草と、空の下に
                              YTYT 

3話 「2035年1月21日 8:55」

《8:55:17》
 武と沙羅が研究所に着いた時には、すでに辺りの路地が仄白くなっていた。
 雪はもう、本降りの様相を帯び始めている。帰りには、タイヤを履き替えなければならないかもしれない。
 広大な敷地を歩いていく中、沙羅はそのあまりの広大さに、何度も勝手な不平を洩らしていた。
 それをなだめつ、諫めつ、父親の苦労を改めて実感させられた武だった。まあ、沙羅の母親がもっと手強いことを考えれば、これはまだマシな苦労だと言えたのだが。
 武と沙羅は所内に入るや、身にまとわりついている雪を、ぱたぱたと落としていた。
 落としながら、武は、自分のPDAに入っていた春香菜のメールの内容を思い出した。
《相判り申したでござる。休日出勤者と忍者っ娘。各々一名ずつ》――そんなメールだった。
 武は少し苦笑した。優の奴、まず間違いなく、今朝の一騒動の事をあげつらってくるだろうな。
 傍らでは、「寒い、寒いでござるぅ」と沙羅が震えていた。歯を鳴らしながら、所内の連絡通路に目を向けている。
 ハイブリッド・キュレイ種とはいえ、沙羅の肉体は普通の人間とそう変わらない。人が寒いと感じるときには、沙羅も同じように寒いと感じるのだ。まして、キュレイ・キャリアの武ですら感じる、今日の寒さだった。当人には尚のことだろう。
 咄嗟に、手にしていた携帯ポットを、沙羅に渡してやる。
「あ、ありがとパパ」と、沙羅は舌足らずの礼を言い、ミルクティーを一啜りした。
 そして、沙羅は、こう言葉を続けてきた。
「でも、ここって、外はLeMUによく似ているけれど、中はかなり殺風景なんだね?」
「当ったり前でござる、ここは"テーマパーク"じゃなくって、"研究所"なんだぞ」
 お子ちゃま忍者のお前には、判らんかもしれんが、と冗句を交える。
 ぶう、と沙羅がしかめっ面をした。
 それを笑みで受け流しつつも、しかし武は不意に思った。沙羅は何故、この研究所に来たがったのだろう、と。
 幼少時代、沙羅が過ごしてきたのは、こうした研究所の中だった。
 自由という自由を奪われ、一日の殆どを監視され続けてきた日々が、沙羅にとって楽しいものであった筈がなく、当人の口から一切そうした過去が語られないことからも、そのことは容易に察せられた。
 そんな沙羅が、何故ここまでして、自分についてきたがったのか。この研究所に来たかったのか。いまいち合点のいかない武だった。
 それとなしに、理由を訊ねようと言葉を探している時に、後ろから声がしてきた。
「おはようございます、倉成先生」
 いつものように楚々とした、笑みと仕種と佇まい……。空だった。
 空はすぐに、隣の沙羅にも微笑みかけていた。
「沙羅さんも、おはようございます」
 空の微笑みには、わずかばかりの他意が垣間見えた。
 武はそれを見て、ある確信を強めたのだった。優の奴、やはり今朝のことを"流して"やがったな、と。
"セクハラ犯には、こうでござるぅ!"という、沙羅の怒声が耳の奥で響いた。げんなりとしながら、それを心の隅に押し込む。
 横からは、当の沙羅が元気良く「おはようでござるぅ!」と答えていた。
 そして、父を一瞥してから、こう言葉を継ぐのだった。「空も宿題をしにきたのね?」
 武は、思わずむせた。
「宿題、ですか?」
 一方、空はわずかの間、きょとんとした表情を漂わせていた。
 武の苦い表情と、沙羅の清々しい笑みを、交互に見る。
 父と娘の対照的な表情と、"宿題"という言葉。そこから、空はある事実を類推したようだった。
 得心の微笑みを浮かべ、空はこう答えたのだった。「ええ、そうですね、沙羅さん。私も同じですよ」
「しなければならない仕事を、たくさん抱えていまして。……"倉成先生"と同じく」
 武は、更なる渋面を浮かべた。触れてほしくない話に限って、よく自分が引き合いにされるものなのだ。
 ともあれ、都合の悪い話題を転じてしまおうと、口を開く。
「ああ言っておくが、だな。先生は決して仕事に詰まったから、今日来た訳じゃないんだぞ。茜ヶ崎君に授業をしてやろうと思ってだな、」
 続きを言いかけた口が、止まる。
 今の自分の冗句を本気にしたのか、空がこちらを凝視していたからだった。「本当……ですか? 倉成先生」
「あ、ちちょっと待て、それは……」と思わず、言葉を修正しようとする。
 が、ここでどういうわけか、沙羅に逃げ道を封じられることになった。
「いやいやぁ、まさか倉成先生ともあろう者に、二言などあるはず無かろうて」
 武の呆気にとられた顔を尻目に、沙羅はしゃあしゃあとのたまうのだった。
「きっと時間を大いに割いて、実り多き授業をしてくれることでござろう」
 期待して待たれい茜ヶ崎君、と、びしっと空に指さし、"決め"のポーズを作ってみせる。
 おそらく、どこぞで流行っているのだろう。それは、なかなか様になっていた。
 しかし、今はそんなことを誉められるわけもない。武は、小声で沙羅に怒鳴った。
(沙羅、勝手になんて約束しやがるんだ! おんどれはッ) 
 それには、
「さっき、人を子供扱いした仕返しでござる」
 と、しれっと応える沙羅だった。
 口は災いの元という格言を、武が身をもって思い知ったのも、束の間だった。
 嬉しそうに、視線を斜交いに流していた空が、こんなことを言い始めていたのだ。「信じられないです……。私は、それをずっと待っていました」
 そして、空は顔を上げ、武に視線を向けたのだった。
「18年間……。私は"倉成先生の授業"を、ずっと受けていなかったのですから」
 18年前。
 それは、空がまだ肉体を手に入れていなかった頃――RSDの投影画像だった頃の話だった。
 2017年の事故のさなか、武はLeMUの中で、"恋"についてを空に説明したことがあった。
"恋"――すなわち、人の持つ"人らしさ"についてを、武は空に教えていたのだ。それが、いわゆる"倉成先生の授業"というわけだった。
 空はそれから、ある神話に触れる話をしていた。
「ピュグマリオンの奇跡は、決しておとぎ話ではありませんでした。
 自らの理想の女性を石像として彫刻し、それが人間になることを願ったピュグマリオンの願い。そして、それを女神アプロディテが聞き入れ、石像に生命を与えたこと。……その奇跡は、現実に起こったことなのですから」
 空は武を見つめ、言葉を継いだ。
「私は、人に作られた石像としてではなく……今度は"ガラテア"として、倉成先生の授業を受けたいのです」
「ガラテア……?」
 武の問いに、隣の沙羅が答えた。
「パパ。おそらく、今し方の話に出てきた石像のことでござるよ」
 沙羅の言葉に、空は微笑んだ。「その通りです、沙羅さん。アフロディテの奇跡により人間となった、その石像の名前が、ガラテアなのです」
「私は肉体を持ったガラテアとして、倉成先生の生徒になりたいと想っていました……ずっと、長い間」
 空は口を閉ざし、武と沙羅を見つめた。
 武も沙羅も、返すべき言葉を探しあぐねていた。そうして、少し重い静寂が降りた。
 その静寂は長く続くかと思われた。
 が、ここで空は突然に、こんな補足をしてきたのだった。
「これは余談ですが、神話のガラテアは人間になった後、ピュグマリオンの妻になったとされています」
 とんでもない補足だった。
 これには一転して、激しくむせる武と沙羅だった。余談というには、それは、あまりにきつい余談だった。
 どういう言葉を返せばいいのか、これまた判らず、ほとほと困っていたところに、声が飛んできた。
「なんだ、武も沙羅も来ていたのか?」
 連絡通路の向こうから、見覚えのある男がやってきていた。桑古木だった。 
 次いで、他方の通路からは、春香菜の声がした。
「あら、二人とも、もう到着? 連絡をくれれば、迎えにくらい行ったのに」 
 春香菜も桑古木も、そうしてこちらに近づいてくる。近づく二人の顔には、卑猥な笑みが浮かんでいた。
 武はその笑みを見て、ますます、ある確信を強めたのだった。やはり、今朝の件は"バレて"やがるのだ、と。
 そして、桑古木の口から出てきたのは、予想した通りの揶揄だった。
「ところで、沙羅。今日は、この"セクハラ犯"の授業参観ならぬ勤務参観か? 保護者は大変だな」
「何故に、その台詞を沙羅にもっていく? まず父親の俺に向けるべき言葉だろう、それは」
 あえて、セクハラ犯という言葉には触れない。
 そうして、武が話をどこかへ逸らせようとしていたところへ、今度は春香菜が、
「いいえ。自分の愛娘に手を出すような"セクハラ犯"に、親権など与えられるわけないでしょう。保護者はあくまで沙羅。そして被保護者が、そこの"セクハラ犯"よ……ねえ、沙羅?」
 と、揺さぶってきた。
 それに、今度は沙羅がこう応じるのだ。
「同意でござる。"セクハラ犯"という言葉には」と。
 ここに至り、ついに武は爆発した。
「そうなったのは、お前の我が儘が原因だろうが!」
 武が、沙羅に詰め寄る。その形相に、沙羅はたまらず逃げ出していた。
"だ、だって、今日暇で仕様が無かったんだもの! あ、止めてよ、パパっ!?"
"うるさいッ、俺のイメージダウンに拍車をかけた報い、今ここに受けさせてやるでござる!"
 武は、逃げる沙羅を追いかけ回し始めていた。
 春香菜と桑古木が、それを笑いながら囃し立てる。
 そうして、かくの如く、朝のひと時は過ぎていったのだった。

「……さてと、そろそろ俺は行くからな」
 思い出したように、武は言った。
 腕時計に視線を落とす。時刻は、《9:25》だった。
 それぞれが、意識を現実に戻し始める中、武は、顔を空へと向けた。
 空は、うつむき加減に床を見つめていた。
 武は少し眉をすがめ、空、と口を開いた。
「疲れた顔をしているな。……せっかく肉体を手に入れたというのに、風邪なんかひいてたら、勿体ないぜ」
 言われた空が、一瞬だけ動揺したような表情をする。
 が、空のその表情は、あまりに微妙だった。そのため、それは武の目には残らなかった。
「大丈夫です、ちょっと考え事をしていましたので……」
 そんな空の言葉を、この時、武は真に受けてしまっていた。
「おう、それなら結構でござる」
 武は笑みで応じ、次の瞬間には、目を春香菜と桑古木に移していた。
 あばよ、"元少年"と"そのボス"、と二人を指差す。
 春香菜たちの失笑を買うも、気に掛けない。そのまま武は、空にも簡素な「じゃ、また後でな。茜ヶ崎君」と言い残し、自分のオフィスへと向かったのだった。
 沙羅、行くぞ〜い、という当人の声が後に続く。
 その武を追うようにして、 
「それじゃ、俺も行くわ」と、桑古木も踵を返した。
「私も行くわね」と、春香菜もまた所長室へ背を向ける。
 そんな桑古木と春香菜は、それぞれ一瞬だけ沙羅を振り向き、それぞれに気遣いを示してきた。
「沙羅。あの馬鹿親父を、しっかり監視してくれよな。放っておくと、また無茶し出すから。あいつは」
「そのツケを払うのは、2034年の一回きりにしてほしいからね。その鍵を握っているのは、貴方よ。沙羅」
 沙羅はそれらの気遣いに、形ばかりの反駁を返した。
「人のパパを悪し様に言うな、でござるっ!」
 その反駁に微笑みで応じると、桑古木と春香菜は、今度こそめいめいの方向に歩き始めたのだった。
 沙羅はその背中を見ながら、彼ら二人と自分の父に繋がっている絆を感じてもいた。
 桑古木も春香菜も、父を救うために半生をかけてきた。それを支えてきたものは様々にあるのだろうが、一つは間違いなく、この絆だったのだろう。
 沙羅は、2017年の事故を詳しく知らなかった。それ故に、父とそこまで深い絆を持っている彼らを、羨ましいと感じていたのだった。
 自分は父にとって"娘"以外の何者でもない。それ故に、それ以上決して父には近づけない存在だった。
 ずっと、ホログラム映像でしか見ることの出来なかった父。自分の偶像だった父。その父に、沙羅は近づきたいと思っていた。誰よりも、深く知りたいと思っていた。
 いや、それだけではない。
 父だけでなく、母や兄のことも、みんな知りたかった。自分は一人ではないことを実感したかった。
 なぜなら自分の過去は、ライプリヒの中で束縛されてきた人生だったから。ずっと独りきりの人生だったから――。
 けれども、そうした想いは、空の言葉によって一瞬遠のいた。
「沙羅さん。行かなくてもよろしいのですか?」
 はっとして、沙羅は空を見た。
 空は沙羅を優しく見つめながら、こう続けた。
「ここの研究所のオフィスルームは、みなオートロックになっているため、IDカードが無いと中に入れないのです」
「え、そうなの?」と少し慌てる沙羅に、空は微笑んだ。
 そして空は、前方に伸びる通路に足を向けながら、口を開いたのだった。
「では、一緒に私もまいりましょう。……ちょうど、私と倉成さんのオフィスは、同じ方向にありますから」

 沙羅は、空に先導されながら、武のオフィスへ続く通路を歩いていた。
 総ガラス張りの天井を見上げた。
 止め処なく降る雪は、時にまばらに、時に激しくなっている。その遥か上空には、分厚い雲が広がっていた。
 灰色の世界。そこは数万数億の雪がいとなむ、海原のような世界だった。
 ちらちらと反射してくる雪の光の中に、沙羅は、2034年のLeMUの光景を思い起こした。
 ああ、そういえば、あの事故からもう半年が経っているんだ……。
 そんなことを思うさなか、前方から空の声がしてきた。
「沙羅さん。"2034年のLeMUの事故"から今の時刻までは、約2200万秒が経過していますね」
 そして、沙羅の方を振り返っては、こう言葉を継いできたのだった。「……"2034年5月1日 12:45"の事故発生時刻からは」と。
 沙羅は空の方を見て、思わず赤面していた。いつの間にか、自分は独語していたのだ。律儀にも空は、その独語に対する回答をしてきたのだった。
 空に申し訳なく思うも、これはちょっと有難迷惑だった。
 他にも要らない事を口走ってはいまいかと、急いで記憶の糸をたぐろうとする。本音を他人に盗み聞きされるというのは、沙羅でなくても、なんとなく気分の良くないことだった。
 けれどもそうした中、再び聞こえてきたのは、空のこんな言葉だった。「でも沙羅さんのように、過ぎ去った"時間"を短く感じられたりすることは、人の特質であり、魅力の一つだと思います」
「……人は、"物理的な時間"のほかに、"心理的な時間"というものを認識することが出来るのだそうです。たとえば、"好きな人と一緒にいる時間はとても短く"、"その人の傍に居られない時間はとても長く感じる"ような感覚。……こんな感覚は、きっと人だけが持っているものなのでしょう」
 空は、目線を床に向けていた。
「私には、とても羨ましいです……それが」
 そう、空は呟いた。
 その声は、室内の空気の中に伝わり、溶け消えていく。
 沙羅は寸刻、自分のことも忘れ、空を見つめた。
 空の瞳は一点に定まらず、少しの間、揺れ動いていた。それは単なる羨望や憧憬にとどまらず、もっと深刻な何かを抱えているように思えた。
 声をかけてやらなくては、と思ったが、こういう時に限って、適切な言葉が見つからない。
 代わりに、沙羅は、自分でも思いもしなかった言葉を口にすることになった。「空、」
「空にとって、……"時間"とは何なの?」
 時間なんて、私にはそれほど尊いものじゃなかったな、と言ってしまってから、沙羅は慌てて口を閉ざした。
 自分にとって、時間とはそのまま"ライプリヒに束縛されていた日々"を意味していた。それを吐露することは、自分の弱さを露呈することだったのだ。
 それを他人に知られるのは、嫌だった。怖かった。
 それでも何故、今この場でそれを口にしたのか、自分でも判らないでいた。
 判らないまま、自分は言葉を発していたのだった。
 両手で口を塞いでいる沙羅に、空は優しく視線を向けた。
 空はあえて、詮索を表に出さなかった。
 唇を動かしては
「時間、ですか……」と言い、沈思する目になる。
 それから、空は目線を沙羅に戻し、後を続けた。
「……私にとっての時間とは、"自分の稼働してきた一秒一秒"のことです。おそらく、それ以外の何物でも無いのでしょう」
 それから、こう言葉を繋げたのだった。
「途切れることなく刻まれる秒数。その中で集積された記憶や記録……。そして、この"記憶"や"記録"こそが私の本質であり、存在なのです」
 沙羅は、空の目を見ていた。
 見ながらも、少し後悔していた。自分の不用意に出した言葉が、かえって場の空気を重くしてしまったのだ。
 けれども、本質や存在という深遠な言葉の中で、秒という単語があったことに、沙羅は気付いてもいた。
"本質や存在"そして、"秒"という語。この妙な取り合わせに、沙羅は興味を覚えたのだった。
「ねえ、空。……さっき空は、2034年のLeMUの事故から、今に至るまでの時間を言い当ててたよね?」
 たとえばよ、と沙羅は言葉を繋げた。
「……わたしが生まれてから、どれくらいの時間が経っているのか。空には判るのかな?」
 沙羅は、兄のホクトと同時に、この世に生を受けていた。
 自分の出生についての情報を、沙羅は殆ど知らずにいた。それ故に、自分の出生や存在に関わるものは、みな関心があったのだ。たとえ、それがどんな些細な物であったとしても。
 空は短い間、沙羅を見つめ、何かしらの意図を掴もうとしていた。が、それは微笑みに変わり、空はこう訊ねてきた。
「沙羅さんの生年月日は、いつですか?」
「2018年1月21日。お兄ちゃんと同じでござる」
「では、現時刻まで、約5億3千万秒が経過していますね。……ホクトさんと共に」
 神託でも告げるように、空は答えた。「沙羅さんとホクトさんが、何時何分何秒に生まれたかが判れば、より"正確"な値は算出できますが」
「5億秒……」
 呟いたものの、思考が止まっていた。
 自分の生きてきた日々と、5億秒という浮世離れした数字が繋がらず、沙羅はしばし呆然としていた。
 ややあって、目の前で、手をひらひらされていたことに気付く。
「沙羅さん、大丈夫ですか?」
 正気に戻らせるための、それは空のジェスチャーだった。
 どこで学んだのか、そのやり方は相当に人間っぽい。きっと父が、何かしらの折にでも教えていたのだろう。
 ともあれ、我を取り戻した沙羅だった。
 空は、大切なことに気付いたのか、こう言ってきた。
「すみませんでした。今日は、沙羅さんとホクトさんの誕生日でしたのに……気が付かなくて」 
「ああ、そのことなんだけど……」
 沙羅は、その件についてを、空に簡単に説明した。
 秋香菜が、現在遠方の大学に転学しているため、恋人のホクトとはそうそう会えなかったこと。
 その秋香菜とホクトのデート日が、自分とホクトの誕生日と重なっていたこと。
 そのために、倉成家では、少し早い目に誕生祝いをすることになったこと。
 また、それは、"ホクトと秋香菜の二人きりの時間を優先してあげたい"という、自分達の意見が合致したものでもあったこと――。
 これらを、沙羅は空に語ったのだった。
「でもまあ、謝らなければならないのは、こっちの方でござるよ。考えてみれば、そんな水臭いことせずに、最初っからみんなで誕生パーティをすれば良かったんだからさ」
 そう言いつつも、沙羅は首をすくめて嘆息してみせた。「でも田中先生が忙しいから、その辺も難しいところであるんだけどね」
 沙羅はここで一度言葉を切り、空を見た。
 空は、黙したままだった。身じろぎもしていない。
 そんな空を見、ちょっと話を続け辛くなる沙羅だった。こんな単純な説明を、神妙に聞き続ける空に対して、なぜか気恥ずかしくなってしまったのだ。
 恥ずかしさを紛らすために、何か忍者言葉でも言ってやろうかと思ったところで、今度は自分の腹が鳴った。
 今朝から、自分が何も食べていないことを思い出す。
 照れ隠しどころか、思いっきり赤面をする羽目になった沙羅に、空は微笑んだ。
 それから、先の生年月日の話に引っ掛けて、こう言ったのだった。
「沙羅さんの場合、お腹の時計が一番"正確"なのかもしれませんね」と。
 沙羅はうなだれていた。
……返す言葉もなかった。

 その後、オフィスルームの前まで案内された沙羅の前に待っていたのは、自分の父のご立腹した姿だった。
 武は、沙羅が来るのが遅いことに気付き、ずっと自分のオフィスの前に立っていたのだった。
「どこで道草くってやがったんだ、おにょれは、あん?」
 と、ねめつける武に対し、
「ならば、PDAで呼べばよかったでござろう、機転の利かない"セクハラ犯"でござる」
 などと言ってのける沙羅だった。
 その後、またも懲りずに悶着を起こし始めた二人に、空は微笑を浮かべていた。
 そして会釈をし、空は踵を返そうとした。
 そこへ、
「おお、茜ヶ崎君。うちのお転婆娘の案内をすまんな。礼をいうぞい」
 武が忘れずに礼を言う。
 空は、後ろにくるりと振り返っては、こう答えた。
「いいえ。お礼は、今日の"倉成先生の授業"でお願いいたしますね」と。
「……お、おお、こ心得たでござる」 
 にわかに歯切れの悪い返事をする武を見て、空は少しいたずらっぽい表情を作った。
 空はそれから、「冗談です。いつでも良いですよ」と、安心させるように笑みをこぼしてみせた。
 そして、"私、気長に待ってますから"と言い、空は再び歩き始めたのだった。
 傍ら、沙羅は空の去っていった方向を見ていた。空……?
 先といい、今といい、空の表情に深刻な翳りがある、と思ったのは、自分の気のせいだろうか。
 それは、ほんの微細な異変なのかもしれない。あるいは錯覚かもしれない。判らなかった。
 けれども、空に何らかの異変があることだけは、この時の沙羅には直感として判った。
 父の言葉を、何故か思い出していた。
"疲れた顔をしているな。……せっかく肉体を手に入れたというのに、風邪なんかひいてたら、勿体ないぜ"
 先刻、父は冗句のつもりで言っていたのかもしれない。けれども……。
「お〜い、沙羅! もう空圧ドア閉めてくれい。暖房が効かなくなるから」
 思うさなかに、声が掛けられる。
 沙羅は、反射的に父のオフィスルームに半身を入れていた。
「判ってるでござるよ……でも、」
 武に言いかけ、言いよどみ、沙羅はもう一度だけ、空の去っていった通路に目を向けた。
 沙羅はこの時、父も含めて自分達の直感が間違っていることを、無意識に願っていた。

     *

 空は、自らのオフィスの中に入るや、深く息を吐いていた。頭が少し重かった。
 理由は一つ。今朝のノイズだった。
 それが、再び起こっていたのだった。
 武や沙羅や春香菜、そして桑古木との会話を聞きながら、空はある種のノイズを認識し続けていた。
 人間で言えば"羨望"と呼ばれる物なのかもしれない。けれども、それは、あまり好ましいノイズではなかった。
 武達と共に2017年と2034年の時を過ごしてきた自分だったが、この自分は未だ、彼らの絆が理解しきれないでいた。
 武、春香菜、桑古木そして沙羅……。彼らが交わす言葉の内容は理解できるのだが、そこから出てくる笑いや絆というものが判らない。それが意味する細やかなもの、心理的なものが、どうしても判らない。
 過去の履歴や心理学的な統計データを参照してみる。
 けれども、今し方の武達のそれが、"冗句"や"歓談"という、人のコミュニケーション手段の一つであるらしいと判断するので精一杯だった。
 それもそのはず、と空は思った。自分は、人ではないのだから……。
 小さく絶望した。
 この時、空のシステムは、更なるノイズを検知していた。
 やはり、あのノイズだった。
 じりっとした、不快な異常電圧。それは、しかし徐々に大きく、確実に起きるノイズとなっていた。
 すぐにその履歴を抹消するが、自分の記憶の奥底には、抹消しきれない何かが残っている。そのノイズが起こった、何らかの理由が。
 空は、知らず胸を押さえていた。
"せっかく肉体を手に入れたというのに、風邪なんかひいてたら、勿体ないぜ"
 この武の言葉は、音声データとして記憶に残っていた。
 自分は先刻、その台詞の"肉体"という部分に反応していたのだ。
 そう。
 人と同じ"肉体"を持ち、同じ言葉を話しているのに、人ではない……。
 その自覚が、より大きな深刻なノイズを自分にもたらせていたのだった。
 2034年に武とココが助けられた時には、気付かなかったこと。
 いや、気付いていながら、目を背け続けてきたこと。
 それが、自分という存在の、この不確かさだった。人と共に在り、人と同じ肉体を持ち、人と同じ言葉を話している。それなのに、"人ではない"という――この自分のあやふやさだった。
 武とココが救われた今、自分には目標がない。そう呼べるものが無い。また、生きる意味も価値も、漠然としか見出せなかった。
 そして、慰みのように見出したそれらもまた、ひどく陰鬱で消極的なものだった。"自分は死んでいない。ただそれ故に、生きている"というような。
 それでも、武への恋慕は、揺らぐこともなくあり続けている。それが叶わない事実を知ってなお、厳然とあり続けている。
 しかし……それ以外に、この自分の存在への疑問や不安もまた、ずっと脳裏にあり続けていたのだった。
 これらは、いまや直視せざるを得ない程に大きくなっていた。
 私は一体、何者なのだろう? 何のために、ここに在り、これからどこへ行くというのだろう……?
 そうした問いが日を追う毎に、じわじわと自分を苛んでくるのだ。音もなくひたひたと近づいてくる、"死"のように。
 空は頭を振り、デスクの前に座った。
 マウスに指を置いた時、沙羅に訊ねられた言葉を突然思い出した。
"空にとって、時間とは何なの?"
 そういえば、あの時――。
 空は、自身の会話記録ファイルにアクセスし、自らの言葉を呼び出していた。
"時間とは、自分の稼働してきた一秒一秒のことです"……そう、自分は答えていたのだった。それと共に、"自分の存在や本質は、その秒数の中で得られた記憶や記録である"とも。
 同時に、空はある事にも気付いた。
 あの時の、沙羅の表情や語調からも、自分と同じ様なノイズが検出されていたことに。
 何故なのだろう……? 
 先刻の沙羅の表情や声の記録から、データを分析してみる。
 だが、空は実のところ、その作業が意味を成さないことを知ってもいた。
 データを分析してみたところで、人の心が判らない自分には、それらはあくまでも"数値"でしかないのだから。
 言葉として出てこない部分、かすかに表情や仕種として出てくる機微の中にこそ、人の真情は隠されているのだと言う。けれども、それを知る術を、自分は持っていない。
 しかしながら、沙羅の、あの沈んだ表情に嘘偽りはなかった。脈拍や呼吸のリズムからも、それだけは確かだと言えた。
 それを自分は、なんとかしてあげたいと思った。が、沙羅の心を沈み込ませている原因が何であるのか、自分には理解できないのだった。せめて、自分が"人"であったなら……。
 ここで、空は唐突な発想をした。
 沙羅さんも……ある意味、私と同じ存在なのかもしれない と。
 だから沙羅さんも、私と同じような悩みや苦しみを抱えてしまっているのかもしれない、と……。
 けれども、そう考えたところで、空は首を振った。
 あり得ない、と思った。
"人"と"人でない自分"が、全く同じような悩みを抱えることなどあり得ないと、空は思いこんでいたのだった。

 しかし、空はこのことを知らずにいた。
 人が本来、孤独な生き物であるということを。
――そして、ある意味、自分と同じ存在であるということを。




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