草と、空の下に YTYT |
《11:15:49》 仕事を始めたのは良いものの、再三沙羅にちょっかいを出される。その都度、武の作業は中断した。 適当に扱うつもりが、天性の芸人気質が災いし、逆に、はしゃぎあったりもして、時間だけが過ぎていく。 そこへもってきて、春香菜が"あの電気泳動のデータはどうなっているの"と、督促の電話をかけてくるのだった。 もっとも、これは実のところ、自分へのからかいが大半を占めていた。やはり今朝の"セクハラ犯"の一幕が、格好のネタとなっていたのだ。 こうして、諸般の妨害もあり、自分の不甲斐なさもあり、結局、片付いた仕事は当初の半分弱。何をかいわんや、という体たらくだった。 それでも、子守唄を沙羅と口ずさみながら、自分なりに作業ペースを掴み掛けてきてはいた。作業の遅れを取り戻せそうな見通しも立ち始めている。 沙羅も、自分のすることを見つけたのか、持ってきたノートPCに目を落とし、何かを打ち込みはじめていた。そうしてやってきた静寂を機に、武もまた自分の仕事に没頭し始めたのだった。 二人の唄が、微かに室内を流れる。キーボードを打つ音が、その唄に重なっていた。 先週の実験データを今一度確認し、それを整理していく。 泳動実験のバッファ(溶液の酸・アルカリ度を一定に保つための緩衝液)は何であったか。使用したRNA溶液の濃度は、何ug/ulであったか。荷電ボルト数。荷電時間……等々。 実験のデータシートに目を落とした時、はたと気付くことがあり、武はオフィスのデジタル時計を見た。 《11:16》……。二時頃にでも帰れば、道路のラッシュアワーは避けられそうだった。 仕掛かっている仕事の目鼻は、まだついていない。が、今の空模様を考えれば、沙羅はそろそろ家に帰す必要があった。天候が快復しない以上、夕方になれば、道路は凍結する可能性がある。 沙羅に声を掛けようとした、その矢先だった。 「パパは……、私のことをあんまり詮索しないんだよね」と、沙羅が一言こぼしたのは。 父親の唄がとまったのに気付いた沙羅が、ノートPCから顔を上げ、こちらを見ていたのだった。 "昼過ぎにでも帰ろうか?"という問いをひとまず置き、武は沙羅を見た。 沙羅は武を見ながら、おもむろに言葉を継いできた。 「本当はね。私……この研究所に来るの、少し怖かったんだ。……私の生きてきた時間って、殆どがライプリヒの研究所の中だったから……」 沙羅の、突然の告白だった。 それは、知りたいと思っていた事実ではあった。が、その内容を当人から先に言われてしまうと、武は理由もなく少し緊張した。 一方、己の表情で沙羅を気後れさせてはならないとも感じた。そのため、武は努めて平静を装い、先をやんわりと促したのだった。 沙羅は意を決したように、再び口を開いた。 「でもね。私、パパが勤めている所へ行きたかったのよ。パパのしている仕事が、どうしても見たかった。……自分の過去から、これ以上逃げたくなかったから」 娘の目を見つめながら、武は沙羅の言葉の真意を理解した。 沙羅がどうしても、ここに来たかった理由――それは、自分自身の過去を乗り越えたかったからなのだ、と。 "元ライプリヒの施設"でもある、この研究所に訪れるということ。それは沙羅にとって、自分の過去と向き合うことに他ならなかった。 そして沙羅は、"もう、あのライプリヒは存在しない"ということを、自分の目で確めたかったのだ。 「パパだけじゃない。この研究所には、田中先生や桑古木さんも居る。空だって居るんだしね。……もう、私の知っているライプリヒは存在しないんだということが、今日判ったの。ただ、それだけでも……私にはとても価値があることだったのよ、パパ」 「だって自分の過去から逃げている間、私の時間は、止まってしまったままなんだもの……」と、そう続けた沙羅の双瞳からは、涙が数滴こぼれ落ちていた。 震えながら、沙羅は泣いていた。 その涙を拭ってやり、武はそっと沙羅を抱き留めていた。 「よしよし、沙羅。よくそこまで言えた……さすがは、俺とママの娘だ」 背中を優しく撫でながら、武は言った。 拙劣な冗句だったが、これには、同じくらいの拙劣さで応じる沙羅だった。 「当たり前で、ござるよ。忍者とは、"忍ぶ者"と書くのでござるからして」 「ニンともカンとも」 「ニンニン」 阿吽の呼吸のように、武と沙羅は忍者言葉を交わしていた。 オフィスルームの中で、寸刻の間、笑みで心を通わせ合う父と娘だった。 二人がめいめいの作業に掛かってから、しばらく経った後、固定電話が入ってきた。 予想はしていたが、電話は春香菜からだった。 春香菜は、昼飯をどうするのかを聞きつつ、こう切り出してきたのだった。"貴方の実験データに関わる内容で、ちょっと気になる点があるから、所長室まで来なさいよ"と。 先刻、提出を催促された実験のことだ。 武は少し前に、そのデータを送信していたことを思い出した。もしかしたら、電気泳動の実験データの採り方に、度し難いミスでもあったのかもしれない。あれは確か、眠い目をこすりながらの実験だったという記憶がある。 あの晩、自分とつぐみは、ホクトと沙羅が寝静まった後で、二人の進路希望調査書を眺めていたのだ。それから、二人の進学の諸経費を試算しては、夫婦仲良く溜息を吐き合っていたことも思い出し、武は苦笑した。 とにかく……頑張るしかなかった。 学費は何とかする。自分達の未来も何とかする。そのために俺の体は在るのだから、と思う頑張り屋の父、武だった。明日からまた長残業だ。 ともあれ――。 腰をおもむろに上げる。それから武は、傍らの沙羅に声を掛けたのだった。 「沙羅殿。拙者は、ちょっくらボスの元に出頭してくるでござる」 「あ、叱られに行くんだ? パパ」 面白がっているのか。気遣っているのか。いまいち微妙な語調で、沙羅が言ってきた。 「十中八九は、そうなるかもな」 と、苦笑いで流しながらも、武はしかし、沙羅が浮かない表情をしていることに気付いた。 沙羅の視線の先には、ノートPCのモニタがあった。 覗き込むと、そこには何やら複雑そうなプログラムがひしめいている。武はふと、ウィンドウの左上のファイル名が気になった。 Sora_m_sy……。 読みかけた時に、いきなり沙羅の大声が耳をさした。 「あ、パパッ! 勝手に見たら駄目でござるッ!」 たまらず耳を押さえたが、武の目はしっかりと沙羅の足元を見ていた。 その足元には、高速用LANケーブルが伸びていた。その先には、研究室の設備用LANコネクタがある。 沙羅のその慌てぶり。そして、"Sora"云々というファイル名。 これらの事象から、武はある事を直感した。 「沙羅! お前まさか、研究所のコンピュータにハッキングして――!?」 叫び掛けた口を、両手で押さえられた。 しー、しーと、沙羅が無意味に周囲を窺いながら、ささやく。 そうして武の方を見ては、こう言うのだった。 「ちょっと、空のことが気になるのよ、パパ」 空のこと? 口を押さえられながら、武は短く何事かを考えた。 が、こんな状況では、まとまるものもまとまらない。それどころか、口と鼻を塞がれているので、息すらままならなかった。 とりあえず武は、沙羅にジェスチャーで示してみせたのだった。"まずは、この手を、俺の口から離してぐださい。話は、ぞれか、ら……聞ぎ……まず"と。 あやうく、窒息し掛けるところだった。 話ができるところまで呼吸が落ち着くと、武は沙羅に説明を求めた。 沙羅は、とりあえず先刻の詫びをした後、ノートPCのキーボードをつつきながら、口を開いていた。 「さっき、パパが言っていたじゃない。"空の顔色が優れない"って。……私も感じていたんだ、それ。 でもって、研究所のメインコンピュータにちょっとアクセスしてみたのよ」 ハッキング行為を、"アクセス"という言葉にさりげなく言い換える。そんな沙羅の詭弁を、武は黙認しつつ、先を促した。 沙羅は自分の髪のリボンを手で弄びながら、口を開いた。 「それで、気が付いたんだけどね。……どうも空の思考システムって、旧32ビット時代のプログラムの名残があるというか、無意味な処理が多いような気がするのよ。そのあたりはまあ、結構特殊なプログラムもあったりするから、詳しくは判らないんだけれどね」 この、時刻に関わる変数もそうだし……などと、ぶつぶつ言っている。 そんな沙羅に、武は口を開いた。 「ああ、その思考システムなんだが……」 そして武は、春香菜の受け売りの説明をし始めたのだった。 空の思考システムは、確かに最先端のコンピュータ・プログラムではあるが、その真価はプログラム自体の完成度にあるのではないということ。 空の肉体である生体ナノマシンとの親和性――すなわち"相性"の奇跡的な高さのために、思考システムは大きな価値があるのだということ。 空の言う"ピュグマリオンの奇跡"とは、思考システムと生体ナノマシンの"奇跡的な相性の良さ"を意味したものだったということ。 そして、この空の思考システムは元々、LeMMIHにあった空のAIプログラムを流用して作られたものだったということも、武は併せて沙羅に説明していた。 なんとも歯切れの悪い説明になったが、これについてはどうすることもできなかった。これらを教えた春香菜自身、"第三視点"や"キュレイ・ウィルス"の研究ほどには、コンピュータ技術に精通していなかったからだ。 沙羅はしばらくの間、中空を見ていた。 納得半分、疑問半分の目は、やがて焦点を結び、再び武を見た。そして、こう言ったのだった。 「ねえ、この際だからさ。空の思考システムを、大元のプログラムから作り変えようって話にしちゃおうよ、パパ」 乱暴な発想をし始めたな、と思いつつ、武は答えていた。 「そんなの、時間がかかってしようがないだろう、沙羅殿」 「それはそれで、痛快な展開にはなるでござる」 沙羅は不遜にも、そう答えた。 「過去の教訓も反省も捨てて、現在の課題も問題も全てご破算。み〜んなみんな、けっ飛ばしちゃって、最初からやり直すの。空はこれから、新しい"人生"を歩んでいくんだから、いつまでも古いシステムやプログラムをひきずってちゃいけないのでござる」 軽い語調とは裏腹に、沙羅の表情には、ひとかたならぬ真剣味が漂っていた。 この言葉はおそらく、自分自身にも向けた言葉でもあるのだろう。思えば、この沙羅もそうだったのだ。新しい人生を歩んでいく以上、いつまでも古い過去をひきずってはいられないというのは、沙羅自身にも言えることだった。 そして、その沙羅には今、本気で空のシステムをなんとかしようとする気配があった。 言葉としての表現の仕方は大分違うが、その思考の生理において、沙羅は母のつぐみに近かった。軽薄な素振りをしながら、周囲の物事に一生懸命意識を巡らせている、そんなところが。 さすがは親娘だ、と他人事のように感心している中、固定電話が鳴った。 はっと、我に戻らされる。しまった、優の奴を待たせたままだ……。 武は、そのまま身を翻すや、所長室へ行く用意を始めた。 沙羅の方に一寸振り向いては、こう言っておく。 「沙羅。その電話、取らなくて良いからな! 優の奴、俺が中々来ないから、気が立ってやがるんだ」 それから、と武は言葉を繋げた。「空のシステムの"カンニング"は、ほどほどににしておくように。後で、拙者がまた怒られるんだから」 事態は果たして、武の想像通りになった。 所長室へ入るや、当人を待っていたのは、春香菜の仏頂面だった。 その仏頂面は早速、くだんの実験データの不備に対するお説教に繋がっていく。予想済みとはいえ、武の苦境はこうして、現実のものとなったのだ。 「倉成。研究というものはすべて、温度条件によって左右されるものなのよ。それが、貴方のプロトコール(実験手順・条件などを記載したもの)には何処にも記載されていないわよね。 良い? 温度条件がいい加減だと、その研究はいっさい正確な物とはみなされない。すべて除外対象。オミットなのよ。そのあたり、判っているかしら」 「判った、判った! 判ったー! 俺が悪かったでござる! やり直す。実験はやり直しますから、もう堪忍してくだされ、田中先生様!」 たまりかねて音を上げる武に対し、春香菜は腕組みをしたままだった。 「やり直すなんて、そんなことは当然でしょう」と言いつつ、春香菜はここで不意に表情を和らげた。「まあ、その実験は来週中にやってくれればいいから」 それから、春香菜はこう付け加えてきた。 「でも今回の、貴方の実験の結論自体は、それほど悪くなかったわ。"電気泳動における諸作業の自動プログラム化の問題点"云々のくだりは、私も感じていたことだしね」 一つ叱っては、一つ誉める。人の上に立つ者としては、ごく常識的なやり方ではあったが、それを春香菜はごく自然にやってのけていた。 武は少し春香菜を見入っていた。春香菜の生き続けてきた"17年"の断面が、その中にはあった。 そんなもの全然大それた結論じゃないぞ、と口では言いつつも、武は改めて春香菜を見つめたのだった。 その春香菜はソファに腰を沈めた後、武に紙コップのコーヒーを差し出してきた。「ブラックよ。少し薄めだけど」 受け渡され、一啜りする。口に含んだ液体は、妙にぬるくなっていた。 思わず、コーヒーを吹きこぼしそうになる。 「貴方がちゃんと実験してくれていたら、もう少し良い温度で飲めたのにねぇ」 口の周りについたコーヒーの飛沫を拭きながら、武は春香菜を睨んだ。 悪戯少女のような、春香菜の笑みが、なんとも腹立たしかった。 やはり、このあたりは昔の春香菜のままだった。 「まあ、とにかく、コーヒーご馳走さん」 形ばかりの台詞を言い、カップを春香菜のデスクに置く。 ふと、そのデスクの散らかり具合が、目に入った。 思えば、春香菜のデスクは、いつもこんな感じだった。 書類の整頓も適当、データのファイリングも適当。雑然という言葉以外、感想の当てようのない作業風景だった。それでいて、春香菜は書類の識別に困ったことがないというのだから、恐れ入る。 物の配置なんて、自分さえ把握していれば良い。それを地でいく春香菜だった。 机の上は、キュレイ・キャリアの遺伝コード表の山。ロール状になったそれが、所狭しと並んでいる。 コード表の向こうには、古ぼけた写真が一つ。その写真のホルダに、ノートPCの画面が映り込んでいた。 その画面右上のファイル名には、こうあった。――"BW_P_1"と。 |
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