草と、空の下に
                              YTYT 

6話 「2035年1月21日 11:48」

《11:48:39》
 自分のオフィスへの通路を歩く道すがら、武は腕時計を見た。
 もう、昼間近だった。早々に春香菜との会話を打ちきってしまえば良かったものを、BWや沙羅の話で妙に入れ込んでしまい、気が付けばこんな時間だ。
 俺って奴は、とつくづく思う。仕事もまだ半分しか進んでいないというのに……。
 先に来た通路を戻りながら、武の足は速まっていた。
 沙羅の不機嫌そうな表情が、頭をよぎる。
 あいつは危ない。長いこと放っておけば、きっと何かやらかす。そうした悪寒が、背筋を盛んに撫でていた。
 通路の右手に、"Central fountain square(中央噴水広場)"という表示が見えた。そこを抜けた先に、自分のオフィスがある。
 武は、妙な気合を入れると、通路を右へと折れたのだった。
 
 広場に差し掛かる。
 そこは、あのLeMUの"憩いの間"を想起させるものがあった。
 広場一帯に花壇が広がり、その花壇から、数本の巨大な支柱が屹立している。南北に伸びた天窓からは、広大な雪雲を見ることが出来た。
 武は、花壇の片隅に、誰かがたたずんでいるのを見た。
――空だった。
 身をかがめ、何かを一心に見つめているようだった。その視線の先には、大小さまざまな草花があった。
 薔薇、マリーゴールドにマーガレット。そうした花々の取り合わせも、LeMUと同じ物だ。季節に関わらず、室内に咲き誇るそれらは、空調設備と品種改良の技術の賜物なのだろう。
 空は、そこに植え込まれている草と花を、じっと見つめているのだった。
 何かに憧れているような顔。その横顔から、"ピュグマリオンとガラテア"の話を思い出してしまい、自然と足が止まった。
 そして、沙羅が言っていた"気になること"も併せて思い出し、武は空の元へと寄ったのだった。
 空の大切な時間を阻害するようで、一瞬気が咎めるも、武は意を決めて、声を掛けていた。
「……茜ヶ崎君って、草や花が好きだったんだよな?」
 躊躇して出した割に、語調の方は中々だった。
 空は少し驚いたように、武の方を振り向き、立ち上がってきた。
 頬をわずかに赤らめ、空は「ええ、……とても好きです」と口を開いた。
「憧れています。……草や花という存在に」
 それから空は、直上の天窓を見上げ、
「あと……、あの空も」
 と、目を細めて呟いたのだった。
 天窓を見上げる空の横顔には、様々な表情が漂っていた。憧憬や羨望といった表情が。
 空の横顔には、どことなく疲労感のような、翳りのようなものが見て取れた。天窓の光の心的効果なのか、どうなのかは判らない。が、その横顔は、このときの武に強く印象を残した。
 空は、目線を武に戻しては、こう続けてきた。
「私が、草や空に憧れている理由……それは、草も空も、時間と共に変化する存在だからかもしれません」と。
 抽象的な、物言いだった。
 こうした、空の言い方自体は、珍しく無い。が、それを聞く武の方が、何故か少し当惑していた。
 先に見た翳りの横顔が、記憶の端にちらつく。
 そんな中、空の言葉は続いた。
「倉成さん。私は、"私"という存在が始まったときから、"24才"のままです」
 手を胸に当て、空は更に言葉を続けた。「24才――」
「……その年齢は、私が存在する限り、変化することはありません。
"年を取らない"という意味においては、私は、キュレイ・キャリアの倉成さん達と同じ存在と言えるのでしょう。けれども……」
 空の視線が、少し斜めに落ちた。その目が、中空を力無く移ろい、武の前に再び止まる。
 やがて、空の口から漏れたのは、これまでになく重い言葉だった。
「倉成さん達と、この私の間には、はっきりした境界があるのです。"人"と、"人でないもの"という境界が。
 これは、単なる"境目"という意味の境界ではありません。"決して接することのない線"という意味での境界なのです」
「決して接することのない、線?」 
 武は聞き返していた。「……もうちょっぴり、具体的に教えてくれると、先生とても嬉しいんだけどなぁ。茜ヶ崎君」
 台詞と口調を滑稽にさせはしたものの、心の方が追いついていなかった。
 何かが空を苛んでいる、という警告が、耳の何処かで聞こえた。
 その"何か"を知らなくては、と感じた。知った上で、なんとかしなければと思った。武の問いは、そんな想いから出た言葉だった。
 だが、そこに、当人からの更なる問い返しがあった。
「倉成さん。双曲線と漸近線という言葉は、ご存じですか?」
 一寸、思考が固まる。
 双曲線と漸近線……?
 それは、意味的な繋がりのない、突然の言葉のようにも思えた。
 だが、空が問いとして発してきた以上、この質問にはなんらかの意味があるはずだった。武は、問われたそれらの二つの線についてを、なんとか思い出そうとした。
 ほどなくして、遙か昔に習った内容が脳裏に浮かんだ。
 狼狽を悟られぬよう、平静を装いながら、武は言った。
「うむうむ、思い出したぞい。なんか中学校の算数で習った覚えがある。反比例のグラフかなんかで出て来るカーブと直線だろう?」
 ちょっと、変てこりんな形をしてるんだよな、と指で反比例のカーブと直線を描いてみせる。
 それには、くすりと笑う空だった。
「倉成さん。まずはツッコミをしておきますね。……中学校で習うのは、"数学"ですよ。"算数"ではありません」
 そうやんわりと語った後、空は説明を始めたのだった。
「倉成さんが今仰ったとおり、双曲線と漸近線は、反比例のグラフ等で表されるあの線です。
 そして、双曲線は、漸近線に近づいていきますが、永遠にそれに接することはありません」
 空は一度黙してしまい、ややあって言葉を継いだ。「……その"双曲線"が、言ってみれば私なのです」
 そして、視線を武の正面に据え、こう続けたのだった。
「人という"漸近線"にどこまで近づいても、永遠にそこに到達することが無い存在……。それが、私です」と。
 少しの間、静寂が訪れた。
 花壇の草花が、音もなく揺れていた。天窓の白空が、さらに灰色がかってきている。
 武は黙っていた。
 空の視線を受けながらも、ついに後の言葉が出てこなかった。
 表情や視線や語調。それら全てに、空が抱えてきた孤独や絶望が垣間見えていた。
 沙羅の先刻言った、"気になること"――。それが正に現実のものであったことを、ここに目の当たりにさせられ、武は言葉を失ったのだった。
 空は、自嘲の笑みを作り、口を開いた。「私は、人とは違う存在です」
「私はただ、人の形をした"人形"であり、記憶と記録の入った"器"であり、人に近づくことのできない存在なのです」
 ここに及び、武は、かろうじて反駁した。「空。違うぞ、それは」
「俺は、空をそんなふうに見なした事なんて無い。お前を、ずっと"人"だと思っていた。
 2017年のあの事故のときだって、そうだ。あのとき、空がAIであると知らされなかったら、俺は最後まで空を"人"と思ったままだったと思う。
 今だって、同じだ。俺はお前を"人形"とも思っていないし、"器"だなんて思ってもいない。
 それにさ、空……お前自身、心の何処かで、それを否定したがっているんじゃないのか。
 だからこそ、空はさっき"ガラテア"として――"人"として、俺の授業を受けたいと言ったんだろう?」
 空はただ、疲れているだけなんだよ、と一旦言葉を置く。
 それから武は、表情を和らげ、後を続けたのだった。
「今抱えている仕事で、俺に出来そうなことがあったら言ってくれ。手伝うから」
 あんまり頭を使うのは勘弁だけどな、と、物柔らかに笑ってみせようとしたときだった。
――空の体が、前へ崩折れそうになったのは。
 考えるよりも先に、手が動いていた。「空ッ」
 空を抱きとめたとき、その体に手が触れた。
 少し熱い、と感じた。
 咄嗟に、空の額へ差し出そうとした自分の手は、しかし当人によって再び拒まれた。
 両手を武の前に突きだし、空は、下を向いたまま口を開いた。
「すみません……倉成さん。私は大丈夫ですから」
 空の荒い息が、鼓膜を震わせた。
 大丈夫なわけがないだろう、と肩を貸そうとするが、それもまた頑なに拒絶された。
 心配し、苛立ち、なんとかして手を差し伸べるタイミングを窺う。
 だが、空の拒絶はあまりにも頑なだった。そのため、武はいよいよ焦り、つい切羽詰った声を上げてしまった。
「どうしたんだよ、一体!」
 武は怒鳴っていた。「何を、そんなに意固地になってるんだ! 空ッ!!」
――はっとする。
 反射的に詫びようとしたところに、空の目があった。……空は、哀しく微笑んでいた。
「倉成さん。貴方は優しい人です」 
 それから、自分でゆっくりと上体を起こし、こう続けた。「……私は少し、LeMUにいたあの頃を思い出しました」
「18年前のあのときも、貴方は今のように、他人をまず先に助けようとしていましたよね。自らの危険も顧みずに。
……多分、つぐみさんも、貴方のそうした所に惹かれたのでしょう」
 武の目が、一瞬点になる。「……そ、そうかな?」
 唐突にそう語られ、場違いにも赤面してしまう。
 が、すぐに頭をふり、武は言った。
「い、いやいや! ……今は、そんな"過去"の話をしてるときじゃない。俺はお前の"現在"を心配しているんだぞ」
 本当にどこか具合が悪いんじゃないのか、と問うものの、それはまたしても、"私は、大丈夫です"という返事で退けられた。
 そうして、空の言葉は、先の話に還っていた。
「倉成さん。……貴方の優しさは、とても人間的で普遍的なものだと思います。
 その優しさは人を選びません。だから、良きにせよ悪しきにせよ、それは人に容易に理解され、人に様々な感情をもたらせているのでしょう。
……私のような"人でないもの"にまで、色々な感情を呼び起こさせるのですから」
 空の笑みは、ここでわずかに歪んだ。
 そして、こんな言葉が続いたのだった。「――だから、貴方の笑顔は、反則なんですよ……倉成さん」
 私はずっと――貴方のことが……。
 言葉は、そこで止まっていた。
 空は、我に返ったような表情をした。
 自らの発した言葉にうろたえるようにして、空は武を見た。
 そして、あわてたように手を振り、自分でも意識していないような作り笑いをする。
「あ、あの! すみません、倉成さん。今、私の言いかけたこと。……どうか、全部忘れて下さい。独り言……独り言ですから」
 それだけを言い、空は一礼してから、その場を立ち去っていった。
 孤独な、空の背中だった。
 小さくなっていく、その背中に、武は声を掛けようとはしなかった。
 掛けられなかった。
 空の言葉に、衝撃を受けていたからだった。
 しかし、それは実のところ、全く想像していなかった言葉ではなかった。
 この研究所に勤め始めてからの半年間、空の好意がずっと自分に向けられていたことを、知らぬ自分ではなかった。
 にも関わらず、自分は、空の気持ちを考えようとはしてこなかった。それを今の今まで、無意識にせよ遠ざけ続けてきた自分自身の不実を直視させられ、武は絶句していたのだった。
 では、どうしたら良いのか? 
"人でないことの苦しみ"や、"実らない恋の辛さ"を抱えている空に、自分は何が出来るのか。……答えは出せなかった。
 どうすることもできないまま、武は、ひたすら身に余るほどの当惑を抱え込まなければならなかった。
 そこへ更に、先刻の沙羅の泣き顔が重なり、武は改めて言葉を失っていた。
 自分の存在や過去に対し、孤独や不安を抱えていた点で、空と沙羅は、似ているのだということ。それに、武は突き当たったのだった。
"人でない"ゆえに、孤独に苛まれる空と。
"人である"ゆえに、孤独に苛まれる沙羅。 
 だが、その二人の差は、どこにあるのか。その境界は、どこにあるというのか。やはり答えは見つからなかった。
《倉成さん達と、この私の間には、はっきりした境界があるのです。"人"と、"人でないもの"という境界が》
 この空の台詞は、武には深遠すぎる言葉だった。
 そもそも、"人とは何か"という答えすら、武には出せずにいたのだった。
 無人になった憩いの広場に、武はただ立ち尽くしていた。
 自分が普通の肉体を持っていないことも、併せて省みてしまい、心の混迷には更に拍車が掛かっていた。
 押しつぶされるような感覚に、自分自身堪えられなくなり、武は知らず天を仰いだ。
 天空は、白く濁った不透明な世界だった。茫漠たる雪雲が、天窓を包み込んでいる。
 溜息を吐いた。
「まいった、な……」
 呟く自分の声は、くぐもっていた。
 つぐみに今朝言われた言葉が、脳裏をかすめる。
"人の本質なんて、誰にも判らないものなのよ"――。
 この言葉はしかし、今の武にとっては、喩えようもない響きを持って心に巡り始めていた。
 つぐみの言葉を反芻する。
"私達人間の本質なんて、本当は誰にも判らない。……――判らないからこそ、自分で信じるのよ。これが私の……人間の本質なんだということを"――。
"貴方は、倉成 武として、正しいと思う生き方をすれば良いのだから"――。
 つぐみ……。
 自分には過ぎた伴侶の言葉に、このときばかりは、少しだけ慰められたような気がした。
 確かに、つぐみの言う通りだった。
 自分は、人の本質はおろか、空のことさえ何も判っていなかった。
 そんな自分が、空のために何か出来るとすれば、"空を守りたい"という一筋の意志を貫くことしかなかったのだ。自分の信じる生き方を貫くことしかなかったのだ。かつて、自分がLeMUの中で、つぐみを絶望から救ったように……。
 武はいつしか、つぐみの顔を想い起こしている自分に気付いた。
 今朝のつぐみが、どんな深謀をもって、この言葉を言ってきたのかは判らない。だが、それが今、巡り巡って、この自分に力を与えてくれていることだけは確かだった。
 こんな自分を、仮初めにでも認め、理解し、力づけてくれる者が、いつでも自分の傍にいる。自分の心の傍にいる。そのことを改めて認識し、武は、つぐみという伴侶の存在に、深く感謝したのだった。
 一方、空のことを思っては、再び真剣に考えもした。
 空の現実とは、"自分が人ではない"という事実と向き合うことに他ならなかった。それは、空が存在する限り変わることは無い。
 ならば、自分は、空に何かすべきことがあるはずだ、と武は思った。
 空は、"自分が人ではない"という現実の中で、これからもずっと生きていかなければならない。
 その空が今、何かしらの不安に苛まれているのだとすれば、自分にはまず、なすべきことがあるはずだった。人として。空の"先生"として。――"倉成 武"として。
 空……。
 武は、空の去っていった方向を見た。
 その道の両脇には、草と花が揺れていた。
 混沌と垂れ込める、灰色の空の下で。

《12:11:11》
 空の思考システムの"カンニング"は、一段落していた。
 画面をスクリーンセイバーにした状態で、沙羅は父の帰りを待っていた。
 PDAで呼びつけてやろうと思ったものの、春香菜にこっぴどく叱られている父の姿を想像してしまい、それは流石に自制せざるを得なかった。
 けれども、お腹はさっきから、ぐるぐると獰猛に鳴っている。沙羅にとって、これはかなりキツい状況でもあった。パパ遅い、遅い、遅いぞぉッ!
 辛抱溜まらず、父の机の引き出しから、菓子をくすねて口に入れる。
 が、それは思っていたよりも旨かった。
 ついつい食べることに夢中になり、気が付けば、引き出しの中の菓子は殆ど空になっていた。
 しまったと思ったが、後の祭りだった。しらばくれるにしても、これではしらの切りようがない。
「でも、人を待たせるパパが、いけないのでござる!」と、開き直りを決め込んではみたものの、やはり罪悪感は後に残った。
 仕方なく、どうやって謝ったらいいものかを考え、沙羅は不愉快な時間を送ることになった。
 しかし、それも次第にだれてしまう。沙羅は足をばたつかせながら、しきりに腕時計を見ていたのだった。
 所在なげに、手を頭の後ろに組み、ソファを揺らす。
 そうしながら、沙羅は「あっ」と声を漏らした。"カンニング"の件で、父に釘を刺されていたことを、思い出したのだ。
 いそいそとスクリーンセイバーを解除する。
 ハッキング用ソフトを終了させようとしたときに、おやと思った。
 メインコンピュータシステムに、自分以外のアクセスがあったようだった。
 接続元のコンピュータ名は、LM-RSDS-4913A。この名前に、沙羅は覚えがあった。
 LM-RSDS-4913A……それは、空の正式名称だった。空は、かつてLeMUの中で、自分の事をそう言っていたのだった。
 すなわち、このメインコンピュータには現在、空自身がアクセスしていることになる。
 けれども……。
 沙羅は、空とメインコンピュータの接続状況を見ながら、不審に思った。5分ほど前から、空からの応答が無い。
 応答が無くなる寸前までは、かなりの量のパケット(データのまとまり)の流入出があった筈なのに。まるで、何らかのトラブルにでも遭ったかのような、それは唐突な沈黙だった。
 気になる。
 空のプライバシーを侵す後ろ暗さを感じつつも、"まあ、ちょっとだけなら"という好奇心に負けた。沙羅はハッキング用ソフトを使って、空自身の思考システムにアクセスを試みたのだった。
 空の思考システムにはアクセス制限が掛かっている。が、沙羅はハッキング用ソフトで偽装ユーザー認証コードを作りだすことにより、その制限をくぐりぬけることが出来るのだ。
 ほどなくして、アクセスが成功する。
 しかし――。
 沙羅の目に飛び込んできたのは、異様な画面だった。
 表示がおかしい。
 空の思考システムの画面には、おびただしい量の数列が表示されていたのだった。
"1100100111010101110000110110101001100111000000000000……"
 それは、0と1の数列だった。
 信じられない物を見る思いで、沙羅はモニタを凝視した。何……これは?
 数列は画面下まで連なっている。その最後の方は、"0"でひしめいていた。
"0000000000000000000000000000000000000000000000000000|"
 これが、数列の末尾だった。
"|"というカーソルが、無気味な明滅を繰り返している。
 それが何を意味しているのかは、判らない。
 判らないが、ただ一つ確信をもてるものがあった。空のシステムに、何かがあったことだけは……。
 両手に軽い痺れを感じた。いつの間にか身を乗り出し、机に体重をかけていたことに気付く。
 沙羅は椅子に座り直して、なんとか自分を落ち着けようと、心の中で深呼吸した。
 この数列は、バイナリコード(0と1の二進数のコード)だと思う。けれども、バイナリコードが、このような形でシステム上に表示されることなど、普通はありえない。これは、どう考えても尋常ならざる異変だった。
 でも、何故……?
 狼狽しながらも、沙羅は画面を見続けた。
 この原因を掴む手がかりになる物はないか。画面上に何かエラーコードが出ていないか。とにかく、画面の隅々に目を走らせ、沙羅は異変の原因を探し続けた。 
 そして、画面右下のシステム時刻に、目がいったときだった。
《12:08》
 空の思考システムの時刻表示は、そこで止まっていた。
 12:08……? 沙羅は、自分の腕時計を見た。時計は、《12:15》を表示していた。
 沙羅の視線は、もう一度システム時刻に戻った。
 12:08――。やはり、システム時刻の表示は、そこで止まったままだった。
 何故、時刻の表示が止まったままなのだろう……? 沙羅は訝った。
 システムの不具合などで、時刻表示が止まってしまうこと自体は、あり得ない話ではなかった。メモリなどの過負荷によって、コンピュータがOSごと固まってしまうような場面を、何度か見てきた沙羅だった。
 けれどもこのとき、理性は警告してきていた。そこには何かがある。重大な何かがあるのだ、と。
"……私にとっての時間とは、《自分の稼働してきた一秒一秒》のことです"
 空の言葉を、唐突に思い出していた。
 一秒一秒……。その言葉に、何かしらの意味があるのか。判らないまま、沙羅はそれを反芻していた。
 じくっと、胸がうねった。嫌な予感がした。
 その予感の意味するものが何であるのか、このときの沙羅には判らなかった。けれども、目の前のシステム時刻の異変と、空の語ったこの言葉はきっと無縁ではない。何か関係があるのだ。そう、沙羅は思った。 
 空……。
 PDAを取り出し、父を呼び出す。
 沙羅は、コール音を聞きながら、自身の心臓の鼓動がにわかに激しくなっていくのを感じた。空――!

     *

 空は、ICU(集中治療室)にいた。
 研究所の中でも最奥部に位置し、多数の端末と医療機器に囲まれた治療室――それがICUだった。
 無機的な空間だった。きっと、LeMUのIBFも、このような場所だったのだろうと思う。
 室内の片隅のハイバネーション・ユニットを、空は見つめた。武とココは、かつて、そのユニットの中で17年間眠り続けていたのだった。
 同時に、彼ら二人がどのように生死の境界を彷徨ってきたのかも、併せて想像してしまった。今更ながらに、胸が少し苦しくなる。
 また、システムがノイズを検知した。それを再び、プログラム上でカットする。
 空は溜息を零し、自らの来た方向に首を振り向け、短く想念を巡らせた。
 結局、自分のオフィスルームには戻れなかった。武に言いかけた告白が、ずっと尾を引いていたのだ。
"私は、倉成さんのことが――"
 なんということを、自分は言いかけてしまったのだろう、と思った。
 自分は間違いなく、武に恋していた。
 けれども、それが届かない想いであることも、自分は知っていた筈だった。
 武には、守るべき伴侶も家庭もある。自分の想いを通すことは、武からそのすべてを奪う行為に他ならなかった。そんな権利は、この世界の誰にも無い。神その者にさえ無い。
 だからこそ、自分は思考システムに、それを抑えるためのプロテクトを幾重にも掛けていたのだった。
 にも関わらず――この私は、倉成さんに口走ってしまったのだ。自分の想いを……。
 私はやはり、どこかがおかしいのかもしれない、と空は思った。
 先の武との会話も、やはり何処かがおかしかった。
 武を揺さぶるように、抽象的な言葉を並べ、いたずらに心配を煽り、あまつさえ当人のかけてくれた心配も、一方的に拒絶した。
 双曲線と漸近線の話も、するつもりは無かった。言ったところで、それは武を困惑させるだけだと判っていたはずなのに、自分は口にしてしまったのだ。
 やはり、自分はどこかがおかしい。
 ずっと断続的に起こり続けている、このノイズの件もしかり。今回の武の件もしかり。空にはもはや、自分の異常を否定することは出来なくなっていた。
 例のノイズは、また発生し始めている。ここに及び、空は、自分の思考システムをデバッグする決心をしていた。
 そのデバッグの環境は、研究所の"メインコンピュータ・ルーム"と"ICU"に揃っている。この二つの場所こそが、自分をデバッグするには最適だったのだ。
 先頃メインコンピュータ・ルームに行ったときには、春香菜がまだメンテナンス作業をしているところだった。そのために、空はそこを諦め、このICUへ来ていたのだった。
 今は、……誰にも会いたくなかった。
 否、会えなかった。春香菜にも、桑古木にも、誰にも。
 自分は、何をしでかすか判らない。そうした強迫観念めいたものに、空は囚われていた。今の自分がこのICUに居るのは、いわば自身を隔離しておくためでもあった。
 空は、システム接続用のLANケーブルを握っていた。
 それは、自分の思考システムと、メインコンピュータを繋ぐためのものだった。
 そこから、自分はメインコンピュータにアクセスし、自分の思考システムの"オリジナル・プログラム"を参照しながら、デバッグを行うのだ。
 このオリジナル・プログラムとは、自分が肉体を持つことになったときの、思考システムのプログラムだった。すなわち、今の自分の思考システムの元になった物だ。
 自らの後頭部のコネクタ部にケーブルを接続し、それをICUのコンピュータ端末に繋げる。
 空は、メインコンピュータにアクセスした。
 
 TANAKA LAB'S BIOS v7.0

 Quantum Processer
 Memory Test : 2500066608K OK
 TANAKA Plug and Play BIOS Extension v4.0A
 Initialize Plug and Play Sys
 Sys Init Completed...

 その後、画面上に、カーネル(OSの基本機能を持つソフト)の起動メッセージなどが流れていく。
 そして、最後にはメインコンピュータへのログイン画面が表示された。
 
 Login :
 Password :

 ここで、ログインアカウント名とパスワードを入力する。
 ほどなくして、メインコンピュータは空を認証し、各種ファイルへのアクセス許可メッセージを表示した。
 空は、画面にひしめくディレクトリの群れから"Sora_m_sys"を見つけだし、その中から自分のオリジナル・プログラムを取った。
 このとき、春香菜に依頼されていた仕事を、思い出した。
"2034年の計画で使用された、プログラム・ファイルの整理作業"――これが、春香菜の依頼だった。
 そうだ。この整理作業もまた、今やってしまおう……。
 空はそう考え、自らの脳内の思考システムに、それらのプログラムも併せて移したのだった。

 ここまでの作業を機械的に進めながら、空は息を吐いた。
"私は、倉成さんのことが"――。
 自分の言った言葉を、また思い出してしまった。
 私は本当に、なんということを口走ってしまったのか……。
 空は後悔していた。
 自分の記憶には、この言葉が音声データとして生々しく残っていた。
"私は、倉成さんのことが"……。
 それは、口にしてはならない言葉だった。
 決して告げてはならない想いだった。
 永遠に、自分の内にしまっておこうとした、その言葉。
 どうして私は、倉成さんに言ってしまったのだろう? 空は頭を振って、目を固く瞑った。
 倉成さんを困らせるつもりは無かった。決して故意ではなかった。
 けれども、"自分の想いが永遠に届かない"という事実や、"自分が人ではない"という現実が、あのときの自分に何かしらの感情を引き起こさせていたのだろう。
 それは人で言うところの、"憎悪"や"憤懣"と呼ばれる感情なのかもしれない。その感情が何故か、武へと向かってしまったのだ。
 これは明らかに異常だ、と空は考えた。 
 人でもない自分が、人のように嫉妬や不安や憎悪に駆られるまま、人を苛み、傷つけてしまっている。
 これは、思考システムの深刻な不具合だ、と思った。
 私の思考システムに、いったい何が起こっているのだろう……。そして、このノイズは一体、何が原因になっているのだろう……。
 空は、自分のシステムの稼働状況を見つめながら、考えていた。
 とにかく、自分のオリジナル・プログラムをもう一度調べなければ、と思った。
 もしかしたら、そのプログラムに何らかの原因が隠されているのかもしれない。原因が判らなくても、現在の自分の思考システムとの相違点から、何かが見えてくるかもしれない。
 そう思い、空はデバッグを始めたのだった。
 先刻に移したプログラムを、展開していく。
 デバッグ自体は、自分の思考システムの内部で行われていた。そのため、自身は目を瞑ったままでも、キーボードを触らずとも、プログラムを操作できるのだった。
 まず手始めに、システムの不具合の原因となる不正プログラムやデータを検索していく。
 そうして検索していきながらも、空は改めて、自分の存在を顧みていた。
 自分は、生きるということを感じられない存在だった。"感じる"ことの出来ない存在だった。
"感じる"ということ――。
 それは空にとって、"何の《分析》もせず、そこに在るものを、ただ在るがままに理解する"ことを意味していた。そして、それが自分には不可能であるということも……。
 自分は、"分析"すること無しには、何の事象も理解することが出来ない。何の情報も受け入れることができない。だから、この自分には、"感じる"ことが出来ないのだ。先刻の沙羅の沈んだ表情を見たときも、その心を感じ取ることが出来なかったように……。
 空は、深く絶望した。
 草も空も、数値によってしか理解できず、人の心も過去のデータからしか推し量れない。それらについての情報はいくらでも持っているというのに、自分は、草も空も人の心も"感じ"られないのだ。自分に理解できるのは、あくまで、"0"と"1"だけなのだから……。
 数万、数億の統計情報を集積させながら、未だ実感と呼べるものを何一つ捉えることができない。それが、この自分だった。
 そして、こんな自分の今の煩悶も、やがては、"論理的なアルゴリズムの不正処理"として修正されてしまう。然る後には、"煩悶する前の状態"が、自分に残されるだけだった。
 それが、何故かここに来て、とても邪魔なシステムであるとさえ思った。
 けれども、それを邪魔に思う心さえも、自分はシステムの最適化によって、解決することができてしまうのだ。
 そうして解決された後には、思考システム上に無機的なエラーログが記録されるだけだった。それ以外、自分には何も残らない。
 虚ろ、むなしい、ただ在るだけの存在。それが自分だった。
 この先に"何億秒"があろうと、"何十億秒"があろうと――自分はただ、そこに在るだけの存在……空っぽな存在……。
 それ故に、自分は"空"なのだ。
 更に絶望を深めながら、空はこう思った。ああ、だから、この自分は"空虚"であり、"空疎"なのだ……と。
 力無く、うつむく。自分の後頭部のケーブルが微かに揺れた。
 空は、自分の胸に手を当てた。
 手が少し震えていた。
 そんなことは無い、と否定したかった。私は"空"であっても、"空虚"ではない。そう思いたかった。
――倉成さんの言ったことは、正しかった。
"自分が《人形》であり、情報の入った《器》にすぎない"という先刻の言葉は、言った自分自身が最も信じていない言葉だった。信じたくない事実だった。
 自分はきっと、いつか"人"になれるのだ。何年後かは判らない。何十年後かも判らない。でも、きっとなれるのだ……"人"という存在に。
 そんな、仄かな希望があった。だからこそ、自分は人として倉成先生の授業を受ける日を、待ち続けていたのだ。
 人になりたかった。
 そして、倉成先生の授業を、もう一度聞きたかった。
"茜ヶ崎君に授業をしてやろうと思ってだな"――。
 今朝の武の言葉を、突然に思い出していた。
 その言葉一つにさえ、空は、すがりつきたい想いだった。倉成先生……私は今、本当に貴方の授業を聞きたいです……。
 けれども、ここでまたしても、先刻の告白が頭に浮かび上がってしまった。
"私は、倉成さんのことが"――。
 自らの発した告白。取り返しの付かない告白。その自覚が、頭に重くのしかかってくる。
 魔が差したのか。狂っていたのか。
 判らない。判らない。
 言葉の誤り? 作為? やはり、倉成さんを困らせたかったのか。好きな人を……大切な人を、困らせたかったのか。
 判らない。本当に、判らない……。
 どれも、自分には判らなかった。
 イエスもノーもなかった。
 空は、救いの見えない思考の迷路に陥り始めていた。
 一体、どうすれば……。
 そう思いかけたときだった。
 空は無意識に、あるプログラムを実行してしまっていた。
"BW_P_1"――。プログラム名には、そうあった。
 はっとして、プログラム処理を中断するコマンドを入力した。が、間に合わない。 
 直後だった。
 視界、が――。
 視界がじわりと崩れた。
 景色の奥行きが、歪んでいく。自分の視覚システムが、異常を起こしていたのだった。
 自身の時刻管理プログラムが、エラーを次々と吐き出していた。
 それだけではない。もはや自分が、何時からここに居るのかが、判らなくなっていた。参照すべき過去のデータが無い。過去の記録が無い。何故? 何故――。
 視覚の崩壊が、さらに進んでいく。
 先刻までICUだった筈の景色には、すでにバイナリコードが氾濫しはじめていた。視覚システムが、制御を失いつつあるのだ。
 室内のあらゆる物が色を失い、形を失い、無機的なバイナリコードに変わっていく。
 01100000111……。
 見れば、自分の手や足も、変化し始めていた。視覚システムの異常が、さらに進んでいた。
 徐々に、手も足もバイナリコード化していく。目に見える物すべてが、0と1の数値に侵食されていく。狂わされていく……。
 ノイズが発生していた。やはり、例のノイズだった。
 自分のメモリに深刻な負荷が加わっていることを、システムは告げている。
 生体ナノマシンの脳内に、セロトニンを活性化させたが、それでも間に合わない。
 自分のシステムはもはや、時間の認識を全く出来なくなっていた。
 今立っている場所も、自分がそこに来た経緯も、何も判らない。私は私は、わ0 たしは――。
 私は。
 わ11たし、は。
 わ
 たし0100私
 は――。
 もはや、自分の思考をいとなむことさえ侭ならず、バイナリコード化されたデータが頭を駆けめぐった。
 001100―――。  
 0100111010101111001001110101011111000110101010000000000000000000000000000000000000000――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…………………………/
 プツリという音と共に、空の意識は途絶した。

 意識が消える寸前――空は、草や青空を垣間見た。
 それから、自分にとって大切な存在である、武や沙羅の顔がちらつき……やがて暗く崩れて消えていった。




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