草と、空の下に
                              YTYT 

10話 「2035年1月21日 21:00」

《21:00:01》
 空の思考システムの修正作業は続いていた。
 春香菜の声が、メインコンピュータ・ルームに響く。
「沙羅、そっちのプログラムの再変換結果は!?」
「エラーは無いです!」と、沙羅が即答した。
 沙羅たちは時間を忘れ、思考システムの内容を確認していた。
 空の思考システムのプログラムは着実に、64ビット長の経過秒数を扱えるものに修正されつつあった。 

――デバッグは、空の思考システムの中枢部に差し掛かろうとしていた。
 中枢部のディレクトリの中には、LeMUの事故の記憶に関わるファイルが入っていた。そして、そのファイルには、最高レベルの保護モードがかけられていた。
 それは、空にとって、最も大切な部分だったのだろう。
 良心が傷んだものの、保護モードを外し、その中の内容を見る。そこにあったのは、やはりまぎれもない、LeMUの事故に関わる全てのプログラムとデータだった。――空の大切な、記録と記憶だった。
 LeMU館内に加わる内外圧の推移を、リアルタイムに計測していた履歴。
 そのデータを基に、LeMU施設の構造体破壊に繋がる箇所を予測していくプログラム。
 水没の恐れのある区画を、隔壁によって閉鎖していったログデータ。等々……。
 そして、そのログデータには、LeMUの事故発生から圧壊に至るまでの経緯が、すべて克明に残されていた。
 それらのファイルを確認しながら、沙羅は思った。
 今の自分がしていることは、"空の存在"と向き合っていることに他ならないのだと。そして、それは――"自分自身の存在"と向き合うことでもあったのだと。
 これらは単なるファイルやログデータではなかった。空と自分が、かつてLeMUに存在していたことを証明するものだった。それを今、自分は見ているのだ。
 そうした中で、2017年のあの事故で何があったのかを、沙羅はつぶさに見据えることになった。
 父と母は、この事故の中で出逢い、結ばれ、自分と兄が生まれた。
 それは蜜月の交わりではない。さらに深刻であり、切実であり、純粋な、生と死と隣り合わせの交わりだったのだ。あのLeMUの中で、父と母は……。
――胸が傷んだ。
 自分の生まれた経緯を確認するということは、痛みを伴うことでもある事を、沙羅は今知ったのだった。 
 ただのプログラム上の算術式や変数や構文の羅列から、こんなふうに深い追憶や感慨や傷みを覚えるのは、生まれて初めての経験だった。
 ここに空の過去があった。自分や兄の生まれた過去があった。ここに収められている、その何万秒や何十万秒の"時間"の中に、自分達は確かに存在していたのだ。
 これは断じて、単なる過去ではなかった。自分達の存在そのものを示す物だった。
 沙羅は、プログラムを見つめた。
 このプログラムを確認することは、空がかつてどれほど自分達に尽くしていたのかを知ることにも繋がっていた。
 2017年でも――さらに2034年においても、空は自分達を守るために最後まで最善をつくしていたのだ。
 それも、刻々と変わる局面の中で、自分の限りある能力の中で、さんざんに苦慮した末の判断だったということが判った。LeMMIHの動作プログラムの履歴のおびただしさから、沙羅はそれを理解することができたのだった。
 自分と空は、同じだった。同じように、思い悩む存在だったのだ。
 空がAIであったことも、かつてはRSDの投影画像であったことも、もう関係が無かった。空は自分にとっては、人と同じだった。
 空を救いたい、と改めて思った。
 2034年のLeMUで、空は、自分を様々な形で救ってくれた。今度は、自分が空を救うときだった。自分は過去から逃げ続けた人間だが、もう今は違うのだ、と思った。
 沙羅は、有機ELディスプレイを見据えた。空の運命も未来も――自分の守るべきもの、すべてがここにある。

 デバッグを、一つまた一つ、こなしていく。
 プログラム上に記述された、問題の"設定部分"を一つ一つ書き換える。そして、プログラムの再変換作業をしては、エラーが出ていないことを確認していく。
 それから、各々のモジュール単位でエラーの有無を確認し、それらのモジュールを再度リンクさせていった。
 非効率的な作業だということは判っていた。
 けれども、どこのプログラムに問題の設定部分があるのか把握しきれない以上、作業が難航するのは避けられようも無く、沙羅と春香菜と桑古木は耐え難い焦燥感の中にいたのだった。
 それでも、諦めるわけにはいかなかった。空が自分自身の存在に絶望や孤独を抱き、今や生きる希望のすべてを失いかけているのであれば、それは尚のことだった。
 殊に沙羅にとって、空はもはや、かけがえの無い存在になっていた。
 沙羅は、空に自分自身の姿を重ねた。
 そして今、空を失うまいと己の心に誓っていた。今日は、空と自分の誕生日なのだから。空と自分の"時間"は、そこから新しく始まるのだから――。
 桑古木が、春香菜の方に首を巡らせた。
「優。とりあえず、感覚系のモジュールについてはオーケイだ」
「判ったわ。じゃあ、次を――」
 沙羅、と言いかけた春香菜の声が止まる。
 沙羅は憑かれたように、メインコンピュータの画面を見ていた。
 やがて、春香菜と桑古木の視線に気付いたのか、沙羅は慌てて我に返り、「大丈夫です」と答えた。それから、春香菜と桑古木に顔を向ける。「……私は、大丈夫ですから」
 息を吐き、気を落ち着ける。
 そんな際、沙羅は、ある事を思い出してもいた。空が話していた、あのピュグマリオンとガラテアの神話を。
 画面に目線を戻しながら、沙羅はおもむろに言った。
「田中先生、桑古木さん。私は、空を"人"に――"ガラテア"にしたいんです」
「ガラテア……?」
 訊ねる桑古木の傍らで、春香菜が言葉を継いできた。「ガラテアって、あのピュグマリオンの神話の?」
 沙羅は頷き、言葉を繋げた。
「石像だったガラテアは、ピュグマリオンの願いによって――奇跡によって、"人"になりました。それは、女神アフロディテが奇跡を起こしたことにあるのだと伝えられています。
 ピュグマリオンはきっと、"ガラテアを人にしたい"と、心の奥底から願い続けたのだと思います。天に通じるまで。……自分の持つ、すべての想いをかけて」
 沙羅は、首を二人に振り向け、こう言葉を締めくくったのだった。
「私も今……そのピュグマリオンと、同じ想いなんです」と。
 春香菜も桑古木も、ただ黙って沙羅を見つめていた。
 しばらく黙した後、呟いたのは桑古木だった。
「ピュグマリオンの奇跡……か」
 それから、春香菜の方を見ては、こう続けた。
「よしッ、その奇跡をもう一度起こそう。"二度あることは、なんとやら"だ」
 その桑古木の言葉には、「もちろんだわ」と応じてから、春香菜は沙羅に言った。
 やんわりと、そして確かな口調で、
「空を、人にするわよ。……私も今、"貴方"と同じ想いだから」と。

 ひたすらに重く困難な作業はしかし、終わりが見えてきていた。
 自分の立てた3つの手順のうち、既に2番目までは完了していた。
 思考システムを、64ビット長の経過秒数が扱えるように修正する作業は終了。各プログラムの再変換後の結果についても、異常は無し。
「これで、とりあえずのところは問題ないと思う」
 春香菜はそう言ってきた。蓄積してきた疲労を沙羅に気取られぬよう、つとめて平静を装った口調だった。
 疲れていないことを示すことで、春香菜は、この自分に要らぬ心配をさせたくなかったのだろう。
 それを知り、沙羅は一寸、その場の緊迫感を忘れた。
 自分が人から想われていると感じ、心が少し苦しくなった。嬉しさからも胸は締め付けられるのだということを、沙羅はこのとき実感した。
 心の中で、春香菜に礼を言う。
 しかし、沙羅が口に出したのは、簡素な台詞だった。
「……田中先生、桑古木さん。思考システムの修正用ファイルについては、確かにこれで何とかなると思います」
「そう願いたいな」と桑古木が答える。
「そのために、拙者がいるのでござる」
 だが、久方ぶりに出した沙羅の忍者言葉は、無残にも強ばり、違和感に満ちていた。しかしながら、これがかえって救いをもたらせることにもなった。
 春香菜と桑古木が思わず笑い、沙羅も照れ隠しの笑いで応じる。三人は、場の緊張を、己が同士の不器用な笑いで癒しあったのだった。
 しばしの交歓の後、三人は真顔に戻っていた。
 沙羅と春香菜と桑古木は、目の前のテラバイトディスクに視線を向けていた。
 急ごしらえの修正用ファイル――これが、空に新しい時間と生命を与えるプログラムだった。
 後は、この修正用ファイルを、空自身の思考システムにインストールすれば良いだけだった。……本当に、なんとかここまで漕ぎ着けた。
 そして、残るは――空の"心"の部分だった。
 修正用ファイルを完成できても、空のメモリに十分な性能が無ければ、思考システムは機能しなくなり、空は助からない。
《PRESS ENTER KEY TO "INSTALL"》
 有機ELディスプレイの表示を見、沙羅は空の事を考えた。
 空のメモリの実効速度と実効容量に、未だ好転する兆しは無い。
 けれども、後は、空の意志にすべてが掛かっているのだった。空の、生きようとする意志に――希望に。
 不意に、肩に手が置かれた。
 春香菜だった。その目に、この自分への労りや慈しみが、ありありと浮かんでいた。人が人を想う、優しい感情だった。
 それをはっきりと受け止めながら、沙羅はこう答えた。
「田中先生、桑古木さん。ICUに――空とパパの元に、行ってあげて下さい。ここはもう私一人で十分ですから」
 沙羅は春香菜と桑古木を見て、こう続けた。「……私はこの場所に残って、空の状態を見ています」

「ここで空のメモリの回復を確認して、修正用ファイルをインストールしますから」 

     *

 静寂のICUの中、武は空を見つめていた。
 L-MRIのコンプレッサーの周期的な振動音が、やけにはっきりと聞こえた。否……それは自分の心臓の鼓動なのかもしれない。
 空は、ベッドの上で静かに眠っていた。
 LeMUにいた頃も含めて、空が眠っているところを初めて見る武だった。
 素直に、綺麗だと思った。俺は今まで、ただの一度も、空を真剣に見たことはなかったのだ。そう、武は思った。
 そんな中、消毒用アルコールの匂いを感じた。それに、我を取り戻す。
 そして何故か、このとき繋がりも無く、沙羅の笑顔が頭をかすめた。沙羅……。
 その笑顔に、武は少し助けられることになった。
 沙羅の笑顔を想像すると、ただそれだけで、当座の困難も煩悶もわずかに退いていた。それに救われるようにして、武は、空の事を今一度深く考えたのだった。
 これから自分がすること。それは、空の"救出行為"であると同時に、"授業"でもあった。人になれず、人として生きられず、自分の存在に、何の意味も価値も見出せない。そんな絶望の中にある空を、自分の持てるすべてを掛けて教え導くための、"授業"だった。――今日の朝に、空と約束していた"授業"だった。
 先に、春香菜に"倉成先生の授業"と言ったのは、酔狂でもなければ格好をつけた訳でもない。自分が空を放置し続けてきた18年を埋め合わせる、本当の償いをするためだった。
 武は今、自分の人生を捧げる想いで、空に伝えるべき事を考え続けていた。
 空のために何をするべきなのか。
 そして、何をしなければならないのか。
 武は、最後の最後まで、心の中で確認していた。
"自分が空を絶望から救えなければ、空のメモリの負荷は大きくなり、思考システムが機能しなくなってしまい――空は助からなくなる"
 そうした端的な事実を、頭で納得させ、理解させた上で、武はなおも慎重に考え続けた。
 先刻の広場では、空を止められなかった自分だが、今度は違う。武は、そう誓っていた。今度こそ、空は手放さない、と。
 いったん、気を落ち着けようと、武が手を動かしかけたときだった。

――空の目が、うっすらと開かれた。
 その目は、しばし虚空に揺れていた。が、視界内に武を認めるや、空の瞳の振動は一瞬にして止まった。
 何かしらの感情や意志が、そこから立ちのぼってくる。
 その双瞳は微かに細められ、泣き出しそうに歪んだ。
 それから、空は掠れる声で、こう言った。
「倉成……さん」
 そう空は呟き、力なく微笑んだ。
 その微笑みの中に、絶望やら諦観やらがありありと浮かんでいた。
 それらのいずれもが、空の死が近い事を物語る光景だった。
 が、このとき、武はそれを受け入れることが出来なかった。
 空を絶望から救いたいという、ただ一筋の意志。この自分の意志を胸に抱え、武は、空を正面から見つめたのだった。
「――茜ヶ崎君、すまんのう。ちとばかり、この助平先生が、寝顔を覗かせてもらってたぞい」
 空の苦悶を和らげるように、武はまず、柔らかな一言を添えた。
「相当お疲れのようだなぁ。今後は、あんまり根を詰めて働かんように」と、冗句にもならない戯れ言も混ぜつつ、武は空の手を取った。
 広場のときと同様、手は少し熱い。が、それについては、予想の範囲内だった。
 空の体温や血圧は、動脈ラインと腕のカフの血圧モニタ等によって随時モニタリングされ、一定状態に保たれている。これらの医療設備のおかげで、空の肉体は生き続けられるはずだった。空の思考システムが稼働している、あと少しの間だけは。
 問題は依然として、空の心の部分にあった。
 今の空に、生きる気力が無いのは、明白だった。空の視線。物腰。表情。すべてに、それは現れていた。
 空は無言で、武を見つめていた。
 自分の身に差し迫った死を、間違いなく空は察知していた。
 が、その儚い微笑みは、死を受け入れた覚悟ではなかった。"死によって、自分はようやく救われるのだ"という諦めによるものだった。
 こうした諦観は、一朝一夕で植えつけられたものではありえなかった。空はもう、長いこと孤独や不安に苛まれ続けたのだろう。それを今まで誰にも言うこともなく、空はずっと堪えてきたのだ。
 空の思考システムは、メモリの性能低下により、不安定な状態にあった。今にして思えば、あの広場で空を見たときに、すでにその徴候はあったのかもしれない。
 メモリの性能低下は、こうしている間にも刻々と進んでいる。空には、限界が――死が、近づいていた。
 そして、そこまで空を追い詰めた一人とは、間違いなくこの自分だった。
"恋"や"人の心"の価値を教えておきながら、それが手に入らない空の苦しみのことは考えず、今まで空を放置し続けてきた、この自分の不注意。無思慮。怠慢。――それらもまた、間違いなく、空の絶望を助長させてきたのだから。
 空に償いたい。
 空を救いたい。
 この空を、死と絶望から救い上げたい……。
 空を見つめながら、武は無意識にそう考えていた。
 それは、おそらく武にとって、生まれてから二度目の試練だった。

 空は、苦悶とわずかな安堵をない交ぜにした、複雑な表情を浮かべ、ようやく口を開いた。
「倉成さん、……私の最期を、看取りに来ていただいたのですね?」
 その表情は、やがて悲嘆に翳り、微かに歪んだ。「私は、ガラテアには……人には、なれませんでした」
「肉体を手に入れても、この私は人形のまま……。人間ではなかったんです」
「空、」と言いかけた自分の口は、当の空によって止められてしまった。
 武を制しながら、空はまた絶望の笑みを浮かべた。
 そして、言葉を継いできた。
「私はガラテアじゃなく、パンドラだったんですよ。人に災厄をもたらせるという"パンドラの箱"……あのパンドラです。……現に、私はこうして、倉成さん達に多大な負担を強いているのですから」
"人の生死の瀬戸際に、負担も災厄もあるものか"と反駁しかけた口を、武はすんでのところで止めた。
 今の空には確かに、生き続けようとする意志が無かった。
"いずれ、私は死ぬのですから"――。そう思っているが故に、空は、自分達にこれ以上の負担を掛けさせないようにしているのだろう。
 だが、それは違う、と武は思った。負担云々と考える余力があるのなら、その力は生きようとする方向にこそ向けてほしかった。
 まだ、空は生きる希望のすべてを捨て去ったわけではない、と信じた。"人として、倉成先生の授業を受けたい"という、空のかつての言葉は、希望なくしては出てこない言葉だったのだから。
 武は小さく首を振った。「空、それは絶対に違うぞ。……お前は絶対に、パンドラなんかじゃない」
「そして、ガラテアでもない。お前は、あくまで"茜ヶ崎 空"なんだ。
 まして、人形なんかでもない。災厄だって、何一つもたらせてもいない。それどころか、2017年と2034年の事故で、俺や沙羅を助けてくれただろう?」
 語調をつとめて和らげ、こう続けた。
「"茜ヶ崎 空"は、神話の存在じゃない。この現実の中に、しっかりと生きている存在なんだよ。だから、今こうして苦しんでいるんだろう。……そんなふうに、生きて苦しんでいる存在を、"人"と呼ぶんじゃないのか?」
 そこまで言ったときだった。
「倉成さん。詭弁ですよ、それは」
――空がベッドの上から、半身をわずかに起こして、少し語気を厳しくしたのは。
 苦しげな呼吸が、中空に響く。やがて、空の視線は、再び武の顔に止まった。
 空は、幾分か声を押し殺し、こう続けた。
「"生きて苦しむ"ことだけなら……他の生物にも可能なことです。それは、"人"の本質でも条件でもありません。
 私はそれ以前に、"生きる"という感覚が判らないのです。情報としてしか認識できないのです。……私には、"記録"や"情報"というものしか無いのです。
 認識できるのは、"0"と"1"という数値だけ。草も空も、実感として捉えられない。生きていること、それ自体が私には"感じ"られないのです。私は、本当の痛みも感じることができない……。だから、私は"人"とは違います。倉成さんとは、絶対に違う存在なんです」
 武は、黙って空を見つめていた。
 片時も視線を逸らすことなく、空だけを見つめていた。
 反論できなかったわけではない。
 今の自分と空の置かれている、この状況が、過去の出来事に類似するものだったからだった。
 だが、武は、それが具体的にどの出来事だったのかを、思い出すことが出来ずにいた。
 空の苦悶の表情を見るにおよび、自分自身苦しみを覚えながら、なお武は考え続けた。
 空が語っている言葉は、おそらく事実であり真実だった。
 それでも、武はそれらを何一つ受け入れることは出来なかった。空の言葉を受け入れることは、そのまま空の死を受け入れることでもあったからだ。
 自分は、絶対にそれを出来なかった。死を望む空を、ただ傍観していることなど、出来るはずも無かった。
 死を望む――……。
 知らず、この言葉が頭に翻った。……そうだ……。
 武はここで、あることに気付いたのだった。自分が、これと同じ試練を、かつて一度経験していたことを。
 自分と空の、今いる場所。状態。位置関係。こうした状況とは……かつて、自分とつぐみの置かれていた状況と似ていたということを。
 2017年のLeMUの救護室で、自分がつぐみと対峙していたこと。それを、武は思い出したのだった。

 あのときも、そうだった。
 ツヴァイトシュトックで瀕死の重傷を負ったつぐみは、救護室で命を取り留めはした。が、そのつぐみは、命を救おうとした自分に対して、"私は死にたかったのに"と吐き、悪感情さえ向けてきたのだった。
 死ねない自分の肉体に、つぐみは絶望を抱いていた。自らの死を望んでいた。
 そのつぐみの絶望は、他の生命への羨望や倒錯した憎しみに繋がっていた。
 死ぬことの出来る生命を羨み、死ぬことの出来ない自分の肉体を恨み、それらを全て憎悪にすりかえることで、つぐみはかろうじて自分自身を支えているように見えた。
"すべての生命は、みな、不浄のいとなみから生み落とされた物にすぎない。ゆえに生命とは、その誕生からして等しく穢れた存在なのよ"――と。そんな論理を身にまとい、生命を根本的に否定し憎み蔑んでいたのが、つぐみだった。
 自分は、そうしたつぐみの感情も論理も、真っ向から否定したのだった。その理由には、"生命"に対する、つぐみの考え方やありようが受け入れられないこともあった。
 だが、更にもう一つ重要な理由があったことを、武はこの場に及んで、思い出していた。
 それは――"自分がつぐみの言葉を受け入れてしまうことで、つぐみ自身が本当に死を選びかねないのでは"という危惧が働いたことだった。
 神でもない以上、キュレイ・ウィルスがいかに宿主の身体再生能力を高めようと、その能力には限界がある。それすら超えるようなダメージを宿主が被れば、キュレイ・ウィルスといえども死は防げないのだった。
 あのときのつぐみが、どこまで本気で考えていたのかは判らない。が、自らの肉体を、ウィルスもろとも死滅させることは、おそらく究極的には不可能ではなかった。
 事実そう考えていたからこそ、つぐみはあのLeMUの中で、再三に渡り無謀な行動に及んだのだろう。……自らの死を望んで。
 だが、そんなつぐみを、自分は救いたかった。つぐみの心を、救いたかった。だから、自分はこう言ったのだ。すべての生命には、生きる価値や意味があるのだ、と。
 だから、死ぬそのときまでは生きろ、と――"生きている限り生きろ"――と、自分はつぐみにそう言ったのだ。
 そして、結果はどう出たか? つぐみと自分は、多大な紆余曲折があったものの、結ばれることになった。つぐみは今、生きる価値と希望を見出したことで、ささやかではあるけれども幸せの中にいるように思える。
 けれども、つぐみの心を絶望から救い上げたのは、決して自分の論理によるものではなかった。自分の心根からの想いによるものだった。
 つぐみのためなら、死んでも構わない。
 つぐみのために使う人生が、生命が、ここに一つあっても良い。
 それだけを思い、それだけを信じ、それを示し続けたからこそ、つぐみを救うことができたのだと、武は思っていた。
 これは思い上がりかもしれない。だが、つぐみを救うために、出来うることは何でもしたかったというのは、あのときの自分の真情だった。
……その試練は、時を超え、形を変え、再びこうして自分の元に巡ってきたのだ。武は、そう思った。
"人"になりたくてもなれず、そんな自分の存在に絶望して、死を望む空。かつてのつぐみと同じく、絶望の淵にあるこの空に、自分が出来ること。伝えられること……。
 その正否を問われるときが来たのだ。今、ここに。

「空――」
 武は、口を開いた。
「"人と自分は違う"と、……お前は、今言ったな。
 あの広場でもそう。今もそうだ。お前は、"自分が人とは違う"ということを……"自分が人ではない"ということを、繰り言のように言う。
 けれど、その"人"というのはどんな存在なのか、お前自身おそらく判っていないだろう?」
 言われた空は一瞬、訝しげな表情を浮かべた。
 武が、一体何を意図して、そんな言葉を発しているのか、はかりかねている目だった。その空疎な目には、しかし、生気が少し蘇ってもいた。
 武は、言葉を続けた。
「"生きていることを実感すること"や"痛みを心で感じること"……。
 それらはどれも、ある意味で人の本質なのかもしれない。けれども、それらって完璧な回答じゃないよな? それらは、どれもが答えであり、答えでは無いんだと思う」
「では、」と、空が問いかけた。「……一体、何が人の本質だというのですか?」
 問う空は、明らかに動揺していた。自身が長らく苦悩し続けた問題の、核心となる部分に唐突に触れられ、どんな顔をしたらいいのか判らない。そんな表情だった。
「その答えは、空がすでに知っていることだよ」
「私が……ですか?」
 ああ、と武は言葉を足した。「その答えとは……"判らない"ということだ」

"倉成、さん――"
 空の目に一瞬、暗い憤怒が宿った。「ふざけないで……下さい……」
 私をただ迷わせるために、看取りに来たのですか、貴方は……。
 空は声を震わせた。
 だが、その空の怒気は、やがて消えてしまった。
 自分でも、その答えが真実であることを薄々と知っていたのかもしれない。鬼相の後に、空の顔に浮かんできたのは、更なる絶望だった。
「……すみませんでした……倉成さん」
 一言深く詫びてから、空はこう言った。
「貴方の言葉は、きっと正しいのでしょう。……それ以外、確かに正しい回答は見つけられそうにありません」
「空、」
 出しかけた言葉は、またも空に拒まれた。
 空は、今にも崩れそうな笑みを、再び向けたのだった。「私には判らないんです。何もかも……。自分がなぜ、ここに存在しているのかさえも」
「人として生まれず、人になりたくても、人には決してなれない。人に近づけば近づくほど、その"境界"が……限界が、はっきりと……私には見えるんです」
 空のその絶望の笑みは、しばし続き、やがて虚ろに消えてしまった。「判らないんです……私にはもう……本当に……」
 そう言って、空は視線をベッドに落とした。
 その背は、震えていた。
 涙の流れない涙声が、ほんのかすかに空気を伝わっていた。
 静寂は流れ、それが、しばしの間続くかと思われた。
 そのときだった。
"倉成、先生……ッ!"
 空が顔を上げて、振り絞るような声を上げたのは。「どうか……教えて下さいッ」
「辛いんですッ! ……本当に、苦しいんですッ! でも、どんなに苦しくても、涙一つ流せない、こんな私は……一体この先どうすれば、良いんですか!? 何を受け入れれば良いんですか!? 何を理解すれば良いんですかッ!?」
 私は、と何度か言いかけ、そのたびに言葉に詰まり、空は声を押し出した。「私は……!」
「……私は、人という漸近線に近づけない、"双曲線"なんです! これからもずっと、人には――倉成さんには、近づけない存在なんですッ! 私は! 私は……」
 私、は……。
 空は、顔を覆った。
 涙の出ない嗚咽が、空から溢れていた。「倉成、先生……お願い、です……」
 死なせてください……と、空は続けた。
 息も絶え絶えなほどに、切実な言葉を漏らしていた。
「もう、生きる希望も何も無いのなら……どうか……私をこのまま、死なせてください……」
 どうか……お願い、です……。
 武は、空の背中を見ていた。
 震え続けているその背中を、凝視していた。空の震えが響きに響き、瞬きをすることさえ忘れてしまっていた。
「空……」
 それきり、言葉が出てこなかった。
 救いすら求めるように、武は空を見ていた。
 空とて同じ想いなのだろう。誰に叫んでみたところで何処にも収めようも無い絶望の中、空は救いを求める対象をこの自分にしか見出せず、今ここでそれをぶつけているに過ぎない。
 そして、そのことを空自身、判っていてもなお、止められないのだった。空は……そこまで追いつめられていたのだ。
 空の心は、もう限界だった。
 それを承知してもなお、自分の頭は機能しなかった。
 掛けてやれる言葉は、やはり何も浮かんでこない。救いも希望も、口に上らせることが出来ない。
 だが――代わりに、何か激烈な感情が沸き起こっていた。
 それは、自分でも思いもしなかった感情だった。
 もう、理由も理屈も無かった。
 目の前の空を助けたい、という想い一つが、頭の中で爆ぜた。
 その想いの迸るがまま、武の手は動いていた。
 空――。
 武は、空の手を掴んでいた。
 驚いて顔を上げる空にも……その瞳や泣き顔にも、もう構わなかった。
 抵抗するいとまさえ、与えなかった。
……そのまま武は、空の華奢な体を抱きすくめたのだった。

     *

 春香菜と桑古木は、ICUへの連絡通路を走っていた。
 何故自分たちが急いでいるのかは、判らなかった。
 ただ一つ、胸騒ぎがしていた。
 それは予感や直感からではない。さらに不確かで、曖昧で、名状のし難い感覚からだった。
 春香菜が、後方の桑古木に視線を向ける。
 桑古木もまた、春香菜を見ていた。
 無言の何かが、自分達の心に通じ合っていた。
 何かが起ころうとしている……。
 ICUへのセキュリティドアのパスワードを打ち、ドアのロックを外す。
 空……。
 武……。
 ドアが開く間さえ、もどかしかった。
 春香菜と桑古木は、ドアの向こうに開けてきたICUに、足を踏み込んだのだった。

     *

 沙羅は一人、メインコンピュータ・ルームで、モニタを凝視していた。
 異変が起こっていた。
 空のメモリの実効速度や容量が……上昇し始めている。
 その数値は、当初のアーキテクチャ上の理論値をも凌駕し、今やシステムの認識し得る限界にまで達していた。
 信じ難い出来事だった。
 空に、何が起きているのかは判らない。
 けれども、あることが起こっていることだけは、漠然と判った。
 ある一つの奇跡が、起こり始めているということだけは。

     *

――空の体は、武に抱きすくめられていた。
 倉成……さん?
 空は一瞬、自分が何をされていたのか、判らずにいた。
 見れば、武の胸が目の前にあった。
「倉成さ、」
 空は、自分が掠れ声を上げていたことにも気付かなかった。
 この自分を抱きすくめたまま、武は動かなかった。自分は今、心も体も、武の中にあった。
 全身の震えが、不思議と収まっていく。静まっていく。
 武の肌。だが、火のような温もりを、空は武から認識した。
 そこに生命を認めた。生命の存在を認めた。
 これが生命の、感触……。
 そんなことを思った。
 けれども空は、そうした自らの思考も……絶望さえも止まるような光景を、次いで見ることになった。
 体をゆっくりと離し、この自分を見つめてきた武の目には、かすかに涙が浮かんでいたのだった。

「すまない……」
 武は一言、そう口を開いた。瞳から、涙が一滴、光のように落ちかけていた。
 それは、透明な涙だった。
 その涙に、空は息を飲んでいた。
 空は肉体を持って以来、初めて、武の涙を間近に見たのだった。
 武は、すぐに涙を拭いてしまっていた。
 自らの不覚を恥じ入るように、ぎこちなくうつむく。だが、武はそれからすぐに顔を上げ、真剣な表情に戻っては、こう言葉を続けたのだった。
「すまなかった……空。お前をそこまで追い詰めたのは、この俺だ。
 お前が、"人ではない"という事実にずっと苛まれていたことを……孤独だったことを、誰よりも先に判ってやらなければならなかったのに、俺はそれを判ろうとしなかった。省みることもなかった。頭の片隅にさえ思ったことがなかった。
 それだけじゃない……。18年前のLeMUで、恋を教えておきながら、それと同じくらい大切なものを、俺はお前に何一つ教えてやることが出来なかった。教えてやらないまま、お前を今の今まで放っておいてしまった。空、本当に……すまなかった……」
 武は、空を真っ直ぐに見たまま、言葉を続けた。「――それを今、償わせてほしい」
「お前に本当に教えるべきだったことを……伝えるべきだったことを、ここで教えておきたいと思う。
 こんな、馬鹿で未熟な先生の教えることだが……。これだけは――このことだけは……どうか知っておいてほしい」

――ICUの機器の振動音が響き渡っていた。
「お前は、……俺達と同じなんだよ。空」
 武は、空を見つめたまま、まずこう言った。
 穏やかに、しかし空だけを深く見つめながら、武はゆっくりと言葉を続けた。
「人は最初から、"人"として生まれてくる訳じゃない。始めは皆、人間としての道徳も良心も持たない、"未熟な存在"として――"人でないもの"として……この世界に生まれてくるんだよ。
 そこから人は人に学んで、恋して、苦しんで悩んで、少しずつ本当の"人"になっていく。その本質を誰も知らない、"人"というものに……
 その道に、終わりは無い。人は"人"になっていく中で、どこまでも苦しんで悩む存在なんだと思う」
 武は空の頬をそっと撫で、言葉を継いだ。
「空。お前もそうした意味で、俺達と同じ存在なんだ。"人でないもの"として生まれて……そこから少しずつ、"人"になっていく存在なんだよ。
 その中で……お前の行く先にはまだ、こうした苦しみが訪れると思う。試練が訪れると思う。だけど、そんな苦しみに……試練に……どうか、向き合ってほしい。そんなお前を、俺が必ず傍で支えるから……」
 一瞬の空白があった。
 そして武は、空の唇のすぐ脇に、自らの唇を寄せてきた。
 空の唇の端に、武の唇が触れた。
 時が、止まる。
 永遠と思われる時間の中……その武の唇はしかし、ゆっくりと空の口の端から離れていった。
 絶望の淵にあった心に、何かが芽生え始めていた。空は、それが何であるかを考えることさえ出来ず、武を凝視していた。
 武は、空を見つめたまま、更にこう言ってきた。
「空。俺がお前に、もう一つ謝らなければならないこと……今のがそう。
 先の広場で、お前が俺に言いかけた言葉への答えだ。……すまない。……でも、これが俺の精一杯の気持ちであること……どうか、伝わってほしい」
 それから、武は哀しげに微笑んだのだった。「これも、双曲線と漸近線なのかな」と。
 武の言葉の意味が、その哀しい微笑みの意味が、空には判った。
……武は、空に唇を重ねようとはしなかった。
 倉成 武が唇を重ねる相手は、決して空ではないということ。――これが、武の答えだった。
 重ならない唇。近づいても決して接しあうことのない、二つの唇。それもまた、"双曲線"であり"漸近線"ということを、空はこのとき理解した。
 そして、その距離を認めながらもなお、この自分をいつでも想ってくれる存在。導いてくれる存在……それが、目の前の武であることも、空は併せて理解したのだった。
 武のそうした想いが、生命の鼓動のように巡ってくるにつけ、空は言葉を失っていた。
 ただ、胸が――心が、熱かった。
  
 武は、空の体をもう一度包み込むように、優しく抱きしめた。
 それから、こう言った。
「空、お願いだ……。どうか、生きてほしい。
 一分でいい。たった、一秒でもいい……生きている限り、長く生きてほしい……。
 俺達は、永遠に答えの出ない世界の中にいる。"人とは何か"という答えも判らない、一秒先にどうなるかさえも判らない、こんな不確かな世界の中に、俺達はいる。
 だけど、俺達が生きていかなければならないのは……こうした世界なんだよ」
 そして、ゆっくりと空から身を離す。
「それでも、世界には希望がある。そう信じて疑わない、先生がここにいる。……その先生が、ずっとお前のことを見守っているから……」
 そうして、武は空に手を差し伸べた。
 ちゃんと、手洗ってあるから心配するな。という救いがたい冗句も混ぜ、武は微笑んだ。
 空は、その武の手にゆっくりと、自らの手を伸ばした。
 手を重ね合わせたとき――武と空に、何らかの既視感がよぎった。
 自分達は、どこかの世界で、これと同じことをしていたのかもしれない……遍在する、どこかの世界で。
 そんな、微かな既視感だった。

 空は、ややあって武の手を握ると、うつむいてしまった。
 それきり、しばらく顔を上げることがなかった。
 やがて、震える声が漏れてきた。
「倉成、先生……」
 そうして空は、泣き顔を湛え、口を開いたのだった。
「倉成、先生……。私――生きたい、です……」
 武は、空の手を握り返して微笑んだ。
「判ってる……俺は、ずっと傍にいるからな」
 ややあって、後方から沈黙を破る声があった。「倉成、」
 春香菜だった。
 ゆっくりと二人の方に歩み寄り、春香菜は、おもむろに口を開いた。
「――倉成。貴方の言っていることは間違っているわ」
 春香菜はそう言ってから、空と武の手に、自分の手を重ねてきた。
「"俺"が、ではなく……"俺達"が、でしょう」
 桑古木も、三人の手の上に、更に自らの手を重ねてきた。
 そして、口を開いた。
「空……。お前には、ちゃんとした"記憶"や"情報"があるんだろう。だったら、それだけでも幸せじゃないか? ……なんたって、18年前の俺には"記憶"そのものがなかったんだから。それでも俺には今、大切な物がある。その大切な物のおかげで俺は今、俺で居られる」
 だから、空もこの世界で生きていけるはずだ、と桑古木は微笑んだ。
 武が、二人の言葉を継いで、口を開いた。
「俺は、お前とずっと生きていきたい。……だから、一緒に見ような。お前の好きな、草や空を」
 空は涙声を出しかけ、言葉を一旦詰まらせた。そして、泣き顔のまま微笑み、口を開いてきたのだった。
「……はい――倉成先生」と。
 それは、この世界で生まれた、一つの意志だった。
――"生きる"という意志だった。
 
     *

 修正用ファイルのインストール後、空の思考システムの再起動が開始された。
 沙羅は、メインコンピュータ・ルームで、思考システムの稼動状態を見つめていた。稼動プロセスに異常は無い。全てのモジュールにも不具合は無し。システムは正常に稼動していた。
 経過秒数を出力させる、例のプログラムを打ち込んだ。
 これを実行した結果、モニタ上には次の表示がされていた。

" 経過秒数:2052998434, Sun jan 21 22:20:34 2035 "

 救出作業を開始したのは、今からちょうど五時間前、《17:20》のことだった。その開始時刻と、現時刻の差は18000秒。計算はあっていた。
 次いで、あのシステム時刻に関わるプログラム――"BW_P_1"を実行してみた。
 固唾をのんで、その結果を見た。
 エラーは、起こらなかった。
 そして、例のプログラムを再び打ち込んだところ、結果はこう出ていた。

" 経過秒数:2589456051, Sun jan 21 22:20:51 2052 "

 時刻は、今からちょうど17年後になる、2052年の《22:20》を示していた。
 この秒数もまた、計算上問題は無い。そして、それは、"20億秒問題"の限界秒数をはるかに超えていた。
……ここにおいて、空の思考システムは、自分の運命の時間を超えたのだった。
 指に、涙が落ちていた。
 沙羅は、キーボードに目を伏せた。
 自分は、空の思考システムを――大切な空の生命を、守ったのだ。"ピュグマリオンの奇跡"は、もう一度起こしたよ……空。
 それから、涙を拭き、天窓を見上げた。
 雪はいつの間にか降り止んでいた。
 分厚い雲も既に無かった。月が、柔らかな光を落としている。
 沙羅は目尻を拭い、有機ELディスプレイに目を戻した。
 それから、一呼吸を置き、インターホンの受話器を上げたのだった。
 空に新しい"時間"が与えられたことを、皆に伝えるために。


《2035年1月22日 00:01:11》 
 日付は変わり、新しい日が始まろうとしていた。
 武達に見守られる中で、空は目を覚ました。
 うっすらと開けられた空の瞳は、やがて周囲をさまよい、武達を求め始めた。
……そしてその瞳は、武達の姿を捉えたのだった。
 武は笑みを浮かべて、空に言った。「空……。おはようさん」
 その武の後を継いで、沙羅が口を開いた。
「"おはよう"って、良い言葉だよね。しっかり起きて頑張らなきゃ、って気持ちになるでござる」
「倉成さん……沙羅、さん――」
 空の瞳は、定まるところなく震えていた。
 皆が傍にいることを知り、ただそれだけで胸が一杯になってしまったような、そんな空の瞳だった。
 その空の震えは、瞳にも全身にも及んでいた。
 そして……。
 春香菜や桑古木を含め、この場にいる全ての者が、それを見ることになったのだった。
……空の目から、涙が一筋流れたことを。
 その涙は、空が肉体を持ってから、初めて流した涙だった。
 武も沙羅も、春香菜も桑古木も、皆それを見ていた。
 驚くも、しかし何故か、それを訝る者は無かった。
 このとき、空に起きた奇跡を受け入れることを、誰も迷わなかった。
 なぜなら、その奇跡とは、ここにいる者達が願っていたことなのだから。
「私は……私は、一体……」
 自分の頬を伝う初めての涙に、空は狼狽していた。
 そんな自分自身に空はひるみ、顔を覆い隠そうとした。
 が、武は、優しくそれを止めた。
 空の涙を拭ってやりながら、武は言った。
「空……"誕生日"おめでとう、だな」
「来年からは、1月生まれがもう一人増えるわけだ」と、桑古木が愉快げに応じた。
「これからは、どんな人生になるのかしらね」
 春香菜がそう言えば、
「きっと、色々楽しみな"時間"になるでござる」
 と、沙羅が微笑んだ。
 そして、武は空を見つめながら、口を開いた。
「それから……空。先のパンドラの話だが――あの話、まだ続きがあっただろう。
"パンドラの箱は開かれてしまい、人に災厄をもたらせてしまった"……だけど、その箱の中には、最後にあるものが残されていたんだよな?」
 そして、空の手を柔らかく握り、こう言ったのだった。

「……希望というものが」




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