草と、空の下に
                              YTYT 

7話 「2035年1月21日 15:49」

《15:49:10》
 所長室の分室――メインコンピュータ・ルームの"Central control room(中央制御室)"――。そこに、四人は居た。
 武も沙羅も、春香菜や桑古木も……それぞれが、煩悶と当惑のただ中にあった。
 昼食どころの話ではなかった。空が倒れてしまい、事態は急転していた。
 沙羅からの電話を受けた武がまず驚き、ICUで空を見つけた桑古木がさらに驚き、二人からの連絡を聞いた春香菜が極めつけの衝撃を受けるという、前代未聞の出来事だった。
 それでも、空が倒れたことが事実である以上、自分達は現実問題としてそれに対処しなければならない。一も二もなく、空はそのままICU内に完全隔離され、L-MRIにかけられていたのだった。
 心拍数・血圧などのバイタルサインに、異状は無い。脳部への損傷も無し。呼吸障害も無し。ウィルスや細菌なども、空の生体組織からは一切検出されなかった。
 瞳孔の位置や運動、大きさ、対光反応などにも、やはり異状は無い。その他各組織にも、病変部位は無し。ここに及び、春香菜は、"空の生体ナノマシンについては、正常に機能している"と判断していたのだった。
 となれば、問題は思考システムの方になってくる。
 空が発見されたとき、その後頭部には、メインコンピュータの接続用ケーブルが付けられていたのだという。
 そして、沙羅の言っていた、空の思考システムの異常。
 こうした状況から察する限り――空は、自身について何らかの"デバッグ"をしているときに、異常を起こしたのだと考えられた。
 事実、思考システムは、本来の状態であるとは言えなかった。
 記憶や記録に関わるデータについては、かなり自己修復が進んでいたものの、思考システム自体が依然として様々な不具合を抱えている状況であることに、変わりは無かった。
 セーフティモードが機能したため、最低限の生命維持は保たれている。そのおかげもあって、空はどうにか"脳死"状態を免れていたのだった。
「空の意識が戻る見込みは、無いのかッ!」
 と、武が荒い口調で、春香菜に訊ねれば、
「何度同じ回答をさせれば気が済むの? 今はまだ判らない、と言っているでしょうッ」
 春香菜が苛立った応じ方をする。
 そこへ桑古木が、
「心拍数や血圧に問題がないのであれば、あるいは」
 と気休めを言いかけたところに、沙羅が反駁するのだった。
「でも、問題は空の肉体にではなく、思考システムに起きているんです。
 空の意識障害が、それによって引き起こされているのだとしたら、今は決して予断を許さない状況だということですよね。……心拍数や血圧とは関係無く」
 そして、また重い静寂が降り、事態は今に至るというわけだった。
 沙羅は、無意識に腕時計を見ていた。
 時刻は、すでに《15:00》を回っている。けれども、自分達は事態を把握していない。光明一つ見出せていない。
 自分達の焦燥感を嘲笑うように、時間だけが過ぎていく。
 沙羅は絶望に近い思いで、傍らのノートPCに目を落としていた。
 それは、空の思考システムを"カンニング"していた物だった。
 沙羅は、研究所のメインコンピュータに侵入したことを春香菜に白状していた。空の異変に気付いたのは、自分がハッキングしたためなのだから。
 春香菜は、そのときには怒りもせずに、控えめな苦笑いを返してきただけだった。「そういえば、2034年の事故でLeMMIHにハッキングしたのも、貴方だったわね」と。
 ノートPCの画面上には、例の数列がひしめいていた。
"0000000000000000000000000000000000000000000000000000|"
 末尾で無気味に明滅するカーソルが、不安を煽り、心を揺さぶってくる。
 それに加えて、画面右下の時刻表示も目に留まり、沙羅は覚えず息を飲んでいた。
《12:08》
 やはり、システム時刻は、《12:08》で止まったままだった。
 経過することのない時刻。
 それに、繋がりもなく、父や母や春香菜たちのことを連想してしまった。
 進むことのない時間。時間によって老いることの無い生命……。それが、キュレイ・キャリアの運命を象徴しているように思えたのだった。
 父や母のことを思い、心に傷むものを感じながらも、沙羅の目は、あるものを捉えていた。

"01110101011100001101101011101100time_t-1……"

"time_t-1"――。
 ノートPCの画面にたった一つ、この文字が残されていたのだった。time_t-1……。
 先刻、父のオフィスで見たときには、"0と1のバイナリコードだけだろう"という、自分の先入観があったのかもしれない。だが、それが誤りだった。そうではなかったのだ。
 沙羅は、吸い寄せられるように、その画面を眺めていた。
 time_t-1……。
 それは、コンピュータ・システムの時刻に関わるエラー・コードのようだった。末尾の-1とは、ファイル・システムなどのエラーなのだろうか? 沙羅は一瞬考えた。
 ここで沙羅は、先刻の空の台詞を、再び思い出そうとした。そういえば、空は確か、あのとき何と言っていたのだろう?
 短い間考え、それを思い出す。
"……私にとっての時間とは、自分の稼働してきた一秒一秒のことです"
 空はおそらく、そう言っていたと思う。
 一秒一秒。
 それは、自分の直感として、ずっと引っ掛かっていたのかもしれない。思えば、父のオフィスで異変に気付いたときにも、まず頭に翻ったのは、この言葉だった。
 何故なのだろう……沙羅は、じっと考えた。
 かつての空の言葉が、途切れ途切れに聞こえては消えていく。
 その声は、いつしか残響音となり、脳裏でこだましていた。そんな中、明瞭な響きを持った言葉が一つ、記憶の底で波紋を作った。
"沙羅さんが生まれてからは、およそ約5億3千万秒が経過していますね"――。
 それは、父のオフィスルームに行く途中で、空が言っていた言葉だった。
 しかし、この言葉と、"一秒一秒"という言葉の間には、ちょっと距離がありすぎるような気がした。
 そんな言葉を、自分は何故、頭に留めたのだろう? 自身を訝りつつも考えを進めようとしたところ、沙羅は、不意にあることに気付いた。――"経過"?
 約5億3千万秒が……"経過"……?
 経過……。そこに、今し方の"一秒一秒"という言葉が再び折り重なり、何かしらの直感が首をもたげた。
 一秒一秒――経過――……秒……秒数……。経過、秒数……。
"経過秒数"――。
 連想がそこまで達したとき、沙羅は小さく息を飲んだ。
 この四文字の熟語から、ある事実に気が付いたのだった。コンピュータ・システムの時刻とは、ある基準時刻からの経過時間によって管理されていることを。つまり、"経過秒数"によって管理されていることを。
 そして、もう一つ、沙羅はある事実を思い起こしたのだった。
……コンピュータ・システムの時刻には、この経過秒数に由来する、"重大な問題"が存在したことを――。
 沙羅は立ち上がるや、春香菜の方に振り返った。
「田中先生ッ」
 ほとんど叫んでいた。
「メインコンピュータを使わせてくれませんかッ? 確かめてみたいことがあるんです!」

《17:17:07》
 沙羅と春香菜は、一時間以上もの間、メインコンピュータのシステムを慎重にチェックしていた。
 チェック作業の前に、沙羅は、春香菜に自分の考えを説明していた。
 自分が気付いた、"ある問題"を――コンピュータ・システムの時刻に関係する、"ある問題"を。
 性急な説明だったものの、それは春香菜にとっては、十分すぎたもののようだった。
 春香菜は、寸刻言葉を失っていた。
 が、得心に至るや、その目はすぐに現実を取り戻し、沙羅を見た。
 それから、視線を微かに和らげ、こう言ったのだった。
「ありがとう、沙羅。おかげで、空の倒れた原因が掴めてきたわ」と。
 そして、この"問題"が、メインコンピュータのシステムにも該当していないかどうかを、二人はチェックしていたのだった。
 結果は、問題無し。
 これを確認するにいたり、春香菜と沙羅は、後ろに控えていた武と桑古木の方に振り向いた。
「二人とも、準備は出来たわ」と沙羅が言う。
 沙羅の後を継ぎ、春香菜が言ったのが、この台詞だった。
「……そして、これから示すのが、空の危機の真相よ」 

 沙羅は、メインコンピュータの有機ELディスプレイの前に立ち、全員の方を見た。
「今から、あるプログラムを打ちますので、見ていて下さい」
 そう言ってから、沙羅は画面に向き直り、キーボードで簡単なプログラムを打ち出していった。

 #include <stdio.h>
 #include <time.h>

 int main(void)
 {
   time_t timer;

   timer = time(NULL);
   printf("経過秒数:%ld, %s", timer, ctime(&timer));

   return 0;
 }

 これを実行してみたところ、メインコンピュータの画面には、次の表示がされていた。

" 経過秒数:2052980434, Sun jan 21 17:20:34 2035 "

 武と桑古木は、ディスプレイを凝視していた。
 桑古木の方は、そこから、何事かを思いだそうとしていた。
 それから、先刻の春香菜と同じような目になる。桑古木は、やがて「まさか……」と苦く呟き、天窓を睨んでいた。
 一方、この面々の中で、最もコンピュータに疎い武は、まったく得心のつきかねる様子だった。
 そして、一つ端的な質問を発してきた。
「沙羅……。この"経過秒数"とは、どういう意味だ?」
 父の怪訝な顔を見ながら、沙羅は口を開いた。
「パパ。ここでいう"経過秒数"とは、"1970年の1月1日 0:00:00"というコンピュータの"基準時刻"から、2035年の今の時刻までの"経過秒数"を意味しているの。後に続く10桁の数字は、言うまでも無くその秒数。
 すなわち、今の時刻は、1970年1月1日の深夜0時から、約20億5000万秒が経過しているということなのよ」
 説明をしながら沙羅は、メインコンピュータから、空の思考システムのダミー・システムを起動させた。
 これは、今回の説明のために用意された、簡易システムだった。
 そして沙羅は、このダミー・システム上で、先と同様のプログラムを打ち、実行した。
 結果は、やはり先と同様だった。
 ダミー・システム上には、コンピュータの経過秒数が表示されている。
 次に沙羅は、システム時刻をコントロールパネル上で操作し、2035年から"2038"年に変更した。
 すると……。
 ダミー・システムは、いくつものエラーを吐き出して、正常な動作をしなくなってしまった。
「どういう、ことだよ? これは……」
 呻くようにして呟いた武に、沙羅が答えたのだった。「これが"20億秒問題"よ、パパ」

 沙羅の言葉に、武は息を飲んだ。
"20億秒問題"――。
 その言葉を知らない武だったが、それが意味する重大さだけは理解できた。何よりも、説明する沙羅自身の硬直した表情が、それを物語っていた。20億秒問題……。
「沙羅、……その"20億秒問題"とは、なんだ?」
 問われた沙羅は、その実、問いを発した武自身が心配しなければならないほどに蒼白な顔をしていた。
「パパ、……少し長くなるんだけれど……聞いて、もらえる?」
 武は、沙羅の目を見つめた。
 その大きな目は、緊張に満ちてもいた。
 これから言わんとする言葉の意味を自覚しているが故の、それは、緊張であり不安だった。
 そんな沙羅を、武は見つめていた。その視線は、ややあって優しく細められ、沙羅を包んだ。
 そして武は、こう言った。「沙羅、それは意味のない質問だぞ」
「パパは、お前の言うことなら、なんだって聞く。なんだって聞き入れる……今までもそうだったし、これからもずっとそうだ」
 沙羅の頬をそっと撫でてやると、武は言葉を続けた。
「だから、そんなに不安になるな。……少なくとも、その不安をお前だけが背負う理由は何処にもない。それは、パパも一緒に背負うから」
 さあ教えてくれ、と武は微笑んだ。
 浮かべそうになった涙を拭きながら、沙羅は少し表情を緩めた。
 沙羅は無理矢理作った笑顔で、「うん、……判ったでござるッ」と応えてみせた。
 そして、言葉を続けたのだった。

 20億秒問題――本来"2038年問題"と言われている問題――。
 沙羅の説明は、こうだった。
 C言語などのプログラム言語で制御されたコンピュータ・システムは、システム時刻を"ある基準時刻より経過した秒数"という形で管理している。
 この基準時刻とは、先刻の沙羅の説明の通り、"1970年1月1日 0:00:00"――。この時刻からの経過秒数によって、コンピュータのシステム時刻は定められている。
 つまり、コンピュータ・システムの時刻とは、"《1970年1月1日深夜0時》という基準時刻から、現在まで何秒が経過しているか"という経過秒数から求められているのだった。
 ところで、コンピュータ・システムにおいては、プログラム上、扱うことのできる限界の秒数というものがある。
 その秒数は32ビットのコンピュータ・システムの場合、32ビット長の秒数。つまり、2の"32"乗の秒数である、約43億秒ということになる。
 ただし、この43億秒とは、±を含めての数値であるため、実際のところはその半分である――"±約21億5千万秒"となるわけだった。これが、コンピュータ・システムが扱える、限界の秒数ということになる。
 その限界秒数とは、1970年の基準時刻から起算して"2,147,483,647"秒。これは、西暦に換算すれば"2038年1月19日 12:14:07"――となる。
 この時刻を越えた時点で、コンピュータ・システムの時刻は桁あふれ(オーバーフロー)を起こしてしまう。
 そして、このシステム上で動作するアプリケーション・ソフト等は、プログラム・ファイルの更新日時などを誤認識し、不具合を発生し、正常な動作をしなくなる。
 つまり、何の対策もされない限り、32ビットのコンピュータ・システムの時刻は、”2038年1月19日”に終焉を迎えることになるのだった。
"《1970年1月1日深夜0時》という基準時刻から、約20億秒を超えたときに顕在化する問題"――。それ故の、"20億秒問題"だった。
 武が、おもむろに口を開いた。
「だけど何故、今の空にそんな問題が出て来るんだ? 今年は2035年だぞ。……2038年には、まだ時間がある」
 その3年のタイムラグはどうなったんだよ、と続ける武に、春香菜が応えた。
「それは、ある計画に関わるプログラムが、空の思考システム内で実行されたからよ」
 春香菜の表情には、深い苦渋が浮かんでいた。
 ややあって、春香菜は、更にこう続けた。「……"BW発現計画"に関わる、プログラムがね」
 「そして、――これこそが本当に長い話になるのだけれど、全員に聞いてもらわなければならないわ」
 春香菜は、沙羅の方に首を巡らせ、言葉を継いだ。「……沙羅、貴方にもよ」
 そして、全員の前に進み出て、春香菜は語り始めたのだった。

 BW発現計画――2034年の事故が、2017年に起こっているように見せかけ、BWを発現させるための計画――。
 これはとりもなおさず、"2017年の事故を2034年で再現させる"ことを意味していた。
 つまり、
 2017年――『2017年5月1日 12:45』に起こった事故を、
 2034年――『2034年5月1日 12:45』で再現させることだった。
 それによって、二つの時代の事故が、17年というタイムラグをおいて"シンクロ"することになり、それらを交互に見ることの出来るBWに、あたかも同一の事故であるかのように錯覚させたのだった。
 それは奇しくも、春香菜が武にした先刻の説明に繋がるものだった。武は、一言を発することも出来ず、ただその場に立ち尽くしていた。
 春香菜の説明は、さらに続いた。
「私たちは、2017年の事故におけるLeMMIHのログデータ(コンピュータの稼働記録)から、この事故を再現させる"タイマー・プログラム"を作りあげた。
 それを、2034年の計画時に、LeMMIHに組み込んで自動実行するようにしたのよ。今が何年であるかを、沙羅やホクトやBWにも意識させないようにするため、西暦の4桁部分を無表示にする、特殊処理を施してからね。
……そして、タイマー・プログラムは設定通りに、2017年の事故を再現した。"防御隔壁の動作"や"LeMUの各エリアを冠水させていく処理"なども皆、2017年の事故と同じタイミングで。数秒たりとも狂わずに」
「――計画自体は、今言ったとおりだ」
 と桑古木が受け、更に説明を加えてきた。「ただ、この計画には、様々なプログラムが実験的に作られていたんだ。……実に数多くのプログラムが」
 そこへ、春香菜が言葉を継いだ。
「その中でも、最も特異なプログラムが、空のデバッグしていたプログラムでもある――この"BW_P_1"よ」
 春香菜は、メインコンピュータのディレクトリから、"BW_P_1"というプログラムを表示させた。
 それは、武が所長室で見た、あのプログラムだった。
「このプログラムは……システム時刻を、数秒の誤差もなく17年後のシステム時刻に置き換えるというものだったの。――"17年の時を行き来するBWに、錯覚を起こさせる"実験の一環としてね。
 これは、"現在のシステム時刻に、17年分の経過秒数を加えることで、システム上の時刻を17年後にする"という発想から、実験的に作られたものよ」
 そう言ってから、春香菜は画面右下のシステム時刻を見て、《17:30》であることを確認した。
 そして、この"BW_P_1"を、メインコンピュータ上で実行したのだった。
 実行後、しかし画面には一切変化が見られなかった。右下のシステム時刻は《17:30》のままだ。
 春香菜は次いで、先刻の経過秒数を表示させるプログラムを実行してみせた。
 結果はこうだった。

" 経過秒数:2589438634, Sun jan 21 17:30:34 2052 "

 武は、経過秒数の数値と、右端の西暦に気が付き、愕然とした。
 2052年……。
――システム時刻は、2052年に変わっていた。
 その他の部分は、変わっていない。日付から曜日から時分秒に至るまで、すべてが現時刻と同じだった。
 ただ、西暦表示がきっかりと17年後の2052年になっていたのだった。あたかもシステム時刻を見ただけでは、今が西暦2035年か2052年か判らないように……。
 武の反応を見て、春香菜は言葉を続けた。
「そう、倉成。今の貴方が感じているような錯覚を起こすことが、このプログラムの目的だったのよ。BWにも……同じような錯覚を起こさせるためにね」
 春香菜は、けれども、と言葉を繋げた。
「こうしたシステム時刻をいじるプログラムは、他の基幹システムに不具合を起こさせる原因になる。そのため、私たちは、"BW_P_1"を始めとする、時刻に関わるプログラムを、早々に計画から除外していたの。そして、実際の計画では、システム時刻をいじらずに、先に説明した処理を用いたわけ」
 ここに至り、春香菜はようやく、空の倒れた原因を明らかにしたのだった。
「先刻、空がデバッグ時に実行してしまったプログラム――"BW_P_1"……これによって、空の思考システムは、コンピュータ・システムで扱える限界秒数を超えてしまい、"20億秒問題"を引き起こしてしまったのよ」
 春香菜はそれきり、後の言葉を続けようとはしなかった。
 ゆえに、後の台詞は、桑古木によって補完されることになった。このプログラムの実行により、空の思考システム内の時刻は、現在時刻である"2035年"から、更に"17年分"の経過秒数を加えられてしまったのだ、と。
 すなわち、空がデバッグしていた時刻、"《2035》年1月21日 12:08"は――その17年後の同時刻である、"《2052》年1月21日 12:08"になってしまったのだった。
 このときのシステム時刻の経過秒数は、25億秒以上。これは"20億秒問題"の限界秒数を遥かに超えてしまうことになる。
 結果、空の思考システムのプログラムは、オーバーフローを起こし、時刻を正しく認識できなくなってしまった。こうして、空の思考システムは、不具合を起こしたのだ。
――これが、今回の危機の真相だった。
 空は、自らに内在していたシステムの問題により、危機にさらされていたのだった。しかも、武とココを救うためのBW発現計画が、引き金となって……。

 沙羅は黙したまま、身じろぎもせず立ちつくしていた。
 しかし、頭は徐々に事態を飲み込むにつれ、本来の機能を取り戻し始めてもいた。
 空の危機の実体が判ったとはいえ、その危機が刻々と差し迫っている以上、残された猶予は無い。
 そうした事情を察した上で、沙羅は今し方の春香菜と桑古木の説明を、自らに言い聞かせ始めたのだった。
 とにかく、頭に収めなければならない事態は、こうだった。
"空の思考システムに、コンピュータの時刻に関わる問題があった"ということ。
"BW発現計画において、その問題を引き起こす恐れのあるプログラムが、実験的に作られていた"ということ。
"そして、そのプログラムが原因となって、今の空に危機が起こってしまった"ということ――。
 沙羅はとにかく、これらをまず頭の中心に置き、狼狽や動揺をひとまず捨て去ることで、事態を把握したのだった。
 それにしても、と思った。
 よりにもよって、あの空に"20億秒問題"とは……。
 20億秒問題は、元々古くから知られている問題だった。それこそ、半世紀も前からのことだ。
 そんな古くから存在するシステムの問題が、最新のAIである空の思考システムに危機をもたらせている。その事実に、沙羅は運命の皮肉を感じずにはいられなかったのだ。
 20億秒問題の対策は当時、国際統一規格などの複雑な問題が絡み、世界的には中々進んでいなかったと言われている。
 しかしながら、"32ビットのコンピュータ・システムが2038年で破綻する"という問題が、いよいよ現実として深刻さを帯びる中、ようやく各国でも様々な対策がとられ始めていたのだった。
 けれども……その対策は、未だ不十分だった。
 対策されていたように見えたその問題は、LeMMIHシステムのどこかに内在し、ひいてはそのAIであった空の思考システムにも内在していた。
 そのことを、誰も予見していなかったのだ。――春香菜や空自身でさえも。
「空の思考システムは元々、LeMMIHシステムをそのまま流用して作られていたのよ。そして私自身、思考システムを把握しきれていない部分も多々にあったのだと思う。
 この"20億秒問題"を見落としていたのは、……すべて、私のミスだったということ」
 言い訳のしようもない……私の、ミス。
 春香菜は、目も口も固く閉ざして、うつむいた。
 確かに、この"BW_P_1"という問題のプログラムを今まで削除もせずにいたのは、春香菜自身が"20億秒問題"を見落としていたことの証拠に他ならなかった。それを自覚しているがゆえの春香菜の苦悩は、まずコンピュータ・システムを知る沙羅にとっては、辛く響き返ってきた。
 そんな春香菜を見て、沙羅は、自分自身も助けを求めたい心境だった。
 けれども一方で、崩れ落ちそうになっているこの春香菜を、叱咤したい想いもあった。
"個人の責任云々なんて話は、後でも良い。今はとにかく、これからどうすべきかを一刻でも早く考え、行動するときでしょうッ"
 そう、春香菜に言いたかった。いや……自分自身に言い聞かせたかった。
 脳裏に、LeMUの幻影がちらついた。2034年に自分や兄を危機に陥れていた、あの場所が。
 そうだ……。
 自分は2034年のLeMUの中で、空のシステムに関わったことがあったのだ。事情こそ違えど、今の自分が直面している問題も、やはり空のシステムに関わるものだった。因縁といえば正にそう言うしかないが、今ここで空の思考システムを救える者が、間違いなくこの自分であることもまた事実だった。
 空。私が必ず、貴方を救うから……。
 無意識に、そんな誓いをしていた。
 それから沙羅は我に戻り、再び現実を見つめることになったのだった。
 重い静寂の中、息を一つ吐く。
 それから、沙羅は意を固め、皆の前に進み出た。
「空の危機は、"20億秒問題"に由来する危機であるということ。これは確かなのでしょう」
 そして、沙羅はこう続けたのだった。

「……だとすれば、空を救う方法はあります」




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