草と、空の下に
                              YTYT 

2話 「2035年1月21日 7:32」




《7:32:21》
 武のワゴンは、海岸通りをひた走っていた。
"田中研究所"は、国内有数のP4施設(きわめて危険なウィルス・細菌を取り扱う高度安全実験施設)であり、バイオプラントとしての性質から、市街地を避けた遠隔地にその場所がある。
 研究所は海のメガフロート上に敷設されており、大型の橋によって、陸と繋がっていた。
 田中研究所の外観は、研究所としてあまり似つかわしくないものだった。一見、簡素なテーマパークを想起できそうな雰囲気でもある。
 もっとも、これには大きな理由があった。――この研究所は元々ライプリヒの研究施設であり、LeMUのデザインの原型は、ここにあったのだから。
 ライプリヒの壊滅後、春香菜は自らの研究を行う拠点として、この場所を選んでいた。
 表向きには、民間の製薬研究所。だが、その実体は、"ウィルスや細菌の研究をする特殊機関"――それが、田中研究所だった。
 しかし、"ライプリヒの研究施設"を継ぐということは、その罪や業もまた一部継ぐことを意味していた。
 キュレイ・キャリアに関する膨大なデータの中には、つぐみや沙羅のものも含まれており、それらのデータは研究所のウィルス研究用の資料としても、重要なものだったからだ。
「国家権力とは癒着しない。特定機関との癒着も同様。人体実験など言語道断」
 春香菜は研究所の方針として、この三点をことさらに標榜していた。
 が、その言葉はまた、つぐみや沙羅に対する配慮に他ならない。武はしばらくの間、自身の仕事と家族との間で、板ばさみにあうことになった。
 実際、武はこの勤務先に入所する時に、細心の注意を払ったものだった。
 特につぐみの疑心を払拭するために、かなりの労力と時間を要したことは言うまでもなかった。
 研究所員としての保秘義務があるため、仕事の重要な部分を伏せはしたものの、やはり相当の部分については明かさなければならず、つぐみへの説得は難航した。
 春香菜が直接説明し、それに桑古木も加わり、武も再三ねばって合意を頼みかける。それでようやく、つぐみは渋々折れたのだった。
 しかし、承諾してからはというものの、つぐみが自身の不満を口に出すことは無かった。
 一度だけあったとすれば、それは武や沙羅やホクトが、キュレイ・ウィルスの月次検診を受けなければならないことくらいだ。
 とはいえ、キュレイ・ウィルスの持つ伝染性から考えて、それはやむなきことだった。そのため、つぐみはその点もまた併せて承諾していたのだった。
 とりあえず、現時点において、つぐみがそれ以上に口出しをしてくるような様子はない。それは、つぐみがこの自分や春香菜を信用していることの顕れだと解釈し、武の研究所勤めは、現在に至るというわけだった。
 さて、今日の作業はどう段取りしたものかいな……。
 リズミカルにハンドルの縁を叩く裏腹、武の内心は少し苛立ってもいた。畜生、今日は、沙羅とつぐみを連れ回してやろうと思ったのに……。
「のどかなあ」などと言うも、自分自身は"のどか"ではなかった。
「平和だよなあ」と呟くも、やはり自分は"平和"とも程遠い心境だった。
 休日は、つぐみやホクト、沙羅のための時間にしておきたかった。が、なにせ研究所には、仕事の残件が山積みになっている。
 この間に壊した、遠心分離機のローターの件も然り。先週の、RNA酵素の電気泳動の実験結果だって、まだまとまっていない。
 ここにどうしてか、先刻つぐみに言われた、"24歳の生徒"という台詞を思い出してしまった。
 空に、少しサポートをお願いしてみるかな……。そうした、他力本願的なことを考えている自分がいた。
 それを慌てて頭から消す。
 あの空なら、自分の頼みを間違いなく聞いてくれるだろう。
 が、それがバレてしまった時のリスクが大きすぎた。その後が大変だったのだ。つぐみの凄まじい穿鑿と疑心に、自分は一週間ほど晒されることになるのだから。
"結局、自分の試練は自力で乗り越えるしかないな"と、救いにもならない結論を下し、武は一人嘆息した。
 とりあえずは、そんな試練を清算するための休日出勤なのだった。嫌々迎えることになった、門出ではあるが。
 フロントガラスに、目を戻す。
 タイヤの振動が車内に巡る中、武は「長弓背負いし――」と慰みの子守唄を口ずさんだ。
 そうしながら、ステアリング左下の車載電話に手を掛けた。
 ハンズフリー・モードにしてから、オンフック・ボタンを押す。傍らのテンキーで、研究所の電話の短縮ダイヤルを呼び出した。
 車内スピーカーに、呼び出しのパルス音が響いていく。
 それを聞きながら、ステアリングに手を戻した。スピーカー通話であるため、運転しながらの会話が出来るというわけだった。
 研究所の所長の春香菜は、確か今日も出勤してきている筈だ。
 休日出勤の申請ついでに、一つからかってやるか。そんな、私的かつ邪な理由で、春香菜に掛けた電話だった。
 二度、三度とコール音が響く中、先刻の子守唄の続きを、またぞろ口ずさむ。
"月と海の子守唄"
 それは、つぐみが、自分達の絆を繋ぐために唄ったものだった。2034年の事故で救われた後、武はつぐみから、そう聞かされていたのだった。
 それから、沙羅がこの唄を大切に覚えていたことも、併せて教えられていた。
 17年間――沙羅は、自分が海の底で眠っていた歳月の中、この子守唄をずっと心の拠り所にしていたのだという。
 つまり、人一人が生まれてから、思春期を経て、大人への第一歩を踏み出すまでの時間、沙羅はずっと孤独でいたのだ。
 それを思うと、都度に自責の念が沸き起こってくる。
 今こうして、武が子守唄を口ずさんでいるのも、この唄を早く覚えて、ホクトや沙羅との空白の時間を埋めていきたいという想いからだった。
 武は 右方に広がる海原を見た。
 灰色の雲が、ちらちらと光っている。武は口笛をふき、自身の憤懣をしばし忘れた。
――雪が、降り始めていたのだった。

     *

「ついに、降り始めたわね……」
 春香菜は、窓辺に寄って、空の雪を見つめていた。
 桑古木が持ち場へ戻ってから、すぐに雪が落ち始めていたのだった。
 携えたコーヒーカップの湯気が、窓にあたる。その場所から瞬く間に、水滴がしたたり落ちた。外はもう、0℃に近いのかもしれない。
 粒の細やかな雪は、気ままな軌跡を描いている。
 外の世界に、音は無かった。
 しんしんと降る雪と、それを受ける草と木。そして、視界一杯に広がる灰色の空が、この世界の全てだった。
 まるで深海の底のように、深い静寂だった。
 春香菜は過去のLeMUを思い起こし、束の間の追憶に浸っていた。
 武とココを救おうと誓ったのが、18年前。
 その宿願を果たしてからは、さらに半年が経つ。
 光陰矢のごとしとは、比喩ではない。本当に過ぎるのが、あっという間の歳月だった。
 その歳月の中で、自分の肉体は殆ど劣化も変化もなく、今日もじつに平穏な日常を浪費している。
 けれども……。
 春香菜はコーヒーカップの闇の中にたゆたう、変化のない自分の顔を見つめた。
 死も老化も訪れないこの自分達は、いわば、世界の摂理から置き去りにされた存在なのだった。
"死ねない"という点で生命の定義から外れ、"老化しない"という点で時の輪からも外れ、自分たちが一体何者かであるかさえも判らない。
 この肉体が何という業を背負い、これからどうなっていくのか。それを判っていながらも、何一つ有効な手を打てず、ただ漫然と日々を過ごしていくだけの自分。そんな自身に、春香菜はいつも軽い絶望を感じるのだった。
 こうした緩慢な絶望は、やがて自家中毒を引き起こし、自己の腐敗へと及んでいくのだろう。キュレイ・ウィルスは、肉体の劣化を防ぐことは出来ても、精神の劣化までは防げないのだ。
 けれども、この現状をなんとかしたいという、ささやかな抵抗もある。春香菜が、このところ物思いに耽る要因の一つになっているのも、それだった。
 コーヒーの波面から、目を離す。
 春香菜は、自分の指を見つめていた。
――自分が生まれてきてから、いったい何億秒の時間が経つのだろう……?
 慰みに、そんな突飛な想像をした。
 その何億秒のどこかに、2017年があり、2034年があった。
 そこに武やつぐみ達がいて、自分の父や母がいて、秋香菜がいた。
 自分達は、その"何億秒"の中で生まれ、出逢い、そして生死を共にしてきたのだ。
 言葉を変えるなら、この自分達の存在とは、"自分達が生まれてから経過してきた時間"と置き換えることが出来るとも言えた。
 これは何も、人の命や人生をいたずらに数値化して軽んじることを意味してはいない。ものの見方を変えて、新しい考え方をすることを意味していた。
 何億秒と言ったところで、人の一生は、宇宙の時間の中の、ほんの一瞬きにも満たない。
 その人間の"苦しみや悩み"も、宇宙から見ればわずか一瞬未満の出来事なのだ。
 そう解釈することは、当座の煩悶から解放されるための、一つの発想とも言えた。要は、"自分を苛むこの様々な悩みも、気の持ち方一つ"ということだ。
 事実そう考えると、春香菜は、自分の煩悶が仮初めにでも薄らぐ錯覚を覚えた。
 思えば、自分の生きてきたその何億秒のうちの何割かは、確実にLeMUに束縛されていた。
 そんな束縛の人生も、すべて時間によって簡単に置き換えられてしまうというのは、なんとも釈然としないような、あるいはほっとするような、不思議な感覚だった。
 とはいえ、"そんな感慨に耽られるのも、このあたりが潮時かな"と、春香菜は考え始めもした。
 固定電話が鳴っていた。
 呼び出し音は、すでに六度響いている。
 これを取れば、また諸々の困難がやってくるだろう。
"なに、これもまた、何億秒の中のほんの一時のことね"と、戯れに自分に言い聞かせてみる。
 そうして、春香菜は、受話器に手を掛けたのだった。

――武はステアリングを指で叩き、子守唄を口ずさみながら、電話の呼び出し音を聞いていた。七度目が、今鳴ったところだ。
 早く出ろーい優、と、心の中で勝手に急き立てもする。
「早く来んかと、待ちをりぬ――」と、そこまで唄いかけたところで、ちょっとした違和感を覚えた。
 途中から、自分の唄が妙に立体感のある響きに変わっていたのだ。ドルビーサラウンドなど、この車に搭載した覚えは無い。武は不審に思った。
 まるで、もう一人傍で唄っているかのような感覚だ。
 もう一度続きを唄おうとしたところで、何かがバックミラーの中から手を振ってきた。
 うん? と思う前に、武の目は一杯に開かれていた。
 そのバックミラーには見覚えのある娘が、映っていたのだった。ダブル・ポニーテールの愛娘――倉成 沙羅の姿が。
「ハロハロハロォー、パパァー!」
 にっこぉーと、無邪気な笑みを浮かべながら、沙羅はピースサインを送ってきていた。
 後ろに振り返るや、武は叫んだ。
「沙羅! 何で、おまえがここに居るんだッ!?」
「拙者が来たいと思ったからでござる」
 父の問いを軽快にはぐらかす。
 そうしながら、沙羅はご丁寧にも、もう少し判りやすく片手のスペアキーで答えてみせた。このキーで、沙羅はワゴンに忍び込んでいたのだ。
 そして、沙羅は、後部座席からギアをまたぎ、助手席に乗り込んできた。
 それから、席に腰をすとんと落とすや、含みのある視線を向けてくるのだった。 
「いやいやぁ、ママの子守唄を一生懸命練習しているとは、感心でござるなぁ。パパ上殿」
 ちょっとませた、詮索の目。
 とげこそ無いが、微量に毒はある。中々油断大敵な、母親譲りの視線だった。
 その視線を直に受け、武は、我が娘にわずかながらの末恐ろしさを感じた。
 そして当人は、「武、驚いたわ。貴方にそんな甲斐性があったなんて……」などと、母親の真似をしているのだった。しかも、それが結構似ていたりもする。
「そりゃあ、どうもでござる。沙羅殿」
 生返事でやり過ごしながら、武はひやりとしていた。これは間違いなく、小型のつぐみにはなるだろうな、と。
 その沙羅は、車窓の雪を見て感嘆の声を漏らし、外を見つめていた。
 しかし、それも短い間のことだった。
 視線を武の方へ戻しては、沙羅は明快に切り出してきたのだった。
「ねえ、パパ。拙者を研究所に連れてって!」
 沙羅が言い終えるのを待たずに、武は答えていた。「駄目でござる!」
 ええ、なんでよッ!? という反駁も待たずに、更に言葉を繋げた。
「研究所は仕事をするところだ。遊びに行くところではないのでござる」
 けれども、こんな通り一遍の理屈で引き下がるような沙羅ではない。
 さも武の台詞など聞いていなかったふりをし、あまつさえこんな事を言うのだ。
「たしか研究所までは、ずっと道なりに行けば良いんだよね?」
 その沙羅の目は、もう一つこう言っていた。"私、ちゃんと研究所までの道を知っているんだから"と。
 つまりこれは、"道を誤魔化して、私を返そうとしたって駄目でござる"という宣告だった。
 無論、そんな宣告に従えるはずもなく、武は応えた。
「……駄目と言っているでござろうに! 拙者は、今日だけはソロ活動なのでござる!」
 そうは言うものの、これには実のところ、ちょっとした葛藤が働いていた。
 休日を共に過ごしたい気分は、武とて沙羅と同じ想いだったからだ。今はその天秤が、僅差で"仕事"の方に傾いているだけのことだった。
「じゃ、今度は手裏剣村に連れてってよ」と、沙羅は、突然の代替案を立ててきた。
 これには、思わず絶句した。
 そう言えば、自分は、かつてそんな約束を沙羅にした覚えがあった。
「去年の5月に約束したきりだったよねえ?」
 沙羅は上を向き、指折り数えあげていった。「もう、8ヶ月経ったんだよ、パパ」
 もう待てないよ、とうそぶく沙羅に、武はまた即答した。
「8ヶ月我慢できたんなら、あと4ヶ月くらい待ちなさい。ゴールデン・ウィークにでも必ず連れてってやるから」
「嫌! それなら来週にでも、手裏剣村に連れってほしいでござる! さもなくば、今研究所に連れてって!」
「我が儘言うでないッ!」
 武はちらっと、対向車線を見た。どうにかして、沙羅を家へ返すつもりだった。
 既にして、お互いの意志は平行線を辿っている。それは、会話が噛み合っていないことからも明らかだった。
 ならば、強制的な手段に訴えるしかない。
 隣から、沙羅がしきりに、"なんで、連れてってくれないのよ"と問いつめてくる。おかげで、スピーカー越しの《もしもし、倉成なの?》という春香菜の声も聞き逃していた武だった。
 反対車線の流れから、Uターンのタイミングをはかる。
 が、ウィンカーのレバーに手を掛けたところを、沙羅に目聡く見つけられてしまい、更なる修羅場を招くことになった。
「なんで、右折のウィンカーを出そうとしてるでござるかッ!? そっちは研究所じゃないでござる!」
「だから、今日は駄目だっつうの! パパは宿題を片づけないとならないのでござるッ」
 激しい格闘が始まっていた。
 Uターンはさせじと身を乗り出し、ウィンカーのレバーを戻そうとする沙羅。それを更に戻さじと踏ん張る武。
 レバーが"くの字"に曲がり始めた。
「沙羅! やめろって、レバー壊れるだろうが! というか、前が見えんッ、頼むからどいてくだされッ!」
「なら、研究所へ連れてってくれる?」
 ぱっと身を翻した沙羅が、聞いてきた。
「ならん!」
 断った途端に、今度はサイドブレーキを思い切り引かれた。
 がくんと前のめりになり、胸に押されてクランクションが一瞬鳴る。
 直後、それに倍するクランクションが、後方から鳴り響き始めた。
"なに止まってやがる!"だの、"追突すんだろうが、馬鹿ッ!"といった怒号も、盛大に混じっている。
「さ、沙羅、その手をどけなさい、って。な?」
 後方を見つつ、武は半分狂ったような形相で、沙羅に首を向けた。
 終いには、ガッと怒鳴る。
「パパりんの言うことが、聞けんのかァッ!」
 ところが、沙羅は涼しい顔をして、抗戦を決め込んだものだった。
「パパに選択肢なんか無いのでござる。拙者を研究所へ連れていくこと。之唯一つの道也」
「ああ、そう。そうでござるか」
 それなら実力行使でござる、と言うや、武は、サイドブレーキを鷲づかみにした沙羅の手をどかそうとした。
 その時だった。
 当の武の腕に、沙羅が噛みついたのは。
 Σ!"ぃぇぎッ?!
 武の悲鳴があがった。
 沙羅が噛み付いたまま、手前勝手な怒声を上げる。
「へふはははんひは、ほうへほはふッ!(セクハラ犯には、こうでござるッ)」 
 その沙羅の怒声に、後続車のクランクションと怒号が、さらに折り重なっていく――そんな、冬の朝の一幕となった。

《連れていかないなら、このセクハラ犯の車のナビに、コンピュータウィルスばらまくからッ!》
《さ、ささ沙羅殿! 頼むから、それだけは堪忍してくだされッ! いや、マジで! これのローン、まだ五ヶ月残っ――》
――……。
 春香菜は、受話器を置いていた。
 置きながら、大笑いをしてもいた。
 ウィルスの遺伝コード表を丸め、肩を叩きながら独語する。
 なるほどなるほど、そういうことね……。
 スピーカー越しに繰り広げられる、武と沙羅の喧噪から、事の経緯をつぶさに理解した春香菜だった。
 受話器越しから、いきなり武の叫声が轟いたかと思えば、沙羅と一悶着を起こす始末。最初は何事かと思ったが、なんのことはない。要は"休日出勤者と、来客がそれぞれ一名"ということなのだ。
 会話の内容はといえば、これはもう今更触れる必要も無い。仲睦まじき、父娘のじゃれあいだった。
 とりあえず、武のPDAには、こうメールを入れておく。《相判り申したでござる。休日出勤者と忍者っ娘。各々一名ずつ》と。
 笑いは、未だ収まらない。
 が、一方で春香菜は、沙羅の口ずさんでいた子守唄に感心してもいた。
 そうか。今の唄は、つぐみが子供に教えた唄だったのか……。
 肩を叩いていた手が止まる。
 笑いも自然に止まっていた。
 子供と自分の心を繋ぎとめるために、"子守唄を残しておく"ことなど、自分には逆立ちしても出てこない発想だった。
 こうした発想の差は、そのまま人間性の差にも繋がり、"つまるところ、これが自分とつぐみの差なのかな"という結論に至っては、春香菜は少し苦い敗北感を味わった。武がこの自分とではなく、つぐみと添い遂げることになったのも、偶然ではなかったということだ。
 けれども、それは不思議と腹に残らない、納得のいく敗北感でもあった。
 つぐみはホクトと沙羅に残すべきものを残し、自分は娘の秋香菜に何も残さなかった。だから、つぐみには今、夫と家庭があり、自分にはそれが無いのだろう。これはある意味、当然ともいえる帰着だったのだ。
 全ては起こるべくして起こった、か。
 春香菜はつぐみの言葉を思い返し、微かな苦笑を浮かべた。
 肩たたき替わりにしていた、遺伝コード表を広げ直す。
 覚えず、溜息を吐いていた。
 中空に散っていくそれを見ながら、天を仰いだ。
 雪は音も無く、沈々と天窓に降っている。そこから白く淡い光が、斜めに差し込んできていた。
 春香菜は、手をその光にかざし、指を閉じた。
 指の隙間に、うっすらとした赤い闇が見えた。
 自分の血の流れが、その指の闇の中に流れている。
 途切れることのない生命から流れている血。その血が、脈々と創り出す赤い闇。
 春香菜は、その闇の向こうに、自らの業を感じもした。
「自分の――業……」 
 無意識に、そんな言葉を口に上らせた。
 指を微かに開く。
 その隙間から柔らかく差してくる光に、春香菜は目を細めた。
 指の向こうの天窓には、樹木が伸びていた。
 そこに微かな蕾を見た。
 春の気配は、人知れず、雪の樹木に降りていたのだろう。その小さな生命に、少し救われるような気もした。
 同時に、脈絡も無く武のことを考えようとしている、自分にも気付いた。
 まだ自分は、武のことを想っているのだ。18年前にLeMUで初めて出遭った、あの時から。
 それは、胸の中に翻ることもあれば、傷みとなってうずくこともある、名状のし難い感情だった。
 辛いとか、堪えきれないとか、そういった深刻さがあるわけでもない。だが、無視できるかと言えば、中々そうもいかない、厄介な感情でもあったのだ。
 そんな感情と共に、自分は今日まで生きてきたように思う。虚しいとは感じつつも、これが私なのだという、諦観もあった。開き直りもあった。
 心に根ざしてしまった武への恋慕の芽を摘まず、今もこうして密かに、未練がましく残している。そして、それを止める気も無い。これもまた、きっと自分の業なのだった。おかげで、私心を偽る術だけは、それなりに長けてしまったような気がするが。
 天窓のあの蕾は、いわば私の恋心なのかな……。そんな詩的なことを考え、自分で恥ずかしくなってしまい、春香菜は軽く頭を振った。
 武にはつぐみがいて、ホクトや沙羅が居る。
 自分にも、秋香菜が居る。
 お互いの"境界"は、守らなければならないのだ。絶対に。
 まあ、"開かない蕾は、想像して愉しめ"ということなのかもね、と独語する。
 恋も蕾も、花咲く姿を想像しているうちが、一番楽しいのだ。そうして、春香菜は自身を慰めると、己の恋慕の芽を心の奥に隠し込んだのだった。
 さて……と。
 春香菜は、自身の肉体に心機一転を期待し、大きく伸びをしてみた。
 けれども、代わりに口から出てきたのは、くたびれたあくびだった。
 その期待と現実の落差に、春香菜は知らず一人笑いを漏らした。本人の精神状態を反映するように、その肉体もどこかで停滞しているのだろう。
 けれども今日は、少し違うかもしれない。
 そんな予感がしていた。
 なぜなら、新鮮な空気が、もうすぐ研究所にやって来るのだから。……"倉成父娘"という形で。
 桑古木だけでなく、あの父娘もこの研究所に来るとなれば、今日はきっと騒がしい一日になる。
 もしかしたら、とんでもない一日になるかもしれない。
 そわそわと考えつつも、春香菜の頭には一つ引っ掛かることがあった。
 そういえば、空は何処へ行ったのだろう?
 自分が研究所にいる限りは、必ず空も傍にいた。アシスタントとして、秘書として、空は紛れもなく自分のパートナーだった。
 ちょっと想像したものの、春香菜は、やがて明快な結論に至った。
 ああ、いつもの場所にいるのだ。空は……。

     *

――それは、田中研究所の敷地から、そう離れていない広場だった。
 空は、そこにいた。
 草と木の向こうには、海原が見える。
 LeMUの原型が、この研究所にあったためなのだろう。ここの景色は、あのLeMUの浮島によく似ていた。
 空は、この場所が好きだった。
 ここから見える、草や空が好きだった。
 なぜなら、LeMUの風景が、ここには残っているのだから。この自分にとって、LeMUは自らの故郷だったのだから――。
 海と、海原に落ちていく雪を、空はずっと見ていた。
 灰一色の天空には、無数の雪の光が煌めいている。
 人ならば、それは美しい光景として映るのだろう。
 けれども、空にはそれが判らなかった。
 AIであるとはいえ、自分が根源的に理解できるのは、"0"と"1"という二つの数値でしかない。
 それを自分はプログラム上で、あたかも心のいとなみを持っているかのように、見せかけているにすぎなかったのだ。
 そのことが、少し空を苛んでいた。
 人と同じ体をもっているのに……。
 空は、そっと自分の胸元に手を触れた。
 手の中でかすかに形を変える胸は、弾力から温かみに至るまで、人間のそれと変わらなかった。
 生体ナノマシンとはいえ、その構造は人間の肉体の分子構造に限りなく近い。
 それなのに、自分は人ではなかった。
 人の本質とは、肉体ではなく、もっと別な何かなのだろうか。
 空は思った。それは、私の未だ知らない、"何か"なのでしょうか……と。
 けれども、その"何か"が、空には判らなかった。
 それを、ひたすらに考えながら、空は海原を見つめていたのだった。
 自分は、あの海が何故青いのかを知っている。
 自分は、あの雪が何故白いのかを知っている。
 自分は、それらの理由を、科学的物理的な情報として知っている。
 どちらも光の散乱という現象で説明の出来る話だった。
 海や雪の中で散乱される光の波長帯域によって、海は青く、雪は白く見えるのだ。ただ、それだけのことにすぎない。
 けれども、自分の知りたいことは、そうしたものではなかった。
 この海から、人は何を見出すのだろう。
 この雪から、人は何を感じるのだろう……。
 それが知りたかった。
 そうした、人間の心が知りたかった。
 その心によって育まれている、世界を知りたかった。
 自分の今来た道に首を振り向け、広場を見渡し、空は思った。
 この目の前に広がる、草や空……。
 これらには皆、"境界"があった。
 草には"輪郭"という境界があり、空には"地平線"という境界がある。
 自分は、それらの境界を、微分フィルタ等のハードウェアによって識別していた。
 そうして識別された数値から、自分は、どの部分が草や空かを認識しているのだ。
 つまり、自分にとって、世界とは"数値"だった。"0と1"の集まりだった。
 草も空も、同じだった。
 それらの境界は、人には見えない。けれども、自分には境界が見える。数値として、それが見えるのだ。
 この数値の境界は、そのまま、人と自分の間に横たわる境界であるとも言えた。そして、これが、自分が人になれない理由の一つなのだということも。
 空は、草を見つめながら、風を肌に受けながら、改めて思った。
――"人になりたい"と。
 その時、思考システムに、あるデータが検出された。
 それはノイズだった。
 微弱であるが、質の悪いノイズでもあった。原因が判らず、以前から不定期に発生するこのノイズは、人間で言えば、"不安"や"煩悶"や"孤独感"と呼ばれるものなのかもしれない。
 空は、思考システムに常駐させたセキュリティ・プログラムにより、そのノイズをカットした。
 そうしながら、ようやく我を取り戻した。
 思考システム上で、時刻を確認する。
《――Sun jan 21 07:55:34 2035 》
 時刻は、7時55分34秒。
 ああ、そう言えば、と空は思った。
 ウィルス研究の、月次分科会用の資料を、自分はまとめておかなければならなかった。
 たしか、クローン法の改正法案が、近々内閣委員会において取り沙汰されるのだという。それを勘案してか、分科会用の資料もいくつか差し替えなければならないところがあったのだ。
 それ以外にも、まだ色々と抱えている作業はある。
 空は、今し方の想念をひとまず中断し、現実へと頭を切り換えた。
 研究所へ戻らなくては……。
 思うや、踵を返し、空は歩き始めたのだった。
 
――自分の本来還るべき場所へ。




 あとがき

 どうも、YTYTです。
 諸般の都合で、1年近くもご無沙汰してしまいました。
 申し訳ありません。
(あとがきを書くのも本当に久しぶりで、まごついています)

 さて、本作なのですが、拙作「不器用な想い」よりも前のお話になります。
 とはいえ、殆どの方が知らないことと存じますが……。(汗)
 更に、実際に本作を書いていた時期も、「不器用な〜」より前でしたので、
 もはや新作とは呼べないかもしれません。
 それでも、単なる"蔵出し"にはならないよう、色々と手を入れてみたのですが、
 もし至らない点がございましたら、是非是非ご指摘などを下さればと思います。
(明様。ご多忙の中、本SSを御掲載いただき、本当にありがとうございました!)

 それでは、このあたりで失礼いたします。
 YTYTでした。
 


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