、武とつぐみは互いに見つめあった。
 つぐみは、ほんのりと赤面を浮かべていた。
 武と自身の唇に、交互に指を触れては、こう言う。
「まあ、つまるところは、こんな触れ合いをしてみたかっただけなんだけれどね」
 今し方の長口上についての真相。それを、つぐみはここで一つ明かしてみせたのだった。
 武は軽く目をしばたたかせて、つぐみを見ていた。
 寸刻の間を置いた後、武は"いやはや、なんとも遠まわしなやり方だ"と思った。そして、可愛いやり方だ、とも。
 が、それを言葉に出すよりも早く、つぐみが口を開いてきた。
「でも、私の今の言葉は正答でも無いし、実のところ哲学でも何でもない。ただの個人の価値観のお話。
……本当はね、人の本質なんて、誰にも判らないものなのよ。哲学が学問として今も残っているのは、そういう理由でしょう。
 だから、信じるのよ。"自分の本質とは、自分で信じて答えを出すものだ"と。――そして、私の信じている答えが、今言った内容というわけ」
 つぐみは目を細めて微笑み、最後にこう言葉を締めくくったのだった。
「貴方は、"倉成 武"として、正しいと思う生き方をすればいい。……それこそが多分、貴方の本質なんだと思う」
 武は、短い間つぐみを見ていた。
 それから、やっと口を開いた。
「つぐみ……。その、なんていうかさ」
 気恥ずかしさが先行したものの、武はやっと意を固めて、こう言った。「いきなりの小難しい話で、ちと焦ったんだが……なんか、すごく嬉しかった。今の」
 力もモリモリ出てきたしな、と握りこぶしを作ってみせながら、笑みを浮かべた。
 しかし、笑みの奥の羞恥心は、すぐに看破されるところとなり、ひいては、つぐみ自身にも同じものをもたらせる事になった。
 つぐみは、先刻よりも更に赤面していた。
 自分も多分、そうだった。
 自分達は、いささかノロけすぎていたのだろう。
 今し方のやり取りも然り。キスもまた然り。客観的に見れば、これは少し恥ずかしくもある一幕だった。
 ちらりと、周囲を横目で見る。
 道端に、人の往来はまばらだった。
 その中に、こちらを見て見ぬふりをする視線を感じた。当惑と気恥ずかしさのこもった視線だった。やっぱり見られていたか……。
 武は、次の言葉を探しあぐねていた。つぐみもまた、同じような反応をしたものだった。
 そうして、ちょっとした沈黙が流れた。
 恥ずかしげに視線を逸らせつつ、つぐみはこう言った。
「……まあ、とりあえずは宿題を片付けていらっしゃい」
 夏休み終了直前の必死きわまった子供みたいにね、と付け加えては、武に目線を戻してくる。
 そのつぐみの口の端には、いつの間にやら、皮肉に満ちた微笑みが浮かんでいた。
 どうやら、この場の気まずさを紛らせる、格好の糸口を見出したらしい。
 嫌な予感がした。
 苦い表情を浮かべる武に対し、さらに追い討ちをかけるつぐみだった。
「でないと、あの"24才の生徒"に対して、先生の顔が立たないでしょうし」
 ぎくっとして、武は顔をしかめた。
 24才の生徒……。この言葉には、心当たりがある。いや、ありすぎた。
「ねえ、倉成先生」と意味深に畳み掛けてもくる、そのつぐみの笑みは、実に愉しげでもあった。
……そして、それは、当人が今幸せであることを伝えてくる笑みだった。

 武の乗ったワゴンが、小さくなっていく。
 つぐみは、それを見つめながら、ほんの少し前の出来事を思い出していた。
"つぐみ! 家ん中の鏡餅、今日こそつつくぞい。腕によりをかけて、雑煮を作ってやるよ。ちょうど、冷蔵庫ん中も整理できるしさ"
"それと、ホクトと沙羅の制服だけどな、お前は取ってこなくて良いぞ。帰りがけに俺がクリーニングから取ってきてやるから"
"あ、そうそう、忘れてた! さっきのクリーニングのやつだけどな。ポイントカードが溜まってるから、次に出しに行く時、それ使ってくれよな"
 それに、と言いかけたところで、つぐみは武をワゴンに押し込んでいた。
「はいはい。続きは、帰ってきてからどうぞ」と言い、つぐみはようやく、この小煩い夫を送りだしたのだった。
 一から十まで、どうしてここまで細かく賑やかなのか。つくづく不思議な夫だった。
 そんな夫のワゴンを遠くに眺め、つぐみはしばしの間、可笑しさと幸福感の間を行き交っていた。
 そうした中で、沙羅の姿が朝から見えなかったことを思い出した。
 倉成 沙羅。
 武とつぐみの娘にして、コンピュータに精通した俊才だった。
 そして、忍者に憧憬があり、時折それに倣った言葉を使う、少々変わった気質を持った娘でもあった。
 つぐみは、その沙羅の行方については、見当がついていた。きっと、武かホクトが驚くことになるのだろう。その想像は、少しほほえましくもあり、愉快でもあったが。
……ともあれ、こうして全員が出かけた訳だった。
 つぐみは、めいめいの出かけていった方向をしばらく見つめていた。
 そして、空を見上げた。
 濃い、まだら色の空だった。
 雲の薄い部分からは、かすかに光が零れ、地表に幾筋もの橋を架けている。それは、どことなく神々しさを想起させる、朝の一景観だった。
 つぐみは、不意に肌寒さを感じた。
 底冷えのする外気が、肌にまとわっていた。
 キュレイ・キャリアの自分には、とんと鈍くなってしまっていた季節感覚だったが、それを思い起こす。そうだ、もうこんな季節になったのか……。
 まだらになった天空の濃淡は、少し灰色がかってきてもいた。
 雪の降る気配がした。それは、肌からも空景色からも感じられた。
 そこにLeMUの記憶がよぎり、つぐみは過ぎ去った時間を改めて顧みた。
 自分が最愛の夫と出逢ってからの、17年。
 そして、家庭を初めて築いてからの、半年。
 辛かった過去を忘れるのに17年は重すぎ、十全とした家族意識を育むのに半年は短すぎ、倉成家には絶えず微妙な空気の変化が起こっている。
 今になって考えてみれば、武が様々に奔走していたのは、そうした諸々の違和感を払拭するためだったようにも思う。
 この自分もまた、あれこれと奔走していたふしがあった。それもきっと、武と同じ理由なのかもしれない。
 そして、ホクトや沙羅も、同様に躍起になっていたのだろう。……急ごしらえの家庭を確立するために、家族全員が意識もせず躍起になり、四人五脚であくせくし、こうして迎えたのが、この半年間だったのだ。

 夏を越え、秋を越え、冬を迎えて今……上空には雪のちらつく季節になっていた。
 2035年1月。
 これが――自分達家族の迎える、初めての新年だった。




TOP / BBS /








SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送