| 草と、空の下に YTYT |
| 《19:20:19》 武がICUに向かっている中、沙羅と桑古木は、メインコンピュータ・ルームの中央制御室で作業の準備をしていた。 これから沙羅たちは、空の思考システムのデバッグにかかることになるのだった。空の"システム"を救うために。 桑古木は、空のバイタルサインをモニタ上で監視しながら、沙羅に言った。 「沙羅。思考システムのデバッグに必要なソフトは、メインコンピュータ内に全て入っている。ライブラリ関数などは、マニュアルを見てくれれば、多分沙羅なら判ると思う」 すまん、俺もコンピュータ・システムはまだまだ未熟者なんでな、と詫びた後、桑古木は言葉を繋げた。「けれど、俺に出来そうなことがあれば、何でも言ってくれ」 それには、「当てにさせてもらいます」と答えておく。 だが実際、桑古木の助力をこれ以上期待するのは無理だろう、と沙羅は感じていた。 桑古木は桑古木で現在、空の生命維持のための応急処置と自分のサポートで手一杯のはずだった。脳血流量などをチェックしている表情の切迫さからも、それは見て取れた。しかしながら、今の桑古木の言葉が真意であることもひしひし感じられ、沙羅としては、そう答えるしかなかったというのが正直なところだった。 沙羅は、メインコンピュータの画面を見上げた。 画面のレイアウトやキーボードの配置こそ違うが、このメインコンピュータは、LeMUの中央制御装置のコンピュータと似ていた。 ウィンドウ画面を見つめては、そこにかつてのLeMMIHの光景が重なった。自分が空のシステムにハッキングしていた、あの記憶が蘇ってくる。 あのときの危機は、こうして今また巡ってきていた。 偶然なのか、必然なのか、それはもう判らない。けれども、確かに言えることは一つだけあった。自分達が、この危機を乗り越えない限り、空の新しい時間は無いのだ、と。 沙羅は意を固め、キーボードに手を掛けた。 メインコンピュータの、アクセス用ログインアカウントとパスワードは、既に桑古木から聞いていた。今度はハッキングではなく、正規の方法でメインコンピュータにアクセスするためだった。 自分がメインコンピュータを使って、これからしなければならないこと。それを沙羅は、頭に思い描いた。 手順は、大まかに分けて3つ。 1. メインコンピュータ内の、思考システムのオリジナルをまず修正し、思考システムの修正用ファイルを作成する。 2. 修正用ファイルの動作を、メインコンピュータ上で確認する。 3. 空の意識が戻ったら、その修正用ファイルを、空自身の思考システムにインストールする。 ――沙羅は、それらの段取りを手短に考えながら、有機ELディスプレイを見据えた。 失敗は赦されなかった。これは、単純なソフトのデバッグなどではない。人の生死を左右する行為だったのだから。 数秒後、メインコンピュータが、沙羅のアクセスを許可するメッセージを表示した。 沙羅はすでに、"管理者ユーザー・モード"で、メインコンピュータにログインしていた。 管理者ユーザー・モードとは、システム管理者だけがシステムを占有しているモードであり、今の自分には、システム内の全てのファイル・ディレクトリへのアクセス権限がある。 沙羅はメインコンピュータに入るや、すぐにデバッガ、エディタ、コンパイラ等のプログラムを起動させた。 コマンドライン(プログラムの命令文のこと)が流れ、幾つものウィンドウが画面に並び始める。沙羅の目と指は、流れるように次の動作へと移った。 空の思考システムのオリジナル・プログラムが収められているディレクトリを探していく。アルファベット順に、ディレクトリ名を追っていく。C……I……R……"S"――。 ――"Sora_m_system"……これだ。 沙羅は、すかさずキーボードを操作していった。 まず一つのディレクトリを展開し、その下のサブディレクトリからプログラムの内容を確認していくことにした。 沙羅は先刻のカンニングで、"空の思考システムが、C言語などの命令型言語をベースにしたもの"であることを確信していた。 ところどころに、特殊な部分はある。けれども、"基本的な関数の組み合わせによってプログラムを記述していく"という思考システムのプログラム構造は、確かにC言語などと同じだった。それなら、自分のノウハウは十分に生かせる。 かつて自分が話した内容を、沙羅は思い出していた。 空の思考システムを危機に陥らせている、"20億秒問題"――。 この問題の対応策とは、次の物だった。 "空の思考システムのプログラムを修正し、64ビット長の経過秒数が扱えるように変更する"――これだった。 64ビット長の経過秒数が扱えるのならば、空の思考システムの時刻は、2900億年を越えるまでオーバーフローすることはなくなる。 けれども、と沙羅はキーボードを叩きながら思った。 実のところ、事はもう少し複雑だったのだ。 先程、自分が気付いてしまったこと。父の前では言えずにいたこと。それも併せて、沙羅は思い出していた。 空の思考システムは、すでに64ビットを遙かに超える処理能力を持っていた。 当然、思考システムの時刻も、ごく標準に64ビット長の経過秒数が扱えるはずだった。つまり通常であれば、空の思考システムは、2900億年以上持つはずなのだ。 にも関わらず、今回のような危機が起こったのは何故か。 ……その理由は明白だった。思考システムのプログラムの何処かに、経過秒数を32ビット長の数値までしか扱えないようにしている"設定"が潜んでいるということだ。 つまり、経過秒数を20億秒までしか扱えないようにしている"設定"が、思考システムのプログラムの何処かに残っているということだった。 これでは、空の思考システムが、どれほどの処理能力を持っていようと、実際のプログラム上では20億秒までしか経過秒数を扱えなくなってしまう。 それ故に、システム時刻が20億秒の限界秒数を越えた時点でオーバーフローを起こし、今回の"20億秒問題"が起こったのだ。 腕時計をちらりと見た。 時刻は《19:22》だった。空が倒れてから、すでに7時間以上が経過していることになる。空の生命を考えるなら、一分一秒でも早く、作業を進めていかなければならない状況だった。 さて、どうする……私。 己が決意を確かめるために、沙羅は自分の髪のリボンを無意識に整えては、心の中で独語した。 自分は、残り少ない時間の中で、思考システムのプログラムを修正しなければならないのだった。 どこから、当たりをつけていくべきか……。沙羅は、少し気の遠くなる感覚を味わっていた。 空の思考システムのプログラム数は、膨大だった。人間の言語を把握する"形態素解析"系のプログラムだけでも、ゆうに20近くある。 さらに、情緒系や視覚系の制御を司るモジュール(ある機能を持ったプログラムの集まり)を取り挙げていくと、その中に収められているプログラムの量は、どれだけの物になるのか。見当も付かなかった。 けれども、あきらめる事は出来なかった。出来るはずがなかった。 キーボードの縁に手を置く。 沙羅は父の事を想い、空の事を想った。 父は今、ただ一人で、空の"心"を救いに向かっている。空の心を、絶望の淵から救い出そうとしている。 その父が、自分に"空のシステムを救ってほしい"と託してきたのだ。自分は、それを全うするつもりだった。 空……。 心の中で呟きながら、沙羅は再びキーボードを叩き始めた。 デバッグを進めていく。プログラムの修正作業のペースは、着実に早まっていた。けれども、先はまだまだ長い。 沙羅は、空の思考システムのプログラムの一つを開き、その中のヘッダファイル(変数や関数の宣言をするファイル)に目を走らせていた。 そこに記述された、時刻に関わる変数の型などは、確かに64ビット長以上の経過秒数が扱えるものだった。これについては、とりあえず問題なし。 次いで、プログラムをスクロールさせていく。 途中、意図しないモードを呼び出してしまっては、コマンドのキャンセルをする。沙羅は知らず、舌打ちを漏らしていた。ああ、いつものキーボードと違うと、いつもこれだ……! それにしても、空とは一体、いかなる存在なのだろう。 そんな疑問が、頭にじりっとうずいた。 人に限りなく近い存在なのに、人ではない。人に等しいほどに高度な思考システムを持ちながら、人に憧れる存在……それが、空だった。 けれども、その空は今、危機に瀕している。古くから存在していたコンピュータ・システムの問題が原因で、生命の危機に晒されている。 形態素解析といった高度なシステムを有しながら、その空が何故、半世紀も前の古いシステム問題を抱え込んでしまっていたのか。沙羅は考えていた。 LeMMIHのシステム・プログラムの基礎が構築されたのは、およそ今から40年も前のことだった。LeMMIHのような巨大なシステムは、そうした遥か昔に書かれたプログラムをつぎはぎしながら使っていることが多く、そのシステムの内部に古いプログラムが潜んでいることがあるのだという。おそらく、空の思考システムのプログラムに、例の問題の"設定"が残っている原因はそれだと、沙羅は想像した。 システムが巨大になればなるほど、古いプログラムの問題が手付かずになる確率は高くなっていく。LeMMIHもまた、その例外ではなかったということだ。 春香菜は、"空の思考システムは、LeMMIHを基に作られている"と言っていた。そのLeMMIH自体に、"20億秒問題"が潜んでいたことが、今回の危機の原因であるということだった。 "空の思考システムに携わったのは私であり、この危機の責任一切は自分にある"という春香菜のこの考えは、だが、しかし間違っていると沙羅は思った。 今回の危機を起こした責任は、断じて春香菜だけに帰するものではない。 この危機は、人間の手によってコンピュータ・システムが作られている以上、避けがたい問題でもあったのだ。 人の作ったシステムは、その安全性において、絶対とはいえない欠陥を潜在的に持っている。ましてLeMMIHは、完全でもなければ完璧でもないシステムだった。2034年の事故で、LeMMIHにハッキングした自分だからこそ、それは判るのだ。 今回の"20億秒問題"とは、まさしく、そのLeMMIHの不完全さを露呈するものだった。だからこそ、そのLeMMIHを基にした空の思考システムが、問題を引き起こし、今の危機に瀕しているのだった。 だとすれば、空の危機とは、決して春香菜によるものだけではない。このシステムを承認した者も含めた、LeMMIHに関わる全ての者達の不手際であり、責任でもあり、罪でもあるのだった。……そして、空の異常に気付きながら、それが気のせいだと断じ、見て見ぬふりをした、この自分も。 沙羅は、ある言葉を思い出していた。 それは、父のオフィスで空の思考システムの"カンニング"していたときに、自分が呟いていた言葉だった。 "この、時刻に関わる変数もそうだし……"――自分は、確かにこう呟いていたのだ。 自分は、空の思考システムの問題を既に発見していたのだ。システムの時刻に関わる変数などに、不可解な設定があることを……。 空の危機の原因が目の前にあったというのに、自分はそれを見て、不審に思いながらも、まるごと見過ごしていたのだった。 自分はコンピュータの俊才などではない。とんだ未熟者だったのだ。 ――沙羅は今更ながらに、自らの罪と責任を認識することになった。 空の危機の原因がまぎれもなく、この自分自身の不注意によるものでもあったことを、沙羅は今はっきりと認めていた。 ならば尚のこと、自分は空を救わなければならなかった。空への謝罪も償いも、全てはそこから始まるのだから……。 雑念を慌ててとりつぶし、目前の作業に意識を戻す。 キーボードを叩く指に焦燥感を逸らせながら、沙羅は、プログラムをスクロールさせていった。 自分の指が少し震えている事に、沙羅は気付いた。 始まった……私の癖が……。 沙羅は、己の震えを必死に堪えていた。自分は、いつもそうなのだ……。 追い詰められると、心や体のどこかが震えだす。物心付いたときから、それは始まっていたのだと思う。他人の前では、絶対に気取られまいとしていたのに。 片時も途切れることなく、自分の一挙手一投足を監視し続けてきた、ライプリヒのあの眼。眼。眼……。それは自分を、常にどこかで苛み続けていたのだ。夢の中でも、無意識の中でも。 自分にとって、"時間"とは、すなわち"拘束"だった。それは、ライプリヒの視線に晒される、心理的圧力の連続だった。それが、今も自分を何処かで苦しめ、こうして心や体を震わせている。ライプリヒは、肉体的な暴力こそ自分には振るわなかったが、それに等しいほどの苦痛を、自分に与え続けていたのだ。 自分には、暗闇を見通す赤外線視力がある。そのことを自分に教え、嫌というほど自覚させたのが、他ならぬライプリヒだった。――そのライプリヒで研究された日々で、自分は普通の人間ではないことを認識させられたのだった。 自分の赤外線視力は、暗闇の中の風景を見せてくれる。だが、その視力は同時に、自分の心の闇をも映していたのだ。"自分が普通の人間では無い"という、孤独感や疎外感を。 自分は普通の人間ではない。他人に見えない物が、自分には見える。それはそのまま、普通の人間と自分との"境界"でもあり、そこから来る孤独と不安は、いつまでも心の中に残り続けていた。 思えば、忍者言葉を使い始めたのは、そうした影響からだったのかもしれない。 忍びの者は、暗闇の中を物ともせずに駆け抜けていく。行く手を阻む者、全てを切り伏せ、跳び超えていく。自分もそんな忍びの者になれたなら……きっと孤独も不安も乗り越えられるのに。 今思えば、恥ずかしい限りの夢であり、あこがれだった。けれども、それは自分を支えてきた、たった一つの希望でもあった。 "人になりたい"という空の希望。それも、今ではすんなり理解できた。空も自分も、そうした希望一つを心の支えにして、今までずっと生きてきたのだから。 空を"人"にしたい。 いつしか、そう考えている自分がいた。そのことを、心から望む自分がいた。 "お前とホクト……そして空の、三人の誕生祝いだ" 父の先刻の言葉を思い出す。沙羅は改めて、そうだと思った。今日という日は、自分と兄の"誕生日"であると同時に、空の"誕生日"でもあるのだった。 自分にとっては、過去の呪縛を乗り越え、新しい未来を生きていくための最初の日であり――。 空にとっては、"20億秒問題"の危機を乗り越え、新しい時間を生きていくための最初の日になるのだから。 空……。 だが、ここで、沙羅は不意に、我に戻らされることになった。スクロールが、とんでもないところまで進んでしまっていたのだ。 スクロールを戻すさなか、プログラムの中に、問題の設定がされている部分を見つけた。 やはり、このプログラムは、思考システムの経過秒数が"20億秒までしか扱えない"ものと設定してしまっている……。 修正しなくては。 キーボードに指を置きかけたときだった。沙羅は再び、自分があの感覚に囚われ始めていくのを感じた。 緊張が、背筋を冷たく下り始める。心のどこかが震え始めている……。 視線を落とし、呼吸を落ち着けようとしたときだった。 「沙羅、」という声が、隣から飛んできた。「手伝うわ」 春香菜だった。見れば、キーボードを手にしている。 それらをメインコンピュータに接続させるや、春香菜は、自らもデバッグ用のプログラムを作動させ始めていた。 髪をすくい上げ、白衣の袖をまくりあげた後、言葉を続けてくる。「貴方ほどの腕前ではないけれど、私もデバッグは出来るから」 「田中……先生」 言う沙羅に、春香菜は微笑んだ。 「なんて顔をしているのよ? 今の空よりも生気の無い顔ね」 それから、沙羅の肩をぽんと叩き、言葉を継いだ。 「……沙羅、人の生死を定めるのは、人の意志よ。沙羅や私や桑古木が諦めない限り、空は決して死なない。そう信じて、この危機を一つ一つ乗り越えましょう」 春香菜は、有機ELモニタを見ながら、言葉を続けた。 「L-MRIのデータを見る限り、空はもういつ目覚めてもおかしくは無いわ。……貴方の父親も、これからが正念場になると思う」 先生の出番となるわけね、と一旦言葉を結ぶ春香菜を、沙羅は見つめた。 "先生"という言葉に、ある想像が閃いた。それは皮肉にも、自分の父が今朝、空に言っていた言葉だった。 "茜ヶ崎君に、授業をしてやろうと思って――" ああ、その授業が始まるのだ……倉成先生の"授業"が。 沙羅の視線を感じたのか、春香菜は首を巡らせ、こうも言ってきた。「大丈夫よ」 「倉成先生なら……あいつなら、きっとやれる。空に、"生きる希望"を与えられるわ。なんたってあいつは、貴方の母親にも同じ希望を与えられたのだから」 沙羅は、無言で頷いた。 自分の母親は、死ねない肉体を背負い、かつて生きることに絶望していた。 その母の絶望を、2017年の事故のさなかに救いあげたのは、他ならぬ自分の父だったのだ。 判っています、パパは約束を守ります、と沙羅は答えた。 「空は必ず救われます。……この私も、すべきことをやり遂げますから」 春香菜は何も言わずに、沙羅から目を離した。 沙羅の言葉は、きっと現実のものになる。春香菜も、そう信じていた。 有機ELディスプレイを見つめては、空のことを考えた。 沙羅には、もう一つ言うべき事があったのだが、それは結局口にしなかった。 ――空の危機を引き起こしている、この"20億秒問題"とは、自分達人間の運命を象徴したものでもあるということを。 「人には皆、その一生の内に心臓が鼓動する回数が定められている」という説がある。 その鼓動の限界回数とは……"約20億回"なのだという。 皮肉にもそれは、コンピュータ・システムの限界秒数と同じ数字だったのだ。 つまり、人間もコンピュータ・システムも、定められた寿命を持つ存在だったのだ。 その寿命からさえ、仮初めにでも外れた存在である自分の肉体を感じ、春香菜の胸は傷んだ。 けれども、この傷みを生みだしている心臓の鼓動も、いつかは止まるときが来るのだと思い、春香菜は自身の苦しみをひとまず置き、空と沙羅のことを考えた。 空も沙羅も、そうして定められた時間の中にいる。一寸先さえも判らないのに、死ぬことだけははっきりと判っている、この不条理な世界の中にいる。 なんという世界なのだろう、と春香菜は思った。 思いながらも、無意識にこうも願っていた。 こんな世界の中にも、"希望"というものがどこかにあることを……。 そして、その希望の鍵となる人間は、二人いた。 一人は、今ここに居ない、武であり――。 もう一人は、自分の隣に居る、この沙羅だった。 |
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