草と、空の下に
                              YTYT 

8話 「2035年1月21日 18:31」

《18:31:57》
「だとすれば、空を救う方法はあります」
 静寂の中、沙羅の緊張した声が響いた。
 沙羅はそれから、皆に簡潔な説明をし始めた。
「この"20億秒問題"は、元々32ビットのコンピュータ・システムが、32ビット長の秒数、すなわち20億秒までの経過秒数しか扱えないことから生じた問題なんです。
 けれども、これは裏を返せば、コンピュータ・システムのプログラムを、もっと大きい経過秒数を扱えるように作り直せば良いということも言えるのです。
 たとえば、空の思考システムのプログラムを変更して、64ビット長の経過秒数が扱えるものにすれば――。つまり、2の64乗の経過秒数が扱えるものにすれば、この"20億秒問題"は半永久的に解決します。
……少なくとも空の思考システムの時刻は、2900億年までオーバーフローすることはなくなりますから」
「2900億年……」
 武は思わず唸り、せき込んでいた。
 一瞬、目下の困難も頭から飛んでいた。たしかに、それくらい先の長い話なら、宇宙が無くなるまで大丈夫そうだ。
 が、気の遠くなりかけた自分を、すぐに取り戻す。武は、沙羅に先を促した。
 沙羅の表情は曇っていた。
 ただ、と言い、その視線が床に落ちる。
 ここで、沙羅は何か重要なことに気付いてしまったのか、傍らのノートPCに指をなぞらせては、こう言葉を続けた。
「……それには、問題があります」
 天窓に積もった雪が、微かに滑り落ち、その音が室内に重く響いた。
 沙羅の目には、涙が溜まっていた。
「空の思考システムのプログラムを修正して、64ビット長以上の経過秒数が扱えるようにするためには、プログラムの修正後に、これらすべてのプログラムを再変換する作業が必要になるんです。……これに、どれくらいの時間がかかるか、私にも判りません」
 顔を上げた沙羅の目線は、武に止まっていた。「パパ。――たぶん……きっと」
 沙羅の大きな目に、涙が溢れた。
「もう、そんな時間は残されていないのよッ! 空には!」
 沙羅は、武の胸に飛び込み、嗚咽を漏らした。
 沈黙の中、静寂の室内で、沙羅の嗚咽だけが響いていた。
 武はやがて、沙羅の頭に手を置いた。「やれやれ。まだまだ未熟だなあ、沙羅殿」
 それからこう言って、笑ってみせたのだった。
「忍者の末裔たるもの、そんな風にすぐ泣いちゃ駄目でござるな。修行がなっとらんでござる」 
 沙羅の顔を汚す涙を拭いてやり、武は言葉を継いだ。
「沙羅。空に"時間が無い"かどうかは、誰にも判らないんだよ。判ったとしても、それは空をあきらめる理由にならない。
……不可能を"不可能である"という理由で諦めていたら、俺達は2017年でとうに死んでいた」
 武は沙羅に、そしてこの場にいる全員に聞かせるように、言葉を継いだ。「この世界に、不可能なんて無い」
「不可能なんて、ただの障害や思い込みや先入観にすぎない。"不可能は存在しない"と、そう信じた人間が、本当に不可能を可能にしたんだ」
「大丈夫だ、きっと空は助けられる。……俺も精一杯、力を尽くすから」と、武は言葉を切った。
 そこに、春香菜が、ためらいがちに言ってきた。
「残念ながら、問題はもう一つだけあるのよ。倉成」と。

「問題?」
 武が眉根を少し上げた。「さらに、何かがあるのか?」
 春香菜は、目線を武と沙羅の方に向け、「ええ」と答えた。
「空の"メモリ"の問題よ」
 春香菜は、桑古木に指示をして、メインコンピュータ上に空の状態を示すプログラムを起動させた。
 ほどなくして、メインコンピュータの画面上に、各種数値をモニタリングするウィンドウが立ち上がる。
 そのウィンドウには、心拍数や体温などのバイタルサインの他に、ある数値がカウントされていた。
 春香菜は、武と沙羅に視線を戻しては、こう言った。「この数値は、空のメモリの実効速度と実効容量を表したものよ」
「空のメモリの性能は、現在理論値の十数パーセントしか出てない。
これまでも、その数値は芳しくはなかった。それが……今回の危機で、一気に性能低下を引き起こしてしまったのだと思う。しかも、その性能低下は、先刻よりも更に進行している。
……このままでは、空の思考システムそのものが走らなくなる可能性があるの」
 そして、先刻の"20億秒問題"と同様、春香菜は、空の"もう一つの問題"を説明してきたのだった。
"空のメモリの問題"――。
 それは、空の"心的な負荷"によるノイズが、繰り返して何度も発生したためだった。このノイズを抑えるために、空は幾重にもセキュリティ・プログラムを実行させていたのだ。
 だが、こうしたプロセス(コンピュータの処理のこと)が多発すると、システム内のデータは、メモリ上で細切れになってしまう。いわゆる、"メモリの断片化"を起こしてしまうのだ。
 そのため、メモリが本来の性能を出すことが出来ず、より大きなメモリ性能を要求するプロセスに、必要なメモリ量を割り当てられなくなっていたのだった。
 要は、空の心が、空自身のメモリに性能低下を引き起こさせていたのだ。――思考システムにも制御しきれない、空の本能的な"心"が。
 春香菜は言葉を続けた。
「このメモリの性能低下によって、空の思考システムはすでに不安定になっている。空のメモリには自己修復機能が付いているけれど、これが追いつかないほどに、今の空のメモリ負荷は大きくなってしまっているの。
 この状態が更に続くと、空の思考システムは強制的に"異常終了"してしまい、システム内の制御プログラム等に重大な不具合を発生させる可能性があるのよ。
……もし、生命維持に関わるプログラムなどに不具合が及べば、空の生命は無い。それだけは、なんとか阻止しなければならないわ」
 春香菜は、メインコンピュータのキーボードを叩いた。空のモニタリング映像が再度読み込まれて、最新版のものに置き換えられる。
 その中で、少し希望の持てそうなデータがあった。空の意識レベルの数値が、心なしか先程よりも上がっていたのだった。思考システムのセーフティモードが、上手く効き始めているのかもしれない。
 それを見つめながら、春香菜は口を開いた。
「……空は、もうしばらくすれば、目を覚ますかもしれないわね」
 そうして、春香菜は全員に視線を戻し、言葉を繋げた。「そのときに……誰かが、空に救いを差し伸べ、メモリの負荷を低減しなければならないわ」
「優。つまり、どうすれば良いんだ?」と、武が単刀直入に訊ねた。 
 春香菜は一寸間を置いてから、こう答えた。「空の心の負担を減らせば良いのよ」
「空はおそらく今、"絶望"や"孤独"のようなマイナスの感情に苛まれている。それを、なんとか緩和出来ればいい。そうすればメモリへの負荷が減り、空のメモリの自己修復機能が効き始める筈だから」
 春香菜は続けた。
「これは、"カウンセリング行為"であると同時に、"救命行為"でもあるの。観念的な言葉になるけれど……空を助けるためには、"空の心を絶望から救うこと"が不可欠なのよ。倉成」
 最後に武を名指しして、春香菜は言葉を締めくくった。
 その目は、武をじっと見つめていた。桑古木も同じように、武だけを見ていた。
 その二人の目を見ながら、武は思った。
 春香菜が自分を名指ししてきた理由。桑古木が自分だけを見ている理由。二人が、本当は何を付け加えようとしていたのか。何を伝えようとしていたのか。武には、なんとなく察しが付いていた。
 春香菜たちは、空と自分のことを慮っていたのだ。
"倉成先生"――。
 空が、事あるごとに武をそう呼び、他の誰よりも武を慕っていた事実を、春香菜は知っている。桑古木も知っている。その想いが、単に"慕っている"以上のものであることも、おそらくは知っている。そして、その想いが決して届かないものであることも。
 その空が今、"自分が人ではない"という現実に苛まれているのだとしたら……。空の"心"を救える者とは、当人が最も想いを寄せている、"倉成 武"をおいて他にはいないのだということ。
 それを、春香菜たちは、言外に伝えてきていたのだ。
 言葉に出来なかったのは、沙羅への気遣いからでもあった。
"空が、自分の父に恋していた"という事実を、沙羅は未だ知らないかもしれない。
 父を偶像のように慕っている沙羅が、もしその事実を知れば、おそらくその心には何らかのわだかまりが残る。微かであっても、空に対して消えることのない"しこり"というものが。
 それは、いつか知ることになる事実ではあった。しかし、事実というものには、それを知って良い年齢と、そうでない年齢がある。沙羅はまだ、その境界にある微妙な年齢だった。春香菜と桑古木が気遣ったのは、そこだったのだろう。
 そんな二人の配慮に感謝しながらも、武は一旦それを心の隅に押し退けた。
 まず、現状に対処する手だてを決めることが、最優先だった。
 二人に今更伝えられるまでもなく、空の心を救うのは、この自分がしなければならないことだという決意は、元よりあった。
"空の想いに対する自分の答え"は、必ず決着させるつもりだった。"空を救う"と共に、"空の想いに対する答えも出す"――。これが、自分の決意だった。
 武は春香菜の言葉を受け、2017年のLeMUのときのように、全員の方を向いた。
 そして、こう言ったのだった。「……オーケイ、判り申した!」
「つまり、空のピンチの原因は、"20億秒問題"と"メモリ問題"の二つということだな。
 だけど、それらは皆、対処する方法が無い訳じゃない。それなら、絶対なんとかなる。……空は救えるわけだ」
 みんな元気出そうぜ! と武は続けた。
 春香菜は、なおも武を見つめ続けていた。その春香菜に、武は言った。
「優……。空は必ず救う。なんたって、俺の大切な"生徒"だからな」
 この言葉に、自分なりの決心と答えを含めさせたつもりだった。
 春香菜と視線を交わし合う。
 一寸、意志の疎通があった。
 武の言葉と視線から、春香菜はその意図を了解したようだった。
 視線を穏やかに細めると、春香菜は静かに頷いた。「なるほど、"生徒"ね。……よく判ったわ」
 そして打って変わったように、こんな軽い台詞を返してきたのだった。
「まあ、ようやく貴方らしい"ノリ"が出てきたわね、なんといっても、倉成先生の数少ない取り柄の一つは、"から元気"なんだから」
「んん、違うぞ、優。"空"元気は、"から"元気と読むんじゃない。……"そら"元気と読むんだ。小学校で習わんかったか?」
「……習うか、そんな嘘っぱち」と、桑古木が苦笑で応じる。
 だが、どの台詞も、少し固かった。空のことを慮り、沙羅のことを慮った末に出した言葉なだけに、それはなおさらだった。
 しかし、その会話は、場の深刻さを和らげるのに十分なものでもあった。
 沙羅は、それに乗り遅れている自分を認めながら、父と春香菜と桑古木の間にある絆を、はっきりと感じてもいた。

 武は、沙羅を見つめながら言った。「沙羅……空を助けよう」
 そして、その後ろにいる春香菜と桑古木にも視線を向け、言葉を続けた。
「要するに、空の危機を引き起こしている問題は、"システム"と"心"の二つの問題だけなんだろう? だったら俺達が、それぞれをなんとかすればいい」
 乱暴な断定ではあったが、武の言葉はある意味、的を射たものだった。20億秒問題とメモリ問題――それら二つの問題は、確かに空のシステムと心に起因する問題に他ならなかったのだ。
 それはすなわち、空を二つの危機から救うことを意味していた。"システムの危機"と"心の危機"という……二つの危機から。
 春香菜と桑古木は、武の言葉に対して、それぞれに頷き、同意した。
 その同意を受けて、武は沙羅に目を戻した。
 それから、沙羅の肩に手を置いてやりながら、こう言った。
「沙羅。パパとお前は、それぞれ空に対して出来ることがある。すべきことがある。それを、とにかく精一杯頑張ろう。
 パパは、空の"心"を救う。だから沙羅……お前には、空の"システム"を救ってほしいんだ」
 武は言葉を続けた。
「パパには、コンピュータの事は判らない。優も桑古木も、沙羅ほどにはコンピュータ・プログラムに精通しているわけじゃない」
 だから今、空を救える人間とは間違いなくお前なんだよ、と言い、武は沙羅の頭を撫でてやった。あの朗らかな笑みを浮かべながら。
 それに沙羅は、ありったけの気持ちをもって答えてきた。
「うん、判ってる。――判ってるでござるよ」
「ようし、約束だ。"俺達は、空を必ず救う"と」 
「でも、」と、一度言葉を濁し、沙羅はこんな事を切り出してきた。
「最近のパパは、いつも口約束ばっかりだもの……手裏剣村にも、まだ連れてってもらってないでござる」
 この突然の言葉に、武は思わず苦笑した。沙羅は、今朝のことを言っているのだ。
 こうした形で、あのときの"おねだり"を再び仕掛けてくる、沙羅のそれは土壇場のしたたかさだった。
 また、そんな沙羅の可愛い悪知恵に、武は救われた想いもした。悪知恵が働くのは、沙羅が後先のことを考えているからだった。――自分の未来を考えているからだった。
「そうだな、」と言ってから、少し考え、武は答えた。「よし、今度こそ、手裏剣村に連れて行ってやるぞい」
「秋はどうだ? 紅葉が綺麗だぞ」という言葉はしかし、沙羅に首を振られてしまった。「……駄目でござるよ。だって今年の秋は、お兄ちゃんと修学旅行があるんだもの」
 じゃあ、と武はまたも考えた。
 考えた末に、自分にしては上出来の提案を思いつき、それを口にした。
「来週に行こうか?」
 それから、こう言葉を続けたのだった。「空も連れてな。お前とホクト……そして空の、三人の"誕生祝い"だ」
 こういうことは、何度お祝いしてもいいしな、と武は笑った。
 沙羅は一瞬、言葉を失っていた。
 今日が自分と兄の誕生日であったこと。その事実は、空が倒れて以来、沙羅自身の頭からすっかり抜け落ちていた事だった。
 やがて、沙羅は頷きながら、答えた。
「……うん。必ず、空と行くから!」と、泣き笑いの顔を向けながら。

《19:15:57》
 沙羅は、メインコンピュータ・ルーム内で、思考システムのプログラムのデバッグにかかることになった。
 春香菜と桑古木は、その沙羅のサポートをする。
 空の"システム"の救出作業は、こうして三人の手に委ねられる形になった。
 一方の武は、ICUの空の元に赴くのだった。……空の"心"を救いに。
「それじゃ、行ってくるからな」
 武は空圧ドアへと向かった。
 向かう途中、武は一度だけ足を止め、首を巡らせた。
 全員が、武を見ていた。
 武も、全員を見ていた。
 目と目が合う中、武達はお互いの意志を確認していた。
 全員それぞれに、空に対して、思うところはあった。空に今まで何もしてやれなかった負い目も、何処かにあった。けれども、空への償いとはすべて、空自身を助けてこそ始められるものだった。
 自分達は、自分達の出来ることをするしかない。一歩、そしてまた一歩、希望が続く限り、可能性がある限り、為すべき事をする。……それが全てだった。
 武は、ややあって、はっきりと言った。「俺は、誰も死なせない」
「全員だ。2017年のときもそうだったように、今度もだ。……空は、絶対に死なせない」
 そして、表情を和らげるもしかし、武は決然として、言葉を結んだのだった。
「空は……大切な仲間だから」

 空圧ドアが閉まり、メインコンピュータ・ルームには三人が残された。
 春香菜は、武の消えた空圧ドアを見つめたままだった。
 空のことを……そして、武のことを案じていた。
 隠し込んだ、恋慕の芽がふいに動き出す。
 自分が好きだったのは、間違いなく武だった。他の誰でもない。倉成 武という人間だった。その事実を、春香菜は思い出したのだった。
 その武は今、空の心を救おうとしている。絶望から救おうとしている。
 そして同時に、空に対して答えを出そうとしていた。空の想いに対する、自分の答えを。
 その答えを、春香菜はすでに聞いていた。
《俺の大切な"生徒"だからな》――自分の先刻聞いた、武の"生徒"という言葉……これこそが、おそらく武の答えなのだろう。
 それは、答えを告げられる空にとっても、告げる武にとっても、辛い時間になるだろうと春香菜は想像した。
 胸が傷むのを感じた。それでも、春香菜は一方でこうも思った。
 空の"心"を救うということ――それは本来、この自分もしなければならない償いでもあるのだということを。
 空が、"自分が人ではない"という現実に、苦悩していたこと。それは自分こそが、気付かなければならないことだった。なぜなら空は、自分にとって公私に渡るパートナーだったのだから。
 その空が絶望に苛まれた挙げ句、今の危機のさなかにあるのだとすれば、それは自分の不手際でもあった。
"20億秒問題"を見落としてきたのと同じように、自分は、空の"心"もずっと見落とし続けてきたのだ。自分は――未熟者だったのだ。
 自分と武は、同じだった。空への不手際に対して、罪を負う存在だったのだ。
 武に、こう言ってやりたかった。自分が見落としてきたのは、20億秒問題だけではなかったこと。自分は空の心も判っていなかったこと。それゆえに、今の危機が引き起こされているということ。貴方と沙羅にも困難を強いてしまっていること。それらをまず謝りたいということ。
 そして、この問題を孕んでいたLeMMIHの開発に、亡き父がかつて関わっていた事も思い出してしまい、春香菜は居ても立ってもいられない心境に陥ったのだった。
 倉成……。
「すぐに戻るから」と、沙羅と桑古木に言うや、春香菜は空圧ドアへ向かっていた。 
 ドアを出、ICUに続く通路を右へ左へと折れる。直線に長く伸びた通路の先で、武の後ろ姿が見えた。
「倉成ッ」
 と駆け寄ってから、春香菜は唐突に気付いた。
 ここまで追ってきておながら、当の武に掛ける言葉をまとめきっていなかったのだ。なにしろ、自分は武に声をかけたい一心で、後を追ってきていたのだから。
 首を巡らせた武に、春香菜は一転、しどろもどろになってしまった。
「ああ、……あ、あの……えっとえっと、なんというか、」
 わたわた手を動かしては、火急に頭の中で言葉をまとめようとする。
 何を言うべきか、何から話すべきか、さんざ迷った挙げ句、出てきた言葉はしかし、見事なまでに簡素なものだった。
「あの、と……とにかく、頑張ってね」
 武は、訝しげな表情を向けはしたものの、すぐに目を和らげ、こう応えてきた。「おお、任せとけい」
 とは言っても、頑張るのは、お前らも同じだろ? と続ける武の笑みは、あくまで明るかった。
 その平素と変わらぬありように、春香菜は少し助けられた想いがした。
「起き抜けの空に、貴方がつまらない冗句を吐かないよう、本当は監視をつけておきたいところなんだけど」
 そんな言葉を掛けながら、さりげなく普段の自分を取り戻した春香菜だった。
「何を言うか。俺の冗句は、最近ヒット率が高いんだぞ」と、のたまう武には、
「"空に対してだけ"、でしょう。言葉は誤解の無いように使って頂戴。いやしくも貴方は、当の空の先生なんだから」
 言ってから、春香菜は表情を改めた。
 そして一度躊躇した後、こう口を開いたのだった。「……倉成、ごめんなさい」
「貴方と沙羅には、本当に申し訳ないと思っている。今日は本当に、ひどい一日を送らせてしまったと思う。
 けれど……今の空を救えるのは、"貴方と沙羅しか"居ないということ。それだけは、どうか判ってほしい」
 私もなんとか、償わせてもらうから、と言いかけたときだった。
 武が、唐突に春香菜の髪を撫でてきたのは。
 虚をつかれ、思わず赤面する春香菜に、武は言った。「優、髪伸びたよな」
「お前はショートへアより、そっちの方が似合っているぞ、うんうん」などと続ける武に、春香菜は怒鳴った。
「人が大事な話をしているときに、貴方はッ……!」
 だが、武は悪びれることもなかった。
 そして、静かに応えたのだった。
「優。俺達は、確かに普通の肉体を持っていないのかもしれない。けれど、しっかり"生きている"んだよな、こんな世界の中で。……髪が伸びているのは、その証拠だろう?」
 武は春香菜を、しかと見据えてきた。「空だってそうだ。精一杯、生きている」
「絶望したり、苦しんだりするのは、生きようとするからだ。生きることに誠実であろうとするからだ。俺は、そんな空を、どうしても救いたいと思ってる。助けたいんだ。
 でもそれは、"俺と沙羅だけ"で出来る訳じゃない。"俺達全員"で、初めて出来ることなんだと思う」
 武は、穏やかに目を細め、言葉を繋げた。
「それにな、"全ては起こるべくして起こった"んだよ。あの2017年の事故が、そうだったように。
 今回の空の危機も同じだ。その原因を追及していけば、きりが無い。それこそ無限に出てくる。そうした原因は、決してお前だけにあるわけじゃない。それは、間違いなくこの俺にもある。
 だから……。どうか、あまり自分だけを罪に問わないでほしいんだ」
 俺なんか、今までの余罪だけで終身刑だしな、と武は微笑んだ。
 最後のそれは、いかにも武らしいナンセンスな冗句だった。
 しかし、この救い難い冗句もまた、武の愚かさであり優しさでもあり、自分が惹かれた理由の一つなのだということを認めるに及び、春香菜は万感胸に迫るものがあった。
 他人想いで、おせっかいで、不器用。そうした自分のありようを知っていながら、なおもそれを止めようとはしない、度し難い大馬鹿者。
 これが、倉成 武という人間だった。
 あの2017年のLeMUでもそうだったように、武はいつでもこうだったのだ。こうして、仲間のことを考えていたのだ……。
 この自分が、武を好きになった理由。それを、春香菜は今、自分なりに改めて認識し、納得することにもなった。
 溜息を吐く。それから、春香菜は小さく頭を振った後、武に目を戻し、微笑んだ。
 口に出しては、
「ふうん。最後の冗句以外は、なかなか味なことを言うじゃない、倉成も」
 と軽く誤魔化しておく。
 その後、"ちょっと惚れさせてくれるわね"と本音を滑らせてしまい、内心慌てたものの、武の方はそれに気付かず、またしても下らない冗句で応じてきた。
 ほっとする一方、春香菜は、その鈍感さに腹立ちもした。
 武と手短な冗句を交えつつも、春香菜はこう思ったのだった。
 この大馬鹿野郎。女の敵。愛してる。

 武は、ICUへの連絡通路に目を細めた。
 こんな状況下で見る田中研究所は、確かにLeMUの原型を想わせるものがあった。春香菜と共に立っている場所は、あの"HIMMEL"に続く通路とよく似ていたのだった。
"HIMMEL"とは、あの天上の"空"という意味だった。同時に、死者が召される"天国"という意味でもある。……どちらの意味も、今は例えようのない皮肉に満ちていたが。
 背中から、春香菜の声が掛けられた。「倉成。空の"システム"は必ず救うわ」
「……だから貴方も、空の"心"を救って」
 春香菜の言葉は、自分自身の意志を、今一度確認させるための言葉でもあった。
 そうした春香菜に対する、武の返答はこうだった。
「当ったり前だ。さっき沙羅にも約束したんだぞ。お前にも、同じ約束をしてやるよ。空は、必ず救ってみせる。
……それに、生徒を助けるのは、先生の役目だ。たまには、教師面してみるのもいいもんだしな」
 あとは、と武は言葉を繋いだ。「……優。沙羅のサポートを頼む」
「あれは、本当に小生意気で、その上孤独に弱いから」
「判ってるわ」 
 まだまだ"未熟者"の忍者娘だものね、と言葉を継ぐ春香菜に、武は苦笑した。返す言葉はなかった。
――既に、日は没して久しかった。 
 連絡通路の天窓に、音は無かった。光も殆ど無い。黒陶々たる世界だった。
 2017年の闇が――2034年の闇がそこにある。自分達を、かつて包み込んでいた闇がそこにある。
 だが、全ての物は、元々一つの闇から始まったのだ。宇宙も、星も、生命も皆、そうだった。
 だとすれば、"希望"もまた、この闇の中から生まれてくるに違いなかった。そして……空の新しい時間も、生命も。 
"倉成先生。私、待っていますから"……。
 そんな空の言葉を、武は心の片隅で思い出した。今日の朝、空に言われた言葉だった。
 空が待っているものは、判っていた。――それは空が、18年前からずっと待ち続けていたものだった。
 武はやがて真顔に戻り、春香菜に言った。
「優。それじゃ先生は、"茜ヶ崎君"のところに行ってくるからな」
 それから足を踏み出し、一度首を振り向けてから、こう言ったのだった。

「倉成先生の、"授業"に」




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